交野市の歴史的地名の解読
(インタ-ネット郷土誌発見-バ-チャルトリップ)




交野のカタというのはカタチとかカタどるとかカタナとかカタルとかカタミとかカタメルとかなるが本来は固める(カタメル)からきているのだろう。建物を作るにしても土台を固めることが必要だし田や畑でも均す(ならす)あとに固めるということが必ず作業として行われる。奈良が均すからきたというようにカタメルというのも常に必要な作業だった。片方というとき一方はカタチにした、固めたという意味だろう。英語でもフォ-ムというのが形と訳すから文明化することは形にすることが大事なのだ。枚方(ヒラカタ)もその派生でありカタが基の地名である


秋の色を交野の暮に見渡せば伊駒の嶽に時雨しにけり(藤原忠正)

交野の平野を見れば秋であるがはや生駒山には時雨が来たという歌であるから片方が野で片方が山という地形に合っている歌である。

伊勢物語に、 「狩り暮らし たちばなつめに 宿からむ 天の河原に 我は帰にけり」と 在原業平(825〜880)が歌っている

藤原忠正

またや見ん交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙

ここは宮廷人の狩りする場所だから御野とも言われた。
地形的にはこの辺と一致している。生駒山がありその片側が平坦地になって水田などが作りやすかった。肩野物部という一族が奈良から移住してここに住み着いて交野となった。つまり地形から名付けたのではなく田口が田の口というのではなくやはり奈良から移住した田口氏でありこの子孫が檀林皇后(橘嘉智子)となった。この地名は非常にまぎらわしいのだ。相馬の磯部とあるが海だから磯部とは限らない、山にも磯部があり上毛野に物部磯部氏がいてその移住と関係していることが歴史的経路として推測できるからだ。浮田物部氏が上毛野から移住して浮田国造を鹿島町に作ったように関係している。この浮田物部の基は近江にある。

「枚方ゆ 笛吹きのぼる 近江のや 毛野(けな)の稚子(わくご)い 笛吹きのぼる」
日本書紀の継体天皇の紀は、その末尾、二十四年の条に、この歌を記すことによって閉じられる。

継体天皇は、その二十一年、近江毛野臣に六万の兵を授けて朝鮮半島へ渡らせようとする。しかし、九州で筑紫の磐井がそれを妨害したので渡ることができず、物部麁鹿火(あらかひ)らが磐井を討って後、ようやく二十三年に渡航し、かの地に駐留し奔走するが、思うようには進まず、更に、その失政を讒言する者もあって、天皇は彼を召し帰す。召しに応じて帰国の途次、彼は対馬で病死する。彼は遺体となって無言の帰国をする。そして、枚方の津で外海用の大船から川舟に移しかえられ、故郷へ送られて行くのである。 この近江毛野なる人物は謎だという。なぜ毛野とついているのか上毛野と関係して毛野なのかわからないが毛野は物部氏と関係していたことは確かであり物部一族が毛野に移動したことなどで物部氏が毛野と名付けたのかもしれない、わざわざ蘇我蝦夷(えみし)とかと名づけるように北方の蛮族の名を借りて勇ましいところを見せるという名付けかたもある。ここで淀川の川を舞台に物語られていることである。この川を上って近江に亡骸は帰って行ったのである。枚方はこうして古代から重要な歴史の場をしめていたのだ。

古代の機織を職とする渡来民族の居住地で、南から「はたやま」(寺)、「はたもの」(倉治)、「はただ」(枚方市津田清水谷のロ)の3集落が繁栄した
当時の天野川の低湿地は「あまの」(甘野)と言い、川を「あまのかわ」(甘野川)と言った。


「天帝の娘織女は、父の言いつけで毎日はたを織っていました。天帝は熱心に働く娘を見て、誰かいい婿をと考え、天の川の向こう岸に住む、牛飼いの若者牽牛と結婚させました。しかし、牽牛と結婚してから、織女はすっかりはたを織るのをなまけて、二人で遊びたわむれてばかりいました。怒った天帝は織女を連れ戻し、天の川を隔てて二人を別れ別れにしてしまいました。悲しみにくれる二人を見て、天帝は年に一度だけ二人が逢うことを許しました。それが七月七日の夜で、鵲(かささぎ)が天の川に橋をかけて二人を逢わせるのでした」

昔の結婚条件は江戸時代あたりでも機織りのうまい女性で容姿ではなく機織りが非常に重要視されていた。これの語ることは機織りは実は沖縄でもそうだが税金としてとるのでも重要だった。支配者にとっても機織りをなまけるものには罰がある。これはそうした現実の話が伝説になってのである。

この天野川は最初は甘いという字をあてていたのか、アマとは海もアマであり天もアマであり海女もアマという、このアマは海の民が移動してきてアマとついたのである。事実ここには百済から移住してきた百済王敬服がいてこれは陸奥で黄金を掘りあてたことで有名である。この時天皇から位を授けられた。ここに百済から機織りの技術やその他百済王のように黄金を掘りあてる技術やらが入ってきたのだ。百済からは仏教も取り入れて伽藍とか塔を建てた。最初は
仏教よりそうした建物や機織りや治金の技術に注目したのだ。

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百済王敬福が陸奥国小田郡で、我が国で初めて産出された黄金九百両を献上した。天皇は大いに喜び、敬福を従五位上から一躍七階級昇進させて従三位に任じ、宮内卿とし河内守を兼ねさせ、河内国交野郡内にも広大な土地を与えた。現在枚方市域にある百済寺跡や百済王神社は、こうして交野に営まれた百済王家の居館群の跡をとどめるものである。
私部に逢合橋(あいあいばし)、枚方市禁野に鵲橋(かささぎばし)がある。


鵲橋とあるのは鵲はカラス科の鳥でカラスより小さく、棲息地は中国、朝鮮半島に多く日本では北九州の佐賀平野に限られ、天然記念物に指定されている。韓国に行くとこの鳥はいたる所で見られる。

誰か会う逢合橋に春の星仰げば下に天野川かな(自作)

もう一つここで重要なことは天の川もそうだが星にまつわる地名とか神社とかである。妙見神社とか星田とか近くに竹取物語の発祥の地だという京田もあるから天にまつわる言い伝えがここに残されていることなのだ。この星は干しで干田で乾いた田の意味の当て字ともあるが星が農耕と関係していたことは沖縄の島であった。星はその後農耕とは無縁なものとなっていった。海と星は方向が大事なので妙見神社は北斗七星を祀る神である。相馬も妙見神社を祭っているしこの信仰は各地にあるのだ。

武天皇が延暦四年(785)交野の柏原の野に郊祀壇を築かれた。郊祀壇とは、星祭りをする土壇で、柏原の野は片鉾の西南辺りらしい。中国では天子は天命の命によって、この地上を治めていると信じられて、中国の皇帝は毎年都城の南郊に設けられた天壇において北辰星(北極星)をまつる儀式が行われていた

そもそも岩船神社はニギハヤの降臨した地とされこれは神武天皇に先立ち大和入りした一群の人々と言われている。日本の基がそもそも物部一族によって作られたというほど物部氏は古い氏族なのだ。百済の一族が住み着いたのはこの物部氏一族などより後でありこのニギハヤはどこから来たのか謎である。日本書紀には、継体天皇が西暦507年に樟葉宮(現在の枚方市)で即位したとある。越前から大阪に入り一時期天皇になったのである。それがどうしてできたのか、それは近江一帯が大きな勢力をもっていたからである。それは製鉄集団がいたからだとなる。そして近江に真野氏がいてこれが鹿島町の真野郷と関係あるのではないかというのが私の推測でもあった。ここは歴史的に重要な所だったことにある。

先代旧事本紀巻第三

船長同共率領梶取等天降供奉
 船長跡部首等祖天津羽原
 梶取阿刀造等祖大麻良
 船子倭鍛師等祖天津眞浦
 笠縫等祖天津麻良
 曽曽笠縫等曽天都赤麻良
 爲奈部等祖天都赤星
 
饒速日尊禀天神御祖詔。乘天磐船而天降坐於河内國河上哮峯。則遷坐大倭國鳥見白庭山。所謂乘天磐船而翔行於大虚空。巡睨是郷而。天降坐矣。即謂虚空見日本國是歟。


ここに船でやってきた技術集団が物部氏の先祖だった。梶取り、刀造り、鍛師、赤星、・・・とかあるのは船を操る集団であった。星は方向を決めるのに大事だからだ。この淀川を大阪から上り天野川と名付けたのもこの物部氏の一団だった。ともかく日本の歴史の最下層の地層には物部氏が根っこのようにル-ツのように存在しているのである。

ともかく淀川といい天野川といい川が重要な役目を果たしそれは難波の海に通じていたのだ。その難波の海、瀬戸内海が水路となり文化が入って来たのである。

建長二年詩歌をあはせられ侍りける時、江上春望

難波江や冬ごもりせし梅が香のよもにみちくる春のしほかぜ(続千載50)

これはまさに如実に海に近いゆえにできた歌である。これは単に季節的に春がくるというのではなく春は瀬戸内海から文化が入る道だったのである。春といってもみちのくの春とはかなり違って瀬戸内海から韓国、唐(中国)につづく春なのである。

枚方の川の岸辺に我がよれば古思ふ春の夕暮(自作)

それから琵琶湖の堅田の浮御堂に鴎の群れが飛んでいたのか、大阪湾から飛んできた。海がやはり
近いからであろう。淀川があり琵琶湖があるとさらに越前は近くなる。すると越前から来た継体天皇なども交通の便がいいから交野に宮を置いた。つまり交通の便がいいところが最初に開けるのである。交野は近江と難波を結び琵琶湖は越前を結んだのである。琵琶湖も船の便があるから交流がしやすかったのである。

秋の暮 鴎あまたや 浮御堂 (自作)


こうして想像する歌は歴史をしらないとわからない、歴史を知ればこうした歌も意味あるものとなる。ただ単なる川でない、今まで述べたような歴史を偲ぶ歌になるのだ。ただ実際今はこの場所に行っても昔を偲ぶことはむずかしい。川はなんかコンクリ-トに固められ川らしくないしビルに埋めつくされてどこが川かもわからないからかえって想像の世界がバ-チャルな旅が昔を偲べるというのも不思議である。

3 交野の春風(詩)


1大坂発展の歴史(万葉集から)

参考-浮田国造の謎(鹿島町真野郷)