バス停に地蔵一つや秋の暮

名護屋城石垣崩れ秋の風

名護屋城に大蜘蛛の巣秋の風

晩秋や図書館古りて駅の前

・・・松浦線・・・・

松浦線金石原も枯野かな

石垣の段々の田の刈田かな

晩秋の松浦線や夫婦石

窯いくつ有田に古りて秋の暮

名護屋城の大なりしも意義もなく石垣崩れ秋の風吹く

幾日か筑紫におれば秋の夜や故郷思う防人あわれ

なの国の思いば遠き秋深む大和の力ここに発しぬ

長崎のシーボルト慕いはるかにも学ぶ若者秋の夜ふけぬ

有田焼き有田に来たりて手にふれるそのうれしさや秋深まりぬ



名護屋城に行ったけど閑散として訪れる人もまれだった。季節もあるがあそこはそれほどの人が訪れるとは思いない、日朝交流の立派な博物館を作ったがどうもそれがあそこには不似合いなのだ。韓国の人も来るというがいいイメージではない、歴史を偲ぶという点ではいいのだが日本の歴史にとって秀吉の朝鮮征伐は肯定的ではない、あのようなことがなぜ行われたのか不可解である。暴君となった秀吉だけの横暴なのかそれとも何か背後にそれなりの理由があったのかわからない、歴史をドラマや映画のように見る人が増えているがあれは歴史を誤解させるものなのだ。NHKの歴史発見の番組が面白いのは歴史考証からなにがしの事実から歴史の真実を浮かび上がらせているからだ。名護屋城を象徴していたのは崩れた石垣だった。無謀な野望は無残に崩れたのである。つまり大きいことだけが意味あることではないのだ。すべて大きいことは意味ある勘違いするのである。それも時代がたってみると意味のない虚しいものとなる。ただここに全国の大名が集結したことは圧巻であった。いずれにしろ秀吉の無謀は韓国には有益なものとなった。その抵抗は歴史に評価されたが日本ではこのように無残な結果となったのだ。前の戦争もその意味を盛んに言うがどうも同じように無残な結果に終わったしかいいようがない。
古代史においての韓国との興亡はまた別な歴史的意味があるから比較できないのだ。

名護屋城石垣崩れ秋の風

名護屋城に大蜘蛛の巣秋の風

大きな蜘蛛の巣が獲物もなく秋風にゆれていた。この大きな蜘蛛は秀吉だったのか獲物はとれなかったのである。





駅前の図書館[唐津駅)

これは唐津の駅前にあった詩である。これも唐津的で面白いと思った。旅行記を書くにはその土地のことが即座にわかるものが必要なのだ。だからガイドが本当は必要なのである。特に外国ではそうである。全然わからないからである。旅も歴史を知らないと深い意味を探る旅はできない。九州は日本の歴史に果たした役割が大きいのだ。ここに邪馬台国があったというごとくここから日本の歴史が起こったともいえるからだ。歴史が地層のように幾重にも重なっているのだ。そしてここはみちのくからすると随分遠い地だということが実感する。その遠さがまた魅力である。ただ交通費だけでもかなりかかるから今までも一回しか来ていない未知の領域になっていたのだ。

今日は唐津から名護屋城までのバスは7時半にしかでていないので朝早く6時半に起きて歩いた。それが道を間違いてしまい乗り遅れるところだった。朝一回しかでていないから行けなくなるところだった。バスは不便である。乗っている人も数人である。そして運賃が高い。対馬では4000円もとられた。バスは不便で高いのである。汽車が通らないところは自動車がないと旅しにくくなっている。
汽車のローカル線にしても経営が苦しい、松浦線というのは私鉄だった。夫婦石の寂れた駅でも往時は50万あり二万に乗客が減ったとある。すごい数である。これだけの変化があったのだ。有田までの松浦線はしかし情緒があった。石垣の田があったり夫婦石という駅も心に残った。岐阜の山中には夫婦滝というのがあった。駅名がどいうわけか心に残るのだ。有田という地名は田があるということで田があること自体山間でめずらしいのでそうなったとある。金とつくのは古くは石器を作る黒曜石などがとれたからとある。バスでもバス停の名前が心に残る。汽車とかバスは地名を訪ねる旅になるのだ。自動車はそうした情緒がない猛スピードで通りすぎて行くだけである。とにかく虫食いのように無人駅化しておりほとんどワンマンカーである。

今日も乗るワンマンカーや虫の声



今回のairHでの無線でのホームページでの報告は初体験だったがこれは実に便利だった。前の線を電話につないでアクセスポイントを変えるのとは大違いである。汽車の通っているところならどこでも即座に通じて家にいてインターネットするのと変わらなかった。通信の手間より書く内容に書くために疲れた。毎日それなりのものを書くとなると大変である。しかしホームページとはとにかく毎日書くことに意義がある。個人的新聞であり放送でありあとから回想して書くのとは違う。ライブが生命なのだ。ただまだインターネットでは本格的にやっている人は少ない。というのはテレビでも新聞でも何百万人が相手の商売でありインターネットはそうした今までのマスメデアと違いすぎるのだ。インターネットで一万が同時に見ているとしたら物凄いことである。100人でもすごいと感じる。10人でもそうである。実際は数人が多いのだからあまりにも違ったメデアでありここでは商売になることはむずかしい。ただ今回の報告のようにテレビや新聞では今までのマスメデアでは作れないものが作れるし放送もできる。そういうことしているプロの人は非常に少ない。百人とか見る番組制作など考えられないからである。もちろん作家にしてもそれでは商売にならないのだ。だからどこに見るべき番組があるのかもわからないのだ。もちろんこれではスポンサーもつかないのである。いずれにしろ何か鉄道マニアだったらマニアの旅の報告ができるのだ。見る人がわずかでもそういう番組が作れるのである。

長崎新聞ー松浦線紀行を参考

吉野が里へ

九州への旅の報告

11月3日 

名護屋城ー有田ー佐賀

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