時事問題の深層18
時事問題もありますがその時々の私的な日記です
同じ日に追加解説することあり


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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一

私の研究メモ


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曽我ひとみさんの背景を知る 7月26日

冷戦の負の遺産 7月29日

昭和天皇の御歌 7月30日

戒名、檀家制度とはなんなんだ 8月3日

月山に登る 8月6日

喜多方は新しい町だった(喜多方の歴史) 8月7日


市町村合併の名前(続)(「南相馬」では不満が・・・8月12日

失われたオリンピックの意義 8月14日

歪められたオリンピック 8月16日

温泉町の変質(利用者で変わった温泉街) 8月18日

温泉が本物にこだわる時代か(温泉入浴剤混入事件の盲点) 8月19日

金メダルの価値は一様でない・・・・8月24日



曽我ひとみさんの背景を知る



私のように大学入学を機に島を出た人間は、90%以上がそのまま島外に永住します。
不便だし、帰っても仕事が全くといって良いほどないので。
佐渡は農業島です。米、酒、野菜は、安くて美味しいですね。特に、日本酒は
本土の市販品とは比較にもなりません・・・。
人口減少が問題で、島外からの移住を募集してますが、知らない人が引っ越してくると集落ぐるみで苛めるので、せっかく婿&嫁に来た人が離婚して帰っちゃうケースが非常に多いです。


まず佐渡島ってかなり大きいから他の島とは違っていると思ったがやはり島はこういうことだったのか、沖縄の小さな島でじろじろ見られた。狭い島だから監視状態になっいる。あれやこれやと詮索するやつが多くなる。警察まで島人に歩調を合わせるために不条理なことも聞くようになる。島の人が優先になりよそ者は警戒され嫌われる。島の事情はやはりどこでもにているのだ。島には島姑がいる。村姑がいるようにつきまとう島姑がいるのだ。田舎の小さな町にも村姑がいる。これは執拗であり詰問するようなある意味で怖い存在なのだ。それを都会から来た人は知らないし甘くみている。田舎や島に入るのにはやはりそうした人間とつきあわねばならないから実際そういうことで嫌になる人がいることはあるのだ。特に島はそうである。これは人間の監獄だと思ったからだ。閉ざされた小さな島で暮らすのと都会で暮らすのとは余りに違いすぎるのである。住むなら自然が近くにある中都市くらいがいいのだ。



曽我実母は朝から晩までコンクリ工場で働き、夜は竹籠を編む内職
をして生活を支えた。それでも貧しかったから、曽我ひとみは全日高校
に進学できず、夜間高校へ行き、昼間は看護婦見習いとして働いていた。
曽我ひとみが帰国した初年の正月、「お節料理を作りますか?」という
質問に「食べたことも見たこともないから、作れない」と言った。
日本人として19年間過ごして、お節料理を作ったことも見たことも食べた
こともない家庭って、相当極貧。実父はひとみ発見の報を聞いても
日本政府に出す写真一枚持っていなかった。よくマスコミに出回っている
ひとみの写真は、ひとみと当時文通していた男性が、警察に提出した。
娘の写真一枚ない家、それがひとみの実家。北朝鮮で偶然一緒だった
めぐみさんが「私のお母さんは香水をつけていて、いつもいい匂いがした」
というのを聞いて、「めぐみさんと私のおかあさんはぜんぜん違う」と
思ったそうだ。「私のお母さんからはいつもオイルの匂いがしました」
ひとみは講演会でそう言っている。DQNの夫に苦労しながら、けなげに働く
ひとみの母ミヨシさんを拉致した北朝鮮工作員、鬼畜。


曽我の佐渡実家、トイレが今だにボットン。
帰国したひとみは親父と抱き合って泣いたが、
ある支援議員に「実父が嫌い。トイレも水洗ではないのがいや。
北朝鮮へ帰りたい!」と訴え、その議員ののポケットマネーで
実家を出て、佐渡に一軒家を借りる。



これも実もリアルな話である。夜は竹籠を編む内職...これも島ならではの仕事なのか?お土産品の竹籠なのか、実用品だったのか、島の暮らしの一端がのぞかれるものだった。曽我さんってそんなに貧乏だったのか、この発言から見えてくるのは一人の人間に起こっている複雑な背景である。その人の生い立ちやらがわかると見えてくるものがある。曽我さんって単純にかわいそうな人ですね、同情しなければいけませんねというものだけではない、それぞれの人間が持っている複雑な背景に着目することになる。何度も言ってきたけど一つの事件にはテレビの画面に何秒かでてくるだけではない背景があるものなのだ。今回はこうした特別な事件だからそれだけの背景がでてきた。これはインタ-ネットの普及でその近辺に住んでいる人からもれてきた。曽我さんの家が水洗便所でないなど近所に住んでないとわからないしこれほどの詳しい生い立ちもわかりにくい、地元の人が知っているから語られる事情であった。これだけの背景がわかると小説家だったら確実に一冊のそれもかなり厚い本のストリ-が書けてしまう。拉致事件は実はそれぞれに事情があり長い物語となっているのだ。曽我さんに対する特別な優遇に対する反発もなぜそうなのかとなるとそこにこうした背景を知って初めてわかることなのだ。

これは在日とかとも関係して北朝鮮の歴史とか様々な要素がからんで国と国のやりとりにもなりさらにアメリカ脱走兵のジンキンスさんの問題とかいかに複雑な国際問題になっいるかわかる。ジンキンスさんへの批判もかなりある。これはアメリカの問題でもありアメリカの威信もあり簡単に特赦されるという問題でもない、ともかく人間を知るということは相手を知るということは容易なことではない、だから簡単に批判はできない、2ちゃんねるでは簡単に批判するがこうした情報の方が判断の材料として貴重なのだ。なぜジンキンスさんは北朝鮮に脱走したのか?その経過もわからないから何か言えないのである。事情が情報がないから判断できないのだ。確実な情報がない限り判断できないのだ。だからジンキンスさんは話す義務があるのかもしれない、不利になってもその義務がある。そうでないとアメリカも日本人も納得しないからだ。正直に話す必要がある。しかし人間正直に話すことが一番むずかしいのだ。嘘をつくなとか言うけれど誰一人として嘘をつかなかった人がいないように正直であることは人生で一番むずかしいしそれを実行しえた人もいないのである。日本の戦争だって正直に話さないから美化されているから本当のことがわからないし判断できないのだ。ジンキンスさんからは正直な話、情報は出てこないだろう。余りにもまたこの闇が深いからである。北朝鮮は闇の世界である。闇といえば創価の闇も深いし政治の闇も深いしこの世の真実は闇につつまれている。戦争の真実もこれも闇である。誰もその真実の経過などわからない、闇の世界ということはこの世が闇によってサタンによって支配されていることなのだ。だから背後で何が行われ何が真実なのかわからないのである。

それにしても曽我ひとみさんの人生は実に不思議な物語だった。詩を書いたというからその経験を書けば小説家にもなれる。ただ本当のことは書けないだろう。「事実は小説より奇なり」というのは常にある。これはまさにその例である。ともかく人のことは相手のことを良く知らないと批判したりできないものである。いろいろな情報があふれているが情報社会であるがその近くにいる人の発言、体験した発言はかなり情報として信頼性が高く役にたつ、これがインタ-ネットの強みである。2ちゃんねるをやめたつもりだったがまた読んでいた。発言もできていた。一時的にパニックになったためらしい。



佐渡島の一輪の花

その風吹き荒るる芒なびき伏す浜に
一輪の撫子の花咲くを見ゆ 
暗き空にかもめ一羽流れ飛び
旅人一人風雨に打たれ立てり
ああ、その可憐な美しき花よ!
荒々しく日本海の怒濤のひびく浜に
その花の雨に打たれ風に吹かれひたと咲くなり
かくして旅人一人佐渡ガ島去りにけるかも

この一輪の花が曽我さんの母親だったのか、そういう人が生きていた佐渡、そういえばすでに佐渡に行ったときから歳月は数十年流れていたしそのとき曽我さんの母親は佐渡でけなげに働いていたのだ。全国をくまなく旅してきたからこうして思い出して書けるのだ。人生はみなそれぞれ物語であり歴史も長い長いヒストリ-である。物語られるときその人の人生も伝えられ生きてくる。拉致被害者というのは北朝鮮の暗黒にまきこまれた被害者としての歴史を生きた。日本の太平洋戦争は後世に語られないヒストリ-化しないことに問題があるのだ。あれだけのことをしたのだからもっと語られてもいいのだが個々の死についてもほとんど関心がなく語られないことに問題がありそれはやはりその戦争について肯定的でないものが働き語りたくないということにあるから問題なのである。


..........................................夫婦岩


これを皮切りに、「もうベトナムで人殺しをするのは嫌だ」と米軍を脱走した兵士をかくまう専門組織「ジャテック」ができた

若きアメリカ人脱走兵。彼らの逃避行を助ける日本の青年たち。彼らをかくまい、国外脱出の道を深る日本の大人たち……。「物語の真の主人公は、無数の市井の人々だった。

『となりに脱走兵がいた時代』(ジャステック)増刷。(650ペ-ジ)


曽我ひとみさんの夫の母が告白

ロバートは軍から表彰された事もあるし、軍人である事を誇りに思っていた。
幼い頃から愛国心に強かった。大切にしていた家族にさえなんの連絡もなく突然
亡命なんて考えられない」
さらにフェイさんらが北による「拉致」を主張する証拠となっている文書がある

http://www.asyura.com/2003/bd21/msg/187.html



冷戦の負の遺産

朝鮮戦争は何であったのか、この戦争が日本との戦争よりアメリカ兵の死者を多くだしたし中国人も30万人とか朝鮮で150万人とか大変な犠牲をだした。

元々、米ソは朝鮮をモスクワ協定による信託統治後、1つの国として独立させる気だったが、反対運動が全土で起きる。金日成はソ連の命令で協定賛成に回り、北朝鮮臨時人民委員長に就任

朝鮮戦争を仕掛けたのはアメリカ側だとされていたがこれは毛沢東やソビエトのスタ-リンの共産主義政権だった。金日成は朝鮮半島を自らの力で統一しようとしていたしこのときそれができると思っていた。

金日成の本名は金成柱(キム・ソンジュ)で、満洲で抗日遊撃戦闘を繰り広げていた朝鮮人パルチザンの一人だったらしいが、昭和十六年頃、日本軍の討伐部隊に追われ、満洲からソ連領へ越境逃亡。以来、彼はこの地でソ連軍第八八旅団の一員(大尉)となる。

その背後には共産主義という宗教にもにたイデオロギ-に心酔する狂気があったのだ。それが冷戦をひきおこした源でもあった。理想国家が建設される、労働者よ団結せよという声が世界中にひびきわたった。それが異常なほどの熱気で世界をおおったのだ。その一番の親玉がソビエトだったのだ。世界はこれによって二分された。ソ連が崩壊して共産主義の熱狂はさめた。その結果としてドイツのベルリンの壁も壊された。あれは歴史の象徴だった。ロシアでは英語は通じないがドイツ語が一部通じるというのもドイツと深くかかわっているからだと思った。二回も大きな戦争をしているからだ。

北朝鮮とは何なのか、これも歴史的経過をたどらないとわからない、北朝鮮は金日成を国主として崇めている。しかし冷戦崩壊後これは日本の社会党のように世界の趨勢から取り残された負の遺産としての国家である。共産主義はすでに過去のものとなったのに北朝鮮はそのまま世界から取り残されて冷戦の負の遺産として歴史的時間が停止した世界になってしまった。国内では金日成を国主として崇めても世界的には歴史的には評価されない、世界史的評価となるとこれは日本の戦争でもそうだが国内の評価と世界の評価は違うからだ。朝鮮半島が統一されたとき金日成の評価はむしろ朝鮮の国家の統一を阻止したものとして断罪される。今回の日本人拉致事件を考えるときこうした朝鮮戦争とか大きな歴史がかかわってくるから問題なのだ。ジンキンスさんが脱走したということの真意はわからないがベトナム戦争の脱走兵とは違う、反戦というム-ドが朝鮮戦争には余りなかった。だから北に脱走するということは異例のことだった。だから北に拉致されたという説もでてくる。ここで大事なことは金日成は北朝鮮では天皇のように崇められる存在でも世界的にはむしろ朝鮮の統一を妨げた断罪されるべき人間なのである。中国が天皇を戦争の首謀者として断罪すべき人間としてみているのとにているのかもしれない、それは中国と日本の関係でそうなのだが北朝鮮の場合はロシア、中国、アメリカ、日本とかの関係で評価されないものとなっているのだ。歴史が一時代終わると評価がまるっきり変わるのだ。今の時点では常に判断するのがむずかしいのである。

ともかく朝鮮戦争も忘れられものとなっていた。しかしその傷痕は朝鮮にとっては深いものだしまだまだいやされていない深刻な問題なのだ。日本はアメリカに敗れたがその後の冷戦という体制のなかで得してきた。朝鮮戦争もそうだった。

「文芸春秋」に「ザ・ハウス・オブ・トヨタ」が連載されているが、今月9月号に、丁度、朝鮮戦争の時期のトヨタのことが書いてある。当時の石田社長の言ったこととして、次のような談話が載っている。

「この数ヶ月、ワシは夢を見ているようだ。トラックも四輪駆動車もろくに塗装もせずとも、羽が生えている鳥みたいに(韓国の米軍基地を目指して)飛んでいく。中国の義勇兵がプサンまで攻め込んできたときは、値段もへったくれもなかったで。よこせ、よこせの矢のような催促じゃった。ワシも長いこと商売をやってきたが、あの時ほどボロ儲けしたことはなかったわ。戦争直後のときも(豊田自動)織機は信じられないくらい儲けたが、今度はケタが違う。」

そのとき子供だったが鉄くず拾いをして売っていた。ちゃんと金ももらいたのだ。鉄くずが貴重だったのはこのように戦争で資材が必要になりどんどん売れたからである。日本は朝鮮の悲劇でもベトナム戦争の悲劇でも経済的には特需で得したのだ。他人の不幸で得したのである。
日本は戦後は国際的に幸運だった。これからはどうなるかわからない、大国化する中国とアメリカが対立するときかなり危険な状態になる。日本が朝鮮半島のように引き裂かれる可能性が大きいからだ。いづれにしろ日本でも戦争の生き残りが亡霊のようにでてきたようにジンキンスさんも朝鮮戦争の亡霊として日本に帰ってきた。朝鮮戦争の生き証人でありこれもその当時の歴史をふりかえらないことには事の真相はわからないのだ。ベトナム戦争の傷痕も実際まだいやされていないし朝鮮戦争の傷痕も深い、日本の戦争の傷もいやされていない、そしてまた戦争である。戦争に懲りてもいいはずだが懲りないのが人間なのだ。



昭和天皇の御歌

昭和天皇・皇后両陛下が南紀行幸した折、白浜の宿舎より、30余年前に訪れた神島を眺め、熊楠を追憶して

雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を想(おも)ふ

という歌を詠まれました。熊楠がこの世を去ってから21年後のことでした。

世界遺産になった熊野は雨が多い。この歌は人物、自然、歴史とかが一体となって表現されているから名歌なのだ。苔を研究していたということも雨の多い熊野らしいしこの歌に集約されている。この人も自然保護を訴えた最初の人だった。熊野が古来から神域であったことは認知されていたから自然は守られた。尾瀬でもそうである。有名な自然は守られるが飯館のようなまた各地の神域は簡単に破壊される。そこに神があるというとき社でもあればそうなのかと思うが普通、人間は自然を聖なるものとかしない、実用的であってはじめて自然を理解する。森を破壊していけないというとき森を破壊すると自然のサイクルが破壊され農業に作物に影響するから破壊するなとなる、森を美しいから破壊するなというのは近代から始まったものだろう。里山でもそこが燃料となる薪としたり炭としたり生活の場で生きていたとき森も山も生きていたのである。森も木材として利用していたとき間伐して森を守っていた。自然保護がどうしても大きな力にならないのは生活と結びつかないからである。自然が美しいから鑑賞するというのはみんな詩人でも画家でもないから普通はないのである。

岩手なるあがたの民の憩場の森となれかしけふ植ゑし苗 昭和天皇

詠まれた歌碑が現地にある。お手植えの南部アカマツ、オオヤマザクラの木々は大きく育ち、周りはすっかり森となった。

ここにアガタと使っている。アガタは県(あがた)である。日本の最初の国はアガタにあった。アガタは上田のことであり川上の天水を利用した田だった。その下が下田になる。日本の地名の基本はここにあった。ここに昭和天皇がアガタを歌っていることの不思議である。やはり日本の祭司長としてアガタというものの大事さを由来を知っていた。昭和天皇は才能的に優れていた。生物学者でもあり歌にも優れていた。だから南方熊楠にも共鳴した。

荒金(あらがね)の岩手の県(あがた)

    稗貫の水上(みなかみ)はるか

    早池峰の山ふところに

    平和(やわらぎ)の郷(さと)大迫

   
(岩手県大迫高等学校の校歌の一部引用)

この校歌はまさしくアガタにある日本の典型的風土に培われたものを詩にしたものである。日本にはこういう地形が多いのだ。

昭和天皇のイメ-ジと戦後の平和の天皇とは全くジキルとハイドのようになっている。戦争中は軍神天皇であった。ただ祀りあげられた存在にすぎないといえばそれまでである。でも天皇には大きな法律的にも権限がありそれを実行できる立場として明確に記されているのだ。

明治憲法=大日本帝国憲法では次のような条文がありました。
 第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
 第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
 第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
 第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス
 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
 第57条 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ


これを考えても今からすると天皇にすべて権限が集中されている法律である。天皇は一方で現人神であり一方で実際の権力の実行者でもあったのだ。これだけの権限を有していた。祭政一致であり古代と同じである。天皇は日本の祭司長であったことは間違いない、しかし江戸時代には天皇は敬われてもこんな大きな権限がなかったし権力は徳川家にあった。権力と祭司権とかは分離していたのだ。つまり政教分離があったのだ。やはり元を正せば明治憲法が間違っていたのである。ここまで権限を与えることは民主主義とはほど遠い、ほとんど民主制はなかったのである。ただ昭和天皇は人物的には優れた人だった。日本の文化を受け継ぐものを体得していたのだ。だからアガタがでてきたり日本の伝統を受け継ぐ祭司長だったのである。
天皇を敬うということは日本が受け継いできた歴史的伝統を継続して尊ぶことである。日本に今や敬うべきものがない、戦争で天皇も否定されたし、大衆化で敬うのはカルトの長だけであるというのもここからきている。天皇は日本の歴史的伝統の体現者であり日本の精神的象徴というのはそのためである。人間何か敬うべきもの
これが尊いんだということを教えられなければ価値は混乱して世は乱れ終始がつかなくなる。現代がまさにそうである。カルトの長だけがいびつな形で敬われ誰も敬うことはない、だれも価値あるべきもの価値あるものとして存在させられない、商業主義のなかで金儲けのために精神的な価値もおとしめられている。乱れの世、バビロンの世になったのが現代である。これも民主主義の成熟なのかもしれないがカルトとかファシズムに席巻されやすいのが現代でもあるのだ。

インタ-ネットとはこうしてアトランダムに拾い読みして関連するものを探し出して編集するとき生きてくるのだ。自分がやっていることはこの編集作業なのだ。そういう材料がいくらでもあるからだ。コピ-するのも便利だから限りなく編集作業がつづくのである。雑文でもいくらでも書けるというのがインタ-ネットの強みでもある。それぞれ自分が編集長になるからいくらでもアレンジして書けるのである。

アガタ(県)が最初の国)


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この規制はかなり厳しい。こうなるとほとんど利用不可能になる。公的メ-ルアドレスも使っていない、いろいろなものが勝手に送りこまれるためである。でもこれはちょっと厳しすぎないか?でもこう書いてある以上従わねばならないだろう。
リンクしてはいけないとあるが大迫高等学校の校歌を参照してくださいと言うのはいいだろう。そこまでは規制できないだろう。ただ引用はできると法律にはある。出所を明らかにしていれば引用が従であればできるのだ。だから短くして引用にした。ただこれも何か言われるのかな、そうなると創作活動ができなくなる。著作権が余りに厳しいと創作活動や文化活動がかなりはばまれと停滞することは確かである。ただなぜこれほどまでに厳しいのか、おそらくなんらか勝手に利用されることを警戒しているのか被害を受けたためかもしれない、う、ちょっと困った。




戒名、檀家制度とは何なんだ

日本の宗教界は全く宗教じゃない、檀家宗教は葬式宗教だ、それも死者とだけ関係してくる、死者でると葬儀があり仕事になる。金になる。戒名は位によって違うとか、そんなこと身内が死んで悲しんでいるとき言えることなのか、そもそも仏教は何かわからない、日本人の宗教は異常なほど先祖崇拝である。毎日位牌を拝んでいる。それに僧侶が付随している。しかし位牌が意味がないとは言えない、死者を大事にする、先祖を大事にするということを否定することはできない、なぜなら家に先祖を祀るものも何もない家族がいる。その人は歴史的継続がなくなっている。親さえ存在しなくなっている、現実に交通事故で親が突然死んだ親戚の女性は親の墓参りも一回もしていないし親が誰かさえわからなくなっているかもしれない、親かいたのかさえわからないという状態、それは歴史の継続が消失するから問題である。大きな空白がそこに生まれている。親があって子がある。日本の綿々として日本人が苦労して作ってきたものだから先祖を尊ぶことは大事である。それを全部に否定することはできない、それは悪いことではない、でもその先祖が親が神ではない、普通の人間であったし中には罪深い人間もいたし生前は普通の人間だった。それが死んだからといって神になるのか?死んだらみんな神になるのか?死者ならすべて崇拝するといのうは何かおかしい。死んだからといって罪はすべて解消するのか?罪やあらゆるものが御破算になるのか、この世で悔い改めずやはり自らの罪を知らず死んで行ったものはやはりあの世でも悔い改めていないし反省もしていない、罪のままに存在する。この世では罪のことや何が悪いか良いかなど諭す人もいるし本もたくさんある。

しかし死んだらその機会を失う、永遠にその機会を失うという恐怖がある。人生がやり直しができないという厳粛さと同じである。過ちと罪の人生を送ったものはそのままあの世に行きあの世で死んで改悛したり真人間になったり突然清らかな人間になるわけではない、現世の魂の状態がそのままあの世に運ばれる。妬みや恨みを持つものや欲にまみれた人生を送ったものはやはり同じようにそうした場所に行くのであり死んだからといって神になるわけではないのだ。だから靖国神社に祀られた人々を神として敬うのは間違っている。戦争は人を殺すことでありそれが何の理由であれ神に祀られることはありえない、だからといって中国人に責められることではない、日本人が日本人の同胞として死者を供養することは悪いことではない、しかしその死者を全部神として祀り礼拝することは間違っている。欧米や中東では一神教であり神というものが数学の定理のように明確であり偶像を崇拝しないということで一致している。先祖も崇拝しない、その点で宗教については先祖崇拝とかの原始信仰的なものにはならない、日本人は死者というものが何かわからないから死者に対する恐れから先祖崇拝になった。これは今でも部族社会では強力な先祖崇拝があるのだ。だけどその親や先祖がみんな崇拝されるような人間だったのか神だったのかとなると全然違うのだ。みんな凡夫にすぎないのだ。

そもそも先祖崇拝の根は何かといったら男女の生殖作用からでてきた、肉からでてきたものである。「私たち二人の幸せ、私たちの子供、私たち家族の永続、繁栄、幸福を願う」男女の愛から生殖を根にしているから肉を根にしているからこれを否定することはむずかしいのだ。恋愛より自分たちの家族の幸福より神に従い全体の幸福を願うことが神の御意にかなうことですよということは全くこの世とは相反した世界観だからだ。
生殖は本能でありこの本能を否定することは不可能に近いのだからこれを厳しくしたら信者などいなくなるのだ。だから宗教団体では恋愛はエゴだなど絶対に言わないかえって煩悩即菩提とかあらゆる煩悩の肯定というより促進されることをしている。だからこそ熱狂しているのだ。そこに親鸞のような悩みなど微塵もない、煩悩が強いことはエネルギ-があることでありいいことなのだ。ただ自分にわからないのは庶民とはこんなに平民とはこんなことまでわからないのか、疑問に思わないのかというのがわからない、いくらなんでもこれだけあからさまだったら気付いてもいい、これが宗教なのかということに疑問を持つはずだからだ。妻帯しないとか肉食しないとかそういう掟が僧侶には課されていたからだ。そういうのが信仰者の模範としてあったから宗教ってこんなに利欲を追及するものかという疑問が庶民にもあっていいはずなのだがその点全く不可解である。中世の民衆の方が宗教が何であるか知っていた。本当に弥陀への救いを求めていたのだ。だからこういう能力においては現代は低下している。


今日もまた一人近くで死んだ。そこで葬式とかうるさくなる。でも今の葬式は簡単である。葬儀屋に頼みあとは火葬場に持っていけば灰になる。ただ死者の処理をどうしていいかわからないから僧侶に頼んだりいろいろ悩む人がいる。その例として都会でかえって檀家に入る人が多いというのは親や自分の死後の処理に悩む人が多くなっているからだろう。その人たちは別に宗教を追及してこなかった。ただ世俗の仕事に追われていつのまにか死を迎えることになり何か宗教を必要としたから宗教がわからないから頼むのである。でもその人たちがみんな仏教徒でもなんでもないのだ。仏教のことなど何にも知らないのである。ただ死ぬとなるとやはり一番厳粛なことでありどう処理していいかわからない、だから便宜的に檀家に入って葬式を頼むとなる。普通だったら何かしら信仰をもっていたら頼むはずがないからだ。戒名なんかもらったって罪が消えるわけでもないし救われるわけでもないし極楽に行くわけでもない、そんなもの死後に神仏も受け入れない、ただの木に過ぎないから燃やしてしまうだろう。死後にはなんらか神仏による裁き、精算がある。それをまねがれることはできない、戒名を授けたくらいで
それをまねがれることはできない、生前のことが問い正される。罪や馬鹿げた過ちもカルトの過ちも正されて愕然とする。それを後悔しても誰も助けてはくれない、それは生前で自分で悟り行動するほかない、他者がしてくれるわけではない、それが過ちだと悟り決然と自分で行動しない限り誰も助けてくれない、他人に頼るのはすべて団体に他人にあずけてしまうことはできない、創価をやめたから次は幸福の科学がいいか、キリスト教でもいいかとかなんか安易に宗教を渡り歩く人がいるがこれもいかに宗教を真剣に考えていないかの証拠である。これは同じことの繰り返しなのだ。信仰とは神とか仏に頼ることでない、この世の勢力にひたすら頼ることが信仰になっている。つまり自立した信仰を持っている人などいないない、だからかえって上野霄里氏のような人は信仰なくても指針になるのだ。

だから宗教団体に入っている人は神仏に頼っているのではない、みんな仲間がいる、仲間が助けてくれる、大勢いるから安心だ、みんなで拝めば力がでるとか集団の力に頼る。だからある宗教団体をやめた人はまた別な宗教団体に入っているのが多い。そもそも自立性がない人達だからこっちがだめになったからあっちに入るかくらいの考えしかないからだ。
父母に会ったら父母を殺し、師に会ったら師を殺し、釈迦に会ったら釈迦を殺せ
これを実行することでありこれはかなり厳しいことである。先祖崇拝を断ち切ることがいかに困難かそれはやはり人間の本性に根ざしたものだからだ。つまり偶像崇拝を拒否することは非常に困難なことなのだ。いづれにしろ法華経であれキリスト教であれ何であれこれを実行しえた人は数えるくらいしかいない、それほど困難なものである。だから現実全く宗教とはかけ離れた世俗化したまるっきり宗教とは正反対のものが世にはこびり世を席巻しているのもそのためである。本物の信仰者がこの世に受け入れられることなどありえない、この世の人によって都合いいものだからこそ世をおおうほど偽りの信仰者によって満たされているし偽予言者を祭り上げるのである。サタンをまつりあげているのがこの世でありこれは変わっていないのだ。本物の信仰者、予言者がみんな殉教したり迫害したのもそのためである。上野霄里氏などもニ-チェなども現代文明を告発したからこそどこにも入れられることのできないアウトサイダ-化したのである。


月山に登る

月山の名前の由来は月読神(つきよみのかみ)から来ている。他にも月山というのはある。「つきやま)と読んでいた。「雲の嶺いくつ崩れて月の山」と芭蕉が読んだときも「つきのやま」であった。月読神(つきよみのかみ)というのが由来だからだ。月読神は穀物の神だから稲作の前の焼畑からあり古い神である。だから山と結びつく。日本の信仰の源が山にあったのは山に生活の基盤があったからである。山の神が平地におりて田の神となったというのもそのためである。山と平地の稲作の民が結びついたのもそのもそのためである。山と平地は切っても切り離せない、山は稲作にとってはかかせない水を供給していたからだ。稲作にとって水は生命線である。だから分水碑とか水神とかの碑が多い。川上に行き分水碑のあるところに行くと水が堀を通して田に流れてゆく、山には日照りでも必ず途絶えることなく水が流れている。日本とはこの水の豊富な世界である。ミギワ(水際)からミギとなったとすると右は常に生活の基本とするとそれも水から生まれたことになる。月山、湯殿山、羽黒山は三つの山がセットになった信仰の山だった。本来は葉山(羽山、端山・・)信仰があった。この葉山とは低い山でありこれも山に対する信仰の基本でありその本元が月山、湯殿山などにあった。日本にはもともと民間信仰として山を尊ぶことがあり山は親しい存在だった。山というのはまた葬送の場であり死者が眠る場所、墓だった。だからまた一段と山は神秘性を帯びる場所だった。山に死者と出会う信仰もそこからきている。これは万葉集にもでている。

ここで芭蕉が「湯殿山は「言わず語らずの山」と言われ御神体は秘所と呼ばれる聖域にあります。松尾芭蕉も「
語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠み残しております。これは何なのか定かではないがこの謂われは芭蕉の句からそう言われたものでありもともとあったとは思えない、葛城の一言主のような由来があるはずがない、その謂われは意外と新しい場合があるから注意するべきだ。インタ-ネットには良く調べないでのせているのが多いからだ。東北の古い碑には湯殿山が非常に多いのだ。あと山神とかも多い。これは小牛田が由来で小牛田参りもあった。これはだから東北の農民の拠り所となった民間信仰なのだ。講が組織されて農民がお参りすることが習わしとなっていた。湯治というのもいかにもその言葉には言いも言われぬ生活感がにじみでた言葉である。苦しい農作業を終えて村の仲間で湯治にゆく、それは江戸時代の農民の生活に深く根ざしていたのである。芭蕉の句の凄さは不思議さはなぜこうした句が作れたかなのだ。東北のことを良く知っていた。もちろん江戸時代だから同じ意識を共有していた。それでも湯殿山にきてこの句が読めることはみちのくのことを知っていた。

近くに農民の苦労した婦人がいるがその女性を思い浮かべるときこの句はぴったりなのだ。夫の病気や様々なことで苦労しても愚痴を言わない、黙って耐えている。これは東北の農民の寡黙さに通じている。芭蕉がなぜ東北にとって意味あるものなのかそれはみちのくのことを良く知っていたからだ。はじめて来たのになぜ知っていたのかやはり江戸時代の人、それも江戸時代の初期の人であり感覚的に今とはまるで違っていたのだ。実際登山しに来た退職者の人に「東北には湯殿山の碑が多いですよ」と言っても関心が全然ない、つまり日頃その土地で見ていないからそうなるのである。東京でも東北の人でも関心のない人は見ていないのだ。現代では登山はそうした信仰のお参りだとかの神秘性はない、登山はスポ-ツである。旅も現代では喪失した。サイクリングもスキ-も登山もスポ-ツでありスポ-ツには気晴らしという意味がある。登山が気持ちがいい、サイクリングやバイクも気持ちがいい、運動して気持ちがいいというスポ-ツである。旅は何にしても存在しないのだ。旅は旅路で死ぬということがあって旅になる。そんなことはありえない、登山だと遭難はあるがそれはあくまでも冒険的スポ-ツとして山があるためである。ヨ-ロッパのもたらした登山は征服すべき山でありスポ-ツの山であり山に神秘性や信仰をもたらす山ではないのだ。

いづれにしろ月山の頂上には山小屋がありそこでは一泊一万とられる。小屋は中高年であふれかえっていた。あれはいい商売になると思った。四五十人とまれば一日の稼ぎにしてはかなりのものである。かなりの老人も上れる山だからあそこに山小屋があれば楽に上れる。風呂まで金を出せば入れる。行楽気分で行けるのだ。これからますます中高年の登山者はふえてくる。元気な中高年が多い。湯殿山を往復するとか次は鳥海山に上るとか重いザックを背負った60がらみの人とか白髪の老人の女性とか前のニュ-スではヒマラヤで63歳の女性が登頂して死んだとか山に魅せられる高齢者はふえてくる。高齢化社会の一端が山に如実に現れていた。山はこれから高齢者で栄えることは確かでありあのうよな施設をもっと作り上りやすくなればもっと山は高齢者でビジネスになる。スイスがいいのは登山列車がどんな高地にも走り登山が楽にできることなのだ。登山列車で頂上まで行けるのだ。だから登山が庶民化したのである。月山はリフトを使って8合目くらいまで一気に行けるから楽だ。ともかく高齢者の熱気が山にあふれていたという不思議な逆現象を見たのだ。山は若者のものではない、高齢者であふれるというのがこれからの山であった。

みちのくの村々残る湯殿山その碑の古りて野菊咲くかな

月山に老鶯鳴いて登山かな


喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)


磐越西線で喜多方についた。これも何十年ぶりかで来たので新鮮だった。新津から来たのだが新津のホテルは満員だった。シ-ズンだから今の時期旅行者で混んでいる。新津から津川にきて津川に着いたのは夜だったので駅で寝た。地名に注目すると新津もそうだが津川も津であり新潟も実は新しい潟であり津と関係していた。古津もあり阿賀野川ぞいに船運があって津という地名がついた。津とは港の意味である。会津というのもこれは大和から派遣された四道将軍の大彦命が北陸道から、子の建沼河別命が東山道を遠征し、出会ったところが「相津」という。『古事記』がここで合ったから相津(あいづ)となり会津となったとある。それも一つの地位由来説として古いのだが会津が川が多い、川の国であり、川の流れが会う津ともなる。その説も有力である。湖とか沼も多くそこに川の水が流れこむ、だから水が豊かな国なのだ。

喜多方ではまず駅前の喫茶店に入った。ここは前は煉瓦の倉庫だった。喜多方は鉄道をここにひくために誘致運動して鉄道の線をこっちにもってきた。別な方向にゆくのを阻止して喜多方にもってきた。ここでレンタサイクルを借りて街を回ることにした。相当にに暑かった。たまたま古い江戸のポンプがあり井戸水を流している店があったのでそこで水を飲んだ。そして店に入ったらそこの店の主人がいろいろと喜多方の街について説明してくれた。

「喜多方って北方のことですよね」
「ええ、もともと北方(ほっぽう)と言っていました、これでは名前として良くないので喜多方にしたんですよ」
「会津若松から北になるからですか、なるほどね
私の相馬の鹿島町も実は北郷と言っていたんですよ、これはもともと相馬氏は最初小高に城を構えてそれから大田神社を本拠地としたからその大田神社のある原町市が中心となったから北郷となったんですよ、これは喜多方と名付け方がにていますね」
「相馬ってあるからには相馬で野馬追いやったらいいと思うんですけど・・・・」
「歴史的に大田神社が中心であり原町市の雲雀が原で行われていたからそうなったんですよ、歴史的順序というのがあるんですよ・・・・」
「相馬という名はどこから来たんですか」
「これは相馬氏が相馬流山から移住したんですよ、その元は千葉氏ですね、相馬流山市が千葉にありますよ」
「会津ももともと蒲生氏郷が近江から移住して若松と名付けられた、その前の芦名氏という名
も移住地名らしく芦名というのがあるらしいです」
「地名には移動地名が多いですよ、阿武隈の小浜城のある小浜もあれは日本海の若狭の小浜から移住して来たから小浜であり山の中に小浜とついたのはそのためですよ」
「喜多方が市となり発展したの明治以降ですよ、蔵が建ったのも明治以降です、煉瓦を作り煉瓦の蔵が建った、ここはもともと会津若松からすると農民の在郷でありそこから商人がでてきて明治以降自由な商売が許されるようになり発展したんですよ」
「あの蔵は明治以降建ったんですか、江戸時代だと思っていた、江戸時代と錯覚している人いるかもしれませんね」
こうして話はめずらしく長い間つづいた。喜多方についてずいぶん前に来たがほとんど忘れていたし歴史についてわからなかった。会津と喜多方はかなり性格の違った市だった。
「会津が明治維新の戦争で滅んで喜多方が発展したんです、それまでは大きな蔵など建てるのが御法度だったです、城下の侍ににらまれたからですよ」
「ええ、そうですか、そんなことがあったんですか、」
「ええ、明治以降自由な商売が許されるようになり発展したんですよ、製糸工場もできたし、味噌やら醤油、酒造やらいろいろな産業が喜多方中心に興り発展したんです。会津は侍の町だったからそういうことがしにくかった」
「会津に松平家の人々を祀った墓の山があるでしょう、あそこに三つ女性の戒名の碑がならんであるんですよね、あれは側室の碑かとも思っていましたが・・・」
「会津の最後の城主は側室は持ちませんでしたよ」
「そうですか、代々の姫の墓かもしれませんね、あれがなんか記憶に残ったんですが・・・」
「会津には寺が多いですよ、喜多方には寺は非常に少ないです、城のあるところには寺が多いです」
「そうですね、金沢なんかも寺町があり寺がやたらと多い、侍の菩提寺となっていたから寺は武家に篤く保護されたんですよ、明治維新以降城下町というのはかえって発展の足かせとなったのかもしれませんね」
「喜多方は新しい街ですよ」
「そういえば喜多方とはいい名じゃないですか、喜び多い市でね、途中にさいわい橋などもありましたね」
「小荒川ですが、あれは小さく荒れるから小荒川なんですよ、他に大荒川もあります」
「ああ、あの川がそうですか、自転車で走って来ましたけど、そういえばかなり流れが速いから荒れやすいのか面白いですね」
それからなんか地形のことを盛んに説明した。江戸時代に大きな火山の爆発があり川がせき止められ喜多方が湖になるようなことを言っていた。なぜ喜多方が水がいいのかというと飯豊山から豊富な水が流れ地下水となり井戸水として利用できた。今でもその井戸水が利用されていたから古いポンプがあったのである。これは自分の家の近くにも井戸水のポンプがあったし利用していたからなつかしかったのである。今では地下水には農薬などが入っていたりと普通利用していないのである。そもそもここの家は由緒ある家だったのだ。
「この家には古い由緒があるようですが・・」
「ええ、私は七代目ですね、あの蔵を作ったのが先祖ですよ、喜多方では蔵に住んだんですよ、冬は寒いから蔵が住むのに良かったんです」
「姓はなんといいますか」
「これもわからんですが変わった名ですよ、冠木(かぶらぎ)といいますが・・・」
「それは変わった名ですね」
「これは蕪木(かぶき)であり蕪木門というのからでているらしい、蕪(株)の木で作った門が由来かもしれません」
「確かに変わった名ですね、鎌倉に二階堂という姓の人が出たのは鎌倉武士が平泉を攻めた時に二階の屋敷を見た驚いた、二階の家というのが当時なかったからでしょう、それで二階堂という姓を鎌倉の武士が名乗った、つまり平泉の方が建築的に優れていたんですよ」
「そうですか、まあ、実際変わった名ですよ」
その家は本当に古い家だった。そして意外だったのは会津若松は武士の社会であり実は自由な商業活動を阻んでいたという事実である。会津若松はやたら白虎隊とかで美化されているが反面会津というのは非常に保守的であり時代の変化についていけなかったのだ。だから新撰組を雇ったりして幕府の維持につとめたのである。山国であり情報をとるにも遅れた。情報が入ってきたといっても長州藩の高杉晋作のようにじかに上海に行ってヨ-ロッパの力と接したわけでないし一戦をまじえてわけでもない、その感覚は全然違っていたのだ。肌で知ったものと山国にこもり伝え聞くのとは違う、そこに山国の地理的環境が遅れる原因となったのだ。会津というとテレビの放送のドラマとかやたら美化されている。このドラマや小説は歴史を必ずゆがめている。なぜなら虚構が入ってくるのにそれを真実だと思ってしまうのである。会津をほめちぎっている小説家もいるがこれも極端である。小説やドラマは歴史を歪曲されるから一面歴史教育には悪いものなのだ。今回の話でもかえって会津の武士社会が滅びて喜多方が発展しえたように明治維新が会津地方にとって悪いことばかりではなかった。悪いことばかりに眼を向けているのはおかしいのだ。一方的見方なのである。人間の歴史は変遷が激しい。新しい町もすぐに古町になってしまう。常に栄える町は変わるのである。だからあんなに会津の武士道がどうのこうのと宣伝しているのは過剰な思い込みを作り出している。武士道がマイナスとして働いたことも考慮せねばならないし白虎隊も冷静な判断をできない暴挙だったという見方もありうるのだ。何か会津というと地元の人でも美化しすぎるのだ。庶民の見方が欠けている。明治維新は庶民のエネルギ-が噴出させたということも考慮せねばならぬ。その自由な活動が許されて喜多方が発展したことがその一例である。明治は新しい時代を庶民によって切り開かれた時代であり綿々と過去を美化するのはおかしいのである。

とにかく喜多方の街の特色は農民から発展した街であり田畑の中に蔵がたち道路ができて街になっていった。だから大きな田舎町なのだ。だからちょっと街をでるとそこにかぼちゃが植えられていたりとなんか田舎の街なのである。ただ広々として気持ちがいい、ゆったりするのである。落ち着く街なのである。今回これだけ歴史が身近に感じたのは同じ福島県でありたまたまじかに喜多方の歴史を聞くことになったからである。なかなかこれだけの歴史はわからないだろう。これはまだまだ書ける続きがある。今回は一応これで終わりにしよう。

栄えたる家の木陰に休むかな

喜多方や蔵に住みしと蝉の声

涼しさや井戸水流す店屋かな

街中に芙蓉の咲きて蔵の街

喜多方の煉瓦の蔵を誇りたる七代目なると暑き昼下がり






加藤和子歌集『煉瓦の家から』沖積舎、昭和55年11年28日は、アララギの流れを汲む作者が主婦・母親として体験した外国生活をうたった歌集です。
   
仄かなる香りはわれの知らぬもの古りし煉瓦の家の扉(と)ひらく
ひたすらに陽へ向く冬の花あわれ煉瓦の家のふかき窓辺に

明治時代が文明開花というとき鉄道と煉瓦が大きな役割を果たしたのだ。一方は交通であり一方は建築である。トンネルも煉瓦で作られていた。東京駅はオランダのアムステルダムの駅をまねて作られた煉瓦の駅だった。煉瓦というものを忘れていたがイギリスでもアメリカでも建築は煉瓦だし煉瓦の歴史はロ-マにもさかのぼるし煉瓦の家が古代からあったことは煉瓦の歴史は文明発祥とともに始まった。煉瓦はコンクリ-トと違い何か落ち着く。煉瓦は文明を明治時代を象徴するものだった。そして煉瓦の建物は日本の古い街とも調和していた。明治時代は江戸時代のものも残り欧風化と調和するものだった。そこが現代と違っていたのだ。

煉瓦の文化

ハイカラな洋服の紳士と
和服の生粋の日本人が歩く
赤茶けた煉瓦の銀行や倉庫
鉄道のトンネルまで煉瓦作り
汽車は遠くから文化を運ぶ
街灯が静かに灯り自動車の騒音はない
新しい文化と古い文化が調和する街
まだまだゆるやかな時が流れていた
煉瓦の中には日本の古いものが
なお息づき生きていた
煉瓦の西部の教会に質実な祈り
アメリカも煉瓦の国だ
その広大な空を冬の夕焼けがそめる
イギリスも煉瓦の建物が多い
その煉瓦の館の中に学問に励む
煉瓦には精神の作用がある
コンクリ-トにはない
煉瓦は歴史的に価値あるもの
煉瓦は文化を作った
煉瓦の色に染まる日々があった
煉瓦に何か人間の生活がしみこんでいる
人間にとって建物の影響は大きい
現代が索漠としているのは建物のせいである
それは人間的なものを排除して
人間の精神作用を排除する
冷たいコンクリ-トなのだ



市町村合併の名前(南相馬には不満が・・・・・)

原町市、小高町、鹿島町、飯館町は合併して「南相馬」になるのか、これが募集して一番多かった。相馬を中心にしてその南だから南相馬になる。喜多方の良かったのは北方(ほっぽう)という味気ない名が喜多方という当て字にしてイメ-ジが良くなったことである。喜び多い市というのは好字である。縁起悪い名はあまりつけたくない、白石の子捨川は縁起が悪いから名前を変えるべきだと論争が起こっているがヤマトタケルの蝦夷征服で土地の娘に生ませた子をその娘が川に捨てたからその名が残っている。これも生々しい歴史を想起させる地名でありこれを縁起が悪いからと簡単に変えることができるのか問題である。歴史の証しのように地名に記されているからだ。征服された蝦夷の怨念がそこに宿っているのかもしれない、そうした名を簡単に変えるのも問題である。それは単なる伝説といえばそれまでだがそれなりに地名が残っていることはその土地の人が言い伝えたことは土地の人の思いがそこに宿っている。土地の人がそうした仕打ちに同情したから残っている。今でもそうしたことを日本はフィリピンとかで問題になった。日本人の子供ができたがそのまま帰ってしまった日本人の男性の問題である。フィリピンの女性でも日本人の子供を捨てた女性がいるかもしれない、歴史は同じことをくりかえしている。人間の業というものなのかギリシャのオリンピックでもすでに不正をして八百長で競技に勝った人がいてそれをたしなめるための記念の像が残っているというから常に人間は同じことをくりかえしてきた。オリンピックでは今回インドネシアが放映権が高くて買いず報道できないというから商業主義とグロ−バリ-ゼ-ションで貧乏な国弱い国はおきざりにされる例がここにもある。

ただ喜多方に「
さいわい橋」という名がありなんかその名だけでもここにはさいわいがあるのかと思うのが人間である。だから一時幸福駅の切符を買うことがブ-ムになった。人間はイメ-ジが意外と大事なのだ。さいわいがなくてもさいわいとあるとなんかさいわいがあるようにな思えるから不思議である。名付けることはだからむずかしいのだ。



いろいろな名前の募集があったなかで「南相馬」が一番多かったのはなぜか?これは平凡な名前である。相馬があるからその南だから南相馬となる。でも南相馬となると相馬市に付属した市のようになり新しく合併した市の名にしては平凡すぎはしないか、相馬郡の中で二つに分かれたのだから分かりやすいことは確かである。行方市(なめかた)というのも結構あった。古代の郡であり行方市はちょうど鹿島町、原町市、小高市の領域であり今の相馬市は宇多郡であった。もともとは鹿島町の浮田国造が相馬郡の領域でありそれが行方郡と宇多郡に別れたのだ。だから行方市となると古代の元の状態に戻った名前となるから歴史的には行方市も悪いものではない、しかしこれはなじみがない、他の人にとっても行方市って何だろうとなる。野馬追いは知っていても行方市の由来をたずねるのは古代史マニアくらいになるから問題である。陸奥真野の草原の万葉集に関して名づけ方もあった。真野市とかあったがこれは一票しかない、相馬草原市というのもそうかもしれない、私が前に書いたので相馬原市とか野馬原市とかもあったが一票くらいしかなかった。ただ同じ発想した人がいたことである。真野を入れるとすると真野を馬野として
馬野原市というのも一案である。野馬原市はあったが馬野原市はなかった。野馬追いをイメ-ジさせるなら馬を入れる必要がある。他に野馬追いが行われる雲雀が原をイメ-ジしてひばり市とか雲雀が原市とかもあった。なかなか市町村の名付けかたはむずかしい。というのはこれは勝手に名付けられない、いろいろな問題がでてくるからだ。南相馬が無難だからこれに決まるのか投票で名前も決まってしまうのか、これが民主主義なのか、それにししてもちょっと平凡であり相馬に帰属した市ということで不満が残るだろう。新相馬市とかもあったがこれも新相馬が新しくて相馬市は古い感じになり相馬市から反発があるかもしれない、ともかく南相馬というのは余りにも平凡であり新しい合併した市としては主体性欠けている。何か新しい市作りに励むんだという点でインパクトがない斬新性がない、余りにも無難な平凡な名付けかたなのである。ではそれ以外適当なものがあるのかというとなかなかないから困るのだ。

いづれにしろ20年間で人件費などを376億も節約できるというから合併の効果は大きいのだろう。今も議員が町に20人以上いるのは大変な出費であり必要ない、これが4、5人になるからその点はいい、ただリストラがあるから安定した就職先がなくなることは地方にとっては問題である。ある島では公務員しか就職先がないというところもある。公務員は地方の安定した経済の核を成していたのである。これは公共事業と同じで無駄な出費だから削られる。公務員も安泰な時代は終わりつつある。相馬郡と飯館のような山もあり海もあるからそれなりに変化にはとんでいる。ただ海は鹿島町の海が石だらけの海になり海開きすらできなかった。海で磯もないから磯遊びもできない、海の魅力が欠けている。ただ鹿島町の松原はかなりいい松原なのだ。これは意外と評価されていない、松原がいい所は少ないからだ。ただ全体的に火力発電所などができて景観は悪くなった。むしろ山の方が自然が損なわれず魅力があるかもしれない、阿武隈高原は起伏にとんで広い、でもここも温泉がないなど観光的には魅力が欠ける。いづれにしろ「南相馬」という名は納得いかない人が多いのではないか、その代わりとなるとまたむずかしい。それにしても来年辺りまでに合併が行われるというのは早すぎる。もっとあとのことと思ったからだ。政府で急がせているからだろう。急速に変えられてしまうから現代は困るのだ。民意が熟さないうちにどんどん変えられてしまうのは問題だが財政が圧迫しているから政府で急がせている。それほど財政が一番の問題なのだろう。



南相馬合併協議会

(私のホ-ムペ-ジ内)

時事問題17(市町村合併の名前)

浮田国造の謎

相馬郡郷土史



武南が武蔵の南から名付けられた。これは外から見てまぎらわしい。武を武蔵だと思う人はまれだ。これでは全く武南は無難だから武南だったとかなり馬鹿げた結果になっている。名前の重みが全くない、特徴もない、武南高校があってもそれがどこの高校かもイメ-ジできない、ただ南相馬は一応相馬がイメ-ジできるから武南よりはましだ。



失われたオリンピックの意義

オリンピックは何なのか、今その意味が問われている。余りにも巨大なショ-化した、商業主義化してしまった。その弊害がインドネシアではオリンピックの放映権が高くて買いずテレビでオリンピックが見られないという。これは余り問題にしていないがかなりの問題である。ここにもグロ−バリ-ゼ-ションの歪みが後進国にしわ寄せされた。オリンピックってそもそもどうして開催されたのか、オリンピアで行われたからオリンピックとなった。これは場所と結びついた歴史の記憶である。ここに行ったことがあったがやたらに石柱の跡とかが多いので驚く。それもかなり大きな柱である。つまりここは神殿の跡であり神を祀る場所でありそれにかなりのエネルギ-が費やされた。肝心の競技場は極めて小規模の小学校の校庭より小さいものなのだ。それに比べて石の神殿の跡は重厚なまでに残っている。室内練習場もあったが主なものは神を祀る神殿なのだ。ということはここは競技場というより祭祀場であったことがわかる。そこに重点があり競技はそれに付属していたなのである。古代に関しては祭祀が非常に重んじられていた。これは現代ではわかりにくい、この祭祀は土地とも密接に結びついていた。ドルフィがギリシャの重要な祭祀場、神の御告げを聞く神聖な場所になったのはその場所にあった。残雪の山から雪解け水がほとばしり流れ崇高な雪の山々が見える、実に景色のいい場所なのだ。神と場所は密接に結びついている。日本でも鎮守の森があるところは神聖な場所だった。そうした自然に対する神聖な感覚を失ったのが現代であるから古代におけるオリンピックの意義も理解できなくなっている。オリンピックにはともかく戦争があってもやめて神聖な儀式として参加した。それは人々がまだ神々の力を畏れ頼っていたからである。この感覚はなかなかわからない、今は神を畏れることはない、金の力だけを恐れているのが現代である。

それがわかるのは

休戦協定で守られた古代オリンピックには4万〜6万人もの観客が集まったが、多くは川べりにテントを張って滞在し大変な混雑だった。「古代オリンピックの歴史」(フェレンス・メゾー著)によると入場料や入場券はなく座席は早い者勝ち。観覧席では日差しが強くても頭を覆わずにいるのが決まりで、紀元前548年には哲学者テレスが日射病で死亡。怠け者の使用人に主人が「ひき臼で働かせるよりオリンピアの祭典競技に連れていく」と言ったと伝えられている。

これは競技を見るというより神への巡礼のような信仰心からこれほどまでして集まったのではないか、ゼウスがオリンピックを観覧に来るものを守るというのもそのためだろう。つまりオリンピックは競技というより祭祀場へ行くことであり神への奉納であり巡礼のような役目を果たしていた。だからそこに意義があり競技場に行ったのだ。古代の感覚というのが現代では根本的に欠けているからこうしたことが全く見えないのだ。古代では昔はすべて参加するという感覚があった。その場で見て実感してわかるという世界である。

昔は田舎には「地芝居」がありました。また、私の住んでる東京のようなところには「大芝居」があった。今はこの二つしかなくなりましたが、昔はその間に「小芝居」というのがありました。いわゆるドサ回りのことです。
 そこでは、大芝居の脇役で出ていた人が地芝居に来て地元の人と一緒に演じるということがあったわけです。大芝居のエッセンスを田舎に持ってくると同時に、地方の面白い芸を持って帰り、東京の大芝居にかける。昔はそういう媒介する役目がありました

(出羽三山、神と芸能と人)

http://www.dewasanzan.jp/shahou/shahou_sangaku_2.html

大芝居とはまさに江戸東京など中心のマスコミ的報道である。小芝居とか地芝居はその地域に根ざした文化でありこの大芝居と地芝居は一方的でなく交流があったし双方向的だったのだ。マスコミは大芝居でありさらにまた世界は大大芝居となりこれが地芝居と交流することはむずかしい。一方的になりやすいのだ。オリンピンクは今や大大芝居であり地芝居で地域の人が作り出す文化とはかけ離れている。それも完全に商業主義でショ-化してインドネシアのように金のないものは見れないとまでなっている不公平である。村の相撲やくらべ石などという力自慢の祭りの方が意味があったのだ。それは村で男が一人前になるための祭りだったのである。

ではなぜこんなに商業主義化するかというと国にとっても商売でありもう一つは国威高揚とかナショナリズムであり政治的なものであり全くギリシャ時代のオリンピックとはかけ離れている。ナチスがオリンピックを利用したのもそのためである。だからすでにオリンピックは曲がり角にきている。ショ-として世界に放映して商売としてやる、企業の宣伝とか国威高揚とかが先にあって平和の祭典でもない、現実テロにおびえてものものしい警戒がされている。オリンピックはあまりにも変質してしまったのだ。だからオリンピック自体あまり見る気がしない、勝負にこだわりすぎるし柔道にしてもどこで勝ったか負けたか微妙な判定ではわからないしつまらないのだ。テレビでショ-化したものはマスコミの力がインタ-ネットで弱まるようにメデアが多様になればオリンピックに全世界の人が注目するより別なものを見ることになる。その興味が多様になるから全世界の人が注目する番組は徐々になくなってゆくだろう。

 
★競技者の堕落で、古代オリンピックは終わった。

 ギリシャを支配するローマがキリスト教を国教にした翌年の393年、古代オリンピックは最後となるが、それ以前に大会の精神や競技者が堕落していた。 当初、勝利者は銅像やコインの図柄にされたり、詩に読まれたりするだけだったが、次第に都市国家による年金支給や賞金が当たり前となり、買収行為が横行。宗教的な意味も失われていった。

すでにオリンピックがギリシャでも末期は今と同じになっていたのだ。つまり人間の歴史は同じことの繰り返し業の繰り返しなことがこれでもわかる。オリンピックもまたそうだったのだ。オリンピックに浮かれ騒ぐ時代は終わりつつある。なんかあまり見たくない、ショ-としてつまらない、別なショ-の方がもっと面白いだろう。パタ-ン化しているしその勝負にのみこだわるのも面白く無くさせている。人間はやはり何かしら精神の作用があって建築でも何でも生きてくるのだ。ギリシャの豊富な神話や伝説はそこにただ肉体だけを誇示し磨くものではない、精神的なものが大きな要素として残っているからひかれるのである。自然と人間との織りなす物語にひかれるのである。ボディビルのようなむきだしの肉体を誇示するだけでは人間とはならない、そこには自然とか地域社会とか信仰とか様々な要素が一体となったとき人間は神々となる神話の主人公になるのだ。今のオリンピックにはこうした様々な要素が省かれ商業主義だけが前面にむきだしになっているから本来の意義もないし衰退してゆくのだろう。



競技場に夏の花々オリンピア

ギリシャの詩



歪められたオリンピック

ギリシヤは現代の文明の基を成した国である。その要因は何であったのか?人間の資質にあったのか?その大きな要因の一つは自然、風土にあった。山と海の国だった。その中にポリス(都市)文化が起こった。それはオリエント的な巨大帝国を作らなかった。ギリシャこそ人間の歴史では特殊であり巨大帝国を作ることが普通のことだった。アジアをみても中国がそうであり中東もそうでありエジプトもそうでありロシアもそうである。ヨ-ロッパもナポレオンがでたように帝国的領土拡大化を目指す、それはギリシャのように山々に入り組んだ地形ではなく平坦であり巨大な軍隊を動かすことができる。モンゴルがその一番いい例であった。ロ-マにしてもやはり帝国主義的拡大化でありそのエネルギ-は政治的支配と統治に費やされた。ロ-マの道はその軍事的政治的統治の象徴であり彫刻も多数作られたのは皇帝の像が作られたのは広がる支配地域に皇帝の威光を示すためであり政治的色彩が強いものであった。しかしギリシャの彫刻は純粋に人間そのものの美や人間が持っている、神に与えられた人間の機能をいかに十分に発揮するかが追及されたのだ。考えて見れば人間の始めは歩くことであり走ること跳ねることであり持ち上げることでありその体が基本だったから当然、最初は肉体の機能の十分な発揮に重点が置かれたのだ。常に歩き走る、持ち上げるとかそれが日常的に行われていた。そこに戦いがあったから戦いの要素が組み入れられた。軍事訓練にもなった。でもギリシャでは基本的には人間肉体そのものの十分な発育と利用の探求だった。それもエジプトのような神々の巨大な像とはならない、人間的スケ-ルのものとして探求されたからより現実的であり確かに神々の巨大な像も建てられたが人間の等身大のリアルな像が多い。巨大化はやはりロ-マでもペルシャでもエジプトでも中国でも帝国主義的な所で作られてゆく。拡大化する巨大な領土を支配するのには必然的にそうなるのだ。統治するのに多大なエネルギ-が必要となるからだ。その点ポリスというのは人間がそうした巨大化にならない、人間的に留まる政体なのである。それは明確な人間的な視覚の中で人間の美や善を追及できる世界だったのだ。

だからギリシャではすべてが哲学になったのだ。数学があってもけそれは哲学の一分野であり現代のように学問は分離していない、数学の先生のホ-ムペ-ジにギリシャでのみ「証明」ということが必要とされ確立された、それが民主主義と関係ないかというと関係あるという。民主主義では絶えずその正当制を証明せねばならないからだという、そういえばピタゴラスの定理の証明だとかこうした数学は全く苦手でわからなかったがこれが哲学として民主主義とも関係あるのかとなるとどんな学問も哲学だということがわかる。哲学として結びついてくるのだ。法律でも証明が微に入り細に入り成されているから、証明というのは民主主義にとって不可欠なものであり幾何学の学ばざるものアカデメア(学校)に入るべからずとは幾何学に通じないものは哲学を勉強してはならないというのはそのためだった。幾何学と哲学は密接に結びついていたのだ。幾何学が最初にあったのは具体的な形として土地の測量であれ建築であれ幾何学を必要とした。代数学はのちにアラビアで起こったのだ。代数は抽象的概念の探求であり抽象幾何学のイスラム建築の模様と通じていたのがあるかもしれない、とにかくギリシャ文化の特徴は人間的尺度のなかでのコスモスの調和の探求だった。それが彫刻にも現れていたしオリンピックの競技もこれも肉体だけを鍛えるとかではなく本質的には人間の美と善と真とかの探求の一端でありスポ-ツと哲学も分離していないのだ。日本でも柔道、剣道が道の探求であり精神的要素が武道にあった。現代の勝負だけにこだわるのとは違っていた。

現代のオリンピックは古代のオリンピックと何が違ってしまったのか、国威高揚のナショナリズムとしてのスポ-ツであり一方で商品としてのスポ-ツである。だから社会主義国などでは勝者には莫大な褒美が用意されている。国の威信を示すのがスポ-ツである。一方企業の宣伝としてのスポ-ツでもある。


日本代表の中で谷さんだけは協会まかせにせず
自分で練習相手を五人連れて行ってます
その五人 一泊18万のホテルに泊まっていて
ホテル代だけで1000万 トヨタがだしてるわけですが
一流選手はすごいですね (2ちゃんねる)

他にも応援と一体となってガンバリたいとかでチケット350枚だかトヨタに用意させ
150人程は日本からツレッテッテ残りはギリシャ在住の日本人に配ったらしい
会場でめだってた応援軍団のソロイの赤いハッピもトヨタが用意
トヨタ柔道部監督も福岡の谷さんが通ってた道場の先生をひっぱってきてるし
ずっと練習相手してきた1歳下の後輩は谷の練習相手をするためにトヨタ入部
勝つためにできることはなんでも要求してるらしいよ
勝つための執念はとにかくすごいって 実際勝ったしね
けど金はかかるとはトヨタ関係者の弁
サッカーダメモト監督も勝てる環境が整えられなかったとか言ってねーでみならえっちゅーの! 


これはどこまで本当かわからない、推測で言っているのかもしれない、こんなことでてくること自体不思議だ。内部のものしかわからない情報ではないか、どこから仕入れたのか、ともかく企業の宣伝が大きな働きをするのがオリンピックである。もう一つは報道関係者のためにオリンピックがあるのではないかという疑問である。インドネシアでは放映権が払えなくてテレビが見れないとかその金が莫大なものとなっている。一泊・・・万円のホテルに泊まれるのは普通の人ではないしオリンピックを直接見るというのは限られた人である。そして肝心のギリシャの人が実はオリンピックに関心がなかったのである。どこも観客が千人単位しかいない、がらがらの状態で問題になっている。古代の熱狂した観客とはまるで違う。では今オリンピックは何なのか、これは巨大なショ-としての商売でありマスコミのためのショ-として企画されたものであり国威高揚のためのものである。古代のオリンピックとはにてもにつかないのだ。
つまり常に真、善、美とかの探求は汚されてきた。人間の欲が前面に出てきて宗教でも学問でもスポ-ツでもまるで違ったものとして利用されるようになる。商業主義によって出版なども金によって牛耳られ操作されるように常に歪められるのが人間の世界だった。なんでもこれほどまでに商業主義化するのは異常である。そこで人間的な精神の営みが歪められている。だからスポ-ツ選手自体、それは金のためだとか国のためだとか本来のスポ-ツのギリシャが求めたオリンピックの精神とはかけ離れているから何かスポ-ツ選手自体汚れたものではないのだが汚れたものに見えてしまう不幸があるのだ。


その競技場の入場門に向かう道には、かつてゼウス像が建てられていた。残存するのは台座だけだが、五輪で不正行為をはたらいた者から取り立てた罰金でつくられたものだ。台座には不正競技者の名前や出身地、さらには「五輪の勝利は財貨ではなく、足の速さと身体の強さによって決められるべきだ」との銘文も刻まれている


これは実に皮肉的である。近代のオリンピックもまさにこうなっているからだ。あまりにも勝つことメダルにその目的がおかれて商業主義になりすぎてしまったのだ。平和の祭典でもない、ものものしい警戒が行われ、ヨ-ロッパの金持ちもオリンピックに行きたくないとなり観客ががら空のオリンピックとなっているのだ。


2ちゃんねるこの情報はかなり内部にいないとわからない情報ではないか?
こういう情報はなかなか表にでてこない、やはりこれがインタ-ネット時代には時々もれてくる。内部関係者の情報がもれてくる。

時事問題3-ギリシャの多様性



温泉町の変質(利用者で変わった温泉街)

梅ヶ島温泉の歴史
梅ヶ島温泉は、今から約1700年ほど昔、応神天皇の御代(270年)に木こりによって発見されたと伝えられています。が、湯治場としてよく知られるようになったのは、武田信玄の時代です。梅ヶ島温泉は、現在は静岡市になっていますが、戦国時代は武田家の領地で、甲斐の国に属していました。温泉の下流2キロには「日影沢」という武田家の御用金山があり、その金山の利権を巡って、武田氏と今川氏が安倍峠を挟んで、長く勢力争いが行われていたようです。信玄公が金山巡視の折に、この地の温泉を大変好まれ、その後は、合戦で傷ついた侍や病に苦しむ人々を救う療養所のような役割を果たし、古くから湯治場として栄えてきました。いわゆる信玄の隠し湯の一つです


一般的には温泉場としての主な役割は人々の“養生”の場としての“湯治”が上げられるでしょう。現在のような医療技術の発達していなかった時代において、湯治は医者・薬・食事・呪術といった養生の手段の中でも特に重要な病気治療法の在り方でした。「医者の融通」「薬の服用」「滋養の付く食事」は上流階級のものでしたが、「温泉につかる」行為は皆等しく同じものです。(塩原温泉)

http://shiobara.shokokai-tochigi.or.jp/chiiki/burari/rekishi/yojyo.htm

鷺と温泉にまつわる話を書きました。松山の道後温泉の故事で、脚を痛めた白鷺が湯に脚を浸したところ回復したというものです。その時は他に類例があるとは思ってなかったのですが、昨夜、本を読んでいて、たまたま同じような話を見つけました。場所は鹿児島の山中にある塩浸温泉というところで、幕末に坂本龍馬が湯治した湯です。ここの伝説はサギではなくツルのようです

道後温泉(愛媛)‥‥「三千年の昔。脚の傷ついた一羽の白鷺が舞い降り、岩間から湧き出る温泉に脚を浸していた。毎日飛んできては脚を温めていると数日で良くなった」 湯涌温泉(石川)‥‥「千三百年前、傷ついた一羽の鷺が飛び立ち、その跡に湯が湧いていた
」 

多くの温泉は猿、熊、鹿、鶴などの動物が発見したとされることが多いことからも分かるように温泉とのかかわり合いをもっていたのは、動物の方が先であったようである。薬をもたない動物たちは、傷や病気を治すのに遠い昔から温泉を利用してきたのであろう。

養老年間(718年頃)に行者が薬師如来のお告げで発見したという歴史ある名泉。傷ついた鹿が湯治したという伝説から別名「鹿の湯」とも呼ばれます。


傷つけば獣もあわれ
いかに癒すや
温泉につかりしと
鹿の湯、鷺の湯、鶴の湯、・・・・
温泉の謂われは古りしを
人もまた病を癒しに逗留す
湯治とはその時代の言葉
病と苦労の多き昔
癒しを願う人々
しかし芭蕉の寄りし登米にも寄らず
雪に湯煙の鳴子にも寄らず
堺田の雪積む駅を越えて
はや秋田に電車にい出る
ここに昔を偲び
情を養う暇もなし
せわしくただ過ぎ行くのみかも


温泉というのは湯治として利用されていた。病気療養が目的としてあったのだ。だから一日二日泊まってゆく行楽気分とは違っていたのが温泉である。温泉はともかく動物が最初に利用したように古いのである。日本では川岸でも川そのものにも温泉が流れだしているから動物が利用するのは不思議でもなんでもない、温泉利用が湯治に始まったように病を癒したいという願いがあったのだ。つまり現代の病院のような役割を果たしていたことを考慮すべきである。病気は常に人間の大きな問題であり昔は特にそうだったから絶えず神仏に祈っていたのだ。だから前にも書いたが病気をいやす地蔵や信仰が多いのである。常になんらかの病気を癒す効能を求めてきたのである。こうした歴史から芭蕉の
語られぬ湯殿にぬらす袂かなという句を味わうと歴史的背景を知ると味あい深いものとなるのだ。何事歴史を知らないとなぜそうした事件が起きるかわからないことは何度も述べた。つまりこの句にそうした時代の今とは違う時の流れと雰囲気の中で作られたのである。一週間とか湯治する時間の流れをみないとこの句のことはわからない、今の時代は一日で効能を求め癒されようとしている。常に性急でありゆったりとした時間の流れに身をおくことはないのだ。だから情も育まれないし人間的なものが喪失するのである。

うつせみの病やしなふ川上川のみなもとどころ(斉藤茂吉)

佐賀県小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿

この住所も何か奥深い隠し湯のような感じである。私が泊まった青森の温川温泉(ぬるかわ)がそうだった。これは相当の奥深い所にあった。まさにみなもとどころにあったのだ。ここに吉川英治が10日間くらい泊まって書きものをした。温泉には有名な作家が長く泊まり構想をねる。そういう宿がある。温泉は湯治が始まりだから長くいるところなのである。長くいることによって情緒も作られてくる、そこにはゆるやかな時の流れが必要なのだ。それが今はないから情緒もないのである。自動車という便利なものが特にすべての情緒を奪ったのである。辺鄙な場所に苦労して行きそこに長く滞在するということが成り立たないからだ。病を養うこともないし情を養う時間もそこにはないのである。
(文明は人間の情を奪った)

小国へて津軽の奥の山の宿あわれ久しく雪に埋もれぬ
(自作)

温泉は高度成長期から会社の宴会場となりその用途がまるっきり変わったのだ。温泉の効能を求めた湯治とは全然違う温泉街となった。そこには情緒もない、ただ酒飲んで騒ぐ場でありうさ晴らしする場であり温泉の効能を求める世界とは違っていたのだ。温泉を温泉たらしめたのはその当時の時代であり今はそうしたものをもとめないのだから温泉が温泉でなかったとか単なる水道水だったとか責めても使用するものが求めるものが変わったから温泉町も変わったのであり温泉だけが悪いとはいえないのだ。そうした宴会場として一時の行楽用として利用するように変わったから温泉も変わったのである。いづれにしろ現代のあわただしい社会では昔の温泉情緒や温泉の効能を求めること自体、利用する側にとってもそれを実際それほど望むものではないのだ。病気を癒すんだったら病院にゆくからである。もちろん温泉は本当の温泉であってほしいの当たり前であるがどうしても高層ビルや温泉街自体が情緒がないしやたら金ばかり高くて人間味がない、しかしそうしたのは利用者側でもあるから責めることはできないだろう。ともかく昔は温泉は情緒のある人間味帯びたところであった。何かそのひなびた湯治宿にもそうした人間的なものがしみついている。それは団体でおしかける観光客とも違う、癒しを求めて人間がゆったりと過ごす時間がそこにそこはかとなく流れていたのだ。自動車でよりあわただしく一日、二日泊まる行楽の客とはあまりにも違う利用者がいたのである。この世のものはすべて供給者によって作られるわけではない、利用者によって作られることも多いからそうした利用者がいなくなれば温泉も変わらざるをえないのだ。ただ供給者が頑固なポリシ-をもって温泉は温泉らしくあらねばならぬとかそうした雰囲気など維持してがんばっていれば今になれば秘湯ブ-ムとなり栄えることになる。供給者も必ずしも利用者にこびるだけではだめなのだ。これはかなりむずかしいことだが文化的なものなら大衆にばかりこびて低劣化することは文化の否定であることは間違いないのだ

秘湯ブ-ムになっているからこれから中高年がそうした湯を求めて泊まるからそういう温泉には本物の温泉でないとだめだろう。そういう宿は貴重でありこれからも見直される。しかし大きな温泉街に本物の温泉や情緒を癒しを求めるのはもはや無理である。ただ高齢化なるとスロ-ライフが合言葉になるように何かゆったりと過ごす場がほしくなる。しかし日本にはそれがない、ただ高齢化社会でそうした場が徐々に作られてゆく、つまり利用者によって温泉もまた変わるのであり変わらざるをえないのだ。

参考

クエスの日記



温泉が本物にこだわる時代か(温泉入浴剤混入事件の盲点)

温泉が温泉でないと問題になったが私も最初これは温泉側が悪いと思っていた。しかしよくよく考えてみるとそうともいえないことに気付いた。温泉は誰でも本当の温泉であった方がいいことは当たり前だし本当の温泉でなかったら責められてもしかたがない、でも温泉が病気治療とか養成とか江戸時代からの切実な要求から湯治として利用していた時代とは余りにも違ってしまった。病気なら老人が毎日のように通っている病院にゆく、その方が効果があるのだ。温泉の目的は実際は温泉そのものにつかるより別なものに変わっていたのだ。人々の要求は温泉に入るというより高度成長時代は会社などの宴会などに利用され温泉街が昔のひなびた湯治宿ではない高度成長を象徴する華やかなホテル温泉街になっていった。つまり利用者によって温泉町は変えられた。利用者の要求によって変えられた、変えたのは利用者であり利用者、消費者の要求によって温泉町は変わった。利用者側が本当に本物の温泉を求めているのか、一日二日いても温泉の効能はないのである。だから温泉側を一方的に責めることは一見正しいようでそれは消費者側に問題があったのだ。

そもそも一体誰が力を持っているのか、権力を持っているのかそれは供給する方ではなく民主主義では利用する方、消費者であり大衆なのである。この大衆消費社会は大衆が作り上げてきた社会である。大衆が一番権力を持っている社会である。大衆が温泉町に宴会場として利用するようになったからそういう要求が大きくなったから温泉街も変質した。「お客様は神様です」というときそうならざるをえないのだ。それは別に温泉だけではないあるゆる所に言える。マスメデアを確かに大衆は批判してもマスメデアは一面作ってきたのは大衆である。大衆を要求するものをテレビが提供した。くだらない番組でもみんなが見るものを作る。それはとりもなおさず大衆が要求したからである。宗教団体を批判するがそれも大衆の要求によってできたのであり大衆の要求に答えるために宗教は堕落したのだ。創価もそうだが他の宗教もほとんど同じである。受験のために祈りにくる寺がある。これも現代的現世利益であるが大衆が求めるからその寺も繁盛する。そこで僧侶の利権争いが生じる。大衆のあらゆる要求を満たそう、答えるのが宗教になっている。大衆消費宗教になっているのが現代である。それも大衆が力をもっているし大衆の欲望に答えなければ繁盛しないからそうなっているのだ。それはすべての分野にいえることなのだ。大衆は別に崇高な真、善、美など求めない、そういうものを追及したら必ずそれは少数者でありその少数者が実際はそうした文化を作り模範となるものを提供したのだ。

温泉が悪いというのが大衆の意見であり世論だがあなたがた利用者、消費者、大衆が温泉をそうしたのではないですか、あなたがたは本当に温泉に温泉の効能にこだわって入っていましたか?ちょっと温泉気分にひたり気分転換を計るだけで満足ではないか、それだけのものであり温泉にそんなに効能を求める人はまれである。もちろん本物の温泉にこしたことはない、でも私の場合は他の人も秘湯ブ-ムになっているのは温泉が本物の温泉というよりひなびた昔の湯治のような宿を求めている。ランプの宿とかがブ-ムになっているのもそのためである。その雰囲気の方が大事なのだ。思うにそういう場所が大事であって例えば川があったとするそこに岩風呂を作りそれは別に温泉でなくてもいい、普通の水をわかしても十分に温泉気分は味わえる。温泉自体そんなに効能を求めても病気なら医者に行った方がいいのが現代なのだ。温泉街の問題は温泉が本物かどうかではない、湯治宿として癒しの場所だったのが宴会場になり全く癒しのばでなくなったことにこそ問題があった。だから秘湯ブ-ムはそこから生まれた。高度成長期、バブル時期に大衆の要求に答えて作られた膨張した温泉街はバブル崩壊とともにその価値を失ったのである。温泉町の持っていた価値は本来は別なところにあったからである。大衆の要求に答えるだけのものは大衆に消費され見捨てられる。そこに価値あるものを残さないのだ。本にしても大衆的消費として粗製濫造(そせいらんぞう)したベストセラ-などは今は全くかえりみられないとかなりやすい、将来的には大衆的の要求に答えて作られたそれらのものは何ら価値あるものとしてし残されない、宗教すら一つの大衆の現世利益に答えるブ-ムにすぎなかったのである。大衆社会に迎合すればそうなる、そこには何も価値あるものを残さない空虚感だけが残る。

そして今温泉はめぐりめぐってまた「癒し」の場としての要求が高まっている。それは温泉の効能より場としての雰囲気が大事である。だからもはや温泉は温泉でなくても温泉らしくあればいいのだから入浴剤でも実際はそれほど抵抗はない、秘湯は場の雰囲気の方が大事だ。これは中高年が癒しを求めてもっと必要になる。スロ-ライフにかなう場を求めるから必要になる。でもそれが本物の温泉である必要はないのだ。温泉であればこしたことがないが岩風呂とか作り景色のいいところであればそれで十分である。そしてスロ-ライフにとって大事なのはゆったりとした時間なのだ。だから湯治のように最低でも一週間とかいる場を作るといいのである。ただ日本は宿代が高すぎるから問題なのだ。芭蕉の句「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」という
句を味わいる宿が必要なのだ。この時代に中高年が入ってゆく、いろいろ苦労あったが語りきれないほどの苦労もあったがゆったりと一週間でも湯につかるのである。語られぬというところに万感の思いがあるのだ。その苦労はもはや語りきれないのだ。だから語られぬになっている。人生はそうである。山ほどの苦労も語りきれない、だからただ黙って湯につかっている。この句の深みを湯殿につかり味わう世代が中高年なのである。



有間温泉のこと

有馬温泉は伝説によると、神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(とすくなひこなのみこと)が発見したとされる。また、『釈日本記(しゃくにほんぎ)』(鎌倉末期に成立した日本書紀の解説書)の中にある摂津風土記逸文によると、有馬温泉は嶋大臣(しまのおおきみ)(蘇我馬子の別称)の頃に始めて有馬温泉と呼ぶようになったのであって、それまで土地の者は『塩湯』と呼んでいたとある。

舒明天皇3年(631)には、舒明天皇が、はるばる都の飛鳥から有馬へ湯治に来たことや、大化3、10、11年(647)に孝徳天皇が群臣とともに有間(有馬)で温湯(この時に、有間皇子が誕生)したことが「日本書紀」(養老4年〔720〕年に成立)に著されている。

631年と638年の二度、舒明天皇が行幸され、孝徳天皇の時代には、行宮(あんぐう:天皇が行幸される際の仮宮)も建てられている。その証拠に、孝徳天皇は647年(大化三年)十月、群卿大夫を従えて湯治に来られ、年末まで滞在されたという記録が残っている

『古今著聞集』(鎌倉時代の説話集)にも『行基-もろもろの病人をたすけんがために有馬温泉にむかひ給う。

有馬郡と三田
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/3_arimagun/arimagun.html

その土地で生まれた名をつけることがよくある。神代から温泉はあったし日本では温泉の利用は古いのだ。有間皇子のことでもわかるように必ず病気療養が温泉に浸かる目的なのである。だからかなり長く滞在する場所が温泉だった。

天皇の皇子なれ
有間の湯に生まれれば
有間皇子と
有間の湯の古きかも
若くして有間皇子
非業にして死す
有間の湯に休らうは
ただ一時のみなりし
今もなお癒しの場とて
湯はあるべしかな
虫の音かすか
秋に入るや昔を偲びぬ



金メダルの価値は一様でない・・・・



今回のオリンピックで日本は金メダルラッシュだと喜んだ。しかしこの金メダルの価値は一様ではない、同じ金メダルでもそれぞれに違っていた。女子のプロレスのようにどっちが勝ったのかわからないような誤審ではないかとされた外国人の金メダルもあった。柔道では二回連続とか三回連続の金メダルもあったし全部一本勝ちの金メダルもあった。特にマラソンの金メダルの価値は高い。同じ金メダルでもその価値は金メダル数個とった以上に価値が高い。そのマラソンで日本が金メダルをとったが今回は盛り上がらなかったとか高橋のはじめての金メダルに比べると価値が低いとか評価があり同じ金メダルでもかなりの価値の違いがある。金メダルは確かに同じ金色なのだがその中には半分銅であり銀が交じっているのもあり純粋に全部純金のものもある。価値がそれぞれ違っている。勝った内容によってもかなり違っている。これからわかるように価値は常に同じではない、例えば一杯の水でも砂漠ならその水は黄金より高価になる。価値は場所により時により常に変動している。価値とは計りえないものなのだ。それをあえて貨幣でもって計ろうとするから無理がある。K.ポランニ-の「人間の経済学」ではまさにいかに物の値段というのが計りえないものなのか、経済の基は交換の基は物々交換だった。それもあらゆるものが勝手に自由に交換できるものではなかった。ある物とある物の交換するものが決められていた。だからそこには極端なことが起こる。

西アフリカの例として食物は子安貝のみで買われ金で買われることがないとか「糸に吊るされた子安貝とマリア・テレサ銀貨との等価が毎水曜日に市場において公示された」とかあるがそもそも子安貝にそれほど価値があるものなのかこれも古代の不思議である。貨幣の文字が貝とつく漢字が財とかの象徴になったの不思議である。貝には今そんな価値はない、でも美しい貝にはそれだけの価値があった。時代によって価値も変わるし価値とは時々刻々変わっているから実際は値はつけようがないのだ。だからグロ−バリ-ゼ-ションでドルが世界の標準的価値になっているのは人間的ない、かえって不公平なものである。それはアメリカという強国の支配下での価値でありアメリカが衰退すれば今度はまた中国の貨幣が世界標準になったりする。国の盛衰で貨幣の価値も変わってくる。イギリスのポンドがその例である。エジプトとかが今もポンド゙単位を使っているがポンドは過去の七つの海を支配した大英帝国の名残であり今は価値はない、貨幣の歴史は複雑でありこれを理解するのはむずかしい。ただ便宜的にしかたないから価値の基準として貨幣があるのであり貨幣の価値がすべてではないことは確かである。だからすべて貨幣によって価値を計るのは間違っているのだ。この価値の不公平が戦争の大きな原因になっているから大きな問題なのだ。

今回のオリンピックの金メダルは価値がそれぞれ一様でないことがその証拠である。一つとして同じ価値の金メダルはないしその価値は計りえないのだ。金メダル16個とったと数でも計りえない、その中には金メダルにふさわしくないものもあったし銀色の銅色のもあった。逆に銀メダルでも金メダルに等しかったものもあった。価値を一様化するということのむずかしさが人間にはある。根本的に人間の価値は計りえない、何が価値あるかはその時の環境や条件や様々な要素で決まる。今回のマラソンの金メダルもそうだった。はじめてとった金メダルには何倍もの価値があり二回目は価値がぐ-んと落ちる。

マケドニアの貨幣とキュプロスの真鍮を混ぜあわせて、そこから5ドラクマの価値の新しい鋳貨を打ち出した。その四分の一は銀、残りは合金の真鍮だった

この例文のように金メダルにしても様々な合金になっていて純粋の黄金のメダルはないのだ。つまり金メダルというのも一種の貨幣でありスポ-ツという競技の場で価値づけられた貨幣であった。しかしこれは公平でなかった。むしろ金メダルはそれぞれ違っていた方が公平である。マラソンなら高級自動車一台とか他の競技でも・・・・なら・・・・とかその価値は変わっているのが公平である。ただ金メダルは象徴でありあとで日本の女子のマラソンの金メダル獲得者には総額で800万円が送られるとか国によっては一生生活できるものが保証されるとかその価値は金メダル意外にもあるからそっちの方の価値づけが大事になる。いづれにしろマラソンでも高橋の金メダルはダントツに価値があり歴史的にも価値があった。日本で前人未到のことをやり遂げたというこの価値は変わらない、次は二番煎じになるから価値が劣るのだ。

オリンピックの問題は余りにも商業主義化したことである。スポ-ツの祭典ではない、巨大な商業主義化したショ-である。企業の宣伝の場だったりマスコミに必要なオリンピックだったりと本来のオリンピックとはまるで違ったものになっている。わずかのポイントで金にこだわるのも異常である。金メダルとるためのオリンピックではないはずだったからだ。いづれにしろ現代社会があるゆるものが商業化する。このことに無感覚になっている。精神的な価値まで商業化する。そうしたものは市場化しえないものである。完全に商業化に席巻されてそこにのらないものは入りこめこともできない、マスコミや出版とか書店なんかそうである。だからかえってマスコミに宣伝される人物とか本でも何かうさん臭いと見る眼も持つべきである。

ソフィストのように授業料を取るわけでもなく、政治や出世について語ることもなかったのです。人間生活にとってもっともたいせつなことは「精神をよくすること」であり、金銭や地位ではないことを説き続け、精神を高め、徳をもつことが結局幸福であり有用であるという確信を抱いていたのです。ソクラテスはそれを、対話を通じて説いてまわりました


精神的なものは商業化すると冒涜することになる。金銭をすべて否定できないにしても精神的なものは別な価値を追及しているからだ。ともかくギリシャは実際現代文明の基あなした国だからもっとギリシャを知る必要がある。例えば民主主義とスポ-ツ精神、オリンピックの競技が何か関係あるのかというとこれも民主主義の政治と関係している。つまり弁論で公衆に訴えることは選挙は競技なのである。フェア-な競技により人物が選ばれるのが選挙なのだ。ギリシャ人のもう一つの大事な特質がギリシャ人は哲学者だったことなのだ。今日のような実用一点張りの世界ではない、世界とはいかなるものか、人間はいかにあるべきかとか総合的に考える哲学者だった、だから暇(スコ-レ)が重んじられた。実用的なものばかり追及して哲学する暇がないのが現代文明だというのも皮肉である。学問が哲学から出発したが哲学が喪失した世界、それが現代文明である。ギリシャで発生したオリンピックなのだからやはりギリシャのオリンピックとは何であったのか考えるのが今回のオリンピックの意義なのだ。