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今日の一句一歌
2003 謹賀新年-2月
春隣小鉢三つの花を買う

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2月26日

春寒し媼嫗(おうな)二人の家族かな

春寒しという季語は今年はぴったりだ。こんなに二月末なのに寒いのは最近めずらしい。春寒しという季語自体消滅した感さえあった。春寒しとなるとかなり寒くないと気分がでない、今日は福寿草が開いたが晩方になり寒くなった。自分の家族は老人家族だから春寒しになる。



2月25日

それぞれの家族に幸あれ福寿草

家族もそれぞれ違う、個人もそうだが家族もそれぞれの価値観をもって生活する、それぞれの価値観で子育てをする、隣とばかり比べて幸福の度合いを計っていても幸福はないのだ。それぞれの家族と同時にそれぞれの国にも幸あれと祈るべきである。ただイラクに平和運動に行っても心に平安がないもの、欲に満たされたものが平和運動しても平和はこないのだ。まずそれぞれの個人の心が欲がなく平和にみたされるとき平和がくる。平和運動している人もそういう人が少ないのである。闘争心でもって平和運動している人もいる。宗教は心が問題であり心が平和な安らかな心になることなのだ。そうならないといくら外部に行動しても平和はこない、だから集団で平和運動してもそれか実は政治的なものや権力に利用されるのである。


2月24日

寒々と雪のふるかな二月の末一本松に誰かよりなむ

夕べに雪が多少ふった。細かい雪だから春の淡雪とは違う、真冬の雪である。今年はなんだか寒い。こんな寒いのはこのところの温暖化でなかった。原町に行くところの六号線の脇のため池の松はまさしく自分のようであった。ぽつんと誰もよるものもなく立っている。忘れられたように立っている。松はなんか人間的なのである。人間の生活に昔から身近にあったのだ。だから松を人間ににせるのも普通だったのである。


2月23日
水仙のかたえにおきぬ桜草室内静か春の来たりぬ



一輪桜草がはっきりと開いた。、前の写真は開く前だった。それで消した。
とにかくホームページは花の変化でも毎日刻々の変化を報告することに向いているし記録するのに向いている。例えばこの桜草でも一輪二輪とふえていく、その変化を報告することができる。ライブでさえ報告できるようになるのだ。ただ誰も毎日は見ていないから自分の記憶として有効なのである。おそらくホームページがなかったらこんなに
表現をしていない、表現の意欲がでてくるのがホームページなのだ。


2月22日

一本の古松に鴨群れ凍る池
(クリック)

六号線の脇の古い道にため池がありそこに古い一本の松が立っている。
古い道には古いものがある。六号線はせわしいが一本の松が昔のままに残っている。やはり昔の道には歴史があり風情がある。何かが語りかけるものがある。あわただしく自動車が通りすぎて行く現代、一本の松は何をかを語りかけてくる。また語ってくれとも言っている。語りかけ語ってくれものが少なくなったのだ。騒がしく過ぎ去ってゆくものが多いのだ。政治でも経済でもニュ−スでもすべてあわただしく過ぎ去ってゆくのだ。現代文明はあらゆるものが騒音文明なのである。何か集団で騒ぐほか存在感を示しえないのだ。
しかしここに立っている一本の松はその喧騒を離れて何をかを語るのである。自転車で旅するにも六号線のような幹線道路はつまらないのだ。昔の道がいいし人の通らない山の道がいいのである。今では山の道がすいているし道もいいから気持ちいいのである。そしてそこに残された昔のままにある一本の木や石碑に心を寄せる、それが旅なのだ。こうした旅は自動車では無理である。ものすごいスピ−ドで過ぎ去ってゆくだけだからだ。

一本の松の殘りて冬の暮何か語らむ我が寄りて去る


 凍る池と一本の松

行く人まれな昔の道の
ため池の辺に一本の松
鴨群れて凍れる池や
しんとして我が行く道
一本の松の淋しかな
もの言わずも何をかを
語らむとして我もまた
語りかけむと身を寄せぬ
一本の淋しき松こそ
変わらずにそこにあれかし
騒がしきあわただしき世や
たちまち時は流れ時代は変わる
しかしそはここに変わらずあれや
一本の松の淋しくも
ここに殘りて我が寄りぬ
しんとして凍れる池に
静かに今日も鴨は群れにき




2月21日

室内にまた一つ咲く春の花

室内に一輪開く桜草


a primrose blooms open
in my secret room


この花は葉からみて桜草であろう。桜草にもいろいろある。
桜草は英語ではprimroseである。バラの花ににているからか、これは深山に自生するものでありこれを森の中で咲くの見たら神秘的である。
桜草は結構見られ花ではある。ただ室内に咲くとよく観察できる。庭でもそうである。外だとよく観察できないし忘れることが多いのだ。外で記憶に留めるために時間が必要である。今の旅は忙しすぎるのだ。人生もあまり多忙だと貴重なものを見過ごす、花の名前すら花を知らずに時間が過ぎてしまったもの、金を残しても人生の大事なものを見過ごしたのだ。花の美しさを知らないものは何か貴重なものを欠落させているのだ。いろいろなこの世の欲に追われて花に注意を払わずに終わってしまうのは悲しい。外国でもいろんな花が咲いている。まずどんな国でも花は美しいのだ。あのプノンペンでも空港について市街まで行く道はどこまでも藤の花のような白いブ−ゲンビリアにおおわれた道だった。南国ではブ−ゲンビリアなのだ。しかしそこにいてたむろしていたのは中年の外国人の買春のやつらだった。日本人が多いが欧米人もいた。どうも外国でいやなのは必ずそういう奴らのたまり場になっているのでいやなのだ。
安い旅行は宿でもそういう人間が集まり安いのだ。若い者でもどうしても人間は性によって汚される。花にふさわしいのはこの世の欲に汚れない仙人である。本当に花の美しさを見ている人は少ないのだ。毎日株であれ何であれ金儲けにばかり追われていたら見えなくなる。だから株などに時間をとられるべきではない、株をやっている老人が旅行していたが頭の中から株の値段のことが頭から離れないといってたから人間はやは日常が習慣となってしまうのである。これがやはり貴重なものをミスしてしまうことになる一番の原因である。習慣の力はなんであれ大きいのだ。韓国の地下鉄の火災で車掌がマスタキ−はいつもはずしていたのであんな重大事でも同じようなことをしていたことでわかる。


2月20日

我がたもと小さき赤き薔薇の花なお咲き愛(め)でる
室にこもりて

この小さな薔薇の花は気にいった。これも品種改良したものだろう。品種改良した花が多くなっている。岩手乙女という水色の竜胆の花もそうだった。岩手県で作ったからそうなった。尾瀬竜胆というのもそうである。これは色がかなり濃い竜胆である。つまり花の栽培は品種改良が金になる。農業もいろいろ改良しているのだが花の新種改良は新しい製品を世に出すこととにている。オランダがチュ−リップ、花の国になったのもやはりチュ−リップの品種を集めたからだろう。チュ−リップがバブルになったのも不思議なことである。花というのがそんなに金になるとその当時では考えられないからだ。そもそも花というのは投機の対象になるようなものではない、そういう性質のものではないのだ。日本でも江戸時代に菊作り菊の鑑賞が盛んになった。とにかく今は凄く花の種類が多い、花も国際化して多くの花が見れるようになったからだ。花で一番美しいのはやはり自然に自生した花だろう。園芸の花も魅力あるのだが本当に美しい花は自然に自生した花である。

この冬は全然外にでていない、部屋にこもり放しである。部屋の中でこの小さい赤い薔薇は気にいった。部屋に置くのににつかわしい花だからである。


2月19日

舟に来る蘇州の春や古き銭


そもそも中国では貨幣が古くから流通していた。いろいろな貨幣がある歴史が古い国なのだ。古い貨幣を城門の所で売っていた。商という字はこれは城門のことなのだ。城門を入り商いが許された。商城というのがあるのもそのためである。城のなかに市場があったのだ。日本の場合は城と庶民の生活の場が離れている。ヨ−ロッパや中国でも大陸は城と庶民の生活は一体化しているのだ。とにかく中国の貨幣は本当に古いのだ。人間の垢がしみついている。あの汚いどす黒くなった水路の水のようである。旅行もあとでいろいろ思い出してそれからもう一回行くと理解が深まる。中国に行くのは簡単である。蘇州にはもう一回行きたい。

2月18日

春の日や蘇州に舟の漕ぎ来たる城門古りて柳しだれぬ

蘇州はやはり中国では一番いいところだろう。自分の行った時はいつものごとく
失敗の旅だったけど春の日の蘇州は良かった。5年前くらいになるから今は全然違っているかもしれない、中国の変化はすさまじいからだ。あういう水の都は日本にないからいいのである。ただ水は汚水で汚い、どす黒くなっている。中国では5
年前はひどいめにあった。あそこはベネチアと同じように世界でもあういう都はないので一度は行ってみるべきだろう。中国は簡単に行けるからだ。金もかからない、しかし意外と泊まる所が外人の場合、高いのである。安い所もあるのだがなかなか泊まれないみたいだ。


2月17日

三輪が一緒に開く福寿草


happiness!
three flowers bloom open
at the same time
the japanese name is happy flower

完全には開ききっていない、というのはまだこの辺は風が吹くから3月まで相馬の空っ風が吹くから寒い。雪は降らないが風が吹くのだ。だから自転車で遠くに行けなくて困るのである。自転車は風に弱いのだ。
福もこうして一緒に開けば福になる。こうして一緒に幸せだったのは子供の頃だけだろう。あとは人間ばらばらなことを経験しているだけである。世界でもこうして一緒に花が開かないとやはりだめなんだよ、経済的問題が一番大きい、経済的に差があるところは一緒に花は咲かない。


2月13日

また一つ小さき赤き薔薇の花我がたもとにて咲き開くかな

この小さい薔薇はいい。インターネットにあっているのは毎日の変化を観察を報告することである。観察日記に向いている。これは科学でも応用すればいいものができる。日々の変化、さらには刻々たる変化もリアルタイムで報告できる。これがインターネットの今までにないメディアの特徴である。報告しても見る人がないということがあるがそれでもその人にとっては実験の記録のように役に立つものなのである。ホームページは人に見られるということで出しているのだが人に見られているという感覚が希薄なものになる。一方的になりやすいのだ。でも自分にとっては役に立つものなのである。これは誰が見てなくても観察日誌として記録しておくことはあとで訳にたつのである。
               


2月12日

なお生きん白髪頭に春日さす

老人はみんな身体障害者である。その身体障害者にやさしいということはその国が豊かであることなのだ。だから長生きができる。貧しい国ではその余裕はない、毎日近くの医者にかかり寝たりしているがそれでも長生きできるのは老人にやさしい豊かな社会があるからである。これからは老人に厳しい社会になるかもしれんが老人が長生きできる社会は豊かな社会であることは間違いないのだ。


2月10日

目立たずに今日もここ行く冬菜畑

前にも言ったけどこの世を支えているものは目立たないものである。
冬菜は欠かせないものでありこれを育てるものも目立たないのである。
毎日の生活は目立たないものなのだ。目立つことだけを求めたらこの世の生活は成り立たない。目立ちたいと余りに思うことはよくない。日々の生活はどこでも目立たない人々の努力に支えられているからである。
目立ちたいと余り思う時、それが権力へと向かうのである。目立ちたいとあがき苦しんでいる所に平安はないのだ。


冬菜畑

枯芒と大地に
冬菜畑
ここに奢多は拒否され
質実の日は養われぬ
岩と砂漠に羊飼い
ここにも奢多は拒否され
質実剛健の日々が養われる
都会は奢多に腐敗し頽廃す
ロ−マ人の名前が野菜の名と
彼らは元は質実な農夫の出
武士も農民の出
鎌倉武士も元を正せば農民
都の歓楽にふける平家は腐敗し
質実剛健の関東の武士がのしあがる
それは自然の理なり
過度の富は奢多は人間を堕落させる
富の故に滅ぶ国も多い
国を支えるのは平民であり
奢多に費やす貴族ではない
堅実な平民のいて堅実な国の土台がある
その逆はありえない
今日も行きて見るのは冬菜畑
それは目立たずしかし質実に
民を養うものなり



2月9日

 我が家に九〇の母と棲めるかな翁草置きあわれ深まる

翁草という花は不思議である。神秘的である。濃い紫に白い毛が白髪のように生えている。白頭花ともいう。これは自生しているのを見たら一層神秘的に感じる。名前もぴったりである。花はそれぞれ神秘的である。花と人間もまたそれぞれに何かを象徴している。まさにこの翁草は90の老人、老婆にふさわしい花である。なぜ90の老人を話題にするかというと90まで生きるということが当たり前になりつつあるからだ。90という年は今までには考えられなかったが今では90まで生きることが普通になってくる。この花は90まで生きた老婆ににつかわしいのだ。ひっそりと片隅に黒ずんで目立たず咲いている。90の老人は21世紀では普通のことでありそれが初めて社会現象として定着することなのだ。何故ならそれまで90まで生きたのは極々わずかであり例外的存在だったがこれからは普通のこととして社会に定着するからである。つまり超高齢化社会というのは今までにない社会であり21世紀で初めて経験することなのだ。そうした社会の中でいろいろなものの意味も変化するのである。江戸時代は江戸時代にしか作れない句があり21世紀もまた新しい句や詩ができるのである。


  翁草

90まで生きるは普通
平成の世の平和かな
激動の時を越えてそ
今あわれ我が家に
母と棲めるも
室に置く翁草
今静かに咲けるかな
今しばし齢を延ばし
我が家にともに棲む
室にうなだれ咲きて
ひそか隠されぬ
世の騒擾は今ここになし
ここを乱すべからじ
翁草そは静かに咲くべし
隠されてここに咲くべし
我が見守るもあわれ翁草
(水仙と翁草かな我が室に
  その花見つつ隱れ暮らしぬ)



翁草のホームページ
http://www4.justnet.ne.jp/~m33nakazono/


2月8日

水仙の障子に映えて身の清し

花を見るには身を清めないとだめである。自然の清浄さを映すには水のように鏡のように自らがならねばならぬ。汚れている人間には花の美しさを映すことができぬ。例えば金持ちが立派な家に住んでも花の美しさはその家に映えないこともある。その対象的な例が秀吉と利休だった。
黄金の茶室に花は映えない、粗末な簡素な茶室に一輪さした花こそ映えたのである。自然の美しさを映さない都会はどんなに繁栄してもそこに神の作った美が反映しない故欲に汚れた醜いものとなっているのだ。



2月6日

90の老人殘り冬芒

一本の枯木のここに変わらじや過ぎ行く一つ無人駅かな

枯芒は秋から冬になった時、芒が枯れて枯芒になった。次に枯芒はまるで死んだように芒のミイラのようになっている。風になびくこともない、死んだ芒である。1月からは冬芒になる。70頃までは枯芒だが90以上になると冬芒である。これまで生きるのも珍しくなくなった。


2月5日
明るさや春の窓辺に二色の花

brightness!
two diffrent coloured flowers
by my window in spring


今日はすごく寒い、どうも今年は寒いから花が開くのが遅くなるみたいだ。それでもやはり春だから日差しも明るくなってくる。日も少しながくなってくる。春はやはり花が美しくなる。


2月4日

白鳥の姿美しルツレンの城に石像の騎士の眠りぬ


スイスのルッツェルンは湖があり魔の山があり古い中世の城があり変化に富んだ所である。そこで雨になり二日泊まった。城のあった麓だった。優雅に白鳥が泳いでいた。ヨ−ロッパでは白鳥が何か特別優雅に泳いでいる。日本の白鳥とはどこか違う。回りの雰囲気もそうだが白鳥はヨ−ロッパでは特別なものだった。日本の白鳥伝説は白鳥ではなく白鳥に例えられた伝説であった。あそこの城の中だったか忘れた石の騎士の像が刀をもち横たえていた。どこかでスイスでその石の騎士の像を見たのである。外国だと記録がいかに大事かわかる。外国はとかく変わりすぎているから忘れやすいのだ。記録がたどりにくくなっているのだ。記録がない忘れるということは何か報告できないことなのだ。どうしてインターネットでもルッツェルンという所に関して詳しい情報は得られない。氷河の溶けた水で水量が豊富だということと確かに冷たそうな水が流れていたことは確かである。誰かの報告を探すのは自分の旅の追体験するためでもあるのだ。ただやはり通り一遍の報告が多いのは残念である。それなりに報告することはなかなかむずかしい。外国になると確かに誰でも変わっているから書きたくなるのだが報告したくなるのだが歴史とかいろいろ理解できないので通り一遍のものになりやすいのだ。



2月3日

小さき薔薇赤鮮やかや春の室

この小さい薔薇の赤い色が印象に残った。薔薇は品種が多い、この薔薇も小さいものに作った。なんともかわいらしい。我が部屋にも春が来たということか、じっくりと鑑賞することがやはり中年からの余暇の過ごしかたでありあわただしい旅は向かなくなる。もっと一カ所にいてゆっくりと落ち着いて見る旅がよくなる。日本人は貧乏性でせかせかしすぎる。やはり長年の貧乏がそうしたのである。日本人で庶民まで豊かになった時代は今の時代しかなかったのだ。インターネットはいくらでも表現できるからそれぞれじっくり鑑賞したものをここで表現してゆけばルネサンスになるのだ。


2月2日
春隣小鉢三つの花を買う

春隣という季語も不思議である。誰が考えたのか春がとなりに来たとはまさに今の時期である。ス−パ−で三つ千円で花を買った。小さくした花でなんか春にふさわしい。ホームページの今までにない所は春隣という刻々と変わる世界を報告できることである。報告すること発信することに凄い力をもっている。ところがさて読まれているかというと自分にしても他のホームページにしても読まれることは極めて少ない世界なのだ。相手のホームページを読むこと自体手間がかかるからである。奇妙なことは相手のホームページを読むより自分のホームページを読んでくれとそれぞれが自分の発信だけに夢中になっているのがホームページなのだ。自分にしても発信するだけで結構手間がかかり他のホームページを読んでいないのだ。これがホームページの問題なのだ。

2月1日
池一つとけぬ氷や鴨群れぬ

ため池が日陰になっている所がとけていなかった。そこに鴨が群れていた。今年は寒いから氷がとけないのだ。ここはそんなに寒くないから氷は溶けていることが多い。そのとけぬ氷に鴨がしんみりと群れている。ここは六号線ではなく昔の道の脇にあった。鴨は冬の季語だから鴨だけで俳句にするのが普通である。

しんみりと池の一つに群るる鴨

一つの冬の風景として心にしみるものがあった。冬は冬で好きである。ただここは雪が降らないから本当の冬の感じはなく意外と早く冬は終わってしまう。冬は冬でしんみとした風景がいいのである。冬には趣き深いものがある。冬は虚飾がなく簡素な風景がかえって心にしみるのである。