ノートパソコンから旅の報告2



(江ノ電)

春風や江の電行きぬ海も見え

江ノ電の駅々近し花の影

江ノ電の駅に待つや春の昼

江ノ電に春の日さして旅の人

江ノ電の沿線花散り海の風

春風や切り通し二つ吹き抜ける

鎌倉を囲む山々春疾風

若草の源氏山に花の影

鎌倉の隠れ茶屋かなシャガの花


春の日の江ノ島親し富士の嶺の霞に浮かび波打ちひびく

鎌倉にもののふ起こり富士の嶺や風に吹き散る桜花かな

実朝の恨みを残す大銀杏花の盛りに訪ふも散るかも

朝静か山を背にして大仏や鎌倉に花咲き満ちにけり

春風のそよぎ鎌倉の山中の喫茶店静か花の散るかも


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東京や春夕焼けに飛行機雲

旅路来て品川に着くや春夕焼

 

{都電)


タンポポや都電の線路に咲き続く

行く人に都電に花散り町屋かな

春の日や庚申塚にも停まるかな

春の日や都電の終着鳩歩む

下町の商店街も歩む春

言問橋両国橋や春の雲

隅田川橋のあまたや春の雲

山手線春の夕日や一回り

押しあいて花見の船や隅田川

隅田川海にい出けり春の風

蔵前や昔賑わい春の風

花にそい橋のいくつや隅田川

電車行き船行き人行き桜かな

船泊まり春のカモメや浜離宮

若者の出会う渋谷や春の月

春の灯や新宿に並ぶホテルかな

春の日に都電につきぬ三の輪に手焼き煎餅売る店古りぬ










都電三の輪終点と書いてある

今回の旅も変化に富んでいた。東海道は昔も今も繁華な所で日本のメインストーリートなのだ。どこも花盛りだった。日本の春は世界でも一番美しい時だろう。桜に装われるのでどこも一段と美しくなる。桜は人臭いものだと今回思った.深山幽谷に咲くものとは違う。山桜より城とか街道とか街のなかに一層映えるのだ。人里の花なのだ。桜は美として鑑賞される前には農民が種まく時期とかの目安となった.種まき桜とかがありこの歴史を見ても人里の人臭い花であった.そして桜は武士と城と一番マッチするものとなった。武士の美意識とマッチしたのだある.今回はそうして人ごみの中での花見であったがそれが桜にはあっていた。それから面白かったのが市電であった。豊橋や江ノ電や荒川の都電は人間的で良かった。生活の息ずかいが感じられる.人と自然と電車が一体となっている.街と密着している.都電の終点で買った手焼きのセンベイもなつかしいものを感じさせた.食べ物も単に腹を満たせばいいというものでもない。その場の状況でその食べ物も味わい深いものになる。コンビニやスーパーは安いのだが余りにも機能的になり人間的なものが排除されているのだ。昔の町がかもしだすものがないのである。安く買って腹を満たすということだけが人間の営みではない。そこに商店街の衰退があるとしても再興されるものある。いずれにしろ春風のごとく日本最高の豪雪地帯から東海道と一巡した。春は人も動く、街の装いも新たになり新しいものが起こる時である。日本の一番いい季節は春である。今回東京で気ずいたことは中国語をしゃべる人が多かったことである。日本人と思っていたら中国語をしゃべっている。石原都知事が三国人発言で問題になったが本当に中国語をしゃべる人が多いと実感した。観光の人もいるだろうが労働者も相当な数なのだろう。もう一つ目だったことは250円とかの安いハンバーグとか牛丼が多かった。250円は本当に安い。外国並みの値段だと思った.東京はやはり買い物が面白い。小さなキーボード買った。本も小さな本屋でもいい本が駅の中や駅前にあり選び並んであるので買いやすかった。やはり東京では小さい本屋でもいい本置いて売れるものだと思った.知的要求が高いのである.

壁紙は江戸千代紙を利用した
  
春の電車
       新美南吉

わが村をとおり、
みなみにゆく電車は、
菜種ばたけや麦の丘をうちすぎ
みぎにひだりにかたぶき、
とくさのふしのごとき
小さなる駅々にとまり、
風呂敷包み持てる女をおろし、
また杖つける老人をのせ、
ある村には子どもら輸がねをまわし、
ある村には祭の笛ながれ、
ついに半島のさきなる終点につくなるべし。
そこには春の海の、一
うれしき色にたたえたらむ、
そこにはいつも、
わがかつて愛したりしおみなおりて、
おろかに心うるわしく、
われを待つならむ。
物よみ、草むしり、
小ささ眼を黒くみはりて待ちてあらむ。
われきょうもみなみにゆく電章に
我がおもい乗せてやりつれど
そのおもいとどきたりや
葉書のごとくとどきたりや

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菜種油というのは菜の花が油として利用されていた、椿も油として髪にぬっていた、椿油は家で売っていたことがあった。
輪がねとは自転車の輪でありこれを回して遊んでいたことを思いだした。のんびりした昔の風景が浮かんできた。どうしても現代はせわしすぎる。何かに追われ心の余裕がない、今の子供が青年が強暴になるのはやはり豊かでも心に潤いのない時代に育ったためのようにも思いてくる。

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