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晩秋能登紀行

室堂に行くバスの説明ではナナカマドはナマ・カマドの意味で生木を燃やしたからその名がつけられた。餓鬼の田というのがあり餓鬼が飢えてここに田を作ったとか、これも実際飢饉などがあり死んだ農民がいてこんな伝説が生まれたのかもしれない。山頂には神が作る田、神代田という伝説が各地にある。神が代わって田を作る。いずれにしろ日本民族は田になるべきところを求めて広がったのである。どんな山間の僻地にも田はあるのだ。尾瀬沼すら田代と名がつき田にされるべき所だったのだ。稚児塚は姫を乗せた舟が流れついてその姫が死んで葬った場所である。これは全国各地にありパターン化したものだろう。伝説も人の移動と共に伝えられアレンジされて残る。日本海は船の交流が盛んであったこともある。私鉄は狭い家の間を行き駅も小さくより生活に密着している。長屋・栃屋・浦山という駅名も親しみを感じた。他に家山というのもありその名ずけかたが身近の所から発想してて面白い。栃屋とは何か栃の実を作っていたより何かの屋号であろう。私鉄の方がよりその土地と密着しているので興味深い、この辺に南無阿弥陀仏の墓が多いのはこの辺は真宗が多いからだ。墓には普通は姓名が・・家と記されるが南無阿弥陀仏だけや南無妙法蓮華経だけになるのは宗派がすぐわかる。姓名を記さずこれだけだと一つの墓でまにあう。最近は墓の後継ぎがなくなり廃墓が多くなったからだ。真宗の人が相馬に移民したことは知られ真宗系の寺が移動した。風習も移動した。相馬の民謡は移民を呼ぶために作られたものがあり宣伝の歌だったのだ。相馬に来た移民は最初苦労したが努力して土地に根ずき豊かになった。相馬は天明の飢饉で土地が荒れ開墾のために人手が足りなくなり加賀藩の百姓も村を離れねばならない事情があり飢饉など起こり移住してきた。相馬藩の困窮は二宮尊徳が救済したことで有名である。生活の変化で移住は結構多いのである。五箇山から来た人がいたという。あそこはかなり山奥だからなんらかの事情で生活に窮したのだろう。白川郷から五箇山と自転車で来てテントを張って泊まったことがあった。そこは山に隠れたような田だった。どんな山中でも山でも必ず田がありその田を見つけて畔などにテントを張るのがいいのだ。とにかくそういうかなりの山奥だから生活に窮することはありえた。

   
五箇山の隠し田なれや月照らす

輪島に高速バスで来る、途中錆びた鉄路がつづく、汽車が走っていると思ったら廃線だった。バスの停留所は駅だった所でその近くのステーションホテルに泊まる、しかしそのステショーンはないのだ。4月に廃線になったという。高速バスが出ているから不便ではない。輪島塗は今は中国の漆をつかっている。技術は輪島である。JAPANがウルシと言われたごとくウルシの歴史は縄文時代にまでさかのぼる古いものなのだ。津軽はウルシの最も古いものがでているらしい。縄文時代は北が中心だからそうなったのかもしれない。ウルシはうるわしからウルシになったとかウルシのとれるのは照葉樹林帯でタイ・ベトナム・中国の南である。米のとれる所であり文化の共通性がある。世界的に見ても米のとれるところは少ない、水に恵まれていないととれないからだ。水の良し悪しで米のうまさもかわる。私の所でも山の方の米がうまく海の方の米は味が劣る。山の方は水がいいからだ。米作りは自然との共生であり人間との共生、相互扶助が生活の基本になるので狩猟や牧畜とはかなり違った世界なのだ。この米作り自体、生活自体が「和をもって尊ぶべし」なのである。何故日本が牧畜を基本とした西欧文明になじめないのかそれは延々と米作りしてきた歴史が体質となっているためである。民族が混合するところでは厳格な善悪のであれルールが不可欠である。日本では和の基準が明確ではない。それは民族が混合しない村という小さな単位を基にしているからだ。どうしても談合でありルールで決めることになじめない、村ではみな顔見知りであるから情の世界になり理の世界は窮屈になる。ところが全然見知らぬ人と交わる大陸では理の世界になる。互いに合理的に納得することが必要になるのだ。だからあんなに詳細な契約が必要になる。それはなんのためかというとあとで問題を起こさせないためである。あとで文句言われても契約に書いてあるということでいちいち苦情を聞く必要がない。だから詳細なことでも契約書はよく読むことが自衛手段になる。そこにいちいち情を介入させていたら商売も仕事も成り立たないのである。また牧畜の世界で自然破壊の度合が大きかったのとは違い米作りは自然の環境にマッチしないとうまくいかない、大量の水を必要とすること、きれいな水を必要とすること、そのためには水を保水する森が欠かせないのである。一方牧畜遊牧社会は古くから商業のネットワークを作り都市を作りその都市を作るために大量のレンガを作りそのために燃料となる木が必要として森が失われた。その都市はジグラッドのように天まで届くような巨大都市を作ろうとしたのだ。その結果その回りの森は失われたのだ。

 輪島のお土産屋の人は自分も漆塗りをしているという。私の前の家はウルシ屋だった。ウルシはとても手間暇かかるもので何回も何回もぬるのである。それを子供の時見ていたのだ知っているのだ。ウルシは匂いがきつくしみついてしまう。漆沢、漆山、漆畠とか地名でも全国に残ってている。今はウルシは貴重で輪島塗の椀は高くて買いない、箸を買った。椀にまつわる伝説も多い。漆器のいいものは武家や金持ちの家で使うものでそれが記念として各地に残っている。会津は漆の漆器でも有名である。輪島の方にも教えに来た。相馬焼きも古く益子などに技術を伝えた。職人は移動することが多いのだ。技術を習いに行くこともそうだが材料を求めて移動する。ドイツの職人が全国を腕を磨くために遍歴したのは有名で文学として残った。いい土を求めて陶器職人も木地師も移動した。木地とあるごとく木の質が大事なのだ。職人であれ芸術家であれその作品の良し悪しは材料に左右されることが多いのだ。いい材料の取れるところにいいものが必然的にできるのだ。

 
沼名川(ぬ な かは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも
 拾(ひり)ひて 得し玉かも 惜(あたら)しき 君が 老ゆら く惜(を)しも  
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この玉がいかに貴重なものだったかわかる。これは青森の丸山山内の縄文の遺跡からも発見されたことは日本海を通じて交流があったのだ。日本海は冬を除いて穏やかであり船の交流が早くからあり今寂びれたような奥能登でも時国家の豪勢な屋敷が語るように栄えていた。時国家は船を所有し貿易で栄えていた。青森の十三湊は昔栄えた所で有名であり小浜には十三丸という船の名があったり珠洲焼きなどが松前や遠く北海道で発見されている。日本海を通じた交流は北前船でも盛んであり船の交流により沖縄まで流通していたのだ。網野善彦氏が日本が過度に米を中心にした国家像に傾きすぎているという指摘があった。百姓は農民のことではない、百姓は百の生に携わって暮してきた多様な日本人を言うのでありその中で海の民のしめる度合が大きかった。確かに農人町というのがあり農民も職人のように扱われていた証拠としての地名が残っている。農業に専門に携わる人が農人であり百の生、職をこなす人ではなかった。だいたい日本の神話からして海人族が作ったものであり日本と海とは切り離せないのだ。天をアマというのは海人のことアマは漁業に携わる人のことで天という意識は後に入ってきたものである。日本の国生み神話でも大八島に対馬とか佐渡が島まであり島伝いに移動した海人族がいた。これは山の中まで移動した。安曇族がそうでありこれは長野県の安曇(あずみ)に今でも船を祭る行事が残っている、福島県の安積(あさか)もそうらしい。日本民族は海伝いに移動して内陸部に定住したのだ。グリというのは石とか貝のことをいう縄文以来の古い言葉でありそれがクリ(栗)となるのは海人の言葉が適用されたためである。例えば牛を知らなかった南洋の島の人が牛に関することを豚で言い表していたと同じである。インカでは牛を大犬と言った.地名でも鵜川とか鵜飼があるのは鵜飼部が暮していた。古君というのは土地の支配者なのかわからないが面白い地名だと思った。

戦えば 我はや餓えぬ
島つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね

大石に這ひ廻(もとほろ)ふ
細螺(しただみ) い這ひ廻(もとほ)り 打ちてしやまん

とか神武天皇の吉野での山の中での戦いでも漁師の生活がにじみでていた。

沖つ鳥 鴨着く島に
我が率寝(いね)し 妹は忘れじ 世の尽(ことごと)に

古事記は海人の一族がもたらしたものであることは間違いないのだ。海の匂いにみちみちているからだ。 

輪島の朝市で海草を売っていた。その中にツルモというのがあった。初めてみた。つるもは蔓藻である。こんなもの食えるのかと思ったが面白いと思って買った。

  
晩秋の朝市あわれつるも買う

とにかく今はものさびしい感じになっているが日本海は海を通じて繁栄していたところなのだ。でも晩秋の奥能登を旅して心にしみたのは十五夜の月ではなく明るく繁栄した時の十五夜の月ではなく十三夜の月、これを後の月としているがこの季語は使ったことがない、季語は非常に多く未だ理解できないものがある。時代とともに新しい季語もできてきている。廃れる言葉も季語もあるわけだ。

  
旅路来て奥能登あわれ後の月





 
古君の名に・・・・・

古君の名の謂れは何や
能登の歴史も古りにしや
能登を領する君の一人や
海碧し入江の漁村も古りて
微風に芒の揺れて静まりぬ
古君の淋しき駅を過ぎゆく
鵜飼というもまた古代に由来し
都を遠く家持の越に暮すも長きかな
奈良の平城宮に帰りて思うや
萱原に海を望みぬ能登のキミ
そのあおによし花咲き匂う都すら
今は消え果て枯野となりぬ
陸奥の真野の萱原さらに遠く
月のい出て我が影置くもあわれかな

景行天皇──日本武尊──武明王──【綾】爾彌麻命──奈鬼爾麻命──竈王──
多富利大別命──日向王─┐
                          
多郡君──依志君──古君──奴手古君──大人堅──右大山麻呂──因麻呂大床──業長蔵──拾秀世─┐
                      │

古君という地名にひかれた。俗語で遊女のことを古君とも言っている。キミとは地方の族長である。その系譜をたどると多郡、オオ氏につらなるから出雲系統なのかもしれない。大和と同等の力を出雲は持っていたのだ。何故かと言えば日本海を通じて新羅や渤海など頻繁に交流があり日本海は古代では表玄関であり日本海を通じて文化が入ってきたからである。越の国はそれ故大和朝廷で重要な地域であった。日本の最初の国は出雲であり次に近畿に移ったのだ。それは日本海から瀬戸内海と航路が移ったことに関係あるかもしれない。九州と出雲が外国に一番近いのだから地理的に発展したことは当然である。では何故近畿が日本の中心となったかというとこれも地理的なものなのだ。九州と出雲では西日本の中心的位置になりえなかったのだ。地理的必然で日本の中心になったのであり東京が日本の中心になったのも地理的必然なのである。



稚児塚の伝説
http://www.cypress.ne.jp/asari/minwa/chigo.htm

富山地鉄

http://www6.ocn.ne.jp/~integra/ekishabun/toyamachitetu/toyamachitetsu.html

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