11月1日 博多(太宰府) 

九州への旅の報告


博多に二日泊まった。太宰府を見学した。ボランテアの老人がいて説明してくれた。一番わかったことは水城が防衛のために要所に作られていたことである。図のように山と山の間に作られ昔は海が迫っていた。それから太宰府は外国との唐や韓国との交流の基点となった場所であった。外国に行くとき必ずここに寄ったのだ。だから留学僧などのもってきた中国製の壺などが発掘されて
沙弥満誓詠綿歌一首 [造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也]
しらぬひの筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ

この綿は外国からもたらされたものでしらぬひちはなにかわからないが新羅と関係あるかもしれない。現場に来て実感としてこの歌がわかったのである。いまだは着ねどとなっているからなかなか着れるものではなかったのだ。地位の高い人でもそうであったのだからかなり高価なものだったのである。
ここに大伴旅人は五年間もいたのである。ここは多賀城とは違い国内ではなく対外的な防衛の場所として作られた。新羅や唐に攻められるの非常に恐れていた。朝鮮式山城もかなり大規模なものである。あれだけの城は渡来人の技術指導がないと作れない。大和と新羅と百済と唐が三つ巴となった動乱の時代だったのだ。

ここに大きな礎石が残されていることは確かに大きな建物があったのだ。
藥師張氏福子 土師氏御道 陰陽師礒氏法麻呂 壹岐守板氏安麻呂 對馬目高氏老 藥師というのは文字通り薬を扱う人である。土師(はじ)は土器を作る人、陰陽師は占いをする人であり当時は重要な役であった。壹岐守が二人と対馬守が一人と集まった。当時は壱岐と対馬は新羅とかの中継地点として大事だったのだ。

博多の宿は薬院の駅の近くのパーソナルホテルで5500円である。部屋は広く大きな風呂にも入れる。前だったら1万くらいの部屋である。福岡の駅まで3分くらいで歩いても近い、たまたま電車から見つけて泊まった。中心部になると高くなると思ったからだ。近くに勘ビールがないかと探したらコンビニにもないことに気ずいた。酒は酒屋でしか売ることができないのだ。自動販売機でもビールを置いてあるのは非常に少ない、専売の特許制だから置けないのである。こいうことは外国にはない、なぜいまだに消費者には不便な制度が残っているのかおそらく役人にメリットがある、税金などや役人が許可することで権限をもてるからどこにも勝手に置けないのである。日本にはまだそういう
規制があり構造改革が叫ばれている。旅をすると日頃きずかないことに気ずくのだ。ただ筋肉が痛くなり疲れてきた。こうして毎日報告することも大変である。現場から報告することも楽でないと思った。記者の仕事も大変である。記者の初めはギリシャのマラトンでスパルタに勝利を伝えた兵士だった。伝えるために走り息絶えたのである。重要なことを知らせるために死んだのである。現代はただ知らせるだけでなく何が大事かを示す人が重要である。何かあったという事は電波の時代容易であるがそれが何を意味するのかという説明が大事になってくる。いずれにしろNHKの取材班が外国でバスが転落して4人死んだとあり番組を作る事は大変なのである。

太宰府に礎石残りて虫の声

観世音寺の礎石大きく秋の暮

みちのくゆたずねてあわれ秋の暮水城残りて昔偲びぬ

五年をここに過ごすと水城あり旅人あわれ秋の暮かな

対馬より博多に帰り太宰府をたずねてあわれ秋の夕暮

厳原に石積みの武家屋敷我が泊まりて秋の暮かな

島陰ゆ舟のい出きて韓国のここより見ゆと秋の暮かな

水城の図

水城小学校

観世音寺の礎石

対馬へ

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