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今日の一句一歌
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特集 折りたたみ自転車で小名浜まで

    通信実験(三春まで)(三春までの自転車旅行の記録)(4月16     
    
    再び三春へ(4月22日−)一部(船引まで)写真追加
    二部(三春)を加える

    故郷の春を写す4月21日

    4月28日


見るたびに明るさ増しぬチュ−リップ

every time I look at the chulips
the brighter ones


    4月21日


また寄りぬセブンエレブンや春の山

所変え望む春山また良しやセブンエレブンにまた寄りにけり

コンビニには毎日くらい行っている。パンを買って週刊誌を立ち読みしている。週刊誌の記事は全部読む必要がないからだ。パソコンの雑誌は時々買っている。本は前は月に10冊くらい買っていたかもしれないが今は一冊も買わない月が多い。インタ−ネットで間に合わせている。年のせいで長い文を読む根気がなくなったのだ。書くのも長いと書けないのだ。「今日の一句一歌」がつづいているのは短文であり一句一歌をだせばいいからこうしてつづいている。月間の雑誌でも長文を読むことになるから読めなくなっている。読みたいのは全部ではないし無駄があるのだ。これから記事でもインタ−ネットの中に置かないと読んでくれないという事態がおきてくる。若者はそうなりつつある。インタ−ネットのなかで間に合わせて月間の雑誌でも他の既成の情報分野にふれなくなる可能性があるのだ。

ともかく旅にでてもセブンエレブンなどにはかならずよる便利な場所になっている。実はそこで親戚の同じくらいの年の女性とあったのだが余りにも合っていないので自分のことを前にしてわからなくなっていた。
家に来ても家の人は合っているのだが自分は合っていないから顔がわからなくなったのだ。これも余りにも人に会わない自分の異常から起こったことである。考えてみれは20年くらい顔見ていないかもしれないのだ。春の珍事といえば珍事であった。自分の方でわからなかったのだが名札をつけていたのでわかったのである。家の人からコンビニで働いているとは聞いていたからだ。狭い地域だから顔を合わせるはずだと思っていたがたまたま自転車でよって合ったのである。

これはあとの短歌の方があっていた。俳句では説明できていないかった。このホームページのいい所はあとで書き加えることが簡単なことである。必ず書き加えているのがホームページなのだ。

    4月20日


赤門に昔を偲ぶ春の暮(自作)

御主殿ができて町屋は片はずし

徳川家から前田家(加賀藩)に嫁いだ時、建てられたのが東大の赤門になっている、御主殿門と言われていたものである。あそこに加賀藩の屋敷があった。その前には町屋があったのだが半分を取り壊したという。火事になるからという理由だった。これでわかることは江戸が火事が多いということなのだ。それから荒川線の都電にも町屋駅というのがある。
町屋とは大名屋敷と区別して町の人が住む所が町屋となった。この句は町屋に住むものから見た皮肉的な川柳である。町屋は簡単に半分取り壊しになるという当時の町屋の人が軽くあしらわれることをこの句は言っている。
「今度徳川家の松平から嫁いでくる、前の町屋は密集している、火事になると
大変だ、江戸の火事は怖い、半分取り壊して延焼を防ぐ必要あるな
「町屋の人達が怒るんでは」
「町屋のものが、江戸は町屋のためにあるんじゃない、侍のためにあるんじゃ大名屋敷の方が大事なんだよ」
「そうでございますな、町屋の言い分など聞く必要がありませんな」
町屋というとき町屋に住む人が言ったのではなく大名屋敷に住む人が町屋と言って区別していたのだ。侍から見て町屋は下々の住む蔑視的な呼び名だったのだ。江戸にとにかく大名屋敷が多かった。それが今では一つも残っていないという不思議である。辛うじて名前が残っているがそれも面影を偲ぶような場所ではない、ビルが林立しているから全く昔のことはわからなくなっているのだ、だから東京で昔を偲ぶということがむずかしいのである。

この嫁いだ姫は30何番目かの子供の一人だったというのもあきれる。盛大なお輿入れが行われたのだ。こうした江戸幕府が300年つづいて明治維新にもろくも崩れさった。なぜこれをとりあげたかというと地名に自分は興味あるからだ。地名は歴史なのだ。大名屋敷はなくなったが町屋という地名は殘りあとに残ったのは町屋というかビジネス街や商店街である。町屋という地名を考える時、それと対照的に大名屋敷を常に頭に浮かべる必要があるのだ
俳句も短いからこうして歴史的背景を知らないと理解が深まらないのだ。だからこうして説明することが必要になっている。


現在も東京大学の通用門として使われているが、元は加賀藩前田家の上屋敷の門のひとつで、十一代将軍徳川家斉の息女、溶姫(やすひめ)が文政10年(1827)、前田家(斉泰)に輿入れするにあたり建造された。(建立 1828年)前田家は三位の格式があり、将軍家から奥方を迎える場合、朱塗りの門を建てるのが慣例で、「御守殿門」が正式名称




ここに華やかな輿入れの絵がある、一見の価値あり
http://www.onet.co.jp/cnt00/msum/monoshiri/nishikie03.html

ハイカラ−歴史ウォ−キングより
http://www.iiv.ne.jp/haikara/bb/


俳句で綴る、東京詩情探訪

http://www5a.biglobe.ne.jp/~tenti/

これは読みごたえある。江戸情緒も偲ぶことができる。蕪村の俳句批評も優れている。
これでわかることはいかに俳句というものがその人の読みと関係しているかわかるのだ。
短いからその背景を読めないとわからないのだ。江戸時代の俳句は特に歴史がわからないと読めないのだ。中国の歴史をあれだけ読めて蕪村の句がわかったのだろう。江戸時代の人の方が中国の歴史に詳しかったというのも不思議である。今の人は中国に行っても歴史を深く知って理解している人は少ないように思う。
蕪村の批評は一号からのパックナンバ−にある。

    4月14日


みちのくの田舎はあわれ花曇り

梅の香に肥料の匂い田舎かな



花は咲いたけど南のようにみちのくの桜は華やかではない、大坂城のような大きく栄えた所がないからだろう。天下もとったことがない、それで花曇りなのか、梅の香りはいたる所にするが今ではあまりしていないが肥料を積んでいる畑があり匂いがした。どこに住んでもすべてがいいということはないのだ。

    4月13日

一輪の白椿挿すその素直さや汚れなきかも




生け花は日本の伝統文化である。生け花の心は何なのか、それは本当に花を活かすことである。花を自然の姿で活かすことである。余り飾りすぎてもいけない、簡素の美もまた美である。一般に西洋の花は豪華に飾りすぎるが日本の花は茶室に飾る簡素な花を尊とぶ。生け花は勉強不足で知らないがインタ−ネットで探すと生け花の写真はかなりある。別に生け花と言っても高い花を買って金をかけるものではなく野の一輪の花を粗末な壺にさしても生け花なのである。野の花にはそれの方がにわっている。芸術は金をかけなくても作られる。その素材はいくらでもあるのだ。むしろそれを見いだす人の心である。心が汚れていれば自然の美とも無縁なのだ。ただちお茶とか生け花は日本人の素養として身につけるものかもしれない、伝統には必ず先人が伝えたいものがあって残っているからである。


    4月11日




我が庭のスプリングスタ−につばめ飛ぶ


a flight of a swallow
above a lot of springstars
blooming open
in my garden


    4月10日

いづべかの山にわずかに咲くといふスズカゲソウを一度は見たし

(修験行者の首に垂らした鈴掛けからのネーミングでしょうか。
 図鑑で産地を調べてみると、現在では岐阜県辺りに少しあるとか。珍品だったのです。)

これはインタ−ネットで発見したものでここにのせた。 鈴掛の木は北国の木で鈴が掛けたように実がなるからである。これは修験者が名づけたものだろう。

その花の名はスズカゲソウ(鈴掛草)
誰が名づくや人知れず咲く花
修験者の汗垂りて上りし山路に
この花の青くひそかに咲くを・・・・
山の涼しき影に咲くから涼影草
そはこの世を離れし山の涼しき陰に咲く
清水のしたたり苔むす日影に・・・・
そのわずかに残る花こそ貴重なれ
つと一羽の蝶の軽やかに舞い去り消えぬ

何回も言っているがインタ−ネットの探索は不思議なものなのだ。「椰子の実」からなぜか漂流物を探し歩いているホームページがでてきてこのスズカケという花がでてきた。これは自然の不思議というよりインタ−ネットの不思議なのだ。インタ−ネットにはそうした今までにふれえないものが偶然でてくるのだ。日本にこんな花があるとは思えなかった。花の種類をすべて知ることはむずかしい。外国のホームページも調べれば花のホームページがあり発見があるに違いないがわかりにくいからだめなのだ。ということはこれは明らかに紹介者が必要なのである。インタ−ネットは誰かが紹介しない限り人目にふれないものがかなりある。そういうものの方が多いのがインタ−ネットではなかろうか、だからインタ−ネットの探し物はまるで宝物を探すこととにているのだ。例えば地域地域の情報だって本当は紹介されていないのだ。役所のホームページでは通り一遍のものでつまらない、がうまく紹介する人がいたならば面白いのである。インタ−ネットではそういうことができるしそういう様々な発見の始まりであることは確かである。いづれにしろこの花の名さえ知っている人も少ないことは確かである。今まではマスコミとか出版社とかに取り上げられないものは存在しなかったからだ。しかし情報の裾野は広大である。一時間の番組でも実際は百時間とか撮影して編集しているとすると99時間分の記録は表にでないし見ることができないものである。それがインタ−ネットでは紹介できることになる。より詳しく知りたい人にはそれも必要だからだ。



海岸動物拾い歩き記
http://www002.upp.so-net.ne.jp/aruki-ki/index.htm

    4月9日




白椿咲きしやさしき朝日さし雀一羽の来たりとまりぬ

白椿朝やさしきや雀来る


shiratubaki
the gentle blooming ones
a sparrow comes
in the sunshine
on the morning

    4月8日

木蓮の蕾ふくらみ広し海

海の風が太平洋から吹いてくる。真っ白な大きな木蓮の蕾がふくらむ。海と木蓮の取り合わせだがこれもにあっていた。磐城は一段と海のにおいがある。相馬の海はもう一つ海のにおいに欠けている。海に対する魅力に欠けている。どちらかというと飯館のような山の方に魅力があるかもしれない、入り江とか岩礁とか何か海のにおいないので魅力がない、松川浦ももう一つ魅力がない、というよりどこでもなれてしまうと発見がなくなるのだ。だから旅に出たくなるのだ。

    4月7日



白椿咲きし静けき一室に手紙を書きぬ我が家の女(ひと)かな

白椿がやっと咲いた。この絵はなんか白椿ににている。これを自由に使えるから使った。素材にはいいのがたくさんある。adslで見やすくなったからかなり利用できる。
手紙を書くということは少なくなった。しかし手紙にはいろいろと人間の生活にかかわったものである。手紙がletterが文学という意味になったというのも手紙から文学が始まったのだ。手紙は対話であり対話から哲学や宗教や文学が生まれたのだ。一方的に書くということはなかったのである。だから手紙にこだわる人がいる。しかし現代の電子時代では手紙の情緒は廃れてゆく。電子の文字は無味乾燥になり情緒がないかもしれぬ、機械的になる。みんな同じ書体にもなるから文字にこだわることがない、便利は便利である、自分は悪筆が原因でワ−プロを始めたから一面パソコンは便利である。ただ伝達方法としてはビジュアル化する、素材を手軽に借りてこうしたものを作れるのもパソコンのおかげなのだ。表現方法も変わるのもやむをえないのかもしれぬ。パソコンの世界はちょっと今までの世界とは変わりすぎることがやはり今までの伝達方法にこだわる人には抵抗を感じるのだ。手紙の歴史は古いし本の歴史も古いからである。それに変わるとなると戸惑うのは当然である。


ラテン語の「littera」という言葉は「文字」や「手紙」を意味します。英語の「letter」、「literature」や「literacy」の語源がこの「littera」にあります。最近、日本語で「リテラシー」という言葉を使うようになりましたが、その語源もこの「littera」に遡ります、文学の始まりは「日記」と手紙である。日本の文学も日記だったしこれだけ日記がインタ−ネットでかかれているのも日記が文学の原点であったからだ。女性の人で作家でなくてもうまく日記で表現している人がいる。作家になる人だけが表現する時代は終わった。
インタ−ネットの日記は明らかに新しい文学の表現なのである。

    4月1日
    
    新しき家々並び春の空