対馬ー比田勝

対馬ー弓の原

壱岐ー郷の浦


秋の朝かもめ飛びきて常磐橋旅人渡り小倉城見ゆ

石三つ城内にあり秋の暮

秋の朝小倉賑わう魚町

人の棲む小島の二つ秋の暮

船に合う壱岐の漁師や秋の暮

壱岐の島田畑少なく芒かな

船は去る郷の浦暮れ虫の声

郷の浦秋の夕日にかもめかな

新羅へ行くを果たせずあわれかな壱岐に眠れる秋の夕暮


夕日没る秋の壱岐去り旅人の対馬へ向かう夜揺れる船


小倉はかなり昔にぎわった街だった。常磐橋という再現された木の橋は街道をつなぐ要の橋だった。

街道をつなぎし橋や秋の暮

魚町とあるのは魚の町だった。小倉というと余りなじみがない。博多とか下関は船が出ているので観光客にはなじみがある。小倉も昔は船の出入りが頻繁にあったのだ。昔は船の交通が主流だったからだ。荷物は船で運んでいたのだ。小倉から次は博多から船で壱岐に向かった。壱岐で漁師をしている老人に出会った。
「魚がとれなくてだめだ、跡継ぐものもなくて4万あった人口も3万に減った。残るのは老人だけだ、魚は安くてだめだ・・・・・」
「魚は高いと思いますが・・・」
「安い、安い、・・・・」
「私の所でとれる石鰈という魚は高いですよ」
「魚は安い、市場に出したら安いよ」
「魚とるのは危険だから魚は高くなる」
「板子一枚地獄だ」
「私の所の漁師も何人か死んでいる、必ず漁師はどこでも死んでいますね」
「ああ 海が荒れているとき魚はとれるんだよ、だから死ぬのさ」
「海が荒れた時は船はださないんでは」
「いや 海が荒れたときは魚とれるから無理してもでるんだよ」
「そんなもんですか、あそこの島にも人住んでいますか」
「住んでいるよ」
遠くの小さな島にも人が住んでいたのだ。海が荒れている時魚がとれるから無理して船をだすというのも不思議だった。なかなか漁師の話しなど聞けるものではない、こういうときは気軽に話せる場合があるのだ。私の所でとれる石鰈は本当に高い。一匹1500円とか高い。でもそれは身がはいっていてうまいのだ。他の多くとれる魚は安いのかもしれない。いずれにしろ北海道のライダーハウスの農家の人も延々と農家はやっていけないどうにもならんとかそういう話しばかり多い。でも漁師は20年30年前には良かったのである。今は確かに近海で魚がとれなくなったのだ。とりすぎたせいもある。町でも小さな店でもどこも繁盛したのだ。小さな店でもお得意さんを観光旅行に無料で招待したのだ。そこでホテルは団体客でにぎわったのだ。中小の工場でも人手不足の時代がつづいた。どこも繁盛していたのだ。今繁盛している話しはほとんどどこでも聞かないのである。
壱岐で時間があったのでバスで郷の浦に向かう。郷の浦では夕日がきれいだった。郷の浦から芦辺に帰り夜の船で対馬に向かう。芦辺というと正に芦の繁る所だった。

郷の浦から芦辺に帰る秋の暮

日本ではどこでも葦の浦だったのである。いまそういう面影を残しているところは少ない。地名から連想するのだ。真野の萱原も芦辺の港だった。
ともかく島の暮し、島というのは陸とはかなり違った生活感覚が形成される。島は水が不足する。水が大きな問題になるのだ。柳田国男が島に関心をもったのは日本には思った以上に島が多く島が日本民族のアイデンテイが形成された場所と認識したからだ。日本自体が島であり漁業が大きな暮しのウエトをしめていたのだ。魚を海産物が伝統的に暮しの糧だったのだ。魚が近海でとれなくなったということは島のような隔絶された世界では大きな問題になる。工業化できない土地だからだ。山もそうだが島も過疎に悩むのである。

今回島にairHの無線の通信ができなくなることにきずいた。島というのは通信の世界でも取り残されるのか、やはりどんな辺鄙なところでも分校があり教育が受けられたようにITも公共事業としてインフラを整備する必要があるのだ。島ではインターネットができると情報化の面で恩恵が大きい。島では大きな本屋もないからである。また小さな島からも情報を発信できるのだ。実際こんな島があって生活していたのかというホームページがあった。日本では一回も行くことのない小さな島が結構あるのだ。とくに南には多い。旅するだけなら島の旅というのは情緒があり陸とは一味違うものとなり興味深いものとなる。

壱岐では夜9時の船で対馬に向かう。バスが郷の浦からでていたのだが乗ったのは一人だった。今ころは旅人もいないので夜は乗らない、というよりは地元の人も乗る人は5、6人とかである。バスはどこでもそうなのだ。誰ものらないバスが自分の町でも走ってゆく。

対馬の厳原についたのは12時である。宿が見つからず外で夜を明かした。壱岐でも宿が満室だった。この時期空いているはずだが宿自体すくなくなっているのかもしれない。夜だとわからない面もあった。対馬は厳原から比田勝までバスで行くことにした。このバスもがらあきであり最後はずーと一人だった。全然人をのせないで走るバスというのも運転手にとっては張り合いのない奇妙なものだと思った。途中一人漁村で乗ったが比田勝でパチンコ屋に入った。パチンコ屋はどこにでもあることがわかる。
途中下車したのは仁木という町だった。対馬の意外だったことは田畑がほとんどなく山と森しかなくそのなかに浦が入り込んで小さな漁村があるだけだった。米も何もとれないということは魚だけでは生活できないから古代から貿易をしていた。それで仁木にも銅剣などの古代の遺品が残された。こういう島にきてわかったことは貿易というと格好いいがある意味で貿易の始まりは海賊であり略奪だった。こんななんにもとれないところでは外から来た船は魚をとると同じように獲物だったのである。これは砂漠で暮らす人とにている。砂漠でも極端に貧しくそれで砂漠を行き交う商人は略奪された。それは略奪する方にとっては悪いという感覚はなく当然という生活感覚なのである。イスラムでは富は平等に分配せねばならぬというが富は貧乏なものなら富めるものから奪ってもいいという感覚があるのだ。こういう何もないところに住んでいればわかる。こういう所からワカンとかがでてきたのだ。
とにかく山と森だけの原始境みたいなっていて一番目立つ建物は学校だった。本屋もあったが見すぼらしものだった。暇だといって5000円も文庫本を買っていた人がいた。実際ここはで暮らすのは退屈になる。海と山と森に閉ざされた世界だからである。絶海の孤島ではないがそうした雰囲気なのだ。

船に乗っていたのは五島の人だった。魚は潮の流れと関係している。潮が流れる所に魚はいるとか月の光と関係しているとか言っていた。ここから韓国が見えると言ったが曇って見えなかった。韓国は日本よりここは近いのだ。それにしてもこんななにもない所だと思わなかった。だからツシマヤマネコが生きていたのである。百聞は一見にしかずでありその土地に行ったものでない人は語れない。

比田勝から5時間かかり博多に戻った。あとは熊本と阿蘇を見て終わりだ。かなり金を使ってしまった。通信は島ではできなかった。公衆電話でやるのは不便だ。この無線は実にインターネットやるには便利かわかった。

島のバスなじみの顔や秋の暮

石屋根の家に住みしと秋の暮

弓の原少し開けて秋の暮

秋の暮かもめ一二羽比田勝去る

船に合う五島の人や秋の暮

浦底と閉ざされ海の道通じて古りし秋の日暮れぬ

旅人の一人降り立つ仁木の町あわれ淋しき秋の暮かな

九州への旅の報告

10月31日 

小倉ー博多ー壱岐ー対馬

唐津へ

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