郷土地名散策小林勇一作

(地名についてのエッセイ)
(時事問題の深層から)
細田については(時事問題−長いトンネル)
消えた駅名「楢原」のショック
地名からたどる旅(四国)
平泉地名(文字絵)

暮れる地名

交野市の歴史地名解読
白鷹町と高鷲村

大坂-交野-近江(志賀の都)の歴史の解読2005-3-4(4ペ-ジ)
(一連のものとしてまとめる)



豪倉(原町市)
前日向(相馬市柚木)(八沢浦)

月夜畑(東和町)
飯館は合成地名だった
曲田の多いのはなぜ(原町市)
行合道(川俣)
昭和村の地名(会津)
東和町の地名(焼畑地名と田)2004-4月20日
安達太良から真野の萱原(阿武隈高原を結ぶ歴史)4月28日

相馬の地名と秋田、青森の地名の共通性(ケとキは共通の言葉)2005-1-6日




山口県阿東町の一集落に「囲穀制度」というのがあった。集落十一戸が一定の量のモミ(後には玄米)を集会所の共有倉に貯蔵し、不作年や戸どもが多くて食糧に不足をきたした時には、一定の利子をつけて借りることができるという制度であった。大正三年の三戸の人が約九石返納したという記録があるから、それ以前からあった制度だろう。こうした地域社会の互助の仕組みは、郷倉とか社倉という名で各地にあったが、各種の共済制度のもとに姿を消していき、同時に地域社会の中でも人を頼らず、金だけを頼りにする生き方が主流になり始めた。




地域の解読

過疎化の農村の研究者
http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~ogawa/decode.html

前日向

この道の行く人まれに白百合の咲いて静けき前日向かな

ここの八沢浦は相馬になっていた。鹿島町だと思っていたからだ。前日向という地名はまさに前がいつも日向になっているからだ。これに反して日影山とか日影とつく地名も多い、日本は山国だからそうなる。地名はその場所に行って納得するのが一番いい。地形とか日あたりなど関係しているからその場に立ってみないとわからないのだ。なんともない風景だったがいい場所だなと思った。というのはほとんど自動車が通らないこと見晴らしがいいことである。都会の団地などには住みたくない、田舎なんかつまらないと若いとき思う人がいるが田舍を愛さない人は平和も愛していないのではないか、自然とマッチして暮らす田舍を愛さない人は精神的にどこか欠落しているからだ。なんでもない風景だが画家なら一幅の絵としている。そこには実にのどかななごみがあった。都会にはなごみがない、都会には都会の良さはあるが都会を愛すという人はどうかしている。感覚的にもどうかしている。ただ京都などは違う、あそこには自然があり歴史と自然が日本の箱庭的風景を作っているから東京とは全然違うのだ。ただこんな所でも悪いことがあった。崖崩れの警告の注意板があった。どんな所にも何か悪いことあるものだとつくづく思った。理想的な住まいの確保はむずかしい。隣近所が犬を飼ったりいやな人の場合もあるしいろいろ必ず問題がある。山の中に住んでもままならぬのが人間である。自然−人−住居 これらがうまくかみ合わさったときそこは棲むにいい場所だがなかなかそういう場所はない。何かが必ず欠けているし不満足なものがでてくる。

















月夜畑

今回阿武隈山中を自転車でまわって細田というのもその一つだった。細田とはどこにでもあるし姓でもありふれたものだったが細田の意味とか細田についての由来がわからなかったが阿武隈の山の中の細い田を見てなるほどまさに「細田」だった。これに気付くきっかけは「細田」へ行く道を農作業している人に尋ねたときだった。百目木(とどめき)とはこれはまさにトドロク、ドウメクとか音から来た地名でありこれもトドロク流れのそばにぴったりと町があった。これも地名とぴったりの名前であった。

そしてその近くの地図を調べていたら「月夜畑」とあった。これも細田のすぐ近くにあった。これも不思議な名だなと思いインターネットで検索したら「月夜畑」の由来がでていた。ここで相馬藩との合戦もあった。それより月夜畑とは

秋の日は、つるべ落しと言われて短い。晴天ばかり続かぬ年もある。人手不足の家では、天気を見定めて夜業(よなべ)に稲刈りをしないと、世間並に取り上げが終らないので、夕飯もそこそこにして田甫に急ぎ稲を刈る。小学生の子も手伝いにかり出される


これはなるほどと思った。月の明かりで稲刈りするから月夜畑となった。細田といい、月夜畑といいなにかそこから山の生活が浮かんでくる。ここに地名の面白さがあるのだ。旅はこうした知識がないと面白くないのだ。外国では地名についてもわからないことが多すぎてせっかく行ってもわからずじまいになるのである。それにしても月夜畑は詩的な地名でもある。でも実際地名は切実な暮らしの中から生まれたことがわかる。インターネットはこういう特殊なものだと意外とでてくるのだ。月夜畑とは他にもあるからだ。


http://www.docan.co.jp/~tama/kurashi/tukiyo.html

飯館は合成地名だった!(多い合成地名)



飯館が合成地名だとは思わなかった。図のように複雑な過程で合成された地名だった。これは古くからの地名だと思っていた。古い館がありそれで村の名にした。屋形、館とつく地名は村の中心となる庄屋とか館があったからつけられた。ただ新館とあったのだから館があったことは確かである。新しい館というのがその基であり、その前の飯とはなんの意味もないものだった。月館は月とは関係ない、つきはツク築(つく)であり館を築いた所だろう。築館も実際にある。新しい館とはそこに新たに館を作りそこを中心に村ができあがっていった。この合成地名が多い。これは江戸時代から明治時代になるとき行政の単位が変わり名前を変えざるをえなかった。町村の合併のためにそうなった。この命名の仕方は機械的というか数学的というか本来のその土地にあったものを基本にするのではなくただ便宜的につなぎあわせただけである。つまりabc def と名前があったらadというその地名の一部を取り出してくっつけたのだ。それにしても石橋村とはどこなのか石橋があったからであろう。石橋は石の橋が珍しいからそれが名となった。二枚橋はこれは川をわたるのに二枚の板など渡して作る粗末な橋でありこれも名前としては多い。地名となるにはそこが何か生活上重要な役目、村の人にとってかかせないものであったからだろう。橋を渡るのも東京に一つ橋があるごとく一つの橋、丸太を渡す橋が一本あったからというのも信じられない、橋とういうのは生活上不可欠でありそこが何か生活のポイントととなるから名前がついた。

ともかく合成地名が多い。長野県の楢川村も奈良井と贄川という村が合併してできたから楢川とした。これはもともとあった村だと思ったが違っていた。奈良は楢になっていた。これは味気ないものであるし問題がある。楢川村はさらに塩尻市と合併するとどうなるのか、楢川村は消えてしまうだろう。合併論議が盛んだが小さな町や村の名は消えるかもしれない、これも合併の一つの問題である。地名もやはり歴史が基礎にありそれを変更すると歴史が残らない、歪められるということがある。福島県というのもこれも歴史的に作られたというより人工的に無理やり作ったから何か不自然なのである。江戸時代から明治になったときここで様々な変更がありそれが現代までつづいているのだ。地名の変更が問題なのは楢原の駅名が消えたショックで(時事問題)で書いたがそこが別な世界になった、今まであった世界が消えたというショックを感じるからだ。つまり地名はそれほど日常生活で大事なものなのである。地名からその土地を喚起する、呼び起こすのだ。その土地の地名が消えることはだからその土地そのものが消えたような錯覚におちいるのである。

消えた駅名(楢原)のショック


曲田(まがた)について

「地方」の意味の変化「地方」の意味の変化「じかた」としての地方・中央に対する「地方」・「地方(じがた)」:土地の形状から始まって、各地域固有の農業や生活のあり方を示す言葉

日本舞踊用語。舞踊において地の音楽を受け持つ人々の総称で、踊手の立方(たちかた)に対する。地は土台、下地の意。囃子方を除いて、三味線音楽のほとんどが含まれる。

地方の本来のもっている意味はここからきていたのだ。地は地形の地であり方は形とか型の意味である。これが曲田となんの関係あるのかというとこれがわからなかったのだがインターネットで調べて偶然でてきたホームページでわかった。

馬耕で最も難しいのは、自在に操る技術。どんなに熟練しても、曲がった田んぼを隅々まで耕起するのは無理。田んぼの大きさも小さければ、作業効率は極端にダウンする。

http://www.pref.akita.jp/fpd/meigi/meigi-01.htm

なぜ耕地整理が必要だったかここに詳しく書いてある。曲田という地名が日本全国いたるところにある理由はこれだったのだ。もともと曲がった田が多かったのである。今のように真っ直ぐな田は少なかった。曲がった田が普通であった。なぜそうなるかというとまっすぐにするにはそれなりの土木事業が必要であり大変な労力がかかったから地形にそって曲がったものとなった。自然は真っ直ぐなものはない曲がっているのだ。真っ直ぐな道路でも都が碁盤の目のように作ったのもまさにこれは文明の力だった。

地方(ちほう)というより地方(じかた)というのが本来の言葉であり地方は芸能でも立方という華やかなものに対してその囃子をする土台となるものが地方だった。この二つがかみ合って調和するのだ。地方(じかた)と立方の役割の違いがある。

白石紙布(しろいししふ)
和紙を原料とした世界でも珍しい織物。富城県白石市で織られている
白石紙布は、江戸初期からはじまり、武士の祥などに使われてきた。

川俣紫根染(かわまたしこんぞめ)
紫草の根で染めるやさしい紫色。万葉の時代から行なわれていた紫根
染だが、きれいな紫を発色させるのはむずかしいし、手間もかかる。
会津木綿
縞柄の木綿織物で、福島県会津地方で織られている。この地域は、古く
から藍と木綿の栽培が盛んなところで、会津木綿は寛水年間(1624-44)ごろ、
武士の妻たちの内職としてはじまった。紺地に白などすっきりした縞柄が多いのも、それゆえのことかもしれない。


地方というと昔は地場産業というのがあった。その土地から産み出さなければ富は生まれなかったからその土地土地の産物が生まれたのだ。こんな狭い地域でもこれだけの染め物などがあるとすると全国にしたら地域地域で違った織物があったのだ。これは今でも絨毯なんかではそうである。南米辺りでも織物は小さな地域地域で違ったものになっていて調べている人もいる。現在の地方の貧しさはこうした地場産業がないことである。工業は南部鉄瓶とかなると地場産業になるが電子の工場では地場産業になりにくい。だからお土産でも今ではその土地のもので作っているわけでないからおいしいものではない、本当のお土産はなくなっているのだ。いづれにしろこの曲田というのは日本にとって象徴的な地名でありだから全国的に多いのだ。

今回インターネットからの引用が多くなったがインターネットは編集が必要であり編集してそれなりの一つのまとまりあるものを構成したものは功績があるのだ。みんなばらばらになっているからそれをリンクして一つの別なまとまりあるものを作り出したものはまた新たな発見をしたのでありこれをあまり著作権あるから出すなとか言うべきではない、そしたらインターネットは宝の持ち腐れになる。知識は共有すべきであり個々の体験もそれぞれ参考にするのがインターネットの世界なのだ。今回引用が多いにしてもこれは私の発見であり私の功績があったとも言えるのだ。インターネットは調べること自体が大変な作業になってをりこれを案内したり編集したりする人は貴重な仕事をしているのである。これがまだインターネットでは理解されていないのだ。知識を新しく構成して新たなものを創造しているということが理解されていないのだ。












                           原町市の曲田



     行合道

これと対象的なのが追分である。追分は昔の街道に名づけられた。道が分かれる、それになぜ追うがついたのか、誰かが別れ道で何かに追われるように別れてゆくからなのか、つまりなぜ昔の人がそうした名前をつけたのかよくよく考えるとわかっていなことなのだ。一方行合道というのも結構多い。霊山に出る所が行合道になっている。これは別れる道ではなく、ここで出会うことが多いから出会うことに重きをおいて名付けられたのだ。これは村の人がここで出会うという生活から生まれた。ここで別れることはない、村は狭いのだから出会う道であって別れてしまうことはないのだ。追分の方は永遠に別れて出会うこともないことがあった。歩く旅は簡単に出会うことはむずかしいのだ。だから追分には昔の人が記憶する場所となったのだ。そこに人々の思いが集まるところだから地名としていたるところにあるのだ。つまり地名は人々の生活する中できってもきれない故に地名が残っているのだ。今ならなんだただ出会う道か、別れる道かしか道に対する思いがなくなっているのだ。道の重要性が生活の中でうすれたのだ。歩く感覚の中で出会う道と自動車で走る道は全然違った感覚なのだ。自動車だと高速道路のインタ−などが交叉する出会う道となるが歩く感覚でつけられた地域と密着した地名とは根本的に違うのである。行合という地名も全国に多い。

江戸時代『飛騨西街道』「濃州徇行記」

 行合組、家80戸、男女473人、馬25匹。この村は、郡上街道より東に当り、半道ほど奥山間にあり、耕夫多き所ゆえ山かせぎ、または関、上有知への出荷歩行持ち、駄賃付などをして助力とする山、小百姓ばかりなり。また、この辺りにおいては子馬を郡上や飛騨から買ってきて、2、3才まで育てて売ることもある。
 出郷を庄合という。民戸あり。本郷より、東にあたれり、この所に抜荷守番所あり

 この中に出てくる、【庄合】は、現在の少合のことと考えられる。
 少合…行合本郷の出郷である。少合は少郷であって、何時の頃からか少合と転化されたものであろう。



出郷とは小出町とかあるように離れて小屋などを作り耕作した地である。小出谷と浪江の葛尾にあるがこれは小出屋である。遠くに出て耕作して小屋を建てた場所が地名化したのだ。それがなぜ大切かというとそこから分家して小屋だけでなくそこで暮らす家も建っていったからだろう。

 行合峠を越えて通ったでね。あそこの道も治った。昔は、全然下の方の道やったでね。あれこそ。自動車も何も通らへん山道やったで。田尻というところがあるわねこの、少合の集落を越えた向こうに、その子んたは、峠を越えて少合まで来て、今この家の上に橋があるけど、この下の山道を越えて、みんなこれしかなかったで。今は5軒か6軒あるは。田尻っていう洞は。今は神淵へ抜ける道ができたけど、車も通れるけど、元は何もあらへん、この山道をあよんでみんな通われた。田尻の子んたは、少合口へ出て行合小学校へ通いないたな。うちがお店やっとる時まで買物にきないたな。

ここには行合橋とか行合峠があった。頻繁に馬で荷物を運んだから馬が坂から転んで死んで馬頭観世音をたてたという記録がある。地名というのはこのようにその土地のことをイメ−ジさせる。なかなかここに旅してしもこうしたことがわからない、また旅したときはここまで観察できないのだ。これはここに住んでいる人でないとわからないからだ。
 
http://www.gifukoku.go.jp/mino/touge/052/index.htm



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