時事問題の深層19
時事問題もありますがその時々の私的な日記です
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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一

私の研究メモ


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地域貨幣の意味するもの 8月26日

京都の景観問題など(1) 8月28日

京都の景観保存問題(町屋の保存)(2) 8月29日

オリンピックをだいなしにした男(男子マラソンの乱入者) 8月30日

メデアによって変わる社会(ラジオからテレビへ) 9月1日

浅間山噴火(情報収集) 9月2日

場所と事件の深い関係(ロシア人質事件はなぜ))9月6日

新市名は雲雀野市と雄琴の由来など 9月7日

江戸と農村は密接な関係 9月8日

読書の秋(小林秀雄を読み直す) -恨みの歴史 9月9日

インタ-ネットにはタコの頭が必要だ 9月10日



地域貨幣の意味するもの

最近地域通貨の試みが各地で成されている。まだ実験的段階だがこれも世界のグロ-バル化のカウンタ-貨幣として抵抗として生まれた。そもそも貨幣というのは何なのかわからないのだ。どう考えても貨幣というのは今のように盛んに流通したものではない、貝が貨幣になったというが貝が貨幣の漢字の基としても貝にそんなに価値があるのかとなればない、それはただ珍しいから珍しいものを集めて財にしたにすぎない、今日の貨幣とはまるで違っていたし貨幣の役割は果たしていない、貨幣は古代でも確かに古くから使われていたが本当に貨幣の役割を果たしたのはかなり遅い、中世の後半からとかともかく今日の貨幣の感覚で考えるとかなり違ったものであることに驚くだろう。貨幣の要素にはいろいろあるから記念貨幣としてロ-マであれば新しい皇帝が即位すれば記念にコイン作るとか記念的なものが多くこれは広範囲に今日のように流通したとは思えない、貨幣ではなく交換するのは貝があったように様々なものがあったのだ。だから貨幣というのは実に種類が多い、ある貨幣で今日のようにあらゆるものが買えるということはなかった。貨幣は物々交換の物のようになっていた。

つまり今日グロ−バリゼ-ションで通用する貨幣とはかなり違っていた。ドルが世界の果てまで通じるという世界はなかったのだ。それが現実的に通じる、ドルがこれほどの力を持つこと自体ありえない世界だった。アメリカがドルによって現実的に世界を支配していることはまぎれもない事実だしこういうことはかつて世界史になかったのである。貨幣がこれほど通用することはありえなかった。ポランニ-の言おうとしていることは貨幣はその土地土地の国の共同体内でしか本質的に通用しないものだったのだ。その共同体を離れて貨幣が通用するのは例えば戦争とかして敵を征服し属国にしたときその貨幣は通じる。それは暴力であり略奪的な行為による。大陸では絶えずそうした戦争の結果、奴隷が生まれた。奴隷は貨幣で売り買いされた。貨幣の力は人間を支配する力であり力あるものが貨幣を作り支配の道具とする。だから貨幣で奴隷を買うことができるのは戦争で属国とされたからそうなる。

「貿」という字の「貝」は通貨を表し、「卯」は交換するという意を表している。
これから、宝を「無理」に交換するという意味をもつ。「易」はやさしいという
意味であるから思いやりを持った交換ということになる


貿易はそもそも特に外国との貿易は戦争の侵略に始まり略奪だった。貿易の貿は暴力の暴でもあり武力による略奪が貿易の起源だった。だから今日でも貿易はそういう性格を備えている。
海外で5ドルで少女を買春に行く日本や欧米や金持ちの中高年はまさにこれそれを実行しているのだ。人間を暴力的に奴隷化できるし外国になると罪悪の観念が低下する。自分の国とか共同体内でできないことが外国ではできる。国と国の戦争で常に悲惨なことが起きるのはそのためである。異民族の戦争では信じられない暴力が行われる。同じ国内なら共同体なら道徳が通用するが外国になると道徳が通用しなくなる。確かに文明は一見平和的にグロ-バル化したように見える。でも実際は暴力的に世界が支配されている。現代ではアメリカの軍事力が世界を支配しているからドルが世界の貨幣になっている。世界にこれほど現実的に通用する貨幣はなかったのである。貨幣はミクロ的にしか通用しなかった。だから今でも中近東とかアジアとか物の値段は一致していない、標準がないからその場で値切りあいで決まる。値段はあってないようなものである。定価は存在しないのだ。その時々や場によってきまる。だから外国を旅行するとわかりにくいのだ。

でも実際はそうしたミクロ的値段の決めかたは今や過去のものなのだ。マクロ的に貨幣の価値は為替の変動で決まってくる。それは如実に国の力を示している。貨幣の力を見ればその国の力がわかる。現代で通用する世界的金はドルとかユ-ロ-とか円である。円はしかしこれから通用するかどうかわからない。貨幣の重みがこんなに増した時代はない、ドルがあれば世界のどこでも物を買うことができるし通じるのだ。貨幣によって世界を支配できるのが現代なのだ。だからマルクスが貨幣論から資本論を書き始めたのはそのためだろう。貨幣による物神化とかである。ポランニ-の言う、人間的経済学とはまるで違った世界が現代なのである。世界的に貨幣による非常さが貫かれている世界でありそこに貿易の易であるやさしさなどはいりこむ余地がないのだ。貨幣に情などない、それが一番良く示しているのが5ドルで少女を買うということに示されている。貨幣で奴隷を買ったことと同じでありそこには非情さしかないのである。それが公然として商行為として行われることが許されるのが非情の経済支配、貿易の実体なのであり当然そこにはテロを生む温床を作ることになる。グロ−バリゼ-ションは性急になると共同体を根こそぎ破壊する。特に大規模な機械化による例として沿海の魚が大量に大きな船でとられて沿海の漁民が食えなくなるというようなことが起こる。機械化もそれを使うものにとってはいいが使えないものにとっては大きな暴力の道具となるのだ。

もう一つ貨幣は都市から生まれたものであるということ、都市の前進が市場とするとそこにどうしても貨幣を必要とした。交換の便宜的なものとして貨幣を必要とした。だからそれは貝でもよかったのである。都市には様々なものが集まりそこに貨幣が作られる。そして砂漠の住民や田舎では農産物とか家畜を売る、都市はその貨幣でもって支配する。その例がなぜ九州の先端のような所から大阪の市場までトラック運転手が必死で野菜を市場に運ばねばならないのか?それは都市の住民が要求するからであり貨幣の力がそうするのである。これによっても貨幣が都市のものであることがわかる。都市が貨幣の力によって田舎を奴隷化する。これは毛沢東が「農村が都市を包囲する」という思想を打ち出したのはそういう矛盾を感じていたからだ。でも結局これは失敗に終わった。そして逆に都市が農村を包囲するとなっているのも皮肉であり農村はやはり貨幣の力によって都市の奴隷、召使になっているのだ。それくらいの所得の差があるからだ。貨幣というのはやはり力あるものが力ないものを支配する道具だということがわかる。つまりマルクス主義者ではないがマルクスは一面人間社会を見抜いていた所があった。ただそれが結局失敗に終わったのはマルクス主義者自体実際は都会の知識人が多かったし知識人はみんな都会人だったからである。権力を求めるものはみんな都会人になるからだ。

中国の古い貨幣も都市から生まれていた、都市の名前が貨幣にあった
http://www.bekkoame.ne.jp/i/ge6128/hjj.html

地域通貨とはこたうした貨幣の支配する力に抵抗する試みとして成された。ポランニ-の人間の経済学の実行である。都市の支配、グロ−バリゼ-ションの世界への抵抗としての通貨である。ただこれは実験的なものであり何を意味しているのか良くわからない段階である。でも田舎に暮らしていると農民ではないのだが農民的になってくる。都会にいれば野菜や果物でもそれは本当にどこでどうして作られたものなのかさえわからない、なんか工場の製品のように作られているのではないか、自然というものがそこにはかかわってできているという実感がない、畑を見て日が照りつけて赤くトマトが実っている、それはいかにもうまそうである。天然のトマトである。しかし日頃食っているトマトは本当に天然のトマトなのかハウスで工場で作られたトマトなのではないか、実際野菜は工場化して作ることもできるらしい、しかしそれは天然のトマトではない、だから今年のトマトはうまく感じられなかった。鮎でも岩魚でも鰻でも温泉でも天然のものがまれなように人間は自然から離れた存在になっている。大地があり太陽の光があって作物も育つという感覚すら奪われているのだ。

一体九州の果てから大阪までその日のセリに間に合わせるために野菜を必死に運んでくること自体異常なことである。それはまさに都市民によって田舎民が奴隷化されているのだ。都会人と田舎人の対立がこれから先鋭化してくるかもしれない、田舎とは自然と切り離されず一体化してある世界である。それは別に作物を直接作らなくても自然との調和が自ずと計られる。都会には本来人間的生活はありえない、特に現代ではありえない、田舎こそ本来人間が生きる場所であり田舎が根にならなければ調和はないのだ。それが逆になることはおかしいのである。都会と田舎の関係の歪みはやはり文明化が原因である。江戸時代とかの百万都市の江戸ですら自然と調和した都市であり回りは田舎であり自然がふんだんにあり自然と結びついていた。練馬大根が有名になっているがそれは江戸のすぐ近くから供給されたのであり九州の果てからその日の内に運ばれるのとは違う、京都ですら大きな田舎のなかに町があったのであり田舎は身近にあったのだから今の肥大化した都会とは全然違うから今の都会は異常なのだ。都会優先にするとますますこの文明社会は歪がみを増すこと間違いないのだ。




京都の景観問題など(1)

●京都駅が中心と思う錯覚


京都というとまず京都駅から入る。ところがこの京都駅は昔は七条ステ-ションと呼ばれ煉瓦作りだった。

だいたい、京都みたいなふるい町に
駅が出来るのは確実にあとからだよな
駅が出来るくらい広い土地を確保するには
当時どういう方法だったかといえば
そこの土地の性質がわかるんじゃない?


七条とは御所を中心にして一条から始まり九条まで平安京の条坊になっている。七条には西市と東市があった。市場たったところである。御所を中心としてそこは平安京で言えばはずれだった。京都の人は京都駅の近辺は京都の中心地という意識はない、ところが外から入る人は京都駅から入るのだからそこが玄関になり中心地に思えるのだ。これも鉄道による、交通による錯覚なのだ。ちょうど飛行機で入ったからといって飛行場がその街の中心地でないと同じなのだがそういう錯覚を交通は生むのである。鉄道駅はたいがい古い町の中心地より離れて作られた。萩駅などもひなびた昔の駅として文化財として残されているが街の中心部からは離れている今では不便な場所である。あとからできた東萩駅が中心部に近いのである。鉄道そのものが敬遠された所もある。1886年(明治19)3月、宇都宮〜白河間工事開始する。最初は阿武隈川に沿って、宮城県に達する計画であったが、信夫郡・伊達郡の桑園がSLのばい煙で全滅するとの農民の反対で、やもなく路線を変更し、貝田経由で白石川筋になった。

同じ町の中でも甲州街道から離れたところ(山の方:ちょっと失礼かな)にすんでいる方々はちょっと不便ですが。(駅まで遠いので)また、時々台風や大雪で“陸の孤島”となってしまいます。この街の特徴は、その昔織物の街であった頃、その原料となる“蚕”の餌である桑の葉が、蒸気機関車の出す煙でダメージを受ける・・と言う理由から、JR(当時は当然国鉄)の駅がとんでもないところへ追いやられました

こういう所が各地にあった。蚕はおかいこ様と言われ日本の主要産業だったからだ。鉄道は最初どこでも歓迎されたわけではなかった。ともかく交通というのは錯覚をうむ。これが江戸時代に東海道を歩いて来たならそうはならない、東海道を歩いて来たら三条大橋で東海道は終わりこの橋を渡れば京都に入るということになっていた。勤皇の志士・高山彦九郎が御所に向って跪き礼拝した像がある。ここからはかなり御所に近いのだ。三条大橋まで来ないとまだ京都に入ったことになっていなかった。そうした感覚が鉄道によって奪われたのだ。もちろん東海道を旅する感覚なども完全に奪われた。新幹線で京都に来たら京都まで来た、天皇のあらせられる御所がありがたいという感覚など起こらないのだ。鉄道では歴史的感覚は育まれないのだ。

三条大橋の逸話として蓮月の

短冊には「
あだみかた かつもまくるも 哀れなり 同じ御国の人とおもへば」、としたためてあり、繰り返し口ずさんだ、南洲は「よく分かりました、必ずよいよう、に取り計らいますから安心してお帰りなさい、私は西郷吉之助でごわす」と。

三条大橋は京都の御所への入り口でありこうした逸話が生まれるのにふさわしい場所だった。現代は地理的感覚と歴史が乖離するのである。地理が歴史であるとするとき飛行機で一気に外国に行ったりすると歴史を偲ぶことがむずかしくなる。途中がはぶかれるからだ。ともかく駅はその街の顔であり玄関だから意外と大事なのだ。その門構えからその街の第一印象を決める場合がある。
ドイツのフランクフルトのバンホ-フ(駅)は荘厳ですらあった。駅まであんなに歴史的建造物にしているのである。

春の月円く京都の駅に着く(自作)

三条四条五条大橋や燕来る(自作)

京都平安京地図
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html





京都の町屋保存の問題(2)

2ちゃんねるの町屋の保存で面白かったのはそこに住んでいる人と外部からの観光客との違いが大きいことである。町屋というのは住む人にとってはかなり住みにくい場所だった。特に現代生活では不便になった。そもそも日本は木造だから残すのがむずかしいのだ。そしてはっと思ったのはインタ-ネット特有の情報の伝えかた感じかたである。2ちゃんねるは評判が悪いのだがインタ-ネットではあのうよな即時性の利便的なソフトを開発したことがあれほどヒットしたのだ。パソコンはソフトがかなり大事である。使いやすくないとやる気もなくなるのだ。またインタ-ネットの情報の伝えかたはかなり違うし感じかたも違う、今までの本を読むとか新聞を読むとかテレコを見るのとも違うのだ。一瞬はっと思ったのは「
何故なら中心部は蛤御門の変が元の火事で燃えてしまった」とでてきたときええ、これで町家もかなり燃えたのか?これは大変な事件だった。京都の町家までかなりも燃えてしまった。私はこれを知っていても一部の侍や公家だけの争いであり被害もそこだけだと思っていたのだ。江戸でも大火はあってひどかった。京都でもやはり大火があった、それもこうした権力争いによって京都の街が火の海になった。都会はやはり自然でも人事でも大きな災害に見舞われやすい、ただ今までの情報の伝えかたではリアルに感じなかったのである。

インタ-ネットの伝えかたはその地域のことがリアルに今までより感じることがある。そこに住んでいる人の直接の発言でそうなる。より生々しいものとなるのだ。そこがインタ-ネットの情報の相違である。情報の伝わりかたにより社会がかわることがありうるのだ。会津が遅れをとったのは情報の伝わりかたである。情報は伝えられていたといってもその情報の伝わりかたが違っていた。もし電話がありインタ-ネットがあったら全然違った情報の受けとりかたをしていたからだ。メデアによって変わる社会があるのだ。だからインタ-ネットに乗り遅れると時代から取り残されることもありうる。特に規制のメデアはそうなるかもしれない、その危機感がまだないのだ。だから2ちゃんねるなんか馬鹿らしいと規制のメデアでも突き放すのではなく批判したり自分たちの脅威と感じるようになっているのだ。

また町屋は江戸時代のものと思っていたがこれもたいがい明治以降でありそれすら少なく新しいのである。喜多方の蔵でも誤解していたように日本では江戸時代のものが残っているのは極めてまれである。城すら江戸時代のものは四っつくらいしか残っていない、あとは再建されたのだ。本当に木で作られたものは残りにくいのだ。


災害時には一旦全部壊して同じ家を同じ場所に建てる、建て易さを前提に
耐久性をあまり考慮していない日本家屋を残そう、という事自体が無謀かと。


んだな。昔は火事が頻繁にあったからな
建具が多いのも立て替えの時に再利用するから
と聞いた。昔はもっとサイクルが早かったんだろう。
今残ってる町家は昭和初期タイプでもう80年か。もう十分だろう。


古くて明治。大正、昭和初期がほとんど。
何故なら中心部は蛤御門の変が元の火事で
燃えてしまった。町家って以外と新しいんですよ。



日本では火事は大きな問題だった。だから江戸では大火で何度も焼けた。しかし長屋住まいの人は家財道具もないし逃げればいいだけど火事による損失はないからそんなに気にしていなかった。かえって火事によって焼けてまた家が建つので木材の需要が高まり建築ラッシュで景気が良くなったというから不思議である。「火事と喧嘩は江戸の花」とかいうのもそのためだった。日本ではやはり大火がどこでもあった。一気に風で燃え広がるからだ。



京都市民は観光で食っているという意識はない。
観光客が来ても大渋滞して迷惑と思ってすらいる。
(特に桜と紅葉のシーズンは殺人的、仕事や日常生活にも影響する)

観光でもうけてるのは坊主と土産物屋と観光旅館、そういうのは
古い住人の住み処である町家とは何の関係もない。

ああ、あと京都は住民サービスは最悪の部類に入ると思う。
観光で市民が幸せになっているという実感がまったくない。



京都に住んでいる人にはかなりこうした意識がある。沖縄でも観光に従事している人が言っていたが観光にかかわらないものは観光に無関心だという。それで漁師がダイバ-によって漁場を荒らされたと訴訟を起こしている島もある。ただ沖縄は観光にしめる割合が大きいから京都とは違うと言っていた。電子産業などもある。観光業にたずさわるものとその利益を受けないものでは考え方が違ってくる。京都では観光客は迷惑だと考える人がかなり多いことに驚いた。
だから観光業の坊主に対すると反感があったことには驚く。京都人自体坊主をあまり良く思っていない、尊敬していない現実である。


>寺の坊主は観光収入があるから遊び放題

一番遊んでいるのは、地方の大きなお寺の息子で本山に来ているお坊さんです。
地元に帰るまでの数年間、遊びたくっています、豪華宿舎のガレージには
地方ナンバーのベンツ、BMWはもちろんポルシェ、フェラーリと展示場の様に
並んでいます。
 祇園のお姉さま方も、雨が降ったりしてお客さんが少ないとこの人たちにメールや TELして来てもらってます。本山も給料の数倍上納するので、見て見ぬふりです


これなんかも生々しい話しである。観光僧侶、檀家僧侶とかこれも相当な堕落だしもはや戒名商売とかであり葬式屋と変わらないから葬式屋的なものになった寺もある。すべてではないにしろ日本の宗教界は宗教じゃない、宗教商売でありすべてビジネスになっているのだ。「死者がでたらもうかりまっせ」となるとこれには誰も怒りを覚えるはずだがそれがないのが不思議だ。信長のような憎悪も異常だが坊主に対する憎悪がありそれが異常な憎悪だけではなかったのである。こんなものがどうして宗教なのか、宗教なんかいらないとなってしまうのもわかるのである。

京都には百万人もいるのだから観光だけではない、様々な人がいる。昔は職人の町だった。公家の町だった。驚いたのは在日朝鮮人が鴨川に住んでいた。「河原物(かわらもの」がまだ存在した驚きだ。この河原物から有名な歌舞伎役者もでた。京都というところは様々な人間が住んでいたし今も住んでいる。そうした人間の縮図みたいになっているところが面白いのだ。今でも中国から帰ってきた船では中国との貿易にたずさわって中国語がぺらぺらの人とかアルジェリアまで行って石油をとる事業にかかわる人とか今では外国人も多くなっている。都会は人間が多様なのである。河原物(かわらもの)という存在もその人間の多様性と存在した。だから文学がそこから生まれたのである。私のような田舎に住んでいるとこうした人間の多様性に接することがないから人間の多様性から学ぶということが少ないのである。だから京都は昔があり今があり面白い場所なのだ。
京の街商人宿の暑さかな」というように商人の出入りも多かった。町屋にしても昔にこだわらずまた新しいものとすることも悪いとはいえないし時代の流れともいえる。ただ京都から昔がなくなったら魅力ないし観光客も激減することは確かである。

都草何か新しきものいでよ

都草は京都に一杯咲いていたから都草となったというのは嘘だろう。京都にだけ一杯咲く花などありえない、むしろ田舎に野草は多いのだから誰かが都草と名づけたのだ。この名はこの花にぴったりである。何か新しいものを作り出す所、それが都である。それが京都にはあった。京都のいい点はまだ自然があることなのだ。東京に全く自然がない、その相違は大きいのである。

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1093491523/



オリンピックをだいなしにした男(男子マラソン乱入者はなぜ)

男子マラソンを見ていてトップのランナ-を押し出した乱入者には驚いた。あれでレ-スがだいなしになった。あんなことがオリンピックでありうるのか唖然とした。最後を飾るレ-スだけになんかオリンピック自体がだいなしにされた感じになった。それほどあのレ-スは効果的なオリンピックを否定する思想的行動でなかったのかとさえ思った。単なる変質者とかではない、オリンピックとかF1の自動車レ-スにも乱入したから思想的背景があったのかとも思った。キチガイとか愉快犯とかではない何かオリンピックか何かを妨害する意図があってやったのか?それほど効果的だったのだ。あれで試合がだめにされてしらけてしまったからだ。レ-スそのものさえ成り立たないものにしてしまった。それほどの効果があったことに驚く、世界中の人が見ているなかであれは効果的な妨害行為だった。それも人をナイフとかで傷つけてはいない、暴力的テロではなかった。あのことでオリンピックをだいなしにするほど効果的なものがあった。私自身も誰が勝つか息をのむようにして見ていたからあの行為には愕然とした。完全に水をさされたのだ。だから怒りを覚えた。見ている方も懸命だったのだ。

それがあの乱入で一瞬にしてさめてしまったことの不思議である。オリンピックを批判する人もかなりいる。私も書いたようにその一人だかオリンピック自体は見る。オリンピックの時だけ柔道とか見るのである。あとは全然見ていないのだ。オリンピック効果は大きいものなのだ。ただ古代のオリンピックと今のオリンピックは全然違ったものである。マラソン自体古代にはなかった。これも錯覚している人が多い、マラトンの故事を基にして近代オリンピックで新たに作られたのである。そもそもオリンピックについてはわからないことが多いのではないか、なぜ古代の槍投げとか円盤投げとかハンマ-投げなど無用となった戦争の訓練のための競技をしているのか、これは相撲のように古代のオリンピックの歴史の保存なのだろうかという疑問である。普通の人にはほとんど関心ないからだ。槍投げなどライオンなどをとる狩りのためのものである。マサイ族の若者の訓練にはいい、しかし今そんな時代ではない、走る、飛ぶ、持ち上げるとか格闘技などは今では実生活に役に立つし人間の基礎体力の維持として必要なものであるからわかるしまだ実用的なものである。それが槍投げや円盤投げとかハンマ-投げとかにはないのだ。そういうものが競技となっていることがわからないのだ。

今回はド-ピング問題もあった。これも汚い行為となるがこれを肯定する人もいる。身体能力最高に発揮するには必要悪として肯定する人もいるのだ。その方が記録も伸びるし面白いという人もいる。確かに見ている人からすれば面白いことは確かである。ベン・ジョンソンの時は世界中で興奮したからだ。今オリンピックがどうなっているかというとビジネスを目的としたショ-である。金メダル効果は企業にとってもまた国にとっても大きいのだ。東欧圏とか社会主義国や金メダルをとることが英雄となり経済的成功となるのは共通しているのだ。貧しい国にとってオリンピックは経済的成功を収めるためのものである。だからあの一番を走っていたブラジルのマラソン選手はもちろん競技での一番を目指すと同時に経済的成功の栄光も夢見ていた。ブラジルが一個もメダルをとっていなというのも驚きだったようにそれは彼にとっても経済的成功への必死の疾走だったわけである。それをだいなしにされたということもあるのだ。ともかくオリンピックは今や運営するIOCですら巨大なショ-をテレビで演出して収入とする金儲けのための事業なのである。だから貧しい国ではインドネシアでは放映権が払いずテレビも見れないという不公平が生まれるのだがそうしたことには無関心なのである。

いづれにしろ人間、メダル争いであり賞争いでもそこには人間的な欲の確執が悪がでてくる。それはスポ-ツでもどんな分野でもなかなか公平ではありえない、子供ですら賞をもうけて競争させることを禁止したのはそこでは平和を保てない、互いに憎しみあいや妬みが生まれるからだ。そこには不正も行われる。子供のつまらない賞ですら恐ろしく子供は真剣となり賞をもらうとやっきになることの異常さである。競争自体いい悪いの問題をぬきにして人間はそういうものなのである。こんなにメダル獲得に熱狂していること自体もさめてみれば異常なことである。古代オリンピックやスポ-ツの精神からしても異常なことである。これもスポ-ツがあまりにも経済的なものビジネス化したため商業主義化した結果である。現代はすべては宗教でもなんでも商業主義にのみこまれてしまうのだ。その力はすさまじいものだからだ。古代のオリンピック精神が何であったか今詳しく言えないがそれは今のオリンピックとは全然違っていた。神に奉納する競技であり神と結びついていた人間の才能のよりよい追及のためのものだった。

今回のオリンピックはギリシャの古代にかえりそれをかえりみることに意義があったのだがそれが全然成されていなかったので失敗したといえる。オリンピックは百年つづいたが曲がり角である。もしオリ-ブの葉だけで王冠が飾られていればそこに人間的汚いものはなかった。そこに様々な人間的な欲望が付着した結果オリンピックも汚れたものとなってしまった。これは古代オリンピックもそうして堕落したのだから歴史はくりかえすということになる。ただ近代オリンピックにはギリシャの古代の高邁な精神は発足当時からなかったのである。規模が大きくなると何か精神的なものは育まれないことがかえってある。ギリシャは今の世界とは違う、ポリスという最高でも10万くらいの都市のなかで様々な人間的な才能を開花させたのである。規模が大きくなると専制国家に帝国主義国家になるのだ。そこでは巨大な権力の圧力で人間の個々の才能は伸ばせなくなるのだ。それは宗教でもそうだしあらゆるものにあてはまる。規模が巨大化することは精神的なものは無視される。ギリシャのような精神の向上の探求が行われないのだ。オリンピックもあまりにも規模が拡大化したためそうなっているのだ。規模が大きいことがすべていいわけではないのだ。イスラエルでも小国であっても神の国として神から選ばれた民となったごとく小さい世界でこそよりよく人間は人間的でありえる。そこに人間的な才能や様々なものが発達して開花してゆく場なのである。

身体の知

http://www.mb.ccnw.ne.jp/m-okaza/body.html



メデアによって変わる社会(ラジオからテレビへ)

現代社会はメデアと不可分に密接に結びついた社会である。江戸時代までは明治、戦前でもメデアは活字メデアでありその影響は伝統的メデアのなかに存在した。そのメデアの大きな変化の最初はラジオから始まったのだ。そのラジオすら戦前は普及していなかった。玉音放送というのが全国民に戦争の終わりを告げるものだった。ラジオの前で天皇の御言葉を礼して聞き入ったのである。ラジオが日本人に入って来たのは大正以後であり思った以上遅いしラジオすらかなり高価なものであったのだ。戦争に突入するころになるとラジオは政府の報道機関としての役目のために使われた。

この催しは、これより早く突破した加入(聴取)者数は百万人を目指したものだった。同年六月一日から七月二十日までの間に、ラジオを購入した人を対象にしたものだった。
 購入した人たちを招待した「謝恩愛国の夕べ」当日には、歌手淡谷のり子が出演している。
 またこの年、電気普及会受信機普及関東委員会という組織が、皇紀二千六百年
(昭和十五年=一九四〇年、同年十一月に全国で式典が開かれた)までに「聴取者五百万達成を目標に取り組む」運動を展開している。

ある人は、「昭和十八年には村には一、二軒がラジオを持っていた。そのうちの一軒で、玉音放送を聴いた」と、話している


原町市には関東大震災を一早く伝えたというコンクリ-トの丈夫な無線塔があって有名で原町市の象徴のようになっていた。なぜあれがあそこに作られたのか、塔はエッフェル塔でもラジオ放送の電波を流すためのものだった。鉄塔ではなくコンクリ-トだったというのは技術的に鉄塔はむずかしかったのか頑丈に作ったのは簡単に壊されないためのものでもあった。事実は戦争中無線塔は攻撃されてその弾痕の跡が残っていた。通信網をたつのが戦争でもある。

ラジオが本格的になったのは戦後である。私の子供時代はラジオ時代だった。ラジオ体操やらラジオの音楽放送やらラジオの英会話の勉強とかラジオ全盛時代だった。ラジオはその頃簡単に作れる時代だったので鉱石ラジオとかラジオ作りは今のパソコン自作のようなマニアがしていた。夕食時はラジオから浪花節が流れキセルをふかし味噌を魚にして日本酒を父は飲んでいた。その酒は近くの酒屋の樽から私が子供の頃買わせられてきたものだった。日本は戦後十年はせいぜいラジオを聞くくらいしか娯楽もなかったのである。非常に貧しい時代だった。飯台一つが家族団欒の時だった。電球は裸電球で電化製品は何もなかったのである。

ラジオの特徴は何かというとテレビとかなり違う、「
耳は中立的な目に比べると感覚過敏である。耳は狭量で、閉鎖的で、排他的である」(マクルハ-ン)これも独特の意見である。なぜそうなのかというと耳は虫の音を聞くときでも耳をこらしてその音だけに注意を向けねばならぬ。他の雑音を遮断する必要があるからだ。だから昔の人ぬ江戸時代の人などは耳の人だったし聖人とは耳と口に王とあり耳と口の人であり口とはしゃべることではない、沈黙を守る、言葉で心を汚さない人のことである。江戸時代までは沈黙社会だからそうなったのだ。芭蕉の句の「やがて死ね景色は見えず蝉の声」もそうである。景色は眼からの視界は消えて蝉の声だけを聞いているのだ。それは雑多な視界が消えて蝉の声だを聞くという排他的なものでもある。keep out and keep in の世界である。

思い出としてはスチブ-ソンの「宝島」の放送のときびっこの海賊の杖をつく音に耳をこらしていた。それはかなりスリリングなことだった。姿がみえないからかえって恐怖を増すということがある。想像力がかきたてられるのだ。ラジオの方が想像力が養われる。テレビはすべてを出しすぎるのだ。想像する余地がなくなってしまうのである。ただテレビに関して一方「
眼は開放的で、中立的で、連帯的である。」とマクルハ-ンが言っている。

これもわかりにくいことだが例えはオリンピックがこんなに世界的イベントとなったのも興奮を共有するようになったのもテレビの結果であり近代オリンピックは東京オリンピックから始まったというのはその時どこでもカラ-テレビを買う普及した時代と一致しているのだ。オリンピックが世界的になったのはテレビが世界に普及したからである。今では世界中どこでもテレビを見ているからこれほどオリンピックに熱中するのでありテレビというメデアがオリンピックを普及させたのだ。今回のギリシャでは観客はどこもがらがらだった。しかし現地で見る人がいなくてもテレビで世界中かが見ているからオリンピックは商業的に成り立つのである。アメリカでは放映権を800億円も払っているからだ。メデアの影響はこのように非常に大きいものなのだ。20世紀がメデアの時代だったというのはそのためである。メデアによって戦争も大規模化したりナチスが生まれたりした原因になったとか東ドイツが西の放送を聞いて共産主義が崩壊したとかメデアは社会を支配する。その例がテレビによるマスコミによる支配があったということでもわかる。テレビの影響がいかに多いか、何百万人の人がお茶の間でテレビを注視しているということの影響は計り知れないのだ。オリンピックはそれも世界中の人がそうして注目しているからオリンピックが成り立つのである。金メダルもだから特別価値あるものとなったのだ。

ではインタ-ネットというメデアはどうなのか?これは今進行中だからわからない、私自身のホ-ムペ-ジもインタ-ネットを通じて出しているものであり一つの今までにない新しいメデアによる表現なのだ。他のホ-ムペ-ジやプログや掲示板もそうである。これが何なのかここに直接かかわらない人はわかりにくいのだ。マクルハ-ンの言っているク-ルとかホットは理解できない、今までのメデア(活字)は「
深層的でなく断片的であり制作志向者ではなく消費者指向型」だと言っているがこれは逆である。テレビの方が断片的であり消費者指向型である。深層的なものはない、マクルハ-ンの本はむずかしい、まだ今日のようなメデアの過剰世界以前の人のものが書いたものでわかりにくいのだ。一種の予言的なものだから今それが現実となった世界では解釈が違ってくる。インタ-ネットもものすごい断片の集まりである。しかしインタ-ネットのホ-ムペ-ジは自分の時事問題の深層のように深層的であり制作志向者型である。常に自ら編集して制作するというのが自分のホ-ムペ-ジだった。本もそうだったしテレビにはそうしたものはない、テレビの番組などマスコミしか制作できないのだから大衆消費的番組である。いづれにしろ現代はメデアというのがこれほど大きな社会の問題となった時代はない、メデアによって変わる社会なのである。



浅間山噴火(情報収集)

1911年5月8日 噴石により死者1人
1911年8月15日 噴石により死亡多数
1930年8月20日 噴石により火口ふきんで6人死亡
1936年7月29日 噴石により登山者1人死亡
1936年10月29日 噴石により登山者1人死亡
1938年7月16日(M1.3) 噴石により死者数人
1941年7月9日 噴石により死者1人
1947年8月14日 噴石により登山者11人死亡
1950年9月23日 噴石により死者1人
1961年8月18日 23ヶ月ぶりの爆発で死者1人


そいえば小学校時分、鬼押出に学校で旅行に行った時
小高い山に何かいわく付の神社があって、江戸時代に大噴火があった際に
当時の村人がそこへ続く階段を登って避難したそうな。
そして生死の境界線があって、ここより上に登れた人は助かって
そこよりもまだ下にいた人は飲み込まれたらしい
今その境界線は橋か何かで覆われてる。神社の名前は忘れたけど


宇都宮市、福島県郡山市等では降灰が確認されました。
遠望カメラの映像によれば、噴石は火口から2km程度まで飛散したと考え
られます。

2ちゃんねるで白河で誰かが白い灰ふったと報告あったからこれが一番早い報告だった。グ-グルで調べて意外と浅間山って噴火あったことに驚いた。灰がこんなに遠くに飛ぶのも驚いた。
今日福島県でM5.8の地震があった。下から突き上げる地震だった。最近福島県で地震が多い。
火山弾が飛んだり噴石が飛んだり火山の力もすごいものだ。ポンペイは火山灰に埋もれてしまった。宮沢賢治の「気のいい火山弾」は賢治が採集した火山弾だった。岩手山が噴火したものだったろう。

確かに上州鎌原村がほぼ全滅したこと、吾妻川、利根川流域の人々も大きな被害を受け千人以上の死者が出たこと、信州の軽井沢、沓掛、追分宿では皆が避難したが、火山弾(※2)で人が死に、多くの家屋が焼けたり降砂でつぶれたことなどが江戸に伝わってきた。鎌原村の惨状は時が経つに従い詳しいことが分かってきた。村民は火口から3里(約12キロ)離れていたため、それまで致命的な火山弾の直撃もなかったので、各々土蔵に道具を入れ、蔵で昼寝などをしていたところを、一押しに押し流されたという。村外にいた者と観音堂の50段の階段をかけのぼって逃れた者だけが命を救われたらしい、これも生々しい話である。その境で無念に死んだものの怨念がそこに宿っている。

御浅間大焼候
http://www.ncp.or.jp/dir4/D4_1_4_1.html

浅間山は最近でもこんなに噴火があったことに驚いた。2ちゃんねるで一万人が来た。カウンタ-がどこにあるのかわからないが確かである。硫黄の匂いがあったとか生々しい発言もあった。白河の白い砂がふったというのは嘘だと思ったらニュ-スで公式に伝えた。こういう時やはり新しい情報収集として実際の協力としてインタ-ネットが役立つ、ただ面白半分ではなく現実問題として情報交換をしてみるべきだ。それぞれがその場から発信できるのがインタ-ネットの強みだからだ。
相馬で火山灰確認

相馬で灰がふったのは驚き、250キロ離れていて風の関係でふった。風で飛んでくることがあるんだ、い-や驚きだ。白河で最初報告あったが火山灰かどうかわからなかった。ここまでふるとは火山灰はどんでもなく遠くまで風によって運ばれるのだ。ただ自分で調べるにはもう雨で流されているからわからないし微量だと火山灰かどうか判断するのはむずかしかったろう。



場所と事件の深い関係(ロシア人質事件はなぜ)

前に場所と事件は密接な関係
(場と結びつかない情報-時事問題17)があることを書いた。歴史的事件もどこで起こったかがなぜその場所で起こったかが大事であり謎の解明に役に立つ。いろいろむずかしいことがあってもまず地理的に解明することが歴史的事件を解く鍵がある。

862年、それまでヴァリャーギに支配されていたスラヴ人が立ち上がり、彼らを海の彼方に追い払った。しかしスラヴ人たちは自らを治めることができず、諸種族の間に争いが起こった。そこで彼らは合議の結果、再びヴァリャーギのもとに使いを送ってこう言った。「私たちの国全体は大きく豊かですが、その中には秩序がありません。公となって私たちを統治するために来て下さい」
そこでリューリクとその弟シネウス、トルヴォルに率いられた「ルーシ」がスラヴの地にやって来た。


国の起こりは意外と外部の勢力によることが多い。日本民族自体、天皇が韓国から来たとかきは騎馬民族征服説とかあるがこれは空想ではなく歴史的事実に裏打ちされたものである。蝦夷が先住民族であったが韓国から来た渡来人などが指導的立場になり日本が建国されたのだ。こういうことは世界史で良くあることなのだ。中国でも一時はモンゴルの支配下にあったし外来の勢力による支配が世界史では普通に起こっていたのだ。地理的にみればまずノル-ウエ-とかスエ-デンとかの地域から南下した民族が最初の国を作った。ノルマン人の侵入による支配があった。ル-シ-の起こりである。それは川を通じて成された。大きな河が動脈のようになっているからだ。大陸では河は交通の要であり大きな役割を果たしたのだ。四大文明が河の辺りに生まれたというのもそのためである。

チェチェンはずっと南下した下、イスラム圏との辺境地帯にある。だからイスラム圏の影響を受けた国だった。つまり地理的に把握することがやはり世界史を理解する手っとり早い方法なのだ。いろいろなことがわからなくても地理の関係からどうしてそこでそんなことが起こったのか考えるのである。大国の辺境地帯にはもめごとが多くなる。朝鮮半島がその例である。あの辺境地帯に小国が分立しているのもそのためだろう。

この事件を、チェチェン独立派と直接結び付けてはいけなかったのではないか。独立派のマスハドフ大統領は、この事件への関与を否定し、犯人グループとの交渉への参加を声明した。事実、ロンドンにいる独立派スポークスマンのザカーエフは、北オセチアのザソホフ大統領らと電話で連絡を取り合い、事態を打開しようとした

伝統的に親ロシアのオセチアのオセット人と、イングーシ人は、もともと深刻な対立を抱えている。1944年に、イングーシ人とチェチェン人はスターリンによってカザフスタンに強制移住をさせられた。チェチェン・イングーシ民族自治共和国は廃止されて空っぽになったのだが、ロシア人の入植と同時に、イングーシの一部にオセット人の入植が進み、そこは北オセチア領になった。

これも地理的なものが深くかかわっていたことがわかる。チェチェン-イング-シ-オセチアは互いに複雑にからみあって利権も対立していたのである。チェチェンはまた石油のパイプラインが交差する場所でもあったからロシアではチェチェンを手放せないのだ。

今回の事件の真相は今はわからない、偶発的なものが重なった悲劇なのか、外部のアルカイダが介入したのかそれもロシアの工作かもしれない、黒い未亡人はやはりチェチェンでロシアがよほどひどいことをしたからあそこまで恨み一すじになった。ただこの女性たちがアルカイダとか外の勢力に利用されたのかどうかこの事件の真相は正直わからないし簡単に結論を出せない、ただ世界的に事件が起きた場合、場所から地理的関係から推測するのが一番わかりやすい、それだけはできるからだ。いろいろ事件が起きるから一体これはなんなんだというとき知識は少なくても自分なりに多少納得する他ない、今回インタ-ネットのなかにあった情報でこれだけはわかった自分なりに解釈した。
参考

キエフ-ル-シの歴史
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/k-arasuji.html

チェチェン総合情報

http://chechennews.org/chn/0429.htm



イスラムトキリスト教圏が衝突するところでモザイク状に宗教が混交して問題を起こす→バルカン半島も同じ





新市名は雲雀野市と雄琴の由来など

新市名は雲雀野市

原町市中心の合併問題で名前は雲雀野市に決まった。雲雀が原で野馬追いの神旗争奪戦が行われるからだ。原町という名前はそもそもあの原っぱから来たのかもしれない、なんらか大きな原があったのだ。地名でも単に原というのが古代からあった。九州では原はバルで韓国系の名前らしい。原町という名前は全国的に多い。雲雀野という名も大きな市とか町ではないが小さい区域の名では多い。ひばりが丘などとなると新興住宅地に多いかもしれない、だから歴史ある場所というより新しい市のように思えるかもしれない、相馬市があるから南相馬というのがダントツで応募したら多かった。だから南相馬になると思っていた。雲雀野市という応募は十数名しかなくこれが市側で採用するとは思っていなかった。そして現実これに不満だという人もでてきた。南相馬の方がいい、相馬があるからその方がいいという声もでてきた、そもそも決めるのが早すぎるという意見も多い、実際本当に予算をもらうために急いでいる。雲雀野市で本当にいいのかどうか良く検討されずに決まってしまったのだ。まず雲雀野市となると相馬はイメ-ジされないから雲雀野市はどこにあるんだとなる。それが一番の問題である。イメ-ジとしては悪くはない、ただ歴史的なものが欠如しているから何かそぐわないとなる。これが全く新しい都市なら問題はなかった。歴史ある都市では歴史を考慮せねばならぬのだ。南相馬でもやはり不満があったろう。どう名付けても不満はでてくる。相馬野というのもどうであろうか、相馬野の馬野は陸奥の真野の萱原の真野なのだ。これもまたしかし受け入れがたいものがあるだろう。地名はそもそも実際は味気ないものが多い。実用的につけられたものが多いからだ。ともかく雲雀野市と決まった以上はそれで始める他ないのかもしれない、雲雀野市となると校歌など作るのには作りやすいかもしれない、でもどうしてもこれになじめない人はかなりいるだろう。意外とこの名前の作用は大きいのである。それもこれから長く使うとなるから問題なのだ。

太平洋の 白波よせて 雲雀野市
相馬流れ山の歌に 粛々と野馬追いの列
夏雲湧きて 馬集い どよめく
伝家の旗や 武者駆け上る 雲雀が原

桜井の古墳 大なり 泉廃寺跡
陸奥の真野の草原 古代を偲ぶ
阿武隈の山脈望む ゆかしき地
ここに育む 友の絆の 強きかも

二宮尊徳 仕法の地 松質実に
たゆまず 学に農事に励むべし
秋風さやか 実りはここに六万石
新たな市(マチ) 雲雀野市に 栄いあれ


南相馬より雲雀野市となるとこのように詩とか校歌とか市歌とかは作りやすくなることは確かである。

●雄琴の由来

私は汽車で日本をくまなく旅して駅名というのに興味をもった。どういうわけか汽車で旅すると駅名だけがあとに残るということが多いのだ。そこから地名にも興味をもったのである。例えば最近近江の湖西線の「雄琴」という名を「おこと」に改めるとうことが町から提案されて議論していた。雄琴(おごと)でソ-プ街とかになっていた、イメ-ジが余りに悪くなったからそうした提案がでてきた。、でもこれも意外だったのはこの雄琴が実際に琴とと関係して名付けられていたのだ。ただ「おこと」になると琴がイメ-ジできないのでよくないのだ。

それは平安時代のこと、小槻氏今雄宿禰がこの地を荘園として賜ったことから「雄」の字をとり、また貴族の邸宅から琴の音がよく流れてきた事から「琴」の字を用い、「雄琴」の名が誕生した

これは由緒ある古い謂われのある名だったのだ。昔はこの辺は淋しい場所でありその静かな所に琴の音が流れていた。なんとも優雅な地名がここに生まれた。琴が聞こえるということは当時ではやはりかなり珍しくその琴の音に聞き入る人がいたからいつしかこんな名前がついた。現代のような騒音社会ではありえない名付けかただろう。

琴の音流れてゆかし雄琴かも町は変わるもめぐる秋かな(自作)

東武宇都宮線壬生駅から北へ歩いて5分ここに雄琴神社がある。壬生氏は小槻氏の系統にありそれでここに移動したのかもしれない、一族のものによってもたらされた。ともかくこの「雄琴」という名は古代の有名な氏族の名と琴が結びついた名なのである。つまりこれも合成地名でありどうしてもここにその場所を支配した氏族名を残したかった。それで合成地名となった。ただ琴が結びついたことはまれなことであった。琴引浜とか琴浦とかあるが琴ににた地形の場合が多い、虹なども虹のように曲がっている地形である。本当に琴の音そのものに着目して名付けたのはまれだろう。京都からも近いということでこういう名前が残った。京都近辺にはこうした故事が多いのである。今はビルの谷間になっているがそうした言い伝え歴史が京都近辺に多く埋もれていて地元の人すら関心がなくなっている。歴史的由緒ある場所が多いと無関心になるということがある。



飯館村が合併から離脱

飯館村が合併協議会から離脱した。原因はわからないが独自の村作りをしていたからとか何かあるみたいだ。飯館は距離的に離れている。山の村である。小高、鹿島町は原町市中心にすでになっているからあまり抵抗がない、飯館は何か不都合があった。今のところ原因はわからないが、賛成は反対がありこれからまだもめる。ただ飯館という地域も雲雀野市に入る根拠はある。山中郷として歴史的にもつながりがある。飯館が入ることで雲雀野市全体で地理的にかなり変化にとんだものになる。阿武隈高原は広いし大きな地域だからだ。


江戸と農村は密接な関係

其角は数人の門人とともに三囲稲荷に参拝しましたが、
そこで大勢の農民が集まり雨乞いの祈願をしていました。

すると坊主頭の其角を見た農民たちが「和尚様。よいところへ。このところ
日照り続きで難儀しております。雨乞いの祈祷をしていただけませんか」と
言ってきます。驚いた其角、「いや私は坊主ではなくただの俳人なのです」
といいますが、農民たちは「構いませんから」と言います。

   夕立や 田を三囲の 神ならば

するとこれを詠んだ途端、たちまち雨が降ってきて農民たちは大喜び。


雨乞いのため僧が釣鐘を抱えて身を沈めた祖師谷の釣鐘池というのもある。江戸というのは百万都市でも今の都市とは大違いであり江戸ですら大きな田舎の町なのである。新宿で蛍狩りができたとか今では全く想像できない世界があった。野菜とか魚は魚河岸があり新鮮な魚が町に供給されていた。白魚までとれていた。米は船で遠くから運ばれた。しかし回りには自然が農民がいたのである。江戸時代の経済自体、農業社会であったから当然そこでは天然の気候とも無関係ではない、だから生産から離れた武士とか風流人の俳人でも雨乞いを要求されたという話が残っている。今の京都とか金沢とかくらいの都市を考えるといい、そこの回りにはまだ自然が豊富なのである。大坂でその日の市に間に合わすために九州の果てからトラックを走りつづけさせるのとは余りにも違う世界である。つまり今の都会と地方の関係はかなり異常なことでありいびつな関係になっているのだ。それはそもそも今の大都会が異常に拡大し膨張してしまったからである。都会と地方は理屈の前に感覚的に分離してしまったのだ。江戸に住んでいたって江戸の人は農民のことをわかっていた。農民の心情を感覚的にわかっていたから世界を共有できたのだ。今はあらゆるものがまず感覚的に理解できないのだ。だから都会人は農民や地方を自分とは関係ないものとして突き放した冷たい見方しかできない、上野霄里氏などもやがで人間は地底に水底に住んでそれぞれ理解不能、意思疎通ができなくなると言っているが本当にそうなっているのだ。市町村合併問題でも今都会と地方の問題がクロ-ズアップされているがこれも大きな全体の視野で見直すときがきたのである。都会人の一方的な発言だけではどっちにしろかたよっているし全体としての調和を計ることが要求されているのだ。

ひとところカボジャ畑や故郷に養わるればうれしからまし(自作)

こうした感覚は田舎に住んでいれば自然と湧いてくる。栽培していればもっとそうなるがしていなくてもこれが日の光をあび土の養分を吸い農民が手入れして育ちそして自分も養われているという感覚は自然に身につくのだ。でも今は農産物すらそれが外国からも入ってくるしまたそれが本当に土から育てられたものなのかどこから来るのかさえわからない、工場ばかりみていたら野菜も実際工場で作られるとなるとそれも不自然ではない、ただ「
日をあびて赤く熟れたるトマトかな」これは畑で日の光をあびて真っ赤になったトマトをみて作ったなんでもない誰かも作った句のようなものだがでも日の光をあびて真っ赤になっているトマトだからこそうまそうに見える。でも実際田舎で年中食っているのはハウスで作られたものなのである。田舎ですら自然の感覚と遊離してきているのである。こんな当たり前のことに感心していること自体人間は自然から離れた存在になっいるのだ。

「川越から江戸への下り荷物は、なんといってもさつま芋、それに米・麦・雑穀などの俵物や、木材ですな。江戸から川越への上り荷物は、日用品や衣類、それに百姓が使う干鰯や下肥などの肥料です。下肥をたっぷり積んだ葛西舟まで川越に上って来るのですからな。そのため、あたしらはよく、『江戸のやつらは川越の恩を尻で返す』と言っていますよ」
「川越舟運」 斎藤貞夫 さきたま出版会 1982年

これも江戸では便もリサイクルであり百姓と密接につながっていた証拠である。日本とか江戸でも地方でも一つの共有した世界をもっていた。だから江戸時代は精神的には安定した世界である。視野は狭いにしても一つの日本という自給自足の小宇宙に住んでいたことは確かである。

夏行つて誉めたる所皆寒し
 
今の東京よりはずっとましだったろうが、江戸も夏は暑かった。その暑中にああ涼しい所だと誉めたような場所は、冬に行ってみれば寒くてたまらんというのだ。 川涼みに行った隅田川は寒風が吹き、小高い所にある寺社の杉林などは底冷えを覚える。

夏は暑いから江戸でも涼を求めた。冬はかえってそうしたところが寒くなっていた。つまりその当時は江戸の冬はかなり寒かった。しんみりと寒い風景も広がっていたのだ。それが自然である。今東京は冬でも暑いような気がするからだ。夏は冷房づけであり冬は部屋の中もあたたかい、自然の感覚がなくなっているのだ。一面寒いということはかなり心をひきしめて人間の精神をぴりっとしたもの鋭い感覚を与えるのである。現代文明は原自然の感覚を喪失させた。
例えば温泉でもそうだった。本当の温泉はバブル期に雨後の筍のように温泉宿が増えてそれで温泉を使い果たして水道水を湧かしていたのだ。温泉が無限大にあるものではなく天然のものは枯渇するのだ。鮎でも岩魚でも天然のものがほとんどない養殖になったように現代では天然のものが貴重なのである。



読書の秋(読み直す本)

●読み直す本(小林秀雄)

読書や学問については失敗が多い、これも半分は無駄に終わる。金かけてもそうである。百万本買って書斎に並べてもその内有効だったのは役に立ったのは一割にもみたないとかなんか人生でも読書でも無駄が多すぎる。みんな50すぎたら半分は浪費だったことがわかる。読書自体むずかしいものなのだ。読書は本を買っても中味を読む力は若いときはない、いろいろな人生経験してなければわからないことが多いからだ。まず読書は何を読むべきなのか、それ自体がわからないのだ。古典といっても無数にあるし古典自体読みきれるものではない、人類の著名な大思想家の本は全部そろえてある。でも理解したのはわずかである。まず読むべきは聖書であることは間違いない、しかしこれを深く読むことはむずかしい。だから内村鑑三などを読んでなんとか理解した。俺には能力がない、天才でもないから理解できないのだというのは一面そうなのだが実際はそうではない、私は学問は全く苦手だった。試験があるやっていたようなものでそれも最低線であり卒業もできないほどであった。自分の我が儘な性格とかいろいろ原因はあるにしろ興味がもてなかったのが一番の原因だった。でもかなりむずかしい本は手にとったし読んだ、ただ深く理解はしていなかったのである。

そして今たまたま読み直して見たらええ、こんなこと書いてあったのかと驚いた。びっしり線をつけて読んでいたのだがその一行すら理解していなかったのだ。それは小林秀雄の「無常ということ」という文庫本だった。これも有名だから一応読んでいたのだが何一つ理解していなかったのだ。でも今ぱらぱらとめくって読んで即座に理解した。今はたいがいのものは即座に理解できる。その人の一行からも深い意味が読み取れるのだ。

歴史とは、人類の巨大な恨みににている。

この一行が目に入ってきてインスピレ-ションを受けた。昨今の信じられない残酷なテロも元を正せば中東の千年のイスラムの恨みでありその恨みが解決していないから今もテロがある。中国や韓国の恨みも実に深いから未だに和解しないし会津の恨みも未だにつづいている。

母親の愛情がすべてなのだ。死んだ子供を、今なお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ。

歴史は客観的科学的歴史などない、統計的にみてもわからない、歴史はその人の主観により変わるのである。歴史的恨みにしても個々人の恨みが基になっているときそれはリアルなものとなる。思想教育されたり自分と直接かかわらない恨みは作られた恨みだろう。今や中国や韓国には作られた恨みの方が多いのだ。家族が無惨に殺されたとか直接聞くことはなくなっているからだ。その点今回のチェチェンのテロは非道にしてもわかりやすいのだ。家族が殺されたからその恨みをはらすためにやったのである。ここで言おうとしているのは歴史はその人の主観から掘り起こされるものなのである。



ロシア人質事件の狂気はチェチェンの恨みとイスラム原理主義の狂気から生み出されたのだ。イスラム原理主義もオウムのように一種の人間に狂気をもたらすものである。主義とか宗教の名で人は信じられない殺戮をしてきたからだ。その根底にあるのは何なのか、恨みや怨念などなのだ。宗教者にしても恨みを根底にもっている人が多い。社会にひどく扱われたとか恨みをもっている人が多い、宗教団体は創価などでも社会的に不遇な人が多いから恨みをもっている。例えば池田大作なども金貸しをしていたか不遇だったから社会に恨みを持ち社会に宗教で権力を持ち恨みをはらそうとしている。オウムの麻原も眼が悪いなど不遇であり社会に恨みをもっていたのだ。ヒットラ-も芸術家として成功せず恨みをもっていた。マルクスも何かに対して個人的に恨みをもっていた。怨念をもっていた。資本家を倒せというのは恨みの思想が主義という美名に隠れてあったのだ。この恨みに主義とか宗教がからんでくるとものすごく人間はややこしくなるのだ。怨念の呪詛の宗教も過去にもあった。人間の行動の根底には根深い恨みがあったのだ。
不遇に死んだ人は実に多いのだ。例えば墓一つある、これに書かれた名前から語るものは確かにある。しかしその墓に物語があってはじめてその墓の意味がでてくる。私の母方の墓には若くして肺病で死んだ青年が埋まっているという話を母から聞いている。それが何かかなり苦しんで死んだらしい、キリスト教に入っていたともいう、そのことは今は二三人しか知らない、当時啄木のように肺病で死んだ人が無数にいて国民病になっていた、つまりその墓よりその話の方が大事なのだ。それを聞くと胸がつまるような感じにもなる。啄木のようにこの病気で無念に死んだ人は多いのである。自分もその時生まれたならそのように死んでいたのではないかと身近に思うからである。この話の方が大事なのである。墓をみてもこうした話はわからないからただ何も語らない冷たい墓石になってしまうのである。歴史的謂われとか物語、伝説は過去の歴史の記録でありこれは場所と結びついて残されている。歴史は物語ることによって生きてくる。

物語は死者への鎮魂歌でもあり物語ると本当に死者を活かすことなのだ。江戸時代を知るにしても島流しとか前科者とかで腕に消えない入れ墨をされた人の気持ちなど今わかりえようがない。でもちょっとしたことで警察で前科もの扱いされている人はいるのだ。犯罪をしなくなってもそういう人はいる。かなりの数いるのだ。そこから歴史をふりかえると歴史が切断されていないし現代にもつながっている物語なのである。それらの人の怨念もかなり深いものなのだ。地底からの声ならぬ声となってひびいているかもしれない、その声が聞こえるのはやはり同じ境遇の人なのである。

歴史とは遠大な物語なのだ。それはまだいたるところで見いだされていない、掘り出されていないのだ。シュ-リマンのホメロスだけではない、身近なところに実は遠大な物語が埋もれているのだ。駅名一つにもそうした物語がありこれを知らずして過去は生きてこないし現在もまたないのである。過去との結びつきがあって現在もありうるからだ。こうした物語は各人がもっているしそれがインタ-ネットのホ-ムペ-ジで多少語られるようになった。物語は一代ではない何代にもわたってつづくものなのだ。そういう私的な物語を書くにはインタ-ネットは向いているのだ。それは利益になるとか商業主義的なものとなるとやりにくいからだ。

歴史はhistory→storyである。単なる事実の羅列ではなく一連の物語として歴史はある。物は墓でもなんでも残っているがその物について語るものstoryなくして歴史はありえない、物より物語の方が大事なのだ。考古学でいくら発見があってもその物とstoryが結びつかないと歴史にはならない、ホメロスの物語は歴史的事実でないとか言われもするがそれでもそこから古代の歴史を学んでいるのだから明らかにそれも歴史なのだ。もはや事実がどうのこうのというよりその物語から古代の歴史が解きあかされているから歴史書なのである。


インタ-ネットにはタコの頭が必要だ

読書論もきりがないが今もう一つの問題は
インタ-ネットの読書である。これは何なのか人類が未だ経験していない情報環境だからどまどうのだ。前にも書いたが明らかに本を読むのとは違うのがインタ-ネットである。本というのは固定している、なんか碑文のようにさえ思えるしどっちかというと過去の人、死んだ人の本を読むことが多い。しかしインタ-ネットは現時点で生きている人のやりとりだからかなり違ったものなのだ。そしてみんな毎日その場から現在を発信してることも経験したことがない、インタ-ネットについてマクルハ-ンはある程度予見していたことに驚く、彼はメデアの予言者だった。文章は警句的に述べているのであり首尾一貫性はない、でもその警句が極めて予言的なのだ。

新しいメデアが登場してどれか一つの感覚を強めれば、社会全体に催眠術をかけることができる。

これなども本当にそうだった。最初ラジオで催眠術にかけられナチスの煽動に使われたのだ。テレビの影響も大きかった。老人は今もテレビを催眠術にかけられたように見つづけている。パソ通でも深夜まで大変な課金を払って夢中なっていた若者もそうであった。私の場合はニフティでやっていても実のところわからなかったからおかしなものになったのだ。それは全く新しいコミニケ-ションの方法であり今や若者全体が2ちゃんねるで催眠術にかかったように夢中になっている。

電気メデアはあらゆる人間が参加する相互関連の全体的な場を即座に作り出す

地球が電気メデアで一つの村落になるというのもそうである。ただ地球が一つの村落にはなりえない、確かに即時に今回のチェチェンのテロでは反応したしテレビを見て同時間に反応していることは確かである。でもその錯覚も大きいのだ。テレビからだけでは真実はわかりえようがないからだ。インタ-ネットの読書でも書いたがインタ-ネットは未だにその利用方法がわからないし各自違うものだろう。それほど多様だからだ。インタ-ネットをweb(蜘蛛の巣)としたが自分がかかわってみてインタ-ネットの情報収集はタコになることであった。多くの手足を吸盤を伸ばして様々なサイトにアクセスし情報を集め編集するタコの頭が必要だった。本を読むのとは違う体験だからとまどうのだ。タコのような柔軟性が必要なのだ。