東和町などの地名(焼畑から田の地名)

「はたけ」は、「アワ、ヒエ、ムギ、マメを以ては陸田種子(はつけもの)と為」したという日本書紀の残照だろうか。現代はハタ、ハタケ、ハタキ、ハツキなどなど色とりどりの方言名がみえる。時の流れはあろうが、一般に土佐では焼畑をハタといい山畑をサンパクと呼んでいるように思う。田に白を重ねた畠という字を音読みしてハクというのは、柏(カシワ、正確にはシイ)からきている。シイの実が下半部につけてる台座の色は、乾いた土の色といえるだろう。だから山の畠をサンパクというのであろう。

野老山(ところやま)ヤマイモ-高岡郡越知町

いもせ(妹背) 高岡郡日高村日下

上代、女の兄弟の側からみて男兄弟を「せ」と呼び、男の側からみて女兄弟をすべて「いも」と呼んだ、これは妻のことでもあった。

仁淀川財産目録書−地名の由来
http://www.niyodoriver.jp/mokuroku/chimei_ochi.html

山村の地名を考えるとき焼畑地名に注目する必要がある。山村の最初の生活が焼畑だったのだ。だから焼畑の生活というのが刻印されたものがある。田を作り米を作る前は焼畑だったのだ。それは地名に残っている。ハタケ自体が焼畑のことであった。山村の原初の生活は焼畑だった。阿武隈の山々の生活も焼畑から始まった。第一おそらく東和町の旗祭りで有名な木幡というのもハタであり焼畑地名であろう。八幡などもハタであり焼畑地名なのだ。佐須も焼畑地名である。いかにも奥の奥だからふさわしい。黒指、天指、目指、日指・・・とか秩父山地の斜面は焼畑地域だった。サスとは韓国語かというとわからない、なぜなら韓国語と大和言葉はほんの一部しか共通性がない、韓国語のほんの一部が日本語に入ってきただけだからだ。ただここでなぜ焼畑と山畑を区別したのか不思議である。それは畑でも別なものだったのだ。焼畑でない畑がありサンパクと言ったことは確かである。

〈白田(はくでん)の収,十余斛(こく)に至る。水田の収,数十斛に至る〉とあり,陸田を白田と呼んでいる。国字の畠はこの白・田の合字である。

サンパクとは山の畑ではなく陸田のことであり水田の他に陸田として穀物の栽培が奨励された。

冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我(あ)が心焼く(1336)

野老山(ところやま)はヤマイモでありヤマイモとって暮らしていた。生活の濃厚な匂いがする地名である。いもせ(妹背)はやはりそこに古代からの古さを物語る地名である。ここは四国だから西日本には古いものが残っているから地名研究には面白い。東北にはこうした万葉集にでてくるような地名には欠けている。妹背とあるだけでなんとなくその村が自然と人間的な親愛の情で結ばれている感じになるからいいのだ。

すめるき(皇祖神)の神の宮人ところづら(冬薯蕷葛)
  いやとこ(常)しくにわれ(吾)かへり見む


川俣町の川俣はやはり川股であろう、川が股になっている、分かれている所である。実際あの辺を行くと川が山間を流れているがそれが分かれることが多い、川の流れ分かれる所がポイントととなり地名化したのであろう。ただ地名は複雑であり必ずしもその土地から名づけられたとは限らない、移住した人々が多く故郷の地名をつける場合も多いからだ。ただ地形的にはそういう川が山間を流れている。羽田などもハタであり焼畑地名だろう。東和町の大畑とか高野も焼畑だろう。野とつくのは傾斜地であり焼畑であった。小林のコバも焼畑地名だった。焼畑に由来するものが多いのだ。鹿野というのもそうでありカノはノがついているから焼畑なのだ。ノは焼畑なのである。山の神である、名はオホヤマツミ神を生み、次に野の神である、名はカヤノヒメ神を生んだ。またの名はノヅチ神と言う ... 山の神の次にカヤノヒメ神を生んだのはまさに最初に山の神があり狩猟中心の世界があり次に焼畑に写った。この生業の変化がどのようにもたらされたか、焼畑は狩猟採集より発達した文明の段階になるからこの技術が渡来人によってもたらされたかもしれない、これも稲作と同じように定期的に収穫が得られるから権力基盤をもち地方の国造、毛野王国などを各地に作ったのだ。その毛野王国のなかに渡来人が入ってきて焼畑の技術をが入ってきたのかもしれないそれが万葉集の入野の歌だった。東和町の白髭は高麗(こま)からきている。この白髭は各地に多数ある。白髭は新羅であり毛野に新羅人が入植したのだ。

キミコベ(阿部氏)は焼畑をしていた。物部氏水稲耕作神である飯豊神をもってやってきた。

三毛入野(みけいりの)命(熊毛の神)をまつるといふ。三毛入野命は、神武天皇の次兄にあたり、日向国を出て東征の途中、船が周防の海で暴風雨に遭ったとき、身を海中に投じて、船の安全をはかった航海の守護神とされ、また穀物の神ともいふ。

この三毛入野が毛野になった。毛野王国の支配下にあった阿武隈や相馬は焼畑と深い関係があった。入野というのが毛野の名前の起こりであるからだ。相馬という名自体、相馬氏の移住地名でもソウリであり焼畑地名だった。焼畑の民が先住民であり阿部がアブであり阿武隈になったという説があるごとく阿武隈高原には焼畑をしていた先住民がいてそこに物部氏などの水稲技術をもった人が入植してきた。鹿島町の真野の真野明神の萱野姫を祀った所も焼畑の神であろう。そして水稲の神の飯豊神などを祀った。飯豊山とは水稲の神として名付けられた。飯豊郷が相馬にあるから阿武隈山系を伝い移動した民がいるのだ。そしてその山の高い所まで田を作った伝説が残っている。田を作ることが山村でも普及していたるところ田になるべき所を求めたのである。だから田代というのが地名としてどこにでもある。田に代わるべき所として常に田になる所が求められた。特に山村ではそうした田になるべき土地が少なかったのだ。下田などというとこんな地名珍しくもなくいくらでもあるというがこれも阿武隈高原の下田地域を行ったら不思議に思った。なぜ山の中が下田なのか、下の田になっているのか、かなりの山の奥が下田なのである。そこは確かに広い範囲なのだ。下田があることは上田があるのだ。上田があるから下田がある。上田が先にあるのだ。上田はアガタであり県(あがた)であった。県主が最初の国だった。上田に有力な部族が支配していた。そこは米をとるに一番いい場所だったからだ。いい水が天水として供給できるからである。下田になると水とか湿地帯とかがあり田にすることはかえってむずかしかったのだ。だから東和町や岩代村でも川俣でも田のつく地名は多いのだ。山村でも田のつく地名が一番多いのである。馬洗川をさかのぼり板橋があった。そこをわたって山陰の道に出たら思いも寄らず田があったのだ。こういうことは前にも経験した。誘われるように山の道を上って行ったら山の上が開けていてそこが田になっていて小さな城跡まであったことには驚いた。税金逃れの隠し田でなくてもこうした隠れるようにある田が山村には多いのだ。日本が山でもどこまでも田にして米を作るようにしたのだ。信州の伊那(いな)も米の意味であり与那国島という日本の果ての島のヨナも米の意味らしい。山の奥から海の果ての島まで米を食うことが米がとれることが悲願の国だった。細田については前にも語ったが細々と田を作り山村では暮らしていた。田は貴重なものだったのだ。日本では道があるところ田に通じている。田の入とかの地名はこういう所かもしれない、田の入り口になるからだ。

あしひきの
山田を作り
山高み
下樋を走らせ
下泣きに
我が泣く妻(日本書紀)


これは山田が最初に作られて天水が山の田を樋を通して下らせる、そういう生活実感から生まれたのだ。田を作るには水の管理が重要でありいたるところに水神があるのは稲作国の日本であるからだ。麦は余り手入れしなくてもいいが田は水の管理とか水の配分とかで田を作るものは協力する必要があった。水の管理は田を作る生命線だったのだ。日本人の文化がこのこまやかな手入れの必要な稲作から生まれたことは確かである。

私たち日本人は米に対して強い執着を持ち続けてきました。青森県の五戸地方は米の出来ない村が多く、日常食べられない家が多かったそうですが、妊婦が産気づくと生米を何粒か食べさせたり、産後にも十粒ほどの生米を食べさせたそうです。これを力米といって、生米を食べると精がつくと信じられていた実証ともいえます。 他にも、竹筒などに米を入れて貯えておき、病人が危篤になるとこれを病人の耳元で振って、「早く元気になれよ、元気になればこれを炊いて食べさせるから」のような文句を言い聞かせたという

土佐の徒然日記
http://www.geocities.jp/schwarz_maron/nikki_2.htm

飯を藁に入れて碑に捧げているのもあるが飯を大事にしたためだろう。飯が食えることが最優先されたのだ。

白猪森の謎(東和町)

焼畑がその原初の生活形態とすると狩猟もそうである。鹿や猪を主な食料としていた。

「田獵」の伝統、狩猟による邪気の排除と豊穣、武力と権力の誇示、そして共同体の首長が行う狩猟は、その年の豊凶を占う重要な儀式でもあった。鹿への神聖視、獣害からの防御と豊穣という二重の構造も存在した。贄への儀礼的飲食は、その土地の領有を認める象徴的信仰でもある。共同体の秩序を維持・安定の呪術を行う場として、祭祀は季節毎に行われ、首長は、職能として強力な呪術を発揮・獲得する場でもあった。

「御霊神」の誕生(2)伊  藤  信  博(言葉の科学)

狩猟や焼畑が主な生業でありそれによって力をもっていたのが県主(あがたぬし)である。田が作られる前にそういう土着の勢力がありそこに稲作がもたらされたのだ。「そこで、この祟りを鎮めるため、占いに従い、白猪・白馬・白鶏を御歳神に献上した」とか記録にあるのは白いものは吉兆とされ、縁起がいいものとされ神にまで祭り上げる古代人の心があった。この東和町の白猪森はそうした祭祀が行われたところではないか、とするとこの森は神聖なかなり古い歴史を持つ森となる。狩猟が行われた森なのだ。モリはモルであり土をもることであり墓でもあった。そこに祭祀された動物の墓などが作られた神聖な場所が森であった。牛を殺して神に捧げるのは渡来人がもたらした。それが後に禁止された。稲作や田畑などの耕作中心になると鹿や猪は邪魔者になった。それで鹿垣や猪垣が作られた。狩猟社会から稲作社会の移行があった。白猪森とはそうした古い由来がある地名となる。

我がが恋はまさかもかなし草枕多胡の入野の奥もかなしも (万葉集 東歌 14−3403)

この入野の奥には深い意味がある。入野の奥こそ狩猟とか焼畑にかかわった先住民がいて有力者が県主(あがたぬし)がいたのだ。渡来人も関係していたことはそういう動物犠牲の習俗も伝わった可能性がある。入野の奥とは典型的な日本の地形であり生活形態から生まれたものでありそこに土着の勢力があった。阿部氏が蝦夷と深くかかわっていた一族であることは阿部(あべ)アペでアイヌ語で火という意味なのは焼畑を意味しているらしい。山蝦夷(ヤマエミシ)とか田蝦夷とか区別したのもその名残りである。古いのは山蝦夷だったのだ。

春日野(かすがの)に、粟(あは)蒔(ま)けりせば、鹿待ちに、継ぎて行(ゆ)かましを、社(やしろ)し恨(うら)めし-佐伯赤麻呂(さへきのあかまろ)

春日野とあるのも野は元は焼畑と考えた方がよい。焼畑があり鹿がいる。そういう光景があの春日野の光景だったのだ。今はあそこから巨大な大仏殿が見えるのだからいかにあそこが文明化したかわかる。

箭括(やはず)氏の麻多智(またち)という。郡役所から西の谷の葦原を占有し開墾してあらたに田を作った。この時、夜刀の神は群をなし互いに仲間を引き連れてことごとくみんなやってきた。そしていろいろさまざまに妨害をし、田を作り耕させなかった。《土地の人は言う、『蛇をよんで夜刀の神としている。その姿は、からだは蛇で頭には角がある。杞(かわやなぎ)を身に帯びていると難を免れるが、運わるくこれを見る人がいると一家一門は破滅し、跡継ぎの子孫がなくなる』。だいたいこの郡役所の側の野原には非常にたくさん住んでいる。》ここにおいて麻多智は激怒のこころをおこし、甲冑で身を固め、自身で矛を手にとり、打ち殺し追い払った。そこで、山の登り口に行き、(土地占有の)標の大きな杖を境界の堀に立てて、夜刀の神に先刻して、『ここから上は神の土地とすることを聞き入れてやろう。だがここから下は断じて人の田とするのだぞ

これは山の民と田を作るために入植してきた人たちの争いだった。田を作る人々は外来者でありそれがかってに土地を田にしようとしたので争いになった。その蝦夷もやがて山蝦夷から田蝦夷となって大和朝廷に服するようになったのだ。麻多智(またち)とは太刀であり太刀をもった人で屯田兵のようなものだった。農耕明と遊牧民の争いが稲作民と狩猟や焼畑の民であったのだ。

東和町や岩代、川俣地域は幾重にも山が重なっている。その間をぬって複雑に道が通じている。どこを通ったかもわからなくなるくらい山の間を道が通っている。こんな山陰にも家があったのか村があったのかという驚きであった。桃源郷に入り込んだような所であった。山とは本来山が重なるという意味で大和とは山が重なっている国のことである。まさ山また山の国が日本だったのだ。阿武隈高原はかなりの広さであり道は縦横に通じているからあきることがない、旅するには魅力ある場所である。写真に出したが馬洗川そいには古い社もあり道祖神があった。これもあまり東北ではみかけないものである。そこは住吉神社となっていた。かなり古い歴史があるみたいだ。金山というバス停の前には古い万屋(よろずや)が一軒あった。昔は村には必ず万屋があったのだ。今は自動車社会になり万屋は実際は消滅した。というのは山村でも近くにス-パ-があるからそこに自動車で行くからである。自動車社会になると村から遠くに生活圏が移り村の生活は希薄化するのだ。地域のつながりも生産から離れると一体感がなくなる。次に細い道をくねりながらたどってゆくとコブシが満開で古い土壁の土蔵の家やいかにも古い木の橋があり大学橋となっているのも不思議だった。大学とは鹿島町にも地名としてある。でもこの奥深い山中でなぜ大学橋なのか、大学は論語からとったものだから何か学ぶ場所だったのかもしれないが不明である。それからさらに流れをさかのぼると板橋がかかっていてそれをわたるとおもいがけなく田があったのだ。この川が馬洗川というのは源義家がここで馬を洗ったからだという。この伝説も木幡の旗祭りと関係しているから古い村なのである。この馬洗川そいは村として何か日本の古い村の形を残しているみたいで気にいった。都会より村の方が魅力あるのだ。前は仙台に行ってぶらぶらしていたが今はほとんど行かない、都会はかえって見るべきものがない、買い物にはいいが今やそんなに買うものもない、こうした山の村の方が季節により自然も変化するから魅力ある。多少歴史の知識を知ればさらに魅力あるものとなる。そしてインタ-ネットで郷土誌がここでも紹介したように復興している。地籍図のような詳細な地図をのせたりしていることがわかりやすく興味深いものにしているのだ。普通の地図ではわからない地元の人の説明が郷土誌を興味深いものにしている。インタ-ネットの郷土誌研究はかなり効果的である。


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