時事問題の深層23
(私的な日記です)
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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一



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・・
パリにある京子という店年の暮

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失われた通りに商店街11月19日

二宮尊徳は相馬に来ていなかった 11月22日

日本と共通の歴史から外国をみる(パリのことなど) 11月23日

現代教養全集を読む 臼井吉見(編集)(1950年代の戦争反省11月24日

団塊の世代の老い(温め酒) 11月25日

琉球王朝最後の尚泰王のひ孫(井伊文子さん) 逝去 11月26日

インタ-ネット情報学
(ニフティ会議室→ホ-ムペ-ジ→2ちゃんねる→プログ→?)11月29日


地球規模で絶滅する生物の増加の危機(豊岡市のコウノトリの再生の実験)
11月30日

フリ-タ-やヒキコモリ問題(高等遊民なのか?)12月2日

ヨ-ロッパの歴史の理解のむずかしさ(NHKのドナウ川中継を見て)12月3日

貨幣に支配される世界(NHKロ-マは帝国没落の原因などを見て)12月6日

ロ-マ史の一断面(ダキア-ル-マニア-ロ-マの辺境のこと)-NHKの放送より 12月7日


失われた通りに商店街


●定禅寺通り(仙台)
定禅寺通りに行ってのは何年かぶりだった。なぜここまで来なくなったのか、ここが駅からだと歩いて遠いからだ。今は仙台は駅前で買い物は用が足せる。本でもパソコンでもたいがい用はたせる。そしてもう一つはその他の日用品は郊外にある。大きな郊外のショピングモ-ルとか大駐車場のある所に車で行く、このように商店街自体が買い物とか生活の場から抜け落ちてしまった。定禅寺通りとあるようにここには禅宗の寺がありそれが名の起こりとなっている。ケヤキ並木が美しく通りには落葉が散っている。その落葉を踏んで人々が行き交う、この通りに面して喫茶店があり大きな窓がありその窓にもたれて落葉を踏んで行き交う人を見ていた。その喫茶店はなくなり安い喫茶店ができたが通りに面していても前のような気分は味わいない、この通りで二〇年も喫茶店をしているというのがホ-ムペ-ジで紹介されていた、それは二階にあり二階からのながめるのである。私は喫茶店が好きだった。学生時代から喫茶店に入るのが好きだった。音楽を聞くのもいいし何より私にとって喫茶店はもの思いにふける場所だった。だからいつも一人だったし私には恋人とか人と話する場ではなかった。いつも一人で物思いにふける場所だった。性格的なものもあるが喫茶店は一人で利用する場だった。特に旅行したときも必ず喫茶店による。そこで詩を書いたりしていたから必ず必要なものだった。ただ今になると喫茶店は高いから余り入らない、定禅寺通りの喫茶店は場所がいい、商店街になると見えるのは店だけであり味気ない、ここには自然がある。四季の自然がある。
広瀬川のせせらぎの音
春、街路樹が芽吹き
夏、青葉に風がそよぎ
若い人々がその風を受けて歩む
今はしんみりと落葉の通り
かつて大きな窓にもたれて
落葉踏む行き交う人々を見ていた
しかし歳月は流れもはや
その喫茶店は消えていた
ただすべては思い出となってゆく
・・・・・・・・・・・

●荒川都電
通りというとき歴史もある、田町 油地蔵通り 万町商店街 金座街 七日町 十三日町商店街 大門商店街 荒町商店街・・・・・とかいろいろある。それは江戸時代から通じるいわれある町であり通りである。歴史の継続がある。不思議なのは荒川の都電を行ったときである。
冬の柳がしだれ老舗がある
町屋 熊野前 飛鳥山 鬼子母神前 面影橋 三ノ輪橋・・・・
昔の記憶をたどるように一本の線路が通じて
行き止まりになりそこで手焼センベイを老人から買う
その奥の薄暗い所に昔の商店街があった
何か遠い昔に誘われたような世界
店には店の顔があり何か昔なつかしいものを売っていた
それは何か古い映画や古本のように古びていた
人々もみな年取っていた

・・・・・・・・・・・・・・・・
昔の通りであれ商店街はこのように路面電車とか歩く道として結ばれていた。それが車社会になったときさびれてしまった。昔の街道は歩く道としてあり歩いて人々が行き来したからこそ生きていた。昔の通りもそうである。街には通りには必ず歴史があるのだ。その通りは街道と通じていたことが多い、歩いて町に集まったのである。だから一本の道として生きていた。今は車が素通りしてゆく街、通りとなった。相馬市には田町通りが新しく作ったが何か買うものがあまりない、原町市は駅前通りは半分家がなくなりコンビニができてその前で高校生がたむろしていた。コンビニ通りになってしまうのか、街の中心はコンビニになっているのだ。
ただコンビニでもデパ-トでもス-パ-でもそこは買い物をするというだけで何か付加価値はない、商店街とか通りにはそれ以外の歴史とかコミニケ-ションとか出会いとか自然の四季の移り変わりとかそうした場を演出する所でもあった。ス-パ-は買い物をするだけの場である。付加価値がないのだ。だから旅行したときこの通りがないと淋しいのである。ほとんどが空洞化しているゴ-ストタウン化しているからだ。買い物空間としては魅力ないのだが憩いの場やコミニケ-ションや出会いの場などとしては魅力がある。ス-パ-とかデパ-トとかはそういう場ではない、ただこれだけで商店街を作るというのはむずかしいだろう。通りには自然があること、これが魅力である。沖縄の店では前が開けた海でありかそこから朝に海からの風がそよいできて夾竹桃の街路樹が咲きしゃれた店があった。定禅寺通りも自然がとり入れられていることに魅力がある。

でも前の十分の一に人足は減ったという、ここは駅前から結構遠いからそうなる。仙台には遠くから来る人が多いが今や外部の人はここまでは来ないかもしれない、今回折り畳み自転車のトランジットで来た。これだと軽く街を回れるから便利である。買い物した店はブックオフとジュンク堂でありヨドバシカメラでありやはりその他駅前以外で買い物は魅力がない、駅の東側で鯛焼きの中に芋を入れていたのを食った。あれはめずらしい、釣りの札が新札の野口英世だったというのも都会なのか、一早く新しいものが出回る所が都会である。自分のところではまだ出ていないかったからだ。なぜ自分が京都の町屋保存とか景観とか失われたものを追慕するのかというとやはり旅すれば必ず街にもよるからそれであの街はどうだったとか回想して書くことになるからだ。街であれ田舎であれ山道であれつくづく自分はいつも旅していたのだ。旅人だった。仙台でもやはり部外者、旅人のようになっていたのだ。
トランジットで岩沼→柴田→仙台へ(俳句短歌エッセイ)


二宮尊徳は相馬に来ていなかった


史実では相馬に来たこともない江戸時代の農政家、二宮尊徳(1787〜1856年)の「生家跡」が、大手地図会社発行の同県原町市の市街地図などに誤記されていることが分かった。尊徳は神奈川県小田原市が生誕地だが、原町市にゆかりの石碑などがあることから、誤解されてきたらしい。地図会社は「次回の発行時に訂正する」と恐縮し、同市のJR原ノ町駅前の周辺案内図は6日、「二宮尊徳ゆかりの地」に訂正された。(毎日新聞)


相馬中村藩士、富田高慶の縁で、明治以降尊徳の妻子が現在の原町市石神に移り住んだのですね。ここで暮らした尊徳の息子尊行、孫尊親も尊徳の思想を受け継ぎ、とくに二宮尊親は北海道に渡って開拓事業をおこなった「偉人」なので、ここに「二宮先生宅址」という石碑があるのは、当然すぎるほど当然なのです。

郷土への愛着は、その歴史への愛着でもあります。それは自然で健全な感覚です。しかし困ったことに、地元以外では誰も知らない誰の誰兵衛が活躍したなどという史実では、ひとは満足しないのです。どうしても、他地方の人も含めて誰もが知っている有名な歴史上の人物が、ここに足跡を残したという類の話の方が好まれるのです。あるいは「日本最古の○○」などというのも、日本中の人に通ずる話だからこそ好まれるのです。ここに人が「悪気はなくても」歴史を偽造してしまう動機が存在します。

http://koshipa.net/archives/000143.html


二宮尊徳のことは相馬では良くでてくる。だから二宮尊徳が相馬生まれだとと錯覚している人がいるかもしれない、それが地図にまで記されることになったのか、そもそも歴史に捏造はつきものである。石器を勝手に土に埋めてそこが日本最古の石器時代の場所だとなり町起こしになった。テレビで一つの石器の片割れが仙台の方で発見されてもう一つが山形の方で発見された、それがぴったりとあった。石器人は山形と仙台を行き来ししていた証拠です。それをテレビで映してなるほどそんなことがあるのかと思って感心していた。何万年かしらないがそんなことありえようがない話だった。まんまんとだまされたというか人間の盲点をついたのである。二宮尊徳といっても今やどういう事実があったのか簡単にはわからない、地元の人でもわからないのだ。特にその人が書き残したものが少ないと事跡だけだとわかりにくい、それが本当にあったことなのかどうかを証明すること自体むずかしくなる。事実であっても誇張されて語られたりして何が真実だかわからなくなる。誇張さされて語り継がれたのが神話や伝説なのだ。人に話するとき大げさに語れば受けやすい、武勇伝なんかそうである。神話や伝説も事実を基にしていることは確かだがその事実がどういうものだったかは各自の判断にゆだねられる。事実が何であったかそれぞれよみとる他ないのだ。

平家落人の里というのも無数にある。これも辺鄙な山里で何か俺たちの村はそうした高貴な流れの血を受け継いだ人が先祖なのだという願望がそうさせた。ありもしないことが強い願望となりそれが現実のように語り継がれるということも歴史である。庶民の願望がそういう話を生む、シンデラ伝説とか一寸法師とかラオスのモン族とかでも孤児が王様の牛を世話してその牛や馬が王様におじきをしたので王様に認められ王様の娘の婿にされたとか、これも何か王様に仕える悲しさがある。牛や馬まで王様におじぎすることはないからである。そこまで王様に従順に仕えることを教えるためのものでもあったのだろう。結局それらは貧しい生活のなかでその物語がそれを語ることによりカルタシスとなる。ありえないことなのだがその願望の夢を語ることによりカルタシスになるのだ。そこにまた物語の意味があるのだ。物語が歴史(hi-story)ということは物語にはいろいろな効用があったのだ。一寸法師は辺鄙な山里から都に出て成功したいという願望の物語でありそういう願望が山里には大きいからそういう物語が好まれるのである。その話は次の代に伝えられまた創作され変わってゆく、いろいろ尾ひれがついて元の話とは全く別なようなものにもなってしまう。願望が歴史になるのは日本の太平洋戦争でもその凄惨な事実より美化したい、それに参加した人は願望として戦争を美化したくなる。事実より願望の方が肯定される、神話や伝説が作られる。ナチスで七〇〇万も死んだのは嘘であり実際は何十万単位だと今言う人がいる。第一700万の人間をどうして殺すのかガス室でもその死体の処理だけでも不可能だというのもそうかなと思う。数字もかなり誇張されるのだ。南京虐殺の事件もそうである。

宗教でも捏造が頻繁に行われている。信心で病気が治ったとか宣伝するけどあれも捏造が多い、人間が詐欺にかかりやすいのは病気の人は病気が直したいとか貧乏の人は金持ちになりたいとか美人と結婚したいとかそうした願望が強いから捏造がありだまされるのである。そもそも石器を捏造した人そのものがここに石器が発見されたらな・・という強い願望が自ら捏造を作り出した原因なのだ。戦争というのも戦争の悲惨さを言わず戦争で達成されるもの、願望があるから戦争も肯定される。人々の強い願望が戦争になったという側面も見逃せないのである。戦争によって運が開ける、事態が解決するという願望が戦争になる。ドイツでも不景気となり人々は不景気や失業から脱出したいためにナチスの呼びかけに応じた。魚心あれば水心である。人々の念というのは怖いものである。中国でも日本憎しという反日の念を作りだすことができる。韓国でもそうである。そうした過度の怨念を作り出されることは危険である。組織や団体は宗教でも怨念の念で一致する。他者を攻撃するのは怨念で一致するからである。国でもそうである。

いづれにしろ史実では相馬に来たこともない江戸時代の農政家、二宮尊徳なのだがええ、これだけ語られている二宮尊徳が相馬に実地に来ていなかったということを知っている人は地元でも少ない、そういう自分もそうだった。二宮仕法の農家が残っているから実地に来て指導していたと思っていたのだ。その弟子の高田高慶という人が二宮尊徳の所に弟子入りして学びその教えを広めたのである。こういう基本的な事実さえ知らない人が多い、地元でもそうだとしたら他から来た人はさらにわからない、基本的な事実、史実をおさえることがやはり歴史研究の一歩である。

墓になぜ興味があるかというと一行でもそれが事実であり一人の人間の事実の記録だからそこに重みがある。事実だということが歴史では驚きとなる。そんな事実があったのかということが驚きになるのだ。だから歴史の小説とかドラマは誇張されたり脚色されすぎて歴史研究には向いていないのだ。そこでは事実でないものを本当だと思っている人が多い、それは歴史の誤った観念を植えつけることになり危険なのである。これも捏造されたものが本当だと信じてしまう人を多数作り出していることなのだ。拉致被害者でも実際は死んだとしてしもその証拠がない限り生きていることを信じたいからおそらくいつまでもどこかで生きているということになる。それが伝説にもなる。そこには確かに事実より人々の願望が働いている。その願望も当時の人々の生活の反映なのだから歴史ではあるがやはり事実を基にして歴史がある。聖書はまさに事実を基にしたものであり他の歴史書とは違っている。神話とも違う、事実の記録でありそこに重みがあるのだ。一人一人の人物は確かに存在したのだ。アダムすら実在の人物なのである。だから一番古い人類の歴史書だとなる。日本の古代からの歴代の天皇が存在したのかどうかでもめているのもまさにそんな遠い過去になると実在しているかどうかが問題になるのだ。実在をしないものを実在するように信じていることも普通にあることなのだ。



日本と共通の歴史から外国をみる(パリのことなど)
 

●城壁、市壁のあるヨ-ロッパと日本の相違

同じように、城壁の内側にぴったりとくっつけて家を建てるのもまずかった。実際にはそういう家もあったのだけれど、侵入を図る敵によってこの種の家がうまく利用される危険があった。彼らは、まずスパイを送り込んで、そういう立地条件を備えた家に住まわせ、その家の中で密かに城壁に穴を開ける工事を進めさせた。穴があくと、夜陰に乗じて兵隊をその穴から家の中に送り込む。兵隊たちはそこから市内に出ると、市壁の門を内側から襲ってこれを開き、外で待ち構えていた本隊を市内に導き入れる、とまァざっとこういう寸法である。

騎士道と武器
http://blog.odn.ne.jp/paris/archives/000871.html


rive [push, send] … to the wall 人を窮地に陥れる.
give … the wall 人に道を譲る; 人の立場を有利にさせる.
go to the wall 窮地に陥る; 負ける; 事業に失敗する.
go [be] up the wall 〔話〕 かんかんに怒る; 気が狂いそうになる.
have one's back to [against] the wall 追い詰められる, 窮地に陥る.
off the wall 〔米俗〕 怪奇な, 一風変った, 突飛な.
run [bang] one's head against the wall 不可能なことを企てる.
take the wall of (人に)道を譲らせる; (人よりも)有利な立場をとる.



日本とヨ-ロッパは封建制があり城がありにている。むしろ中国などよりにているのだ。ただこの城壁が市壁となっている、市民の住居を囲むことが違っている。これは大きな相違である。この話はトロイの木馬とにている。城壁の中に敵が入り込むことは容易でないが一旦敵が入りこむと陥落されやすい、城壁が言葉にもその歴史を残ししている。ロンドンのウオ-ル(wall)街などもそうである。城と住民は分離していない、一体なのである。城主がいなくて市壁だけのものもドイツには多い。市民が独立して自治をしていた。こうした形態は日本では堺くらいしかなかった。ヨ-ロッパでは市民共同体というのが封建時代からあったのである。日本では城(支配者)と町民と農民は分離していた。支配者は「お上」であり「お上」には従順であることが要求され代わりに「お上」に頼るということがあった。政治的にも市民としての自主性が養われなかった。ボロンティアに熱心でないのもやはり市民共同体という意識が培われなかったからだ。小さな村単位での相互扶助は発達したが市民として大きな都市としての共同体は発達しなかったのだ。だからcivilzationのcivilが都市であり市民であるというとき日本には市民は存在せず天皇の臣民となったのである。

武器の発達と城の変遷も関係していた。大砲が発達して城は防御に適さず無用になり地方を支配していた封建領主は国王の中央権力に集権された。パリの旧市街は城壁に囲まれた所だがベルサイユ宮殿は城壁の外にあった。権力が城壁の外に移行したのである。この国王の権力が増大したから国王を倒すことがフランス革命だった。日本の天皇とは全然違う、天皇は国王でないし逆に天皇が明治維新で復活したのだから。



●天皇と国王の相違

それはヨ-ロッパの歴史から見れば歴史が逆に後退しているようにさえみえるだろう。天皇とヨ-ロッパの国王は根本的に違うことが理解しにくいだろう。皇室がヨ-ロッパの王室とつきあうときそういう歴史の相違がある。ヨ-ロッパで封建時代に日本の戦国時代のように政略結婚することは普通である。ただ違うのは国が違っても婚姻関係を結ぶ。極めて婚姻自体にしても国際的なのだ。大陸では一つの国として維持することはむずかしい、絶えず外からの侵入がある。そこが単一国家の日本との相違なのだ。
天皇は実権はない、神聖なるものの象徴である。「神聖にして犯すべからず」なのである。だから神祇を司りそれが政教分離の法則に違反するともなる。ここに靖国神社のむずかしさがある。天皇は神聖にして犯すべからずとなるとその神聖なるものに殉じたものは神として祀られるとなる。宗教施設であり礼拝の対象となっているからである。国王は実権がありだからフランス革命では市民が倒すものとなった。そして社会契約を結び王を監視する、権力を監視することになった。権力者は常に市民の意向に反して権力を悪用するものだという前提に立って法が整備されたのだ。もう一つはカトリックの政治支配からの分離、政教分離が近代国家を作ったのである。日本では天皇でも宗教でも政教分離が行われていないのだ。行われていないというよりそうした歴史的闘争がなかったのである。近代国家、国民国家は余計な犠牲があったにしても市民が血を流して勝ち取ったものなのである。明治維新にはそうした市民の革命ではなく下級武士中心の革命だったということに根本的な相違があるのだ。

●国際化の中で法律が普及

ヨ-ロッパ中世の職人や商人の社会も、封建的領域をこえて国際的に結ばれていたのでおそらく職人の徒弟にはいろいろな国の人が混ざっていたのでそれらを統一する習慣や制度をもたねばならないわけで、自然親方の徒弟に対する待遇とか、賃金とか生産品とかに対する法制が必要となった。(長谷川如是閑-職人かたぎ)

職人レベルでも国際性が必要とされ法が必要とされた。ここにヨ-ロッパが法が発達した所以がある。日本では腹でわかるとか身内的つきあいに留まっているから文書的な法の取り決めにやかましくない、つまり細かい契約の観念が発達しなかったのだ。異民族同士になると法が必要になってくる。中国などでも商売するにも工場を建てるにも法の保証がないから不安になるのだ。また職能別に強固な組合が欧米で形成されたのはこうした徒弟制度とか国際的職人(石工)などの組織が歴史的に形成されていたからである。日本の組合は会社別になっているのはそういう歴史がなかったからである。つまりこれもヨ-ロッパと日本の歴史の相違からくる問題でありこれを日本と共通なものと違うものから考えるとわかりやすいのだ。共通な部分もかなりあるからそこはわかりやすいのである。かえって中国はわかっているようで歴史的にはわからない世界である。なぜなら中国との交流は遣唐使時代で一旦きれてそれ以後は直接実質的にはなく明治維新では欧米化に奔走したのが日本なのだ。中国は欧米化に遅れ最近ようやく世界の舞台に経済的躍進ででてきた国なのである。

国民軍が形成する過程も日本の明治維新とにている。国民に武器をもたせると反乱されるとか不安であったり国民軍は最初強固なものではなかった。日本でも西南戦争で真の国民軍が形成された。ただこれが日本では天皇の皇軍になったことが違う、フランスではドイツとの戦争などで国民軍が強固なものとなっていた。ヨ-ロッパでは常に外国との関係で歴史が進展してゆくのが日本とは違うのである。外国を理解すること、特に歴史を理解することはむずかしい、でもこれほど世界が身近になったとき歴史を知らないと実は深いつきあいもできないのである。

●リアルタイムでつながる世界

例えば今やパリは中国より文化的には近い存在なのかもしれない、東北だったら九州に行くくらいの感覚になっている。一見地理的には離れていても飛行機だから距離的には近い、パリにちょっと買い物へという感覚の人も多くなっている。インタ-ネットでパリから直接プログで報告している女性もいた。そこで醤油を買いに「京子」という店に行ったとか報告がある。その写真もでていた。ああ、こんなところに日本人用の店があったのかとパリも身近な存在に感じるのである。もう一つは歴史がわかるとその国が身近に思えるのだ。なぜヨ-ロッパが人気でいいのかとなるとやはり明治維新でもヨ-ロッパから学んだのでありヨ-ロッパの歴史と明治維新がつながっているからである。ヨ-ロッパの歴史に日本は明治維新で連結したのであり中国ではないのだ。むしろヨ-ロッパ→日本→韓国、中国という順序の歴史になっているからである。

パリにある京子という店年の暮

http://blog.odn.ne.jp/paris/archives/000871.html

年の暮は早いかもしれんがすでにパリとかロンドンとか離れていても同じ時間に結ばれている。リアルタイム的につながれているのだ。つまり現代の時間は世界的に差がない、リアルタイムの時間感覚になってしまった。インタ-ネットでその日のパリを報告していることもリアルタイムな感覚を如実にし示しているのだ。一カ月かかってヨ-ロッパに船で行った時代とはあまりにも感覚的に違ったいるのである。中国に船で老人がサンダルをはいて突然行ったりするのもそのためである。中国のことなど全然知らないのにとにかく船に乗れば中国に着くのだ。そして自分もそうだった、中国のことなど全然知らなくて最初に行った海外旅行が中国というのも無謀だった。だからひどいめにあったがそれでも外国に行ってしまうのである。だからそうした無謀に外国に行く中高年の人もふえているのである。ともかく飛行機に乗れば外国に行けるということなのだ。ただ外国を知るには歴史を知ることが不可欠なのだ。その理解の一つのてがかりがやはり日本との共通性があることはわかりやすいことなのだ。



現代教養全集を読む 臼井吉見(編集)
(1950年代の戦争反省)

●編集の意義


ラテン語の「editio」とは「外なる形にして表す」の意であり、「編集する」という内容にあたるラテン語の動詞「edo」には「生(産)む、実現する、演じる」「知らせる、広める、出版する、発行する」「発する、つくりだす」といった意味を見ることができる。

編集とは実は奥深い作業であり創造的作業である。なぜそれを理解したのかというとこれだけのものをホ-ムペ-ジで書いてわかったのだ。時事問題にしろ一つのニュ-スでも感想を書くにしても情報だけではない相当な知識とか自分の経験とかそれから不可欠なのは編集という作業である。編集は作り出すということがあるからかなり創造的作業なのである。人間とは必ずしも才能ではない、人間は才能を発揮する場が与えられないという悲劇が常にあった。多くの才能は埋もれ開花しなかった。自分の場合もこのインタ-ネットのホ-ムペ-ジで表現できなければ埋もれて終わったのである。才能は常に自ら開発しなければ埋もれて終わる、そして才能は意外と天才でなくてもあるものなのだ。自分自身でわからない才能が埋もれているのである。だからある時そうした才能を開発して表す場が与えると才能は磨かれ発達する。自分の場合、才能はあったにしてもほとんど才能というのはなきに等しかった。俳句短歌をずっと書いてきたのは確かだがこれもたいしたものではないしそもそも文学青年であるが文学そのものもなんとか理解しようとしたのだが人格的にも劣っているから理解できなかったのだ。理解できなくても読んではいたのである。

青年は哲学書や文学書をもっているだけ格好いいとなる。頭いいとかなる。それは結局格好だけであった。本は読んだのではなく集めたことの方が多い、内容を理解しているのは少ない、そもそも一体カラマ-ゾフの兄弟とかそうしたむずかしいものをどれだけの人が深く理解しているのだろうか?大変な洞察と理解力が必要なのがこうした古典類なのだ。でも不思議なのは本というのは集めること自体に意味があり役に立つのである。それを飾っておいて時々手にとりああ、そうかなるほどなというときが必ずある。長い年月の間に手にとっているうちに理解することがあるのだ。それと資料として書斎におかないといざ書くとなると不便なのである。自分の文章として書くとなると手元にないと書けない、それで便利なのがインタ-ネットなのである。書くときに参考するものが手元にある、探すのは大変だが手元にあるということはすごく便利なことなのだ。手元に参考にする本や資料が多数あることが書ける最低の条件でありこれは才能ではない、そういうものの中からピックアップして新たに文章を構成することは新たに意味を与えることである。これが編集の意義であり編集は文章を書くためには不可欠であることがわかったのだ。

●現代教養全集を読む 臼井吉見(編集)-亀井勝一郎の「現代人の研究」

この本は自分が買った本ではなかった。たまたま身内の人が買っていた。でもその身内の人は全然読んでいない、これでわかることは自分で買ったものでなくてもこうした教養的な本は読まなくても並べておくだけでも意義があるのだ。ちょうど庭にいろいろな花を植えて咲かしておく、その花の美しさはわからなくてもいつかわかるということがある。自然もそうである。自然は忍耐強く自然の偉大さと美を理解する人を待っている。青年時代は行動のときでありただ無闇に何も知らず行動するだけである。思想的深さ得られないし無謀になる。思想的な深さに広さに達するには長い時間が必要なのだ。性急には理解できない、これは一つのこと、一つの建築物でも古典的な絵でも何かその奥深さを知ることは容易でない、即席にわかることはなかなかないのだ。「読書百辺意自ずから生ず」というのもむずかしいものでもそうして何度も読んでいるうちに理解するときが来るということである。

そして読書で重要なことは現代を知るには過去を知らねばならない、現代の事件でも過去との比較でその事件の意味することがわかる。どういう径路で現代に至ったのかということがわからないとその意味もわからないのだ。この全集は戦争が終わり明治生まれの人々が書いたものである。明治生まれの人々は庶民まで骨があるとか何か違っていたとか評価が高い。大正以後は日本人の評価は極端に落ちてくる。
この全集に亀井勝一郎の「現代人の研究」とうのがでている。ここに明治から代表的な日本人の精神的軌跡を分析解明している。今天皇をどういうふうに当時の人が思っていたのかわからないが

天皇は異常な尊敬のうちに傀儡となられた。天皇に名を借りての大権の私的濫用が神秘的に合理化されるという独特の形態が大正期に成立した。その実権をにぎったのは参謀本部と政党である。そして天皇の人間であることは国民は本能的に知っていた。それを口にすることは絶対に許されなかった。・・・・

天皇はこうして傀儡にされた犠牲者でもあり孤独な人だったという、本来の尊敬とかはそこになかった。天皇に対する尊敬とかはまた別なものとして日本人にあったのである。異常な尊敬のうちに・・・これは強制されていたのである。こういうことは組織化したところでは同じ精神状態になる。北朝鮮でもあそこまで個人崇拝するのはおかしいと一般の人が思っていても絶対に口に出せない、それから共産国家のロシアでも中国でもイラクのフセインでも独裁者には何も言えない世界である。これは創価でもそうである。池田大作に対しては何も言えない、そういう体制が作り上げられてしまうのが国家という組織であり集団である。ただそうしたことが庶民でも気づいていても天皇のためにとか国家のために死んでいった人達はやはり責任がないかといえばあるとなる。後世の人があなたたちは国のために尽くした立派な人達とは言えないからだ。ただ国家とか権力とかをにぎるのは別に善人でもない、だから善悪から判断はできない、国家はどこでもそうした悪事働いてきたからである。ただ明治維新後は天皇の臣民といっても国民国家になったのだからその責任を全部上のものになすりつけることはできない、国民に責任があるようになったのが国民国家だから戦争に行き戦い死ぬのも武士ではなく国民になったのである。

●戦争と企業

日露戦争当時、ある財閥があまりにもうかるので、カンヅメの中に石ころをつめて送ったという話がある。自国の軍隊に対してすらこれだ。第一次世界大戦当時の資本家が何をやっていたものかわかったものではない、日本人の商業道徳は戦争ごとにその醜悪さを暴露してきたのである


これは日本だけでなくアメリカの20パ-セントが軍需産業に従事しているということはまさに戦争でもうけるシステムができあがっている。戦争が商売には必要だということが肯定されている体制なのである。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも企業は特需でもうけて日本の経済は立ち直ったのである。不思議に幸運にも日本はアジアの戦争で大敗北したが経済的には幸運だったのだ。だから今、経済大国になってまた不況になるのも必然の径路なのかもしれない、別な国に冨が回ってゆくのが世界史であったからだ。日本でも企業国家、会社国家といわれるように経済優先になるから戦争の大きな要因に企業の要請があったことは確かである。それは企業のトップだけではない、やはり経済優先になればその従業員も後押しすることになっていたのだ。ただ日露戦争はその後の戦争と違っていた最後の武人同士の戦争だった。

日露戦争では俘虜虐待といった事実はほとんどきかない、水師営における乃木大将とロシア軍ステッセル将軍の会見をみても、極めてなごやかである。「昨日の敵は今日の友」というごとく互いに刀剣と乗馬を贈りあい温かい握手をかわし労をねぎらった。

この例のごとくいかに戦争すら人間的な面があった。それ以後の戦争をみてみたら信じられない人間性の堕落である。人間性のかけらもない戦争の酷さだけがある。捕虜虐待は常にあったしただ科学戦争のその最たるもの原子爆弾の恐怖だけである。そこに人間性は微塵もない、武士の時代の敵討ちとかフランスで盛んになった決闘とかが非人間的だと今から見ている。それもそうなのだが良く仇討ちでは相手に事情がある事を知り許すとか殺すにしのびないとか一対一だからそこに人間的情がわく、そういう人間的ドラマが生まれただ。だから戦争でも古代は人間の物語になる。機械文明は人間の情を奪うのである。(文明は人間の情を奪った)

こうして歴史をたどるとき現代の科学戦争のいかに非人間的なものかわかる。いやおうなく科学兵器によって人間はただ押しつぶれる。そこに人間的なものが介在することがなくなる。過去との比較でそれがまざまざとその恐るべき信じられない戦争の非情さが浮かび上がるのである。ガス室送りで人間ではない物のようにされて始末されるのもそのためである。人間はもはや人間ではない、ただ心もない物として処理されるだけなのだ。これが文明としたら文明とは人間を人間でなくさせる恐ろしいサタンとしか言いようがない、文明とは人間を人間たらしめない、恐るべき全体だということがあるのだ。その文明の非人間性は文明生活の中で培われているから無感覚になっているから平気で人間がガス室送りでも原子爆弾でも平気で殺せるという文明人の非情性、異常性がある。ルソ-とかブレ-クとかニ-チェ・・・ミラ--上野霄里氏と言った天才思想家の系譜に文明批判があるのは文明により人間そのものが否定されるという危機感と怒りがあったからである。それが天才だけに常人を越こえた強烈なものになったのである

インタ-ネット時代の著作権はもっとゆるくすべきだ

インタ-ネット時代の著作権はゆるやかにしないとまずい、死後50年しか自由につかないとなると貴重な資料でも残されたものが埋もれてしまう、活かされないのだ。出版社だけが著作権をたてにして一般人に利用させないのは情報の独占である。それは国のためにも社会のためにもならないのだ。とにかくこの「現代教養全集」なども過去に残されたもののほんの一部
にすぎないのだ。今より今出されているホ-ムペ-ジより過去の方に貴重なものがある。この過去を歴史をふりかえらないと現代もわからないのである。



団塊の世代の老い(温め酒)

●歪な年齢構成

老いることの不思議は老いてみないとわからない、老いというのはやはり非常に不思議な経験なのだ。老いというのはこの世を生きてきた、この世とは何なのか、人は様々なことに魅了されてきたのだ。女性の魅力はあまりにも大きくそれに心を奪われ人も数限りない、しかし不思議なことはそうした魅了されたもの大きく見えたものが老年になると小さくなってしまう。自分は特殊な人生であったにしてもやはり老いの年齢になると本当に玉手箱を開けたら煙となって消えてしまい白髪の老人となっている。これは別に龍宮城に行かなくてもそうである。それはみんな現実の物語である。これから団塊の世代も老いに入ってゆく。しかし江戸時代の隠居の文化とか作れるのかと言ったら疑問である。江戸時代に隠居の文化があったのは老人というのが大事にされたのは老人が少ないからであり団塊の世代が退職するころはすでに大変な数になっている。それは少子化で下に負担をかけるからもはや若い者が隠居として認めるようにその場を与えるということは必ずしもない、個人差はあるが多数はのけものにされる。今でも団塊の世代の風当たりが強いのには恐怖さえ感じた。

江戸時代は老人にとって生きやすい世界だった。時間の感覚も社会も変化にともしく静かであったし老人向きだったのだ。ぷかぷかとキセルをふかしている悠長な時間の世界である。のんきな父さんとか顔まで何か今のギスギスした世界と違っていた。人間関係でも大家族であり回りには親しい人に囲まれていた。人と人が互いに密着してめんどう見合う世界だった。そして隠居しても老人にはそうした大家族や地域社会で役目が与えられていたのだ。世話役とか何かいろいろなことを教えることもあった。老人になると身近なものが大切になる。地域とか家族とか近くが大事になる。行動範囲が狭くなるからだ。でも現代は会社人間として生きてきた人や地域とか家族と切り離されて生きてきた人が多い、またそう強いられたのが工業社会だった。そこから一旦切り離されると社会的には老人の場がなくなってしまうのだ。沖縄では老人を大事にする風習があるというのはまさに島では昔の生活が残っていたからである。豊かな家では老人の部屋が用意されていた。でもそれも今では変わってきているからそうした基盤がなくなっきているから昔のようにはいかなくなる。ただ一部ではまだのんびりとした雰囲気が残っている。

介護保険は、われわれ国民を「介護の社会化」という幻想をダシに、高齢者や低所得者などの弱者を切り捨てたとんでもない制度であることが現場で介護に携わる者には明らかになってきた。

制度を作っても仏を作っても魂を入れるものがなければ制度も生きてこない、これは経済的利益とかを追及するだけのビジネス社会と合わない問題だからうまくいかないのだ。いづれにしろこれから今もそうだが孤独な淋しい老人がふえてゆく。ただ団塊の世代は遊び上手だからいろいろ趣味で活躍する人はいる。でも一般的にはこんなに老人がふえたらやはりフリ-タ-とかニ-トとかヒキコモリとか増えるのと同じようにアンバランスになる。とにかく社会がなにか歪(いびつ)になっている。信じられないような事件の続発もそうした社会の歪みのためなのか、若い人が生き生きと働き老人は老人なりの場が与えられるのが正常な社会である。社会構成が歪になるからこれから外国人労働者を入れないとやっていけないとか本当にそうなる。社会自体活力が失われるのだ。

●温め酒(団塊の世代の哀感)

マルクスを語りしは昔
あわれ場末の飲み屋に
友と昔を語り温め酒
団塊の世代も老いに入るかな


この人の不思議は52、3でしきりに老いのことを言っていることである。温め酒は熱燗のことと思っていたがこれは秋の季語だったのだ。熱燗は寒い時の酒であり温め酒は秋の季語である。秋に温めて飲む酒である。秋も結構寒いときあるからこんな季語ができたのかもしれない、団塊の世代は温め酒の時代に入ったのである。温め酒を飲み昔をなつかしみ語る時代になった。ビ-ルは一気にグイ飲みしたり若い人向きなのか温め酒となるとなんか日本人的になる。でも団塊の世代は結局、戦後をになった象徴した世代であり戦後の歴史をいいにしろ悪いにしろになった世代である。若者文化も団塊の世代が主流となり作り中高年になればやはり新しい今までとは違った老人文化が花咲くかもしれない、ただその前途はかなり厳しいことは確かである。

インタ-ネットはかえって中高年のホ-ムペ-ジが面白いのだ。何かしらそれぞれ経験を語るからである。例えば2ちゃんねるは20代から30代であり年齢がかたよっているからなにかものたりない、そこは社会全体とはいえない、80才の人でも気楽に若者と話せるような場にならないと社会全体とはいえないのだ。さらに必要なのはすでに過去となった歴史をふりかることが常に必要なのである。過去と比較して現在が浮き彫りにされるからである。



団塊とフリ-タ-、ヒキコモリの世代がやはり社会を歪にしている。発展途上国はピラミッド型であり下からのエネルギ-が若いエネルギ-が強い世界である。



琉球王朝最後の尚泰王のひ孫 逝去

<訃報>井伊文子さん87歳=琉球王朝最後の尚泰王のひ孫 逝去

 井伊文子さん87歳(いい・ふみこ=琉球王朝最後の尚泰王のひ孫、故井伊直愛・元滋賀県彦根市長の妻)


与那国まで行ったけどあそこまで行くと広い、台湾も見えたし島が点々とありその広い領海が日本だとする陸はなくても海の面積は広い、ただ海は領有するという感覚がない、海は船が行き交う交通する場所であり通路であり領有することがむずかしいから中国からも簡単に国境が侵犯される。日本は国境意識が海に囲まれてもてない国なのだ。日本は一つの宇宙の独立した閉鎖した島であり海によって世界は尽きてその向こうにとてつもない大陸があってもそれが実感できない感覚が養われた。日本最南端とか最西端とかが人気がある、というよりそこで世界は尽きてしまうのだ。鎖国というのもそうした宇宙で孤立した島という感覚から必然的に生まれたのだ。イギリスはフランスの一部がイギリスであったりまたフランスがイギリスの王室にかかわりフランス語が大量に入ってきたりその前はバイキングの侵入で支配されたりと異民族混交の世界であり日本とは同じ島国でもかなり違う。国際性は古くからいやおうなく存在した国である。確かに日本も韓国と因縁が深いのだが天皇も韓国から来たというが言葉自体がなぜあんなに違うのかまるっきり別な言葉だから確かに文化を移入したとしても人種自体が混血するほどの影響はなかったように思える。言葉にもっと影響があってもいいからだ。

沖縄に行ってみて沖縄は唯一日本の異国なる所であった。実際は大和との関係も深いし歴史的には大和からの移住した人達らしい。言葉が同じだからだ。そして不思議なことは沖縄にも青森にも日本の古語が残っているのだ。辺境にかえって古語が化石のように残っていることは面白い。そしても今もその古語があいさつなどに使われているのだ。沖縄はその王朝の開始時期にノロ集団、巫女集団が政治にかかわり政治を動かした。これも卑弥呼が邪馬台国の王であったこととにている。卑弥呼は一人ではない、多数のノロ、巫女が大和にはいたし女酋長が各地にいた。与那国にも女酋長の伝説がありこれは卑弥呼の前進なのである。日本は最初女性が力を持っていた国なのだ。万葉集に力強い女性の歌があるのはそのためである。沖縄の歴史は比較的新しい、15世紀戦国時代に王朝が統一されたとなるとその王朝の子孫もまだ若いのである。それに比べ天皇はあまり古すぎて神話につながりもはや実体としての天皇がどういう基盤から実権ある王朝から生まれてきたのかわからない、ただ祭り上げる存在になっていた。井伊文子さんの短歌を読んでみるとその血脈がまだ色濃くつづいている。玉御殿の王陵に眠っている王はまだそんな遠い存在ではない、江戸時代より前にしてもその先祖の面影と王朝の栄いは天皇のように神話のように遠いことではない、天皇の歌にはもはや王統を受け継ぐような気概とか何か国を背負うとかそうしたものはすでに消失している。戦争では過度に祭り上げられたのであり天皇にとっては迷惑なことだったのだ。

確かに沖縄の栄光の日があった。それは中国と結びマラッカ海峡まで船団を組んで貿易船を出していたときである。海洋国としての躍如たる海人の活躍の場が開けていた。沖縄にこそ本当に海の文化があったのである。沖縄という位置がまた南からも北からも東からも西からも風が交差する場所にある。実際中国とも交わり、東南アジアにも行き大和とも交わりそしてアメリカとも交わったことが如実にそれを示している。山原の岬まで自転車で行ったときあの岬に立ち大和に復帰する望郷の碑が立っているが大和もあそこから見れば異国であり遠いのである。北海道も内地と外地を区別しているが北海道は大和の延長であるが沖縄は歴史的にはその最初独立していたのである。歴史の厚みがありそれが北海道とは全然違うしそこに魅力があるのだ。ただ沖縄は戦争で大きな被害を受けた。今もアメリカの基地がありアメリカの軍人が跋扈しているのは嫌な気分だった。やはりまだ日本はアメリカに占領されているんだと実感される場所である。沖縄の不幸はあそこが四方からの風が交じる要所にあったことなのだ。だからアメリカも手放せないのである。

この基地問題も経済問題がからんで簡単には解決はしない、アメリカ軍の代わりに日本の自衛隊がその代わりになれば経済的問題が解決するかもしれない、それを望んでいるんだという人もいる。観光的には大きな魅力がある。唯一南国に行った気分が味わえる島だからだ。リゾ-ト地としてもリタイア組みも沖縄は温暖であっている。ともかく沖縄が日本であったということは日本は実際は海の領域は相当に広いから海の領域を維持すれば国は小さくても海洋国として広さと豊かさを感じられる国なのである。ただその意識が今やない、海というのはそもそも陸のように領有できないから具体的性がないから海は常に外国に侵入されてもそれが陸を侵犯されたように深酷に感じられないという日本人の防衛の急所があるのだ。その点林子平が海からそれもオランダとかイギリスの海から船で攻めてと危機感を抱いたのはいかに先見性というか日本人では例外的な感覚の持ち主だったことが今でも通用しているのだ。

琉球王女を迎う

領海の潮を超えて来ます(逢い)濃き琉球の血が呼びあえり

燃える仏桑花を心に擁し 王統の末を生きる 私の存在感

甘蔗つめる山原船は帆をあげず夕ちかき港にたゆたひおるも

ここにまだ熱い言霊が生きているのはやはり血のなされるわざか、歴史の重みか、王朝の末裔の叫びか、その沖縄への情熱の思慕が歌に託され残された。

玉御殿木陰の濃きや今になお拝する人あり暑き午後下がり(自作)

今でも確かに天皇より沖縄の玉御殿にあらしめるのだ。それが本土と感覚的に歴史的に違う世界なのである。日本に二つの国があった、王朝があったということを自覚できる場所ででありこれはまた日本を新たな視点から見直すことができるから沖縄は日本にとって何か異質なもと同質なものが混同した不思議な魅力に満ちているのである。7月に行ったから異常な暑さだったかあの暑さに沖縄があったともいえる。一方で実は本土の方が暑くなっているという異常さである。海から風が吹いてくるから35度とかにはならないのである。海がやはり沖縄を沖縄たらしめている。

沖縄詩集へ

島の水不足、山原の共同売店など



インタ-ネット情報学
(ニフティ会議室→ホ-ムペ-ジ→2ちゃんねる→プログ→?))

●ニフティ会議室(固定メンバ-制)

インタ-ネットを利用は何回も述べてきたが本とは違う世界の情報収拾であり情報構築であり情報コミニケ-ションになる。それが一番良く示しているのはソフトによってこの世界が常に変わっていることである。最初は固定メンバ-によるニフティの会議室であった。これは匿名であっても固定メンバ-でありもうすでにオフで親しくなっているメンバ-もいてよそ者が入りにくいのと自由な発言は裁判ざたになった思想フォ-ラムしかなかった。あそこで口を滑ってちょっとした非難でもとがめられる発言停止になったり発言削除になったり会員追放に簡単になったのである。それは固定メンバ-であり和を乱すことがまずいからである。だからシスオペとか導く人、取り仕切る人がいて金までもらっていたのだ。ただニフティでは長い発言が許されているから有力なメンバ-がいると学ぶことがかなたあったが基本的には長文はきらわれるのがパソ通の世界だった。ニフティもついに会員限定からweb化して実質は終わった。次にソフトとしてでてきたのが2ちゃんねるだった。これは非常に即興的に使いやすい、それから完全匿名性だから発言が失敗してもそれをネタに延々と責められることはない、ニフティでは固定メンバ-であり誰かににらまれたら終わりである。その怨念が延々と蛇のようにつづき、公正な議論などできなくなるのだ。

●2ちゃんねる(速報的週刊誌ニュ-ス閲覧)

2ちゃんねるのコンセプトは即興的ニュ-スの解説の相互展開でありこれは議論までいっていない、また裏の情報の提供に向いている。これも通信の世界で一つの世界を作った。しかしこれも明らかに行き詰まりになっている。というのは大衆化、低劣化が激しいのだ。アクセスが百万とかなりまさに便所の落書きとなり終始がつかなくなってしまった。まともな人間は社会人はあの世界とはつきあいにくい、ただ簡便なニュ-スの一覧を読むということで利用しているのだ。次にでてきたのがプログであるがこれは私にとっては経験ないし読むことも少ない段階でコメントできない、ただこれは明らかに個人の発言の一貫性があり例えば右翼の人の一貫した発言は2チャンネルとは違う、情報自体が一貫して詳しいのだ。戦争中の詳しい分析もしている。だから罵詈雑言の2ちゃんねるよりわかりやすいし右寄りでも好感がもてるしわかりやすいのだ。やはり一つのテ-マで一貫して出せるのでプログはその点また違ったものである。ホ-ムペ-ジとにているがそれがプロガ-同士つながり検索でもつながることが違っているらしい、googleの検索とは違う情報の連鎖があるのだ。ただこれもすでに終わりに近づいたとか常に変わりやすいのがこの世界である。まだ読むことさえできないのに常に理解しない内から変わっているので困るのだ。ただ検索をgoogleだけに頼るのはそれに支配されるので良くないというのは本当である。別な検索方法があってもいいということは確かである。いづれにしろプログはホ-ムペ-ジの変化した一つであり本質的にはホ-ムペ-ジがインタ-ネットの基本であることは変わりない、ホ-ムペ-ジょ強みはこのようにいくらでも自由に構成して発言できることにあるのだ。その連携の仕組みとしてプログができたがその本質はホ-ムペ-ジにある。

●インタ-ネットはキ-ワ-ド検索から編集へ

インタ-ネットはキ-ワ-ド検索からはじまる。ではこのキ-ワ-ドとは何かというとキ-ワ-ドにより編集することなのだ。例えは柿というキ-ワ-ドの季語から柿の歴史とか柿にまつわる話や柿の俳句を探してゆき集めると柿という世界がある意味で連鎖的に無限に広がってゆく、そういう情報連鎖の使い方が向いている。これは本ではやりにくい、なぜなら本とは一つの完成したものとして作ってあるからあることについて調べるにしてもその一冊の本では少ない、では連鎖して調べるものを買おうとしたらいくら金あっても足りないとなるからできないのだ。本は司馬遼太郎とか有名な人が中心になりやすい、ハリ-ポッタ-とかベストセラ-のようなここにすべてがあるよというものに向いている。ある情報について詳しい情報を調べることは不得意でありまたそうしたメデアではないのだ。私は詩を書いているし詩に興味がある。これで不思議なのはミ-ハ-の詩がほとんどなのだが百ある詩のなかにこれはいいなというのが一つくらいあることなのだ。人間一つくらいいい俳句は作れるがその一つでは有名になれない、でも一つくらいはその人なりいいものを作っているがそういうのは取り上げられない、たまたま出版社があるテ-マで本を作るときそうした無名の人の俳句がでてくる。柿という季語にでてくるのである。詩にもそういう面があったといことなのだ。ただこれは探しにくいのだ。膨大なゴミの山をかき分けねばならぬからだ。これが外国でもそうであり今現時点でのいい詩はあった。でもこれまた訳さないとわからないからこれも日本より大変な作業になるのだ。

つまりインタ-ネットはソフトにより常に変わる世界である。プログさえ終わりとしたらそのあとは何になるのか、それすらまた模索されている。こんな変わりやすい世界についてゆくのは疲れる。本当にするべきことは芸術家なら作家ならその作品制作にエネルギ-を集中すべきだからだ。操作とかに時間をとられたらかなりの時間とエネルギ-のロスになるからだ。



地球規模で絶滅する生物の増加の危機(豊岡市のコウノトリの再生の実験)


 
かつて、兵庫県北部の但馬地域は豊かな自然に恵まれ、コウノトリが大空を舞う姿を間近に見ることができました。
 しかしながら、様々な社会の変化に伴い自然環境が損なわれたことにより、昭和46年、国内最後の野生コウノトリが但馬の豊岡盆地から姿を消しました。
 そのような状況の中で、保護増殖の活動が進められ現在、兵庫県立コウノトリの郷公園(豊岡市)では、100羽を越えるコウノトリが飼育されるまでになりました。



銅鐸にクモの絵が書かれている。農耕をはじめたこの国の人々にとって、クモは作物を荒らす虫を押さえてくれる存在、という認識が古くからあったのだろう。朝グモを殺すな、夜グモをころすな(反対もあるが)と言った言い伝えも、どこかで「クモを守る」という知恵なのだと思われる。

中国では人民公社において「蜘蛛農法」を公式に進め、ほぼ無農薬の増収をはかったという記録も一時期あった。二千年前の中国の書に「蜘蛛集則百事喜」とある。当時から、蜘蛛が 多ければ、よい収穫の徴と考えられていたのである。


銅鐸の不思議は蜘蛛が描かれていたと同時にトカゲとか蛙とか爬虫類も描かれていた。これらは虫を食べるから描かれていたのかもしれない、稲作ではこの害虫が大敵だからだ。一つの願いとしてトカゲとか蛙なども描かれた。トンボ、魚、亀 、鷺、 鹿 なども描かれていた。トンボはアキツであり大和は秋津島ともいわれた。トンボはまたタンボのなまったものだとかトンボは小さな蚊などの虫を食うので益虫とされた。銅鐸は穀霊とか地霊の依代であり稲作の祭儀に作られたのだ。害虫は特にイナゴは恐れられた。今でもアフリカ辺りで穀物を大繁殖して穀物を食い荒らし空が曇るほどになる。その恐怖は尋常じゃなかった。日本が秋津島となったのは害虫からの害を守ってくれという祈りがあったのだ。それほど害虫は恐れられたということである。意外なのは蜘蛛が害虫を食べるということで早くから気づいていたことである。古代の人は今の芸術感覚で物を作らない、現実生活と密接に結びついている。宗教するみなそうである。それは抽象的哲学とは違う、現実生活に基づいてうまれたのだ。

稲作や畑作の害虫駆除を目的とする呪的行為として虫送り行事がある。特に、稲作を中心として来た我が国の農民にとって虫の被害は、生活を脅かす恐ろしいことであり、また稲を食い荒らす虫は悪霊の化身とも考えられて来た。 そのため、農作物の被害から逃れる方法として、科学的駆除の試みとともに虫の霊を鎮め、村の外へ虫の形代を送り出す呪術的儀礼も行われた。

この害虫には苦しめられたことは確かである。でもこの害虫が自然界全体で考えたとき害虫かというとそうはならない、それも自然界の生命の大きな環の中に存在させられていたのだ。自然界である特定の種を排除するということは成り立たない、すべて全体の一部として生命の連鎖の中にあるからだ。法華経で子供を食おうとした虎に自らの身を与えたというのはまさにこれは人間の歴史からすると考えられない行為だった。インドにそうしたいい伝いがありベジタリアンは蚊さえ殺さないという思想の実践があったことに驚く。今までの農業世界は自然のサイクルにはまっていたから自然を極端に破壊することはなかった。いわば自然村として存在していた。一方で害虫に悩まされるたり様々な雑草がしげりその草取りに追われたりとか様々な不便が強いられた。しかしその不便が自然を守っていたのである。現代の極端な工業化は人間の側の一方的な効率化とか能率化とか合理化とか自然のサイクルとは違うものを自然に人間におしつけたのだ。その結果として農薬による極端な邪魔者排除が行われた。その結果としてコウノトリの餌になる小動物もいなくなり姿を消した。つまり排除の思想は危険なのである。共生の思考が必要なのだ。動物の一部を排除する邪魔者として抹殺するということは人間にも通じていたのだ。ナチスの思想がそうであった。優秀なものだけを残し劣等なものは抹殺するという思想である。それが人間のガス室送りであり文明の問題はこうした自然破壊でも根っこで通じているのだ。動物に慈悲がないものは人間にも慈悲をもたないし生命あるものとしてすら認識できなくなっているのだ。生命と物とは根本的に違うということが理解できなくなっているのだ。


カメムシとかバッタとかツマグロヨコバエ・・・
こいつらは稲を食い荒らす害虫だ
こいつらがいなければいいんだが(人間)

ええ、俺たちはこの虫を食っている
この虫がいないと俺たちはみんな餌がなく死んでしまうよ
人間にとっては害虫でも俺たちにとっては大切な餌だよ(蜘蛛など)

この蜘蛛は見るから気味悪いんだよ
こんなものいなくなった方がいいな(人間)

それは困るな、この蜘蛛を俺たちは食っていきている
蜘蛛がいないとみんな死んでしまうよ(小さな鳥や蛙やトカゲなど)

トカゲなんかも気持ち悪いからいない方がいいよ(人間)

ええ、トカゲや蛙がいないと俺たちは住めないよ(大きな鳥、サギやコウノトリ)

人間は自分の害になることしか考えないけど
生き物は食いつ食われつあいみたがいだよ
与えられた命にそれぞれ意味があると思うがな・・・・・
人間というのは何かうまくいかないと一つのものを敵視する傾向がある
稲を害する虫があるとそれを悪魔のように思い責めるんだよ
でも命の世界はそんな簡単なもんじゃない、みんなあいみたがいだよ
生かし生かされる存在なんだよ


豊岡市で農薬を使わない無農薬の稲作をはじめたら結構大変だった。草取りとか手入れが大変なのである。それもわかるのだが自然と対処するには能率や効率や合理化を追及する工業化の手法と相いれないのだ。そもそもその時間感覚でも農業や林業は何代にわたって受け継ぐ大地とともにある仕事だから工業や商業のようなめまぐるしい変化する仕事とあまりに違いすぎたのだ。だからそもそもいろんな面で大規模グロ-バルの経済とは合わないのである。それと合わせた結果は地球的自然の破壊となったのである。むしろ大規模グロ-バルの経済と合わないからこそ自然の存在意義があったのだ。あらゆるものが商業主義市場化とか効率化合理化工業化経済化できないことを知るべきである。農業もそうなら知識産業でもそれが商業化に合わないものはありそれらを一様な経済価値で計るの無理だったのである。ある人が言っていたがトラクタ-のような機械を使ってから落ち穂などを前は拾っていたが今はそんなことをしないという、まさに大型機械化はそうした細かい自然に対する目配りを喪失してしまう証拠である。ミレ-の「落ち穂拾い」という絵の風景が田園から消えている。トラクタ-とかで耕す風景は何か違和感を感じで絵にも詩にもなりにくい、農業とか仕事は芸術など関係ない、いい米が大量にとれればそれで金になればいいのだとなるがでは芸術と社会が全く無関係なのかというとそうではなかった。ヨ-ロッパを見ればわかる。すべてが建築から庭から道路からすべてartとなっているから美しいく感じるのだ。artは単なる一技術ではない、全体のことであった。そこに美しく感じるものがある時やはり仕事でも自然とも調和して人間も美しいものと見れるから芸術が生まれているしartがあったからこそ美しいものとして認識できるとなる。芸術は本来社会から遊離してアウトサイダ-のものだけではなかったのである。
(artについて)

山の中でも粗末な板の橋をトラクタ-でわたり山に隠されるようある隠し田のようなところにガ-ガ-が入ってゆくのになんか違和感を感じた。つまりトラクタ-というとアメリカのような中国のような一面の麦畑とかトウモロコシ畑とかにあっていてあんな山間の斜面の小さな田畑には合わないのだ。風土に合わないのである。それはとりもなおさずその土地の自然を無視した不自然な生き方に通じている。農業はその風土にあったものとしてしかできないのだ。都市と農村の地方の意識のギャップの根底にこうした自然とのかかわり方にありそれが根本的なギャップを生んでいるから調和することがむずかしいのだ。





この生命連鎖の一部を排除することは自然を破壊するのだ。


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フリ-タ-やヒキコモリ問題(高等遊民なのか?)

 
遊民は如何なる国、何れの時代にもある。何所の国に行っても全国民が朝から晩まで稼いで居るものではない。けれども、国に遊民のあるは決して憂うるに足らぬことだ。即ち、これあるは其の国の余裕を示す所以で、勤勉な国民に富んで居るのは、見ように依ってはその国が貧乏だからである。遊民の多きを亡国の兆(ちょう)だなどゝ苦労するのは大きな間違いだ。文明の進んだ富める国には、必ず此の遊民がある。是れ太平の祥であると云って何も遊民を喜ぶのではない。あっても決して差支えないと言うのである。(内田魯庵)

今回の家族皆殺しのヒキコモリにはショックだった。フリ-タ-やヒキコモリが今の時代の話題となる。それはなぜなのか、結局数が多いからである。これまでも社会からはずれた人間はいたがその数は極端に少ない、だから誰も問題にしない、そんな変わり者は変わり者で勝手に生きろとなり社会問題にならない、なぜ今問題になるのか、一番働くべき若者がまともに働かないでいいのかということである。フリ-タ-になる動機はいろいろであるが海外旅行したくてフリ-タ-になっている若者が相当数いることなのだ。海外旅行の魅力のためにフリ-タ-になっている。海外はそれだけ魅力あるということである。一般的に今フリ-タ-は望んでなっているのではなく正社員になれないないからやむをえずフリ-タ-になっているというのが実情になっている。

しかし一方で海外旅行したくてフリ-タ-になっていた人が相当数いたのである。バックパッカ-の宿にはそういう若者がいつも群れているからだ。仕事自体は海外旅行の金をかせぐためであり仕事そのもの魅力を感じていない、たいがいコンビニのアルバイトとか下働きである。海外旅行また海外で暮らすことに生きがいを見いだしている若者達を作ったのも現代のグロ-バル化なのである。インドで半年とかアジアで長く滞在する若者が多い、彼らは日本は窮屈だとか日本で働くのをいやがっている。海外から常に日本を見るというのも現代の特徴なのだ。でも海外で暮らしてもそれが仕事にならない、カメラマンとか記者だとか言っている人がいるが実際それはアルバイトの段階でありプロの人は少ないのである。プロとなるとかなりのスキルと経験が必要となるからむずかしいのだ。ある人は記者だと言っていたが東京であったら新聞配達していたというのもその一例である。記者クラスだとライブドアとかでも募集していたか英語を読みこなしかなりの外国通で経験がないとなれないのである。だから外国に放浪してもそれで仕事を持つことは容易ではない、外国旅行している人は珍しくもない時代である。しかし外国について何か独特のものを書ける人は少ない、相当な外国に対する理解がないと書けないのだ。だから海外旅行してもそこから仕事に結びつけることは極々まれでありたいがい見聞は広めても何も身につかないのが実情なのだ。

高等遊民とは何なのか、これは明治時代、漱石が言ったのが始めであり漱石自体高等遊民だったのでその体験を小説に書いた。でもこの高等遊民とフリ-タ-ヒキコモリを一緒にできるかとなるとできない、高等遊民であれば一体家族をみな殺しするようなことはない、高等遊民とかアウトサイダ-は社会に適応できないものでもそれは規格的な社会に適応できない全人間でありそれらは天才的芸術家とか優れた人間だからである。上野霄里氏なんかそういうことを言っている。すでに前からそういうものはでてきたし明治時代にすでにあったのである。実際団塊の世代は学生時代あれほど自由にすごしてヒッピ-とか長髪で自由を謳歌していたのにほとんどが企業戦士の猛烈社員になったことこそ不思議である。それだけ経済的余裕がなかったといえばそうであるがかえって今のフリ-タ-とかになっていても不思議ではないからだ。学生を卒業してからは人手不足でほとんど全部就職したのである。今のように優秀な人間しかとらないというのではない、どんな学生も就職できたしそれがそのまま終身雇用となるはずだったのだ。就職しないやつは自分のようにアウトサイダ-になったがこれは誰も相手にしないし勝手に生きるやつは生きろ、野垂れ死にでもなれとなっていたのだ。そんな人いること自体気づいてもいなかったのである。

ではなぜ今こんなに問題になるのか、数が多いから社会全体で社会が維持できなくなるから規格社会に入ってくれということなのだ。社会からの要求、圧力が強くなるのは規格社会が維持できなくなるからだ。極少数であれば問題にしなくていいが数が多いから問題になる。そして高等遊民だとか言っているが高等遊民はむしろ人間的に優れた人がなっている。家族をみな殺しにするような人と次元が違うしこれと同じように考えることは的がはずれている。私もフリ-タ-とかヒキコモリ、無職をつづけて今や老人になろうとしているからフリ-タ-やヒキコモリって何だろうと考える。でもこれを高等遊民だとかだと同一するのはおかしい。高等遊民はむしろ平凡人はなれない、それは選ばれた人でありそれが今や選ばれた人ではなく普通の人が経済的余裕でそうなっていることが問題視されているのだ。私の場合は家庭環境などで甘えと歪みがあり家庭内暴力とかしていたし普通人としてアウトサイダ-となった。ヒキコモリとかフリ-タ-とにている。でも今のフリ-タ-とかヒキコモリはまた自分の境遇とも違っている。特にヒキコモリは問題である。そこにあるのは普通の人が容易にヒキコモリになる、高等遊民になる時代になったことがある。大学も今では普通の人が行くが実際大学で学ぶにふさわしい人が行っているかといったら帝国大学の時代とは大違いでありただ遊んで終わっているのがほとんどだったのだ。経済的余裕ができてもそれに精神的なものが教養は簡単に身につかないのだ。

人間はやはり若いときは社会的訓練が必要でありその場が今や学校とか会社にしかないことが問題なのである。地域社会があったときは若者宿などでそうした大人になる社会性が身についたのである。だから一時期でも軍隊とかで訓練されたりすることもいい方法である。そこで社会の厳しさとか社会人として生きる規律とかが教えられるからだ。そうした場が奪われ家庭だけに閉じこもっていることが問題なのだ。高等遊民になるにはそうした社会的訓練を積んで社会そのものに適応できない30代以上の人がなるものだろう。その人たちは家族を皆殺しにするなどしない、経済的に余裕があればその人たちは社会に害を与えることもないしむしろ芸術やその他何か創造的なことに寄与する人達であり社会にとっても無益な人達ではないのだ。むしろ社会の有益、無益の物差しでは計れない価値観に生きている人達である。

こうした高いレベルの高等遊民と同一に今のフリ-タ-とかヒキコモリは考えられないことに根本的な問題があるから規格社会では規格に入ってくれと騒いでいるのである。この問題の深酷さは前もそうだったが日本では新卒でないと会社に就職できない、途中採用できない、経歴にフリ-タ-とか空白があるとまともな会社に就職できない、つまり明らかにアルバイトのような職につくことができないままに年を重ねてゆく人がふえる。ヒキコモリはさらに深酷である。日本では一旦正規のル-トからはずれたら正社員になることが非常にむずかしい社会である。そうした正規のル-トからはずれた数が正社員より多くなるというのも異常な事態である。正社員自体がなくなり契約社員となるというのも会社側の事情がある。会社も今や少数精鋭でしか維持できないのだ。能力のないものははじき出されるのが国際競争化の社会なのである。能力あれば中国人でもいいということで大学でも会社でも中国人の優秀な人を研究員にしようとしている時代なのである。



ヨ-ロッパの歴史の理解のむずかしさ(NHKのドナウ川中継を見て)

「ヨ-ロッパのはじまりはフランク王国のカ-ル大帝にはじまるんだってね」
「フランクからフランスになったのか」
「フランスの王様がドイツの王様になっているのか」
「そもそもフランクがゲルマン民族の一派というのがまぎらわしい」
「もともとロ-マ人からみてフランスもドイツもゲルマン人などがいた野蛮な地域だよ」
「ドイツのア-ヘンに神聖ロ-マ帝国の玉座が残っているんだよ」
「ドイツに再びロ-マがよみがえったのか」
「ロ-マはヨ-ロッパの基だよ」
「それがルビコン河をシ-ザ-が渡ってさ、ガリアに今のフランスに侵入して支配したのさ、それが歴史の大転換期だったということでルビコンを渡るとは大決断を意味することわざになったのさ、ヨ-ロッパの歴史を考える時、河に注意しなよ、河は国境であり、交通路であった、ロ-マ人はライン河ぞいに下り支配を拡大していった、そして城はライン川の西側にあるのも東側は河を渡らないと進めない、自然の国境となっていたんだよ、この河を渡るのは昔から大変だったんだよ、だからフランクフルトにこういう物語が伝わっている

フランクフルトの地名は794年の記録にフランコンフルドとして記されている。これはフランコ「フランク族」とフルド「渡渉点、渡船場、浅瀬」を合成したもので「フランク族の渡渉点」を意味する。

伝説によれば800年頃フランク人の頭であったカール大帝は当時このあたりに住んでいたザクセン人をカトリックに改宗させようとし、その抵抗にあい戦いとなった。カールは戦闘で敗退し、従者とマイン河畔にたどり着いたが、あたりは霧に包まれて見通 しがきかない。困り果てたカールが神に祈願すると、一瞬霧が晴れて一頭の白い雌鹿が子鹿をつれて現れ、先に立って川の浅瀬を渡った。カール達が川を渡り終えるとまた霧がかかり、ザクセン人は追ってこられなかった。カールはその場所をフランク族の渡渉点であるフランクフルトと呼び、王宮を建てることにした。またカールはザクセン人を征服するとその部族民の一部をマイン左岸の場所に強制的に移住させた。これが現在のザクセンハウゼン地区の由来と言われている。

「渡渉点、渡船場、浅瀬・・・・これが大事だった、だからこれにまつわる地名も多いんだよ 有名なのはオクセンフルト(Ochsenfurt)だがたれはオックスフォード(Oxford)牛がわたる浅瀬だな、有名なイギリスの大学のあるところ、これと同じだよ、それからさ、シュヴァインフルト(Schweinfurt)これはブタがわたる浅瀬だよ、驚くなかれネコも川を渡っていたらしく、カッツェンフルト(Katzenfurt)まであるんだよ、日本でも河をわたるのには苦労したけどな、浅瀬がやっぱり大事だったな」

「ともかくさ大陸の河は大きいし長いから河が歴史を作ったということを頭に置くべき、そもそも川はriverだけどこれはもともとライバルという意味さ、川を挟んで競い合う民族がいた、河をはさんで歴史の興亡があったんだよ、河なしではヨ-ロッパの歴史も世界の歴史も語れんよ」

「ところでまたフランク王国は西フランクと東フランク王国に分裂したね、これはフランスとドイツになった、今の国の基を作ったのかな・・・・」

「そのあと神聖ロ-マ帝国とかまたロ-マがでてくるけどな、ロ-マはロ-マの道や遺跡がいたるところに残っているよ、ロ-マ それはヨ-ロッパ文明の基礎にある、ロ-マは偉大なりだ、ル-マニアもロ-マが元の名前だからな、ロ-マを語れば尽きないのがヨ-ロッパだよ」

「まあ、ヨ-ロッパはややこしい、国が二つになったらまた一つになりまた二つ三つと別れたりとさ、でもさヨ-ロッパはもとは同じ両親から生まれた兄弟のようなものかもしれんよ、だから争ってもまた仲良くなり一つになるんだよ、その先祖はロ-マになりフランク王国のカ-ル大帝になる、そこにかの玉座が残っている意味がある、フランスにとってもドイツにとってもそれは歴史の象徴になっている、日本は日本の天皇しかないけど、まあ、天皇は韓国から来たというから韓国とは兄弟かもしれんが仲が悪いな、言葉も全然違うからヨ-ロッパのようにはいかんな、・・・・・」
「ともかくア-ヘンのカ-ル大帝の玉座の歴史の重さを知るべきだかな、ヨ-ロッパの歴史の重さがそこに宿っているんだよ、フランスとドイツが今回は手を結びアメリカの要求を拒んでイラクに軍隊を派遣しなかったね、それも歴史のなせる業かな・・・ヨ-ロッパの歴史はまたキリスト教が治める社会でもあった、神聖とつくのはキリスト教により神聖だとなる、国の権威とキリスト教は深く結びついていたんだよ、キリスト教圏がヨ-ロッパともなっいるのがその証拠だ」

「ところでウクライナが二つに分裂しそうだけど、あそこもヨ-ロッパか?」
「うう・・欧米よりとロシアよりに別れるけど・・・これも大きなヨ-ロッパの歴史に入るのかな、ロシアという国はモンゴルが攻めてきたときできたとか、まだ新しい方なんだろう、ヨ-ロッパはそれよりずっと古いからな・・・・俺たちはもともとヨ-ロッパの国の一部だったとか、イスラムの国の一部だったとかなるのも歴史のなせる業だよ、日本じゃそうならないよ、俺たちはもともと韓国だった、日本の一部は韓国だということになるか、なかなかそうはならんよ、日本はず-と一つの国だったからね 言葉も全然違っている」
「これはポ-ランドの歴史が参考になるよ」

この国はタタ-ル人、リトアニア人、ドイツ人、プロイセン人などから絶え間ない攻撃にさらされた。マゾィア大公は異教徒のプロイセン人から国を守るためにチュ-トン騎士団に助けを求めた。しかしチュ-トン騎士団その王国をのっとってしまった。
やがてカシミ-ル大王は騎士団と和睦して大王の居所となったクラコウの街は大規模な貿易網の中心地となった。彼はポ-ランド最初のピアスト王朝の最後の王となってしまった。彼が死ぬと王座はハンガリ-のルイス一世の手にわたりついでその娘にゆずられ1368年、リトアニア大公に嫁がせた。彼はポ-ランド王もかねることになりここにリトアニアとボ-ランドは一つの王朝で結ばれた。

コサックはポ-ランドの地主に虐待されたのでツア-に忠誠を誓うようになりそれが原因で13年間にわたってロシアとポ-ランドは情けようしゃのない戦争がくりひろげられた。そのあと1655にスウエ-デンがせめてきて首都のワルシャワと国土の半分を制圧した。この戦争でチェスト修道院を守り抜いたことで戦局が変わりスウェ-デン人を追い払った。この修道院でポ-ランド人出身のロ-マ法王はポ-ランドの国の幸せを祈った。・・・・・(ヨ-ロッパ民族のモザイク-フロ-ラ・ルイス)


「ボ-ランドの歴史がウクライナを解く鍵にもなるな」
「チュ-トン騎士団ってなんなんだい、僧侶が武器をとって戦うのか、僧兵みたいなもんですかね」
「そういうもんかもれしん、修道院は祈りの場だけではなく防御の施設だったんだよ、金沢でも寺町はか寺を集めたところがあるけどしれも敵から守る防御のために作られた、あそこには寺のなかに殿様だけが祈ることができる部屋が高い所に作られた、ヨ-ロッパでも王様だけが特別祈ることができる場作られていた、王の階段とか今も教会に残っている、これも日本とちょっとにているようだけどな・・」
「城壁というけどあれは城となっているけど違うみたいだよ」
「城壁は単にウオ-ル、壁だよ、川岸の中世の古い街を守る厚い壁だよ、その中にトンネルがあり街に入れる、ヨ-ロッパの街は壁に守られているんだよ、修道院も砦なんだよ」
「リトアニアってソビエトだったけ、ソビエトがなくなりロシアになりロシアでもなくリトアニアなんだよな、小さな王国がまた復活したんだよ、一つになり二つ三つに分かれまた一つになるのがヨ-ロッパの歴史だよ、ロシアもソビエト時代、東ドイツを支配していたからな、ロシアもヨ-ロッパとかかわり興亡があったんだよ、ウクライナも半分がヨ-ロッパ寄りで半分がロシア寄りになるのもわかるだろう

河は流れて河は人々をさえぎりはばみ
河はまた上と下との国を結び
とうとうたる母なるドナウ河、父なるライン河
歴史は河によって育まれぬ
その川岸の城の古りしを・・・
教会の鐘の厳かに鳴りひびくを聞け
そしてその歴史に思いをはせよ
ヨ-ロッパは一つにして多岐、多岐にして一つなるを・・・
その結ぶものは何ぞ、父なる神への祈り、母なる大地の連なり
はるかに河は流れて上と下とを結びぬ


歴史はむずかしいがやはり何かを手がかりにするのが便利だ。非常に多様であるが地理に興味あればやはり歴史は地理であるというとき河を中心にして歴史を考えるのも手がかりである。ヨ-ロッパの歴史は複雑だけどヨ-ロッパに一面世界の歴史が集約されたところがある。だからヨ-ロッパの歴史を知らずして世界の歴史もわからないのである。その重層的多角的なところにヨ-ロッパの魅力があり、その一部でもわかれば連なる歴史の重みを知り現代につながるのである。石の遺跡がいたるところに残っているようにヨ-ロッパは常に歴史がよみがえってくる所なのだ。ヨ-ロッパの歴史の重みがそこにあるのだ。ともかく歴史がむずかしいのは一分野の話でないからである。総合的に見ないとわからないからだ。歴史の一部分だけを切り取ってもわからないし人間の営みの総体としてあるからむずかしいのだ。だから日常的な民話でも伝説でもそこには深い歴史の真実が埋もれているしそれも読み取れないものにはわからないのである。ただ現代は誰でも一回くらいは実地に歴史の現場を踏むことができるからかなり身近になっている。実地に現場を踏むことが歴史理解の第一歩なのだ。それができるということは日本人も世界の歴史を実地に学べるということで画期的な時代なのである。しかし歴史は教科書的にただやたらむずかしいのをよしとするべきではない、歴史へのアプロ-チはいろいろある。民話からでもできるし日常のささいな話や体験からも歴史を知ることができるのだ。歴史のアプロ-チは人によって多様なのである。

今回のNHKのドナウ川紀行は面白かった。しかしインタ-ネット時代、番組はそれだけで終わっていない、その感想などインタ-ネットで放送できるからそこからいくらでも話が波及してくるのだ。個々が放送局となるから解説者となるから番組の広がりは大きくなる。私が書いたこともそうでありこれを読んでああなるほど河に注目するべきかと思う人がでてくる、また別な人が何か経験などから語れば話は広がる。現実インタ-ネットでドイツのことは書かれていたから利用したのである。番組は今やNHKとか一局だけで作るものではなくなった。明らかに私も見ているだけでなく番組作りに参加しているのである。

ウクライナの歴史の要点

古代:ギリシャ系植民市
           ↓
      ボスフォラス王国(ローマ帝国の保護国)
      ↓         ↓
    西:東ローマ帝国勢力圏 東:スラブ諸族の流入
      ↓         ↓
    西:キエフ公国     東:ハザール・ハン国(トルコ系ユダヤ教)
      ↓         ↓
沿岸部:ジェノバ共和国の植民市 残りの大部分:キプチャクハン国(モンゴル系後にイスラム化)
      ↓         ↓
    西:ポーランド王国   東:クリム・ハン国(トルコの保護国)
      ↓         ↓
  西:ハプスブルク帝国(墺) 東:ロシア帝国
              ↓
           ソヴィエト連邦
              ↓
              現在 


◇Odessa
○(1)(Odes'ka Oblast)⇒おでっさしゅう(オデッサ州)
○(2)ウクライナ共和国南部、オデッサ州の州都。黒海に面す
る港湾・工業都市。
 北緯46.47°、東経30.73°の地。
 保養地としても有名で、ギリシア正教の大寺院がある。
 オデッサ・ブロディ石油パイプライン(the Odessa-Brody
oil pipeline)(全長674キロメートル)がリビフ州(L'vivs'ka
Oblast)のブロディまで通じている。

オデッセという港があるからあれは古代のギリシャの植民都市になったから名づけられたのか、ギリシャ政教があの辺からロシアには広まった。即座に歴史は複雑だからわからないけど要点だけでもわかると理解が違ってくるのだ。イスタンブ-ルからウクライナに入るんだという人がいた。ええ、ウクライナに行くのかと驚いた。2ちゃんほねるではウクライナに住んでいた人もいた。全くは今は日本人も国際的だ、2ちゃんねるでは要点だけ知るのに向いている。



貨幣に支配される世界

●貨幣と国の価値

アメリカのイラク攻撃により、サダムフセインの隠れ家から多額の米ドル札が発見され、その一部を米兵が隠して本国に持ち込もうとして捕まりました。サダムフセイン自身も本人が印刷されたイラク紙幣より、米ドル札を信用していた。

北朝鮮の金正日もさぞかし米ドル札を溜め込んでいることだろう。金正日はドル札以外にも金の延べ棒も溜め込んでいる。国家の独裁者すら自国の紙幣を信用しなくなったら、その国家は終わっているということだ。

北朝鮮の万景峰号には日本の札束が段ボール箱に詰められて送られていたという。つまり金の延べ棒より、日本の紙幣のほうが価値があり使い勝手が良いからだ。つまり紙幣とはその国の経済力や信用度のバロメーターなのだ


●貨幣の起源は兵士への給料の支払いのため

ギリシアの歴史家、ヘロドトスは、BC670年頃、アナトリアにあったリュディアの王ギュゲスが、最初のコインをつくったと書き残している。材質はエレクトロン、自然にできた金と銀の合金である。なぜギュゲスは、歴史で初めて貴金属をコインとして鋳造したのか。ギュゲスは傭兵をエジプト王へ供給して、当時迫り来るアッシリアの脅威に対抗していた。この歴史から、マネ−がコインの形を取った経緯は、戦争が終わった後、血の気が多く、危険極まりない傭兵に対して、できるだ効率よく支払いを済ませるためとする説が有力となる。
「マネ−文明の経済学」 関岡正弘

貨幣というのは実際何なのかこれも謎なのだ。貨幣が作られたのは最初に兵隊にそれも外国の傭兵に支給するためだったというのは戦争も金なくしてはできない、戦争と貨幣は密接に結びついていた。NHKのロ-マ帝国滅亡の原因を見たがスコットランドの境界の軍団跡には中心にロ-マ皇帝の像があったのはわかるがその後ろ貨幣を収める部屋があったのだ。ロ-マ帝国では貨幣が大きな力をもっていた。貨幣が金が守護神にもなっていたのだ。ロ-マでは財政が逼迫して兵士に十分な金が支払われなくなりそれも衰亡の原因となった。中央の力が弱ってくると自ら皇帝になろうとした有力者がでてきた。それは自らの像を刻ませた貨幣を作っていたのだ。ロ-マの皇帝の力が弱まることはその貨幣の信用もなくなっていくことになる。貨幣と国の力は密接に関係がある。これほどドルが世界で通用するのはアメリカの力が絶大であり信用されているからだ。それはやはり軍事力が大きいのである。ドルでもっていれば安心だということがある。でもドル安になり不安になると今度はユ-ロ-で持つべきだとなる。国の信用が貨幣の価値を決める。貨幣そのものもに価値があるわけではない、黄金には確かに金そのものもに価値があった。だから貨幣になっても黄金としての価値そのものは保つことができた。でも貨幣は全部金にすることはできない、だから最終的には信用だけの紙幣とか為替とか紙だけになったのである。この紙は紙幣や為替は信用を保証するものでありもし保証するものがなくなれば何の価値もなくなる。紙幣そのものよりその国のもっている価値がその国の貨幣の価値を決めるのだ。ロ-マは軍事力で巨大な帝国を作り上げた。それだけの帝国を作り上げたから支配できたからロ-マの貨幣には価値があったのである。アメリカもロ-マとにているのだ。

●藩札について(江戸時代の信用)

これは信義の問題だ。藩札を発行する時に、これをもっ て来ればかならず正貨に換えると約束したのだ。その約束を破り続けたから結局、藩札の信用がなくなってしまった のだ。正貨はなんとしてでも私が集めるから、お前たちは とにかく旧藩札を全部引き上げろ。  

山田様はこのお国にとって大切な方だ。いま山田様にも しもの事があったら、困るのはわれわれだ。どうだろう。 交換していただいた正貨を山田様に差し出して、お城のお 役に立てていただこうではないか。

これは何を意味しているのか、藩札は貨幣はその紙に信用があるのではなく人に対する信用と信頼だった。特定の個人の山田様を信用して信頼した結果、藩札、貨幣が信頼されるようになった。江戸時代というのは狭い社会だから人を信頼することで社会改革ができたのである。今日のような巨大社会になると何を信用していいかわからない、小泉首相を信用しろとなるが小泉首相を信用するだろうか、民主主義では力あるのは議員ではない、議員は民衆に多数に選ばれた人であるが別にこのようにその人を深く信頼して選んだわけでもないのだ。様々な組織、団体がかかわり権力構造の中で選ばれたのである。今日では人を信頼するということは成り立たない、人が見えない社会なのだ。制度とか団体とか組織とかマスコミとかに動かされる社会なのである。山田様とか特定の人を信頼して貨幣の信頼が取り戻せるような社会ではないのだ。外国とも関係しているから個人の力を超えた目に見えない巨大なものによって動かされているからユダヤ人陰謀説とかいろいろ背後のものがとりざたされるのである。

●貨幣に支配される世界

いづれにしろ貨幣にまつわる話が多いのはそれが人間の欲と密接にからんでいるからだ。現代ほど金によってすべてが得られると思われるほど金の力が増したことはない、それは世界的なものへと欲望が拡大化したからである。トルコのエフェス遺跡に行ったときそこから発掘されたロ-マのコインだから買いと言われて買った。なぜかというとあれだけの遺跡があるのだからコインがでてきても不思議ではないと思ったのだ。でもそれは偽のコインだった。これはよくある手だったのである。博物館のコインが盗まれるというので閉鎖していた。何か貨幣の魔力とはこれとにている。壮大なロ-マの遺跡が現存している、あれだけのものが残っていればコインもその辺を掘れば簡単にでてくると錯覚しても不思議ではないのだ。本物に思わせる本物のの舞台装置が現実に残っているからそうなるのだ。「これはロ-マのコインですよ」と当時異民族に見せたらその異民族すらロ-マの貨幣をほしがるし現実ワイロとして壺一杯のロ-マの貨幣が異民族に贈られていたのだ。カエサルのものはカエサルにというほどロ-マの貨幣は絶大な力を持って流通していたのである。

日本でも「お宝発見」で農家の蔵の下から壺に入った小判や古い江戸時代の貨幣がでてきた。それは80万の値がついたからそれなりのものだった。しかし当時それを使った方が価値があった。貨幣は骨董品となってもそれ自体はもはや経済的価値はない、骨董品としての価値と現実の経済で活用される価値とは違う、その当時この貨幣を有効に使っていたらもっと使用価値があったのだ。今すべての人が金のために働いている。金に追われ日々金、金、金である。では金そのものもに価値はなく、金で得られるものを求めて働いているのだ。働く目的は金ではなく金で得られるものである。年とるとなぜあんなに金のために働いていたのか今ふりかえってみたら自分の得たものはなんなんだ、みんな煙と消えた、なんにも得られなかった、つまらないものを得ようとしてあくせくして馬鹿見たともなる。人間と金が切り離せないのは人間の欲の象徴が金になっているからである。老人になれば一番価値あったのは青春というときでありそれはもはやいくら金を積んでも帰ってこない、永遠に帰ってこない、青春の時はそれは例え貧乏でも一番価値あるものだったのである。

ともかく世界のドル支配からユ-ロ-が対抗してでてきたようにこれは経済のアメリカ支配から脱することでありいいことである。ドイツとフランスがイラクの戦争に反対したのもEUというバックができたためである。現代のグロ-バル化は本質は経済戦争であり経済支配である。経済的に対抗できないとアメリカだけが力を持つことになる。これも貨幣が戦争する兵士へのそれも外国人の傭兵に払うために発明されたというのも戦争は経済の裏打ちがなくてはできないのでありこれは遠い古代と共通しているのだ。経済力がなくなればアメリカも戦争ができなくなる、最近のドル安は戦争を継続できなくなる徴候でもあるのだ。それにしても面白かったのはロ-マの力が弱まったとき、各地で皇帝になろうとした人がいた。そして実際に貨幣に自分の像を刻ませ皇帝として君臨しようとしたことである。つまり経済の支配と政治の支配は一致していた。貨幣はまさに支配するための大きな道具であったのだ。ドルには歴代の大統領の像がすられている。それはロ-マの歴代の皇帝の像とにている。今はブッシュの像がドルにすられている。また遊牧民が都市民に貨幣で支配されたように貨幣は人を支配する道具なのだ。一面貨幣にはサタンの像が刻まれているのだ。この世のものは貨幣が金があれば得られますよと錯覚を生みだしている。

「株式日記」の著作権問題
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/

このサイトの不思議は半分が引用なのである。でもそれなりの主張となっている。著作権でもめてもいる。インタ-ネットでのコピ-が簡単だからコピ-が多くなるのだ。半分がコピ-だとなると問題になるかもしれないがあれもまた独自の主張なのである。主張というより編集して自らの意向により構成したのである。自分の意向にそって編集したのである。なぜそういうことが現れたのかというと個人で編集したり企画したりすることはできなかった。それは出版社でやっていたのである。ところがインタ-ネットでは個人でも出版社のように企画できることなのだ。単に自分のものを主張するだけでなく何かを企画できるのだ。これがまたすごいことなのである。企画し編集するということも一つの創造的表現なのである。合成写真とか合成文章とかが多くなるのがこの世界なのである。それが単なるまねなのかとなるとそうでもないのだ。読む人にとってはある意向にそってまとめてあるからわかりやすくなるのだ。あれも新しいインタ-ネット的表現なのである。インタ-ネットは多様であるがこれは明らかに編集されないと意味がないし理解されなく埋もれる。というのは数が多いから弱小のサイトは大きなサイト、有力なサイトに編集されると生きてくる。結局とてもあらゆるホ-ムペ-ジを読むことはできないからそれを紹介したり編集したりする人が必要なのである。そこで問題になっているのが著作権なのである。インタ-ネット時代の著作権はゆるくしないと利用すらできなくなる。出版社のように資金もないしいちいち著作者に許可とるのもむずかしい。どこの誰かわからない無名の人に著作者がいちいち対応などしてくれないし著作権の許諾を得られないのだ。だからもっと個人にも著作権を解放するべきなのである。



ロ-マ史の一断面(ダキア-ル-マニア-ロ-マの辺境のこと)
-NHKの放送より


歴史は多様でありすべてを理解することは不可能である。それでも歴史を身近に感じるときがそれぞれにあり別に王様でなくても皇帝でなくても今の生活の平凡人にも通じる所があるのだ。NHKのロ-マ帝国衰亡の原因としてスコットランドのハドリヌアスの城壁というのがあるが強力なロ-マ兵が逃亡していた記録がかなりでてきた。その理由が結婚して家族をもった結果、ゲルマンなど異民族が流入してきたロ-マの辺境の最前線、ダキアに派遣されるのをいやがり逃亡したという、女性は定着することを男性に要求する。常に側にいてもらいたい、家族は誰でも一緒に生活したいのである。軍団跡から女性が使ったものがかなり発見されている。つまり戦争と女性の生活は合わないのだ。男は戦争しても女性は戦争をしたくないのである。そして戦争の犠牲に泣くのは女性なのだ。これが戦争のことばかりかと思っていると違う、例えは単身赴任を嫌って退職した人までいるように家族を持つと遠方で働くのは嫌になる。それがロ-マ時代は二度と家族の元に帰ってこられなくなるのだから深酷だった。

「ダキア行きを命じる」
「ダキアには行きたくありません」
「報酬もあがるし出世もできるぞ」
「家族とともに暮らしたいのです」
「命令に逆らえば死刑だぞ」
「・・・・・・・・・」
「逃亡しかない・・・・」

こうして現代と通じてくると歴史が身近に感じられて我がごとのように感じられる。歴史は教科書的に勉強していたら面白くなくなる。不思議に日本でのあれだけの大きな戦争について身近に感じられないというのも不思議である。研究する気持ちももてないでロ-マ時代の歴史に興味を持つ不思議である。これだけ興味を持つということは時代にかからわず歴史が身近なものとなっているのだ。

その語源は古フランス語の”ダグ(dague)”に由来し、中世ラテン語の”ダグア(dagua)”そしてラテン語の”ダカエネシス(DACAENESIS)”にさかのぼることが出来ます”ダカエネシス(DACAENESIS)”の”ダカ(DACA)”とはダキアの事で”エネシス(ENESISI)”とは”…人の”と言う意味です
このことからダガーとはダキア人の刀剣という意味があると考えられます
ダキア人は、サルマティアと同盟関係にあり、そのために彼らの優れた武器を受け継いでいたと考えられます
つまり、サルマティア式と呼ばれる真っ直ぐで、長短様々な種類の刀剣が彼らの間にも存在したと言うことです


武器庫
http://www.ncn-t.net/ridwarn/tanken.html

剣は単なる武器以上のものだった。それは兵士として優れていることの象徴でもあり、男が常に身につけているべきものだった。剣は武器専門の鍛冶工によって造られ、広くその名が知られていた。そして高名な剣には名がつけられ、その刃はエッチングで加工され、柄は金細工で飾られ、父から息子へと伝えられた。(ゲルマン民族-二つの魂-S.フィシャ-=ファビアン

これは日本の古代史や戦国時代や刀の話は共通している。埼玉の古墳から発見された古代の稲荷山鉄剣銘などはその最たるものである。騎馬民族の系統はゲルマンまで広がりがあった。高麗剣などもこった装飾をしたものだった。ダキア人が使っていた刀剣だからダキアの剣となった。高麗人が使っていたから高麗剣となったともいえる。ダキアと強力な武器をもっていたのでロ-マ兵に頑強に抵抗できた。ロ-マ軍はここにかなりの軍団を投入したがついに敗れこれが契機でゲルマン人のロ-マへの侵入を許すことになった。ここが重要な異民族との興亡の地点であったのだ。つまり最前線だったわけである。必ず戦争ではそうした最前線が生まれる。イラク戦争ではファ-ルジャがそうであった。雌雄を決する最前線が生まれる。それがダキアであり今のル-マニアだった。このル-マニアはロ-マから来たと言われる。最初の建国がロ-マとかかわっていた。その言葉にラテン語が残っているというのもそのためである。ここまでがロ-マの影響力のあったところ、ロ-マの辺境だった。オ-ストリア(osterreich)も東の辺境という意味だった。

ともかくヨ-ロッパの歴史はやはり一番興味がもてる。NHKドナウ川の中継は面白かった。ドナウ川そいには8つの国が国境となっているというのもいかに河が国境になっていたかわかる。河の働きは大きいのだ。これも日本ではわからない、実感できない世界なのだ。ウクライナがもめているのはドニエプル川を挟んで実際はロシア寄りとヨ-ロッパ寄りに二つ分かれていたのである。川が文字通り文化や歴史の境界線だったのだ。日本人はあのように大きな川のもっている意味がわからない、川は神秘的でもある。川に沿ってゆくとそこに厚い城壁、市壁がある。その厚い壁をくぐってゆくとまるで隠されたように中世の町があった。その通りにメルヘンチックな看板がかかげられているのは文字が読めない人にもわかるためだったといいうとか何かこれはやはり船で桃源郷を発見した物語とにていて興味深いものだった。川を上り下るということは今になればそれは神秘的なことなのだ。これが自動車で行ったらつまらないだろう、汽車でも川を船で行きそこに到達するのとは全然違った感じになるのだ。ともかくある一地点でもいいからそこの歴史がわかると全然違ったものにその場所が見えてくる。どんな所でも辺鄙な所さえ長い物語があるしそれはまだ語られていないのだ。ともかく歴史を身近に感じるということは個々に違っている。日本人がヨ-ロッパを語るとき違ってくるし、それぞれの国の立場でも違ってくるのだ。アメリカはロ-マ帝国の再来だというときそういうふうにアメリカ人は結びつけて解釈するのも歴史なのだ。ロ-マ人が訴訟好きだったというのもアメリカとにている。ともかく歴史の解釈は多様であり一つの見方はありえない、個々により国により多様な見方があるしそれが歴史なのである。