時事問題の深層上野霄里氏の部

小林勇一



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引用のル-ル
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/2534/quotation.html

著作者の許諾なしで引用できる・・・しかし引用が従であり主文が引用を補強するものとある。

著作者の許可なしで引用できる。しかしそれはかなり限定されている。このリンクのように私の文は引用に注意している。ただ引用だけ長くすることはできない、それは著作者の許可が必要なのだ。上野霄里氏の著作関係は非常に引用がむずかしいことがこれでもわかる。



「単細胞的思考」を電子本で復刻

原生人間理解の困難

文明人の二面性(上野霄里氏から見た文明人)

偉大なる個々の死を・・・・(上野霄里氏の文明批判の要点)

労働にすべて価値があるものなのか?2005-6-9
(ニ-ト、フリ-タ-がふえたのはなぜ?)


コインの表と裏は一つ(ヘンリミラ-と上野霄里氏の出会い)2005-11-18日

神秘化する原生人間の行跡(上野霄里氏の伝説化)2005-12-5

原生の磐の顔-孤高なる美(詩一編加える)2007-3-18

文明組織人間と全人間の対立(上野霄里氏-原生人間の蘇生)2007-5-6

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荒野に原生の磐の顔
孤高なる美
文明を離れた島の時間(ゴ-ギャンの絵をモチ-フにして)
裸の楽園の島?NHKトビウオ海道を往く~赤道直下から日本5000キロ2008-12-

原生の森の鷲  2008-1-11

大いなる山-現代の一者、覚者の声2008-12-28

硫黄島 からの手紙 栗林中将の短歌から (上野霄里氏の鎮魂歌を読む) ..


インタ-ネットに出た詩の不思議(天狼星(シリウス星)は上野霄里氏のイメ-ジと合致?)

地球環境史観や原生人間史観と老荘思想は共通している(原生環境の大地の回復)2009-2-4

原生環境大地の回復(詩)

岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる-秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩2009-2-17


大いなる山-現代の一者、覚者の声

原生圏の時(詩)2010-2-27

原生圏の森の人



「単細胞的思考」を電子本でも復刻

遂にここも35度になった。クーラーのある部屋からでれない。上野霄里氏が出した「単細胞的思考」が電子本で明窓出版社から買える。あれだけの電子化するのは大変だった。でも長編でも電子化できるのだ。ミラーでもそうだがどうしても彼を語ると天才と常人の違いを意識せざるをえない、意力とか情熱とか並外れた人間は天才は必ず存在した。天才は努力しなくても天才なのだ。サマセットモームの「月と六ペンス」という小説を若いときに読んだ。あれは天才画家のゴーギャンをモデルにしたものである。その天才によって自分の妻を奪われ蟻のように踏みにじられる常識人、凡人を対照的に書いたものである。常人と違う意力とか情熱、体力を生まれつき持った人間である。芸術家には確かに多い。
だから彼と対等につきあえるのはそうしたピカソとかゲーテとかずば抜けた天才だけである。あとは「月と六ペンス」になってしまう。彼の前に立ったら6ペンスの価値になってしまうのだ。天才はだからキリストとさえ同格とさえ思うようになる。自分自身が神のようなものだとなってしまうのだ。栄光はすべて自分自身にあるとなってしまうのだ。

彼らは高き所を設けて神を怒らせ、刻んだ像をもって神の妬みをを起こした(詩篇78-56)

普通の人が天才に近づくと偶像崇拝になる。その力に圧倒されるからだ。
では上野霄里 氏の言う原生人間とは何かというとちょうど太古の生き残りのシーランカンスとか巨大な海亀、インド犀のように思える。ゴジラではない、実在した太古の神秘を備えた人間ということになる。文明のなかになお存在した人間の原型であり文明人間はそこで亜人間になっていたのだ。巨万の富を積んでも人間そのものを失ったとき原生環境を失ったとき人間は醜いものとなってしまったのだ。

天才から学ぶことは必要だし自分自身も身をもって習ったものである。しかし普通はみんな天才でないのだ。自分などは普通の人間より劣っている人間といつも思っているし実際そうなのだ。他の人もそうみている。普通の大方は天才にはいくら努力してもなれない。でもクリスチャンにはだれでもなれる。教会に行かなくても聖書をちょっと読み苦難を経る人生体験を積み神からの恩寵を得ればクリスチャンなのである。クリスチャンとは神の子のことである。神の子だということは天才より恵まれたものである。神は天才以上に万能だからだ。万能とは文字通りそうなのだ。聖書に示された奇跡は全部本当だった。その神の子ということは万能の神の子ということは子にも神の力が加えられるということである。それは掃除婦でも日雇い労働者でも簡単になれる。学問も何もいらない、宗教は理屈でないからだ。信じれば救われるという単純なことを実行した人が救われたのである。神の子になったのである。だからこれは誰にも教えられなくても字が読めて聖書をちょっと要点だけ読めば理解できる。自分自身聖書は数ページしか読んでいない。ほとんど何も知らないといってもよかった。

私の他に神はない、一人もない、あなたが私を知らなくてもわたしはあなたを強くする。(イザヤ45-5)

宗教についてはイスラム教の人の方が理解が早い、偶像崇拝を禁止していることは神が何かを知る点で一番肝要なことだからだ。現代ではすでに本であれ何であれ神を知ることは自分一人でできる環境ができているのだ。不思議なことは聖書を一般人が読めたのはルターの宗教革命以降でありグーテンベルグの印刷革命で読めるようになったのである。いずれにしろ百巻の書を読んでも宗教はわからない人はわからないし二三行読んでわかる人はわかるのである。今の時代聖書を読めない人はいないのだから布教そのものが無益に思えるのだ。布教する人は宗教団体がそうなように世俗の権力を得ることであり世俗の勢力の拡大なのだ。一人はものの数ではない、人が増えれば民主主義の時代は世俗の勢力となるのだ。10人でも集めれば役所にでも商店でも無視できなくなるが一人だったら誰も注意もしないのである。


表紙がはずれそうになってしまった「単細胞的思考」




     
    海亀

黒潮にのって北の海に海亀が
卵を生みにやってきた
のっそりと砂浜にあがった
卵を何十個か生んで
大きな大きな海に去って行った
海亀は大いなる海が養う
そこにはまだ計り知れぬ神秘がある
人は今せかせかと蟻のようにめまぐるしい
人は蟻のように踏みつぶされて死ぬものもいる
人は人が作った蟻地獄でもがく
人は人が作った蟻地獄から抜けられない
人の成すことは蟻塚のようになり虚しくされる
海亀は大きな海に還って行った
海亀を養うのはこの大いなる海だ
鯨よ潮を吹け、カモメよ海岸線をどこまでも飛べ
夏の日よ、海は生命の源だ
それはまだ傷つけられず日に輝いている
海の主人はまだ人間ではない
鯨であり海亀でありイルカでもある
海は陸地より広くそれらは自由に泳ぐ
それは潮の流れにのり地球を半周泳ぎまわる
インドの神話で海亀が地球を支えていたという
海亀よ、お前の故郷はこの大いなる海だ
神秘の底知れぬ海に養われるのだ
シーラカンスはなおその海の底に生きていた
原生環境の残る海に生きていた
滅多に見られぬその深ーい青ーい海にシーラカンスよ
お前はまだ陸地を知らず太古の夢を見ている
海はまだ原初の生命の神秘を湛えている






文明とは蟻地獄である。蟻地獄とは自ら作った文明の蟻地獄から抜け出れないということである。経済問題でも教育問題でも政治でもいくら議論しても解決のつかない蟻地獄なのだ。その原因が文明そのものにあるからだ。マネーゲームも蟻地獄である。教育問題も蟻地獄である。不況問題も蟻地獄である。蟻地獄はそこから抜けられない解決方法がないのである。文明そのものが蟻地獄になっているからである。もがけばもがくほど蟻地獄になってしまうのだ。むしろ何もしない方が蟻地獄から逃れられる可能性が高いのかもしれない。いずれにしろ文明そのものがその自ら作り出した蟻地獄の中で自壊する運命にあるのだ。

テ-マ(海)の中の詩(亀島)

この詩は誰が書いたかわからない、でも自分のより優れている。こういうのがまれであるがインタ-ネットのなかにあるのだ。あるテ-マで探しているとそのなかにそれにふさわしいものがでてきたときインタ-ネットの不思議を感じるのだ。



上野霄里氏(原生人間)理解の困難


上野霄里氏がわかりにくいのはなぜか、異常なほど個に徹するからである。文明人は組織人であり組織に入らない人は人間としてすら認めていない、・・・の会社に勤めていますとか、・・・・団体に入っていますとか、・・・・・の一員ですとか、それでその人間の何をかを見る。現代は組織に入らない人間は見えないのだ。組織人とは何らか大きな権力に従属する人間である。奇妙だが組織人には個としての顔もなければそもそも個はないのだ。彼の発言も行動も個としては何も存在しない、組織や団体には人間的なものがない、非情である、だから組織の命令で平気で大量殺人も実行される。ナチスにしてもそこには個人としての感情がなくなってしまっていた。事務員のように人間の命が機械のように人間の命が抹殺された。それはこの文明そのものが一つの巨大な組織であり機械となってしまったからだ。人間そのものが物ののようにベルトコンベア-に流れてくる、それがガス室に流れていった。人間も物か機械の一部になってしまっていたのだ。現代人と過去の人間自体が違ってきている。


「中世でもすべてが、多彩なかたちをとり、たえまない対照をみせて、ひとの心にのしかかる。それゆえに、日常生活は、ちくちくさすような情熱の暗示に満たされ、心の動きは、あるいは野放図な喜び、むごい残忍さ、また静かな心のなごみへと移り変わる。このような不安定な気分のうちに、中世都市の生活はゆれうごいていたのである。」

(ホイジンガ-)

明治時代の人間はよく泣いたというのも非常に情的に感情的に熱いものをもっていた。それは現代とは環境も何かも違う世界で育ったからである。現代人と中世の人間と違うように原始人となったら全く違っていた。情感的に違うのだ。人間そのものの存在感が違うのである。これは「水平化」で現代人を批判したキケルゴ-ルも言ったことである。

戦争は人間が存在したときからあった。最初は個人と個人の喧嘩だった。それが部族同士の戦争になった。それでも戦争には個人と個人の戦いが基本だという認識があった。戦争の基本は一騎討ちなのだ。だから大将同士が戦いそれで勝敗が決することもあった。一騎討ちには潔さを認めるその当時の美学あった。つまり個人と個人が戦うことは極めて人間的なことだったのだ。だから平家物語であれ戦争は悲惨でそこに人間的なものがあり物語として伝えられたのだ。現代の戦争は個人はない、一騎討ちなどない、巨大な組織と組織の戦いである。個人が巨大化されているのはその個人が巨大なのではない、その背後にある組織が巨大なだけであり個人を抽出すればそれは別にロボットでもコンピュタ-でもいいくらいである。「俺の背後に何百万人の仲間がいるんだぞ、おまえは何人だ、一人か、話にならん」となる。こういうのにはもはや人間的なものはなにもない、人間的に最高に卑劣な奴になるんだが現実はそんな人間が偉大にされている現代の人間観の貧しさである。その最たるものがこの日本の社会きの深部まで手足となっしまった創価である。ただ創価だけを批判しても無駄である。これは文明社会全体の病理の一部として現れたものだからだ。結局、共産主義でもこれもまた現代を象徴したものだった。人間の巨大組織化でありそこで大量虐殺がおきた。現代の組織化の行き着く先はこうなるのだ。組織は恐ろしく非情であり人間味の一片すら抹殺してしまうのだ。

なぜニ-チェが犯罪者は衆になり群がる人間より未来があるとか、勇気があるとか言ったのか犯罪者も組織犯罪者ではない、個人でやればそれは何か人間的になるのだ。組織ではありえないことは犯罪にはある。何かの個人の不満であれ憎しみの爆発なのだ。これは毎日のようにニュ-スになっている。そこにはやはり人間の生々しい、感情の爆発がありそれが露骨にでてくるから人間的なものとして組織人は驚きあんなことやるなんてと顔をしかめるが今や犯罪には人間の抑えられた感情の爆発があるから組織人にはそれがニュ-スとして報道されると劇のカルタシスのように見ているのかもしれない、組織人は人間的感情が極端に抑えられているからだ。個々の犯罪が今や人間的なものの表出になっているという異常な現代人の姿にきづかないのだ。

この個々人の感情の爆発より現代人の組織人の爆発の方がものすごく怖いことである。それが現実化したのがナチスであり20世紀の国家的科学機械戦争であった。ここには昔の一騎討ちの戦いとかそうした人間的なものが欠落しているのだ。だから物語にもなりにくい、ただ戦車とか飛行機とか砲弾とか地雷とかそうした科学の兵器の前に無惨に人間の死体が物ののように投げ出されている。それが一番象徴的だったのが広島の原子爆弾だった。いづれにしろ組織人がいくら平和を唱えても組織人人自身が人間的感情もおさえられた非人間的存在でありそれがいつ戦争という口実で爆発するかもしれないのだ。現実にそうなったのが二十世紀であった。

自分としてはこうした非人間的組織に殺されるより個人の憎しみであれ何であれ個人に一騎討ちのようにして殺された方が納得がいく、「おまえは俺を憎んでいたんだな、おまえがオレを殺すんだな、よしそれもいいだろう、おまえに殺されてやる」と納得する。しかし組織人に殺されることは納得がいかない、その組織人は何者か全くわからないからだ。人間でないものに殺されるということは非常にいやなことである。そして組織人は人を殺したからといって罪に悩んだりして悔いることもないのだ。それは組織の一員としてやったことだからと正当化される。だから誰も戦争した人は悔いることはないし罪だなどども思っていないのだ。これは戦争した両方にいえることなのだ。もし個人が面と向かって戦い殺すなら何がしかの罪の意識が起こり悔いるということもありうる。しかし組織として殺すときはそうした罪悪感もなくなるのだ。これが組織人の怖さなのだ。本来もっていた個としての人間としての感情の喪失である。

いづれにしろ集団化組織化したところに宗教などないし人間すらいない、そこは一つの巨大な機械として機能する所であり人間はものも言えない部品である。宗教の前提となる人間すら存在しないところに宗教もなにもありえない、だからそこではただ権力や利権だけが問題になるのだ。そこには人間的交わりさえない、青年の友情とかそんな宗教で言う罪の悔い改めとかなんとかそんなもの皆無である。組織として権力や利権の追求意外のなにものもないのだ。これを何はばかることなく追求しているのが今の政権と一体となっているのが何よりの証拠である。もし人間的なものを強調すれば現代ではアウトサイダ-になるほかないというのが彼の結論だったし現代を批判した単独者の結論だったのだ。現代を適格に象徴した人間がニ-チェやキケルゴ-ルや上野霄里氏だった。現代とはこれほど自らの病理にもきづかない異常な世界になっているのだ。一方でこうしたアウトサイダ-は文字通りこの世の埒外の異常な人間としか見えないのも人間そのものの喪失によるのだ。今や人間はロボットに親近感を持つのも自分がロボット化しているから上野霄里氏などの人間そのものがありのままの原生人間が見えなくなっているのだ。何が正常なのか異常なのかすらわからなくなってしまった時代である。



文明人の二面性(上野霄里氏から見た文明人)

この世がなぜ抑圧された社会なのか、上野霄里氏の怒りはわかるのだ。
マスメデアに出てくる人がなぜいつも同じ人なのだろうか、あそこに出てくる人は社会的常識を語る人だから誰でもいいのである。当たり触りのないことを言っていればいいのだ。不思議なことに森田氏とか有田氏その他最近ではホームページでも発言している。でもテレビとかで言っているのとは違う。創価学会のことを批判しているがテレビの前では一言も批判していない、何故かテレビとかマスメデアで力をもっているのはマスメデアの方である。そこでは社会的常識からはずれたことや巨大組織の反発をくらうものは出さない、オウムだってマスコミはおそれて批判しなかったのだ。それがあの災難を生んだ。つまり上野霄里氏が言うようにこの社会は組織は常識から成り立っている。マスコミはその社会の常識を維持する場であり当たり障りのないこと言っていれば誰からの反感もかわない。創価学会に不満な人はいる。ではそれに対して誰も公に批判できないのか、創価学会とは社会の常識人のいるところであり
すでに常識化した社会だから容認されている。これを批判するものは社会を批判すると同じなのである。出版社でも書店でもそうした常識人を相手にしているのであり異端の書など置かないのである。出版社とか書店は例えば死んだ人の作品はだす、死後50年たったら問題ないといって出すが生きている人間の本は出さない、上野霄里氏の本ですら今書店にはないからだ。死人は害がないからいいのである。小出版社が締め出されるなかでは余計にそうである。大出版社が一手に取捨選択するマスメデアが支配する世界なのである。書店はその系列化に入っている支店と同じであり独立性はない。そもそも独自色は出せない、インターネットではいろいろ出るが本は大手出版社を通じてしか流れないからだ。奇妙なことに本屋は本を置くところではない、巨大な組織とか圧力の下で配給される所であり自ら本を置く所ではないのだ。しかしこれからは出版社や本屋がなくても電子本やらインターネット出版やらで間に合う時代になる。いずれにしろどの出版社にも出版する権利があったわけでないし本屋にもすべての本を置く権利などなかったのだ。ただ出版や本以外公にする方法がなかったからそうなっただけである。今や作者に見捨てられてもしょうがないことである。売れる売れないということだけを問題にするなら良書は古典となるような本は絶対にでないし残らない。それが致命的なのだ。

とにかくマスメデアは社会の常識的ないつも同じことを言う個性のない生気のない発言に終始している。この社会の常識化が曲者である。つまりそれは人間のロッボト化なのだ。クローン人間の生産なのである。こういうロボッ化した個性なき集団はファシズムになりやすい。現代文明社会がファシズム時代だった。言論そのものが抑圧されているのだ。上野霄里氏という全人間から見たときこの文明人は死人に見える。余りにも生命力があふれている人間故そう見えるのだ。つまり中世の死者の舞踏に見えるのかもしれない。しかしこうした常識人もそれに満足しているわけではない、ナチスでも日本の戦争の時も日本刀をふりまわし英雄になったような気分であったのだ。常識人たる社会人も一旦組織化し集団化するとそれが正当化される、例え狂気でもそうであった。ニーチェが「個人も狂うが集団も狂っている」というのは実感であった。常識人も実は何か抑えられたものがありその不満が戦争という口実で爆発したともいえる。その時英雄的気分になっていたことは確かである。もちろん人を殺して罪の呵責に悩まされた人もいるがそれは少数だろう。その延長が東南アジアの買春などで経済的に優越感にひたっている人たちである。極端な金の差で蹂躙することが容易になるからだ。日本での不満の捌け口を貧しい弱い国で晴らしているのだ。人間はみんなジキルとハイドなのだ。内部に鬱積したものが外に出てくる。上野霄里氏の見た文明人とはこれほどの物質的に豊かな時代にありながらその心は不満が鬱積している。その不満が爆発する恐ろしさである。心が平和で満足していればそういうことはない、しかしこれだけ豊かな生活の中で心は不満と不平に満ちている。そうした心の中にこそ恐ろしいものがある。その悪い心が実際の悪事となり現れるのだ。

口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15-18


これの意味するのは人間は外部がいくら汚れていても汚されない、汚れるのは自分自身が汚れているからである。お釈迦様からは血ではなく乳が流れたとか例え外部から傷つけても傷つけられないということである。内部からのみ人は汚れるのである。キリストは最悪の十字架でも汚れることがなかった。というのは決して呪いの言葉や不満を口をすることなく十字架の上からも人々を許そうとしていたのだ。これはもはや一般人にはできない、自分も未だに人を呪いつづけている面があるからだ。どうしても心の中でゆるせないのだ。正直そうなのだからどうしようもないのだ。つまり神の御意とは自然の花や鳥のようなものである。それらは汚れることを知らない、罪を知らない無垢なのだ。だからあのように美しいのである。その美しさ罪がないということに尽きているのだ。天国とは間違いなくその罪のない状態の回復である。そこに至福があるのだ。百合のような花々が咲きそこに罪なき神に祝福された柔和な人が佇んでいるのだ。そのやさしいまなざしは花々に注がれ明るい祝福の日差しがさしこんでいるのである。そこに人と自然の調和が回復しているのである。人間のしてきたことはこの自然との調和の破壊だったのだ。ソロモンの栄華も一輪の百合にしかずというときいかに王のために権力者のために自然まで破壊されたか、レバノン杉まで王宮を建てるために取り尽くされたのである。

常識的な仮面の下でしか生活できない一般人の心性の底にも上野霄里氏の言葉や行動に惹かれるものがあるのだ。それが悪い方向に一挙に爆発したのがファシズムだったのだ。あの過激な上野霄里氏の言葉や行動こそ表に出すべき顔であるがそれができないからその不満は内に内向してある切っ掛けでその不満を集団の暴徒とと化して爆発させる。それにしても奇妙な光景ではないか日本人が作った歩くロボットである。人間のように幼稚に歩くことに感動する。ロボットと化している文明人が同じ個性のないロボットを作って何になるのだろうか、おそらく今人間のやっている大半のことはことはロッボトができるようになる。そしたら人間はみな失業することになる。それでみんなが創造的仕事するようになるかといったらならない。ロボットに仕事奪われたと騒ぐようになる。実に奇妙な皮肉なのだ。
人間はその人の意にかなわぬ人生をおくるべきではない、もちろんお前のような呑気な我が儘な生活を送ることはできないとかいうであろう。
確かにこの世は甘いものではないとか言えるし若いときは苦労をするべきである。ただ自分の意にかなわないということは不満が内向し鬱積しそれがガンのような病にもなるのだ。自分の場合はこれほど自由に生きたのだからあとはどこかの山の中で野垂れ死にしても不満の鬱積した文明人になぶり殺されても仕方ないと思う。自分にとって今やこの世は去るべきところなのだ。この世でこの世のものを得るところではないのだ。意にかなわず悶々と仕事していることは精神衛生上よくない。そういう人は死ぬにも死ねなくなるのだ。旅にしても果たしてこの交通の発達した時代本当に満足ゆく旅をしているかというと皮肉なことに交通が発達しすぎて旅がなくなってしまったのだ。はるばる長い道のりを旅する感覚が失なわれたのだ。その点江戸時代の方が一生に一回でも何カ月かかけて伊勢参りの旅した人はその旅は一生の思い出であり終生忘れることのできない満足した旅であった。そういう旅すら現代人はできるのにしていないし不満だけが残る旅で終わっている皮肉である。便利になってもすべて満足がもたらされるわけではないということである。

      
百合の香に満たされ日々の仕事かな



偉大なる個々の死を・・・・(上野霄里氏の文明批判の要点)

私は日本の政治やモラルや法律の間にひそかにあたかも仮定のようにそして幻のように存在する。(上野霄里-単細胞的思考(洞窟の哲学より))


上野霄里氏の主張したことがなぜわかりにくいのか、また一般の人に理解されないのか、私自身も今の年になるまで理解していなかった。そもそもなぜ人間というのは何か理解するのにこれほど時間がかかるのかということである。これは自分というものが天才ではない普通の人間であるためでもあった。若い時代に相当に本を読んでも理解できないのが多かった。人間は精神的成長には非常に時間がかかるものなのだ。肉体は動物のように15才くらいで完成してしまうし生殖は教えられなくても動物のようにすることができる。しかし精神の成長とか何かを理解すること例えば外国の一国を理解すること自体とんでもなく大変なことだし時間がかかる。文学関係でも理解すること自体非常にむずかしい。俳句なんかでも50以上にならないといいものができないというのもそのためである。モラトリアム時代というけどそもそも人間は一生が実はモラトリアム時代猶予の時間がないと精神も成長しないしあらゆることについて理解できないものである。ただ老年になると確かにあることが確実に具体的に悟るようになる。「死」というのは実際は観念的には死ぬということは誰でも知っている。しかしそれは観念的にであり本当に死というものがどういうものかわからないのだ。老年になれば死はすぐそこにあるからどんな平凡な人でも人間はこんな簡単に死ぬものかと理解できるのだ。そのことだけで老人は若者と精神的に全然違ったものとして生きているのである。老年とは死の状態に徐々に移行してゆく存在である。

それは確かに怖いことだがある意味で甘美なことでもある。なぜなら死がなくしてこの世の問題の解決もないからだ。つまりこの世とは結局アダムが罪を犯してエデンの園を追われて以来人間は変わらなかったしこの世がこれほど科学が発達しても人間そのものは変わらなかった。この世が天国になることなどないし人間の世界はますます犯罪も多くなり悪化してさえいる。罪なる人間の状態が変わらないとしたら結局この世にあることは絶望しかないのだ。とすると死はこの世から離脱するのだから救いでもあるのだ。人間は誰でも偉大な死を目指すべきものである。ところがこの死に関して誤解がある。偉大な死とはその人の生前の地位とか大金持ちだったとか大々的に葬儀を成されたとかそうした外面的なことで決まるわけではない、内面的な死というものもありそれは外から見てわからない、どんなに金持ちでも地位があっても死が必ずしも偉大な死となるとは限らない、例え野垂れ死にでも偉大な死は偉大な死なのである。主キリストの死が十字架でありこれは最悪の死に外見的には見えたし神の子たるものがこんな無惨な死に方をするのかと愕然として弟子も見ていたのだがそれは最高の偉大なる死に方であったのだ。だから人間の価値とは外見だけでは判断できないのだ。ソクラテスが死について語りつつ逍遥として毒を飲んで死んで行ったのもむずかしい理屈はからないにしても偉大な死であった。ではそれは特別な人のみが偉大な死を迎える、平凡人は平凡に死ぬと言うかもしれないが必ずしもそうではない、自分など相当な平凡な普通の人より人間的に劣った人間であることは承知のことである。平凡とか平凡でないとか言う前に文明社会は人間を人間らしめないということに気づいていないのだ。文明の価値観に染まりすぎて人間の人間たる価値を見失ってしまったのだ。

文明の価値というと結局、デジタルカメラを作っているから世界で売れている優秀なトヨタの自動車を作っているから日本人が優れているとかの評価になる。そして人間の価値はそういう文明の便利なものを作る物に集約される。会社というのはまさにカメラを作る会社であり自動車を作る会社でありその価値がすべてとなっている。そして一生その組織に従属していい自動車を作ることが一生になっている。そうした組織の一員になっていることが人間の価値のすべてとなっている。それ以外の価値は人間に認められない、宗教団体でも・・・・会員であることに意味があるのであり価値があるのでありその人本来の価値などどうでもいいのである。完全に個々の人間としての価値は無視されせいぜい一票を入れてくれるとか金を布施してくれるくらいの存在でしかない、人間に対する価値観がそうした物とか金とか一票とかに置き換えられて卑小化されている。

では人間がそんなものなのかといったら人間とはこの宇宙を大自然を自由に生きるものとして存在させられた。会社に入って文明の便利品を作ることがすべてではない、これは明らかに鳥とか動物より人間が卑小化されている。動物ですら鳥などは広大な大気のなかを自由に飛び大海をわたり大きな森に巣を作る。人間より鳥の方が神の創造した世界を生きるにふさわしく人間は文明の便利品を作る奴隷と化してその道具にふりまわされていると見ることもできるがそんな見方をしている人はいない、ただ古代からそうした見方をしていた人が大陸にはいた。老子とか荘子とかがそうである。無用の用とか文明に役立つ人間より無用の用の方が自然の方が大きな存在でありそこに生きるものこそ人間にふさわしいと言っていたのである。そのことが意外と会社人間組織人間になっている人は理解できない、見えないのだ。ただひたすら会社人間になり文明の便利なものを作ることこそすべてであり人間の価値はそこにしかないとなっている。それが悪いというのではなくすべての価値がそこに集中して他が見えなくなっていることなのだ。だからソロ-でも森全体を生きる場所とした、森全体のなかに生きることに生きがいを見いだした自由人はあいつは何をやっているんだ、無益なやつだとされて批判されたのである。ところが商人がきて森の木を見てそれを売るものは社会にとって有用なものとされた。それは材というのが一部の才能を切り取る意味でありまた森というのがマテリア-ルされた、物質として材として文明の用にだけのものとして切り取られてしまったこととにている。ラテン語のmateriaはもともと材料ではなく森全体を意味していた。ラテン語のsilva(シルファ)というのも森と同時に「材料」を意味していた。materiaがmater(母)が語源となっている。森は母なるものであった。森は最初森全体として存在していたが材として材料として切り取られるものとなったのだ。森のもっている全体はその神秘で計り知れない美や荘厳さは無視され失われたのだ。

「単細胞思考」から上野霄里氏の文明批判がはじまったのだがその中核は組織批判であった。文明社会はもはや隅々まで組織人間としてしかありえないという現実である。それは出版界とかでもそうであり文学関係でもそこは組織として構築されていてその組織に入らないものは存在すらしえないのである。だから文学賞とかマスコミから商業主義からでてくる人物には注意する必要がある。それは宗教団体でも同じだが組織的に作られた人物でそれはマスコミ通じて過大化されているのだ。そこは大衆に売るために企画されたものだということを念頭におく必要があるのだ。そのことはインタ-ネットで自由に発言ができるようになり商業主義の世界からではない個々の発言に新鮮なもの今までにないものに触れて発見したことがかなりあったことでもわかる。だから老子とか荘子という人間はあんな昔から中国に存在していたこと自体、やはり大陸はスケ-ルが違うのである。明らかに現代の文明を痛烈に告発していたのである。それも老子の時代など原始的な状態だったときから鍬など道具を使うと人間性が失われと言っていたのだから驚く、それがこんなに文明化したなかで人間が文明に適応していることこそ奇妙だし人間がこんな非人間的な文明社会に適応すること自体、異常なことではないか、自分の場合、結局いろいろあるが文明社会に不適応であったからこそかえってアウトサイダ-化して文明社会が見えるということにもなった。だからニ-トだとかヒキコモリはまた別なものかもしれんがそのなかには文明社会からはみだして本来の人間に目覚め巨大化する人間がでてくるかもしれない、この文明社会にすんなり適応できる人間こそ異常なのことだからだ。ともかく組織人間として.....の一会員として死んで行くものに人間の偉大さはありえない、偉大な死もありえない、indivisal great deathを目指す所に人間の偉大な死がありうるのだ。死に入ることも人間は動物と違うから最も偉大なものへとなるべく道として死があるのだ。もちろん主キリストの信仰にあるものは死はない、死なない命を与えたのがキリストだからだ。人間は肉なる存在ではない、霊的な存在だから死なないのだ。

ともかく文明は人間を卑小化した。文明は人間の使う道具にすぎないのに人間が文明の道具になってしまったのである。文明の便利なものはしょせん道具であり道具にすぎない、あくまでも人間こそ偉大な主人公であることなのだ。それがアウトサイダ-にならないと見えない不幸が現代にあったのである。ただ単細胞思考や上野霄里氏のことが理解できないのはまさにアウトサイダ-にならないと文明社会の矛盾が見えないからである。それほど文明におおわれ文明のなかにどっぷり入りすぎてしまったのだ。だから老年になって一体自分の人生なんだったんだとなる。大金持ちになっても地位があってもなんだこんなものたいしたことなかったなとなる、こんなものを求めてあくせくして馬鹿みたともなる。それが老年になると誰でも馬鹿でもわかるのである。老年になると馬鹿でも見えてくるものがあるのだ。それが若者と老年の根本的違いなのである。

上野霄里氏の言うようにそもそも人間が何が偉大なのかとをあるべきなのかなど見えなくなっている。文明で大きな存在となるのは本来の人間、原生人間とはまるで違った人間になっている。専門家というのはある意味で特殊能力の肥大化したものでありある意味で人間としては奇形的存在なのだ。弁護士ですらそうである。なぜあんなにむずかしいのかあれを理解すること自体大変な能力が必要であり能力がかたより奇形化してしまう。文明には本来の人間は必要でないのだ。全体として森のようになる人間は必要はない、一本の材となる商品となる木が必要なのである。だから全人間は見えないし森全体の価値はわからなくなっている。文明社会にとって原人間とか原生人間とか神の子も見えない、幻である。一方アウトサイダ-原人間、全人間、神の子から見ると文明は幻である。巨大な幻影に見えるのだ。はたしてどっちが幻影だったのか文明は消え去り文明こそが幻影に幻にすぎなかったことが遠い未来に証明される。そして逆に文明人には見えなかった原人間が巨大なものとして現れてくる。そのためにあとは千年は必要なのだろう。いづれにしろも文明は死ねばなくなる。それはすべて消え去る。そのあとは文明を見ることはない、生まれ変わり千年後に来てみたら文明は喪失しているだろう。この巨大と見える文明もはかないものなのである。


クマゲラの音

クマゲラには大きな森が必要だ
その巣を作る大きな森が必要だ
トントント-ントントント-ン
木を叩く音が大きな森にひびきわたる
その力強い音はひびき木霊する
神はクマゲラに大きな森を与えた
一本の木ではない大きな森を与えた
この大きな北の森がクマゲラの住処だ
そこに自由に住み巣を作る
大きな森がクマゲラを養うのだ
トントント-ントントント-ン
エゾマツやトドマツの深々とした森
そこはカムイの森、神域の森
森の神シマフクロウもそこにすむ
清らかな流れを魚が踊り上る
その流れは底まで澄んで豊富な魚の群れ
その森とともにアイヌコタンの神話生まれた

無用の木の例えhttp://www7.plala.or.jp/tenderness/speech/tao.html

大工の師匠が旅の途中、杜のそばにある大きな古い木を見て、その大木に感嘆している弟子に、

 「これは無用な木だ。船をつくればすぐにくさってしまうし、道具をつくればこわれてしまうだろう。この木ではなにも有用なものがつくれない。だから、こんな古木になったのだ。」といった。
 
  しかし、その夜、師匠の夢にその大木が現われて言った。お前はどうして、わたしを梨やりんごなど実のなる木と比較したのだ。 それらは実が熟さないうちにさえ、人間に攻め荒されてしまう。大枝は折られ、小枝はさかれる。自分たちの長所と思われるものが自分自身に害をなしていて、天寿を全うできない。これはあらゆるところに生じることで、このためにこそ私はまったく無用であろうと、長年つとめてきたのだ。
 
  愚かな人間よ、もし私が何らかの点で有用であれば、これだけの大きさになり得ただろうか。そのうえ、お前も私も自然の創造物にすぎない。
 たんなる創造物がいかにして、他の創造物よりも上に立って、その価値判断をくだせるのか。お前、無用な人間よ、お前が無用の木について何を知ることがあろう。
 
  大工は目覚め、その夢について想いをこらした。
 弟子が、どうしてこの木が杜の保護につとめているのかと彼にたずねたとき、彼は、
 「だまれ、何も言うな。その木はここに意図して生えているのだ。
 もし他の場所であれば人間がよくは取り扱わなかっただろう。
 もしそれが杜の木でなかったならば、切り倒されていたかもしれない。」と言った。



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労働にすべて価値があるものなのか?
(ニ-ト、フリ-タ-がふえたのはなぜ?)

(
大空が言い訳せず、動物たちが文明を作り出さないでいる状態-あれはまさしくどのような敗北感とも結び難い、一つの安定性を示している。(単細胞思考-506)

●本当に必要なものは何か?

今日ス-パ-で買ったのが三色のソバだった。一人分で300円で夏なので買った。それから一切れ百円のケ-キを三つ買った。しかし理屈を言えばこれがそれほど食いたいということはなかった。日頃結構うまいものを食っている。最近はここでよくとれる石鰈ににたアイナメも食っている。台風来るからとれなくなるからと買った。これは一匹2000円とか高いがそれだけの価値があるのだ。魚は今や高いもなのである。マグロやカツオは本当に食えなくなる日が近いのかもしれない、それで鯨が必要だとなるが正直本当に鯨をそんなにみんな食いたいのだろうか?江戸時代とは違う、余りにも恵まれた食環境にある。鯨などそれほどうまくないという人も多い。思うに労働をこの世のすべてとなっているのが社会である。「働かざるもの食うべからず」というのは本当だろう。しかし現代は働かない若者がニ-トやフリ-タ-が半端な数でない、なぜこんなに働かず食えるのか不思議である。

これは豊かだからありえることである。戦前とか戦後の一時期ではこんな人は極端に少ない、江戸時代でも働かないで暮らしている人はヤクザものくらいだったろう。それも子供のときから働かされている。これは後進国では子供が働いているのと同じである。おしんのように丁稚奉公とかいろいろ辛い仕事を子供のときからさせられた。このおしんが後進国では人気だったというのもわかる。働かねば食っていけないからだ。でも豊かになると当然嫌な仕事はやりたくない、とくにいやな上司にこきつかわれて体すりへるくらい働くのはいやだと働かない若者が多くなっている。だから2ちゃんねるではいつでもニ-トやフリ-タ-など話題になる。そういう若者があふれているのが現代の特徴でもある。海外でぶらぶらしている数も相当数いる。でも働くということがいやでも死ぬほど働くということが尊いことなのか価値あるのかとなるとそうでもないのだ。

「三色のソバか、夏だからソバもいいな、アイスコ-ヒ-の箱のが出たか、これは必要だ、コ-ヒ-飲まないと生きた心地がしないようになった、ケ-キが一個百円か、うまそうだから買うか、まあ、これはいつも食っていないから買う必要もないが・・・・」
この買い物で必要だったのはアイスコ-ヒ-だった。他は実際食わなくてもいいしほとんど日頃食っていないものである。現代は必要以上のものを買っている。人間どれだけのものが本当に必要なのか、アイスコ-ヒ-すら別に飲まなくてもそれほど困るものでもない、水でも十分である。ところが水は今安いミネラルウオ-タ-を買って飲んでいる。水が悪くなったからだ。そもそも働くことはそれが生きがいなら無報酬でもやりたいのだ。私のホ-ムペ-ジがまさにそうである。文章を書く、社会の不正を正すことが生きがいだからだ。芸術の創造もそうである。ただこれは無報酬だから仕事として認められていないだけである。社会の仕事の評価は金しかない、金を多くとったものが仕事できるもの価値あるものとして評価される。でももし

「三色ソバか、別にこれは食わなくてもいいな、ケ-キかこれも食わなくてもいいな、今どき甘いものは体に良くない、アイスコ-ヒ-かこれは嗜好品となって好きだからほしいが水でも別にいいや・・・・」

こういうふうに否定してゆくとわざわざ三色ソバを作っている人の働いている人の価値も否定することになるのだ。作っている人にしてみればせっかく工夫して懸命に働いて作ったのに買ってもくれないとか労働した価値を認めてくれないとかなる。人間はもし三色ソバが食いたい、ケ-キが食いたい・・・食いたい・・・欲しいとなりそのために金が必要だから苦しくても働かねばならないとなったらその労働は苦痛となる。本質的に労働はその労働自体に価値があるのではないか?労働自体喜びだからやるのだし相手を喜ばすものではなく自分を喜ばすものが労働なのだ。だから消費経済労働は本当の労働ではない、交換経済も労働ではない、何かが欲しいからとそのために働くのは本来の労働ではないのだ。ソロ-も金持ちのための庭作りしている労働者に失望して森の生活をした。

●人間の価値は自由な余暇(スコ-レ)にある

ギリシャの哲学者が余暇を一番重んじた。スコ-レ(暇)がスク-ルになったというのはそれを示している。人間にとって自由な余暇こそ一番価値あるものなのだ。しかしギリシャでは生産労働は奴隷がしていた。それは確かに矛盾だった。奴隷なくしてそうした自由な余暇のある生活はできなかったから批判されている。ところがこれだけ豊かな社会になるとむしろ人間は自らを奴隷化しているという不思議なのだ。民主、自由社会の中でむしろ余暇を自由を求めるのが人間のはずだが様々な欲望が拡大化してそのためにまた金が必要となりいやな仕事でも働かざるをえない、この豊かな社会では相当な無駄な労働に満ちている。犬を飼うから犬の病院やら犬の墓まで作られるようになる。実際に人間より犬が大事になっているのだ。人は犬のために使われている。犬のために労働させられているのだ。江戸時代のお犬様を馬鹿にしているが今やお犬様に仕えているというのだから一体時代は進歩したのだろうかとなる。そんな労働にどんな意味があるのだろうかともなる。豊かになるとやたら商品がふえ労働がふえてくるのだ。そして人はやたら忙しくなり自由を失い人間的生活から奴隷の労働を強いられるのだ。

こうした文明批判は老子とかすでに2000年前にしていたから驚きだ。上野霄里氏などの文明批判もそこにあった。豊かな社会は必ずしも人間を幸福にしていない、だから食うことができれば働きたくないというニ-トやフリ-タ-がでてきたのは当然である。資本主義社会はあるゆるところで人間を本来の喜びの労働にすることをさまたげる傾向があるのだ。金になるということだけが労働の価値観をおくとそれは奴隷の労働になる。「お前らみんな働けよ、働かないものは食うべからず」ところが何をもって働くといえるのか?

「自動車は社会にとって欠かせないものだ、だから日本の自動車は世界一、優れたものであり世界の市場で売れるから日本の世界の地位があがり豊かになった。自動車が売れるからバナナでも外国から輸入品を買うことができる・・・」
これも一つの論理だが逆の論理もある。車など交通事故がなくならからいらない、車などなくても生活はできる、電車でもバスでもあるではないか、私は車なくても十分豊かな生活をしていける、だから車はいらない、バナナ食えなくなってもしかたないだろう、それで死ぬことはないだろう・・・・・」とか考える人もわずかだがいる。結局車社会を作ることは車のために働く人を必要として車が極端に価値あるものとして流通させることなのだ。その結果車のために死んでも乗りまた働くことが増えてくるのである。ニ-トというのもいろいろな見方があるしわからない面がある。これは一面現代の社会のアンチテ-ゼとして反抗として生まれ面もある。あらゆる労働がすべて尊いもの価値あるものとすることは危険なのだ。自分としては自由を失ってまで労働はしたくない、余暇(スコ-レ)が人間にとって人間的なことを追及するために一番価値あるものとしたギリシャ人の考え方は人間の見方として誤っていない、現代は自ら奴隷化して不満だらけの社会になっているのだ。快楽主義のエピクロスが自由なら「パンと水」で十分だというのもそのためである。現代は労働、生産一辺倒の社会なのである。

●最後に生き延びるのは労働の蟻だ

彼らの価値観はすべて金で計られるのである。本来の不用な労働か強いられた結果不満だらけの人間を不幸にする社会にしているのだ。自然がなぜ植物でも動物でも幸福なのか、それは人間のように余計な強いられた労働を強制されないからである。鯨だってそうである。本当に鯨をとることが必要なのか、みんな鯨を求めているのかとなるとそうでもない、鯨とる人にとって鯨を売るために必要だということもある。鯨は金になる捕鯨が再開すればその会社はまたもうけることができるからだ。つまりこうした無駄な労働が実は地球環境の破壊に通じている。無駄な労働が地球を滅ぼす、巨大化した蟻のような人間が地球を滅ぼすという恐怖さえある。最後に生き残るのは蟻ではないか?蟻というのはごくわずかの食でいきている驚異の生物である。こんなところで何を食って生きているのか砂だけではないか、土だけではないかというところでも生きている。だから文明の廃墟のあとからも蟻だけはコンクリ-トの隙間とから這い出して生きている。おそらく原子爆弾のあとの世界でも生きている。極小だから被害が少ないのだ。象とか巨大生物は滅びやすい、そこに地球環境の生態系が保存されていないと生き延びられないからだ。かくして最後に生き残るのは労働の象徴たる蟻なのだ。不毛の世界でもただひたすら盲目的に働きつづけるのが蟻なのだから



コインの表と裏は一つ(ヘンリミラ-と上野霄里氏の出会い)

ネットサ-フィンしていてどういうわけかフランスのサイトに行き当たりロ-マの貨幣がありそれを調べたらアウグスティウスとアグリッパの肖像が一緒になっいるコインだった。アウグスティウスは武人とは言えなかったがアグリッパは武人でありアウグスティウスに協力したのだ。二人の協力があってロ-マは拡大化して安定した。すでにエジプトもロ-マ帝国の領土として組み入れられ平定された。それで裏にはワニと棕櫚の木が彫られている。ワニはナイル川にいた神聖なワニである。棕櫚の木は暑いエジプトの木である。エジプトがロ-マに組み入れられたことは相当なロ-マの領土の支配権の拡大なのだ。ナイル川を下ってヌビア人の住んでいる地域まで行ったがそこにもロ-マ人が来ていたのだから驚く、エジプトがロ-マに組い入れられてアフリカと結びついたのである。アウグスティウスはオ-ガストであり8月なのだからこの皇帝はロ-マにとって重要な皇帝だった。歴史でも人物史でも良くこういうことがある。表があり裏があり支えあう、協力しあう関係が必ずあるのだ。ただ師というのは結局、神のごとく祭り上げるべきではない、師は実際は弟子のテコとなるべき運命であり弟子は師に習ったとしても実際は弟子も結局自分自身が作り上げるのであり師の働きは大きいにしても師に盲従すべきものではないのだ。いくら師が偉大でも結局自分を作り上げるのは自分なのである。危険な場所があって師がいくらそこを勇気を出して飛べと言ってもその本人が飛ぶことなかったらどうして助けることができるだろうか?師は飛びなさいと励ますことができても実際危険を犯すのはその本人なのである。その危険を乗り越えて力がつくのでありいくら他者が言っても本人がその気にならなければ何も身につくことがないのだ。カルト団体からぬけたいといって頼る人があるけどそれも実際他者を頼らず自分で脱出しなければ神の力は助けは加わらないのだ。カルトからぬけることがとんでもくな大変なのはそのためである。だからカルトからぬけてもたいがい別な団体のカルトに移行するだけで終って結局奴隷の霊から逃れられない人が多いのである。

はっきり言って師の役割より勇気を出して危険地帯に進み飛んだ弟子の行為の方がほめられるべきであり師はそのささいな補助にすぎない、師のもたらすものは確かに大きいのだがキケルゴ-ルのいう水平化の時代は自分のような普通の平凡人でもモ-ゼという一人の予言者に従うだけの時代は終ったのである。それぞれが予言者であり英雄となるべきことを目指す他なくなっている。それが進歩であり民主主義的なことなのだ。天才でないからだめだということでもない、天才でないなら神の助けを借りて大きくなる、大きくさせられるのである。予言者は神によって大きくさせられた人達でありその器は普通の人よりも劣悪だったのである。ただ神の助けと力が加わりそうなっただけなのだ。だから彼自身には何の才能も力がなく神を讃えるだけなのである。しかし天才はブレ-クにしても自分を敬いと言っている。天才には並外れた力は賦与されているから結局ニ-チェのように超人を目指すことになるのだ。天才は彼自身の力でそうなりうるのだ。しかしそこに自ずと限界もあるのだ。神の子、神になりえた、神にされた神であり人であるの主、イエス・キリストしかいない、彼の上に立つ人はありえない、それは神が定めたことだからだ。天才は天才として学ぶにしても神に従うことがまず第一なのである。ただ宗教であれ芸術であれ哲学であれ人生は一人の人間から学ぶべきであり組織に入ったら一人の人間から学ぶことはなくなる。組織に入れば機械として組織に機能せざるをえないのだ。そこにはクロ-ン人間はいても個性豊かな人間は作りえないのである。


いづれにしてしも歴史上の人物にしてもコインの表と裏のようになっている。人間誰でも師がなければ存在しようがない、師とは先祖が残したものであり過去の遺産を糧にしているのだ。キリストも旧約聖書から学んだのであり語ったことは全部が新しいものではない、その文言は旧約聖書のなかにあったのである。先人のものを学んで取り入れたりしないものはないのだ。ミラ-は結局、小説を書くというよりそこから逸脱してしまった強力なエネルギッシュな行動の人だった。小説という枠からはみだした文明に対抗して巨大化した人間となった。上野霄里もまたそうであった。文明という枠に収められない人物として巨大化したのである。絵画という額縁に納まらない人間の巨大さを示したのである。俳句を作る、詩を作り、絵を描くのは人間の一部としてあるのでありそれが人間の全存在になるわけではない、人間はそれ以上に巨大化する不可解な神秘性をもっている。文明こうした人間の本来もっている神秘や巨大化を奪ってしまった。器用な細工のきく文明という巨大なもの使われる奴隷にされたというのが上野霄里氏の言う原生人間に帰れという心からの叫びだったのである。現代では文明に使われ窮々していると本来もっていた人間の原生的巨大性は無限の才能の開花は奪われる。例えば英語の通訳とか法律家とかプログラマ-とか極めて高度なのだけど専門家としてその才能は材は切り取られ消耗されるのである。それに反抗したのが全人間として反抗したのが老子とか荘子だったのだ。無用の用というのはまさにそれだった。無用の中にこそ人間は人間たるべき用を見いだすのである。ソクラテスがスコ-レ(余暇)こそ最大の価値があると見いだしたともにている。無用、スコ-レのなかにこそ人間そのものを養うものがあったのだ。無限の時間に宇宙を自然を思念する仏教もそうだった。そこには実用性から遊離するのだけど宇宙の壮大な空間と時間の流れに身をひたし文明の細分化、分析化、猥雑化、雑用化からまねがれるのである。人間は文明の中で時間さえ奪われたのだ。自分のような凡人でもアウトサイダ-化して悠久の時間にひたると大きな人間になることが自覚されるのだ。人間はやはりどんな凡人でも無能でも60近くになれば何物かになっている。つまり時間がそうさせるのだ。

一生涯、岩石の話だけをしつづけても過ごしても、その人は充分まともな人生でありうる。(放浪の回帰線)

人間は別に何か特別なことをしなくても才能がその積み重ねの上に花開くことがあるのだ。雑学でもつまらないコレクションでもこつこつつづけていると驚くべきものがそこに集まることになる。石を石自体が様々な石があり岩にも表情があることに気づくだろう。すでに石や岩を極めるだけで一生はまたたくまに過ぎてしまうのが人生なのである。それもまたふりかえれば充実した人生と後年にはなる。人間はカルト団体に入ったり今日一日の食うための仕事とか金のためにかえって原生のエネルギ-が消耗されているのだ。だから現代のような長生きの時代には急ぐことは一番良くないのだ。50歳とか30歳くらいで死ぬのは現代ではやはり何かが根本的に欠けていたとなる。弱い人間でも摂生して生きれば90まで生きられる時代だからだ。青年時代はあせりすぎることなのだ。何かを達成するためにあせる。それは性の渇望とか野心とかこの世への欲望を早く達成しようとしてあせる。そこに追い詰められたような焦燥感が漂い、自殺にまでなる。この世の中何かあせって達成するようなものはないのである。老子が成さずして成ると言ったようにそんなにあせって成すべきものはないし、その何かを成そう成そうというあせり、焦燥感は第二次世界大戦とかファシズムの悲劇を生んだのである。カルト集団とか組織に入ると何か成そう何か成そう、これができなければ死ぬほかないとか実際それで中高年でも自殺に追い込まれている。本当に自殺するまで追い込まれているのか疑問である。おまえはのんびりでいいというがこんなにあせり達成しなければならぬもはこの世に本来ないはずなのだ。一秒を争って電車事故があったように文明という歯車は止まらないことがかえって異常であり怖いことなのだ。それが実際に人間を物ののように大量殺戮に至ったのが現代20世紀文明の決算だったからだ。

ともかく文明の歯車に全身を合わせているものはこうした人間の神秘とか巨大性に気づかない、歯車にされている文明によって卑小化されている自分に気づかないのだ。文明によって人間の原生性がいかに消耗されているか気づくべきなのだ。

コインの表と裏

コインの表と裏は一つ
ロ-マの皇帝のコイン
アウグスティスとアグリッパ
二人の協力によりロ-マは安定せり
二つの顔がコインに彫られぬ
法然と親鸞
ショ-ペンハウエルとニ-チェ
ヘンリ-ミラ-と上野霄里
師と弟子なれど対なして存在感を増す
個性はそこに消えず
対称的に個性は強化され際立たせる
師に盲従するは組織化はロボット化なれど
真の師と弟子は対をなして一つ
師と同じになるにあらじ
際立つ個性を作り合うの真の師と弟子
師と弟子は対立しつも個性を育み
新たなる創造の新世界を現出させぬ
見よ、東に大きく強き星輝きいずれば
西に星の呼応して新たに輝きいずるを

the brilliant star in the east
a new star in the west
sparkling out in the distance
in the miracle space
in the clear sky in winter







神秘化する原生人間の行跡(上野霄里氏の伝説化)

創造的な人間とは、その存在さえ信じられぬ人格のことである。そういった人間は自己の中に星座を持っている人のことだ。天の河のきらめきの中に意識と夢を保証されている人間のことだ。方程式の一切が全く無力になってしまう領域に生きる人格のことだ。
(単細胞的思考-上野霄里著)



●神秘化伝説化した原生人間


上野霄里氏の言ったこと謎めいていること、それは一般の人、文明人には非常に理解しにくいものなのだ。彼のように独自に人間を解読した人はいないからだ。彼の本で引用した言葉もどこから見いだしたのか非常に変わっているし他の人の見いだせないような言葉だった。自分のようにカルトに組織にどっぷりとつかって組織とか命令に従うだけのような人間からするとそれは全く異質なる人との遭遇だったからさらにわかりにくいものだったのだ。今でも一般の人にはわかりにくいし普通考えることと別な次元から人間を見ているのだ。人間は限りなく神秘なものであり巨大な人間は伝説化してゆくと自ら言う時、確かに自らそうなっているのだ。「放浪の回帰線」というミラ-を書いた本のように今度は一関からどこか岐阜県とかに最後移って行った、放浪の最後の場所はみちのくではなくまた別な所に移って行ってしまったことも神秘的にしている。その行跡が神秘的だとなる。老子は函谷関の奥に消えた。巨大な、天才的な人間や過去の老子などの神秘的人間と同一化しようとしたのが彼であった。彼自身は詩人とか芸術家ではないにしろ詩を書かなくても詩人だし絵を描かなくても画家という人はいるというが彼自身がそうなことは確かである。彼はすでに自分の心の中で神秘的な伝説化した原生人間と化しているのだ。伝説というと英雄がこの大岩になったとか自然の事物となって語ってることがよくある。自然の中に英雄は伝説化して語り継がれているのだ。伝説化した人間はかえって長い寿命をもって生き続ける。ただ一面伝説化されるその人の真実は語られない、かえって超人化される。天狗だとか仙人がいたとかなる。でも寒山の詩は真実とは思えない、理想的なものとしして仙人を語ったのであり草を食って生きていたわけではないのだ。むしろ市井で暮らしていたというのが真実かもしれないのだ。彼自身の言うにはそうした何を食って生活していたとか疑問にすることは原生人間がいかなるものか知り得ないというのは本当だろう。人間の存在の意味は本来そういう日々の食を得るとういことにあるのではなくそれを超越した処に人間存在の意味があることを言っているのだ。人間の存在は神話化、伝説化することこそ真実の人間の豊かさを示していたのである。結局今現実と思えるものこの巨大な文明も夢であり幻影となる日がくるからその運命は同じなのである。ピラミッドが何なのか今や意味不明なように文明も意味不明な奇怪なものとして2千年後に語られるかもしれないのである。

●神話化、伝説化は実在から生まれた

神話とか伝説とか遠い過去の物語というものが全く作り話なのか日本の神話などは作り話なのかというとそうではない、明らかにそれに類した人間が実在したのでありそれが神話化したのだ。自分の中で上野霄里氏という人間が神話化伝説化して荒野の果てのアメリカの西部の果ての荒野の磐となってそのイデ-が影が浮かんでくるようにある人の実在が変容して別なものとなり存在することがありうるのだ。義経がジンギスカンとなったり何かまことしやかに別な存在となり生き続けることはありうるのだ。そういう神秘的存在が人間存在の証拠だというのが彼自身が書いていることなのだ

天の河のきらめきの中に意識と夢を保証されている人間のことだ。

私がインスピレ-ションを受けて書いた詩のように荒野の果ての磐に伝説化した原生人間の顔を見たように自然の中に意識化される、存在化されることがありうるのだ。それは神話化、巨人化した人間の顔だった。そのように占星術でも星の中に人間の運命をよみとることがあったのだ。

文明人はまるでロボットのように人間の原生的存在の神秘性を失った。事務屋とか流れ作業員とかロボット的人間として扱われる。機械の部品として扱われるだけである。文明という巨大組織の中では人間一個人は極力卑小化されるのだ。そういうことを2千年前に老子が指摘したことはすでにいかに中国がその時文明化していたことがわかるのだ。文明化とは今だけのことではないそれだけ古い時代から文明化による人間存在の卑小化が行われていたのだ。商業主義のコマ-シャリズムの社会でも人間はただ売り買いできる、一つの物ののように扱われる。巨大な組織によってしかこの世は動かないのは確かなのである。出版社自体が組織でありその組織の意向に従ってしか出版できないのである。だからむしろインタ-ネットのなかにこそ本音の発言があり驚くことがあるのだ。コマ-シャリズムで宣伝するものは紛い物が多いのはバックに組織があって作られた売るために作られた商品だからである。マスコミとか商業出版の世界はコマ-シャリズムとしてシステム化されているからだ。だから作家自体が出版社を嫌い独自にインタ-ネットで作品を発表している人がいた。出版社から本を出すことを専門家で拒否した人もいる。それは売るためにとかいろいろ出版社の意図が入ってきて従わざるをえなくなるから自由な創作ができなくなるからである。そして軍事関係の小説を書いていた作家がいたがその人がインタ-ネットでニュ-ス解説したプログを読んで感心するものがあった。小説は読まなくてもインタ-ネットで別な方面の才能が開発されることがある証拠である。それで多少有料で金をもらうとするとインタ-ネットは別な才能を引き出すメデアになっているのだ。メデアという時、人間がマスコミという組織が媒体となっているように思うがメデア(媒体)は表現の手段が変わることなのだ。西洋絵画が入り油絵の道具が入りその絵の具を使いこなすとにているのだ。それによって全く別な表現ができるようになったからだ。ともかく人間の原生の神秘性を回復することが彼の主要なテ-マだったことは確かである。神話の巨人というときそれは作られたものではなく現実に存在した人間化神話化したのである。逆に現代の組織化社会ではカルト団体のようにその長は英雄は故意にやらせで偽造されている。歴史で神話化した人間は長い時間の中で自然と人々の中に認識された存在であり一時代のみで消耗されるような人間ではなかったのだ。




文明組織人間と全人間の対立(上野霄里氏-原生人間の蘇生)

●戦争と無用の用の荘子の思想(戦争に行くことをまねがれた不具者)

人間の労働自体がすでに人類がはじまったときから全人間としの存在を奪うものだったのだ。エデンの園を追われたアダムの子孫が労働の苦を課せられたことでもわかる。つまり労働は呪いとして与えられたのである。この呪われた労働を拒否するために2千年も前に老子が鍬まで使うこと嫌い捨てたのである。無用の用とかの思想が生まれたこと自体、有用な人間、労働する人間が膨大なものとなっていたのだ。その労働の延長として戦争すらあった。戦争の原因が最近でも石油のためとか資源戦争とかいわれるように経済に労働にも関係している。失業対策とか労働を作り出すために戦争がある。満州開拓も働く場の確保、土地の確保のためでもあったからだ。この人間の膨大な労働力は自然を破壊する凄まじいものである。エジプトのピラミッドも失業対策のためだったということも納得がいく。人間は働かないでいられないのだ。別に金がないからというのではなく、食料のためでもなくただ闇雲に地下に穴を堀ったりピラミッドのような建築物を建てるものなのだ。バベルの塔を建てることに駆り立てられる。労働はすべて有益でありという思想に凝り固まっているからだ。ともかく働かない人間は不敵な非社会的人間となる。ニ-トとかフリ-タ-が増えたことへの反発もそういう面からきている。有益でなくても働かない人間にがまんできないのである。人間は地べたを這いずり回っていても働くべきだというのが人間なのである。労働の奴隷になれということなのだ。
戦争に狩りだされる人間をかえって無益なものとして不具者の方が戦争に行かずにすんだと不具者をほめたのである。これは何も過去の話ではない、太平洋戦争でもわざわざ戦争に行きたくないと醤油を大量に飲んで病気を装ったということもある。

 昭和3年,まだ戦前で贅沢な徴兵検査をしていた時,視力が悪かったじいちゃんは乙種合格となり,入隊せずに済んだ.「まあ仕方なかんべや」
と,検査後駅前の喫茶店でマターリとコーヒーをすすっていたところ,隣の席の二人が,「いかにして検査を誤魔化して不合格になったか」を得意げに話し合ってた


http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html

身体検査で甲種合格とかのものは真っ先に戦場の最先端に送られ戦死した。その戦死も今になると反論もあるが無駄死にだったと犬死にだとか言われるまでになっている。人間の有用とか無用は時間がたつとわからなくなるのだ。その時有用とされても結局無駄だったとかされる。そもそも戦争に正しい戦争などないからだ。今になって植民地解放だとかアジアの大義のためとかいくらいってもそれをそのまま信じる人は少ないし何かいくら主張しても虚しいものがでてくる。だから赤紙がきてそのまま素直に疑問もなく戦地に行った人たちは単純であった、考えない人だったともなる。ほとんどの人が疑う余地もなく強制的に行かされたともいえる。でも狡猾ともなるが兵役を逃れようとした人もいた事実があったのである。その人たち当時なら非国民だが今になると誰も責めることもなくなっている。本当に国民が戦争の是非を真剣に考えて兵役拒否したら戦争自体遂行できない、指導者がいくら言っても戦争自体できなかったのである。
 
●社会から離れれば離れるほど全人間に目覚める皮肉

組織と全人間の対立はなぜ起こるのか?現代文明は誰も全人間として向き合う対処する人がそもそもいないのである。上野霄里氏の人間と思想を理解している人は非常に少ない、不可解なものとして以前としてある。それはなぜなのか?それは文明の中に生きること生活すること自体-全人間-本来の全人的人間を失うようになっていたからだ。全人間として自覚することが文明のなかにとりこまれるとわからなくなる。文明の機械の細胞になっていることが当たり前となる。また細胞と部品とならないかぎり文明社会では生きていけない。文明下の労働はどんな高度なものでも細分化しているから全体として生きることはなくなる。どんな職業についても人間はすでに卑小化されているのだ。政治家でも一見大きな人間に見えるが実際やれることは限られている。すべての職業でやれることは限られている。要するに部品としての仕事しかできないのだ。社会から離れるという時、普通の人は非常にわかりにくい。彼がとりあげた人間は社会から離脱したような変人、奇人とか言われる人である。今でこそその人間は価値あるものとして認められているが生きているときは何ら価値を見いだされていない人たちだったのだ。前にも述べたように文明から離脱することは本来の人間性回復するという皮肉な結果になっているのが現代なのである。なぜならそのとき時間はその人のペ-スで流れるようになる。細分化された労働に酷使されることがなくなる。原生の時間を取り戻すことができる。それだけでも本来の人間に目覚めることがありうるのだ。だから無駄飯くらいになり無用の人になれというのもそのためである。現代の文明で有用の人になることは即文明の部品化されることだからである。

江戸時代の沈黙と闇の世界を取り戻すにも言わば文明社会から離れ仙人のような生活をしてみる必要がでてくるのだ。禅の修行のようなことを10年間も石に面して黙すようなことをする。これが沈黙の世界をとりもどすことになる。そんなことをすることは社会では許さないしそれは異常な人間になるのだ。昔だったら修行はそういうものだった。今は葬式の意味不明な呪文を唱えるのが坊主でありそこに何か価値あるものが見いだせないのである。沈黙や闇の世界に人間を深化するものがある。その人間を深化するものを文明社会では作れないのである。芭蕉の廃れない俳句はその沈黙と闇の深い背景から生まれたのである。だから耳の詩人だった。古池や蛙飛びこむ水の音でも蝉の句でも沈黙の中にひびく音でありその音の余韻が深いが故に今でも深い味わいをもつのである。でも実際は蛙飛びこむ水の音は今や完全に車やその他の騒音でかき消されているのだ。原生の闇、原生の沈黙、原生の時間の回復が本来の人間に目覚めさせるのである。

すべての時間が重大な意味であふれている。小鳥の羽ばたきの一つ一つに文明の言語と発想とは比較にならないほどの濃度の高い意義がある。(離脱の思考-上野霄里)

天の父の意向なくして一羽の雀も地に落ちない・・・・というとき無益なもの無駄なものが自然界にはないということなのだ。芭蕉は上野霄里氏が推奨するような人間ではないにしろ自然の深さを体験できる環境にあったからこそ名句が生まれたのである。とにかく原生の時間をとりもどすことが全人間になることに目覚める。時間と沈黙が奪うのが文明だからだ。どんな平凡な人間でも60年生きれば時間のなかで成長して会得するものがある。それはその人間が天才とか才能あるとかとも違う、時間の大きな作用によるのだ


時間は許しであり寛容を生み
時間のなかで自ずと大木のように
知らず成長するものがある
時間のなかで会得するものがある
時間は切り取ることもつかむこともできない
時間は計りしれぬ神の作用であり
ただ待つ時間も無益な時間ではない
充実した期待の時間である
時間のなかでなべて成熟して
新たな相互の創造が作り出される


●組織人間と全人間の対立

上野霄里氏がなぜあれぼと組織人間を徹底的に批判したのか?組織人間は宗教であれ政治団体であれ会社人間であれそれらは確実に全人間を奪う、全人間として対処しないのである。組織化した人間は一個の全人間を切り捨てたところからはじまる。組織化されたときもうすでに全人間として生きることは不可能である。一方で組織化されたものは組織化されないもの部品化されないものは人間として認めないという絶対に相いれない対立がある。組織化は非情化、非人間化なのだが組織に入っている人にすれば組織に入らないものは人間ですらないのだ。宗教団体でも会員になれば人間として認めいろいろかかわり助けることもしてくれる。でも会員にならないものは何ら手助けをしない、何も具体的にしなくてもいいが心の中でもしない、組織人間は不思議なことに一個の全人間を決して認めたりしないのだ。愛というのは一個の全人間にあるということも教会組織では認めない、教会の組織に入ったものだけがやはり会員であり人間として認める。一個の全人間として愛をもつ人間など認めないのである。そもそも一個の全人間として対処するものはいないのだ。そしてこの世はすべて組織化社会化しているのだから組織に入らないものはこの社会に存在しないと同じなのである。

出版なども実際は出版社があり組織があって本もだせるしマスコミも一つの民間の組織体であり組織の一員となることで出版もできるようになっている。組織に入らないかぎり人間の存在はありえないのが現代なのである。組織に入った時、人は常識的普通の人間として認めるのである。組織に入らない人間はありえない、存在しないのが文明社会なのだ。そもそも全人間とは何かということすらわからないから全人間として対処することもできないのだ。全人間として向き合うことがどういうことかわからないから対処しようがないのである。ともかく現代文明のなかで組織人になること自体確実に全人間としての原生性はどこかで剥奪される。一つの部品として使われるようになる。それが優秀であればあるほどそうなってしまうかもしれない、ある一分野に詳しい人はある意味で異常な才能が必要でありそれは奇形化しているのだ。全人間的バランスは完全に失われてしまうのである。全人間として存在感は文明社会から離れて暮らしていると自然と身につくという皮肉があるのだ。それは平凡であっても天才でなくても文明社会より自然の宇宙のリズムに感化されるようになるからだ。


一人の立派な人間は過失を犯し、敗北しても失敗しても、それでいてなお偉大なのだ
(シェ-クスピア)


人間は誰でも失敗する、失敗するから成功もある。失敗と成功は表裏一体である。人間はそもそも一つの失敗などで計れない、過失があったからといって計りえない存在なのである。全人間として生きることはそういう失敗も過失も許容するのである。失敗や過失も偉大性に結びつく、遊びが芸の肥やしだというときと同じなのである。社会的文明的部品的人間としては失格としても全人間としてはなお人間であり許容されるものとして人間は巨大化する。文明社会はこうした全人間は認めないし存在しないし見えないのである。文明の細分化した部品の仕事して失敗しても全人間としては失敗はない、過失はなく全人間としての偉大さは継続されるのだ。人間の存在、偉大さは部分ではない、全体として宇宙に、自然に感応するものとして偉大なのである。全人間は一つの宇宙だからこそ文明の仕事で失敗、過失があってもそれですべてを失うわけでもないのだ。しかし一方で文明の歯車としてあらざるをえないから実際過失は致命傷になる。交通事故がそうである。ちょっとした不注意が死につながる。これは一面人間の尊厳を自動車が踏みにじっている現象でもあるのだ。文明の利器は一面すべて人間の尊厳をふみにじる。これは猿害の問題でも指摘した。とんでもない高いビルディング自体すでに人間を蟻のように見下し卑小なものにしていると同じなのである。文明と対比するときピラミッドが人間よりとてつもなく大きいからピラミッドの方が人間より大きな存在となったと同じである。それはとりもなおさず文明が人間より偉大という錯覚を生み文明の下で奴隷化されることだったのである。

いづれにしろ文明組織人間と全人間はそもそも絶対に相容れない、全人間であることは結果的に非社会的人間になってしまう。全人間は組織人間の憎悪の対象になってしまう。歴史に名を残した宗教者は全人間であるが故に迫害を受けたのである。単独者として全人間であろうとすることはすでに十字架なのだ。組織社会に受けいれられないものなのだ。組織化した宗教は全人間としての宗教ではない、非人間的だからこそ組織化できるのである。組織化した宗教団体は俗的な低次元な物質的欲望のなかで結びつくのであり全人間的高揚のなかで結びつくことはないのだ。組織化し団体化することは結局俗世の欲望の達成として一致団結することになる。全人間的宗教的高邁なものをそぎおとすからこそ組織化できるのだ。愛自体が組織化団体化できないのである。愛は全人間としての愛だからであり組織化された愛ではない、だから慈善運動は愛とならず偽善になることが多いのだ。全人間となることは神の創造した世界が一全人間に反映されることである。神の似姿として作られた人間だからこそ当然そうなるのである。当然人間は自然より宇宙よりも偉大な存在なのである。宇宙といってもこれが物質だったらいつか滅びる、消えるかもしれない、しかし主-キリストは神だから死ななかった。永遠の命の君だった。だから宇宙より超越した存在だったのだ。そのような光輝を神から与えられたしそれは平凡な普通の人間にも与えられるのである。人間を装うものは文明ではなく神の創造になる美であり永遠の命なのである。





原生人間の詩の部

荒野に原生の磐の顔

知られざる処

荒野の果て

森の果て

海の果ての島

そそり立つ変わらざる

原生の相貌の磐

寥々たる風の唸り

大鷲の羽ばたく翼

フェニックスの翼よ

真の人なれ

原生人間なれ

孤高の魂

不屈の魂

磐に宿り生きている

知られざる処

荒野の果て

森の果て

海の果ての島

濃密な花の香りの流れる処

深々と息を吸い

文明の時を知らず

悠久の時の流れに

その厳粛な磐の顔

その奥処に見つめるもの

文明は海に沈み砂に埋もれ

地底に沈みいつしか消えぬれ

そは文明の知られざる果てに

人間の原型を保ち

原生の磐となりて

真の人なる姿なれ

その果てなる奥に

神秘の影を濃くして

伝説の人となりぬれ


伝説のフェニックス
http://www.livius.org/phi-php/phoenix/phoenix.html(英語のサイトの美術館にあった)



孤高なる美

我が胸に迫ってくるものは

厳しい美の独立峰

その輪郭も際立ち

群を抜いてそそり立つ

風雪がその山巓に帯び

しびれるような冷水が

奥深い谷間に流れる

独立峰は厳しく反りたち

原始の岩肌荒く寥々と

頑固に一本貫くもの

常に拒絶するごとく迫る

天にも貫く強烈な意志

従容として悠久の時に

いつも画然としてそそりたち

我が胸に迫ってくる

我々は濁世に汚れるを良しとして

世の闇のなかにまぎれる

しかしその中に孤高なるものあるべし

独り気高く悪を穢れを拒絶するもの

今日も山巓は凄まじく吹雪いている


文明を離れた島の時間

大地からすくすくと成長し

まろやかなふくよかな裸身

大地に密着した大きな素足

天から贈られた大きな果実

甘い香りを放出してやまず

欲しいまま天真爛漫の光を放つ

そこに猥雑なものがなく

芳香の満ちて大輪の花と開く

潮風とやさしい波のひびき

健やかな笑いが木霊する

文明の雑多なものはそこになく

ゆっくりのっそりと亀が歩み

島の時間は人間の時間

ゴ-ギャンは木陰でまどろみ

大きな鮮やかな蝶がとまっている

そこに強制される労働はなく

ゆるやかに人間の時間が流れ

石の貨幣は無用のものと海に沈む

それ故に金で計られぬものが

そこで以前として価値を持つ

今日もやさしい波の音がひびき

椰子の木陰に老人が休む

心地よい回想の日々があり

小舟で漁をする変わらぬ暮らし

祖先の墓には涼しい夕べの風そよぎ

その営みの永続に満ち足りる



二人のタヒチの女(ゴ-ギャン)

ニ-チェの大食くらいがありゴ-ギャンの逃避癖が上野霄里氏が言う時、天才はみな神秘的なのである。それにしてもゴ-ギャンもタヒチで自殺を試みはてには誰にも看取られることなく死んだというのも悲惨である。芸術家、天才も悲惨なのが多い。凡人的なものを陵駕しているからそうなりやすいのだ。天才自体すでに悲劇なのかもしれない、凡人のなかですでに天才的であること非凡であることは悲劇に通じているのだ。上野霄里氏も凡人を陵駕しているから非凡だから異才を放つから凡人が近づけないものとなっている。二人のタヒチの女という絵を見てただその線をまねて描いたら抽象画になっていた。抽象画は全然才能がなくてもパソコンの操作でできる場合があるのだ。


裸の楽園の島?

はるかな南の島、そこに楽園がありや

若々しい体に乳房がゆれて風がそよぐ

椰子の葉影のゆれて日がな休む島人

悪徳はまだ外から露骨に入って来ない

商人はめったにここに来ないのだろう

一網打尽に魚を取りつくす機械もない

長老は延々と神話と伝説を今も語っている

その言い伝えを守ることが島の法律である

貧しいが熱帯の島は裸でも過ごせる

鮮やかな蝶が長々と大きな原色の花の蜜を吸う

そしてまた紋様の異なる蝶が舞ってくる

極楽鳥がさながら憂いを知らず恋のダンスをする

日々の食はここに欠けることはないのだろう

タロイモは容易に育ち人の手を患わせない

人はそれほど労苦して働く必要がない

ここでは機械に使われたり公害もない

女性の裸を特別な好奇の目で見る男もない

文明人のように性の欲望が過度に作られることはない

それは自然なことであり肌を隠す必要はない

かえって暑苦しく不自然なことになる

ここは本当に楽園なのだろうか?

この世にまだ楽園があるのだろうか

おそらくただ外から見ていると楽園があり

その小さな島に住めば不満があり争いもある

なぜならそんな小さな島ですべてが満ち足りことがない

人は外からのものを要求するから

 

NHKの「飛び魚街道を往く」という番組ニュ-ギニアの島で裸で暮らす人を写していた。そこには若い女性もいた。それがういういしく新鮮な裸だった。極自然な裸だった。文明人はあまりに性にたいして技巧をこらしすぎた。性欲の欲望は過剰に作られてしまったのだ。文明人はあらゆるものに欲望を拡大化するのだ。資本主義そのものが欲望を作るのである。バブルになるのも欲望の過剰化の結果として起こる。欲望が自然の摂理から離れて過剰化する。裸は別に南国では自然なのである。暑いのだから自然とそうなるし裸でいると涼しいからそうなる。女性が裸でも自然であり裸も見慣れていれば特別なのもでなくなる。かえって隠すこと異常に性欲を刺激する。そして女性は衣装をまとい男をまどわす・・・これこそ欲望を過度に刺激することなのだ。ゴ-ギャンの絵にはそうした文明人の性を刺激するものがない、極めて健康的な裸の女性が描かれている。ところがアフリカの原住民に飛び込んだ女性の裸は別物だった。それは性を刺激する白い肌のものとなっている。これは性を売る映像化だったから余計にそうだった。不思議なの同じ裸でも文明人の裸と原住民の裸は違っている。文明人の裸は衣服をまといその衣服から裸になること自体、性の欲望をそそるものとなる。女性は技巧的に常に性を欲望をそそるものとして作られてしまっているのが文明人なのである。
 
文明人が裸になる時、それはすでに不自然であり性の欲望をそそるものとなる。一方原住民が裸になっているのは性をそそるものとしてあるときはある。それは自然の動物にも性の営みはあるのだかいつもあるわけではない、一時期、発情期になると同じである。だからいつも性欲の対象として見るわけではない、日常的には裸でいても自然であり見慣れているから特別なものではないのだ。つまり文明人はすでに衣服をまとう歴史が長いから衣服をぬぐという行為自体が性欲をそそるものとなる。もともと裸だったらそういうことが常にあるわけではない、文明人の裸と原住民の裸は同じ裸でもすでに違ったものである。日本も南方系の文化として腰巻きとか高床式の家があったから南方系の文化も色濃く残されているし日本でも海女は裸であったり日本でもあったことなのである。ともかく純粋に裸になれなくなっているのが文明人なのである。ゴ-ギャンの絵には文明人の裸を感じないことでもわかる。直観的に描いた結果としてそうなったのである。そこには原生人間としての裸があった。上野霄里氏もそうした原生人間を自らを裸にし示したのである。

 
西アフリカのボンゴ族の男たちは裸の女性には興味をもちません。
彼らは、服を着た女性の姿に性的刺激を受けるのです。だからボンゴ族の女性は
男性を刺激しないように普段は裸で生活。彼女達は性的な儀式や踊りのような
特別の場合だけ、男性を性的に興奮させるため、服を着ます

 
これが本当だとすると文明人と逆になっている。かえって裸は性欲を刺激しないのだ。服を着たとき性欲を刺激する。服を脱がせたいとか妄想が起きてくるのである。文明人の方がきれいな衣服をまとっても実際は不自然になっている。文明人で当たり前なことが倒錯した異常なことになっている。裸こそが健康的であり
普通であり衣服をまとうことは不自然なことだから欲望を刺激することになるという不思議がある。
 
ただ本当に南の島が楽園なのかというとこれは外から見ているからそう見えるのであり現実の島は全く違っている場合がある。沖縄でそうだった。小さな島はまるで監獄だったのである。ほとんど自由はない、常に監視されているしすべてが知り尽くされる。何も隠すことはできない、自由がない閉鎖された世界である。人間はどこであれ旅人として訪ねればそこは楽園になるがそこに住んでみて楽園になる所はない、それがそうしたものがテレビだけ見ただけでは見えないからである。
この番組は再放送だったからもう一回やるのか、録画しないのが失敗だった。

トビウオ海道を往く~赤道直下から日本5000キロ~


原生の森の鷲

人間よ、動物よ、その一生を野を走り、野に伏し、野に死んでいく一頭の狼であれ
生涯天空に舞う鷲であれ-離脱の思考(上野霄里)


A place once you have been there,
Your faith, will increase (Wings of An Eagle-by D. Enise)


太陽は燦として みなぎる深い空の静寂

眼光は鷲 俯瞰する眼 荒々しい爪

電光石火 仕留める餌

玲瓏の山上湖 孤高の峰

不羈の魂 反る巌の上

風の鳴る音 絶顛に死すや

原生の森深く 従わざる者、王者の鷲

厳粛にして苛烈 絶壁に君臨するもの

至言を吐く哲学者 言葉は火となり

岩石は燃える 噴火した溶岩の熱さ

冷徹な石と化して 濃霧にぬれて

太陽は燦として みなぎる深い空の静寂

沈黙に千歳隠さる石 徒な乱れる人影は消え

神の想(イデ-)の具現 踏破されぬ高き頂き

聖域に神秘の花の咲く そは神の宝

不羈なる魂は 上昇気流にのり天に昇り

風雲の中に 野生の咆哮の木霊して消える

その霊はシリウス(天狼)となり 永久に輝かむ


インタ-ネットに出た詩の不思議(天狼星(シリウス星)は上野霄里氏のイメ-ジと合致?)


「シリウス星」
http://pub.ne.jp/20071203MOTOTO/?cat_id=58126&page=2

インタ-ネットの不思議は今までにないものがでていることだ。詩の分野は限られている。発表する場も限られているしだからいい詩を書いても知られることがない、ただコマ-シャリズムにのったものだけしか書店には置かない、出版そのものが金にならないものは相手にしない、詩はマイナ-ものだから余計にそうである。現実詩人というと今誰を思い浮かべるかというと谷川俊太郎くらいしかいないだろう。コマ-シャリズムにのらない限り出版されない、小説でも出版社が宣伝するからこそ知られるのでありその人とか作品はあまり問題ではない。インタ-ネット時代になったら無数に表現されるようになった。インタ-ネットだと制限なく自分を表現できることが最大の魅力なのだ。本にして出版とかなると普通の人はできないしできてもかなり制限される。インタ-ネットはだから詩とかちょっとした小説とか何でもその人なりのものを簡単に出せる。だからつまらないものが多いから読むに値しないともなる。膨大なゴミが混じるからその中からいいものにあたるのは至難だとなる。でも一編とかいい詩を書く人はいた。この詩にはつくづく感心した。自分も上野霄里氏をイメ-ジして書いたがこの詩の方が数段優れている。この一つの詩だけが特別優れている。他の読んでもそれほどではない、天狼星(シリウス)としてこの詩はマッチしている。でもこれを書いた女性は別に市井の普通の女性である。それでもこの詩を書いたことに驚く、それが上野霄里氏のイメ-ジと一致していたからである。こういうことめったにないがやはり世界は広いしインタ-ネットの世界は広いことがわかる。埋もれた人の作品がインタ-ネットに出るようになったのである。これまでもいい詩はあっても出版も書店にも並ばないから埋もれてしまっていたのである。不思議なのは特に優れた詩を一つは人間は作れる、その一つの詩だけでも後世に残ることがありうる。詩とはそういう側面がある。この詩はそういうものを感じた。他にもそういう詩があるがなかなか発見しにくい、これはわかりやすいし上野霄里氏のイメ-ジと合致したので驚いた。それでここに紹介した。他の人も感想書いていたがやはり感心していた。でも上野霄里氏の人と思想とは別に共鳴するものはないから残念だとなる。

人は人であるかぎり 独りでは生きられない
月が太陽によって輝くように
人も自分としての存在を 
多くの人達の支えと 仕事や愛によって輝かせる


ここが上野霄里氏の人と思想とはかけ離れている。この女性は社会運動家のようでもあり社会にかかわるから上野霄里氏とは思想的にも共鳴する人ではない、こういう思想や生き方は彼にはない、人は人であるかぎり 独りでは生きられない 多くの人達の支えと 仕事や愛によって輝かせる・・・・となるときどうしても社会主義的集団主義になる。予言者でも多くの人たちの支えが全くなかったからである。多くの人たちに援助されようとすれば予言者でも哲学者でも多くの人たちに媚びなければならないしその思想の基準は多くの人たち、大衆にもおねることになる。だからシリウスを詩にしたのは感心するのだがその生き方において反対のものになっている。この言葉をのぞいてシリウスということに焦点をしぼったら良かったがどうしても詩にはその人の生き方や思想が反映されるのだ。

誰にも煩わされず 誰にも指図されない
自ら発光するものの強さが 限りなく畏敬される


このあとの行と矛盾している。誰にも煩わされない、誰にも指図されないとすると多くの人たちの支えと・・・は矛盾しているし、現実の生活はそうなのだからこの詩と生き方がマッチしていない、上野霄里氏からみれば社会から離れられないディレタントの詩人だとなる。もちろんこれは別に知られた詩人ではない、シリウスについて詩を調べて感心したのである。


Wings of An Eagleby D. Enise

http://66.220.11.194/visit/viewpoetry.asp?AuthorID=4458&id=2543

インタ-ネットでキ-ワ-ドで探したらこの詩がでてきた。そこでヒントを得たのが「太陽は燦として みなぎる深い空の静寂」と読んでいるうちに日本語にした。詩でも言葉より先に世界共通としての詩があるのだ。言葉を理解する前に詩を理解しない人は訳すことはできない、まず訳す前に直感的に感じることが先決なのである。芸術は分析ではない、直感的に常に感じることである。それは絵でも写真でも同じである。だから私はインスピレ-ションを受けてパソコンで加工して抽象画やその他連句などを作ってきた。インタ-ネットはリンクすることであり創作するのにも外国まで実際はリンクしている。詩の創作も共通したものがあるからだ。つまりイ-グルというテ-マでどこにいい詩があるということを探しているのだ。テニスンのイ-グルでてくるがこれは古くなってそれほどのものではない、でもインタ-ネットで新しいいい詩を発見することはむずかしい。英語の詩を評価するとなると言葉の障壁でむずかしくなるからだ。この英語の詩はシンプルであり訳さなくても直観的にわかるからいい、詩はそもそも訳せないからである。




大いなる山-現代の一者、覚者の声




大空に輪郭画然と明瞭なる大いなる山は声を放つ

一者なる、覚者の声を聞け、衆はただ黙せよ

我が声は神のごとく大空に、山々に、野にひびきわたる

真理は真実は一人に宿り衆に宿らずと

汝は衆に語らず、大空に山嶽に野にその声を放つ

その声ははるかかなた海峡を越えて外国にまでひびきわたる

天を衝くその威風堂々たる山嶽は白銀の雲を帯び

黄金の光につつまれ日々新たな様相を帯びて顕現する

山頂の濃霧のなかの岩盤に花は秘められ隠され咲きぬ

その言葉は磐と鋼(はがね)とダイヤモンド

無益なる争いせず雲を衝く天空に画然と聳え立つ

涼風は吹きわたり銀河が燦然と飾る

噴き出した溶岩流の堆積、それは熱い燃える心の塊り

一者なる、覚者の声を聞け、衆はただ黙せよ

衆は覚者に対して怒りただ轟々たる批判あるのみ

その磐に覚者の言葉はケルビムの手になるごと漏刻されぬ

シナイ山を十戒の石版をたずさえおりてきしモ-ゼのように

衆はただ黙せよ、雑音は消えよ、覚者のロゴスの言葉は永久に残らむ

その大いなる山の光輝と威容は色あせることなし

日々新たな様相を帯びて汝を魅了しやまぬ

その相貌は凝然として玲瓏たる鏡の湖面に影を写し

スイスの教会の尖塔は澄み渡る秋の空をつく

神空に一者の透徹した炎と化したロゴスの声はひびきわたる

その神空に一人下界を見下ろして去りゆく真人の姿が見える

千年、万年ありても知りえざるものの神秘よ

汝の齢は百歳なりと短く神の業を知るよしもなし

千年、万年の日ありてわずかに知るもののあれ

汝は知らず、故に奢るべからず、神の前に謙虚なるべし


上野霄里氏自身は芸術家ではない、芸術を創造する人ではないのだが芸術を創造することを励ます第一級の人だったという不思議がある。こんな人もいるのだなと驚きだった。明治時代の岡倉天心ににていた。岡倉天心のもとに名だたる画家が集まったことでもわかる。芸術家を鼓舞する第一級の人だった。もちろん芸術の審美眼ももっていた。それ以上に彼自身が孤高の哲学者であった、現代の覚者であった。だから明瞭な思想を主張をもっていたのである。それは天才故できたことでもある。ただ自然はそれ以上の神の業になるものだからとても一個の特に普通の人間では究められないものである。自然と人間を一致させることは至難である。なぜなら自然の崇高さと人間の崇高さを一致させるほどに崇高な人間でありえないからだ。自然は人間化して自然も活きてくるというのは確かだがではヒマラヤのような崇高なものが人間の中に存在するかというとむずかしい。だから人間は神の業なる自然の一部を現しても全体を現すことはできないのだ。自然はあまりにも巨大で奥深いからである。

詩人になるというときまずその人の才能より若いとき実地に旅したり登山したり労働したりといろいろ体験を積むことが後年それが詩にも反映されてくる。実生活の反映として詩もあるし文学もあるからだ。農業で苦労した人はより地についた詩を書ける。ビジネスでもそうである。詩も現実生活の反映だからだ。でも日常生活の小さなものに没頭すると大きなものが見えなくなるというものも本当だろう。毎日食事の用意や家事に追われていたら大きなものは見えなくなってしまう。そういう経験をここ三年間してきたからこのままで介護で一日の旅もできない、ということは広い世界の空気を吸いず牢獄に入れられたと同じだと思ったからだ。詩人になるには才能もあるが実体験が優先して創作は後年すればいい、創作はいろいろな体験の積み重ねの結果なのだ。詩語を学ぶ、ふやすことも大事であるがそれは体験のあとでふやすことができる。ここに書いた詩も実はルツェルンのピラトウス山に感動したことが基になっているのだ。それは2000メ-トル級ではない、雲をつくような巨大な山に見えた。山は見る角度によって全然違って見えるのだ。その雄姿は忘れることができない、 その他岩手山に登ったとき焼け走り溶岩流の中を下ってきた。 この大いなる山がピラトウス山と岩手山を合体して作られたのだ。私の心の中でこの二つの山が合成されてできた詩だった。その山が覚者たる一者たる上野霄里氏の相貌にだぶって見えたのである。 人間も一人では巨大にはなれないのだ。天才ではない自分など特にそうである。人間も合体すれば巨大になる。二人の人間でもかなり巨大なものとなる。ルネサンスは天才が集合して生まれた。二人でもルネサンスは起こる。集団からは一千万人いてもルネサンスは起こらないのである。いづれにしろこの時代の覚者は本当の天才は極めてまれにしかいない、学者とかいろいろ能才はいる、これはコマ-シャリズムの出版にのって有名になる。「バカの壁」とかいろいろ出るがそれは何百万に売れようが一時的気晴らしに読まれるがあとは忘れ去られる。そんな本あったのかとかなる。現代ではこれだけ強烈な個性を出した人はいない、だから現代の覚者なのである。

自己を他者のなかまで拡張していく、聖なる侵略」 というときここに一つの問題があった。上野霄里氏という圧倒的存在によって占領されてしまうことだった。占領されたら自分はなくなってしまうのである。凡人はそうなりやすいし遂に偶像崇拝になることが危険だったのである。一方的に侵略されてはならないのだ。そしたら一方は奴隷になってしまうのである。現実そうなりやすいのである。ただ地球や宇宙の全体を見れないように巨大な天才の全貌を見ることはむずかしいのである。



地球環境史観や原生人間史観 と老荘思想は共通している

原生環境の大地の回復



炎の言葉(ロゴス)を吐く龍

変転自在に大自然を血肉として

縦横に疾走する野の獣

誇らかに角をつきたてて突進してくる犀

草に臥し岩窟に眠り樹上を塒として

野生の咆哮がひびきわたり

原生の森の夜明けを待つ

曙光に大鳥の翼は羽ばたく

崇高なヒマラヤの峰を仰ぎ

大輪の清浄の花は開きぬ

悠々たるかな南冥を飛ぶ大鵬よ

大河は滔々と流れ尽きじ 広大な大地

川イルカがはるか大海よりさかのぼり

川のイルカとなりて海に下らず

太湖は海のごとく広がり神秘を湛える

モンゴルの平原に白雲の流れ

小さな湖は花に囲まれ神の顔写している

国の境はなく風は花々を求めて吹きそよぐ

まだ原生の大地に人間の営々たる労苦の歴史は始まっていない

激しい戦争や殺戮によって地はけがされていない

労働を強いられとがめる人はいない

王の巨大墳墓を築く労役に狩り出されることもない

実りの果実は労せずしてふんだんに得られた

中国三千年の歴史は誇るべきものなのか

血にぬられた殺戮の歴史でもあった

故に老子のうよな歴史を否定する人も現れた

正義を唱えて容赦のない殺戮が歴史でもあった

それ以来平安の日は破られ地に人は呻吟する

ああ 馥郁たる花々の香りは流れて原生環境の楽園はなおありや

シ-ラカンスは文明を知らず太古の夢を見ている

文明もまた一時の悪しき夢なり、壮大な悪夢なり

美しき夢にはあらず後の世の禍なるを労役なるを知るべし

無用の石よ、そは文明を知らず千年眠るべし

用を作りすぎた文明よ、徒に疲労はまして休むを知らじ

文明よ、安らかな眠りにいやされるべし




●戦争の原因は文明(石油)自体にあった

現代はグロ-バル化というときglobとかearthはnation-internationalとは違う、地球生命環境史観の分野が生れた。こういう観点から地球の歴史を見る学問はなかった。20世紀は様々な新学問がグロ-バル化で生れたのだ。地球史観とういうのは国を基準にしていないし地球に住む共通の人間としての地球史観の追求なのである。環境問題は国を越えてグロ-バルに取り組まない限り解決方法がないのだ。グロ-バル化とは経済の分野とか一分野で起こったのではない、総合的に起こった問題である。つまり地球史観からするとエジプト三千年の文明や中国文明は何だったのかという大きな問いとなりその中で見直されることになる。そういう巨視的な視点さえ世界旅行が庶民化したき庶民的問題にもなっていったのが現代だったのだ。では二十世紀に実際に世界を俯瞰できるようになって生れた地球史観が過去になかったかというとすでに二千年前に中国にあったのである。それは今のように科学的に考察されたものではないが思想としてあった。それが老荘の思想だった。文明否定の思想があった。そういう思想がすでにあること自体中国は相当文明化されていたから自然に帰れというルソ-の思想がそんなに早く生れていたのである。鍬を使うと人間性が奪われるから使わない方がいいとか今なら自動車は公害になるから原子力が危険だからとすぐにわかるけど鍬まで否定するのは二千年前の文明にしては極端だったから驚くのである。

戦争は何らかの正義を主張して行われる、戦争に行けずにすんだ不具者をたたえているのも普通にはありえないことである。日本の戦争にしても徴兵検査でわざと兵役にとられないように不合格になるようにごまかした人がいた。戦争がアジアの正義の戦争とかのイデオロギ-にこりかたまっていたときそうした思考をして実践していた人が日本にもいたことに驚く、戦争で死にたくない戦争で死ぬのは馬鹿げている、でも公にはむずかしいから戦争を巧妙に逃れたのである。それが今になると別に非国民でもなんでもない、賢い人だったとかなってしまっているのだ。一方であの戦争は日本がアジアの大義、欧米と植民地化と戦う戦争でありアジアに誇りをもたらした戦争とか言う人も根強くある。これもnationの枠から離れられないからそうなる。これを地球史観的に考えると戦争の原因は文明自体にある、一つの原因として文明は石油文明だから石油を獲得する補給路がたたれ日本は戦争せざるをえなくなったとか言う人も多い。つまり石油が戦争の原因でありそれはとりもなおさず石油に頼る石油文明が世界戦争を作り出したともなる。もし零細な木炭をエネルギ-としていれば戦争は起こらなかったともなる。

●過剰な文明の労働の否定

文明はまた過酷な労働に使役されるという見方もありこれはマルクス主義にもなる。文明は過剰な過重な労働を作り出す、そして営々と過酷な労働に使役されるからそれも無駄だ、無用の用を主張した老荘の思想はこれも二千年前にはあったから驚くのだ。どんなにしたって常に労働はたたえられ労働なくして実りもないから労働せざるものは食うべからずが思想になるのは当然だし日本でも勤勉な民族としてたたえられる。戦争を否定する、労働を否定することはできない、それは異端となる。でも地球史観がでてくると文明の労働の過剰は資源の無駄な消費だとか違和感なく労働も否定されるのだ。事実文明は無駄な消費が多すぎるからそのための労働も莫大なものとなり地球環境の破壊に通じている。「
野の百合を見よ。労せず、つむがざるなり、されど、神はこの様に美しく装いたもう。ソロモン王の栄華も及ばず」もつむがなくても労働しなくても花は美しく装われている。事実文明はなぜこれほど労働している、日々つむいでいるのに醜悪なものしか作り出せないのか、文明は百合の花より美しいのか?今も同じなのである。上野霄里氏の原生人間史観というのもこういう地球を一つのものとして巨視的に見ることから生れたのである。それは一番老荘の思想に近いのである。老荘の思想と地球史観は共通している。結局文明が石油文明だとするとき石油が災いのもとだともなる。石油を使わなければ悲惨な世界戦争はなかったともなる。

それは鍬を捨てろという老荘の思想に通じているのだ。現実鍬はどんどん進化して鉄となりやがて刀となり武器ともなっていったからそういう警告はすでに成されていたともなるのだ。文明の中にいきる限り文明は価値あるものとして追求される。自動車を作り暮らすものは自動車がすべてであり自動車はなくては死ぬほかないともまでなるから自動車文明になる。自動車が最高の価値あるものとなる。だから自動車故に戦争にもなる。自動車が売れなければ死ぬほかないとまでなる。だから文明の中で生活する限り文明的価値観からは逃れることはできない、でも文明から離れてみるとき文明はそんなに価値あるものなのか、文明のために酷使される酷使を作り出す文明自体に疑問をもつようになる。結局無用の用が実は大きな用であり人間には不可欠なものだとわかる。文明人は酷使され鬱病になり心休まる時がない、それは文明にあまりに依存して価値をおくからそうなる。人間が信じられない戦争の被害を作り出したの文明自体にある。ということは文明を離れない限り文明の価値観から離れない限り人間は戦争から逃れられないとなるのだ。地球史観からみるとき歴史は今までにない歴史観であり老荘の思想に通じているのだ。



原生圏の時




原生圏の時


文明の労働に酷使した時は刻まれぬ

石の時、樹の時、大地の時

樹が成長する時、その悠長な時

分刻みの時を告げるな

ここは神の住む原生圏

真実はここに静かに深く成長する

この原生圏に集団で押し寄せるな

個々にひそかに来るがよし

ここの時の単位は一万年だ!

その長い時の中に実りがもたらされる

ここでは何も成さないことが美徳

深い沈黙をここで学ぶ

何故に焦燥して成そうとするのか

この世にあせり成すべきことはなし

ここでは貨幣がすべてではない

信頼こそすべてであり真実の貨幣

信頼がなければ貨幣もありえぬ

ここで卑賤な商売はやめよ

原生圏外ではつまらぬものが馬鹿高い

原生圏内ではただ真実のみ価値の追求

金より時こそ貴重なるもの

時間は金では買えぬ

過ぎ去った時間を取り戻すことはできぬ

人間の齢はたかだか百年

神の齢は最低でも一万年、億年

人間よ何故にもがきあがくのか

神の備えし原生圏に腰を据えよ

高らかに力強く原生圏の尽きぬ日を讃い

新たな美を鮮やかに蘇る蝶のごとく創出せよ

原生圏のすみわたる空に自由に高く飛翔せよ

汝をとがめるもののここになく本性のままに生きる

樹々は律して岩は延々と黙しぬ

真実の実りを得るために長く耐えねばならぬ

自然は人の心に深く内面化され掟を作りぬ

原生圏に形作られる荘厳な神殿

そこにこそ真実の価値は試されて

厳しく価値なきものは排除される

一万年の時間で価値を失わぬものよ

それが原生圏の荘厳な神殿に蔵される



原生圏の森の人


大地に根を張り信頼を深める樹々よ

枝をさし交わしてますます強く揺るぎなし

直ぐに立ちつつ森の大聖堂を形造る

鳥の歌声は森深くひびきつつ静寂は深まりぬ

神はまた森の中に鎮めと石を一つ置く

それは新たな信頼を示して動かざりしも

正義の太陽は輝き信頼を培い分かち合う

日に日に神殿は強固さをまして揺るぎなし

平和のその自然の神殿にありて自ずと成る

外に訴えるべきものにあらず内に堅く形成されるべき

家々は森の中に隠れ質実な暮らし

ゆるやかな時の流れ牛の一歩一歩の歩み

大気を深く吸い心身を健やかならしめぬ

この森の聖堂を心鎮めて歩む者は真人なり

文明の騒擾に追われる者にあらじ

千歳の磐のここに黙して動かじ

充実したる原生の命が満ちあふれる

大地から再び湧き上がる力よ

青々と再び清き流れの岸に蘇る水々しい葉

新鮮なる食の素材はそこに供される

詩人の主食は果実と蜜と野草なりしも

明るい陽光の中にたっぷりと蜜は貯えられる

原生圏に育つ者は幸いなり

高らかに歌いつつ言祝ぐものよ

泰山木はこの中にありて汚れじ

誠の大輪の花はここに開きぬ

百才の長寿を生き老木のように枯れて死す

森の主は仙人と化せしやなお矍鑠(かくしゃく)たる老人なり

彼の吐く言葉は自ずと詩語となり歌となる

時間の中で成熟しない言葉を吐くなかれ

千歳の磐に座してあとは黙すべし






つかみえぬ行跡