鉄道の旅
(小林勇一)
時事問題の深層の全目次

・・・・このペ-ジの目次・・・・・
歴史を刻んだ汽車(引き込み線)
消えた駅名-楢原のショック
廃線となった栗原電鉄
ロ-カル線の危機(旅情が消える)-青春18切符の旅(1)
再び青春18切符で雪の青森へ(2)
ギリシャの鉄道(詩)
消えた中山宿のスイッチバック駅(磐越西線−郡山−中山宿−会津)
新鉄道唱歌(仙台−相馬−磐城)
常磐線10句−常磐線の果す役割(福島県内)



歴史を刻んだ汽車

現代では旅というのはなくなっている。旅があったのは江戸時代までであり汽車ができたとき本当の旅はなくなった。もちろんそれでも本物の旅を志向する人はいた。山頭火などである。あの時代まで本当に歩いていた。でもそのときでも汽車は通っていたから汽車にのることができたはずである。汽車は最初は荷物を運ぶことに重きがあったみたいだ。石炭を運ぶために鉄道が作られたように整備されたように人間はそのあとだった。一般の人は汽車をそんなに利用していなかった。結構運賃が高かった。汽車に乗ることは珍しい経験だった。だから現代のようにめまぐるしく移動していることはなかった。経済もそんなに一分を争い物流を急がせることなどなかった。やはり汽車というと子供の頃、長い貨物列車を見送っていた記憶がある。貨物列車が多かったことと小さな田舎の駅にも引き込み線がありそこで荷物を積んでいた。なんかそれがなつかしい風景である。

引込み線縄を積み出す縄屋という屋号の家も消えにけるかな


田舎の駅でもいろいろなものを積み出していた。縄というのもその一つだったのだ。鉄道と田舎の産業が結びついていた。

私が小学校の頃までは当駅にも貨物ホームが在り写真の側線以外にも合計で5本程存在しておりました。貨物は米と石炭、それに木材が主な物でした。勿論雷電山の石灰もです。

雷電山の引き込み線

鉄道でもそうだが生活のなかで生きていたときそれは意味を持っていたのだ。アメリカのアムトラックも西部開拓時代だったらそれは生活のなかで生きていた、

歴史の古い主要な都市を縦横に結ぶことから始まり、やがて小さな町にも通じるようになる。そのうち沿線に、幾つもの町が雨後の筍のように発生する。郵便局も点々とできていく。


アメリカ鉄道の歴史


汽車が通ることによって町もできたことでもわかるように汽車は重要な役割を果たした。それがアムトラックは今は貨物列車として生きているが人間が運ぶのは観光になっている。そこに人間のドラマは消えた。観光になれば例えば中山道を昔のままに再現してもそこは観光のためであり何か映画のセットを見ているようで作り物のように見えてしまい、リアリティがなくなるのだ。過去のものはやはり歴史は実際はどこでも再現できないのである。

汽車という言葉自体電車に変わったごとくこの言葉自体すでに歴史化しているのだ。蒸気機関車でもそうだが汽車には何か人間的なものを感じるのだ。でも最初はこの汽車も何か文明の最先端を行く、新時代を代表していた。でも東京まで八時間かかるとか何か今とは時間の感覚が違っていた。汽車はやはり町と町、遠くの都会と憧れをもってつなぐものだったのだ。そして駅というのはいつも出会いと別れの場になっていたのだ。そこが人の集まる場所だったからだ。これが明治時代だとさらにそうである。

ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 啄木

となる。駅も何かまだ人間的であり人間のぬくもりが人間的な時間の流れがあった。今はそれが感じられない、ただ早く早くというスピ-ド第一であり機能的であり人間が出会い別れる場ではない、だから今あまり電車が去るのを見送るという場面はあまり見かけない、現代に会うとか別れるという感覚は消えているのではないか、いつでも携帯で連絡できるとか、特急で何時間だとか新幹線でとんぼ帰りだとか飛行機で何時間だとか時間の感覚が全然違うのだ。特に自動車社会になったら余計そうである。高速道路なんか人間的感覚が消失する。巨大なベルトコンベア-にのっていると同じ感覚であり旅するという感覚はない、移動しているだけである。旅の情緒などなくなっている。根本的に時間の流れが違ってしまったことなのだ。NHKでトラック運転手が市場が開くまで遅滞しないように一分を争って走りつづけている。まさに現代はスピ-ドの時代でありそのスピ-ド時代の犠牲者がトラック運転手だった。そんなに急ぐ必要があるのかとなるがそれを社会を要求しているしそうしないと会社が存続できない、トラック運転手なんかやりたくないというのはわかる。居眠り事故が起きても不思議ではない、これも現代文明の異常さである。大都会自体が不自然でありいびつなものである。九州の果てから大根をセリに間に合うまで必死でトラックで運ばねばならぬということ自体異常なことである。その土地土地でとれたものはその近くで消費するのが普通だったからだ。東京だって練馬大根が有名になったのは江戸が消費地であったからでありそんな遠くから野菜は運んでいないのだ。




ロ-カル線の危機(旅情が消える)-青春18切符の旅(1)


私は鉄道の旅が長いから日本の鉄道はほとんど乗ってしまってのる所がなくなった。それで半端な線とか短い私鉄の支線とかしかのるのがなくなってしまった。今回五能線にのろうとしたら深浦まで一便くらいでているが深浦で五時間またないと次の便が出ないのだ。事実上この線は生活路線でなくなっている。沿線の足ではなくなっている。それでリゾ-ト特急というのが一日一便でていたので500円たして青春18切符でものれた。景色のいい所だから観光としてのりたい人がいるのでJRで便宜をはかっている。でもロ-カル線や鉄道は途中下車できることが魅力なのだ。途中下車できないと旅の魅力は半減する。深浦に行きたいと思ったのはそこが北前船で栄えた所であり船の絵馬などが寺に奉納されていたりそうした歴史の雰囲気を知りたいからだった。途中下車できないことはその土地土地の歴史もしのぶこができなくなる。ロ-カル線は今や便数が少ないから途中下車するのはむずかしい。あとの線が五時間後では途中下車できないし現実一日二三本というのが多くなっている。驚いたのは宮古から盛岡の山田線もそうだった。一日三便くらいしかでていない、私は最終列車にのったが二両であり最初の数駅は通勤の学生などのっていたがそれらの人がおりたら五六人だった。盛岡までは遠いのに途中でのる人いないのには驚いた。これではやっていけないと思った。でもバスは盛岡まで一時間おきにでていたしそれだけ盛岡までのる人が多い、運賃も二千円で同じである。のる人がいないわけではないのだ。一時間おきにでているのだからそれだけの人がまだ利用している。盛岡に行く人はいるのである。なぜ汽車を利用しないのかわからない。高速バスの通り道も岩泉とか違っている。高速バスには需要があるのに汽車は廃れというのは別に乗る人がへったというわけではない、交通手段が違ってきたということなのかわからない。

現在、同区間では輸送シェアのほとんどを急行バスに譲り渡した。また、北上山地を横断しているため、途中区間の沿線人口はもともと希薄であり、
以久科鉄道志学館
http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Circuit/2061/

これが理由だったらしい、この汽車の線路は貨物輸送に重点をおいていたのか、線路をまっすぐに効率的に通すためか、最短距離で宮古と結ぶためなのか、これは原敬首相が政治力で通したらしい、汽車への要望が沿線の住民には希薄だったのか、宮古に通すということが最優先で遠回りしたくなかったのかこれは今になると無駄な線路になってしまった。しかしたいがい人口の多い地点を結ぶのが汽車や道路のはずなのだがこの線は最初の計画から住民の要望とはずれていたのかもしれない。

私の棲む常磐線は夜9時でも8両くらいの編成で満員であるから仙台に通う人が多い。近くに大きな都市があると通勤に利用するからまだいいのかもしれない、汽車も高速化したのは新幹線なども九州で新しく開業したように東北でも盛岡から田沢湖線などで山形回りの新幹線は便数がでている。新幹線は利用しやすくなっているが普通線の便数は極端に少なくなっている。田沢湖線利用しようとしたらこれも便数が少なく途中下車してまた乗るということはできなくなっている。青春18切符は急行にのれないからなんかつまらなかった。

開業の八四年度、二百六十九万人を数えた乗車人員は昨年度、百二十二万人。乗客の約六割は
定期利用で、高校生はこの五年間で約五百人減り、少子化の影響が深刻だ。昨年度の経常損益は約六千八百万円だった。


http://www.chugoku-np.co.jp/jrkabe/donaru/mosaku2.html

三陸鉄道はこんな状況であった。結構のっているなと見えたが現実は厳しい。あそこは観光用としては必ずしも景色がよくない、それよりモグラ電車であった。トンネルをくぐりぬけてはそこに村がありまたくぐりぬけては村がある。山々に閉ざされた世界だった。開けているのは海であった。海で魚がとれていたときはそれなりよかった。八戸の街では漁師が魚がとれてにぎわい夜の女性たちで繁華を極めた街があったというから漁業で景気が良かったのだ。今は漁獲高が減っているから苦しい。陸中は宮古にしてもかなり辺鄙な所であった。山々に閉ざされた所だった。宮古とは都だから宮古が都への憧れとして名付けられたのかもしれない、都になるべき地がないからだ。盛岡も遠すぎる。岩泉の龍泉洞も観光の目玉として宣伝しているがそれほどのものではなかった。ただ実は今の観光はある特定の場所に特別なもの他では見れないものがあるから行くとなる。旅は別にそうした特別なものがなくても旅は旅なのである。江戸時代の旅は必ず途中により峠を越えては次の村へ川を越えては次の町へとか旅することは即その体で土地を知ることだった。だから西行でも芭蕉でも旅で死ぬということを覚悟しての旅であった。芭蕉が鳴子から山刀峠を越えるのも山賊が出るとか大変な山越えしなければならなかった。旅とはそうした自然の障害をのりこえることだから当然自然というものの大きさとか距離とかを体で知ることだった。そこに生まれる詩とか俳句でも今とは全然違ってくる。汽車で鳴子を越えると雪が深くなった。それでここが自然の境界なのかと認識する。それが歩きだったらその意識する度合いは全然違う、全く未踏の世界に出ることになるのだ。

汽車という言葉自体が電車に変わっているように死語となるのか汽車には蒸気機関車の名残で汽車といっていた。中国では火車である。でも蒸気機関車から電気に移ってからかなりの時間がたっているから電車でよかったが汽車といっていた。汽車になじんできたから汽車にいいがたい思い入れとなつかしさがありこれが歴史的な言葉として生活に使われなくなるのは悲しい、言葉はれっきとした歴史的遺産である。言葉には想像以上の人々の生活の積み重ねが思い入れが残っている。「国鉄」も死語となった。国鉄は地方を支えていた。国鉄一家というのがあったし国鉄の組合をバックに社会党が元気だったし一番の圧力団体であり国鉄が民営化するとき大騒ぎして多額の退職金を要求できた。あのとき同情する人が多かったが国鉄をやめる人は恵まれていた人たちだったのだ。今はリストラされないだけいいという時代になったからだ。汽車と今言わなくなり汽車というと古いとなると自分も年になり過去のものとなっていくのかという哀しさを感じる。時代の移り変わりかくも早いものだという実感である。時代の変わり目にこういう悲哀を味わうのが普通である。でも古いものに哀惜を感じる。これは繰り返してきた人間の歴史ではあるが実感として気づくのは年になってからなのだ。汽車という言葉なくなると同時に汽車の旅の旅情もなくなってゆく、汽車には夜汽車でも何か旅情がある。あの独特の音がいいのだ。途中で駅々にとまるのも旅情でありだから駅の名前が心に残り私は地名に興味を持ち歴史にも興味を持ったのだ。宮古から盛岡へ行くのに途中区堺(くざかい)で12分間とまった。そこは雪がまだ厚く積もっていた。なぜここだけがと思ったがそこは高原でありやはり地を分ける区堺になっていたのか、この高原を越えるとまた気候がちがってくる。昼だとそこから高い山が見えた。つまり汽車には一時的にも停まるだけでそこに旅情が生まれてくる。これは高速バスでもそうだった。福岡から東京まで乗ったが途中アルプスの真近いに見える場所に止まったのだ。旅は途中下車が必要なのだ。通りすぎては何にもわからない、だから新幹線でも急行でも早すぎて旅情がないからつまらないのである。今回の旅で思ったことは東北も広い、3月でも秋田や青森は雪の世界であり寒いし真冬だった。またそれが魅力だった。東北も広いから結構行っていない場所がありまた季節的にも違っているから行く所はあるものだと思った。


山田線






消えた駅名(楢原)のショック


楢原に泊まる一夜の古き宿汽笛ひびきて夏の日暮れぬ

楢原の駅名変わる歳月や我が旅せしは昔なるかな


今楢原という駅はなくなっていた。これはショックだった。会津鉄道は会津下郷駅になっていた。この会津鉄道さえ赤字路線でなくなってしまうところだった。それで自分は切符まで記念に買っていた。これは栃木県と結び東京ともつながり第3セクタ−として辛うじて残った。なぜこれがショックだったかというと自分は楢原という駅名のときにそこに下りて古い旅館に一人泊まったことがあったのだ。それで楢原とは楢の木が多く生えていたから楢原だとか記憶していた。それはよくわからない、もともとは奈良原と漢字をあてていた。ナラは平という韓国語系統の言葉らしくクンナラとは大いなる国でナラは国のことだった。クンナラとは百済のことだったとか言う人もいる。。ならすというごとく山の中でも日本は山の国だから平な所が生活の場となり貴重なのだ。ここにとまったのは20年以上前か本当に昔になったのだ。ただそこに泊まったことは記憶していた。汽笛のひびきがまじかに聞こえる所だった。あそこから二股山を見たのである。深い谷があり急峻な山を登る路線である。長めはいい。湯の上温泉は有名である。

最近県名とかでも(さいたま)とか他に合併した都市が(ひらなみ)とかひらがなにしたりと合併やその他昔の地名が変わるのが多いみたいだ。そもそも駅名とか地名はめったに変わらないものという前提がある。人間の名前が一代で変わらないのと同じである。それが20年くらいで変わってしまうことは余りに変わりやすいとなる。前は汽車で旅をしていた。もう汽車は乗る線がなくなった。汽車の旅で常に心に残るのは駅名なのだ。駅名だけが心に残りその町や村を過ぎてゆくのだ。日本の地名は特に世界でも多様であり明らかに文化財なのだ。楢原と漢字で書くとどうしても楢の木をイメ−ジする、楢の木をイメ−ジしてもあそこなら合っているのだ。漢字そのもの絵であり図形として認識し記憶することになる。だから日本語はかなと漢字のハイブリット語で読むスピ−ドが早くなる。絵として図形として本の一ペ−ジを読んでいるからだ。これが漢字だけとなると中国のようにかえって読みずらくなる。かなによって漢字を強調する役目をになっているのだ。漢字とかなの配合によって読みやすくしているのだ。だからかなだけになるとイメ−ジする力が弱くなるのだ。しかし名は体を表すというごとく名前は大事なのだ。名前には何かをイメ−ジさせる力を持っているからだ。芭蕉の旅も歌枕を訪ねるという旅だったというのも旅する前からイメ−ジしていた旅があったのだ。とにかく地名や駅名が変わることは実際は大変なことであり簡単には変えるべきものではないのだ。そこがかつてなんてあったかを示すのが地名しかないというのが多いのである。地名は土地に記された化石のようなものになっている場合がある。それほど古いのである。


「楢原」「楢原」・・・
楢原の駅がなくなった!!!!!!
オレが泊まった町がなくなったのか、どうしたんだ、聞きのがしたのか、そんなはずはない、「楢原」「楢原」・・・・オレが一度訪ねた町は消えたのか、ああ・・・昔となってしまったのだ、こうなってしまうこともあるのか、町の名も変わる、ついに自分の住んでいた家さえなくなり誰も記憶するものすらなくなる、これが人生なんだ、この世から消えてしまうというショックである。これは本当にショックだった。楢原に泊まったのは実に遠い昔になってしまったことを自覚したのだ。自分は旅しているうちにそれだけの歳月が流れてしまったのだ。この世の変化のスピ−ドは早い。実に早い。「この世は変わるな、あらゆるものが変わるな、20年前に行った駅名がなくなっていたよ、」「毎日変わっているよ」家のものが言ったがこの世それは毎日変わっているのだ。どんなものも変わらないものはない。今盛んでもたちまちそこは往時を偲ぶものさえない寂れた場所になることはめずらしくもないのだ。


楢原の駅

谷間の深く渓流は激ち流れぬ
その崖に山百合の咲くかな
楢原の町は高きにありにし
二股山の聳えて引き締まる
会津の山々ひしめき迫りて
汽車は急勾配の山を上るや
汽笛は古き宿にひびけり
夏の日よ、我は旅して古き宿
そはなおありや歳月は流れ
楢原の駅名は会津下郷となり
我も老いるやはや歳月は流れぬ
しかり汽車はひびき汽笛を鳴らし
なお坂を上り進まんや
我が胸になお熱くひびき進まん



ここにSLが走っている時代の風景がでている。

SL会津線

http://www.asahi-net.or.jp/~aj4s-ski/index.htm



廃線となった栗原電鉄




存続あやうい栗原電鉄(末枯の野を行く一両の電車)



末枯れ栗原電鉄

青春18切符で石越まで行き栗原電鉄にのって日帰りだった。折り畳み自転車のトランジットにつけたライトが無くした。必ず何か最初にトラブルがある、何かを必ず無くすのが自分である。自分でさえいやになっている。カ-ドとかも無くしたし青春18切符も夏は落とした。何か無くさないときはない、今回はトラジットに乗る所がなかった。まあ、軽いからさほど邪魔にならない、栗原電鉄は存続が本当にむずかしい、幼稚園帰りの子供が多少と帰り栗原高校がありそこから高校生が乗ったのと観光客が二人に地元の人がにニ三人である。あれではつづけるのがむずかしい、人件費もまかないえない、鉄道を維持するのは結構金かかるらしいからあれではむずかしい。でもどういうわけか私鉄とかには情緒がある。地元に密着した線となっている。家の間とか庭の間とか通る感じなのだ。乗る線がなくてこうした私鉄の線を乗るしかないのだがこれがなんか親しみを感じる、その土地にとけこんでいる。極めて人間的なのである。

でも廃車が置いてあったりまるでもう最後の日を刻んでいる感じだ。その古くなった車両に哀惜を感じる。車が嫌いな私にとってこうした鉄道がなくなることは悲しい。でもどうにもならん、あの鉄道の余命は短い、観光用だけに維持するのは無理だろう。荒町-谷地畑-沢辺-津久毛-杉橋-鳥矢崎-栗原田町-これらの駅名はおそらく湿地帯だった名残りだろう、田町は田が町になったところでこれはどこにでもある。でも比較的繁華な城下町のはずれなような所にある。相馬の田町通りはそうである。東北には谷地というのは多い。杉橋などというもの本当に杉で作った橋がかかっていたのだろう。

細川鉱山跡に行くとき雨がふった。御堂のなかに地蔵が入れられてあった。あれだと雨にぬれないから地蔵も守られていると思った。地蔵は人間のように地元の人があつかっていた。笠地蔵とかいろいろ人間のように扱っていた。地蔵は身近な存在であり昔は地蔵との交流があり伝説がいろいろと残っているのもそのためである。この地蔵は巨大な寺院とかに祀られるのではなく何か庶民的だからいいのである。今回はともかく一日乗り放題だから帰ってきた。すでに5千円分使ったからやはり青春18切符は近くに行くのにも得である。あと何日かしてまた盛岡の方からのっていない線をのってみよう。私は鉄道マニアではないが車がないと旅をすることは鉄道にのることだからいつのまにか鉄道好きになっているし鉄道に愛着を感じるようになっている自分に気づいた。ともかく自分の人生がある意味で旅に費やされたのである。その旅の中心が鉄道だったのだから鉄道には思いが深くなるのは当然のなりゆきだった。

自動車社会が人間の情を奪った

なぜ地域の交通のバスとか鉄道とか昔の商店街が廃れるのか、それは誰でも知っている。自動車社会になったからである。自動車の方が便利だからだ。自動車が社会自体を変えてしまったことなのだ。それはどういうことかというとバスとか電車とかはまだこれはその地域の人々がみんなで利用する公共的なものである。みんなで乗り合わすこと自体が車と違っている。車は核家族的な延長として生まれた。車に乗れるのは数人であり家族以外はなかなか乗れないものなのだ。家族以外は排除するのだ。車は閉鎖的なものである。ただ車さえあれば現代社会は困ることはない、遠くにあっても車さえあれば用はたせるから不便さを感じないのだ。だから今の社会は助け合うということがなくなっているのも車社会になったことも関係している。車は公共性が育まれない、電車のようにみんなで維持して利用するという感覚が生まれない、車一台もっていれば事たりるとなる。だから誰にも助けられる必要がないしそうしたことも感じないのだ。ところが車がないとバスはない、電車もないとなるとタクシ-になるがこれは馬鹿高いとなり車がない人は弱者になり取り残される。事実ここでも隣の大きな市の病院まで行くにはかなり不便である。でも車をもっている人はそうした不便を感じないから車をもっていない利用できない人のことは考えない、だからこうした地域に密着した路線でも関心がうすい、車をみんなもっているからそうなる。ただおそらく地元の人ですら感傷的に地域のために残してほしいといっても現実は車を利用しているのだからそこに切実さはないのである。
「文明は人間の情を奪った」ということで何度か書いてきたが歩く時代から汽車の時代から自動車の時代と変わる中でやはり人間の情は奪われたのだ。汽車から自動車への時代もこのように人間の情は奪われた、このように自分が電車に情をそそぐのはそのためである。そのことはどういうことかというと社会全体が情の奪われた殺伐とした世界となったということである。その原因が自動車社会にあったことは確かである。


栗電や孫を迎える冬の駅

栗電の一両古りて枯芒

栗電やはや冬日没り茜雲




写真は栗原電鉄でいいのがかなりでています。



再び青春18切符で雪の青森へ





青春18切符で二回目の旅にまたでた。一回目は東北線の日帰りで岩越から栗原電鉄にのった。これも風前の灯のうよなロ-カル線だった。今汽車の旅はかなり不便である。新幹線とかは便利になっているが東北線ですら一部が銀河鉄道のように民間で経営するようになっている。そこは青春18切符が使いないのだ。そして便数が少ないから途中下車することがむずかしい、ロ-カル線の旅は途中下車が楽しいのである。それができないことが旅の楽しみを奪ってしまった。途中「渋民」をすぎた。ここも一度もよっていない、それでも一句作った。

渋民に寄ることなしや冬の暮

渋民は啄木だけの町である。それから盛岡に行き花輪線を回り十和田南駅から十和田湖を目指した。十和田南駅についたときは暗くなっていた。そこに宿があると思ったらなかった。実は大湯という温泉町がありそこまでバスで行った。このバスも雪が降りはじめてその用意がなく遅れたためのれたのだ。バスの便は非常に悪い、十和田湖に朝バスで行くのが不安になって駅に行くバスがないかと宿の人に尋ねたらちょうど休みだったのでないというのには驚いた。バスの停留所も廃止されたという、今観光でバスの便が十和田湖一便はある。今の時期普通バスの便はどこでもなくなっているのだ。十和田南駅は新しい所である。鉄道は必ずしも前からあった町を通るわけではない、鹿角に宿はありそこを始発として十和田湖まで行く、それにしても寒かった。大湯では廊下を歩くだけはく息が白くなっていた。それでも温泉はかえってそのように寒い方が情緒があるともいえる。帰りのバスには台湾人らしい女性が二人と自分一人だった。必ず台湾の観光客などがみかけるようになった。雪の世界はさぞかし驚きであり魅力あるに違いない、観光の活性化には今やどうしても外人を呼ぶ必要がどこの国でも必要なのだ。

大館にとまり次は秋田内陸縦貫鉄道にのった。これもJRではないから青春18切符は使いなかった。角館にでて大曲から横手にきて北上線にのった。横手は駅前のビルがゲ-ム場になっていて街が荒れ果てた感じがした。カマクラで有名だがそんな素朴な感じなどなくなっていた。駅前は街の顔だからそれなりの通りなどが生きている、歴史も生きていればいいのだが今やどこも通りは廃れ駅前はさびれているからこうした荒廃がおこる。これは観光にとってはイメ-ジがわるくなるのだ。観光ではス-パ-には行かないからだ。ともかく途中下車できないから汽車の旅も前ほどに楽しめなくなっていた。旅なら急行でもだめである。途中に一駅一駅泊まり生活路線になっていないとだめである。こうしたロ-カル線の一部は観光用の特別列車がでているがあれだと情緒がなくなる。普通列車は一駅一駅泊まり生活を感じることにあるのだ。それが今電車はなくなりつつある。汽車という呼び名がなくなり電車となりそれもワンマンカ-となり味気なくなりかつての汽車の旅の旅情は消えつつある。



外は雪車内に荷一つロ-カル線

昔は行商のおばさんが重い荷を背負って行商していたりとか何か人間臭い光景があった。自動車社会はこうした人間臭い光景を奪ってしまったのだ。私は鉄道に愛着がある。自然と汽車の旅が長いから愛着が生まれたのだ。鉄道史というのは実はかなり広範囲だし奥深いものがある。鉄道の歴史は日本ではすでに百年でありヨ-ロッパでは2百年くらいある。だからイギリス辺りはいかにも古そうな車両基地があり機関車を回してタ-ンするようなものまであった。大館の駅でで雪の積もったなかで働いている人をみかけた。

大館に作業の人や雪の駅

とかなり鉄道に働く人も何か生活の重みをになっていて親近感まで覚えた。これが自動車だと何か排斥された感じになり私の場合極端だが拒絶する感情が働いてしまうのだ。いづれにしろ鉄道の歴史はすでに日本でも深く生活にくいこんできたからその物語は個々に語り尽くせないものがある。

昭和31(1956)年登場した急行津軽は別名「出世列車」「出稼ぎ列車」とも言われ青森、秋田から首都圏への出稼ぎ客を乗せて走った。

「十和田」もかつては常磐線を行き交った夜行急行ですが,この頃には既に季節便になっており,これもやがて消えてしまいました。


常磐線を夜行列車が走っていたことを知らなかった。今だったら必ずのっていただろう。これに乗っていたら貴重な思い出になっていた。北海道には廃線になった線が多く記念の駅に車両が置いてあってそこは宿泊できるようになっていてそこで一夜泊まったことがあった。出稼ぎというのは高度成長時代ブ-ムのようにあった。これが「出世列車」となっていたのは結構の金を稼いできたからであろう。その出稼ぎで稼いだ金で子供を大学まで出した農家がかなりいるのだ。そして皮肉なことはその大学を出ても青森では就職先がなくトヨタの期間工として出稼ぎで大学まで出した息子がまた出稼ぎに行っていることなのだ。こうした青森特有の地域の後進性から脱却されていなかったのである。「貧乏」→「低賃金」→「出稼ぎ」→「進学低下」→「離婚増加」→「乳児死亡率上昇」→「寿命が短い」負のスパイラルになっている。沖縄もにているが沖縄は長寿の国なのは南国だからである。青森はその点寒いから厳しい。

出稼ぎで工事現場で事故で死んだものや一つの例としてホ-ムレスとなって死んだ人もいた。

戦後、青森から出稼ぎにきたが、東京の山谷から横浜のコトブキに流れてきて、からだをこわし仕事がなく、山下公園に住みつくようになった。永井さんもまた同じような道をたどっている。翌朝、酒田市の寺にある永井さんの両親の墓に、永井さんの写真を供えた。永井さんは四十年ぶりに両親の墓に詣でたことになる。立派な新しい墓だが、しかし遺族の同意がないから、ここにはいることはできない。七十一歳で大雪の朝に凍死した永井さんが、山下公園の段ボ-ルの寝床で、つねに夢みていた古里の勇大な景色である。月光川は雪どけ水の水量ゆたかに流れていた。

山下公園のヘミングウェイ
http://fuumaru.ld.infoseek.co.jp/nagaikansou.html

これはホ-ムレスの人の死を小説にしたらしい。その頃どこにでも出稼ぎ者がいたし金の卵と言われた中卒者は出稼ぎ者ではなく東京に住み着いた人達だった。これの出稼ぎに果たした鉄道の歴史もまた大きかったのである。ともかく最後は北上線回りで家まで一日で帰ってきた。北上線ではすでに夕暮れから夜で冬の灯が夜の雪のなかにともっていた。

冬の灯や北上線を帰るかな

前にも北上線や花輪線には乗っていたがあまりにも前になり記憶になくなっていた。こういうことになるから何か記録は残しておく必要がある。今青春18切符で旅している若者も必ず全く記憶にない忘れてしまったとなりかねない、人間は忘れやすいのである。青森へ冬の旅は魅力ある。幻想的な雪一色の世界となるからだ。これは意外とおすすめである。しかし旅はスロ-でないと旅情がない、それとこれからは宿は温泉街とか騒々しいところとかスキ-場なども廃れてゆく、かえって中高年がゆったりとくつろげる場所がほしくなる。それで秘湯めぐりが人気があるのだ。十和田湖では博物館に暖炉がありそこにあたたまり大町桂月の蔦温泉冬ごもり帖とか読んで暇つぶしていた。暖炉にでもあたたまり過去を回想したり本を読むのもいい、しかし客がこないとか十和田湖のホテルの人がなげいていた。「クリスマスのように電飾したりもっと外に出て楽しめるようにすればいい・・」こんなことを言うホテルマンはいることに驚きだ。ここも歓楽街にするのか馬鹿もほどほどにしろ、そこは聖域であり秘境だからこそ価値があるのだ。団体の温泉街にした国立公園としての価値もなくなる。大町桂月は蔦温泉のような一軒宿でないとだめだと書いてあった。それは嫉妬とか商売の争いが生まれ秘境の良さがなくなるからだと書いてあった。そこまで当時宿が少ないときすら考えていたことには驚きである。十和田湖は人の手のつかない秘境だからこそ価値があるのだ。それがなくなったら終わりというより国立公園の聖域としてそれは許されないのだ。今やたまたま聞いている人もいてこうしてインタ-ネットで書いたりするから注意した方がいい、気軽にその宿や街の評価が書かれる時代なのである。それが意外とわかっていない、観光地の評価が口コミで常に広がる時代なのである。


十和田湖の喫茶店からとる

青春18切符で雪の青森へ(全俳句短歌と写真)



フラワ-永井線で白鷹町へ(山形)

左沢線(山形)

春の江の電-荒川都電




ギリシャの鉄道


イタリアから船でギリシャにやってきた
オリンピアの廃墟の跡を見て
鉄道でペロボネス半島を行く
その鉄道は何かオモチャのような感じ
でも私はいつも汽車(電車)を待っている
私はいつも旅人であり汽車(電車)を待っている
日本にいるときからいつも旅して電車を待っていた
それで今度はギリシャまできて電車を待っている
ここは電化ではなくデ−ゼル機関車がひっぱる
乗る人は少なくがらあきで淋しいペロボネス半島を行く
なかなか待っても汽車はこない
駅舎らしい駅舎がない、レンガの小屋が駅舎か
一面の菜の花の原がつづき羊がいる
かわいらしい小羊が遊んでいる
なんだか日本の風景とにていた
駅舎でジプシ−の子供にイタリアの金、リラをくれてやる
ペロボネス半島はスパルタのあったところ
山々の奥にその国はあったのか
ギリシャの神々は遠い昔の神
その栄光の日は去り眠ってしまった
今のギリシャ人にその面影はない
ロバと菜の花と過去の遺跡の国
遺跡の柱の土台に草むしてただ昔の思いにふける
鉄道は奥深いペロボネス半島の中に分け入る
赤いひなげしだけが延々と咲いている
山頂に向かい羊飼いがいるのが見えた
いつの日のものか荒れた山肌に城の石垣が見える
まだ残雪がところどころ見える
ギリシャは二回目だという日本人にあった
今はそういう時代だから遠い果の外国でも
日本人の旅人がちっぽけなロ−カル線で汽車を待っている
私も日本と同じように駅で汽車を待っていた
なかなか来ない汽車を待っていた
そうして私はどこでやはり気長に汽車を待っている




イタリアから船にゆられて・・・・オリンピアについた。ここから鉄道がでている。この鉄道はおもちゃのような鉄道である。あれだけの遺跡があるのに今オリンピアの人口が1500人しかいないのは驚きである。ここは古代でもそうであった。競技が行われるときだけ人が集まった場所だった。ギリシャの過去と現在は結びつかない、イタリアのロ−マやヨ−ロッパの国々は今の歴史と結びついている。ロ−マでも過去だけではなくイタリアはそれなりに大きな国になっているからだ。ポルトガルとかともにている。ギリシャは今は観光と保養の地であり現在に何か産業もないから気のぬけたような感覚になる。ただ地形が日本とにていたのだ。海と山と島の国だからである。一面の菜の花の中を走る汽車は日本の光景であった。羊飼いがいるのが違っていただけである。



消えた中山宿のスイッチバック駅(磐越西線−郡山−中山宿−会津)

郡山市から、磐梯山と猪苗代湖が象徴的な「会津地方」へと至る途中にある“中山峠”の 近くにある。 その昔、ここを通る国道49号線は越後街道と呼ばれ、当時新潟方面への交易路として栄えていて、この「中山宿」という地は多くの旅人たちが行き交う宿場町であった。峠という地形ということもあって標高は400mに達し、鉄道にとっても25‰の勾配が続く難所であるため、平成9年の3月までこの駅はスイッチ
バックの形態を取っていた。 


幾度か中山宿に停まる汽車芒のあわれ峠越えゆく

汽車しばし中山宿に休むかな会津は遠しもの思う秋

我が旅の日も遠くなり中山宿汽車と休みぬ思い出深し


スイッチバックの駅は今はなくなっているだろう。スイチバックだと一旦線路をはずれまた戻るからいかにもこれから難所の峠を越えてゆくという感じになる。そこが中山宿という宿場町だったのも旅情があった。そこで休むがゆえに会津は遠いと感じた。だからそこが旅のアクセントのように思い出の場所になったのだ。旅では便利すぎることは思い出にならない、なかなか行けない、到達しないということが旅の思い出になりやすやすと行けると旅の思い出にならないという皮肉がある。それで現代の旅は思い出に残らない旅が多いのである。どちらかというと現代の旅は保養であり旅は消失している。距離感が旅を作るのでありあまりにも早いと旅にならないのだ。新幹線がそれを象徴している。新幹線で旅気分は味わいないからだ。会津にも何度も行ったから中山宿はなじみの場所だった。記憶としてはそこはいつも芒がなびいている秋だった。それも消失してしまった。そして今はその跡が残っているだけである。

バスには旅情を感じないが汽車−電車には旅情を感じる。そして自分の場合−汽車−電車の旅が長かった。いつも電車(汽車)に乗っていたような気分になる。それだけ自分は暇が与えられていたのだ。人生をふりかえるときあなたが何に一番時間を費やしたかである。一般的には仕事に費やした人が大半である。だから退職しても仕事のことは忘れられないし男が認知症になると会社にゆくというのもわかる。会社で人生の大半過ごしたらそうなってしまう。自分の場合は会社ではない、汽車(電車)なのである。だからスイチバックの中山宿の駅に今でも乗客の少ない車両にもたれてもの思いにふけっている。歩きの旅、汽車の旅、自転車の旅・・・車の旅・・これらはみな違ったものになる。歩きの旅は現代では経験できないだろう。歩く環境が失われたからだ。歩いたとしても何か車などで騒々しいから歩く旅はできない、自転車の旅はこれは汽車の旅とは全然違ったものだった。これは疲れるから電車のようにもの思いにふけるとかゆったりしたものでなかった。先を急ぐ旅になる。江戸時代の旅も距離を歩くから早起きで忙しかったことがわかる。

中山宿の思い出

私はいつも電車(汽車)とともにあった
外の景色を見つ車窓にもたれ
停まる駅でもの思いにふける
スイッチバックの中山宿に停まった時は
なぜかいつも芒がなびいていた
かすかな虫の声を聞きつ私はそこにいた
夜もそこの駅にあった
私は電車(汽車)とともにいつももの思いにふけっている
スイチバックの駅はなくなっても
そこに電車とともに私があるような気がする
いつまでもいつまでもあるような気がする
人生の時の過ぎ去るのは早い
しかし私の人生の時間の一部はその駅にあった
それぞれの人生の時間はいつしか費やされる
あとで思い出だけが残る
過ぎ去った日々は時間は還らず
そして老人はただ思い出に生きる
若者よ、急ぐ旅は思い出に残らない
ゆったりと余裕をもって旅するがいい
旅の目的地は終点はなく遠い
延々と旅することが人生なのだ


遠き日や中山宿に虫の声


真幸駅(平成16年3月撮影)
肥薩線はかっての鹿児島本線−こんな感じだった

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ja1klb/rail/swback.html



新鉄道唱歌(仙台−相馬−磐城)

帰りは線路の道かえて 海づたい進まんと
仙台(せんだい)すぎて馬市の 岩沼(いわぬま)よりぞ分かれゆく
44. 道は磐城(いわき)をつらぬきて 常陸(ひたち)にかかる磐城線(いわきせん)
ながめはてなき海原は 亜米利加(あめりか)までやつづくらん
45. 海にしばらく別れゆく 小田(おだ)の緑の中村(なかむら)は
陶器産地と兼(か)ねて聞く 相馬(そうま)の町をひかえたり
46. 中村(なかむら)いでて打ちわたる 川は真野川(まのがわ) 新田川(にったがわ)
原の町(はらのまち)より歩行して 妙見(みょうけん)もうでや試(こころ)みん
47. 浪江(なみえ)なみうつ稲の穂の 長塚(ながつか)すぎて豊(ゆたか)なる
里の富岡(とみおか) 木戸(きど) 広野(ひろの) 広き海原みつつゆく
48. しばしばくぐるトンネルを 出でてはながむる浦の波
岩には休む鴎(かもめ)あり 沖には渡る白帆(しらほ)あり
49. 君が八千代の久ノ浜(ひさのはま) 木奴美ヶ浦(こぬみがうら)の波ちかく
おさまる国の平町(たいらまち) 並びが岡のけしきよし
50. 綴(つづら) 湯本(ゆもと)をあとにして ゆくや泉(いずみ)の駅の傍(そば)
しるべの札の文字みれば 小名浜(おなはま)までは道一里
51. 道もせに散る花よりも 世に芳(こう)ばかし名を留めし
八幡太郎(はちまんたろう)が歌のあと 勿来(なこそ)の関も見てゆかん


世の変わるは早きかな、みちのく一の大都会 仙台の発展めざまし
昔の古き宿場町 長町を新幹線は走りすぎ 広瀬川を渡り着く
仙台近く常磐線に 新しき駅三つ 逢隈 館腰 太子堂駅
名取は仙台航空への 専用線もできて 世界の国へ通じたる

岩沼へ三つに分かる線路あり 東北線、阿武隈急行、常磐線
東北線は陸奥への本街道 伊達政宗の出陣や 江戸へ東京へまっしぐら
阿武隈に奥深く分け入る線は阿武隈急行 丸森の齋理屋敷こそあわれなり
昔通いぬ阿武隈の船運や 福島市とも結ばれて 荒浜より太平洋へ

新地は伊達と相馬の境 争いの城跡残し 往時偲ばむ
新地駅は海に一番近し 釣師浜より 牡鹿半島も望むなれ
陸奥の海にし 通う船あれ 砂浜歩みて 昔の波路思うや
鹿狼山に長き手を伸ばし 貝食う巨人の伝説も古きかな

常磐線亘理より 陸前浜街道にそい なお駅も増えざる線かな
相馬六万石は 相馬野馬追いの里 千の旗の雲雀が原に旗めきぬ
原町市には巨大無線塔あり アメリカにも通じたる文明の先端の塔
海に面し新田川の辺り 桜井古墳は大なりき 豊かなる国あり

陸奥の真野の草原は 古代に一早く 奈良の都に知られし歌枕の地
真野の入江は深く 船の来たりて栄えしや 都の人の面影に見る地
真野川を上りて 海鳥の飛来して 真野郷の古代より開けたるかな
真野古墳に千年眠りし 金銅双魚佩こそ 町の宝なりしも

小高には古き平安の磨崖仏 千歳の杉の根を下ろし 森厳に静寂を保つ
磐城太田は古代は 磐城の国の名残り その名を今に留めて 磐城に向かう
浪江は川の町 二つの川交わりて 海にそそげる 請戸港に古き港や祭りあり
大堀は伝統の相馬焼きの里 青ひびがその徴し その技は各地に伝えられぬ

双葉の長塚駅は昔の宿場町 その駅名の消えて 思い出語るもあわれかな
大野、夜ノ森 広野は 昔は未開の野なり 夜の森は相馬藩主の余の森なりしと
磐城藩との境をなして 鉄道は道を開きて 一路平へとつき進む
久之浜、波立海岸の岩礁に 白波よせて沖に船 鴎飛びゆく太平洋

朝のはよからカンテラ下げて 常磐炭田の石炭運ばれる 蒸気機関車に東京へ
今は廃坑の跡や穴暗く 父の跡たどる息子あり 苦労偲ばむ昔かな
石炭は国を支えし まず鉄道は石炭運ぶために敷かれたり
小樽も夕張も同じ 石炭を運ぶ線なり 今は斜陽の跡のみ残しあわれかな


磐城の浜の広々と 黒潮の南よりそ珊瑚も運び 潮目に魚群交じり踊りぬ
磐城の太古の海 海竜の化石 スズキフタバリュウこそ 海獣の幻や
アンマナイトの化石打ち重なりて 海は深く陸に入り跡残しぬ
錚々と海の風 阿武隈山脈に向かい 吹きそよぐかな

小名浜の港にも鉄路伸びて 海浜工業地帯と化して 繁く貨車の往来 
その線は泉にも通じて 昔の平、磐城駅よりは複線 東京へ便は増えるも
勿来の関は古代の跡 蝦夷を恐るる関なりと その境は名のみなりけり
カラフルな車体の通勤電車 広らかな常陸から 上野へ向かい人繁しかな
 

汽笛一声 新橋を・・・ここから日本の鉄道の歴史がはじまった。そして百年以上過ぎて鉄道は大地に根付いた文化となり回顧されるようになった。鉄道は歴史となり回顧され時代になったのである。鉄道はモ−タリゼ−ションで一部は廃線となったことも回顧の時代になった。蒸気機関車の時代を経験していたが鉄道には当時それほど興味がなかった。興味をもったのは30年間も鉄道で旅し続けて全国ほとんどの線を乗ったからである。鉄道の歴史といっても広範囲でありその一部を知ることだけでも一生は終わる。鉄道模型もその一部でありこれを極めるにも金とセンスがかなり必要でありできなかった。趣味でもその道で一流になるには一生かかる。鉄道も人によりテ−マが違ってきてこれを極めることは一生かかってもできない、その極一部しか知ることができないのだ。

鉄道は新しい世界を開いた。鉄道は江戸時代から明治になり新時代を開く旗手だった。鉄道は明治時代に新しい時代の空気を全国にもたらしたのである。鉄道唱歌はその土地の風物を歴史をうまく表現していた。鉄道の開通により見えるものも違ってきた。街道を歩く視点から鉄道の視点へと変わった。鉄道の視点は視野が一挙に広くなることなのだ。地理の認識も変わってきた。ただ鉄道でもやはり早いからその土地への歴史的考察は欠ける、省かれやすいのだ。世界をみるとき空間軸と時間軸があり時間軸は歴史なのである。この時間軸の歴史を知ること今もむずかしい。空間は一挙に世界の裏側まで到達しても時間軸としての点の歴史的認識は看過されるのである。時間軸の歴史を知ることは想像力が必要であり学問の積み重ねも必要でありむずかしい。自ら考古学のようにその土地にゆき埋もれた歴史を掘り出す作業が必要になるからだ。これは簡単にできないので空間の認識は容易になっても時間の認識、歴史の考察は浅薄となりやすいのである。

これまでプログで相馬郷土史関連で書いてきたことだが長塚駅は消えた駅名でありここでの思い出を家族から聞いて書いた、ここは自分の家族と深い関係があったからだ。
広野−夜ノ森 大野は野があり未開拓の森が広がっていたところであった。その未開拓の森を貫き汽車が通ったのである。蒸気機関車が地響きたてて通ったのである。この鉄道開通で原町市などが東洋一の無線塔ができ森林鉄道ができ木材が東京に運ばれたり原町市は近代化された都市として相馬市より発展したのである。常磐線のここにあげた鉄道唱歌は仙台からのものである。普通は上野から仙台、下りになるのが普通である。仙台から東京への感覚はまた違ったものとなる。常に東京から奈良などの古い都から見る陸奥が普通の見方だからだ。でも東北では仙台が中心だから仙台からの視点も現代的だとなる。仙台の近くに三つも駅が増えたことがそれを如実に物語っている。そして国際空港への専用線が名取からできたのも現代を象徴している。新幹線もそうだが時代は常に変わってゆく。しかし時代をみるとき過去からの視点、歴史の視点があってこそ現代の意味がわかるのだ。このスピ−ド時代、歴史の視点が欠けているから浅薄な見方しかできなくなっている。ともかく鉄道によって俯瞰する日本も歴史となった。ものの見方も変わり鉄道から俯瞰する日本も圧巻であった。三〇年の鉄道の旅を今ふりかえり書くものがあり新鉄道唱歌として常磐線にスポットライトをあてた。 





常磐線10句−常磐線の果す役割(福島県内)

新しき駅に古き名初秋かな

逢隈駅新しき駅朝の蝉

浜吉田月見草咲き朝の霧

坂本や人おり淋し虫の声

馬追いの夜鳴きあいぬ新地駅

新地駅七分とまる虫の声

磐城太田古代の名残り冬の暮

長塚駅知る人ありや冬の暮

常磐線大野広野や枯野かな

末続におりて菖蒲や畑に婦

泉駅新しきかな春夕焼

泉駅車両カラフル春の夕


灯の淋しホ−ムに鳴きぬ馬追いや新地駅にそ七分とまりぬ


小名浜まで春の小旅行



常磐線一つとってみてもなかなか地元の人でないとわからないことがある。これだけ鉄道の旅をしていると自ずと鉄道に興味をもち常に鉄道の旅を今や回想している。自分にとっておおげさに言えば鉄道の旅が人生だったのだ。隈なく全国の鉄道を乗ったし鉄道を制覇するだけでも一生かかる。常磐線にしても今回は泉−磐城−仙台間を偲んで俳句にしたのだがここにも地元の人でしか知り得ない歴史やら鉄道に寄せる思いがある。
「浜吉田」などという駅名を記憶する人もいない、浜とあるから浜に近いくらいはイメ−ジする。常磐線というのは仙台が上りであり東京に行く感覚になる。一方磐城は滅多に今や行かない、仙台は大都市だし大学とかに通う人もいる。通勤圏でもあるが一時間に一本くらいでは通勤圏にはならない、通勤圏になっているのは仙石線である。ここで20分に一本は出ているからだ。ここは松島の観光路線にもなっているから乗る人も多い。常磐線は亘理まで明らかに通勤圏である。そこから下ってゆくと田園風景であり淋しくなる。浜吉田となると仙台からかなり離れた感覚になるのだ。それで月見草とか淋しい花がにあうことになる。そういう距離の感覚が地元の人でしかわからないのだ。三分おきにでていて一分遅れたからいらいらして大事故を起した近畿圏とは余りにも違っている。近畿圏は私鉄で電車網で結ばれているから一体感がある。そこに距離感はなくなっている。

ところが福島県はそうした交通網が発達していないから一体感がもてないのだ。中通り(福島市)と浜通りは阿武隈山脈でさえぎられ会津はさらに奥地である。福島県は大きいから一体感がもちにくい、交通では仙台圏内に入っているのだ。仙台の駅前にパルコができたからまた行く人も多い。新しいものは仙台に生れるのである。仙台方面に向かって二つの新しい駅ができた。逢隈(あふくま)駅と太子堂駅である。そこに乗る人が多い、通勤圏になっているから新しい駅ができた。磐城に向かっては新しい駅はできないのだ。むしろ磐城は東京と近くなっている。通勤列車が磐城駅から東京へ出ている。磐城から通勤して東京に行かなくても途中から東京への通勤列車になるのだ。だから泉駅でカラフルな東京への列車が見れた。それは常磐線を走るのとは違った車両なのである。泉駅は小名浜と結ぶ線路があったのだ。小名浜臨海鉄道であり海産物を最初は運びのちに工業地帯となって運ぶものが変わった。そこを春の夕方に自転車で走ってきたのが一つの思い出として残っている。鉄道は荷物を運ぶものとして作られていたし小名浜は工業地帯になっていて貨物車が出入りしていたのだ。

鉄道ができてからすでに百年以上になり鉄道の歴史は奥深いのだ。そこにはすでに様々な要素がふくまれていて様々な角度から見ることができる。旅しているだけなら常磐線が生活路線としてどういう働きをしてきたかしているかなかなかわかりにくいのだ。その象徴が「浜吉田」という何の変哲もない歴史も感じられない駅が常磐線ではどういう位置にあるのか、それを月見草として俳句にした。俳句でも短いから常磐線がどのように生活で機能しているか知らないと鑑賞できないのである。江戸時代の俳句もその背景を理解できないのと同じである。江戸時代はすでに二百年三百年とかたっているから余計にその背景を理解することが困難になるのだ。常磐線は仙台と磐城がいかなる働きをしているから理解しないとどういう路線か他からも理解できない、磐城は東京と結びつき原町からは今は仙台と結びつくことが多いのである。通勤圏の電車でないにしても仙台が大きな役割を果たしている線なのである。


参考

鉄道は文化、モ−タリゼ−ション(車社会)は文化の破壊6月3日

史実より感情が優先される(伝説の嘘-「鉄道忌避伝説」を読む)7月25日