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2002−2003小林勇一作

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時事問題12(11月6日〜)開始

キ−ワ−ド案内(キ−ワ−ド研究)


6月30日 アメリカの汽車の旅


アメリカの広きやあわれプリンスに下りたる一人冬のともしび

lonesome lights in winter
the vast land in America
the train stopped at a small station
the name is prince
and a lady gets off

アメリカを二週間くらい汽車で旅した。その時広大な土地に点々と燈がともっていた。そしてなんとも淋しい町なのだろうか、村なのだろうか
汽車は止まって一人婦人が下りて行った。そこの名前を覚えていた。
princeという名だった。この名はyahooのアメリカの地図で探したら二つあった。これはロサンゼルスから行った途中にあったみたいだ。これも忘れてしまったのだ。外国に行っても思い出すのは地名なのである。汽車の旅は地名が心に残るのだ。自分は家のなかでも旅を続けているのだ。年取ると思い出すことが楽しみになるのだ。旅行は行く前と実際に旅行しているときとそれから思い出すこと、この三つがあるのだ。意外と大事なのが思い出すことである。鮮明に旅の場所が思い出せる人は本当に旅していたのだ。とにかく旅は忘れやすいのだ。外国の旅は変わっているので忘れやすいのだ。たまたまこの地名を記憶していたのは英語だったからだ。princeと名付けるのはおそらくイギリス人が移住したからかもしれない、それにしても淋しい所だったのだ。アメリカはとてつもなく広い、日本にはこの広さがないから何かスケ−ルの大きな構想などが生まれてこない、身内の小さな争いなのである。人間も大きな国に棲めば大きな人間を育むといえる。日本人は大きな土地がないから独創性がないのだというのも本当かもしれない、つまり大きな空間が土地が欠如している。小さな世界で想像してもそこには限度があるのだ。広い土地が必要なのだ。砂漠のようなものも必要なのだ。ただその広い空間を味わうには外国に行く他ないのだ。

それにしてもフロリダのLAKE MARYという所からアクセスが二回あった。地図で調べてわかったのだ。二回あることは関心があったのだ。どんなふうに見ているのか、写真だけは見れるから見ているのか、俳句など簡単な英語版を作れば見られるかもしれない、インタ−ネットで外国の地域と交流すれば面白いかもしれない、そこの地域がどういう場所なのか調べるのである。ただインタ−ネットだけではわかりにくいのだ。だから良くみていない、しかし外国がインタ−ネットを通じて身近になるということがあるかもしれない、外国となるとさらにインタ−ネットの利用方法がわからないのだ。


6月28日
イランが日本の石油開発撤退要求
デモの学生を弾圧


イランもアメリカの標的になりつつある。ナチスの独裁、日本天皇ファシズム、フセインの独裁、サウジの王制国家、イランのイスラム教、政教一致国家、中国の共産党独裁国家、これらを悪とみて戦ってきた歴史がある。イスラム教のような政教一致国家は独裁になりやすい。民主的なものとは相容れないものがある。なぜフセインの独裁がイラク国民がとめられなかったのか、そもそもそうした民主的に選ぶことや言論の自由もなかったのだ。言論の自由のないところに民主制はありえない、宗教は絶対だから言論の自由がない、お前アラ−の神に逆らうのか、仏に逆らうのかと権力を持った者が言うのだから怖い。事実そして仏罰があてられる。職場を首にされたりする。

これが創価など政教一致の団体の恐ろしさである。イスラム社会の後進性はどこにあるかというとやはり宗教革命がなされていない、世俗と聖の分離が成されていないことである。それのメリットもあるがやはり独裁制になりやすいということが後進性を証明しているのだ。偶像崇拝を禁止している社会でなぜフセインの偶像だらけになっていてどうしてアラ−の神に忠誠を誓っていたのかこうした矛盾に抵抗しない民衆も宗教心は薄いし習慣的なものとして存在していたのかもしれない、イランで若い人が言論の自由を求めデモしてそれに反発して弾圧があるということは政教一致は世俗の政治的政策すら絶対化して反対ができなくなるのだ。なぜかというと神に逆らうのか、仏に逆らうのか、天皇に逆らうのか、・・・・こうして独裁制のなかで言論の自由は封じられ悲劇を生んだのである。本で書いてあったがアメリカは民主制のないイスラム社会や中国などの一党独裁社会はつぶすべきものと考えている。石油の利権もあるが独裁政権と戦った歴史があり一つの理念の戦いの側面がある。共産主義も一つの理念だったがこの理念との戦いには中国を残して勝った。だから最終的には中国と戦争になるというそこまでやるのかとなるとアメリカという国はそれを実行してきた国だからないとは言えないのだ。


6月28日
一番貴重なのは青春と時間

50すぎたらその人は人生の結果を生きているのだ。50過ぎてもいろいろなことはできる。しかし実際は結果がでたのでありそれを変えることはできない、人生はだいたい30くらいまでに決まってしまうのだ。
基本的なことは決まってしまう。だから青年時代ほど大事なものはない、実際は13才から少年から30までが人生にとって一番大事な時期である。この時期にとにかく良きものを目指さないものはそのあと実りとなるとは思えない。おそらくたいがい50以上の人の結果は青春時代にあったことは確かである。青春時代の結果が今顕れているのだ。壮年時代の結果はさらに老年時代に顕れるのかもしれないが実際は青春時代が一番大事でありそこを浪費したものは人生浪費したのだ。しかしこの青春時代が恋だ、性の欲望だ、様々なこの世のものに魅了される時代なのだ。この世の力がもっとも強く押し寄せてくる時代なのだ。だからほとんどはこの世の力に圧倒されのみこまれてしまい、本来見るべきものが見えなくなってしまう。心が濁り見えなくなってしまうのだ。そしておそらく青春時代を無駄にしたものは本当に人生の最も大事なものを見えなくしている。これは恐るべきことである。

こんなふうに考えている人は若い人には少ない、青春は楽しめとか青春はいつまでもつづくと錯覚しているのだ。いづれにしろ年取ればどんな馬鹿でも後悔しない人はいないのだ。飲めや歌いで馬鹿騒ぎしているうちあっというまに青春は終わってしまった。こんなに早く時が過ぎるとは思わなかったとがっくりきているのだ。これは何度もくりかえされて来たことだが不思議に若いときはこの時間の感覚は理解でない、人生は終わって見ればあっというまだことが理解できないのである。この時間の感覚が老人を一応誰でも賢く見えさせるのだ。若い者と老人の時間感覚が根本的に違うことなのだ。いづれにしろどんな人、天才のような人でも時間を無駄にしない人はいなかった。時間が一番貴重なものだとは若いときは思わないのだ。語学でも若いときしっかりやらないと身につかない、勉強も身につかない、時間が老人になると一刻一刻過ぎて死に向かっている。絞首台に一歩一歩向かっている感じになる。本なんていくらでも読めるとかいろいろできると思っているが実際はできない、くだらない本を読んでいればそれだけで貴重な時間が過ぎてゆき二度と硬い古典なんか読めなくなるのだ。インタ−ネットで馬鹿話していてもすぐ時間は過ぎる。これが若いとき実感としてわからないからいくら口をすっぱくして言っても通じないのである。


6月25日
病気に役立つインタ−ネット

胃が悪くなった。ゲップがでる。胃に酸が充満している。これは胃酸カルタと検討つけた。胃酸カルタと検索を入れたらあるホームページに詳しくでていた。どんな食事がいいとかかなりの量でていた。あれだけのものを医者に行っても説明してくれない、驚くほど詳しかったし素人でもわかりやすい説明だった。胃の病気だけではなかなかでてこないのだ。胃酸カルタと入れるとインタ−ネットは詳しくでる。あることにしぼられたことはでやすい仕組みになっている。胃の病気にもいろいろあり胃酸カルタと特定するとそれについての詳しい情報がでやすいのだ。インタ−ネットでは病気の情報にくわしい。医者だけでなく患者からの情報がでている。ガンと戦った人のホームページもかなりあるがなるほどなと思った。医者に頼るだけでなく自分で納得いく治療をした。漢方薬など医者はきかないと言ったがその人はきいたので使ったという。病気も医者まかせではだめなのだ。今回胃酸がでるというのでそれを抑える薬を買ったがこれはよくない場合があると説明があった。薬屋から買ったのだから大丈夫だと思ったが説明を読むとそうかなとも思い一時中止した。病気は自分で判断するのはよくないと言われるがやはり現代は情報の時代でありインタ−ネットなどで自分で調べることが必要だろう。

今の世の中複雑でわからないことが多すぎるから専門家に頼る。それで失敗している人が多いのだ。医者だけを絶対化して頼るのも問題である。素人でもなんとなく説明されればわかるのだ。あのホームページは医者の説明より詳しいことは確かである。インタ−ネットはどう利用していいかわからない、病気などには具体的で利用しやすい、前にも言ったが同じ種類の病気の人がインタ−ネットで抽出されてそれについての詳しい情報を交換することができる。それだけで安心する場合がある。ああ、こんなことで悩んでいる同じ人がいたのかということで安心する。そうういことがインタ−ネットは広いから必ず出会うことになっているのだ。「創価をやめたい」という人も無数にいる。しかしこの宗教の問題は病気よりむずかしい。病気は一応からだの問題だが心の問題になるからだ。この心の恐れをとりのぞくことは体を直すよりむずかしいのだ。宗教の問題では相手がどれほど真剣に悩んでいるのかも問題である。インタ−ネットではそれがわからない、道を聞くみたいにたずねるわけにはいかないのだがそうしているのが多いのだ。ただこの宗教の問題も多様な人々の体験談は参考になるかもしれない、こんなに同じく悩んでいる人がいるということを知るだけでも有効である。それでないとこうした問題もこんなことで悩んでいる人がいることさえわからず孤立的になってしまうからだ。なんかは今年は耳を掃除して天井がグルグル回る病気になったりどうも病気に悩まされる年になってしまった。

病気はここ30年していないというのも不思議だった。自分は病弱ではないが体は丈夫でないからだ。でも30年間医者に行ったのは歯医者とか数回しか行ってなかった。私の母も体は弱いが私と同じ胃が悪くなった、毎年悪くなっていたが不思議に90まで生きた。腰が二回曲がっても結構丈夫なのは不思議である。女性がなぜ長生きするかわかった。無理をしないこと食事がバランスをとれていること、野菜類を多く食べること、健康に日頃気をつけていること、女性の食べるものを男性も食べるといいというのは確かである。男性は食事がかたよるからだ。50以上はなんらか病気になりやすい。この胃の病気は長引く、胃酸カルタから胃潰瘍になるというから危険もあるのだ。自分があまり病気しなかったのは疲れた時は仕事もないので寝ていたしいつも何か調子が悪いと寝ていたのだ。休養をとっていたから体が弱くてもこれまでもったのである。無理すると必ず病気になる。たいがい酒の飲み過ぎとか働きすぎとか無理して体を悪くしているのだ。養生する人はやはり長生きするのだ。体が生まれつき弱くても長生きする。体も後天的に作るものであり与えられるものではない、能力だってこれも開発しだいなのである。開発しない限り小さなことだって身につかない、生まれつきだけでは解決つかないものが人間には多くあるのだ。どんな人でも何十年も一つのことをやっていればそれなりのものになるのだ。ただ時間を無駄にしているのだ。花の名前なども覚えるだけで結構時間がかかり過ぎてしまうのだ。花の名前知らない人はやはりそれに時間を費やさなかったからである。能力となんの関係もないのだ。ささないことを覚えるのにも時間はあっというまに過ぎてしまうことをあとでみんな後悔しているのだ。


6月24日
匿名問題

ネットではニフティのときからこのことはさんざん論議されてきた。インタ−ネットの最大の問題でもあるのだ。相手が特定できないという特殊な環境にあるのがネットなのだ。例えば実名を書いていたとしてもそれは本当の実名でないかもしれないのだ。だから掲示板で「神がありますか」とかむずかしい問題に簡単に聞く人が多数いるがそれに真剣に答える人はいない、まずその聞いている人がどれだけ真剣なのか真剣に悩んでいるのかわからない、からかい半分の人もいるのだ。創価をやめるにはどうしたらいいのでしょうかとかもずいぶん掲示板にでている、これだって相手が誰なのかわからなければ答えようがない、今回の「創価をやめたい」という人に答えたのは一応実名であったから答えたのである。最初あれだけの文面ではわからない所があったから躊躇した。すぐにこうした問題は答えられない、相手がどういう人なのかわからないからだ。匿名でもそれなりに機能することはある。内部事情の暴露とか有効なことはある。だが宗教問題とか他に真剣な悩みに答えるとなると無理である。また相手が誰かわからないものに答えてもらうのも躊躇するかもしれない、つまり匿名ということはいろいろ必ず問題が生まれるのだ。

インタ−ネットは匿名の天国なのだ。「大石英二」という作家が2ちゃんねるで実名で議論しているのは驚いた。匿名の人から批判し放題になり相手にできないといっていた。自分も2ちゃんねるに晒すことは怖くてできない、名前のない有象無象のものが勝手に批判されるのは怖いし公平でない、ただその相手がホームページを持ち自分の経歴や何かそれなりの見解を持っていて発言するならやりやすい、その人もまた批判の対象になるし責めることができるのだから。ところが2ちゃんねるではまったく誰か見当さえつかない、反論しようにも「逝ってよし」と言ったら本当に逝ってしまってその人のことはわからない、まったく不明になってしまうのだ。ニフティではこういうことはなかった。不明にならないその次の日も必ずその人の発言はあるのだ。会員制であり少ないからだ。2ちゃんねるはまったく誰か発言しているのか完全な匿名なのだ。匿名でも内容ある議論はある内部情報の暴露など有効なものがあるが宗教について語る所ではない、名前というのが意外と大事なのだ。

人間の名前というのはかなり重要な生命をもっている。名は体を表すとか名前はその人を示す重要な何かである。なぜかというと呪うにも相手の名前を書いて呪えばかなり有効になる。逆に相手の名前を書いて病気治癒などを祈ればそれも有効になる。名前がわからないとしたら相手について祈ることも何もできないのである。インタ−ネットではそういうことが多い、相手について知り得ようがないことが多いのだ。それが利点でもあるが大きな欠点にもなっている。イエス・キリストというときもその聖名を唱えることそれにより大きな力を得るのだ。イエス・キリストとは架空の人ではなく実在の人である。その名を唱える、呼ぶことは大きな力になるのだ。一方ネットは架空化しやすいのだ。だからそこに実際の力は働かない、ネットでもそれなりに相手の存在が実名で実体化すれば何かテレパシ−として伝わるものがある。現実ネットで裁判になったように憎悪や恨みや感情的なものが伝わり問題になった。ネットでもそれが実名であり存在が実体化すればテレバシ−として何か心が伝わり作用することがある。それがこのインタ−ネットの不思議というか精神の不思議なのだ。

とにかく匿名掲示板のものを本にして裁判ざたになったように匿名でも著作権があったのである。やはり勝手に本にだしてまでもうけることはできないのだ。いづれにしろ匿名問題はやっかいである。しかし明らかに相手が全くの匿名だと真剣には語りえない、ただ匿名でも語れることはありそれを否定することはできないのだ。だから実名でメ−ルをくれれば自分としても真面目に答えるがあとは相手のことがわからないから答えるのがむずかしい。だから結局自分の場合メ−ルはこないのだ。掲示板にしてもなぜこんなにアラシが多いのかというと匿名だからである。誰かわからないものにより荒らされるのだ。
インタ−ネットの大きな問題は匿名であり相手の実体がわからないことである。批判する相手が何者かわからないことは不安であり怖いことでありそれが野放しになっているのは公平ではない、批判する人間も責められるべきだからだ。ニフティでは一応
責められても責め返すということができた。しかしインタ−ネットではそれができにくいのだ。だから発言する人は本当はホームページで自分の経歴なり名前なり見解なりを明確にしてそれから発言すると匿名でなくなる。そういうことがリンクして簡単にできるようになったからだ。

6月20日ありえないことの現実化

ナチスがなぜ起こったのか、それは現実である
それはとめることができなかった、
これはおかしいと思う人々もいたがおかしいことは実行された

日本の戦争もこれでいいのかおかしいと思う人々はいた
でも実行されて何百万人も死んだ

カンボジアのボルボト政権の大量殺戮もおかしいと思う人々は
いた、でも大量の殺人は実行された、

文化大革命という愚行でこれまた大変な人々が死んだ
文化破壊革命だった、これも愚かなこと馬鹿げたことと
思っていた人がいてもとめられなかった

北朝鮮も内部にいる人はこんな国のやっていることはおかしいと
思っている人々はたくさんいる、しかしどうすることもできない

イラクのフセインもそうだ,反対する人々はたくさんいたが
どうにもならなかった、アメリカにやってもらってやっと追放できた

一方アメリカの大量殺戮兵器を大義として戦争は嘘だったらしい
でも戦争は実行された、イラクの無辜の民がかなり死んだ

創価の言論弾圧はおかしいと思う人々はかなりいる
なぜこんなにマスコミもどこもかこも言いなりになるのか
創価の批判はできないのかおかしいと思う人々はたくさんいた

でも結果的にはどうにもならずいつのまにか日本は創価の支配になった
創価に批判するものは牢獄行きになった,粛清された。こんなはずはないと思っていたが現実になった・・・・・・・

なりえないと思うことが歴史で現実化してきたのだ。
むしろなりえないということがなるのが実行されるのが歴史だった
そんなことがという甘い予測はむしろはずれたのだ

これから戦争はないとかファシズムがないとかというのは嘘である
民主主義の世界にそんなことはありえないというが民主主義でも
ファシズムも起こるしありえないことが起こる、言論の自由というのは
実際はかなり制約されたものであることがマスコミをみればわかるのだ
朝鮮総連を批判できなかったこともそ一つである


戦後50年だがやはりなんらかありえないことが実行され反対しても
巻き込まれると考える方が普通なのである
北朝鮮からミサイルがとんでこないというのもわからない
歴史は常にありえないことが起きてきたのだ、起こされたのだ

あと自分が生きているのはどのくらいになるかわからんが
生きているうちにそうした悪いことが実行されるのか不安である
その前に死ねば楽である、あと20年30年後にはいいことより
悪いことが現実化すると考えるのが自然である、歴史からみたら
そうなのだ、ありえないことが現実化しているからだ。

6月18日
インタ−ネットの利用の仕方

インタ−ネットの利用の仕方は個々に違うからむずかしい。結局ホームページを作ってもアクセスがないとかみんな毎日10とか20来ていてもやめたいとかの方が多くなっている。反応がないのも多い。自分の場合もそうである。とにかくインタ−ネットはそもそもソフトになると使い方になると新しくでたものだからわからないのが多いのだ。大きな可能性を秘めたものであることわかった。自分なりにインタ−ネットを探索したものをのせたことをみればわかる。ただまだまだわからないのだ。検索が最大の問題である。
メモ 自転車と入れたら万の単位がでて60歳で自転車げ世界旅行している人もいた。これもなかなかでないペ−ジだろう。メモ 自転車とは普通入れないからだ。日記 自転車でもかなりのヒットがある。他に自転車の事故のことがかなりでていた。このようにどこに何がでてくるのかもわからない世界である。60歳でも自転車で世界旅行できるんだと感心したのである。自分もホームページを二年間以上やってきたのでちょっと整理する段階にきたみたいだ。自分の場合、誰が読むというよりただただ自由に自分を表現することが面白くてやってきたのである。だから読まれているのかどうかも気にせずやってきた。そこに一つの問題かあったことは確かである。とにかくインタ−ネットは未だに未知のものでありこれをどうりようしていいかわからないものなのだ。でも規制のメデアと比べるとすごく人によって活用しがいのあるものなことは確かである。

ネットワークの子供達よ
貴方達は私の誇り
貴方達は私の希望

どんなに些細な事でもいい
どんなにくだらない事でもいい
貴方が心動かされた事を貴方の言葉で記し
貴方の手で次の世代に残しなさい

遥かなネットワークの地平に次の百年を夢見て


長い間ほんとうにありがとうございました

俺ニュースのてくる氏は絶大なアクセス数を誇る自サイトをこういう形で締めた。

あなただけの生きた人生が記録として残る
そのささやかな人生も一つの歴史
それぞれに生きた人生の記し


このようにアクセスがあってやめる人のいることも不思議である。ただインタ−ネットはこのように未だわからないものであり活用されていないものなのだ。活用方法がむずかしいこともありそれぞれが開拓することが多いからである。


6月15日
人間の記憶はあてにならない(写真で記憶)

ホームページ作りしてとうしてもデジカメが離せなくなった。そして写真の効用に驚いた。まず今までは他人に見せることを意識していなかった。他人に効果的によりよく見てもらうということを意識するようになった。そのためにはデジカメは離せないのだ。写真の効用は記録することである。これが第一であり次に効果的にとること、美的にとることなどがあるがまず記録こそ第一なのだ。だからうまくとろうとせずその瞬間をつぎつきにとっているとあとであれ−こんなものが映っていたのかと驚くのだ。それで旅に行ったとってきた写真を見てふりかえり詩やら文を書いている。特に外国旅行では刺激が強すぎてどこにいろいろなことがありすぎてよく見てないし何があったのかさえわからなくなっている。それで写真の方がよくみていたということに気付いたのだ。人間は記憶するにもわずかののしか記憶していない、よく目撃情報がたいがいはずれているのもその瞬間の情報を脳は的確にとらえられないためなのだ。

その女の子の写真を撮ろうと思った瞬間に、背景を走り去る車の色や車種なんか、意識しない限りは絶対に見てはいないのが普通なのです。下手をすると、女の子の顔を注視しているときには、どんな色の服を着ているのか、見ていないことの方が多いはずです。いや、どんなヘアスタイルだったかすら見ていないこともあるのです。実際に、自分がついさっき会ったばかりの人の服装を正確に思い出してみればわかるはずです。

ここのホームページはデシカメについてくわしい。確かかに人間の盲点は見ているようで対象を全部は見れないのだ。瞬間的にはある一部分しかみていない。目立つ部分だけなのだ。女性にしても足が細かったとか胸が大きかったとか髪の形が変わっていたとか一部分しか見ていない、ところがカメラは回りのものまで詳細に写しているのだ。「人間は見ていなかった、しかしカメラは見ていた」となるのだ。だからなるべくデジカメだったら大量にとるとあとで役に立つのだ。人間は驚くほど忘れやすいのだ。ここ30年旅し続けたがその記録が少ないことに驚くのだ。人間はそこがどこだったのかいつだったのかそれすら忘れる。古い写真をみたらわかる。あれ、これどこでとっていつどこで何をとったのだろうとなる経験をする。

人間の記憶はあてにならい、だから文書にするなり粘土版に刻むなり石に刻むなりしないと記憶は失われるのだ。歴史はとにかく記録することでありそれが第一である。墓に興味をもってみてもそこには戒名と名前だけしかない、あとはこの人は何をして何だっただろうということが皆目わからないのだ。本一冊でも残していたら手がかりになることは大きいのだ。大方の庶民の人生が失われたのは記録ないことなのだ。記録がないことは探りようがないのである。ホームページの日記も消えないように保存すればこの当時の庶民の歴史が残されるようになるかもしれない、庶民の膨大な日常の息づかいが残されるかもしれない、こういうことは今までの時代ではなかった。マスコミによって語られる庶民の姿はマスコミによって取捨選択するからわからないのだ。なぜインタ−ネットでマスコミに対する猛烈な批判がなされているのかそれはマスコミが決して庶民の本当の姿を映す鏡ではない、何か連絡するのだってテレビや新聞は勝手にのせてはくれないメディアなのだ。こういう所に庶民の真の姿は反映されないのだ。だからその反発がインタ−ネットにでているのだ。



http://www.pit-japan.com/ws30/page1.html


6月15日
 一学生の日記より

今どきの学生は何を考えているのだろうか、これもまた偶然に遭遇した学生の日記だった。今どきの学生の昔と違うのは外国の実地経験を踏んでいることだ。それもかなり深い外国との接触をしている若者が多いのだ。だから外国に関しては今の50代以上の人よりはかなりリアルな体験的知識を持っているのだ。

話を聞いてみると騎馬民族は自分の家に客が来るとその客を腹一杯に
させないと自分の家から外には出しては行けないという文化があるらしい。
冷静に考えればかなりひどいことをされているんだけどそれが別に
イヤという感じはしなかった、これは騎馬民族が自分も移動するため
来た客とは本当の意味で一期一会ということみたいだ。
だからその人間が食べる一生分の食べ物と酒を振る舞う、
次の日に死ぬことだって普通なんだから。

時間の進み方が日本人とはまた違うみたいだ、
自分から三代前と三代先はつい「最近」にあたるらしい。
特にモンゴル族は移動する騎馬民族なので珍しい客や気に入った客は
子供たちに語り継いで物語として忘れないようにしているそうだ。


これは体験的知識であり本で読んで理解したのではないのだ。自分の場合本を読んで外国を理解しようとした世代なのでこうした体験談から理解を深めることができなかった。とにかくわかったことは外国では異文化では実地の体験が大事である。体験がない限り語れないのが異文化の外国なのだ。その点外国の本を百冊読むより一回でも現地を踏んだ人の方が語れるのである。だから学生でもその体験の話は聞くに値するのだ。これは他の体験談にもいえるのだ。人間にとって体験することはそれぞれ凄い意味を持っているのだ。この体験談がインタ−ネットにはでているので今までにない生きた情報に接することになり新鮮なのである。それほどまでに客が大事であり後世に語りつぐほどの事件であるという遊牧民の感覚が理解しかねる、ということはやはり孤立して暮らしているからそうなのか、この感覚はわからない、客がまるで神のように迎えられる。聖書では本当に客は神だったという記録があるからそういう感覚があるのかもしれない、遊牧民が人に出会うことはそれほどまれなことなのか?不思議である。

私も内モンゴルに行ったが観光でありこうした生々しい体験はしていない、ただモンゴルの馬には乗った。小さい馬だと思った。その馬で走ったときはふりおとされるかと思った。大きくないから乗りやすかったのだ。それにしても中国から帰る船で一年もモンゴルのゲルで暮らしていた青年がいたということも驚きだった。冬は寒いので体までそれに備えて変化するという。冬がいかに厳しいか物語っている。とにかくこうした青年が今はどこにでもいるのだ。これが昔と全く違っている。日本より外国に詳しい人も多いのだ。この青年は北海道で羊を飼い観光客を呼ぶようなことを言っていた。羊の料理などを出して迎えるとか言っていた。いづれにしろ遊牧民の生活感覚は全然文明人とは違ったものでありそれは原人間の体験、原生人間の体験をまのあたりにすることになるのかもしれない、文明人が失った強烈な人間の生活がそこから育まれる感覚があるのかもしれない、つまり縄文人のような万葉人が生きたような感覚があるかもしれない、その当時の芸術が現代の文明人には理解できないようにその感覚は強烈な原生感覚から生まれたものだからである。

これは引用が長くなったから著作権の問題があるかもしれない、ホームページの引用はどうしたらいいのか今のところわからない面がある。

http://www.maromaro.com/create_top.html

6月13日
英語と俳句(2)

英語の俳句が意外と向いていた。何故かというと俳句が短いからその短い中に英語を有効的活かす作業だったからだ。もちろん自分の英語俳句は間違っているし英語的には最善には表現されていない、しかし英語そのものがずっ−とやっていなかった。やる気がなくなっていたのだ。なんか俳句を英語で表現する努力しているうちより効果的に英語で表現したいという気持ちが強くなったのだ。英語は長くなると大変だが毎日、少しづづ自分の俳句を英語で表現すること努力していると確かに多少は英語というものが身近に感じたのだ。英作文が多少でもできる人は英語ができる人であり英語を身近にものにしている人である。でも長続きしないのはそもそも現実に役に立たてている人が少ないのだ。詩となると長いので表現するのはむずかしいが俳句は短く凝集して表現する芸術だからその都度、一句一句を間違っていても英訳してみることは表現の幅が広がって面白いと思った。もちろん詩はそもそも翻訳不可能なものだし高度な言語の表現だから簡単にはいかないのだがそれでも英語でも表現することはそれなりに英語にも親しむことになるので効果的である。英語そのものの勉強ではなく自分の興味のあるもの得意なものから英語を覚えるというのがいい。いづれにしろ英語だけの勉強は長続きしないし、英語が嫌になることは間違いないのだ。


6月10日
スポンサ−によって歪められる社会

「電磁波と生体影響」についてのあるシンポジウムが開催されたとき、
漏れは講演者の先生方と偶然同じエレベーターに乗りますタ。
スポンサーらしい男性は満員でエレベーターに乗れませんでした。
その中での先生方のひそひそ話です。
 A氏: 「研究でお金貰っている以上、スポンサー側の気に入る結果しか発表しにくい B氏: 「発表したら次から研究費貰えないものね」
 C氏: 「んんん....」

影響があると言う趣旨の研究をしようとしてもスポンサーがつかず、研究できない
現状なのだな..
....

これは電磁波の話題で2ちゃんねるにでていた。

科学者もスポンサ−によって歪められてしまう実例である。緑十字とかの製薬会社が問題を起こしたのもそのためである。科学者もスポンサ−の言う通りにさせられてしまうのだ。政治家は献金でスポンサ−の言う通りにさせられる。マスコミはやはり企業とか宗教団体とか組織によって真実を報道しない。宣伝費がもらえるからスポンサ−になっているから正当な批判ができなくなる。これはいたるところでそうなっているから社会は歪められるのだ。出版という世界もそうである。出版できる人はなんらかスポンサ−がつかないとできない、金がかかりすぎるからだ。出版社自体がスポンサ−なのだ。出版社と書店は一体なのだ。インタ−ネットはその点金がかからないからかえって本音がでる正当な批評がでる場なのだ。いろいろ問題があるにしても本音でやりとりできる正当な批判の場となりうる。マスコミとか出版界はスポンサ−に影響されるところであり正当な批判の場となりにくい、また視聴率第一主義であり本にしても売れない本は出さないとなるとそこが本当の自由な言論の場になっていないのだ。この社会を歪めているのは権力を持っているスポンサ−である。

6月6日
旅の思い出

人間は忘れやすい、旅してもすぐ忘れてしまうから困る。それで時々思い出すことが必要なのだ。屈斜路湖でカヌ−にのって死んだ人がいた。長期滞在の50才の人とからしい。自分も釧路川をカヌ−で下ることを誘われた。あそこから釧路湿原に流れている。自転車で行って疲れていたのでやめた。テントで二日ほど泊まった。薪をもやしていてバイクの青年とちょっとだけ語った。自分は日本では旅してもほとんど他人としゃべらない、ある意味で人間拒否症になっている異常なものだ。今回事故起こしたのはピラミッド形とか通称トンガリと呼んでいる変わった形のユ−スだった。あれは変わってていたので覚えていたのだ。あそこに長期滞在していたのか、一泊4500円では安くない、ここのユ−スに泊まっていた人が2ちゃんねるで話題にしていた。日本一周を試みた74歳の老人がトンネルでトラックにひかれて死んだ。本当にトンネルは怖いのだ。自転車にとってトンネルは鬼門である。歩道を歩かないで走ったらしい。狭い所で事故起きるのは当然だとか地元の人が言っていた。トンネルは突然でてくるしなかなか遠回りできないのだ。近道がわからないのだ。自分の場合たいがいの場所は行っているからそこがどんな所かわかる。そして露天風呂を話題にしたのでああ、あの時露天風呂に入り気持ちよかった。外はジャガイモの白い花畑、そこで一句浮かんだ。

ジャガイモの花に湯冷めや露天風呂

あそこは湖からも湯がでている。ともかく外国でも思い出すもの写真とか記録とかそこについて語り合うとか何かしないと全く忘れてしまう。自分は30年間旅行している。しかし詩や俳句短歌は書いたきたが記録は少ないのだ。これがインタ−ネットの時代だったらその場で書いてホームページに通信でライブでのせたら貴重な記録となった。その時の情景が目に浮かぶものとしてのせるからだ。旅は記録が大事である。あとから思い出してもう一度旅をするのだ。
最近つくづく人生は忘却でありだからこそ歴史はまず記録なのだ。その記録がなければどうして歴史を知り得よう、そもそも記録自体喪失することが多いことなのだ。個々の人生の記録など跡形もなく消える。わずかに墓に記されたそれも本名でない戒名になったら名すら残せないのが現実なのだ。戦争すら忘れ去られるのだから忘却の力は強烈である。だから千年前のものが残っていることがどれだけすごいことかわかる。


6月4日
グロ−バル経済化とは何か

グロ−バル経済化とは何かというと身近なところから考えてもそうなのだ。最近NHKの新日本紀行を見直して「三春」のことを写していた。そしたら鍛冶屋とか農家から篭を担いで野菜など売りにくるばあちゃんがいた。一軒一軒回っていた。鍛冶屋は「三春への旅」で写真にだした。まだ「農具屋」という看板をかかげて残っている。今の時代のグロ−バル化とは例えば最近買い物が仕事になっているからス−パ−に毎日行っている。そこでみているものは安くて新鮮でいいものである。毎日それを探している。他のス−パ−とも比べてそうしている。これは自分だけではないみんなもそうしている。それを作っている人とか売っている人もみていない、みているのは物の善し悪しだけである。人間をぬきにして物だけをみているのだ。昔は自分でも店をやっていたからわかるけど店は近所と密接な関係にあった。地域と密接に結びついていた。人間の結びつきと経済はほぼ一致していたのだ。ところが今は品物だけをみている。それもとんでもない誰が作ったかもわからない品物もかなりある。スオ−ティバナナはいいものでいつも買っている。腐らない新鮮なものをいつも探している。ただそれがどこで作ったのか誰が作ったのかなど注意しない、たまたま瀬戸田産の夏みかんとあるからああ瀬戸田に行ったことがありあそこでとれたのかと思ったりするが品物さえ良ければ誰が作りどこで作ったかなど関係ないのだ。つまりこれは世界中でこうなっているのだ。品物、製品の善し悪しだけが問題でありそれを作る人とか地域の人の関係は欠落している。

これがグロ−バル経済化なのだ。人間経済より物が優位になった経済である。ポランニ−の人間の経済学とは正反対の世界である。人間より物の方が明らかに価値があるのだ。物の価値の方が値段が高い、人間の価値は物より低くなったのだ。これは社会主義だろうが資本主義だろうが同じである。そこでドルが世界の貨幣となりドルは人間より価値が高い、だから人間の性も商品化され売買されるのだ。グロ−バル経済化のなかですべてが商品になり製品、物の方が人間より大事であり価値があるのだ。確かに日本人は物をモノというごとくモノはもともとモノがつくとか霊的なものモノは単にモノではなく心でもあった。中国からもらった鏡をあれほど重宝したのは神器までしたのはそのためである。外国から入ってくるモノは宝物だったのである。日本のもの作りの伝統はそこからきている。ロボット作りにエネルギ−そそぐのもモノに心を宿そうとする古代からの日本人の伝統からきている。日本ではモノと心は分離したものとしてとらえていないのだ。とにかくグロ−バル経済化というのはすぐ身近にあるのであって世界の果てにあるものではない、世界がすべてグロ−バル経済化しているからそれに反発するデモも起こるわけでてある。これはイスラムの伝統社会ともなじまないものだからアメリカのグロ−バル経済が標的になりあんなテロが起きた大きな原因であることは間違いない、ただこれをどう解決したらいいのかというとわからない、世界的いいものを作ること競争することは悪いともいえないし元の鎖国的地域経済に戻るわけにもいかない、ただ果たしてモノを人間より優位におく世界がいいのかとなると非常に疑問なのだ。極端な話ロボットが人間は無価値だ能力が劣るとして社会の廃棄物となりかねない、笑い話でなく現実味を帯びている、パソコンとかロボットの導入で一部は現実化しているからだ。


6月3日
 権力を監視すべき市民インタ−ネット

厚生病院の優秀な医者が開業医になり別な医者はへただという。だから行かないことにしたと家のものが言う。医者の技量はかなりの差がある。へたな医者にかかると大変なことになる。命にかかわることもある。ところがへたな医者でもその医者にするとほかにすることがない、これで生活する他ないからやっているのだという。これは実際怖いことである。アメリカでは医師免許を更新する、また試験があるらしい、日本ではないし必ずそうした医者は必ずいるし選べずかからざるをえない患者もいる。人のことは余りいえないがどこにでも無能な人がいる。有能な人もいる。この社会に適材適所など存在しない、無能な人間も医者にかなりの数なっているのだ。医者の息子が医者になっていることでわかる。本当は無能な人は害になるからやめるべきであり他の害のない職に就くべきなのだがそうはいかない、政治家だろうが学者だろうが先生だろうが弁護士だろうが事務員のレベルまで無能な人間をかかえている。自分もその一人だといえばそうもいえる。ただ無職となると誰にも害を与えてないとはいえる。本当は無能な人間は何もするべきでないしただそれなりの生活費を与えるべきなのだ。社会の歪みとか様々な問題は結局宗教家であれ政治家であれ医者であれなるべきでない人間がなり社会に害をふりまいているのだ。

中国でも欧米でも政治は支配者、権力者は悪いことをするものという共通認識があり法律を作っている。為政者は信じてならないものなのだ。監視すべきものなのだ。それが正常な市民社会ではなかろうか、大衆はマスコミに操作されてきた。個々の市民は自覚して権力を監視するものとなる。それが真の民主主義である。だからおそらく詳しくわからないが個人情報保護というのも為政者に都合のいいものなのだ。マスコミという第二の権力も監視すべきものでありそれを鵜呑みにしてしていたら手痛い目にあう。つまり言論も多様化すべきでありインタ−ネットがその役目を担うことになる。権力を持つものは独占するから独占は民主主義社会では一番良くないものなのだ。多様な言論機関があったほうがいい、金がかからないインタ−ネットはその点誰でも個々人が言論機関になりうるのだ。地方であれ全国であれ新聞社にしてしも一言論機関にすぎないとなったとき言論の平等は実現するのだ。マスコミの力は余りに大きすぎた、これは弊害をもたらしたのだ。


5月30日
カオサンで日本人同士の殺人事件

バンコクのカオサンで日本人男性が日本人女性を殺害した。
男女のもつれかららしい。あそこには二回行った。二回目に泊まった安宿はひどかった。トイレにトカゲでてきたり部屋が小屋のように内部に作っていた。かなり狭い所を改良して作った。下は貸している人が住んでいるんだがまず狭い窮屈な所だった。そこにタイ人の女性と同棲している日本人男性がいたのだ。「沈没」状態からぬけられず住みついてしまった。なんか歪んだ状態である。あんな若者も今はめずらしくないのだろう。ベトナムのホ−チミン(サイゴン)にもいたのだ。いかれたような若者だった。女と遊び半年だか一年もいるらしい。何もしていない、ぶらぶらしているだけなのだ。ホ−チミン(サイゴン)にあんな若者がいるとは思わなかった。今こういうふうに外国でぶらぶらしている沈没している人間はめずらしくないのだ。イスラエルでは働いていた青年がいたがあれはまともだった。働かないで遊んでいる若者は頽廃的になる。そこで青春を浪費して使い物にならない人間になる。その怖さを知らないのである。青春はまたたくまに過ぎてしまうのだ。浦島太郎の伝説はなんらかの事情で外国に行っているうち快楽に溺れ帰ってみたら白髪の老人になっていた。あれは外国で遊んでいるうち日本に帰ったら老人になっている浦島太郎の現代版でありリアルである。伝説は過去のものではなく現代に通じるリアリィティのあるものなのだ。いづれにしろ外国はもはや余りにも身近であり生活の一部となっているのが現代である。

5月29日 大悲山磨崖仏

大悲山磨崖仏を久しぶりで見てきた。きれいに整備されていた。あれは平安仏だから実に古いのだ。誰の作かも明確ではない、平安時代の仏は貴族仏教だったからおおらかさがある。胸が広くゆったりとしてどっしりとしていた。そして何よりもそこに深い沈黙があった。辺りを圧する沈黙があった。昔のものは今と違い沈黙が必ずある。沈黙の芸術なのだ。何故なら生活そのものもが深い沈黙の生活だったからだ。今の騒音社会とは考えられないほど静寂が満ちていた。江戸時代でもそうである。第一車ない社会がどれほど静かな世界になるかちょっと想像しただけでわかる。全く音一つしない静寂が支配していた。そういう時代から生まれたものには自ずから沈黙が備わっている。その沈黙もずっしりと重い、今の時代にない迫力はそこから生まれているのだ。今の芸術の浅薄さは沈黙やそうした時代背景がないゆえだめなのだ。明らかに昔と比べて芸術は衰退しているのだ。仏を信じる心などすでにない、江戸時代から僧侶は戸籍係になっていた。僧侶は役所の一部になっていたのだ。そんなところから力強い芸術は生まれない、平安時代は貴族仏教だったがそれでも時代的に仏教を取り入れて時間がたっていないのでその新鮮さが保たれたのだ。日立木の百尺観音は大きいだけで文化財の価値は少ない、子供の遊び場である。頭に上ることができるからだ。しかし芸術性はほとんどない、一朝一夕に真の芸術は生まれないのだ。これは個人でも同じである。俳句だっていいのは年にならないとできないのだ。また年とったから自然といいものができるわけでもないのだ。そこに芸術のむずかしさがあるのだ。

写真は大きくすると見映えがする、それでも実際に見ないかぎりその迫力は伝わらないのだ。そうして芸術は旅行でちょっと見たくらいでははわからない、やはり身近で何回も見ていると納得するものがあるのだ。ここには10年くらい行ってなかった。おそらくどこでも近くのものを良く見ていない人が多い。何でも見る眼がなければ発見できないのだ。京都に住んでいてもそれは同じである。あれだけの文化財があっても見えない人には見えないのである。

大悲山磨崖仏へ


5月27日

今回の地震は結構怖かった。家がミリミリとしたから怖かった。被害は風呂場のタイルが一部はがれたくらいだったが地震の時パソコンはこまる。デ−タ−が消えるからだ。これが一番怖い。パソコンのなかに二つのハ−ドディスクがある。これだと本体のハ−ドデスクが壊れてももう一つの予備の残る。前に完全に壊れた時、これで助かった。他にも記録しておく必要があるのだがこまめにはできないからこまる。あのくらいの地震だと一瞬にしてすべて壊れてしまうかもしれない恐怖であった。宮城県地震の時は縦揺れだから立っていられなかった。今回はあれよりはひどくなかった。どうもバソコンがadslにしてからしょつちゅうフリ−ズになる。なんか不安である。前もこうして頻繁にフリ−ズして壊れたからだ。富士通のはその点良くできているのかわからない。パソコンは一度壊れると大変なことになる。これがパソコンの問題である。

それから今また一つ下に部屋を作っている。老人は二階に上がるのも大変なので下に部屋を作りそこで寝るようにした。これは部屋を作っていたので改造は簡単だった。二日でてきる。とにかくこの家は最初は400万で作ったのだがそれから1千万以上作って継ぎ足したり改造している。家はたいがい誰も満足なものはできない、作ってみてみんな不満なのだ。そして年取ったり子供できたりいろいろ人間関係やら環境が代わり家を変えることが必要になってくるのだ。この家は余りにも変えすぎた。最初400万で建てたのは大工の手間賃が安い時で得したといえる。それから建て増しで30年前の400万が今の2千万くらいかもしれないがそれにしても一千万以上は軽くかかっているからこの家では金はかなり費やした。

5月24日 俳句と英語

俳句を英語にする試みをしている。なぜ英語が嫌いになるのか、英語がものにならないのか、これは日本人の環境によるのだ。英語を生活で必要としていないからである。外国旅行で使う英語でもそれは英語ではない、言葉は日常的に使ってこそ言葉なのである。まず留学でも英語だけを勉強に行く学生は失敗しているという。そもそも言葉だけ学ぶということ自体不自然なのだ。言葉は自然と身につくのが普通である。言葉だけを学ぶのは特殊な言語学者になる。親戚の女性が一千万以上もかけて留学したが何にも身につかず帰ってきた。留学は失敗例が多い。英語を学ぶということ自体不自然なことだからだ。理系の人は英語ができるのは英語を学ぶのではなく研究する過程で覚えるのである。あくまでも研究を主眼にして英語があるのだ。

まず俳句という芸術がある。それを日本語で表現するがさらに英語で表現してみる。俳句を通じで交流するのであり英語を通じてではない、太陽でも月でも星でもいろいろな言葉で表現する。太陽や月が先にありそれぞれの言葉の表現があるのだこれは他の学問でも同じである。まず科学に対する理解があって言葉の理解がある。科学を理解できないものは言葉も理解できない、だからキリスト教が入ってきたとき、イエスを大日様とか仏様にして理解したのだ。そういう概念がないからそれにあてはまる言葉もなかったのである。俳句は日本独特の文化だからこれも外国で理解するのがむずかしい。季語を必ず入れることをしていない外国の俳句をみればわかる。俳句という芸術の基本すら理解していないのだ。とにかくまず俳句がありそれに付随して英語で表現しようとする、すると英語も多少興味を持ちみにつく。言葉だけを学ぼうとしたら身につかないし興味もなくなるのである。

英語も必要ないので勉強していなかったがインタ−ネットで表現できるようになったので英語を勉強して自分の俳句を表現する。そしてインタ−ネットは実際はグロ−バルなものなのだ。自分の目立たないサイトでも上海、台北、アメリカのノ−スカロライナ、オ−ストラリア、アムステルダム、スペインのセビリア、韓国とか来ているのだ。これはただちょっと偶然にアクセスしただけかもしれないがそれでもインタ−ネットは国際的なことがわかる。他のホームページでも必ず外国からアクセスされている。自分のホームページにさえきているからだ。外国の紹介にもだしていないのにである。ただ外国に棲んでいる日本人からかもしれないからなんともいえない、将棋でも外国からアクセスする人は外国に住んでいる日本人だったりするからだ。
ともかく英語版はこれからみんな必要になってくる。俳句で一部出したがここの部分を拡大して英語版にすることはアクセスされるかもしれない。インタ−ネットが国境を越えたものであることに驚くのだ。だから共通に理解するための言葉の要求が高まっている。それが今のところは英語になっているのだ。



5月23日 川の文化

深川の末、五本松といふ所に船をさして

川上とこの川下や月の友(芭蕉)

we have an unioned friend
with the moon through one river,
upward and downward


日本にも川の文化があった。阿武隈川や北上川では船で米を運んでいた。ただ大陸の川と違って日本の川は浅瀬や急流があるから舟を陸から引っ張る所があった。また船越とういう地名があるのは船を陸に引っ張りそこからまた船を下ろし船を利用した。だから日本では川を川上から川下とつながりあるものとして認識することがむずかしい。今では特に川というのは生活的には交通に関しても利用価値がないから忘れられている。この句の不思議は川上と川下を一つのつながりあるものとして認識している。川上に棲むものと川下に棲むものがつながっている。そういう生活実感があって作られた。だからこれもかなりの名句である。現代の感覚ではこれは読めない、そういう生活実感がないから作りえないのだ。自動車とか汽車で結ばれたものが一連のつながりあるものとして現代はある。昔は自然に則して生活があったからいい句が生まれやすいともいえる。文明は自然の不便さを機械で補うものだから自然と遊離するから自然とマッチしたいい句や詩はできなくなっている。五本松があり船着き場がありそこに人の行き来があり人間的な場として川はあったのだ。それは一幅の絵であり詩であった。そこに五本松とあるのだから五本松があったのだ。

川に関しては「河村瑞賢」の小説がここにでている。かなり長い読み物で面白い。

http://www.dokokyo.or.jp/kikanshibk/kikanshi0009/


5月20日  外国旅行で貴重なのは写真

というのを「世界の詩」の部に出した。写真を見てあれこれは何だったのだろうとふりかえった。あんな大きな鳥が一瞬空の上を飛んでそれを写真でとっていた。自分でもその鳥を写真で見て驚いたのだ。あの庭園も何の庭園だったかわからないが十字架があるからギリシャ正教の修道院の庭園だったかもしれぬ。外国旅行はそこが何なのか説明かないとわからなくなる。詩とか紀行文を書くにしても記憶がなければかけなくなる。思い出しても記憶がなくなったら書けない、そして外国旅行はわすれやすい、外国でとった写真は貴重である。今それを思い出して詩や文を書く、写真の方が人間の脳より鮮明に記憶している。あそこがあんなところだったとかあんな花が咲いていたとか写真を見て思い出したのだ。ただデジカメでないから写真の数が少ない、もっとあらゆるものをあらゆる角度からとっていれば帰ってから資料として貴重である。外国は何回も行けないから記録が大事になるのだ。

5月19日  ネットでの郷土研究

鹿島町で発掘が行われる。百人くらい使うとか大規模なものなのか、失業中の人や生活保護などの人が気楽に雇われるから失業対策にもなる。鹿島では古代の大規模な製鉄跡が発掘された。今の火力発電所のある所である。郷土史として開拓することはいくらでもある。しかしなかなか方法論がわからない、資料も読むのがむずかしい、ネットに出ているのも地域的には非常に少ない、それでもネットの場合は身近になるので役に立つ、なぜ大学関係の論文などがネットにでないかというと大学が出版社のようになっている。つまり教授の講義も著作権があるのだ。大学が管理して有料なのである。それは月給払っているから当然である。知的なものも財産であり商品だから無料ではだせないのだ。ただ学術研究とか郷土研究には協力が不可欠だから外部のもの素人には情報的には参加できなくなる。本で読めばいいとなるがとても参考になるものをそろえるのにも一部になってしまう。

そもそもインタ−ネットは情報の共有システムとして便利にできている。有料になるシステムは作られていないが本以外でのネットでの情報共有システムを作ると便利である。それは規制の出版社とかできる面があるがそれをしている会社は非常に少ない、一冊の本での解説のようなことをネットで出版社などがしているのを見たことがない、出版社には蓄積があるからそういうことができるはずだが特に郷土史関係には強いが本としてしか情報をだしていない、最近自分の方では郷土関係のアップをしていなかったが興味があるものがでてきたのでまた書いてみよう、桜井古墳の開園式というものが昨日行われたが結構自分は情報を提供した。ネットだとマルチメデアで地域の情報を提供できる。ビデオで乳神のことを遠野で紹介していた。地域というものが様々な角度から多様に伝達できるのがネットである。個人的にやってみて地図とか絵とかになると能力がないのでむずかしいものを感じた。ネットというのは地域ルネサンスを作る。ただそれが緒についた段階であり地域を表現するには多様な能力、情報の結集が必要になるのだ。


5月17日 ロ−マ人が描いた世界地図 荒巻義雄

この本で目新しい見解があったろうか、ロ−マはアメリカであり日本はアメリカに従った方が得だった。ソ連に支配されたら悲惨な結果になった。カルタゴは絶滅させられたようにその前にアメリカに全面的に降伏したことは良かった。それも一理ある。ロ−マとアメリカは違う。ロ−マと近隣の国との文化の差は歴然としてをりそれ故に軍事力より文化の圧倒的優位の故に支配したのであり軍事力だけではなかったのだ。一方アメリカは軍事力が突出した国であり文化的に優位の国ではない、なぜなら歴史的にはアメリカよりみんな古いからだ。カルタゴは商業国家として滅ぼされたというのはすでに森本哲郎が本を出している。水が大事だというのも誰かが言っている。

これは誰かの見解のつなぎ合わせたものでありほとんど独創的なものがない、それでもロ−マとういのを知るのには基本的認識としては役立つ。何か新しい見解があるように見えるのだが実際はほとんどないのだ。海洋国家論もすでに何度も語られている。とすると新しいものはない、つまりいかに独創的な見解をだすのがむずかしいかなのだ。誰かの二番煎じになってしまうのが学問の世界でもある。そもそも日本人は世界史を理解することが向いていない、国の成り立ちとしてむずかしいのだ。つまり世界国家となった国は世界史を理解しやすい、異民族を縫合した国を作った民族は世界史を肌で理解しやすい、が日本はそれがないから世界史を理解できないのである。これを読んで無駄とは言えないが誰かのアイデアの接ぎあわせであり作者自身の独創性は希薄である。

ただ次の世代は多少違っている。世界を肌で感じている人が多くなったことなのだ。留学が当たり前になっている世界だから違ってきている。なぜイラクをチグリスユ−フラテス川を中心にして考え詩にできたのか不思議である。イラクを川を本当に見たのかもしれない、詩とか芸術の分野では世界的な人がこれからでてくることは間違いない、他でもそういう詩を作っている人がいたのだ。しかし俳句では世界を詩にすることはできない、やはり詩の方がこれから世界的なものがでてくる。



5月15日 伝染病は文明がもたらした

ペストはもともと野ネズミやリスなどの欝歯類が罹りノミが媒介する病気である。ヒトはペスト菌をもったノミに噛まれたときに感染する。またペスト患者の咳や疾からも飛沫伝染する。542〜750年のコンスタンチノープル、610〜648年の中国の都市、1347〜1351年のヨーロッパの諸都市、1665年のロンドンでの大流行は人口を激減させたと考えられている。ペストの流行の原因は農耕地や放牧地の拡大のためにキツネの生息地である森を切り開いたことに始まる。

18世紀末の産業革命で発展したイギリスの都市でも、コレラ、天然痘、チフスなどの伝染病、脳炎などの神経性の感染症、結核などの呼吸器系の感染症の死亡率が農村を上回って高く、この頃の都市は健康都市とはいえません


http://www.msic.med.osaka-cu.ac.jp/citilec/2002no61/2002no61.html

伝染病は文明が発展した結果もたらされた。特にペストなどのようなヨ−ロッパの人口の3分の一も死んだのはそうである。伝染病は大都会から拡散したのだ。都会とは本来生命体にとって異常な環境である。自然にはありえないものなのだ。だからその生態的に異常な環境がすでに災いの元ととなっている。地震で神戸があんな大災害になったのは都会自体がすでに自然ではありえないものとして人工的な世界だからである。

最初に森という生態系の破壊→細菌の出現→都会への拡散 となる。エイズでも今回のSARSでもその他文明化の故、都会化の故に起こったことに原因がある。確かに伝染病は昔からあったがこのように急激に拡散しないしエイズのように何かモラルに反することとは関係しない、一地域の風土病として終わっていたのが多かったのだ。地震であれ、災害であれ、伝染病であれこれは自然からの文明に対する警告なのだ。森の破壊、環境の破壊が強いては都市を消滅させてしまう。日本の中国の留学生が北京から両親を呼ぶというのはまさに北京という都会が消滅することにもなりかねないのだ。


5月12日  風土病のグロ−バル化

WHCに働いている日本人の医者がグロ−バル化していない19世紀だったらSARSは一風土病で終わっていたという。SARSがあんなに大騒ぎになるのは一風土病が世界的な伝染病として拡大する怖さである。飛行機に乗って瞬時に地球の裏側まで拡散してしまうのだ。中国でもグロ−バル化していなかったらたいした問題にならないし中国だけでかたずけられる問題だったのだ。世界がグロ−バル化することは一地方の文化やコミニュティを破壊するとともにまた風土病も風土病ですまされない問題になる。どんな奥地までも外国人は入ってる。そんな奥地から持ち込まれた病原菌が今度は世界に拡散する恐怖である。エイズなんかもそうだったのかとにかく最近も拡散しやすいことなのだ。それを止めるとなると人の流れを止める他なくなってしまう。細菌はそもそも昔からおそれられていた。村の入り口に大きな藁人形を置いて他村の人の入るのを拒んだりしたのは疱瘡を恐れていたのだ。なんかわけわからない病気が持ち込まれるのを恐れていたのである。文化というのは昔からその土地、風土によって長い時間をかけて作られたきたものでありそれをグロ−バル化するということには無理がある。何をもってグロ−バル化なのかもわからない、アメリカ流になると世界中でコカコ−ラとハンバ−グを食わせることになるのか、それはその風土にあった食ではない、その風土にあった食が一番いいことは神の定めることである。その食までグロ−バル化することは間違っている。ハンバ−グなど自分は好きでないから食わないのだ、日本ではいくらでも日本にあった食があるからだ。グロ−バル化はかならずしもすべていいことではないことは確かである。


5月11日 メニエル病の恐怖

一年に一回耳垢がたまり聞こえが悪くなるので耳鼻科で耳垢をとってもらった。そしたらそのあとどうしてか天井がぐるぐるまわり立っていられなくなり寝たら吐き気が何度もしてひとく吐いた。頭も痛くぐるぐるは一日つづいた。これは私の母もなっていてメニエル病なことはまちがいない。インタ−ネットで調べたら詳しくでていた。耳垢をとるのは結構技術的むずかしいものであった。耳というのはかなり繊細な器官でまだよくわかっていないらしい。他の人も結構なっているから耳特有の病気なのだ。自分は蓄膿症で2回も手術しているしそれで高校時代は極端な学業不良で終わった。耳も子供のとき中耳炎になったというから耳も悪かったのだ。しかしこの病気は耳と関係していると思わなかった。激しいめまいと吐き気だったからだ。人間には変わった病気があるもんだと思った。これは初めて経験したので恐怖だった。目をあけていると回りがぐるぐるとまわるのである。実に奇妙な病気である。母がメニエル病の体験を聞いて落ち着いた。こんなわけで二本松までの自転車旅行はとりやめになった。


5月8日 アフガニスタンの現実

 ペシャワルに派遣された日本人のお医者さんが発狂した。完全に気が狂ってしまったそうで、一人で帰れる状態ではなく、日本大使館の職員が東京まで連れて帰ったそうである。

クエッタで仕事していた国連職員の報告であった。最近イラク戦争のことなどでアフガニスタンのこと忘れていた。アフガニスタンはイラクより悲惨である。極限の貧乏に見舞われ子供が売られたり地獄のような世界であり経験した人しかわからない世界である。人間が統制を失い野獣化のような世界になっている。あそこで行われていることは日本では信じられない世界である。そんなことが行われているのかこんな世界があるのかと信じられないのである。海外旅行だけでも自分は大変な経験でやはり精神的にショックを受けた。おそらくこの医者はまの当たりに見た現実にショックを受けたてそうなった。子供とか女性が野獣の食い物にされるのだ。これは売春オヤジが東南アジアに行っているのとにているがそれよりもひどい、人権もなにもない、子供が奴隷化されているのだ。奴隷であり人間として扱われていないのだ。あんな地獄のような所からテロが生まれる。それは必然的なものであり社会が改善されないかぎりテロは生まれる。戦争では解決しない、日本はまだのんきである。日本のヒキコモリとか無職とかをそこに行かせろというのはわかる。戦場と同じである。簡単に人が死んでゆく、そういう世界では人間は死とか悲しみにも無関心になりただ虚ろになるだけである。

そういえばそういう表情がアフガニスタンの人にはあったようだ。深いどうにもならない絶望がそうさせたのである。戦争では人は簡単に死ぬ、すると死にすら無関心になる。これが現実なのだ。戦争状態と同じであり援助しようにも余りの過酷さについに正気を保てなくなったのだ。貧乏、戦争、干ばつ、・・・・三重苦四重苦の世界でありそこはもはや感傷的な慈善の感覚などでは対処できない、次々に銃で打たれたり地雷で足がふっとんだりした人を手術する、それも人間というより物ののように外科医がつぎつきに手術してゆく世界である。つまり感傷の許されない外科医の手術である。そういう世界ではむしろ外部の圧力で秩序を保ち外科手術して直すというのが現実的対処なのかもしれない、つまり自分もそうだがこうしたことは外部から観ているだけでは本当は何もわからないことなのだ。イラクの戦争だって真実はわからない、ただ皮肉なことはアメリカにいて殺人に会う割合の方がかなり高く戦争では百人単位しか死なないのは戦争の方が死ぬ確率が少ないというのは本当でありこれもアメリカの奇妙な現実なのだ
いづれにしろそういう世界を経験した人は平和のありがたさがわかる。平和は日本などでは空気のように存在するから当たり前だからわからないのだ。平和のなかで仕事できることはいかに幸福なのかわかる。身に沁みてわかる。そういう世界で育った子供達が将来どうなるのかこれまた平和な世界ななまぬるい世界で生きたものとは違うたくましいものになるのだろうか、これも想像つかないのだ。



5月7日 外国旅行での反省

国際化とはどういうことか、自分自身は全く外国にも行っていなかったし国際性はゼロだった。日本からでない人はやはり国際性が何かはわからない、うすっぺらな国際性さえわからない、他国に行きとにかく他国の人と交わることが一歩である。日本でも外国人と交わることはできる。それも確かに国際性が多少は身につく、国際性とはいろいろある。経済活動やら文化活動やら技術交流など様々である。でも国際性でもっとも大事なことは何なのか、キリストの言った例えである。良きソマリア人の例えでは他国人であれ親切にすることが愛であるとヘブル人ではない自国民ではない、ソマリア人が親切にしてくれたこと、他国人に助けられたこと、それが本当の愛であり自国民だけに親切にすることは愛ではないと言っている。そもそも日本人は外国人をおそれている。今の若い者は別として外国人をおそれている。人間ならざるものに見る。日本人は閉鎖的だからそうなりやすい。江戸時代の錦絵には災害を起こすのまで外国人になっている絵があるのだ。それほど外国人は人間ならざるものとなっていたのだ。確かにかなりの人は今は違っている。しかし自分はそうだった。もう一つは自分は海外旅行をもの凄くおそれていた。それも一回も行っていない外国というのをおそれていた。情けないといえば情けない、時代後れといわれてもしかたない、だから外国旅行を軽い気持ちで行く人のことが普通に思えなかった。

外国を放浪するとなるとさらに想像もつかないことだった。外国では盗みが多いとかそういう話が多かったことも原因している。タイでカオサンの安宿に泊まったとき自分は暑さで熱病のようになり寝込んでしまった。その時泊まり合わせたドイツの青年が薬をくれたのである。そこで自分は薬は催眠薬で盗むとかそんな話ばかり聞いていたのでその薬を飲まなかった。それは確かに普通の薬だったらしい。苦しむ様子を見て親切に与えてくれたのだ。今になると余りに盗みにたいして注意深くなりすぎていた。もちろんカメラなど二回盗まれたことは確かである。外国で盗まれることは多いことは確かである。しかし本当に親切で助ける人もいるということである。

それは善きソマリア人の例えににている。外国人でも親切な人はいるし人間同士助け合うことはある。ただ現地の貧乏な人は概して金目あてになるから親切は金と交換となるから余り感じないのが普通である。外国人であれ苦しいとき助けてくれる人が友なのだ。とにかく自分にとって外国の体験は大変な苦労だった。若いときなら順応性があるから楽だからこんな苦労に感じたことはないだろう。国際性とはそうした国境を越えて人間同士の信頼性を築くことなのだ。ただそれが集団や国単位になると権力同士の結びつきや利害関係で対立するのである。

親切にしてくれた異国の人よ
名も告げずそは去りにし
我はそを疑うを悔いる
そは誠の心から我に薬を与えぬ
本当の愛はほめられず知られず
その報いを求めず行われる
愛も親切も謙虚なるとき良し
しかし世は親切、愛に報いを求め
誉れを求める故重荷となる
愛は無償のとき真の愛となる
愛は謙虚にして高ぶらじ
その時愛は愛たりえて
その人の心に殘りぬ


本当の愛は世間では実行されない、国際協力でやっているのは愛がともなうとは限らない、それは絶えず世間の注目を得てほめられることが多いのである。本当の愛を実行することはだから常に非常にむずかしいのだ。つまり私が経験したささやかなことが愛だった。相手は別に何かを自分に期待してやったわけでもない、ただ軽い親切心から薬をくれたのである。この軽いということがいいのである。これが何かをしてやるとかと生き張ると愛も苦痛となってくるのだ。自分でほどこしを何もしていないのに感謝されたらそれは本当の愛だったのだ。そういうものが本当の愛として残るのである。そういうことは非常に少ない、愛しなければ愛を与えなければと常に生き張る状態は良くない、それは愛に通じない心の状態であり相手に対して負担となる愛なのだ。そういう愛のキャンペ−ンが多すぎるからかえって嫌われることが多くなっているのだ。愛の押し売りが多すぎるのである。欧米は慈善の強制的押しつけが多いのである。


5月4日

チグリス・ユーフラテス河 水清く とうとうと流る
水鳥自由に 群がり 飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
チグリス・ユーフラテス河 水清く とうとうと流る

北の大地から 南の空へ
飛びゆく鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を みっつに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

チグリス・ユーフラテス河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ 想いを伝えておくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない
チグリス・ユーフラテス河 水清く とうとうと流る


これは2ちゃんねるで見つけたものである。イラクはチグリス・ユーフラテス河とともにあった。メソポタミア文明とは川の間という意味だから川とともにあった文明だった。ナイル川もそうだし揚子江もそうだしインダス文明も川の文明だった。ドイツの母なるラインというのもそうである。ライン川がフランスとの国境にもなっていた。この詩は2ちゃんねるのイラクが三つに分割統治されるというスレッドにでていた。こんなうまい詩を2ちゃんねるに書かれたことに感心する。あそこは低俗な人間の憂さ晴らしという面が多分にあると思っているが新聞社や雑誌の記者なども書いている。かなり多様な人々の情報の集積場になっているから卑猥なものだけでないものもあるのだ。つまりなんであれ情報でも全国で多様な人間が発信するとそれは凄いものとなる。インタ−ネットにはそうした今までにない情報の集積が容易だから今までにないマスコミだけからではない情報が集まってくるのだ。なかなかいい詩を探すのは大変だがいい詩はあるのだ。それは0.01パ−セントとか非常に少ない、この詩は感心する詩である。ただイラク人がそういう思いを持っているかどうかわからない、そもそもメソポタミア文明の財宝を略奪するのはいくら知識人でないにしろもし歴史的につながりあるならあんな略奪はしえない、国の誇りであるはずだからだ。つながりを感じないからあんなことができたのだ。そもそもイラク民族というのが存在するのかどうかわからないのだ。エジフトでもメソポタミアでもアラブ人とは別な人種だったのだ。

これだけいい詩を書いても誰だかわからないからこれを引用していいのかもわからない、ただ2ちゃんねるは著作権がなく誰でもそっくり引用されることを前提に書いている。ただ名前もない人のをそっくりだすのはやはり変である。ホームページでももっていればその人のホームページにリンクするのだがそれもできないから変なのである。 

4月27日 インタ−ネットの情報の生命はリンク

蛇、亀、鶏、鳥、犬、猫、猿、狸、穴熊、ムササビ、蛙そして各種昆虫まで売っている。一瞬ドキッとしたのは、ゴキブリを並べて売っている老人を見つけたと思ったときだ。よくよく見ると、それはゲンゴロウとタガメだった。こんなもの、どのようにして、食べるのだろうか?

http://plaza21.mbn.or.jp/~somo/index1.html

インタ−ネットで有効なのは情報の関連を見つけることである。これが大変である。掲示板にもそれに関連したものがあってもそれに行き当たることは大変である。テロとかSARS関連でオ−ストラリアに行くには検査が厳しくなっているし香港経由ではめんどうになるとか、香港で10日間留められたとかそうした経験者の情報がある。今の情報があるのだがこれは検索でも探すのに大変な労力がかかるから有効にならないのだ。もう一つの問題として著作権があり勝手に利用し組み立てることができないのだ。

私が発見したこの中国での広州の見聞録を見れば中国には今まであのような病原菌が発生しないこと自体不思議なことだった。いや実際は発生していても隠されていたのである。今回も政府の役人が隠したことでわかる。中国は表沙汰にならないことがいくらでもあるのだ。10億人もの人間を管理などできない、奥地では何が起きているのかもわからないのだ。

何回も言っているがインタ−ネットの情報は様々な関連したものを結びつけると有効になるのだがそれが著作権とか検索のむずかしさでできないのである。インタ−ネット情報の生命は結びつけることリンクにあるのだがこれがうまくできていないのだ。


4月27日  選挙でうるさかった

選挙でうるさかった。鹿島町では100億円の借金がある。どこの
自治体でも借金であり町が市が破産するという。それ以上に国が破産するという。破産したらどうなるのかそれはある本に書いてある。消費税があがり極端なインフレになる。いづれこの町もそうだが合併せざるをえなくるのか、議員というのは一番の無駄である。5、6人いればまにあうしそもそも区長なんかよりなんの役にもたっていない、頼んでも何もしてくれないのだ。まあ、今回は三日くらいで終わったからよかった。でもいろいろ政治に不満があるが本当に不満な人は議員になって行動する他ない、それが民主主義なのだ。それをできない人は自分の不満などを取り上げる人とかに投票したり応援するほかないのだ。ただ何が問題なのか何をどうすればいいのかなど議論する場もないしわからないからインタ−ネットでそういう場で多少とも情報が開示されてわかるようにすればいい、インタ−ネットも実際は田舎ではやっている人は少ない、高齢化で中高年は新聞が主であり新聞を離すことができないのだ。新聞社も中高年が読んでいることを知ってをり中高年むきに作っているという。政治に興味をもてないのは個人的には政治では無力であり反映されないからだ。


4月24日  旅と古い碑

私は旅が好きである。道を旅して過去を歴史を偲ぶのにいいのが古い石碑である。必ず道を旅すれば石碑に出会うのだ。汽車で旅した時は駅名だけが心に残る、地名だけの旅になってしまう。「小国」とあれば小国って他にもあったとか廿市とあれば市がたった所だとか常に地名が気にかかり地名に興味を持ったのだ。しかし自転車で旅するときは道と碑に興味を持つ、ただ碑というのはなかなか解読するのがむずかしいし字も読みにくいからだ。忘れられたようにありよくよく注意しないとわからない、そして意味不明なものが多いのだ。自分の旅は詩の旅であり歴史考証の旅ではない、だからあんまり深入りして調べない、ただ旅では地名とともに碑や地蔵などが気にかかる。今回訪ねた観音様の碑は天和(1681−1684)であり本当に古い貴重なものである。文化と刻まれたものはかなり見たが天和は少ないと思う、これだけ古いものは非常に少ない、碑に着目すると歴史に興味を持つ、文献学とかそういうものはむずかしいからわからない、碑は必ず土地とも関係し旅の道にあるから面白いのだ。それはなお土地とともに自然とともに活きているのだ。歴史は死んだものとしてあるだけではない、やはりその土地の中に活きているものとしてあるべきである。これを博物館に保存した時点でそれは自然からも土地からも人間の生活からも遊離した死んだ歴史として保存されるようになる。古い碑の魅力は生活のつづく喧騒のなかにも忘れられたように過去を語ることにあるのかもしれない。だからよくよく注意しないとわからないし発見できない、本来歴史とはそういうものかもしれない、たいがいの庶民は名もなく消えて埋もれてしまったからである。


4月21日 個人放送局新聞社

デジカメはピクセルを大きくしてとると細部まできれいにとれる。
これホームページに出すの大きくなって容量くうからいやだったが大きくすると写真は見映えがいい。へたでも写真は大きくすると素人でもいいものができる。小さいとだめなのだ。adslの時代大きい写真でもだし易いから「故郷の春を写す」で出してみた。現代は映像の時代だ。映像がないと淋しくなる。写真はある程度素人でも作れる。このホームページ作りは一人で新聞社や放送局やっていると同じだ。なぜって毎日とにかく何かを書いたり写したりして出しているからだ。同じ場所を何回も写したが春になったら柳が芽吹いたり花が咲いたりとまた違ってくる。
こうした変化を写し報告する。明らかに個人の放送局なんだ。明日は三春に自転車ででかける。今度通信が変わったのでそれの実験もある。無線の通信は遠くにでかけた時効力を発する。生中継になるんだ。これも疲れるが今やこれは自分の仕事だ。一人放送局なんだ。やはりインタ−ネットの凄いところは一人でもできることなのんだよ、マスメデアに頼る必要がないということが大きいんだ。今や報告することが自分の仕事だ。

4月18日  町屋という地名

御主殿ができて町屋は片はずし

赤門に昔を偲ぶ春の暮(自作)

徳川家から前田家(加賀藩)に嫁いだ時、建てられたのが東大の赤門になっている、御主殿と言われていたものである。あそたに加賀藩の屋敷があった。その前には町屋があったのだが半分を取り壊したという。火事になるからという理由だった。これでわかることは江戸が火事が多いということなのだ。それから荒川線の都電にも町屋駅というのがある。
町屋とは大名屋敷と区別して町の人が住む所が町屋となった。この句は
町屋に住むものから見た皮肉的な川柳である。町屋は簡単に半分取り壊しになるという当時の町屋の人が軽くあしらわれることをこの句は言っている。
「今度徳川家の松平から嫁いでくる、前の町屋は密集している、火事になると
大変だ、江戸の火事は怖い、半分取り壊して延焼を防ぐ必要あるな
「町屋の人達が怒るんでは」
「町屋のものが、江戸は町屋のためにあるんじゃない、侍のためにあるんじゃ大名屋敷の方が大事なんだよ」
「そうでございますな、町屋の言い分など聞く必要がありませんな」
町屋というとき町屋に住む人が言ったのではなく大名屋敷に住む人が町屋と言って区別していたのだ。侍から見て町屋は下々の住む蔑視的な呼び名だったのだ。江戸にとにかく大名屋敷が多かった。それが今では一つも残っていないという不思議である。辛うじて名前が残っているがそれも面影を偲ぶような場所ではない、ビルが林立しているから全く昔のことはわからなくなっているのだ
だから東京で昔を偲ぶということがむずかしいのである。

この嫁いだ姫は30何番目かの子供の一人だったというのもあきれる。盛大なお輿入れが行われたのだ。こうした江戸幕府が300年つづいて明治維新にもろくも崩れさった。なぜこれをとりあげたかというと地名に自分は興味あるからだ。地名は歴史なのだ。大名屋敷はなくなったが町屋という地名は殘りあとに残ったのは町屋というかビジネス街や商店街である。町屋という地名を考える時、それと対照的に大名屋敷を常に頭に浮かべる必要があるのだ。これはハイカラという動画を配信している番組で見たのである。
こんな番組がふえてくるは確かである。こうしたものは個人でもブロ−ドバンド時代で作れる。

とにかく番組がふえてくるから今までのように6局だけの番組ではな百局とか個人放送局をふくめるとまた大変な番組が作られることになる。明らかにこれまでのテレビの番組を見る人はかなり減ってくる。なぜ本とか雑誌の類まで読まなくなったかというとインタ−ネットの影響なのである。インタ−ネットという情報環境のなかで事足りるということになってくる。インタ−ネット情報空間は2ちゃんねるも便所の落書きの面もあるがそれに接している人はそれの影響を受けるしインタ−ネットの情報空間で知識の構築を計る。今までだと本とか新聞とか雑誌とかから情報を知識を得ていたのだがそれがインタ−ネットにすべて代わるとまでもいかなくてもそれで事足りるというだけの多種多様なものがそれなりにあるという世界だから今までの本とか雑誌でも読まない人はふえてくるのだ。最終的にすべてインタ−ネットにパソコンの画面で用を足すよになるのがデジタルの世界だというのは本当であろう。そんなにあっちもこっちも見たり読んだり調べたりできないからである。



ハイカラ−歴史ウォ−キングより
http://www.iiv.ne.jp/haikara/bb/


4月17日      無名の人の発言(2ちゃんねる)
        
>>弱者にやさしいように見えて、実は弱者を盾にする鬼なんだよ。

これは2ちゃんねるにでていた創価について言ったものだが、もちろんどういう人が発言した人かわからないからなんともいえない、自分が驚いたのはこういう見方をしている人がいることである。自分の場合、内部にいた経験があるから創価とは宗教を基本として社会を変える革命団体と思って行動していた。しかし全然それとは違った団体だった。宗教を楯にして政権奪取する団体ともいえる。

今回のフセインも市民を楯にしてアメリカと戦うと叫んでいたがフセインの正体も国のためとか、宗教のためとか正義のためとか、理念のためとかパレスチナのためとかいろいろご託を並べるがフセインにとって一番大事なことは自分が権力を握っていることであり権力の座にあることであった。フセイン一族の王朝でもあった。国民はそのために尽くさせるべきもので国民のために自ら犠牲になることなどないのだ。創価もまた同じである。国民のため弱者のためというより幹部は政権奪取であり権力を我がものにしたいのだ。そのためには手段を選ばない、一票獲得がすべてになるのだ。それが即権力を手中にするためのすべてだからである。

なぜ今回平和団体の池田大作が日頃の平和の主張とは裏腹にイラクの戦争に反対しなかったのか、これは言ってもさほど迫害を受けるわけでもない、簡単なことである。ではなぜそれすら言えなかったのか、結局自民党と一体になったため自民党の政策に反対することはできなくなったのだ。自主性をなくしてしまったのだ。その代わり自民党の庇護のもとに勢力を拡大させることができるようになり地方選挙でもそれなりの議席数、権力を得ることになった。公明党というと反権力であり池田大作も反権力を盛んに言っていた。今は全く権力べったり自民党の飼い猫になってしまった。反面実は自民党をのっとるという画策があるのかもしれない。目的は自民党に変わり政権をとることだがそれは簡単にいかないから今は飼い猫に甘んじているともいえる。

2ちゃんねるなどとるにたらない便所の落書きだからあんなもの社会に何の影響もないとされるのかわからないがただそれだけではない発言だけをみればこうした鋭い批評をできる人もいる。そういう発言が可能な場でもあるからだ。

例えは書店に池田大作の本を置かせて信者に買わせて書店を買収するようなことをしているという。どうも出版社とマスコミ(新聞、テレビ、・・・)は巨大権力にとりこまれやすいのだ。大方の人はそういうことはわからないから本には何か特別な権威があるようにみてしまうのだ。
書店とか出版社とか自分だけの私怨ではなく大きな権力の笠下に入り安いところなのだ。だから今ではこうした場所に疑問を抱くようになった。そこでは幸福の科学とか池田大作の本が山積みされる場所になると言っていたが本当にそうなるのかもしれない、というのは本屋の主人も言っていた。買わない奴は何を言ってもだめさ、買ってくれる人は神様だよとなる、つまり池田大作でも他の宗教団体の本でも信者買ってくれれば経営が成り立つとなる。最近本の必要性もなくなったから本屋にはほとんどいっていない、若い者が本を買わなくなった理由はインタ−ネットの影響がかなりある。

昔はとうしても本を読まないと知識的に情報的に遅れる。今はインタ−ネットだけで一応わかったようにすましている人が多いのだ。それは浅薄な断片的な知識ともなるが簡単であり一冊の厚い本を読むことができなくなっているのだ。パソコンがインタ−ネットの情報のやりとりが短文になってしまったのと同じである。2ちゃんねる即応の短文でわかった気分になってしまう。これは危険でもあるがこの影響で本も買わないのである。いづれにしろどうしてもマスコミとか出版とか書店の影響力は随時弱体化してゆく、これが半々くらいになればインタ−ネットの影響力が国民の半数に行き渡れば大きな権力にも抵抗できるようになる。


4月15日 インタ−ネットの不公平

検索であれ、インタ−ネット、パソコンはわからないことが多すぎる。5年間やっていてもそうである。相互リンクとは何なのか、相互にリンクするということは互いに協力することなのだ。一方的にリンクされることも多い、自分はどことも相互リンクはしていない、この相互リンクは積極的な意味があるみたいだ。これでアクセスを増やすということもある。だからこれはかなりの協力関係になる。だから一方的なものとは違い事前の許可が必要になる。ロボット検索で探し出せるのは人間の協力関係とか余り関係なく数学的に導きだしている。リンクの多さとか統計的に割り出している。だから無駄も多い。一方人間がかかわる検索は不公平になる。ヤホ−などは簡単に選ぶ人の恣意によって決まるだけである。これはつまらんと思えばデレクトリ−にはのせない、ただヤホ−にのるとアクセスがあがる。これもインタ−ネットの世界では不公平なことなのだ。商売する人は公平でないと思う。宣伝したい人は一杯いるからだ。それがうまくいかないとなると不公平感がつのってくる。ヤホ−は今やインタ−ネットの中の大手出版社と同じである。自分も「邪魔なるからお前の本は置けない」と書店で言われたように「こんなの置く必要もないわ」で簡単に省かれる。自分だけでなくこうして勝手に取捨選択されることに不満を持つ人間も多くなる。だからグ−グルも宣伝に差別していると会社が訴えたのも当然である。その内容など関係ない時もある。何を基準にして選んでいるかなどわからないからだ。インタ−ネットで目立つことはものすごくむずかしいことである。こうした一つの会社はそうした権力を持つことは危険である。ヤホ−に選ばれたら10倍アクセスがあがるとなるとヤホ−の権力が増大してくる。一方でヤホ−にのせられたいために圧力をかける団体もでてくるし団体の場合はそうしてるのかもしれない。雑誌とかマスコミも不公平である。例えば

雑誌とかで五つ星評価(★★★☆☆こんなやつ)とかあるだろう?
あれって結構効果があるぜ。
むろん、雑誌の読者は星の数が金銭でやり取りされているのは知らない で、雑誌編集者は「こんな子供だましに引っかかる奴はいるのか?(w」って思ってる。


こういうふうに裏で金銭でやりとりされてい場合もある。どうしても営利事業だからそうなる。マスコミの問題は宣伝している会社はお得意さんだからいいことしか言わない、批判ができないという問題がある。巨大な権力と化したマスコミに操作される問題がある。いづれにしろインタ−ネットの世界は検索といい様々な問題がわかりにくいのとル−ルも確定していない、乱雑な情報のアナ−キ−になっている。利用価値は大きいのだが利用の仕方がわからないのだ。一つの意味を理解するのにインタ−ネットでもソフトでも時間がかかる。半年くらいかかってこれはこういうことかとわかる。最大の問題は検索であることには変わりがない、これは本で調べるにしても同じだからインタ−ネットだけの問題ではないが問題はグ−グルでも300くらいまでなんとか見ているがそれ以降は疲れて見ないからそのあとの情報はいいものがあっても見られないとなってしうまう問題である。インタ−ネット自体がインタ−ネット情報学になっているのはこれに関する総合的体系化された導きがないためである。現実社会では様々な経験から交通ル−ルやら著作権のル−ルやらが時間をかけてできてきたがインタ−ネットにはないから理解することがむずかしいのだ。まあ、10年もたてばなんらかのル−ルができてくることは確かである。



4月12日   フセインの崩壊

 イラクについてわからないことはイスラム教は偶像崇拝を固く禁止している。モスクの中に像がなく幾何学模様にしたのもそのためである。それがなぜ国中にフセインの銅像や写真だらけの独裁者の偶像で飾られたのか宗教を重んじる世界にしては不可解である。それからイラクという国自体の成り立ちについてもわかりにくい。イランはペルシャからの連続性があるから文化的にも人種的にも違っている。わかったことはイラクとイランの間には山脈がありそれがアラブの世界を分けていた。ペルシャ人の血とアラブ人の血は違う。砂漠の世界では近代化ができなかった。この近代化とは何かとなると西欧的民主制となるがイスラム教では法律も政治も宗教と一体化して存在しているから民主化はむずかしい。政教一致の世界であり政教分離ではない。西欧では政教分離するために多大の血が流れた。宗教が世俗を支配するとやっかいなものなのだ。ただ西欧的民主社会がすべて肯定されるものではないし進歩した社会なのかというと疑問な点もある。アメリカ型社会がすべていいとはいえない。国の成り立ちがすべて違うからである。いまだに部族単位の社会をどうしてまとめるのかとなるとこれから大変である。そもそも中東は宗教的にも部族的にも一様にならない世界である。一見アラ−の神のもとに団結しているようでも内実は複雑である。シ−ア派の高位の僧が暗殺されたのそのためである。

とにかくフセインの写真をどこからでてきたのかじいさんが靴でたたいているのは面白かった。人間の赤裸々な感情がでていたからだ。今まではただ独裁者に従う本音のない抑圧された本当の人間の姿ではなかった。どこかの貧しいじいさんがフセインの写真を靴の裏でたたいている姿はありのままの人間の行為だったからだ。略奪しているのも悪い人間性が露骨にでてきたのだ。というのはフセインというイラク中にある巨大な像に比べてあのじいさんはとるにたりない貧者であったからだ。靴の裏でたたいているのも一見、滑稽だが銃で撃つのとは違い力のないものの抗議の姿であった。つまり民主化とはあんな市井の取るに足りないじいさんがクロ−ズアップされる世界なのだ。だからあれはアメリカに操作されたというよりは本音が現れた行動だったのだ。中東の世界は詩でも書いたが髭を生やして偉そうなのだがその内実は科学世界でも経済の世界でも軍事でも自信のない見劣りする世界なのだ。そこに中東の不満が内向してテロになる。アメリカに対する不満は消えることなく殘りテロになるのだ。


4月9日 検索のむずかしさ

検索がなぜむずかしいかというとキ−ワ−ドがわからないからである。それぞれ自分の書いた文章についてのキ−ワ−ドは知っているのだ。それは殺人事件とかでその人だけが知っている情報がでてくると有効な証拠になると同じである。どこに死体を埋めたとかはその人だけが知っているのだ。キ−ワ−ドもそうなのである。自分のホームページを出すことを実験的にしているが500とか300とか100とか以内で出てくるキ−ワ−ドは知らない人は検索しないのだ。俳句とは誰でも入れる、しかし俳句の次の言葉はなかなか浮かんでこないし本人しかわからないものである。俳句 季語 を入れればそれなりの俳句がずらっとでてくる。短歌 桜 などもでやすいキ−ワ−ドである。そこでも無駄なものが9割りくらいでてくるのだ。文学関係を探しても旅館とかの案内が延々とでてくるのだ。有効なのは一割くらいだろう。いや1パ−セントかもしれない、100でひとつ、1000で10くらいである。これだけ検索とは大変なものなのだ。
今回時事問題9で「資本主義の精神」という文を書いたがこれで



と入れた、そしたら短い文だったがぴったりのがでていたのだ。つまりいかにキ−ワ−ドから探るのがむずかしいかなのである。カテゴリ−検索は自分はほとんどしていない、これは効率的でないかもしれないがカテゴリ−は人の手によって選ばれたものでありそれらがみんないいものではないのだ。自分のホームページは選ばれていない、つまらんものでも多数選ばれている。ここにも公正さはない、ヤホ−が権力化している。もちろんグ−グルなども操作して上位にアップできるらしいがロボット検索は問題があり効率的でなくても公正な面がある。全くカテゴリ−に登録されないものもでて来る機会があるからだ。そういう所にも読むべきものはある。インタ−ネットが手間暇かかるのは検索とかが余りに不十分だからである。まあ、これはある程度人間の手が入って整理されるとわかりやすい。そうなると不公平になるがやむをえない面がある。

投資と船(東インド会社)
http://ad.diamond.ne.jp/ZAi/20000621/pr02/03.html


4月7日 ソフトはメッセ−ジである

ソフトはメッセ−ジである、マクルハ−ンがメデアはメッセ−ジであると言ったがソフトはメッセ−ジであるということもできる。2ちゃんねるは内容はともかく新しいメッセ−ジのソフトを作ったことなのだ。
これに加えてMatariという電光掲示板形式にパソコンにスレッドが流れてくるのもうまくできているなと感心した。この二つで情報が見やすく取得しやすくなっている。ここに規制のマスコミなどメデアもこうしたやり方で情報を流してくれると金を払ってもいい、ただいろいろな新聞や週刊誌の関心のある記事をピックアップしてこのように流してくれると効率がアップする。一冊の雑誌でも週刊誌でも必要ないものがあるのだ。バソコンを使っている人はみんなそう思っている。この利用の仕方は様々にあるのだ。例えは俳句でも短歌でもスレッド方式で流し選んだりコメントしたりとかこれは実は他にもいろいろできるソフトなのである。その利用の仕方がまだまだなのだ。だからつまらない雑談とか情報の有効活用ができていないのだ。とにかくインタ−ネットの問題は検索と情報の有効な活用ができていないことなのだ。検索にしてもいいものを探すために延々と探しつづけねばならなくなる。ただ探すということは図書館に行ったってねらいのものが探せるとは限らないしかえって手間暇かかる。今は本とか雑誌とか規制のものがインタ−ネット的やり方の情報発信しているものは少ないのだ。とにかくソフトとはインタ−ネットの応用の仕方であり別にむずかしいプログラムを作る人だけのものではない、ソフトは一人一人違ったものが必要だというのも本当である。そしてソフトは5千円でも高い、一つのソフトで間に合うものがないからだ。他にも必要となり必ず損することになる。だから前は一万でも安いと思い次々に買っていた。カレンダ−作るソフトも5千円で買っていたのだ。

いづれにしろパソコンはその人によって使い方がみんな違ってくる。俳句の分類ソフトも買ったがあれも役立たなかった。自分用にカスタマイズできるものがいいのだ。ともかくインタ−ネット的に創作を展開している人は少ないのだ。プログラムできないことが原因でもある。もう一つの問題は著作権があり勝手に他人のを出したり批評したり取り入れることができないことである。インタ−ネットの時代余りに著作権にこだわるのはどうかと思うようになった。活用できないとしたら活かされないことだから著作者にとってもいいことではない、特に過去の作品ではそうである。50年間の著作権は長いかもしれない、第一誰に断って出していいかわからんのだ。自分も一部著作権違反かもしれないのを出している、しかしそれはここで活かしているのだ。まあインタ−ネットの世界に対応するル−ルも必要なことは確かである。


4月5日 ひかり荘の不思議


ひかり荘の不思議は何なのか。ただ単に普通の人がライブで映っているのが面白いのか、新鮮なのか、それはテレビのこれまでと違った使い方によるんだな、いないとあれいないのかとか、席をたったのか、黙っているなとか、人間の日常的な姿がテレビにそのつま映っていることが新鮮なのである。それは別に演技するわけでもない、番組を作っているわけでもない、当たり前の姿が映されていることってあまり経験したことないんだよ、ここで一番大事なことは間があること、沈黙があることなんだ、テレビには沈黙がない、一方的に隙間なく流される、そこに無駄な時間がないんだ、間がないからちょっと考えることもできない、何か疑問があっても質問もできない、間がない、沈黙がないということが思考停止にしてしまうんだ、日常の時間ではのべつとなく話したりしていない、ちょっと間を置いてでてきたり消えたりとそうしているのが普通なんだよ、そのあたり前のことをテレビで映しているから新鮮になっている、テレビというのはいつでも作られた番組を放送している。そこには無駄な時間がない、テレビが休むことはない、画面に何かが映っていなければならない、でも人がいて人がいなくなることが新鮮だという世界をひかり荘で発見した。こうした使い方がこれから広がることは確かである。確かにライブカメラはあるが人間をそのまま映しているライブカメラはなかった。コマ落ちしたりどうもみずらかった。これは鮮明な画像として見えるんだ、これがadslの魅力だよ、光になったらこれ以上はっきりするし大画面でも見れるようになる。ただ単に映っている当たり前の人が新鮮なものとなる。それが光の時代として始めとなる。その後の使い方は各自また別なものとなるだろう。これは明らかにその先駆けであり見本だ



4月5日 通信でソフトの不具合

あるソフトをインスト−ルしたらホームページがおかしくなった。そのソフトをアンイスト−ル、削除したら直ったからソフトでおかしくなったのだ。通信で有料のものだった。試し期間でやっていたのだがこんなことなったのは初めてである。この原因はわからない、パソコン自体にあるかもしれない、一部おかしくなっているし毎日一回は確実にフリ−ズしているパソコンであるからだ。前もこうしてパソコンが完全に壊れたのでその恐怖症になっている。通信でソフトをダウンロ−ドすることは危険なことがあるかもしれない、プログラムは危険である。いづれにしろもう一台パソコンは必要である。パソコンは一部でもおかしくなったらすべて最初からやり直すか方法がない,これはめんどうだから大変である。設定の仕方など忘れてしまっているからだ。こういう点パソコンはまだやっかいである。

今回の小名浜までのおりたたみ自転車の旅は気持ちよかった。ただこれだけで体が痛くなった。体がもう少し動かさないと遠くは無理である。
ただ病人をかかえているからなんか遠くに行くのがむずかしくなった。
ただ春はまた遠出をしよう。台湾に行こうかと思ったが伝染病でだめだし今回は行きたいのは南である。春はやはり南から来るのだ。南はやはり海を通じてつながっているのだ。日本人の祖先の一部は海をわたり島づたいに移動してきた人達だった。春の風は広い海から吹いてくるのだ。


4月1日 adsl体験、ひかり荘の不思議

adslを初めて10日間くらいだけどどんなもの見れるかと見てまわっていた。やはり動画関係が多いことと、規制の商業的なもの大幅に参入している。動画ができると商売にしやすくなる。でもまだ見ていないがこれか新しいというものだというものが見つけられなかった。なんか金とられるのが多くなった。有料化が必要だと自分も言っていたがadslでは実際に有料なのが多くなっている。報道番組でも一カ月500円で偏向のない番組を作ると言っていたがニュ−ス番組としては貧弱である。4人くらい出演者がいるがあれで500円では高い。今までNHK以外無料で見ていたからこんなに金を払わなきゃならんのかと意外だった。コマ−シャルでただで見ているありがたさがわかった。インタ−ネットでは本を買うようにやはり情報に金を払う必要があるのだ。でもそういう習慣がないから500円でも高いと思う。というのは他にも金が払う所が増えたからだ。ただ自分としては商業的な娯楽には興味ないからたいしたものないと思った。教養番組はまだ極めて少ない。これは金にならないからまだやらないのかもしれない。英会話などはやれるがこれも金がかかる。金がかかることで見れないのが多かったことである。

一番面白かったのはひかり荘である。あれは新鮮だったし本当に面白かった。ただ人がウエブカメラに映っているだけのだがその表情がわかりそれが書き込みの質問に生の声で答えるのは実に不思議だったし今までにないadslならではの体験だった。そこに今人がいるというだけでこれだけの実在感、存在感がでてくるとは思わなかった。そこに現にいる人をただながめているだけで面白かった。ああ、これがこれからのコミニケ−ションの世界になると思った。芸人が一人一人の書き込みに答えているのも不思議だった。視聴者と一緒になり番組を作っていたのだ。今までは視聴者はただ受け身の存在だったか今やその番組を構成する役者になった。あれはまた少人数の寄席ともにていた。寄席でもお客さんはただ見ているだけではない、参加者になるのだ。インタ−ネットは双方向だからあういうやり方になるのだ。ホームページでも見てくれる人に「ありがとうございました」と言っているのはインタ−ネットの世界では見てもらうことが大変だからそうなる。一方的に視聴者にこれを見ればいいんだという世界にはならないのだ。adslでは他でも教育などでもあのやり方になる。双方向教育になる。それから管理人は現実の受け付けとさほど変わらない役割をしていた。あういうふうに管理人が案内してくれるとわかりやすいと思った。インタ−ネットの世界はショッピングでも銀行でもなんかわかりにくいからだ。あのように現実の人間が目の前でリアルタイムで案内してくれるのはわかりやすい。文章だけの世界とは全然違ったものになる。表情がわかるということは現実の世界になりごまかせなくなる。匿名でも顔が出れば勝手なことはできなくなるからインタ−ネットは疑似現実でなく本当に現実になってしまう。事実芸人が視聴者と仲よくなり結婚式に呼ばれたとか現実の付き合いになっているのだ。とにかく未来のインタ−ネットの世界がひかり荘にあったことはまちがいない。いつもそこに人間がいるのだから明日7時に起こしてくれと言えばパソコンの画面から「起きろ、起きろ」という人間の声で起こされることになるし相手も本当に起きたかどうかも確認できる。これは他にも病院とか老人の連絡とかにつかえると思った。



3月27日 通信環境の変化

仙台に行った。ddiポッケットの通信を変えるためだった。やめようかと思ったがlooxでHinという通信機能がついていてそれで通信ができるというので使っただけ金がとられるものでつづけることにした。無線の通信は便利だし外に出ると役に立つ。携帯電話がなぜあんなに普及したのか不思議だったが自分もやってみてわかったのだ。ただインタ−ネットを見ることは旅ではできない。遅いからだめなのだ。旅では見ている時間が制約されてだめなのだ。adslのようなものならある程度できるかもしれないがそれでも探すのに時間がかかりできないのだ。インタ−ネットを見て調べることはできないがその現場から報告することに力を発揮した。やはりホテルでその一日の報告することは旅を充実したものにする。今度は遅くなるからめんどうだがホームページにアップを試みる。
ここ一カ月通信関係でいろいろ大変だった。やはり機械の準備とか設定とかこの世界は手間がかかるのだ。なんとか電話が通じてやることができた。ただ一つプロバイダ−やめることができず損した。チキチキネットをやめれば良かったが手続きが間に合わなくなった。

今入っているのはニフティとプララとジャストネットであるがジャストネットは一カ月百円でホームページまでもてるのでやめていない、これも変なことになっている。やめてもらいたくないので百円にして留めておくのである。百円ならやめるのもめんどうだからやめないだろう。ニフティは今はメ−ルだけしか使っていない、フォ−ラムは今や過去の遺物となりつつある。もはや必要ないのである。adsl関係とかこの春はまだ整理がついていていない。でも良かったは新しいパソコンを買わずにできたことである。このプリッチというパソコンでは得した。こんなに活用できるものとは思わなかった。10万でかったがもとは30万くらいしていたし10万は軽く得した勘定になる。パソコンは今は型落ちでも十分に使えるのだ。まだ新しい通信の実験が始まる。無線の通信はこれから必需品になる。adslくらいの速さで通信できたら動画も遅れるからすごいことになる。いづれにしろこの通信関係だけは未来のものなのだ。だからここに人々は投資するのである。常に未来あるものに投資はされるのである。

通信環境

ニフティ→メ−ルのみ→簡単名前のメ−ルへ(webpocketやめる)
プララ→adsl
チキチキネット→一年分払う
ジャストネットみ→一カ月百円
インホ−シ−ク→300mbのホームページ(6000円)
acrweb→100mbのホームページ
ddiポケットの回線式通信(使っただけ払う)



3月23日 何のための戦争なのか?

今回の戦争は一体何のための戦争なのか?
テロを撲滅するための戦争なのか、アメリカの先制攻撃でテロをなくす為の戦争なのか、でも戦争に勝ってもテロはなくならない、むしろテロの脅威は増加してくる。ではなんのための戦争なのか、独裁政権は世界にとって危険でありこれは撲滅させねばならない、政治は民主的であらねはならない、独裁政権は必ずテロの脅威となり他国の脅威となる。とすると一つのイデオロギ−の戦いなのか、冷戦のときもそうだった。自由と共産主義の戦いだった。その裏側は大国の覇権争いだった。ロ−マがあれだけの広域支配を確立したのは一応法というものを施行したからであり武力だけでは治めることができないのだ。イスラムは政教一致の体制で民主社会とは相容れないから撲滅するべきだ。

ではイスラム社会が民主的社会に比べて劣るのかといえばそうではない、ギャンブル、酒の禁止とかモラルの維持につとめるのは悪くない、むしろ西欧型自由社会の方がモラルの低下がみられる。アメリカは一番殺人などの犯罪が多い国であることがそれを示しているのだ。とにかく日本の戦争もアジアを欧米から解放するための戦争だったとしきり言っている。結局戦争は自国防衛以外正当性が見いだせない。テロ撲滅は武力では力では成すことができないことは確かである。平和の仕事は地味である。植林とか井戸掘るとか教育の普及とか技術指導とかそうした底辺を助ける仕事だから時間がかかり忍耐を要する。戦争のような一時的華々しい結果では解決しない。戦争は憎しみを残す、そしてなんのために戦争するのかということがベトナムで起こった。地獄の黙示録になったのだ。



3月19日 廃れた御堂

鹿島町の右田の方にこんな御堂があった。これはもう誰もお参りしなくなった御堂である。部落でも見捨てた御堂である。文化財としても見捨てられた。なんの謂われかもわからない、その御堂のわきで近くの人が畑仕事をして休み話していたがこの御堂には無関心なのだろう。こんなに荒れるままなのも不思議だ。というのは結構お参りしなくてもまわりのものが掃除くらいしているからだ。これはそういうことも全然ないのだ。ただこれだけの領域をしめて祀ってあったんだからなんらかの意味あるものだった。古いことも確かだろう。文化財として町が保存するほかないのかもしれない、それをするのは部落の人になるのかもしれない、それとも町の教育委員なのだろうか、文化財もでもこうしたものも誰かかが守ろうとしなければ廃れてしまう証拠である。



3月18日 ソフトの不具合はまず再インスト−ル!

馬鹿見た、nttの接続ツ−ルの再インスト−ルで切れるのが直った。ソフトがおかしくなっていたのだ。ソフトの不具合が必ず再インスト−ルであった。前していたのだが今回していなかったのだ。とにかく今回の失敗は線とソフトの再インスト−ルをしなかったことである。webpocketも再インスト−ルした時だけ正常に使えるがあとは使えないからやめるほかない、消えることを心配してやったが使えないのだ。むずかしい設定の前に再インスト−ルだった。これだけはまずやってみることだ。誰でもできるしこれでできないとあとはソフトでも直すことはできないだろう。

電子新聞は便利だ、夕刊フジも面白い。コンビニにあったが一日遅れできている。いかに電子の世界が便利かわかる。時間と距離は関係ないのだ。外国の新聞でも同時間に配達される。瞬間的にパソコン上に来ているのだ。ブロ−ドバンドは世界中を即座につなぐ、ただ2000円は高い、他にも有料のが増えているし映像は有料でないとみられない、なんかそっちの方に金がかかるようだ。コストは配達もしないし紙も使わないんだから安くなるはずである。500円くらいでも数が集まれば商売になる気がする。なぜなら出すコストが人件費くらいで安いからである。今までの何十分の一になる。個人レベルではただと同じである。ホームページき有料化を考えている作家がいたが月500円とるとして百人いれば5万円になるのだ。5万の収入は結構いい。電子本なんかも500円とかでも高い、百円とか二百円で出せるはずである。出すコストが無料に近いのだ。どうもそのへんが納得がいかないのだ。通信費やいろいろなコンテンツに金を払うとなると安くしてもらわないと困るのだ。そんなにあっちもこっちも払いきれなくなるからだ。


3月17日 adslは切れやすい

adslは切れやすい、夜2ちゃんねるに書き込みすると5、6回きれた。
なんの原因かnttに聞いてもわからない、adslは障害がおきやすいこと書いていたが切れやすいことは確かである。時間帯によるのかそれとも2ちゃんねるが混雑してそうなっているのか、原因はわからないし何をきいていいかもわからん、自分の悩みに答えてくれた人もいた。なかなかこんなことないので感謝である。誰だかわからない人間に親切に答える人がいないと思っていたから、というよりはホームページだとその人の宣伝になるから答えている、2ちゃんねるで答えたってなんの得にもならんからだ。


ADSLモデムにいくつかランプがあるでしょ。
たぶん一つは「Link」とか、あるいは「Line」とか
そんな書き方がしてあるはず。
通信が出来なくなった時にそのランプを確認して、
一緒に切れているようであればADSLのリンクが切れてる。
その場合は回線のノイズとか、電話局からの距離の問題である可能性がある
プロバイダに文句をいうよりNTTに電話するべきだね。

そのランプがずっとつきっぱなしで、ただ通信だけがまったく出来なくなる時にはプロバイダとのPPPoE(だかPPPoAだか)のリンクが切れてる可能性がある。
600のネット構成によってはパソコン側でエラーメッセージが表示されるかも知れないし
ルータと呼ばれる装置のランプが消えるように見えるだけかも知れない。
プロバイダのサポートに電話をかけてみるというのも吉。
「ADSLのリンクは切れてないのにPPPが○時○分ころ切れたみたいなんですが」って
言えば本当にそうなのか調べてくれるよ。

いちばんいいのは、近くにいるパソコンやネットワークに詳しい奴に
飯でもおごって調べてもらうことだと思うけどね。


しかしパソコンの世界は聞くこと自体むずかしいのだ。いろいろなものが関係しすぎているからである。丁寧に説明してくれる人としない人がいる。丁寧に説明されて解決したこともある。近くにそんな人などいないしパソコンの問題の解決はめんどうである。
こんなふうに説明してくれたこは初めての体験である。

3月16日 電子新聞

産経の電子新聞は読みやすい。内容はともかく新聞そのままをweb化したのは読みやすい。やはり日本語と漢字は縦書きが読みやすいのか、それ以上に全体を視覚的に見るからではないか、文字でも日本語と漢字は音より絵画的にとらえているのだ。英語はどうしても視覚的にとらえられないからこまる。表音文字なのだ。だから新聞をそのまま電子化したこと自体は成功だった。しかしその内容が問題である。やはりよむべき物があるかどうかその編集方法やweb的手法は貧弱である。広告などそのままだし紙面の無駄使いは同じである。ただ営利的なものだからなんらかの収入は必要だしそれを責めることはできない。新聞は一つの画面を切り取った絵画や庭のように見ていないか、一紙面を一つの世界のようにみている。だから一つの庭に何があるか、何がポイントかを一見して認識する。webは常にクリッククリックでありなんか視覚的にとらえられずどこにさっき読んだのがあったのかとか忘れやすい、記憶に定着しないのだ。一ペ−ジを視覚的に構成していないからである。そういう読み方になれていないし人間の頭脳からして新聞の作り方は視覚的に一見して記憶に定着しやすいのかもしれない、ただ問題は内容なのだ。内容がなくては電子新聞も同じである。とにかく電子新聞となるとむずかしいと考えるがこの世界電子個人新聞も作れる。大新聞社でしかできないこともできるのだ。ブロ−ドバンドになりとにかく急激に情報がまた拡大した。ブロ−ドバンドにならない限りインタ−ネットは使えないことがわかった。


この図のように視覚的に一ペ−ジを見ると記憶に定着しやすい。
おそらく人間の脳と関係している。人間は全体を直感的にとらえるのに
優れている。コュピュタ−は部分の集合として全体をとらえる。
西洋的な思考方法はアトムに部分に分解して全体をとらえる。
東洋的思考方法は全体を直感的にとらえて部分を組み立てる。
この相違が大きいのだ。根本的思考方法が違うからだ。

3月14日 インタ−ネット社会学

インタ−ネットの情報環境は今までのとは余りに違うことは何度も言ってきたしそこから法律の整備や著作権やらの問題がでてきている。実際はそれだけではないのだ。この情報環境のなかで文章の書き方が短文の要約型に変わったり様々な変化があり新しい学問の分野もでてくる。商売も犯罪もでてくるのだ。この世界を理解することのむずかしさはそこにあるのだ。インタ−ネット社会学というのは有力な分野である。というのは本やテレビなど規制の情報環境との大きな違いはマスコミの報道は二次的にマスコミによって加工された編集された何がしかの偏向がある。しかしインタ−ネットの発言は直接個々人の生の発言であり誰かに脚色されたものではないのだ。だから2ちゃんねるの発言が匿名であれ個々人の本音がでているし社会を映す鏡になる。落書きが貴重な古代の資料になっているのはそこに庶民の本音があったからである。落書きだからといって馬鹿にはできない。社会学的にはそうなるのだ。社会とは表と裏が常にあるのだ。表ばかり見ていたら事の真相も歴史もわからない。歴史自体が勝者の歴史というごとく勝者によって都合いいように書かれたもので権力闘争に敗れて怨念を残し死んだ人は数えきれないほどいるからだ。おそらくインタ−ネットで戸惑うの庶民の生の声が直接でているからである。マスコミや本でもそれは限られた人達の声である。
有識者とかマスコミに発言を許され脚色されたものだった。テレビでも「オレが発言したいことがあるから、自由に発言させてくれ」と言ったって発言させてはくれないのだ。だからマスコミによりフィルタ−がかかった発言になったのだ。


3月13日 2ちゃんねる、ハリ−ポッタ−が本屋に在庫の山

 
映画は誘われて両方観た。原作は読んでいない。
文庫本サイズになったら買おうかと思っていたが(しかもブクオフで)
一向に出る気配がなく、ついに読もうという気さえ失せた。
映画の内容はそこらのB級の作品よりも話に奥行きがなくつまらない。
前評判だけで初めのうちはどうにかなっただろうけど、ありふれた
しかも感動も何もないこの作品がずっと売れるはずもなく。
ロード・オブ・ザ・リングも2作目はただドタバタやっているだけで
どこにも見せ場がなくてつまらなかった。
大々的に宣伝している作品が必ずしも名作ではないんだなと最近思う。
何気にビデオ屋でレンタルした作品に、心に残るものがたくさんあったし。



前にベストセラ−というのがあって何百万とか売れたとか
そういう時代は終わりでしょう
情報がインタ−ネットとかで増大した
でもまだマスコミの力は大きくのせられたんだな
何気なくビデオ屋でレンタルした作品が良かった
何気なくインタ−ネットで見たものが良かった
それはおそらくあなたがその価値を見いだしたんでしょう
あなたの目で見たあなたが価値判断して良かった
それがいいものですよ
例え宣伝されない多くの人が注目しなくても
インタ−ネットはそういう時代ではないでしょうか



良書は得てして地味で静かなブームなものである。
ホントの本好きには、ベストセラーかどうかなんて関係ないし。



2ちゃんねるのハリ−ポッタ−が本屋の買い切りで在庫をかかえて困っているという。ハリ−ポッタ−の訳者は原町市の人だった。講演にも呼ばれたし同じ高校の出だったのだ。これは面白かった。というのは本屋の人やいろいろな人、出版に詳しい人も発言していたらしいから。読者でなく本屋がこれにのせられたというのが今までと違う。本屋とはそもそも本の価値など判断できない、売れるものだけを売ればいいのである。その本がどんなものかなど関係ないのである。宗教団体の本も売れるからいいと言っている。買わないものは何言ってもだめだと言っている。本屋は本の価値判断できないのだ。どんな商店でも商品の善し悪しがわかるしいいものを売ることをこころがけている。本屋はただ一方的に出版社の売れそうなものを並べるだけである。雑誌と漫画だけになるというのは本当だし現実に町の本屋はそうなっているのだ。

いづれにしろもう本屋はインタ−ネットやら多チャンネル化や現代の情報革命には対応できないし消える運命にあるのだ。本屋なくなってもまず困るという人はいなくなっているのである。これも自分の怨念からだけではない、本屋は今や本当に魅力がない、町の本屋にはブックオフより本はないし本はもはや置けないのである。本の自体はある意味で終わっているのだ。価値観が余りに多様化したのである。ベストセラ−の時代は終わった。マスコミの宣伝にのせられる時代は終わった。個々人がそれぞれの価値を追求する時代である。それがインタ−ネットの時代である。

2ちゃんねるはバカネタも多いがマスコミが盗作したように巷のネタが多いからそれをネタに記者は文を書ける。2ちゃんねるは個々の関心に対応するものがでている場合がかなりある。テレビの芸能ネタとかスポ−ツネタとかその他多数を相手にしたニュ−スが必ずしもみんなに必要なニュ−スではないのだ。ニュ−スも多様化するのだ。

3月13日on demand about individual interests

インタ−ネットとこれまでのマスコミ中心のメデアの違いはon demand about indivisal interestsになる。つまり個々人の要求に基づいた情報の探索であり価値づけなのだ。今まではマスコミが出版社などがその価値づけをしてそれを公にしていた。しかしインタ−ネットの情報環境は違う。価値づけるするものも情報を求めるものも個々人の要求によるのである。インタ−ネットの検索そのものもがそういう個々人の要求に答えるものとしてあるのであり一方的にマスコミによって与えられるものではない、これが今話題のものだよ、人間だよ、ニュ−スだよ、・・・・マスコミによって与えられるものではないのだ。マスコミの特徴は宣伝のためにも大勢のものに見てもらうことが大事である。視聴率によって価値づけられるのである。その視聴者は少なくても百万人単位なのだ。ところがインタ−ネットは極端な話が視聴者が一人でも成り立たないことはない世界である。ある個々の人によっては必要なものがあるからだ。それが根本的にちがうインタ−ネットの世界である。だからマスコミのように今までの本の世界のように営利的なものになじまないのだ。宣伝するだって数人が見ている宣伝が役に立つとは思えないからだ。ところが文学とか詩などその他学術的なものでもそれは限られた人しか読まなくても必要なものなのだ。そういうものは営利的なものになじまないからこれからインタ−ネットに無料で見られるようすればいいのだ。本屋のように売れる売れないですべての価値を計ることは文化ではできないからだ。そもそもインタ−ネットが少数の学術研究者の間で行われていたことがそれを如実に物語っているのだ。少数者のための情報も常に必要なのである。それはマスコミとか営利的な本屋とかにはおきにくいからもうけにもならないからインタ−ネットにおくのが向いているのだ。


3月12日 adslで快速ネッサ−フィンだ

adslはやはり早い、前からすると10倍くらいの量がみられる。かなり見てないホームページを一日で見た。映像にこっている、俳句をそえたホームページは優れている。70才であれだけこったものをやれるのだ。パソコンには確かにむき不向きがある。ある器用さと順応性が必要である。そして一番必要なのが暇なのだ。なぜ退職した人で70才でもやれるかというと暇があることなのだ。とにかく暇がかかるのだ。自分はニフティの時代からやっている。たまたまワ−プロに通信機能がついていたからでありパソコンは知らなかった。ブライドタッチなどもできないがこの人は10日間で覚えたという。キ−ボ−トに抵抗なく覚える人がいるのだ。自分はそもそもかなり不器用だから機械は苦手である。しかし必要上やらざるをえなかったのだ。5年間やってもパソコンは上達していない。まあとにかくadslにならないとインタ−ネットは自由に使いこなせない、まずいいホームページや情報の検索には量を見ることも大事だからだ。そもそもインタ−ネットには実は案内がないのだ。誰かに色付けされたものは選ばれたものは自分にとっていいかどうかわからないのだ。どこにも紹介されないのでもいいのはあるのだ。

その人の価値観によっていいか悪いかは変わるからだ。インタ−ネットはこれがいいものだとかこれを読めとかマスコミによって与えられるものではないのだ。自分で選ぶものだからめんどうなのである。ある一庶民のホームページでもなるほどと訴えるものがあるのだ。漁師に興味をもったので「漁師 日記」と入れたら宮古の漁師のホームページがでてきたり漁師ってこんなものかと共感したりする。インタ−ネットの情報の世界は今までのマスコミとか上から営利的なもの売るものとして与えられるものと違うことなのだ。個々人がそれぞれの価値を発見するものだからむずかしいのである。おそらくインタ−ネットの世界にどう対処していいかわからないのはこういう個々人がそれぞれを表現する時代がなかったからである。adslの開設はインタ−ネットの世界を10倍に広げる。これは確かである。インタ−ネットは新しい情報世界であり情報学になってしまうのである。


動く俳画の世界
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mtntsks/

3月11日 ブロ−ドバンド開通

ブロ−ドバンドの線は同じ線を使っていた。別な太い線を使うのかと思っていたがモデムとパソコンの間だけだった。これがまちがいてカ−ドのランと接続できなかったのだ。前も線が合わないことができない原因だった。何か簡単なことでもパソコンは自分でやると失敗する。つまらないことが原因になる。むずかしい設定のことばかり考えていたが原因は簡単なこちらのミスだった。なんか線とかも関係してくるので混乱してくるのだ。速さは4mでている。かなり早い方かもしれない、基地局から600メ−トルだからパソコンノ性能とは関係なくできた。スイスイとホームページが見れるようになった。英語の教材をやってみたが面白かった。歌がありゲ−ムがあり子供でもかなり学べるものかもしれない、ただこれもかなり金がかかるものだからインタ−ネットは有料のが多いみたいだ。映像は実際かなり手間暇かかるものだしプロの技が必要になってくるのだ。まだ今日始めたばかりだからわからないがスイスイとペ−ジをはやくめくることができるのでいいものに当たる確率が増えてくる。自分のホームページでもブロ−ドバンド用の動画などを出して実験してみよう。ただ手間がかかるのでどこまでやれるかわからない、ただ映像をとりためたものはあるのだ。


3月5日  ホームページのレンタルサ−バ−

インホ−シ−クの宣伝を出さない有料のホームページが300mbで一年間6000円だという、この世界は安くできるものである。今のレンタルサ−バ−は100で8000円だからこれから比べると高い。サ−ビスも充実している。小さいレンタルサ−バ−も大きい所に吸収されてしまうかもしれない、ただacrwebのはurlが短いのでいい。でもそもそもこのurlが大問題だった。ドメインをとっておけばこんなに変わる必要はなかった。おそらく小さいレンタルサ−バ−はいつ終わりになるかわからんしあてにならない、ドメインさえとっておけばこんな心配する必要なかった。この世界はすぐには理解できないことが多いのだ。adslになるので300mbのインホ−シ−クにも入ってそこで動画をやってみてもいいと思い有料のものに入ることにした。インホ−シ−クでは結構読まれていたみたいであるが最近わからなくなって本サイトと同じようにアップしなかった。両方やるのはめんどうになった。動画関係をやるとなるとあとで役に立つだろう。ただ動画は編集とかそのほかめんどうである。でもadsl時代になったらその方面も開発がせまられる。ただ個人放送局だといっても実際アップしつづけること番組を作ること自体容易でない、adslにしてももう一つ利用価値がないというのは番組がないし番組を作ることは大変だからだ。これからはコンテンツの勝負なのだ。映像になると機械をそろえても手間が大変なのである。

3月5日 イラクの人間の楯の恐怖

イラクに戦争をやめさせる平和運動に行った人達がイラクから一番攻撃の受けやすい場所に移動してくれさもなければ出国してくれと言われたという。平和運動というのがこうした切羽詰まった場面では無力である。当事者では迷惑になってしまう。平和を叫ぶのはいいがそれが命をかけてまでやれるのか、その平和運動は結局、イラクとともに運命をともにすることになる。戦争になったらイラクにつくことになる。そこまで選択できるのかとなると平和運動もお祭り騒ぎだけではやれない、厳しい現実的問題になる。自分も心では平和を願っている。それは単なる感傷的なものにすぎないといえばそれまでであるし平和を言う大方もそうなのかもしれない、外から見ている傍観者にすぎない、だから気楽なのだ。イラクに行ってもそこで平和平和と叫んでもいざここでアメリカと戦い一緒に死んでくれ、アメリカと戦争すべきだとなるとしり込みするしアメリカに反対するフランスやドイツもアメリカと戦争する気はないだろう。第二次世界大戦は現実的にアメリカと戦争となったのだ。

アメリカが戦争することは大義名分もない、そんな戦争はやめるべきだ、いやイラクは独裁政権で大量破壊兵器をもっている、イラクも悪いのだ。こういうどっちつかずではなくアメリカは今回の戦争には大義がないからやめるべきでありそれで戦争するならアメリカと戦うべきだとなる。大義はイラクにありどっちもどっちだということにはならない、二者択一を迫られている。もしイラクにアメリカが戦争となって平和運動に残っていたらそれは本気だとなりイラク国民からは英雄扱いになるかもしれない、ただ世界からはどうみられるのかはわからない、イラクのために死ぬ価値があるのかともなる。いやオレタチはアメリカに抗議するために死んだとなる。そういっても実際はイラクのために死んだとされるにちがいない。ここに現実問題の選択のむずかしさがある。喧嘩して仲裁に入りとばっちりで殺された人もいる。だからへたに仲裁に入るのも馬鹿らしいとなる。でも現実問題として二者択一が迫られてくる。
戦国時代にはそういうことがよくあったのだ。どちらかに打算的でもつくほかなかったのだ。死ぬか生きるかの選択をしなければならなかった。そういうさしせまった場面で真価を問われる。言うはやさし行うは難しである。

3月4日 解約はめんどうだ

プロバイダ−を変えるのはめんどうだ。チキチキネットをやめようとしたがairHを継続してやるためやめることできなかった。looxにはairH inという通信設備がついているこれで使っただけはらうのをやろうとしている。定額5千円でも外で使うのは旅行した時だけだと高すぎる。ただこの無線の通信は将来は必需品になる。外では無線でないとつかいものにならない。電話でつないでいてはできないのだ。かなり遅くなるがホームページに文章くらいはアップできるらしい。映像は重いからちょっとむずかしくなるだろう。ホテルですぐにアップできたのは非常に便利だった。別にその時実況中継を注目していた人はそもそもアクセスがないのだからいたわけではないが何かその場から毎日毎日送信したことは新鮮な経験だった。

これはどこでも通信の世界かと思った。外でもライブでつながっているという世界である。次に解決しなければならないのがadslのためのパソコンである。プリッチがダイヤルアップできなくなったのはパソコンのせいだった。おそらくモデムだろうが直しようがない、他ではできたからだ。もう一つあるwin98のusb接続のランポ−トを用意してadslをやってみよう。ただちょっと性能的にはどうか不安である。新しいパソコン買うと20万はするし迷っている。3月はいろいろ変わり目である。ぷららはadslが不安で入った。やはりサボ−トが不安なのだ。簡単にダイヤルアップできるソフトがぷららではついていた。チキチキネットでは不安になったのだ。adslではなんか問題がおきる予感がする。これを解決したら一段落だ。旅行にも出かけられる。


3月3日 web化するニフティ

裁判ざたになったニフティの現代思想がwebで2ちゃんねる形式の掲示板を作った。でもこれはうまくいかないよ、思想という硬いものに2ちゃんねる形式の掲示板はあわないんだよ、思想はやはり一人の天才が発言している方が読みごたえあるしまた無思想の大衆が発言しても独創性がないからつまらないんだよ、ではそんな天才が発言するかといったらそんな天才いないんだよ、一人いたけどどこにいったかわからなくなった。2ちゃんねるにあっているのはニュ−スの速報の短い解説なんだ、
airHを解約しよとしたら大変なめんどうなもんだったとか経験を書いている人や仙台のラオックスが大幅に縮小するとかこれが自分とじかに今関係したので参考になった。なぜってラオックス明日でも買い物に行こうとしていたし解約もするからである。こうした情報は思想のような硬いものでないから各方面からの情報が集まると便利なんだよ、これが2ちゃんねるに向いているのであり思想や芸術になるとこれは2ちゃんねる形式はあわない、というのはそこに必要なのは独創的個性ある人間でありそういう人は発言しない、人間がいないことにはどうにもならんのよ、だから2ちゃんねるをまねてもだめだ、発言する内容がつまんないからだ。今のところ2ちゃんねるの発言形式をまねているのが増えたが問題は情報がどれだけ集まるからだから2ちゃんねるにはかなわない、でもあの掲示板形式は誰でも作れるようだ。問題は今や発言者がどれだけ集まるかだ。


3月1日 新聞の古紙は貴重になった

新聞の古紙が中国で高く買うようになって貴重になったという。新聞の紙の量はかなりのものであり皮肉なことだが新聞にのる情報より新聞紙の方が貴重になるかもしれない、本にしても本にのる情報より本自体が装丁とか本そのものが貴重な感じがするように新聞も膨大な紙の方が価値がでてくるかもしれない、ロ−マ時代は紙が貴重だったから紙を提供するものが作家より上だった。作家は辛うじて貴重な紙に本にしてもらうだけであり報酬などなかった。実際は紙より情報の方が貴重であるべきなのだが新聞の情報は今やマルチメデアの時代、価値がないのだ。ただ膨大な紙を吐き出す、その紙の方がきちょうになってくるのかもしれない、インタ−ネットは紙は使わない、吐き出さないからくだらない情報でも無駄にはならないのだ。ただ空気のように消えるだけなのである。だから貴重な情報も一瞬にして消えてしまうことがありうる。いづれにしろ新聞の情報より紙の方が貴重であるということはおかしなことである。貴重な紙を吐き出すために新聞があるのかともなる。新聞は無駄だということにもなる。紙ではなくいい情報を求めているからだ。

これからも資源が少なくなる、紙を使う本も返本などで捨てているがそれもおかしい、資源はこれから貴重なのである。インタ−ネットはその点資源の節約になる。それも紙のない世界なのだ。デジタルカメラがでて印刷も多くなると予想したが結局めんどうでありコストがかかるからふえなかった。インタ−ネットにはプロなみのカラ−写真やら素材が山ほどあるがそれも印刷などしない、紙に印刷する手間やコストをかけないのだ。テレビで見ているのを印刷する人はいないなのだ。それと同じようにブロ−ドバンド時代、動画を印刷する人などいないのだ。確かにこれで写真屋困っている。デジタルカメラはプリントしないからである。なんらか金になる方法を考えないとこまるがインタ−ネットはどういうふうに金になるのかわからないのだ。おそらくコピ−権とかなんらか著作権でも金になる方法はあるにしても実験段階になるからすぐに金になることはむずかしいのである。インタ−ネットで金を払うということがなじまない、情報面でも何かまだなじまないのだ。というのもインタ−ネットというメデアが新しいものだから社会がそれに適応していないからだ。


2月26日 パソコンはまだやっかいだ

なんかパソコンがうまくいかない、ダイヤルアップができなくなったことやニフティのwebpocketもソフトをインスト−ルしたときだけできてあとはできない、インスト−ルやりなおしているのも大変である。dvdレコ−ダ−も故障したが電気屋に修理に出したら直った。今までの電気製品はこのようにちゃんとすぐ修理に出せばなおるのだ。ソフトの不具合は直らないし直す方法もないから困る。パソコンというのは直すとなると問題おきると解決方法がない、サポ−トの電話はつながらない、原因はいろいろありますからで終わってしまい自分の責任になってしまうのだ。三月からやるadslは不安である。経験から簡単にできると思えない、ダイヤルアップとかairHは簡単でうまくいった。

airHで困ったことはない、ただ月一万は高すぎる。外で使うことがほとんどないのだからこれをつづけることはできない、とにかくパソコンはやっかいなしろものでありまだ普及するにはハ−ドルが高い。インタ−ネット利用するのもむずかしい。手間がかかりすぎるのだ。だからポ−タルサイトが重要なのである。ある一カ所からアクセスできる方法である。ホームページも読まれないのは分散しすぎるからである。ブックマ−クにしたって百以上くらいにすぐなる。分散しすぎるからどれを重点的にみるかを定めることができないのだ。2ちゃんねるはテレビのニュ−スの補充としてみている。短時間に見る必要があるからいろいろな分野に分散しているとまた時間がかかりわからなくなる。とにかくインタ−ネットは便利なものだが一面不便なのだ。重要ないい発言があっても結局そういうものにいきつくこと自体不可能になっている。ということはインタ−ネットは実際は膨大な情報の宝の持ち腐れになってしまうのだ。


2月24日 レスをつける読書

「学校は廃止すべきである」

2ちゃんねるになぜこの引用文が延々とでていたのかわからないが
これにレスをつけるてみたのだ。だいたいこれは本に出たものだが本を読んである文を引用してそれにレスをつけることはない、そういう習慣もない、パソコン通信では絶えずレスをつけることだった。レスをつけるにはそれなりに独創的でないとだめなのだ。しかし結局2ちゃんねるではそれがないから誰かの引用文をそのまま延々と出していたのである。堺屋太一の文らしい。勝手に出せるはずはないが出ていたのである。

>ここで必要なことは、人間ひとりひとりが確固とした「個」を確立することだ。
>平たくいえば、自分の夢と好みを持ち、満足の基準と楽しみの
>相手を見出すことである。
>そうすれば、他人を嫉んで身もだえることもなければ、
>他人に嫉まれて孤独になることもない。

多様な価値観の時代になった。学校は読み書きソロバンの時代の継続だ
最低の基本だけで学校はいい、中学くらいの学力でも十分基礎学力として通じる。英語だって旅行英語なら中学英語で十分だ

これからは個性の時代だ、自分の個性を見いだし自分の人生を作る、
人生はそれぞれみな違う、大金持ちになることだけが目的ではない、
貧乏と言われてもそれなりに満足している人もいるし、
妬んだりしない人生もあるし人間もいるしそういう人間を作るべきだ。
学校が必要なのは中学時代までのように思える。
そのあとは自分自身の興味と研鑽が必要になるがその情報環境は拡大した。学校は知識という点では非常に狭い、
また横並びの競争の時代でもない、その人独自のものを追求することである。そこにそれぞれの人生の価値が創出される。

なぜ日本人は妬みが多いのか、自分もかなり妬み深いから人のことは言えない、日本人はどうしても狭い国だから村のような狭い世界に生きてきたから横並び、均質化になるのだ。隣がどんな暮らししているか、どんな人間か一番気になるのだ。アメリカや大陸のような広い所ではその辺は鷹揚なのである。異質な外国の文化や人が入ることを止められないから多様であるのが普通なのだ。日本はそうではない、多様な価値観を認めないから不満なのである。月給がオレより高いとか公務員が絶えずやり玉にあげて批判している。他者をいくら責めても満足などえられない、他者を価値の基準にすると必ず不満になる。大金持ちだってあいつが百億の資産があるからオレはつまんないとなってしまうのだ。日本人にはそうした比較して価値を計ることが多すぎるのだ。そこに幸福や満足などありえないのだ。それぞれの幸福とか価値は違っている。ある人はいい絵を描いたとき満足するしいい俳句ができたとき満足するしいい仕事ができたとき金にならないなるは別にして満足する仕事はある。それはみんな違ったものなのだ。
年収とか無能なくせに金を多くもらっているとかこうした不満ばかり言っているがやはり自分にあった仕事をさせてもらえることは幸福なことなのだ。まずそういう仕事をさせてくれる所が少ないからだ。その人の才能を活かしてくれる所は別に給料が安くたってその人にとっては満足なのである。その人は無能な人が金を多くもらっていてもとそんなにとやかくは言わない。芸術家はいい作品を作ることが喜びでありそれに対する報酬はさほど要求しない。それを商売にするものがそれを金に変えておおもうけしようとする。しかしその人に仕事の満足はないのである。金が入っても何か虚しくなる。これはくだらないベストセラ−を出して金になる出版社にもいえるのである。人間をみんな一様に考えることは間違っている。教育は最終的には自分自身を教育することでありそういう環境を整えることである。学校はもはやその一部にすぎないのである。

ともかくネットの世界は双方向でありインタ−ネットになってからは掲示板が無数にあるし誰でもホームページもっているからそこの掲示板だけで議論は終わっていないし別な所でも議論や発言がつづいているのだが読まれないのである。例えはニフティのパソコン通信の時代はそこで発言できないならあとはどこでも発言できなかったのだ。だから極力発言を制限することをしなかったのである。今ではいくらでも発言する場所がある、ただそれが目立って読まれることがまれだということである。2ちゃんねるでもほかの掲示板でも実は自分がこうして書いているように発言の継続、延長があるのだ。自分のホームページならいくらでも制限なく書けるのだ。それがインタ−ネット時代のニフティとの大きな相違である。

掲示板で発言した人のつづきがホームページにあるのだが掲示板でみんな発言してもホームページには来ないのである。本当に自分の主張するのはホームページであり掲示板ではない、掲示板は発言が制約されるからだ。自分のいいたいことのさわりくらいしか言えないのである。しかしホームページは制限なく言えるのである。
まあ、2ちゃんねるはヘッドラインニュ−スとしてさわりだけを読むのに適している。
深いところは別な所で探すほかない、ただベ−スとなるポ−タルサイトが必要なのだそれができていない、それが問題なのだ。


2月23日 習慣の力は大きい

習慣の力は大きい。韓国の地下鉄火災で車掌がマスタ−キ−をいつも出る時はずしていたからあの重大事でもはずして出て行ってドアが開かなくなった。あの緊急事態にも毎日していることをそのままにしていたのだ。つまり人間の習慣の力は大きいのだ。無意識の内にしてしまう力がある。だから緊急事態に人間は弱いのだ。今までにないことが起こり即座に判断しなければならない。それに対応できないのである。例えは用意していても緊急事態だから気が動転して正確な判断ができなくなる。
平和になれきった日本は戦争という緊急事態に対応できない、アメリカに守られてきたのだから余計にそうである。軍備を充実したとしても緊急事態には弱い。どこをつかれるかもわからないからだ。人間がいつまでも古い慣習が残るのも習慣の力なのだ。ルテ−ンの作業をしているものはそれからはずれた仕事はできなくなる。対応できないのだ。人間には多方面な能力などないのだ。ただ習慣の力も勉強や仕事やその他習慣的にたゆまずやっていると能力はアップする。将棋でもそうだし語学なんか特にそうである。日本にいても習慣としてやっていればかなり上達するのだ。人間はなぜ新しいものに対応するのに苦労するかそれは習慣的な力が大きいからだ。今までと同じことに固執して同じことをやっていれば楽だからである。だから革命は青年に向いているのだ。老人は新しいことに対応できないのだ。インターネットやパソコンの世界がそうである。この新しい世界に対応することは容易でないのだ。本を読むというのとは次元の違った世界になっているからだ。人間の行動にはなんらか常に習慣的思考や行動が働いている。だから習慣から抜け出すことがむずかしいのだ。たいがいそうした習慣が外部からの力で変えられるのも内部から習慣を変えることはむずかしいからである。


2月16日 資本主義は「倹約より投資」

NHKBSでインテルのアメリカ人が通信に力を入れると言っていた。
景気を回復させるのは「倹約より投資」と言っていた。新しい需要を起こすためには投資がまず必要なのだ。資本主義とは絶えず世界に投資して開発してゆくことなのだ。だから常に資本が必要だし資本主義なのだ。保険が海外の船の貿易の危険を船が遭難するのに備え作られたのである。これは農耕民族の貯蓄主義とか倹約主義とあわないのだ。資本主義がなぜ生まれたのか、農耕から生まれたものではないことは確かである。海外への冒険や貿易が資本主義の起こりとするとそうなるのだ。社会主義は農耕を農民を中心にしたものだった。これはソビエトでも中国でも失敗したのだ。中国では修正して資本主義を取り入れた。社会主義は明らかに農民を中心にした思想だったのである。

資本主義がいいのかとをかわからないにしても資本主義がキリスト教の精神から生まれたというウエ−バ−の説もユニ−クなものだが確かにそういう面があるのかもしれない。資本主義は日本のような農耕民族の歴史とは相容れないものがあるのだ。日本人が今貯蓄の金があっても投資にまわさないのは農耕民族の「倹約と貯蓄」という長年の歴史に培われたものがその根にあるからだ。資本主義は今あるものを重視する保つというより常に今あるものよりさらに多くのものを新しい世界を目指し進んでゆく精神である。

開拓の精神、絶えざる開発を目指すものなのだ。いづれにしろ資本主義というのがイギリスとかオランダとかドイツといったプロテスタンが資本主義の根になってアメリカに移動して世界が資本主義化された。経済学部の出だが勉強全然しなかったので資本主義についてもわからない、
ただ今支配しているヨ−ロッパの思想は資本主義であり「倹約より投資」であり新しいものを生み出すための絶えざる挑戦、投資が資本主義なのであり「倹約と貯蓄」は農民の思想であることは確かだろう。

現代の情報化世界というのはどうなるかというと例えばテレビを見ているその時、「倹約より貯蓄」という発言があったとするとそれから議論をはじめるといことができるのだ。テレビを見ている人は大勢いる。その見ている人には経済に詳しいとも人もいる。いろんな体験をしている人もいる。そこでいろいろ議論や情報の交換をするのだ。

例えばどうしてスペインがアメリカのイラク攻撃に賛成なのか、フランスやドイツは反対しているのにわからないのだ。つまりこうしたこともテレビを見ながらさらに知識を深めることをインターネットでする必要があるのだ。2ちゃんねるではそういうふうな場を提供はしたのだがいかせんそこに話す人がまだ知識のレベルが低すぎることなのだ。オマエもだろうというばそうである。でもそれぞれ明らかに経験から何かを語ることができるのがインターネットである。個々の体験はむずかしい学問と関係なく他者の目をひくのである。実際に経済活動している人の話なども資本主義が何かなど参考になるのである。


2月16日 webpocketは使える

ニフティのwebpocketがリニュ−アルしたので今度は使える、パソコンでファイルを、フォルダを移動しただけでwebpocketに移動している。これでパックアップは簡単である。怖かったのはパソコンが通信でつながりwebpocketで消したものが自分のパソコンでも一瞬消えるのではないかと怖かった。
パソコンがつながっているからそうなると一瞬思ったのだ。別なパソコンから通信で操作できるとは大きなパソコンとつながることができるのだ。つまり個人の小さなバソコンを大きなパソコンとつないで大きなパソコンのように使えれば小さなパソコンではできないこともできるようちなるのかもしれない。常時接続ではいろんなことができる可能性がでてくる。


2月14日 2ちゃんねるで対馬島民とコンタクト

対馬島民と韓国船に体当たりされた日本の巡視船のことが報告されたことは驚きだった。同時間につながっている、放送できるということと、双方向ということがここで活かされた。世界的にもそうなっているのだが言葉の障害でコミニュケ−ションができないだけなのである。インターネットでは対馬のような異質な空間が新鮮なのである。そこに住んでいるだけで注目される。東京都とかに住んでいても稀少価値がないのだ。もちろんどこにいても報告がうまいければ別だがそこに住んでいるだけでも価値が帯びてくるのはやはり対馬のような特殊な場所が有利である。経済的には大都会が有利なのだがインターネットの情報ではかえってそうした隔絶されたような所が脚光をあびる。インターネットではありふれたものではなく誰も知らないような稀少価値があるものが注目をあびるのだ。

@ライブ放送コミニュケ−ション
A毎日変化する、日々の出来事、時事問題、ジャ−ナルがライブ放送で
 向いている。
B多様なものの検索、個々の経験の検索
Cマルチメディアの表現
D文章の語りとしての表現


インターネットに入ることはとにかくインターネット情報学という今までにない分野に常にかかわらざるをえないのだ。つくづくメデアはメッセ−ジなのである。ラジオ、本、雑誌、週刊誌、新聞、そしてテレビとすべてその発する情報は同じ情報を発するにしても違ってくるのだ。
テレビは司会者というのがものすごい大きな存在になる。司会者は映画とか劇の主役でありそのキャラクタ−に左右される。ミノモンタとかオグラとかあのキャラクタ−が大きな存在となりまるで人気スタ−のようになるのだ。司会者の一挙一動がテレビという画面に映し出されそれが百万の人間が見ているのである。これほど大きな舞台の主役となっているのだ。これがテレビというメディアがあのような現代のスタ−、偶像を作り出したのだ。ラジオのNHKの名司会者がテレビになったら全然テレビでは見映えしなかったので採用されなくなった。ラジオとテレビというメデアは余りにも違うのである。とにかく司会者の独り舞台がニュ−スキャスタ−が大きな存在となるのはメデアのおかげだったのでありそれでないならただ平凡なおっさんにすぎなかったのだ。言っていることが当たり前のことでもつまらなくてもそんなことにテレビでは注意していない、スタ−のように俳優としてふるまうキャラクタ−が大事なのである。大げさな演技もそこで必要になるのだ。
それに比べインターネットというメデアは余りにも未知のものであり今までにないメデアだから取り扱いに困っているのである。インターネットが新しい情報学になっているのもそのためである。だから自分もインターネットの情報学の研究者にもなっているしみんなインターネットの有効活用の研究者になっているのである。   
   


2月12日 トクダネの小倉氏2ちゃんねる批判

トクダネの小倉氏がインターネットで自殺志願者を集めて実際に自殺したことで2ちゃねるを批判、最初わからなかったけどテレビを見ながら同時にそのテレビの実況放送して2ちゃんねるで批判していた。いつでも11時のテレホ−ダイだったからこれがわからなかったけどテレビを見ながらそのテレビについてあれやこれや話題にし話すことができるのがインターネットなのである。

マスコミはこれまで一方的に自分の言いたい放題でありそれについての批判など許されなかった。だから絶大な力も持っていたのである。自由に発言する場は極めて限られていたのである。本の世界もそうだし新聞だってなんだって自由に発言する場などなかったのである。2ちゃんねるもインターネットにも様々な問題がある。しかし一方的にオレらだけが放送局であり代表して発言する権利があるんだということは許されないのだ。

2ちゃんねるにも相当問題がある。差別用語の使い放題だしあれだとニフティだと会員削除になっていた。ニフティの世界は差別に対してものすごく神経質であった。チョンと言っただけでフォ−ラムから会員削除されたり2ちゃんねるでは考えられないほど厳しい規制があったのである。裁判のおきたフォ−ラムでもせいぜい100人くらいがアクセスしていたとか2ちゃんねるとは比べにならない、小規模のものだった。
2ちゃんねるの問題はその読む人の数の多さなのである。だから今や便所の落書きですまなくなっているのだ。公共的な場でさえあるのだ。そういう公園のような場所に公会堂のような場所になっているのに便所の落書き感覚では書き込めなくなっているはずだがそういう自覚が全然ないのである。インターネット言論を統制するのには反対だが便所の落書き感覚の発言を放置することには問題がでている。自殺した人が利用した掲示板のスポンサ−は30万の掲示板を貸していたというから驚きである。一体、どれだけの掲示板があるのか、空恐ろしくなる。そんなもの点検、監視などできないとうのが実情である。ニフティの掲示板は百以内でしかなかった。だから発言されたものは記録されているからあとで調べることもできるのである。

便所の落書きなら他にもいくらでも何百万もの掲示板があるんだから落書きなら今やことかかないのだ。しかし2ちゃんねるはインターネットでは一番大勢の人が見るものになっている。それが問題なのだ。例えば自分のホームページなどこうして書いていたとしても数名もみていなのだからどんなことを書いてもたいした影響ないのである。ところがもし一万とか十万とかの人がその発言を見たらそうはいかなくなる。そのことにみんな注意したら影響が大きいのだ。そして現実2ちゃんねる人を利用する人は若者が多いにしてもなんか事件の真実とか裏とか知りたくて読む人が多い、ある目的をもって入る人が多いのだ。ニュ−スがある。そのニュ−スの真実を知りたい人が多いのである。便所の落書きはたまたま目に入り「なんだこれは、馬鹿なことを書いているな、・・・」くらいでほとんど社会に影響はないのである。

ニフティのフォ−ラムだってほとんど社会には何の影響もない内輪の世界にすぎなかったのである。2ちゃんねるはそれとは違っている。それが発言している人もわからないしインターネットは言いたい放題の無責任でいいんだというままなのである。
「場所をわきまえろ」となるのだが未だにその自覚がない、落書きしたい人は無数にある掲示板でしてくれとなるのだがこの区別がないように思う。それがインターネットなのだというとそれまでだが2ちゃんねるが影響が大きくなったから社会からも責任を問われるようになった。では2ちゃんねるの人が責任持つかといったら誰ももたない、匿名だからである。誰がもたされるかというとヒロユキとかの主催者になってしまうのである。
自分の発言に責任持って発言しますかと言ったって誰も責任などもたない、匿名だからこそ言いたい放題を満喫しているのだ。これはニフティでも議論されたがニフティは匿名としても非常に限られた人達の発言だから大衆の江戸端会議とも違う、学者の趣味の研究のような場所だったのである。2ちゃんねるとはずいぶん違った世界でありだから2ちゃんねるを理解するのも時間がかかったのである。


2月11日  三年目のホームページ

通信の世界は変わりやすいので困る。ニフティのメ−ルが14日間しか保存できなくなるとか変更が必要になった。今までは一カ月間だった。でも海外旅行に行った時一カ月以上いたからその分は消えてしまったのか、いづれにしろadslで今度はぷららに入ろう。というのは地方ではプロバイダ−は少ないからぷららは一番大きいから便利だ。ニフティのパソコン通信はやめた。会員でないと読めないが別に今は重要な情報があるわけではない、インターネットの情報はパソコン通信の時代とは考えられない爆発的に増加した。

ぷららに入るとメ−ルのアドレスが変わるかもしれん、名前とかが使えるメ−ルである。長いアドレスはだめだ。ホームページもそうである。
暗記できるものでないとだめだ。春はやはりいろいろ変わる。adslがやはり一番の問題だ。ホームページ作りは発表するものはあるのだがこれも疲れてきた。ここ三年間になるが夢中でホームページ作りに没頭した。これは実際は手間暇かかるものだった。それで今になって多少疲れがでた。ホームページは更新しつづけることがむずかしいのだ。自分のは対話的でない一方的なものだったのでここにきて疲れた。何か手応えが感じられない、反応はほとんどなかった。ただホームページがどういうものかわかった。「今日の一句一歌」のように日記のように時事問題のようにその時々の刻々変化するものをライブで放送する。これがホームページに一番向いていた。ジャ−ナルとは日誌のことでありジャ−ナリストとは日誌を書く人になる。今のジャ−ナリストの意味とは違い本来はその人の日誌だったのである。

おそらく外国のホームページでも日々身辺のことを例えば庭にどんな花が咲いているとか報告している人があると思うが日本のようにわかりにくい、どこにあるのかもわからないのだ。英語であれば外国の日々発信する情報も面白いに違いないのだ。とにかくアクセスをふやすためにインホ−シ−クにも同じようにアップしたがこれも疲れてつづかない、50mbにもなったし容量も一杯になっている。アクセス数は前より減っているみたいだ。もともとないのに減っているのだからどうしようもない。他人のホームページを読みつづけることもむずかしい。ただ検索するときだけそれと関連するものを読むだけでいいホームページがあってもなかなかつづけて読めない、これがホームページの問題なのだ。ホームページを継続することがむずかしいのは更新しつづけることのむずかしさとその意味がわからなくなるためかもしれない、対話的あれば多少意味があるものに感じられるが一方的なホームページではそこに限度がある。でもそもそホームページがなんであるかを理解するのにも三年間くらいかかったのである。作品の発表の場でもあるがホームページがその人それぞれの日誌だということを知ったのは「今日の一句一歌」を初めてこれをつづけたからであった。これが一番ホームページにあっていたことを自ら発信して理解した。


2月10日 パソコンが作るア−ト
パソコンは絵を描くソフトで遊んでいると一つの作品ができていることがある。ただいろいろと遊びいじりまわしているとできてしまうことがある。
道具が芸術を生むのである。次の絵もそうだった。廃屋のイメ−ジが
遊んでいるうちに生まれた。ただソフトを使いこなすことはむずかしい。
今度知ったファイルを整理する「紙」というのは使えるみたいだ。
とにかくソフトは極力買わない方がいい、つかいないのが多いのだ。
これが無料だというのは驚きである。カレンダ−作るために5000円のソフトを買ったことがあった。
あれも今はみんなただになっている。ソフトは2000円くらいのでないと困る
高くても使えないのが多いからだ。ソフトは5000円でも高価だし一万となると大変高価なものになるのだ。丸損することがあるからだ。


廃屋のイメ−ジ

2月7日 ●世界大変動が始まった 日高義樹


仙台に行って本を買った

●世界大変動が始まった 日高義樹

核の呪い

この本の要旨はアメリカがいかにテロを深刻に受けとめたかである。
テロとの戦いを一部のアルカイダの組織だけと考えてないことである。
その背後にイラクやイランやサウジアラビアそして北朝鮮がいてその背後には中国がいると認識していてこれらと最終的には戦わねばならぬという宣戦布告だった。

アメリカが一番恐れているのは何か「核」なのだ。核攻撃なのだ。核がテロ組織に回りアメリカが攻撃されることなのだ。そのためには先制攻撃も辞さないのである。アメリカはハイテク武装して自信もっているからそれをやれると思っている。もはや他国との同盟は必要ない、アメリカに従わないものはテロ側につくものと判断される。つまりアメリカの宣戦布告により第3次世界大戦が始まったのだ。戦国時代へまたもや突入したのだ。アメリカに従わないものは攻撃されかねない、どっちつかずの状態は許されない戦国時代である。だから北朝鮮と国交回復し北朝鮮をこの時期援助しようとした小泉首相にアメリカは怒っている。アメリカの決意のほどが日本では平和ボケでわからなくなっているのだ。

ただここで言えることはいかにアメリカが核を恐れているかである。つまりアメリカは核に呪われているのだ。これも当然である。核を最初に使用したのはアメリカでありこの呪いは消えることはない、やはり因果応報はあるのだ。核武装していくら安全を図ってもそこに安心はない、おそらくイラクをたたき世界を支配しても安全はない、いつ核攻撃を受けるかわからない、核を使用したアメリカに核の呪いは消えないのである。核を持ったからといって核を持つ国を破壊したからといって核の恐怖をとりさることができないのである。これがアメリカの呪いであり因果応報であった。「剣をもつものは剣で滅びる」とキリストが言ったけど「核を持つものは核で滅びる」というのはやはり真実である。剣も核も平和をもたらさないのである。


2月3日 NHKBS11の幻冬舎の株式上場のこと

幻冬舎の社長がでてきていいたい事をNHKで言った。本は売れる本がいい本なのだかと大衆の価値観に基づくものがいいのだとか・・・・
いかに出版そのものがいい本というのは売れる本でしかないのだ。それはどういう本でも風俗本でもいいということになる。
はっきり言ってあんな出版社から出す時流的な本は買うべきではない、
最近のベストセラ−がでているがあんなのを買うべきではない、
出版−取り次ぎ−書店これらは今や文化を作り出す使命感も何もなくなっているのだ。すべての価値観は大衆に受けるもの、売れるものになるからである。いづれにしろ本の時代とマスコミはこれから急速に変わらざるをえない、こんな田舎でもadslが普及したことは言論や表現、コミニュケ−ションの世界が変わるからだ。
NHKのおかしな点は幻冬舎を話題として出すのはいい、一方で幻冬舎と検索を入れたらそれを批判している自費出版社があった。
玄文社だった。この出版社の社長も呼んでその批判者の意見も出すべきなのだ。マスコミがnhkすら一方的かたよった報道をしているのだ。
「江藤淳は、脳梗塞の病苦によって自殺したのであり、断じて愛する奥様に殉じたのではない」
つまり美談化されて本にされ売り出されたと言っているのだ。本というものを信用するが売るためにはマスコミ報道と同じように作られるのである。出版の世界や本の世界は知や情報の独占であったがこれからはインターネットで変わってくる。
今やテレビを見ながら常時接続でそのテレビを2ちゃんねるなどで批判できる時代なのだ。一方的に報道するマスコミの姿勢は改めるべきである。マスコミだけが報道の特権を持つ時代は終わりつつあるのだ。
いづれにしろ本の時代はどうあがいても終わりになる。どうしても出版関係に対する怨念は消えないのだ。これは私的なものではなく公憤でもあるのだ。出版で泣かされてきた真面目な人は多いからだ。出版は構造的独占の世界なのである。
報道としてどういうべきかというと「社長の意見もわかりますが批判者として玄文社の社長の言い分もあるようですが・・・・・」詳しくはこちらのホームページを見てくださいとか報道自体変わらざるをえないのだ。しかしマスコミでホームページを問題することは少ない、自分達のお株を奪われたくないから黙殺するのである。そんな世界はないとしたいのだ。石原慎太郎がそうであった。インターネットは幻想だといいたいのである。しかしnhkだろうが大出版社だろうが大新聞社だろうが直接もの言える時代になったことを自覚すべきである。

玄文社

http://www1.odn.ne.jp/~cal67130/jihi


2月3日 不吉な予兆

今回のスペ−スシャトルの事故にはどうしてもイラクへの攻撃と結びつけてしまう。関係ないと言ってもどうしても結びつける。それが理屈ではいえない人間の感情なのだ。科学という世界と人間のやることは神でないから見通しが常にきかないのだ。何が起こるかわからない、どんなに入念に準備しても点検しても人間は万能でないから事故は起きるし不測の事態が起きる。チェスや将棋はコンピュタ−化されるだろうが人間はコンピュタ−では予測できないのだ。そこに常に科学の落とし穴があるのだ。科学は万能なんだ、科学で地球も支配できる、科学が未来を開くんだというが科学には常に恐ろしい面があった。道具の発明にはいい面と悪い面が常に存在した。軍事目的に科学が使われたことなのだ。火を盗んだプロメテウスの罰は恐ろしく厳しいものだった。人類も科学でもって全能の神の力を手に入れようとした。しかしそれは無惨にも打ち砕かれる。科学の力で世界を支配できるとアメリカは自信をもっている。しかしその科学の力の象徴が落下した、それもブッシュの膝元にだ。
これはやはり不吉な予兆だ。神の意志がアラ−の意志が働いたのか、アメリカの一方的イラク侵攻はやはり神が止めようとしている。どうしても世界はすべて連関しているからアメリカに対する警告の事件と映る。


2月1日  かたよっている2ちゃんねる

インターネットに何が欠けているのか、2ちゃんねるでわかったことは世代がかたよっていて情報がかたよるのである。団塊の世代がいつも批判されていること、会話が若者だけの会話になっていることである。
では何が必要なのか、中高年の2ちゃんねるも必要なのである。おそらく技術的にやれる人がいないのとインターネットをやっている人が少ないのでできないのだ。

中高年の問題を中高年同士で情報交換していることが少ない、女性も参加していないから若者だけの会話に終始している。インターネットに参加している層に中高年が少なすぎるのだ。一割もいないだろう。世論を形成するにもかたよるのである。だから中高年の人が発言すると戦前の人などの発言している人がいるといいこと言っているなとなる。つまり経験から言っているからである。かえって2ちゃんねるのなかでは中高年の発言は新鮮なものになるのだ。

ただ中高年の世論の形成の場ではなくて若者の世論の形成の場になっているから2ちゃんねるはかたよるのである。あらゆる年代層、女性も参加できるような場があるとそれぞれの人かどういう考えなのかわかるのだ。例えば自転車の話題では自転車が自動車からみるとあんなに自転車を危ないとか目障りにしているとは思わなかった。あんなに自転車って自動車から危なっかしいものに見えるとは思わなかったのだ。自転車に対して文句ばかり言っているのだ。

こっちは自動車に乗らないから自転車の利用を促進して自動車を減らし規制すべきだと思っている。これでわかるように立場が違うと考えも違ってくるのである。そういう違いをインターネットで知る場が総合掲示板なのだ。これは他にあるのかもしれないが分散しすぎているし2ちゃんねるように情報が集まる場所がないのだ。無数のホームページを探せばあると言っても百万のホームページからなど探しえない、検索でも限られたものしか読めないのだ。こういう点でもインターネットの利用はずいぶん不十分な世界なのだ。こんな小さな町でもadslができるようになったがその応用はまだまだである。


1月28日 ADSLができる!

isdnさえできなかったのに3月からadslができるようになった。
これも新しい性能のいいパソコンにしないとだめらしいからなんか
めんどうなんだxpになれるのもまた時間かかるしいろいろ設置するのも
金かかるしめんどうなんだ。
でも今のairHが便利でも月一万は高すぎるからadslに変更する他ない
いろいろこの世界変わりすぎるので疲れる。
まあ基地局ができて600メ−トルというからなんとかできるだろう
nttも普及させている、光ファイバ−が最終だと思うけど
意外と早く普及するかもしれん、そしてまた変えるようになるから
困る、新しいプロバイダ−にも入らなきゃならないし
まだairHだって半年しかやっていないけど変わる他ないみたいだ。
adslってどうもうまくいかないとか不安なんだけどやるほかない


1月28日 アメリカのイラク攻撃の疑問

今回のアメリカのイラク攻撃が正当性があるのか、どう考えても無理がある。どうしてアメリカはイラクを攻撃したいのか、軍需産業からの要求、NHKで放送した新興宗教の「福音主義」の団体、これがかなり大きな勢力となっている。キリスト教団体といっても日本でもそうだがキリストの教えを実行するものではない、会員を増やし政治勢力と化してこの世の勢力となることなのだ。ニュ−ヨ−クのテロは本当に悲惨なものだった。しかしアメリカが行ったことは復讐心であり報復である。そのためにアフガニスタンではアルカイダと関係のない人が3000人も死んだ。もしアメリカ人全部がキリストを信じるものならそんなことしない。3000人という犠牲はたえがたいものである。でももし復讐の戦争もしなかったらその犠牲はもの凄い尊いものになった。こんなことはしてならないとういことを全世界に示しえたのだ。結局その逆のことをアメリカは行ったのだ。

10年前はクエ−トに侵攻したということで何らかの正当性があったから多国籍軍が編成された。今回はそうした正当性が感じられない。自国の一方的強権の実行である。力だけで相手をねじふせることはできない、ただ正当性があるとしたらイラクとか北朝鮮に自由をもたらすということはありうる。しかしその犠牲は余りにも多いし自由はその国民自身が犠牲の上に勝ち取るものでありそうであればこそ尊い、他国から与えられたとしたらそうはならない、日本が植民地解放のために戦ったというのも一方的こじつけとしか思えないのもそのためである。実際もしそうだったとしたらなぜ何百万人も日本人が死んだのに墓すら現地に作られずほとんど感謝もされていないのだ。むしろ経済的援助の方が問題があるにしろ感謝しているのである。

仏教であれイスラム教であれキリスト教であれ団体的に集団的に国家的に行った時はそれは権力化したものであり本来の宗教とは関係ないのだ。宗教は集団的に実行されたりしないのだ。集団的になるとき権力的になり力で相手を屈伏させることなのだ。宗教と権力はたいがい無縁である。宗教が集団化したとき「オレ達の数をみろ、これだけの数がいるんだそ、これは誰も無視できんぞ」その数の多さによって支配しようとする。上野霄里氏が言っているように集団化した宗教は本来の宗教とは別なものになっているのだ。福音主義というテレビ伝導もとにかく頭数をそろえる、数をふやすためにテレビ伝導が効果的なのである。こういうものに後押しされて戦争するアメリカはおかしいのだ。はっきりいってアメリカはこれまでどれだけ他国の人間を殺してきたのか、3000人死んでもあきらめるべきだった。アルカイダの言うことにも一理あったのだ。核のこといろいろ言っているがそもそも人類最初に核を用いたのはアメリカでありそれに対して全然反省もないのだ。日本人がアメリカにただ追従するだけなのはおかしい。それより世界から批判されテロの脅威にもさらされることになる。


1月26日 一億総ジャ−ナリストの心構え

インターネットによって生まれた問題は様々ある。商品に対する悪口、一方的批判が多いことである。これは自分もしていたから他者にとやかく言われないが反省している。

●片山右京のマウテンバイク

18キロで普通のマウテンバイクより重いので遠出には向かない
ただし山道での悪路には強い、軸がずれたと思ったがネジをしめて
直った。4万円だからそれなりのものである。しかし自転車が重いということは大きな難点であることを知った。その点今度買ったクロスバイクは軽いから二倍の速さだった。乗りやすさを考えるなら軽い方がいい。

●阿蘇の博物館

ここの博物館が見るべき所がなく800円で高いといったのは映像のみが見せるものでそれもかなり古いものだしその他何か自分にとって見るべきものがなかった。他の火山に興味がある人は見るものを発見するかもしれないが自分は科学的なものに興味が薄いのであの映像だけで800円というのは高いと思った。

●熊本の市立博物館

これは300円で中になにか軽飛行機のようなものを飾ってあるだけで
他に特別見るべきものがなかった。300円だからそんなものかとあきらめがついた。

こんなふうに否定的に書く時は詳しくその経過など書かないとまずい。これだけでいい悪いを書くのは短すぎるしよくみてないことになる。科学者がみたらいいものがあったと指摘するかもしれないからだ。素人は簡単に自分の狭い視野で判断してしまうから困る場合があるのだ。
それからマスコミでは製品の悪口を書かないのは逆に問題だった。一方インターネットは悪口言い放題ということが問題なのだ。マスコミとインターネットは両極端だったのだ。マスコミでの商品の宣伝ではいいことしか言わないからその商品の使い勝手についてはわからない面があって宣伝で買わされた人が多かった。テレビの宣伝の力は大きいのだ。小泉首相でも田中真紀子でもテレビの宣伝の力で人気を集めたのであり政治家としての実力ではなかったのだ。ファシズムも宣伝の力でなりえる。宣伝力を持つものが政治でも経済でも支配できるという怖さがある。品物の場合は使ってこれはだめだとなることがあるが宣伝だけで決めることは危険である。いづれにしろ万人がジャ−ナリストになる時代、発言には注意するべきである。こういう自発的モラルがないとインターネットは規制され自由な発言もできなくなるから他の人も注意してもらいたいのだ。それで2ちゃんねるには問題が余りにも多すぎることなのだ。自由は必要だが責任がともなうということである。会社の人にしても勝手に悪口ばかり書かれたらほっとはおけないからだ。人物でも批評するのはいいが責任を持って批評する必要がある。批判する人よ、あなたも批判の対象であることを注意せよ!


1月26日 インターネット総合ヘッドラインニュ−スが必要



島根県職員労働組合(大崎康弘委員長、組合員約5200人)は24日朝、県庁と 県の出先機関で29分から1時間のストライキを実施した
 職員の賃金カットを盛り込んだ県の財政再建策を提示した澄田信義知事との 交渉が23日夜に決裂した。財政悪化に伴う賃金カットを焦点に、02年度には 新潟県や高知県などでも県職員がストをしている。



日本生命の役員調べてみたが、法学部だらけだ。
宇野社長、昭和34年東大法学部卒。副会長、小林寛二、昭和33年京大法学部卒。専務、石橋、昭和41年京大法学部卒。今井宏邦、昭和41年一橋大法学部卒。田口、昭和43年東大法学部卒、。中山安博、九州大法卒。魚崎昭和43年、神戸大法卒。まだまだ、いっぱいいる、
監査,河村貢は,弁護士。今井敬,昭和27年東大法学卒。勝田和行,昭和44年京大法卒法学部出身者で固めている、つまり日本生命と司法は,裏でつながっている。道理で司法が,必死になって2ちゃんねるをつぶそうとしている

普通のマスコミは,@情報源→A編集長,プロデューサー→B国民と流れるのでAを告訴で脅しておけば,情報をとめられるが,2ちゃんねるの場合情報源→国民なので,管理人をつぶそうと必死になっているのだ


2ちゃんねるの読み方はヘッドラインニュ−スとして読む、今や全部のニュ−スを知ることはできない、全国の地方紙だけでも大変な数ある。しかしそれらは地方でしか発行されていない。ところがインターネットでは地方紙もヘッドラインくらいは読める。そのヘッドラインを読むだけでも大変であるから全国の地方紙のヘッドラインを作ることが必要なのだ。それができないから2ちゃんねるでそれとにたことを自発的にやっている。しかしあれは全国地方版のヘッドラインではない、そこでも重要なものは見落とされている。島根の公務員のストがあったということを知るだけでああ公務員も賃金カットされ厳しい時代になったと実感する。ともかくインターネットは情報が一つに集約されるのだから全国の地方版のニュ−スをさらにまとめるニュ−スが必要になっている。そういう新聞社も報道会社もインターネットにはないのだ。報道関係にしろ何にしろインターネットの有効利用がうまくいっていないのである。
2ちゃんねるもその有効利用の一つの見本であってあれがすべてではないのだ。まずくだらないゲスネタやエロネタは別にして全国地方版のヘッドラインニュ−スとそれからヒロユキ裁判欠席に関してでてきた重要情報をピックアップするのである。法学部があれだけいるということはとても法律的にはし素人はたちうちできないことがわかった。それでも生命保険会社、保険金詐欺で金をとられていた。法律は万全ではない、自分の身内のものも交通事故で死んだがなんかちょっとしたことを言いがかりにして300万円くらい減らされたがどうにもならなかった。
いづれにしろインターネットの世界は裁判沙汰になりやすい要素が多い。その裏返しとして今までの情報環境はマスコミ中心に規制されて国民はその中に入ることができなかったのだ。情報源→国民となっているのはそのためである。


1月22日 電脳コミュニティ(2)
 
電脳コミュニティの問題は何か、例えば学生が今度論文書くんだけど・・・について教えてもらいませんかなどととにかくいたるところに質問が多いことなのだ。軽く答えられるのと答えられないのがあるし一体誰だかわからない何ももらえないものに金銭的なものだけではない、要するに精神的にも得るものがないものに答えるだろうか。お前が金払って教えてもらっている先生に聞けとか本でも読めとなる。もう一つホームページを探して調べろとなる。ホームページをもっている人は自分のホームページをみてもらうことが励みになるから公開している。答える人があるかもしれないが同じ学生の生半可な知識だったりする。つまり専門的知識もっている人が真面目に熱心に答える人はいない。答える方にしたら何のメリットもないのだ。相手が誰だかもわからないし礼くらい言われても答えた人はうれしくもないのだ。やたら質問したって誰も答えてくれないのが当然なのだ。質問し疑問を持つことはいいことである。しかし解答は自分で探す他ないし肝心なことは誰も答えてくれない、がすべてのものに解答はある。その解答得ることは自ら危険を犯したり苦労した体験しかえられない。そういう人生のむずかしい問題は誰も答えてくれない、参考にはできるが答えることができない、自分で答えを出すほかないのだ。

誰かわからないという電脳コミュニティの問題は無責任になることなのだ。質問することも容易だが誰も責任もって答えるということは少ない。プロの人は書かないのはそれなりの矜持があり誰だかわからないメリットもないものに答えたりしない。ただ相手から得るものがあるとき答えることはありえる。自分に対していいレスをしたりするとまた書き込むのである。匿名でもこれは互いに得るものがあるからそうなるのである。ただいいレスがないとそれで会話は終わるのだ。つまり人間の社会どこでもgive and takeなのだ。電脳コミュニティからどれだけのものを情報にしろその他学問的なものにしろ得られるかはわからない、プロのものは本に多いとしたら本を買って読む他ないしすべてを電脳コミュニティで得られることはない、一方的に教えられるものとのコミニュケ−ションはまた別なものである。

そもそも学校に行くこと自体そこでは先生に金を払い先生はそれなりの社会的地位を得ているから学生に教えているのにただで教えられると思うことは虫のいいことなのだ。それは情報にしてもそうである。貴重な情報がただで提供できないのはそれにはコストがかかっているからである。ただインターネットの中ではいろんな先生が生まれる可能性がある。みんなが先生になる可能性があるのだ。みんな教え合うということがありうる。私には何も教えるものがないという人でも教えることがありうる。それぞれの体験はみな違っているから私はこんな体験してこんな苦労したとかは他の人の参考になるのだ。学校というBODY(機関、組織、建物)がなくてもインターネット上で教え合うということは成り立つのだ。現実自分も他者の経験から教えられて書いていることは確かである。それは若者の体験でもそうである。インターネットは情報の共有化ということから始まった草の根運動だった。地方のBBSというのがそれだった。

「マスメディアの特徴を一言で表現すると「情報や知識を産業主義的な文脈の中で商品化することに成功した企業」である。そのビジネスを裏付けているのが情報や知識の集中と独占であり、著作権という、本来表現者個人が守るべき権利を利用した自らの権益強化である。(インターネットが変える世界、(古瀬、広瀬)」

著作権を声高に言っているのはむしろ規制のメディアの方である。この本には規制のメディアでは情報を所有し出さない方がいいのだと指摘している。情報にもいろいろあるがロ−マ時代に紙が高くて紙を提供した人の方が著作権をもち作家はその紙を利用してのせてもらうだけで満足したとにているのだ。今でも本の場合はそうなっているのだ。

でもやはりプロと言われる人から普通ただで教えてもらうことはできない、インターネットにもプロに金やその他プロにふさわしい待遇をしないと教えないと思う。もちろんインターネットはそのプロというものを否定して素人でやれるんだということがあるがそこには限界がある。インターネットでもそうしたシステムができればいいのだがこれは模索中だしまだまだその未来は見えない、インターネットそのものが余りにも規制のものと違いすぎるからである。

1月21日 電脳コミュニティ(1)

電脳コミュニティとは何かというとこんなものは存在しないともなる。
今までのコミュニティはなんらか拘束されるコミュニティである。
bodyというのが組織とか機関の意味があるごとく何らかの組織とか機関の一部になることである。確かにいろいろなコミュニティがある。学校も地域とか学問のコミュニティである。宗教団体も暴力団も会社も俳句結社も・・・コミュニティである。これらのコミュニティの特徴は強弱はあってもなんらか拘束されるコミュニティなのだ。また拘束されないコミュニティなど現実社会にはないのだ。拘束されてそのコミュニティに入ればいろいろ助け合いであれ相互扶助の中に入ることになる。ただこれを嫌う本当の自由を目指す人がいる。上野霄里氏などがそうであったがでは彼自体がそうであっても彼と弟子の関係を持つことは完全に拘束されることだった。彼にすべてを捧げる団体に入ることになる。一般に宗教団体は北朝鮮のように将軍様の命令に完全に従うことを要求される。自分の意志など存在させられないのだ。コミュニティと名がつけばたいがいなんらかの拘束を受けるのだ。自由でありたいというのは人間の本性でもあるが一方人間はコミュニティなしでは生活できないのだ。仙人になれというが実際は不可能である。上野霄里氏がそれに近いといえたが現実は上野霄里氏という派閥を作らざるをえないし彼の下に捧げる人がいないと出版すらできなかったのだ。コミュニティに入ることはどんな小さなものでも暴走族や小さな仲間でも拘束される。フリ−タ−でさえ一応簡単にやめることができるが会社で働く以上拘束されているのだ。

では電脳コミュニティは拘束されない、そこに入る人は発言する人は匿名だし自由に出入りできるとすると全く拘束されない、拘束されないということは無責任だともなる。現実のコミュニティではなんらかの責任を課せられるし何かをすることを求められそれを断ることはできない、
そのコミュニティ全体の意志に従わざるをえないのだ。だから利益も享受できるのだ。電脳コミュニティの特徴は何か、それは個人の発言の自由が確保されていることではないか、今まで発言していたのは純粋な個人ではない、組織のバックがあって発言していたのだ。マスコミや出版社などの組織がバックにあって発言できたのだ。しかしその読む人が数人でもそうした組織のバックなしで発言できることが違う。思想の自由とか表現の自由とかは電脳社会では確保されている。ただその発言もまずコミュニティそのものが存在しないのだから拘束力をもたないしその発言が社会に何らかの影響力をもつのかというと疑問な面がある。いづれにしろ社会ではどんなことしたって人は拘束されたコミュニティに入ることになるのだ。人間はどんなに自由を求めても完全な自由など存在しないのだ。まず人間が二人で行動するときすでに束縛されることになる。では一人で生活が成り立つかというと成り立たない、電脳コミュニティでは思想的自由とか表現の自由とかそういうものは電脳コミュニティに存在する。電脳コミュニティに求めるものは拘束された現実の社会から解放されたいという面がありそこで発言の自由が尊重されたのである。

1月21日 ホームページ作成の意味

ホームページは何のために作るのか、これは他人に読ませる前に自分のために自己確認のために書いているとしかいいようがない、おそらく誰も読まないとしても今まで日記を書いていた人はいたしそれが多数だったのだ。日記を出版してくれるのは大作家とか特別な人だけである。ホームページは読まれなければ意味がないというのも言えるがその前に自己確認するために書いている。書くということは他人に読ませることなのだが自分にも読ませるのである。自分が思いもかけないことが書くなかで書けることを体験した。書くということは文章にするこは自己を客観化する働きがあったのだ。自分は確かに詩とか文章を書いてきたがこんなに文章を書いたことはない、こんなに書けるとも思っていなかった。書くという場がなかったのである。本を作ることはまずホームページで書くのとは全然違う。日々思いついたことを書くのとは違うからそもそも本を仕上げること自体大事業になってしまうのだ。しかしホームページ毎日短文を書くのだから気楽に書けるのだ。だから毎日書くようになった「日々のメモ」とか「今日の一句一歌」は書く場を与えられて啓発されてできたものである。ホームページをもった人はみんなこういう経験をしている。

ホームページとは他者ではなくまず自分にとって有益なものなのだ。まず自分のために書いているのである。例えば人生の意味について自分が書いたときそれは自分にとっての意味でありその確認のために書いたのだ。他人の人生の意味は境遇も違うし人生体験も違うからわからないのだ。「私にとってこのことは意味あることだった」とその人が自分で自分を確認する文があったらそうかそういうこともあるのかと他者である自分も確認するがその前にその本人自身が確認することが先なのである。そして人間の特性として人間は忘れるということである。旅に出ても忘れることが実に多い忘れることは何かというと旅について何も残せないから他者にその旅の成果を示しえないということにもなる。ホームページは記録するということにも意味があるのだ。今は読まれなくてもまた自分にしてもどんなことを書いていたかふりかえることで自分のためになるのだ。ホームページは他者のためにではなくまず自分のために書くことである。
今は読まれなくても書く量が増えてそれなりのものができてくれば読む人もでてくる。まず量は少なすぎることなのだ。一冊分の本の量を出している所はまれである。情報量が少なすぎることと更新がないことなのだ。そのために何回もみにゆくホームページが極端に少ないのだ。まあ内容あるものを量を書くことのせることは大変だということもあるしそれはプロの仕事だともなる。

1月20日 2ちゃんねるの世界(1)

2ちゃんねるで一分間に10の発言とか日本人妻問題であった。一分間隔で短いが発言がある。たちまち1000になった。あれを理解するにはずっと見ている必要がある。ずっと見ていて初めて流れを理解し発言できる。この分単位の発言を読み参加することは疲れる。特に夜が多いから真夜中まで見ていないとついていけない、2ちゃんねるチャットの延長したものでもあった。ニフティでは一日一回とかの発言だったのだ。だから長い発言になることもあるがパソコン通信では長いものは嫌われる。2ちゃんねるはもっと短い発言しかできない、チャットの延長だから疲れる。しかし1000の発言があってあそこで発言した人が何人いるかとなると確実に100人はいる。200人はいるかもしれない、読んでいる方はこのスレッドだけでどのくらいいるのか、これは管理人が計算している。おそらく一スレッドに人気の所はわからないが一万単位で読んでいるかもしれん、読む人の方が多いからだ。すると一万人が「デルコンピュタ−は壊れやすい」とかを読んだら影響する。2ちゃんねるは大通りに掲げられた看板なのだ。雑誌が10万部売ったとか視聴率がいくらだとか考えると2ちゃんねるで読んでいる人はテレビにはかなわないが一スレッドで人気の所は一万くらい読んでいるかもしれない、これはかなりの数ではないか、数名しか読まれていないホームページとは極端な差があるのだ。

この世界を理解するにはやはり自分で少しでもいいから発言してわかってきた。将棋もそうだが参加しないとインターネットの世界はわからない、2時頃まで起きて読み発言するのに疲れた。将棋も疲れたがインターネットは頭使うから疲れるのだ。2ちゃんねるはインターネットの常時接続が作り出した一つの情報交流の場であった。これがこれからどうなるかわからないが一つの交流の場を形成したということで一応参加しておくべきだろう。インターネットは必ず情報学という新しい分野に参加することになる。それは今までにない学問の分野でもあり世界なのだ。これは他にも応用できる世界である。つまりインターネットは同時につながっているということが今までにないことなのだ。同時に全国の人が参加する番組が作れるのである。広げれば世界同時参加の番組にもなるのだ。


1月19日 2ちゃんねるは都会の大通り

どう考えても2ちゃんねるは都会の大通り
そこに「デルコンピュタ−は壊れやすい
そこに「ソ−テックは安物だから安全性に問題
こんな看板がでていたら、ええそうなのか
オレは一回パソコン壊して大変な目にあった
やはり安いのはだめだ、NEC、富士通にしておこうとなる
一方路地裏の誰も通らないような所に
「デルコンピュタ−は壊れやすい」とか
張り紙とか落書きがあっても影響ないのだ
「誰かの悪いいたずらだな」
こんなふうにしかみられない、例えばホームページなども
いいものがあっても裏通りにある店だから注目されない
ただこんな裏通りにこんな店があったのか、
見たこともないものが売られているな、不思議だとなる
明らかにいいホームページでも目立たない場合があるのだ
多くのホームページはそんものであり影響はない
都会の大通りの看板に書かれていると同じ効果が
2ちゃんねるにはあるかもしれない
インターネットの中だからそれが見えにくいのだ
もちろんマスコミとか社会的見える場所では
そういう広告は違反であり禁止なのである
本屋なども大通りといわなくても表通りになるから制約される
簡単に会社の悪口や個人の不満をのせたものはおかない
今の世の中宣伝によって買わされることがある
片山右京の折り畳み式マウテンバイクを通販で買ったが
あれは普通のマウテンバイクより重いし
軸がづれたようになり使いなくなった。
あれも宣伝で買った人はかなりいるように思う
この品物自体4万だから悪いとはいえない
そこそこのものであり値段にみあっている。
それから電気の耳掻きは何の役にも立たなかった
自分は耳にヤニがでる軽い病気だったが
あれはねばったヤニまでとることはできない、
ちゃちな子供だましのおもちゃだった
とにかく宣伝というのは洗脳と同じなのだ
その品物の善し悪しはどうでもいい
宣伝による何度もテレビで放映していると
それがいつのまにか洗脳されてその商品が頭に浮かんでくるのだ
その商品がどんなものかよりその商品を大衆にイメ−ジ化する洗脳する
それがコマ−シャルの役目なのだ
宣伝とファシズムはにている。ファシズムも一方的な宣伝だからだ
毎日毎日偉大な将軍様などとそれしか放映しなかったら
中味は関係なくそうなってしまうのだ。


1月18日 読ませるレス文化(応答)

パソコンが生み出した文化に文章でのレスの応答がある。文章で会話する語るというのは今までにないから新しい文化なのである。人間の会話は非常に高度な知的営みであることがわかった。なぜなら将棋というゲ−ムは実際はそれほど高度な知的なもではない、なぜならゲ−ムはコンピュタ−化できるからだ。人間の会話の方がずっと高度な知的なものである。これは人工頭脳でコンピュタ−と会話できるなどと実験していたがこれは不可能である。会話もレスも相手がコンピュタ−のような個性もない人間だと面白くない。なぜもうひとつ2ちゃんねるでも他でも知的な会話ができないかというと個性ある人間がいないためである。今やどこでも発言するより読む方、ROMが多いのである。2ちゃんねるだって百万単位で入るとしたら読んでいる人の方が多くなるのだ。今や読まれるものが必要になっている。百万の人間がもはや発言することは不可能である。インターネットではどこでも発言できるからその人たちは個人的な掲示板でいくらでも話せばいいのである。でもそこは極々内輪のものであり読む人は極めて少なくなる。2ちゃんねるのような所は読まれものを提供しないと読む人はこれは読むにたえないと離れてゆくかもしれない、

これはニフティでも論争されたことである。2ちゃんねるはニフティの規模ではない、読む人の数が膨大だということである。そこで卑猥な雑談ばかりだったらまともな人はアクセスしなくなってゆく。そういうことは他でいくらでもできるからやってくれとなる。今はごちゃまぜになっているが読者を確保するためにはそうなってゆく。つまりインターネットの世界は日々拡大化し社会化しているのだ。この世界に有能な人が入り会話すれば非常に面白いものとなる。それは読んでいるだけで面白いのだ。歴史の部などで発言してもそこにまだ語れる人が少ないから素人の雑談になってしまう。プロの人も会話しているがインターネットでやるとその迫力や訴える力は全然違う。リアルタイムでの深い論争になるし漫才ではないが知的遊技としての会話もてきるのである。

会話することは文学的会話的センスが必要になってくる。英語なんかは外人のチャットを盗み聞きしていると英語の勉強になるが参加を要求されるのでむずかしい。しかし掲示板を会話を一つの番組として読むものとして提供する場が必要になっているのだ。将棋は6段とかの人の見ている人が500人いたようにやはりそれぞれのプロと言われる人のインターネットでの会話は番組となるが無料では出演しないだろうしまたレス文化になじまない人もプロに多いからそれが少ないのだ。ただインターネットの世界はニフティとは規模がとてつもなく違う、そこでは読むもの、他にも映像の番組が要求される時代になっている。つまらないことはいくらでも発言できるが読まれるものが少ないとなると面白くないともなる。馬鹿話を聞くために時間潰しはみんなができないのである。

1月17日 森田氏のホームページ

森田氏は政治評論家としてテレビによくでてくる。わからないのは民主党を出た熊谷氏をもちあげていることである。熊谷氏は創価に謝ったということで2ちゃんねるで批判している。森田氏はホームページで創価は批判している。小泉首相も批判している。亀井静香を押している。
ホームページに書いてあったのだ。これもわかりにくいのだ。改革派と守旧派がいるが彼は守旧派を押していることになる。最近なぜちゃんねるやらその他インターネットで有名人やマスコミの批判が多いのかというとマスコミが言論を独占していたからである。それの反動なのである。こうした有名人も必ずやり玉にあげられる。凄まじいほどに批判の洪水となっている。自分もその一人ではある。マスコミや有名人はそれだけ責任のある存在なのである。影響力が大きいからだ。それは批判されてもやむをえない面がある。なぜ熊谷氏を押すのかどうしてもわかりにくい、裏で何かつながりがあるのか、金もらっているのかとかかんぐりたくなる。別に森田氏に憎悪も何ももっていないのだがそういうことをメ−ルでも聞いたら答える必要があるのかもしれない、立場上そうなのだ。つまり有名人でもインターネットでは対等になりそういうことを要求される。双方向だからそうなる。公人はホームページで自分の立場を根拠を明らかにして一般の人にも答える必要がでてきているのかもしれない、マスコミを通してではなくインターネットを通して一般の人に対してその真意を伝える義務がでているのかもしれない、それが双方向、対等化するインターネットなのかもしれない。


大きな枠がマスコミ、小さな枠が個人

つまりこの図のようにマスコミという中で存在を示していた個人が大衆と個々と向き合わざるをえなくなった。マスコミという大きな殻のなかで存在したものが個として大衆に向き合わざるをえなくなったともいえる。これも水平化である。個といっても実はマスコミという巨大な殻のなかで存在したのであり個として独立して存在していなかった。マスコミ、マスメディアという殻なくして個の存在はありえなかったのだ。
ただ2ちゃんねるに象徴される不気味さは芥川の蜘蛛の糸ににているのだ。
「オレにも言わせろ」「オレにも言わせろ」「オレにも言わせろ」「・・・・・・・」
無数の大衆が一本の蜘蛛の糸にぶら下がり地獄の底からはいあがってくる。なんかそれとにているから不気味な面がある。それでも蜘蛛の糸はインターネットは一本ではない、無数にあるのだ。発言する場はいくらでもある。それが違うのだが2ちゃんねるのように注目されないのである。2ちゃんねるはやはりインターネットが生んだ化け物という側面があるから規制せざるをえなくなる。

1月16日 IT革命と都市

本出すということはとんでもない大変なことである。個人の手に負うものではない、ところがパソコン−インターネットととなると個人でもやれるという世界だから熱心になるのだ。出版とか書店とかマスコミとの関係は受信であり受け身の関係、与えられるだけの関係だがITの世界は自分でも個人でもできる世界だから熱心になる。必然的にパソコンというハ−ドの世界、それにかかわるソフトの世界、情報操作の世界とこれらは一体化してかかわることになるのだ。インターネットの世界も広いからそれらともかかわる。2ちゃんねるなど便所の落書きだからかかわらない方がいいともなるがこれもインターネットの一つの大きな世界としてかかわらざるえないのだ。この世界に入ることは必然的にそれをさけることはできない、パソコンなんかどうでもいいとか2チャンネルなんかかかわらなくてもいいとかにはならない、パソコンのハ−ド、ソフト、インターネットの交流、情報学とかに必然的にかかわるのだ。

本の世界が印刷会社、出版社、流通取り次ぎ会社、書店とかかわるようにit革命とはこれらをすべて一人でやることになるのだ。本にしたってこれは本の装丁があり挿絵があり編集がありとこれらも一人でやっているだ。まさに情報革命なのだ。規制の本を中心とした情報分野とit分野は共同する面もあるがそれに代わってしまうから革命なのだ。その過渡期だからいろいろ問題が起きるのだ。「都市の魅力学」という本がセブンエレブンで受け取った。都市とは新しいこと産業であり商業であり新しいことが起こることだという。それには自由な心が必要だと・・・田舎は因習とか土地に呪縛されているが都市は人間を自由にするというのは本当だろう。都市には都市の良さがあることはいえる。


この本のなかで女工哀史があるがこの女性たちも産業が発達して街にでてくることができるようになった。街に出れなかったら悲惨の貧窮した農民として話題にもならず一生終わったという。それもまた別な視点であった。
今後進国でタイでもカンボジアでもどこでも少女売春が問題にされるが
売春の需要が街にありそこで街に出てこられたのはそれなりに幸福だった、山村にいても貧窮の農民として終わっただろうと言うのとにている。これは先進国の後進国への買春を奨励している、正当化している論理にもなる。現実そういうことを言う親父たちがいたのだ。しかしそれは罪でありその罪は逃れがたく残るのだ。とにかく都市の魅力は新しいものが作れなくなったことなのか、東京がデズニ−ランドでも作ったことで集客力を発揮したことでわかるように新しいことを作るエネルギ−が
都市を魅力あるものにするというのは確かなのかもしれない、一次産業は変わらないが工業、商業は絶えざる変化でありイノベ−ションなのである。それが田舎と都会の違いとなるがitは別に土地に拘束されることないから田舎も都会も通信環境が整いば関係ない革命なのである。


1月14日 個人の権利が主張できない日本

この世には必ずいい面と悪い面がある。国にしてもそうなのだ。アメリカは訴訟社会だという。

親子で互いに訴えあう。家の前の歩道で通行人が転べば、その家の人が訴えられる。マクドナルドで熱いコーヒーをこぼした客が「コーヒーが熱すぎるから火傷をした」と訴える。すると裁判所の陪審は「それはマクドナルドが悪い」と、家の一軒や二軒買えるぐらいの金額の賠償を命じる。もっともそのかなりの部分は弁護士の懐に入ってしまうようですが。

しかし日本ではこの逆なのだ。一体どうして一個人がこんな大きな会社を訴えることができるのか?日本では個人の権利はないのではないか?これも外から見れば異常に見えるがそういうことができる社会は個人の権利を重んじているのだ。日本でもインターネットで東芝を訴えた時は一人で大会社に勝ったとか話題になったが日本ではそんなことめったにない、できないのである。大方の弱いものは個人は不満を言う所もなく泣き寝入りしているのだ。そもそも訴えるのに弁護士を頼むなどということはほとんどない国だからだ。自分の経験でも一旦きれいな上野のカプセルホテルだったが登山帰りで汚かったのは確かだが一旦部屋に入れたら汚いからといって泊められないから出て行ってくれというのはおかしい。
それなら最初にここは汚い人は泊めないと断ればいいのだ。それはそれで自由である。しかし一旦泊めたらあとから出て行けというのはおかしい。旅館にしてもどこでも値段が書いていないし泊まればどこの部屋に通されるのも旅館側の勝手にされて文句もいえない、最初にやはり部屋を見せてそれで料金その他納得して泊めさせる。泊めたら部屋を変えさせたりするべきでない、外国ではそうしている。泊める時契約して泊まるということがいのだ。泊まる時点で承諾したら契約が成立したのだからそれには従う。

そういう契約の観念がないのが日本社会なのだ。外国では領収書はとっておけという。あとで証拠になるからである。いづれにしろ日本ではまず個人がそんな大会社相手に訴えること自体ありえないのだ。訴えるときたいがい団体の力を借りている。患者で医療ミスしたらほとんど泣き寝入りであり訴える場所もない。たいがい大きな会社の方が力が強いからだ。インターネットは問題があるがそうした個々のアメリカのよにう訴えることもできない不満の捌け口になっているのだ。アメリカでは個人がこんなことで訴えることができること自体、個人の権利を重んじている社会であり日本とは全然違う。日本では争いたくない、争いを表沙汰にしたくない、それで個人や弱いものは泣き寝入りしているのだ。長いものにはまかれろとかになるのだ。訴訟が極端化しているのは確かだか日本はその逆だということも見る必要がある。日本では個人、組織や団体に属していないものの言い分は聞いてもらいないし誰も相手にしないのだ。だからしかたなくてインターネットで文句言っているのである。「和を重んじる」とは大きいものに従いとか長いものに巻かれろという為政者側の論理だったのだ。弱いものは
大きいものに従い、そうすれば和がありうるということなのだ。


1月14日 2ちゃんねるはつぶれる


2ちゃんねるの問題は読む人が多いことなのだ。百万単位で読まれている掲示板などインターネットにない、あそこで書いた一言がかなり影響するかもしれない、デルのパソコンは壊れやすいと一言書いてあっただけでそうかな、一回壊れているから怖いなと思ってしまう。それが根拠がないにしろそう思ってしまうことの怖さである。肯定的な発言もあるからいいではないかというがどうしても否定的な発言のインパクトが強いのである。訴訟問題が起きているのも当然である。ニフティの掲示板の比ではない、裁判ざたになった問題にしろニフティでは2ちゃんねるのような無法地帯ではなかった。管理する人もちゃんといたのである。一カ所だけ例外だったのだ。会社では神経をとがらせ巡回しチェックしている。その費用が膨大になっているとか、それなりにかなり気をつかっているのか、2ちゃんねるの問題は読む人の多さなのである。数名しかこないようなホームページはほとんど影響力ないから何を書いても問題が起きるとは思えない。テレビなどでは会社のイメ−ジを悪くする発言をすると抗議がくる、すると仕事がそっちの対応に追われ大変になる。それでイメ−ジを悪くする発言は極力控えるようになる。それもテレビ側からすると当然の対応となる。

とにかく無責任にデルは・・・・だと一言書き込んだことが読む人が多いということで影響力が大きすぎるのだ。便所の落書きではないように思う。一万人単位で読んでいたとしてもそれが落書きであってもそれは影響する。そんなもの誰が書いたかわからないから無視しろといっても2ちゃんねるはパソコンに詳しい人が多いと思っているし現実そうなのだ。とするとそこの発言を参考にするようになる。デルは前にも買うかと思っていたが壊れるということが一回経験しているのでosがだめだとかなんとか書いてあると不安になり買いたくなくなったのである。やっぱり富士通かNECだとなるのだ。2ちゃんねるはつぶれるというのは影響力が大きくなったためでありすでに私的空間ではない、公的空間であることは確かである。自分のような数名しかこないホームページは私的空間である。他のホームページも私的空間であり公共的空間までは行っていなような気がする。そこが2ちゃんねると他のホームページとの違いである。


1月13日 バソコン選び

デルでパソコン買うかと思ったがやめた。2ちゃんねるで壊れやすいとか書いてあった。安全性に問題あるのか。ソニ−のバイオもなんかだめのようなことを・・・・安全性からすると富士通とNECなのか、初心者には向いている。安全性を考えるなら内蔵ハ−ドディスクが必要だ。これは一体型だととりつけにくい。映像関係やるには今のバソコンでは無理になっている。富士通のプリッチという一体型パソコンは使えた。画面は小さいが拡大鏡で大きくなった。これの不安はいつか壊れるかもしれないという不安である。それで今度ニフティのWEBPOCKETがリニュ-アルする。フォルタごと移転できる、記録させることができるらしい。今までは一ファイルづつだったから使い物にならなかった。今度は記録する、バックアップも簡単にできるよにうなる。パソコンの恐怖は一瞬にして記録したものが消えることなのだ。ともかく2ちゃんねるはパソコン選びにはかなり参考になるし影響力がある。デルのバソコンは壊れやすいと一言書いただけで買わない人もでてくるし読んでいる人が多いから影響力が大きいのだ。ただ否定的に書く人、悪口が多すぎるのがインターネットである。企業でもインターネット対策しないとまずい。特に2ちゃんねるは影響力が思ったより影響力が大きい。雑誌とか宣伝で買うより2ちゃんねるを参考にする人が多いかもしれないからだ。

1月12日 映像の整理

ホームページの映像を直す必要がある。縮小することで苦労していたが縮小専用のソフトがあった。カレンダ-式の俳句日記でもなんかめんどうなことをしていた。こういうことはよくある。一手の省略がパソコンを使いやすくする。それがわからないとめんどうなことをつづけることになる。映像の加工はかなり技術が必要だしこれは直接習った方がいいのだ。自己流ではわからないことがあるのだ。ほとんど自分の場合自己流でやったからめんどうなものになった。20巻くらい旅行でとった映像がありこれを整理してホームページにだしたいと思っている。ただ映像はめんどうである。スライドショ−にしても10枚くらい連続したものとして一つの作品として作ることになるからめんどうである。ただパソコンは絵の才能がなくてもビジュアルに表現できるツ−ルだから映像と文のセットで出すと効果がある。今後はスライドショ−に力を入れてやってみよう。いづれにしろもっとみやすくリニュ−アルする必要がある。


1月9日 検索「旅の俳句」

検索のどこから来ているのかたどったらヤホ−の「旅の俳句」という言葉からだった。160くらいだから少ない。ここから25パ−セントきている。ヤホ−のカテゴリ−に登録されればかなりアクセスが増えるのは確かだ。10倍くらいになるというのは本当だろう。googleからではなくヤホ−からきていたのだ。
検索のボイントはキ−ワ−ドにあるのだ。なかなかそのキ−ワ−ドがわからないのだ。自分自身「旅の俳句」と入れて検索したことがない。例えば俳句とは誰でも入れるのである。そのあとの言葉が問題なのだ。
俳句と入れてでてくるのはもう決まっているしみんなわかっている。それ以外どうしてしるのかはロボット検索でのキ−ワ−ドによって決まる。これがむずかしいのである。
この「旅の俳句」で最初にでてきたのが「人いつか私の奥の細道」  でありそれなりに面白かったが一回だけ読んで終わる量である。たいがい一回読むくらいの量しかだしていない。自動車で16日間の奥の細道の旅をたどったものである。この人も俳句結社などに入っていない、インターネットにはそういう人が多いのかも、普通なら自分でもそうだが発表する場すら与えられなかったのだ。もちろん書店にさえおけない、というのは書店は出版社を通じてしかおかないし、団体に入らない人のものは置かない、結社で権威を持った人のは出版社でも出し書店に置けるシステムになっているのだ。書店に置くということは何らかの団体や世間で権威と認められたものしかおかない、だから書店に置けるのはほんの一部になる。いつでも同じ権威の人の本が目立つのはそのためである。それでも本屋におかれることは目立つから宣伝効果が大きいのである。そこからはずされた人がインターネットで書いているのだ。

この人の一句だけが印象に残った。

浅野川老女涼めり橋の上 (永安洋)

浅野川は情緒ある川である。金沢というと歴史もありその橋の上に涼んでいる老女、それは浮世絵の一場面のようである。金沢などは歴史的情緒をかもしだす所なのだ。だから老女というのも一つの古い街にとりこまれて絵となっているのである。犀川でなく浅野川はまた別な情緒があって合っていたのである。

インターネットで他人の句を引用したり批評することはむずかしい面がある。相手がはっきりしない面とか勝手にインターネット上で批評していいのかとか著作権の問題もある。だから今のところ自分は他者の句をインターネット上の句などはあまりとりあげていない、なぜなら著作者の了解が必要かもしれないからだ。肯定的な批評なら害にはならないから多少はいいのかもしれない。インターネットは広いのだがどうしても一つの本の中にある感じになり一つの場のなかでコピ−もしやすいので批評しやすい場になっていることも確かなのである。

これは検索で「旅の俳句」で一番最初にでてきます。


1月8日 仙台に行く

仙台に行ってきた。いつものようにパソコンと本屋にいただけである。本屋の効用は今や立ち読みにあるのではないか、買った本は「路面電車」だった。本屋で知りたいのは時流がどうなっているのかだろう。円高になるというのと円安になるのというと二つの見方がある。イラクとの戦争で経済が良くなるという人とどん底になるというこれまた二つの見方がある。ただアメリカの経済が停滞してアメリカが衰退してゆくという見方は共通している。イラクとの戦争はそうしたアメリカの経済的理由による。アメリカは定期的に戦争しないと国が保てない国なのだ。いづれにしろ二つの見方があるからどうなるのか判断しにくい。欧米が衰退しアジアが興隆するのは時代の流れである。日本はアジアに徐々にシフトせざるをえないのだ。

たまたま「仙台 魅力なし」と検索したら「都市の魅力学」という本がでてきた。この本の目次をみるとだいたいのことがわかった。これを仙台のジュンク堂であるかどうか聞いたらなかった。間違って「都市の環境学」と言ってしまった。それでノ−トパソコンで通信して調べ直した。この本はセブンエレブンですぐ手に入る。ここで注文する必要はないのだ。ノ−トパソコンはやはり持ち歩くと便利なのだ。仕事にも役に立つ。いつでも通信できることも必要である。

本屋の問題は何なのか、書店は情報空間であり一冊一冊の本を売るより店全体を情報空間とした方がいい。出版社と書店は一体であり個々の出版社も書店を窓口にして本を売る。それらは競争関係ではなく協力関係にあり本という文化を興隆させる共同体だったのである。だから本にかかわるものは書店を共同の情報空間にする必要がある。個々の本を売るというのではなく多種多様な情報を提供する場となる。本をメディアとする一つの共同体を作ることにある。自分はそういう世界からは排除されたものだから加わらないが本だけを売る書店はなくなるように思う。
書店で立ち読みする、これで買いばいいのだが買ってもらわないと何にもならない、だから書店に入るのに300円でも500円でも入場料をとるのである。そして図書館のように自由に読ませる。そんな工夫が必要なのだ。本は高いから何冊も買いないし本は一冊だけではたりないから今の時代本は余計買わないのだ。bookoffは本が高いから回し読みするシステムなのだ。本でもbookoffのよにう500円ならすぐに買うのである。

それから1000円で髪のカットをするところがあったのも便利だ。
理髪店も高い。時代とともに商売も変わる。情報に関してはインターネットの影響は大きい。これからもさらに大きくなってくる。本だけでは書店は維持できなくなる。書店はなくなり何らかの情報空間になるのだろう。


1月7日 魅力ない日本の都市

日本の都市は魅力がない、仙台も魅力がない、前は1ケ月に二三回行っていた。本を買うためだった。本を買わないとするとその他魅力がない
、東北の都市は福島市でも郡山でもつまらない、会津が多少歴史的に個性がある。東北の都市は個性がない、これは日本の都市全般にいえるのかもしれない、萩は一番いい町だった。松江もよかった。萩は塀の町であり松江は舟で水路をめぐれる。熊本も古い樹が多く市電もありよかった。確かにどこの市でも何回も行ったらつまらなくなる。それにしても仙台は何かもうひとつ大きな都市の割りには魅力がない、仙台文学館というのがインターネットにでていた。仙台も文学に関してそれほど魅力ある都市ではない、宮城野など全然面影がない、「都市の魅力学」という本で仙台などは移転都市とあり伝統的なものが歴史がいかされていない、施設にしても文化的環境も貧弱である。音楽会などが唯一楽しめるものだろう。これは予約しないのでここからはむずかしい。実際仙台に半年も行っていないというのも驚きである。どこかに気晴らしに行こうとしているのだがそれが見つからない、主な所には行ったしもう一回行きたい所がみつからない、むしろ近くでも自転車で行くと発見がある。

1月6日 インターネットで変わるもの

俳句の傾向として国際性、海外旅行が盛んになり海外で作った俳句が多くなっている。これの評価はまだむずかしい。というのはあまりにも風土や歴史がちがいすぎるから俳句でそこを表現できたかどうかむずかしいからだ。外国人も俳句を作っているがこれも言語の障害などでむずかしい。ただインターネットで「俳句日記」という新しい表現のジャンルが生まれたことは間違いない。インターネットで生まれた新しいジャンルなのだ。私の今日の一句一歌がそれだった。他の人も書いている。それからチャットで俳句のやりとりと写真に俳句を添えるとかインターネットでやりやすい、俳句を通してインターネットをみるとやはりそこに新しいものが生まれている。これは他にもインターネットで試されているものがある。インターネットで文学も変わらざるをえない、他の分野、経済でも様々な変化が強いられる。ただなかなかその変化がみえてこないのだ。なぜかというと情報分野は物の流通とか物通して現れるもではないからだ。自動車であれは自動車といういかに便利かわかるしそれが社会を一変させてしまった。情報分野はその点そうした目に見えるものとして現れない面があるからわかりにくいのだ。

いづれにしろ今年の自分の課題はもう少しHPを読まれる工夫をせねばならぬ。HPはどこか目立つ所に置かれるか掲示板などで広報活動しないとよまれない、あるのさえわからない。一見どこにも通じているようだが通じていないなのだ。しかし簡単にリンクで相互に連関させることができるのがインターネットである。2ちゃんねるがいやでもゆくのがそこがインターネットの全体的掲示板連絡板のようになっているからだろう。他のポ−タルサイトは管理されている感じがあるからだ。インターネットには総合掲示板のようなのが必要なのだ。確かにボ−タルサイト、ヤホ−などがそうなのだが2ちゃんねるのような自由性はない、ヤホ−という会社が経営しているからだろう。総合掲示板というときやはり2ちゃんねるだけではない何か他にも必要である。それは若者だけにかたよらないものや本当に本音で社会を議論するような所である。一部は明らかに有料化が必要なのだ。それがどういうものになるのか見えないから困るが資金的にもインターネットではそんなに金は設備にはかからない、プロを養うには金がかかることは確かである。そもそもインターネットが始まったのはこ数年なのだから何かの解答を得ること自体むずかしいのだ。



1月1日 インターネットから生まれた「俳句日記」の興隆

新しいメディアが生まれ新しい文学形態が生まれた。それが俳句日記だった。「俳句回廊」といhpは読みごたえがある。俳句には俳句を説明する文と一体となってできあがるものであることがわかる。毎日書いて発表することはインターネットでしかできない、でも人の日記を毎日読んでいる人はいない、一週間分とか一カ月分とかは読むかもしれないが毎日は読めないのだ。毎日一句でも出して書くことは創作する方にとって刺激となる。私の今日の一句一歌はインターネットで花開いたのだ。メディアの力によるのだ。雑誌など今までのメディアではできないことである。インターネットは他の分野でもいろいろ利用価値がある。それはみんな模索中なのだ。インターネットの記者、記事の有料化は必須である。ただそれをどうを具体化するかはわかりにくい、つまり今までにないメディアだからそれにふさわしいものができるのだ。インターネットの裾野は拡大しているからそういう要求が今後も高まってくる。アンダ−グランド的なものだけではないインターネットのプロの養成が必要である。しかしこれは全く資金であれシステムであれすべて道もなにもない、蓄積もない所からはじめるものだからとまどうしみえてこないのだ。その大きな鍵をにぎっているのは規制のメディアの人であるがこれもインターネットには参入したくない、自分たちの古いやり方で権益を守りたいということがありインターネットには消極的だとするとやはり新しい若い人たちが作っていくほかないのかもしれない。



1月1日 インターネットは一部有料化が必要

インターネットには一部明らかに有料化が必要である。プロはどこの世界でもいる。職業自体プロフェショナルというごとくインターネットにも情報にたずさわるプロが必要なのだ。それには金を払わなければ育てることができないしそれなりのものを提供されない。インターネットがプロ−ドバンドになっても個人で提供するのは限界がある。情報の世界はジャ−ナリズムでも出版でもプロの人が多くかかわって作ってきたのである。インターネットにはそれらの人がいかされていない、週刊誌でも無料だから宣伝のために一ペ−ジくらいしかのっていない、他にもそういう既存のメディアがプロの活躍の場だからインターネットには政界の裏事情とか何かフロでしか取材できないものはのっていない、インターネットの発展に一部有料化が必要なのだ。週刊誌にしたって300円払うし新聞だって百円はらう、本だって高い、いい情報が入ればインターネットでも一カ月1000円くらいまでは払う。本一冊1000円するしそれくらいでいい情報が提供されるなら払うのだ。
2ちゃんねるで一部有料化して役立てるべきだという年配の人の提案は
そういう要求が高まっているためでもある。2ちゃんねるには確かに雑多な今までにない情報はあるがあれだけでは実生活には役立てられないのだ。2ちゃんねる的なものは必要でもあれだけでは社会の機能として
あまりにも不十分でありいつまでもアンダ−グランドの世界になって市民権を得ることはできないのだ。インターネットもプロ−ドバンドがもっと普及すれば余計にもっといい確かな社会に役立てるものはないかという要求がおこってくる。しかしそれには有料化は必須である。