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石垣をたどり歩みてこの城の大きさ知りぬ秋の暮かな

城内に今はかそかに虫の音やはるか来たれる旅人去りぬ

外国の陶器のここに埋もれたるこうろあとの秋の暮かな

薬院に泊まりてふけぬ秋の夜

博多に泊まり福岡城を見に行く、ここは石垣ばかりで城はなかった。それでもかなり大きな城だった事がわかる。そもそも博多は商人の街だった。古代から貿易の拠点となった所である。その証拠にこうろかん跡から中国や遠くはイスラムの陶器まで発掘された。その鴻臚館(こうろかん)跡が福岡城内にあったことでもわかる。鴻臚館は遣唐使や渤海などの交流の拠点であった。太宰府は百済とか新羅との交流の時代である。鴻臚館のことは源氏物語にもでているからだ。商人の街に関が原の戦いで黒田長政が徳川方について活躍した。福岡と名ずけたのは黒田家の出身地の備前国(岡山県)邑久郡福岡の地名をとって名ずけた。全然ここの地形とかには関係していないのだ。こいうことよくあるのだ。福島県の安達郡の小浜という地名も敦賀の小浜から大内氏が移ってきたので名ずけられたのである。城はその土地の人に与えられるのではなく上の命令で与えられるのである。博多という商人の街に忽然と城が建ち城下町となった。そこに博多と福岡という対立が生まれてしまったのだ。いずれにしろ様々な歴史が織りなされているのだが理解することはむずかしい。

敗れたる武将のあわれ旅路きてしばし思いて秋の夜ふけぬ

敗れた人を歴史に埋もれた人を思うのもまた意味ある事だし勝者の歴史だけが歴史ではないのだ。

次に訪ねたのが生の浜の元寇の防塁跡だった。

大いなる元は去りにき防塁のここに残りし秋の暮かな

この元寇にもまた大きな物語があった。NHKでやった歴史発見は面白い。元寇で戦った九州の武将が盛んに鎌倉幕府に恩賞を要求したことである。侍は恩賞のために戦ったのであり日本のためとか日本国民のためとかの意識は希薄だった。自分の土地を守るためとか私的な動機が先行していた。それが人間的なのかもしれない。明治以降の戦争はその性質が全然違う。国民は恩賞などなく命は国家に捧げられたのである。天皇に捧げられたのである。死んだら神になるとかそれで命は捧げられたのだ。死んでも何ももらえない人が多いのだ。江戸時代までならそんな損だけの戦争はしない。戦争自体功利的なものだったからである。旅をするといろいろな歴史が頭の中を忙しく駆けめぐる。
次に訪ねたのが佐用姫の領巾振り山の鏡山である。やはり故事のある場所は何か違う。ここでカササギを見た。これは韓国ではよくみかけるのだ。九州のこの辺にもいた。

鏡山常に望むは海なりき旅人上り秋の日沈む

韓国を望みて遠く今もしも思い残りぬ秋の夕暮

鏡山の麓に下りて窯元にまた訪ねたる秋の暮かな

ここから唐津の城が見えたので唐津の城を目指して歩く、現代の旅には道中がないのだ。昔だったら唐津の城が見えたぞ、ゆっくり休めるなとか長く歩いてきたからその喜びも大きかったのだ。虹の松原の中をずーと歩いた。ここは気持ちがいい。

松原に夕日のさして波ひびき唐津の城を目指し歩みぬ

松原の広々として秋の日の夕日の深くさしいりぬかも

松原に夕日のさして虫の声


この松原をぬけた所にホテルがあった。なんと国民宿舎だった。立派なホテルになっていた。前にも泊まったことがあった。全く様代わりした。素泊まりもできたので泊まることにした。6300円は環境がいいので安い。ここから夜の唐津の街にでた。落ち着いた城下町である。日本海側の城下町は太平洋側より落ち着いて情緒がある。唐津焼は藩の窯で高級な茶道用のものであった。焼き物はその土地の個性を作り出しているし今でもお土産には一番いいのである。

窯元や孟宗竹に秋の風

旅路来て松に芒や唐津焼き

秋の燈や城下の店に唐津焼

落葉して城下の通り唐津焼

秋の燈や水に囲まれ城下町

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名護屋城、松浦線→有田へ

九州への旅の報告

11月2日 

唐津

名護屋城から松浦線