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郷土史発見 小林勇一

塀の街−萩の不思議
地名をたどる旅(四国の貞光まで)
伊丹郷土史を読む
共通の歴史の発見(磐田市を語るホ-ムペ-ジ)

新発田(しばた)⇒津川⇒会津(阿賀野川にそい)(1)

阿賀野川の津川について語る(2)

羽越本線三瀬駅の記録

地名をたどる旅(四国の貞光まで)

四国の貞光町からはば山(端山)へ2005-4-20

蕪村の句の会津商人の意味するもの2006−10−5



塀の街−萩の不思議


萩の町の不思議は思っていたより小さな市だったことである。ビルがもっと立っている大きな市を想像していたからだ。あういう小さな町から明治維新が起こったことは不思議であった。松下村塾自体まさに村の寺子屋より貧弱なものだった。毛利藩は関が原の戦いで縮小されたということもあるがそれにしても小さな町だった。仙台藩というと今でも仙台の街は大きいし青葉城も高い所にあり大きく感じるが萩の町自体小さく感じたのだ。そして城の跡にしろ枯芒の堀に石垣だけが殘りそれがぽかんと穴があいたような淋しさを感じた。それは急速な時代の移り変わりで取り残された憔悴したような姿を象徴していた。それと同時に萩の駅も街の中心からはずれて取り残されたように残っていた。汽車は無用だとして街の中心からはずして駅を作った所があったのだ。今では東萩駅の方が中心となっている。

120万石から防長36万石に減封されたとき山口の町に藩の中心を置くことを幕府に願い出たが許されす、この地に城を築いたものです。本来これほどの減封となると、家臣団も人数を減らすものですが、藩主毛利輝元の人柄によるためかほとんどの家臣がそのまま萩とその周辺に住み着きました。その結果、萩の町は他の都市に例を見ないほど細かく区画され、一軒一軒の武士の屋敷は当時の格式に対する考え方よりもずっと小さなものになりました 」

120万石から36万石というのは凄い縮小であった。本当はもっと大きな城下町になっていたのである。だからここがどうして革命の原動力になった土地なのかわからない、吉田松陰がいくら偉大でも一人で革命を起こせる訳がないしそんなエネルギ−がどこから起こったのかわからない、武士でもない伊藤博文なども松下村塾の近くに住み感化されて町人から首相になった。町人をも巻き込んだ革命でもあった。奇兵隊というのもそうだった。武士は下級武士であり旗本的な古い武士よりそうした下からのエネルギ−が革命の先導役になった。城を守るような昔からの武士ではない、何か新しい時代の息吹を感じそれを実行できたのは若い30代前の人たちだった。そもそもあのような死ぬか生きるかの激しい戦いは古参の侍はできなかった。それを象徴していたのがあの石垣だけの城跡だったのだ。城は必要なくなり萩という小さな町から維新の志士は京へ江戸へ出て行ったのである。脱藩というのが志士達が新しい世界へ旅立つことだったように昔からの殿様のいる城下から離れることが革命だったのだ。あのような小さな町から離れて京へ江戸へと志士が駆け回り日本が動いたのだ。萩という小さな藩を守る時代ではなくなっていたのである。高杉晋作は上海に行っているし下関では外国軍と戦い負けたり鎖国は維持できなくなっていたのだ。もう一つ経済的要因として江戸時代の新田開発は飽和点に達し人口も増やすことができなくなった。そうした停滞を破る時にきていた。つまり増加する人口を養うために外からの革命が必要になっていた。大東亜戦争も満州に農民を移住させたりアメリカに経済封鎖されて戦争を起こしたとか経済的要因があった。モンゴルなどの遊牧民が農耕民の中国に侵入したのも食料が枯渇したからである。

明治維新について理解することはむずかしいが萩の町がそうした新しいことが起こった世界というより古いものが残っていることに魅了されたのだ。江戸時代の城下町の佇まいが残っていて江戸時代に戻ったような気がした。というのはあの塀から武家屋敷から商家からでて来るのは昔のままの人、侍とか着物を着た女性とか和服の人とかそれがあの風景に似合うのだ。現代の騒々しい喧騒の世界ではない、昔の静かな質素な日本の風景なのだ。江戸時代は侍でも質素倹約の世界だった。ゴミ一つ無駄にしないような世界だった。そういう雰囲気が今も感じられた。大きな商家の娘や武士の娘も肌を見せない着物につつみ深窓の奥にかくまわれ滅多に出てこなかったのかもしれない、職人は職人で大工町とか細工町とかに住みこつこつと手仕事に励んでいた。とにかく今から比べると本当に静かだった。塀の道は今も余り自動車は通っていないから静かである。静寂に満ちていたのだ。手仕事の世界であり質素倹約の世界であり侍は侍で城に仕えていた。城と侍は一体であった。萩といっても規模の小さいことに驚く。今の都市の感覚から想像するからそうなるのである。もっとこじんまりした質素な城下町だったのである。

 秋の風竹にそよぐや塀の内

塀の内の竹に風がそよぐそうしたさやさやと竹のそよぐ音に耳を傾けるそうした静けさがそこにあった。その佇まいは一軒だけではない、塀は街の一区画を囲んでいた。一軒だけなら余り意味がないし昔を懐古はできない。街全体に昔が残っていることが貴重なのだ。維新の志士にしてもそうした静けさの中で活躍したのだ。




清水清太郎 元治元年12・25 賜死 享年22 

長州藩家老

家老として急進派志士たちと国事に奔走。

幽閉中の詩

世のことは絶えてをぐらき山里にこころつくしの夜半のともし火

この人のことはわからないがこの歌は気に入った。こころつくしの夜半のともし火というのはいかにも火を大事にした質素な生活が感じられたからである。今の時代はあまりに浪費の時代なのだ。これはやはり自然の法則に反することである。こころつくしとは物に対して人間の心が通っていることなのだ。今や物からこころつくしと感じるものはない、物と心は豊かな時代分離してしまったのである。

ろうそくの油にはいわしやさんまの油を使っていましたが、けむりが多くてたいへんでした。 ろうそく1本で6時間ともせました。でも、ろうそく1本2,800円もしたので、庶民は簡単に買えませんでした。ろうそくのしずくを買い集める。江戸時代、ろうそくはたいへん貴重な物だったから、燃えた後に残るしずくも貴重な物だった。

和ろうそくにはろうそくに女性の姿などを描いたものやいろいあり
当時のろうそく文化が偲ばれる。江戸時代は情緒的に日本文化の完成時代だった。和ろうそくのホームページがあるから確かめるとよい。心つくしあるがそこに若い女性の姿が描かれたものがあった。それを見るとなんかこの歌とぴったりだった。
兵庫の伝統工芸品(和ろうそく)へ



静かなる山里に
心つくしの灯のともる
そのともしき灯も
貴重なるもの
はや若くして志士の
生の終えんとする時
真心もてその灯は
静かなる山里に灯されぬ


清水清太郎という人は家老で22才で死にこの辞世の歌を残した。22才でこんな歌を残せるのはかなり才能があった。他の辞世の歌は大和魂とか大げさのものになっているがこれはしんみりとさせる歌なのである。辞世の歌のように思えない、これは山里に普通に暮らす人の歌としても不思議ではない、そもそも武士というのはかなり教養があったしあの頃人は今の人より大人であり10才くらい違った感覚かもしれない、20でも30才くらいの感覚かもしれない。みんな歌とか漢詩を作っているし漢詩の全盛期が明治にあったというのもそのことを示している。武士の時代に培ったものが明治になり華開いたのだ。明治維新も江戸時代に培ったものがありで来たとも言える。何もない所からあれだけのことができるはずがないからだ。



あの塀を考えると江戸も武家屋敷の街だったから塀が延々とつづく街だった。東京には昔を偲ぶものがほとんどないのだ。昔を偲ぶものがないということは歴史が断絶することでもあるのだ。日本は明治で歴史が断絶し戦後でまた極端に歴史が断絶してしまったのだ。それは風景だけでなく精神にも甚大な影響を及ぼしたのだ。今なぜ昔の懐古趣味になっているのかとうと戦後の高度成長経済というのもまた異常な熱病ごとく日本人を駆り立てたのだ。それが一段落して不況にあえでいるがむしろあの高度成長は普通ではなかったのだ。物凄い急速な物質文明化でありアメリカ化でありそれは日本的風景も精神も破壊してしまったのである。一面文明の荒野のような状況が各地で作られたのだ。アメリカではあのようなとてつものない領土を持つ国だかSF映画のロケのような突然巨大都市が生まれても違和感がないのかもしれないが日本のような質素倹約の茶室的世界にはそぐわないものがにょきにょきと巨大なビルが覆い自動車の洪水に見舞われてしまったのだ。それは世界的なものでもあった。文明はまた世界的画一化であったからだ。

ともかくその風土に培われた歴史との断絶は精神を混乱させる。それは文化も混乱させる。現代詩なども今やその本人しか理解できない、言葉で意思疎通さえできなくなっている。言葉で意思疎通ができなくなっていることはまさにそうした風土と歴史に培われた伝統が喪失したことにあるのだ。その行くつく先は集団的狂気のファシズムになるのは文明の運命でなかろうか。ファシズムは文明自体の混乱が作り出すものなのだ。つまり伝統的文化の一体感の喪失がそうさせるのである。人が大勢集まりシュプレヒコ−ルを示威行為をするだけで何か連帯しているような錯覚を作りだす、それはまた人間の連帯感の喪失がそうさせているのだ。それは疑似連帯感であり決して本当の連帯感ではない、文明の混乱が個々を分裂させた故にそうなるのである。

また歴史の現実は映画とは違う。しかし映画が現実と錯覚する人も多いのだ。明治維新を題材にした鞍馬天狗など見たがそれは現実の歴史とは違う。他の歴史ドラマにしても現実の歴史とは違う脚色されたのなのだ。脚色されたものが現実と思いこむのもメディアの世界、マスコミの世界なのだ。明治維新の時、黒船が来た時、それをテレビで報道することもないから吉田松陰は下田から密航した。実際自分の目で確かめたかったからそうしたともいえる。本物を実際に見るという願望のためだったかもしれない、人と人の関係も実際に合うということが第一だったからだ。現代はバ−チャルな世界とリアルな現実が混同する世界なのだ。小泉首相にしても作られた人物像が本物だと容易に思い込ませるのがメディアでありマスコミなのだ。直接会いないのだからそれで判断を強いられているというのも現実である。この点明治前と文明化後の世界は理解しがたいほど違ったものなのだ。例えば和服や着物を着てあの萩の塀の街にそって歩んでみると気持ちまで昔に変わる、つまり文化とはそうした全体であり俳句や短歌を作るということではない、文化は不可分に全体と結びついているものなのだ。その伝統的な文化の破壊が深刻な影響をそれぞれの国にもたらしたのも現代であったのだ。

いづれにしろ現代の文明は曲がり角にきている。昔の良きものを見直すのもそのためである。日本は木の文化だから昔のものが残らないことが多い。それは一面あまりにも変わりすぎる、流行を追いすぎることにもなる。ヨ−ロッバは石の文化だから古いものが規範のように殘り古いものを大事にする。それは精神の安定ももたらすのである。歴史的連続性が維持されて社会が安定するのである。日本は間違いなく急速に変わりすぎたのだ。日本の建築は木であり木は殘りにくいが塀は残るという。塀は土だから残るのか万里の長城なども残っている。日本でも土蔵などは残っている。ヨ−ロッパでは石だから残っている。大陸では強固な建築が発達したのは当然である。橋でも庭でも壁でもヨ−ロッパではすべて建築の一部であり都市自体が強固な建築物として作られたのである。建築なくしてヨ−ロッパの歴史はないごとく建築とともに歴史が作られてきたのだ。日本は木の文化だからそうした建築の文化は残らなかったのである。萩は塀が残っていることで当時の面影を残している。塀に囲まれていることで静かで落ち着いた雰囲気を保っている。この塀ぞい歩いているとなんとも心落ち着く、心が癒されるものを感じた。やはり昔が残っている所はいいと思った。近代的なビルの谷間で人は日々心を消耗されている現代、この塀の空間は昔にタイムスリップした感じて良かった。

塀はビルのように高からず
身の丈の高さ
身の丈で計りうる世界
それ故に心落ち着く


塀の高さはhumansized worldなのだ。現代は身の丈で計れるものなどない。身の丈を越えたものですべてが動いている。経済も政治も宗教も教育も報道もすべてそうである。そこで個人が何かしようとしてもただ巨大なものの前に何もできないのである。上野霄里氏の原生人間とういのも本来の原人間の確認であった。身の丈から見た本来の人間の確認だったのだ。松下村塾のようなあんなちっぽけな世界から明治維新が起きたこともやはり江戸時代が身の丈の中にある世界だったのだ。現代文明は身の丈では計れない異常な世界でありこれと一体となることは不可能である。

塀の街−萩のスライドショ−では電信柱を消して写真を加工した。電信柱も古い町との景観を無視してやたらと計画もなく作りすぎたのが高度成長経済の弊害だったのだ。不況ではあるがそうした反省が必要なことは確かである。





地名をたどる旅(四国の貞光まで)

−−インターネットで盛んな郷土誌研究−−


茶屋町⇒瀬戸大橋⇒坂出→塩江温泉→相栗峠→貞光→脇町暮畑→

【 走行距離 】180キロ

瀬戸大橋線の茶屋町駅から輪行して坂出へ30分。
坂出を出発してしばらく行くと酷道193号で、塩江(しおのえ)温泉まで走る
塩江温泉から県道に分岐し、570mの相栗(あいくり)峠越えだ

自転車で旅行する道程としてこれは参考になる。最初の茶屋町駅というのは倉敷市にあった。

山陽道と四国路を結ぶ通り道となって金比羅まいりの客をあてこんだ茶屋が並んだことから、茶屋のある町、つまり茶屋町という地名ができました。

これは倉敷市にありここから瀬戸大橋をわたった。ここは輪行である、他にしまなみ大橋は自転車で渡れるし自転車も貸すし2000円くらいで泊まる処があったとホームページで見つけた。倉敷の川の船着場から海に出て金比羅参りしたのだ。金比羅の碑はどこにでもある。わが町にもあり全国でここにお参りしたのだ。こうした歴史をたどらないと知らないとまず旅はつまらないものになる。倉敷に行ったが茶屋町がありこんな由来があったことなどわからなかった。現代の旅がいかに途中がけてしまうからなのだ。「茶屋町駅」というのを車窓から一瞬みて通りすぎるからわからないのである。

ともかくこの地名から連想されるものも一つの旅であり興味がある。塩は塩と関係あるのか塩分のでる塩なのか、温泉には塩がつくのが多いから塩自体とはかんけいないかもしれない、ただ塩入とか塩田など地名が山中にあるから山には塩の道がかならずあるのだ。曲木は木を曲げて作る木の器を作っていた場所である。相栗(あいくり)とはやはり栗のことか地名は当て字が多いからわからないが栗とあれば栗を連想してしまう。貞光は平家の一門からでて落人部落で有名な処だからその名がついたのか、伊達とか相馬も一族の姓である。これは人の歴史を語っているのだ。次に脇町とは本町があり脇町がある。本町は別にあるのだ。ただ本町が廃れ脇町が栄えることもある。例えば今では昔の商店街より六号線の方に新しい道のほうに電器店、ス−パ−やbookoffなどが移動して買い物の場所になっている。昔からの商店街は廃れてしまった。ただ昔からの商店街には歴史があるからその歴史を活かす街並み作りが必要である。旅をするとス−パ−は遠いから商店街の方に足が向くのだがそこはどこでも廃れている。旅人にとっては歴史ある商店街の方が面白いのだ。そこは古町となっている。古町はどこにでもある。ここに町の変遷がある。貞光町は葉たばこで栄えた、軒並み葉たばこの出荷地でうだつで有名である。阿武隈山地も葉たばこで有名だった。高原の涼しい処が葉たばこに向いている。ただなぜ阿武隈ではそれほど葉たばこで町をなすほどでなかったかというとそもそも四国は大阪に近いからその消費地に近いからそれだけ繁盛したのである。そこが東北と違う、大阪や京都が近いということは消費地が近いのだからもうけもおおきくなる。これは東北地方にはそうした歴史がかけている。東北はもともと辺鄙な場所だったからだ。商業には縁のない場所だったのだ。淡路島の洲本の狸の伝説がそれを語っている。大阪はあそこから船で近いのだ。


芝居好きで、木の葉のお 金で大阪道頓掘まで見物に出かけた話は特に有名。 場所 洲本八幡神社元大阪中座に祭られ、芝居(芸能)、商売繁盛の神として片岡仁左衛門、藤山寛美等に崇敬を受けた柴右衛門狸が中座の閉館により、生まれ故郷の洲本に里帰りして、社がたてられたのが、蜂須賀家の祈願所であった洲本八幡神社

この話は如実に大阪が近いことから生まれた伝説である。旅することは歴史を知らないではまずその土地のことも何もわからない、地名はその有力な手がかりである。なぜなら地名からだけで行ったことない土地なのにこれだけのことが浮かんでくるからだ。現代の旅はあまりに早すぎるためかえってその土地のこともわからずじまいになるのが多いのだ。自転車で行くと苦しい峠を越えて行き山の奥深い村や町にでるから感慨深いものとなり昔を偲べる。脇町暮畑という地名も情緒がある。つまりこれだけのものを地名からインターネットからその土地のことを読み込める。今ホームページで郷土史とか地域の紹介が無数にある。これもインターネットの新しい文化、地域ルネサンスともいえる文化が起こっているのだ。これは今までのマスメデアではできない、NHKですらできない、その土地の人がじかに発信して説明するのとメデアが仲介して説明するのとは違うからである。インターネットではビジュアルにも説明できるしどんどん地域の紹介は増えているのだ。

宮城県の柴田町でも自分の家族の歴史とか歴史を語っている人がいた。普通は郷土史でも家族の歴史まではあまりでていない、旧家はでるかもしれないがしかし家族の歴史とか個人までつまりミクロからさらにミクロまで小さな地点まで詳しく紹介できるのがインターネットなのである。将来的にはそうした小さな地点にある碑が何なのかなどデ−タ−ベ−ス化が全国で行われる。だから郷土誌はインターネットに向いている。マスメデアはそうした詳細な説明や紹介は苦手でありおおざっぱな大勢にみられるものを作るから地域を紹介するのにも同じようなものつまらないものになるのだ。そこに住んでいる地域の人の思い入れが強い地元の人が紹介するのは外から見るのでは違ってくるからだ。これは明らかにインターネットに向いている使い方である。


晩菊や郷土を語る一人かな

我がポタリング人生
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~kanehori/report/index.html

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5599/report/sanuki3/index-g.html





伊丹郷土史を読む


今回またたまたま見た「伊丹の歴史」はよくできている郷土史である。これでかなり伊丹のことがわかった。ここには別に興味を持ったわけではない、インタ-ネットはたまたまでてきてこれがいいみることが多いのだ。どれがいいという案内、評価がないからだ。郷土史関係でかなりいいものがある。その案内が必要なのだ。ここでも最近埋もれた城の石垣が発掘されたりしている。ここは船と関係深いので面白かった。すでに古代から船がきていた。その船にまつわる話が自分が書いてきた船の話と一致していたのだ。船がその頃いかに貴重かもわかった。船が焼けたので新羅に弁償を迫った。
(新羅から献上の工匠…武庫の港で朝貢船失火の代償)もそも瀬戸内海は船とかかわり深い港であった。頻繁に外国からも船が入ってきたし船の行き来の盛んな場所だった。

天離る、鄙の長道ゆ、恋ひ来れば、明石の門(と)より、大和島見ゆ 柿本人麻呂

この歌のように船で難波につきそれから飛鳥などに入って行ったのだ。江戸時代には酒を江戸に運び栄えた。船が大きなテ-マになっているのだ。酒造りの話も面白い。株をとらないと酒を作れなかった。専売特許のようなものである。お上からの鑑札が必要だった。よく時代劇でこの鑑札やお上からの株で悪い役人や商人が暗躍するのが上映されるがなるほどなと思った。これがないと酒造りもできなかったのだ。ドブロク造りがさかんだったのもこのためである。常に隠れてドブロクを作り庶民は飲んでいたのだ。こういう歴史がわからないと架空のドラマだけになってしまう。なかなか東北はそうした歴史の厚みがないから歴史を勉強するとき具体的に思い浮かばない、歴史の厚みのある所はそれが具体的なものとして思い浮かぶからいいのである。

昆陽の大池思ひそ出る面影も月の遠つ近江 夏目瓶麿(安政1774)

大きな池がまるで近江の琵琶湖に写る月のようだと歌っている。西には大きな池が作られ稲作が早くから行われていたのだ。だからその池も古いのである。空海や行基がそうした工事にもたづさわったからそれで庶民から崇められた。僧というのは最初実益を与える技術的な役割もあったのだ。酒も最初は寺院で作られた。ヨ-ロッパの修道院でワインが作られた。寺院は宗教的な場だけでなく実際的な生活を導く技術を伝える場でもあったから歴史的に多く残っている。カトリックでは地区の行政をになっていたのだから今の感覚とは違う。ただ今でも宗教は実際の生活にかかわり勢力を拡大化する。世俗かかわり世俗化してくる。真宗でも一つの今の新興宗教団体のように生活共同体になるからそこに入るのである。だからこそ近代化するには政教分離が必要だったのである。信仰の前にそうした共同的機能としてありそこで共同の生活のために不可欠となるから入るのである。信仰そのものと必ずしも関係ないことがあるのだ。江戸時代でも寺は戸籍係であり葬式屋であり行政機能として役場の代わりをしていたのだ。ここも地名で面白い。藁屋町とか柴屋町とか藁とか柴がいかに利用されていたかわかる。無足町とは面白い、足軽町というのはある、足が軽いというか昔は参勤交代で歩いて従者がついてゆくのだから足が軽い、足が早いとかそれが必要だった。使いにも出されたから足が軽いものが必要だった。では無足町は足のない人とは何なのか。

「外城」の少し南のほう、この地図では、伊勢町と書いてある場所です。伊勢町と呼ばれる以前は、「無足町」だったようです。この時代よりも古い地図を見ると、「無足町」となってるんですね。無足とは、所領や禄のない侍、つまり足軽や雑兵を意味する言葉です。先ほどの「殿町」や「中殿町」は武士としての地位は上なんでしょうけど、ここはやっぱり、出城の近くでもあったし、そういう足軽、雑兵クラスが住んだ町ではないかなと思います。

無足町、足軽町とは足はおわしがないなどと金とか何か日銭稼ぎのような金を意味していた。外城にそうした日銭をかせぐような人々がたむろしていて無足町と名づけたのか、人足寄場の一種のようなものかそこに地名として残るのだから人々の暮らしの跡であったことは確かである。(福岡藩士の居住区ではあったんですが、足軽より1つ上の無足組と呼ばれた士分クラス(下級武士)の居住区の一角にあります)この無足組とは足軽が無しであり領地を持たない侍のことではないか?領地がないから足軽を持てなかったのであ。だから外城辺りに住居をもっていた。足軽よりは身分が上とあるからそうかもしれない。

にぎりしむ日銭や都会の寒さかな(自作)

自分もちょっとの間、たいした苦労ではないが日銭稼ぎやったことあるので昔もそんな人がいたのだ。こういう経験も今となれば貴重である。やはり人間体験しないと実感としてわからないのだ。ともかく伊丹について別に関心がないから考えもしなかった。これを読んで面白いと思い、ああ伊丹ってこんなところかとインタ-ネットで再認識した。インタ-ネットは地方の情報を発信するのにいかに向いているかわかる。これもこうした専門的に書いたものを出すと本で調べる必要もないから効果的なのだ。自宅でパソコンでこれを読みイメ-ジをふくらませることができるのだ。ホ-ムペ-ジもいろいろあるが国際問題とか他の時事問題でも体験とか専門的知識がないと素人のつまらないものになる。これで発言することはかなりむずかしいのだ。インタ-ネットではその人が体験したこととその人の住んでいる歴史や情報の発信はかなり有効である。その人がつまらないと思う伝説なども他の人からみるとそこでしか聞けないものがあるから有益なのだ。情報でもそこにしかないものは価値がある。どんな人もその人だけの情報をもっている。その家族の歴史自体その人しか知らない情報なのだ。地方の情報はこれまで手に入れることがむずかしかった。このホ-ムペ-ジはかなり専門的だから価値がある。

伊丹なる池の大きく古りにけり栄し跡をいつか訪ねむ(自作)

参考

http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/itaminorekishi/index.html



共通の歴史の発見(磐田市を語るホ-ムペ-ジ)
(
郷土史研究に向いているインタ-ネット)

自然石の碑が建っている。「坂上田村麻呂上陸地点 」と書かれていた。 この地は今では太平洋の海岸まで4km以上ある。4km先の海岸まで平安時代に太平洋の入り江があって海上を舟で渡ったことは想像できない。だが磐田市には海だったことを示す地名が残っている。「今の浦」の地名は坂上田村 麻呂の平安時代(西暦800年頃)は海であったことを地名で表している。石碑の東方1kmに今の浦があって、磐田市民会館と多くの商店・大型スーパーの町になった。

長田忠致が野間で源義朝を入浴中におそい殺害した。義朝の首を平清盛の許に届け恩賞として壱岐守に任ぜられた。田舎役人から一躍壱岐国(いきのくに)の国守に大栄転したのである。

「悪事千里を走る」とか、壱岐の国へも義朝殺害の風評がひろがった。国守の座にたえられず、故郷野間に戻ってしまった。

源頼朝が成人して平家を討ち、滅亡させる。右近衛大将に任ぜられた頼朝は野間大坊・大御堂寺に詣で父義朝の大法要を営み、ここに於いて長田忠致・景致父子を捕らえて板磔(いたはりつけ)の処刑をした。長田一族は野間をのがれて各地に隠れた。


なぜこの磐田市に注目したのか、別にここを探そうとしたのではなかった。たまたま沓掛とか草鞋に興味がでて探していたらこのサイトが見つかった。これも偶然である。ここに注目したのは鹿島町との歴史の共通性があったからだ。郷土史の部で書いたがかつて真野の入江があり海だった。海はかなり陸の奥まで入りこんでいた。坂上田村麻呂上陸地点というのも蝦夷征服の伝説である。今の浦は確かに海だったのだ。こういうことが日本の海沿いには多い。海が後退して陸地になっているのだ。ここに国府が置かれて国分寺が建てられた大和朝廷にとって重要な地点だった。秋鹿氏は、室町時代末期にその初代・左京亮朝治が出雲国秋鹿郡から羽鳥庄貴平郷と中泉郷の地頭となり来遠したとありそれでここに秋鹿(あいか)という地名が残った。こういうことはよくある。地名は移動するのだ。この秋鹿氏は明治維新でその屋敷跡が遊廓に貸したというのも時代の流れだった。遊廓は各地にあった。明治維新の時、武士はいろいろと変遷を強いられたのだ。商売人になったり北海道の開拓民になったりと大変な変革を迫られたのである。

もう一つ長田忠致が功名のために殺害した。そしてそのあと恐れて逃れた。これは
岩松氏の伝説と同じだった。これも鎌倉から一緒にここに来た岩松氏を家臣が殺害してその恐れから名字まで変えたのだ。その一族の子孫が残っているから間違いない、この人はこの長田家に婿養子に入って長田氏に興味をもったのだ。こうして歴史は同じことが土地が変わってもあることなのだ。なぜなのか、つまり人間の本性は時代が変わっても変わらない、これは世界的にも歴史の共通性がある。裏切りとか功名心とか人間の欲望が変わらないからこうした事件が起きる。源義朝が平家に殺されても源氏の勢力はなお各地にありそれが後に源頼朝が鎌倉で決起することになった。源氏の勢力は一時的に衰退したが各地に根を張って存在したから盛り返すことができた。そして復讐を果たしたのだ。勢力が変われば制裁が行われる、それにしても先の見通しがなかった。平家の興隆が一時的なものであることを見抜けなかったのだ。源氏の勢力は大きな勢力だったから簡単に滅亡するものでなかったのだ。

●日露戦争犠牲者の墓一つ

もう一つここで注目したのが日露戦争で死んだ親戚の話である。

 父の実家の入り口に貧しかった農家に不似合いな石碑が建っている。

 表面は

 
明治三十七八年戦役第二軍第三師団
 歩兵第十八聯隊所属従軍三十八年

 故陸軍歩兵一等卒勳八等〇野〇治之墓

 三月奉天付近会戦與八月罹病帰郷
 明治三十九年二月二十日死亡


クロ-の好奇心

これは当時の国威高揚のために国から報償として金一封が与えられそれでこの立派な墓をたてらしいと説明がある。西欧列強に対して富国強兵の時代で貧しい小作農が戦争にかりだされて死んだのだ。これはアメリカでも最前線で戦うのは黒人とか新しい移民が多い、他に地方の人々が生活を向上させるために軍隊に入る、軍隊はそうした底辺のものを吸収する場でもあった。アメリカは豊かであるがやはり戦争に行くものはこうした底辺層が犠牲になることが多いのだ。アメリカにはそうした人達が多いということも確かである。貧富の差が激しいからだ。ブッシュが兵役をうまく逃れたとかいうのも何かそういうことができる力があったのかもしれない、つまり人間の歴史には世界的に見てもその本性から同じことがあるのだ。戦争はやはりこうした貧しい人達がいると戦争にかりだされやすいのではないか、戦争が上へ昇るための就職の場になってしまう。イラクのような危険な地帯に仕事のために行き残酷に殺されているのになお行っている。それはアメリカで負債をかかえている人などが金のためにトラックの運転者とかに志願してなっている。これも世界的ににたようなことがある証拠である。

インタ-ネットにはこうした庶民の記録を残すのに向いている。家族の歴史なども残すのに向いている。こうしたものは書店には売りにくいしまた調べるだって大変である。でもやはり貴重な一つの庶民の歴史として残す必要があるのだ。インタ-ネットは郷土史研究に向いている。でも郷土史そのものがまだ出していない、図書館にあるがこれは調べようもないのだ。そんな暇のある人はいない、旅をして図書館に行って調べることができなかった。時間がないからだ。こうしたものはインタ-ネットに出すべきなのだ。公共的なものだし歴史の記録として公共性があるし後の人に残す必要があるだ。こういうのにはインタ-ネットでもアクセスが少ないし無駄なようにも思える。しかし意外と貴重な記録なのである。なかなかその場に行ってもこうしたものはわかりにくいからだ。インタ-ネットの弱点はこうした記録も発見しにくいことである。これは磐田市 歴史などとキ-ワ-ドで入れてもでてこない、全然違った所から偶然に発見したからだ。それも日記の中のほんの一部から発見したのである。

墓碑一つ埋もれてあわれ虫の声

こうした墓碑は無数にあり埋もれてわからない、しかし誰かが語れば活きてくる。ただインタ-ネットでは偶然にしか見つからないのが弱点である。

参考にしたサイト

語る60才以上

http://www.infosakyu.ne.jp/~kkii/index.html

クロ-の部




新発田(しばた)⇒津川⇒会津(阿賀野川にそい)(1)

青春18切符でこれで三回目である。こまぎれに利用してかなりとくした。短い距離を行くとこれは損になる。短い距離は金を払った方が得である。帰りは人身事故がありダイヤが乱れ大変だった。電車はダイヤが組まれているからそれが狂うと大変なことになる。二番線で待っていると駅員が指定したのに向かい側のホ-ムに仙台行きと表示したのが来たのでみんなあわてて移動したのだそれにつられて移動したら実際はその電車にはのれなかったのだ。集団行動はあういうことがよくある。みんなが動くとそれにつられて動いてしまうのだ。そのときあわてているし不安になるから大勢の方についていってしまうのだ。それはともかく今回の旅は仙山線から新床に行き余目をまわり新発田の方にでて新発田に泊まった。新発田には城があった。六万石くらいで相馬藩くらいだったのか、この石高もおおよそのことでありこれで国力を決めることはできないのだ。ここはアヤメ城と言われたのは湿地帯であり蒲原平野の湿地帯を開発した出先のような城だったからだ。菖蒲は湿地帯にたくさん咲いている。浮舟城というのも湿地帯に浮かんでいるような城に見えたからである。

新発田という名前自体いかにもここから開拓したという名前でふさわしいのだ。ここで面白いのは駅の近くに足軽長屋が残っていたことである。茅葺きの一棟の家に暮らしていた。かなり狭い所である。そしてこれは城のあるところからかなり離れているのだ。下級武士とか足軽は城が中心とするとかなり離れた所に居住していた場合が多いのだ。その暮らしもつつましいことがあの長屋を見たら実感した。江戸時代は厳然とした身分差があったのだ。途中に豊浦に蒲原平野の湿地帯を開拓した豪農の市島邸屋敷跡というのがあったがよれなかった。これも見物である。あのような豪農がいたというのも驚きである。あれは下級武士とか足軽などよりずっと上であり豪農ともなると凄いものだと思った。そこは一つの大きな会社と同じである。


そしてこれら外部に接する所の入口には土堤を築き木戸を置く。又岩村川を挿んで町人街と武士街の両方に木戸な置く。その他要所々々に木戸を置き、町人街には商人の自身番を代官支配の下に番をさせ、人の出入を監視させ、武士街の方は勿論武士で番をさせる。そして出入を厳重にした。又町尻の要所に足軽長屋を置き外部に対する警備とした。
 又寺院の配置にも意を用い、町人街の下町尻土堤外れには祥雲寺、上町外れ木戸傍に清楽寺、武士街の西外れに妙法寺、その他新屋敷外れに白山社、上町外れの弁天社、町人街の南に浄光寺や若宮社等も監視所としてよい位置である。乗政寺も北部の要地にある。町人街を一条としたのも、岩村城一の門から丁度一直線上に監視が出来、蟻の子も見逃さぬようになつている。こうした軍事的防備的意義も巧みに用いられている


岩村城下町http://choushi.iwamura.org/chapter016.htm

城下町は防衛を主眼にして作られた。木戸という地名も各地にあるしやたら通行がとめられるていた。城のはずれに足軽長屋が置かれたのも防衛上からだった。そのつづきに寺町がありこれも防衛上としてまとめて寺が配置された。町人中心の町作りではなく城中心の侍中心の町作りだった。

次に津川によった。津川というと非常にここは景色が変わっているし日本ではめずらしい川の景色がある。麒麟山というのは麒麟ににているから名付けられた。しかしこれも不思議なのは誰が名付けたのか、中国の桂林ににているから名づけたという、麒麟という山の名自体非常にめずらしい、そもそもこの山の中で麒麟というのがどういう動物なのか知っていただろうか?そう考えるとこれは外部のものが名付けたのか?というのはここは堺から砂糖がまた赤穂の塩などが北前船などで新潟まで運ばれ津川まできた。そこから人もここに来たのか、そして知識の豊富な外国にも通じている人が名付けたのだろうか、ここにふさわしい名前でもあった。新潟は船の出入りで栄えた。文人の頻繁な出入りもあった。

当時食塩4万俵につきおよそ240両の仲金が徴収されたと云われている。このほか商習慣による問屋口銭が取られたので会津藩ではこの仲金と口銭を免れるために、種々の手段を講ずるに至った。

一万両とか新潟の港を利用するのに払っていたとすると塩の商いがいかに盛んだったかわかる。これは会津藩では相当な出費となった。つまり港を持つということはこれだけ経済的に有利なことになるのだ。港をもたない山国の藩は逆に相当な損になる。

現在の貴州省晴隆県) で作られた砂糖が章川から砂糖船で密かに、堺港に運ばれた。この砂糖は、三盆白 (三品自)、上白、太白 であったといわれている。、堺へ上がった砂糖は、京都、奈良の禁裏や寺院に献上品として納められた 。禁裏や寺院に献上されたものの一部が菓子司に流れ、月並 (朝生,浅生) や茶の子などの和菓子を発展させた。また、1589年に伏見から堺へ進出した駿河屋 (鶴屋善左衛門) によって、蒸し羊羹、煉羊羹が改良された。この駿河屋は、“みだれ髪“ や “君死にたまふことなかれ”と日露戦争当時歌った与謝野晶子の生家でもある。なお、羊羹のあずき色は、羊の肝臓 (羊肝) の色に似せたといわれている

ここに不思議な因縁が語られていたからだ。羊というのは明治でもめずらしいから何か新しいものとしてとり入れたのかもしれない、砂糖はそもそも最初は薬として利用されたほど貴重だったのだ。津川には砂糖屋という屋号もあった、定宿として商家が軒を並べていた。その昔の屋号を記した手拭いを買ったがなくしてしまった。173軒も商家があり商売を許されていた。番所もありここに塩蔵があり塩の商いが冨を生んだ。雁木というのもあるのも日本海側から入ってきた文化なのか、会津ではないみたいだからだ。阿賀野川の船運は奥に入ると流れが急になり船が利用できず荷をおろして馬に積みかえ運びまた船にのせて運んだから会津からはあまり米などは運ぶ量はすくなく塩とかを運んだ川の道だった。越後から会津の出稼ぎ者の四〇人が遭難死したのもこの川だった。交通には常にこうい困難と悲劇がある。便利になっても交通事故や飛行機の事故などかならずあるのだ。その川の道を通じて栄いたのが塩川だった。塩とつくから塩の道の港でもあったのだ。また地塩もとれていた。塩が山にも存在したのだ。ここは米沢街道とも通じて喜多方より前に栄いていたのだ。川があり交通の要所になり栄えることがよくあることなのだ。

不思議なのは大内宿だった。大内宿から阿賀野川に通じる街道が山の中にあった。方角的に違っていたのでここに通じる道とは思っていなかった。なかなか地理は近くてもわかりにくいものなのだ。電車とかの旅だとレ-ルが道になるのでわかりにくくなるのだ。歩いた道はわからなくなるのだ。大内村が宿場町としてそっくりの残されたのは山国の会津の奥深さを物語っている。山深く街道がありそれが遮断されて山の中に取り残されたよなってしまったのだ。歴史とか旅をするときある村とかを孤立したものと見るのではなく道としてつながってみるというのが歴史を生きたものとして見ることになる。道は動脈であり道を通じて村々はつながるからだ。いづれにしろ会津も相当な山国の広さがあり新潟も広さを感じた。会津と新潟は密接な関係がありむしろ浜通りより新潟の方が会津は身近なのである。確かに浜通りからも東部塩として入ったがやはり遠過ぎた。会津と新潟は阿賀野川と結ばれ日本海と通じて堺や大阪や京都ととも結ばれていたのだ。太平洋は阿武隈川から船で米が運ばれていたが日本海のように北前船は通らないので頻繁な交流はなかったのである。

阿賀野川の昔をたどる

津川に軒を並べし商家かな
中に砂糖屋あり砂糖は貴重なれ
堺より日本海通じ運ばれぬ
赤穂の塩ももはるばるとここにつく
中国の桂林ににしと誰が名づく
麒麟山の名の良きや
大船場による船あまた栄いけり

阿賀野川会津の奥に入りて
流れは急にせばまる狭間
船は留められ馬に運びぬ
川に陸に人夫の苦労やまじ
越後より出稼ぎの四〇人
遭難せしはあわれかな
塩川も昔の栄えし河港
米沢街道にも通じけり

30万石会津の国も豊かなれ
会津漆器の技磨かれて
舟の荷に遠く大坂、京へ
砂糖も山国深く運ばれぬ
川を通じて会津の文化も
川沿いに伝えられけり

津川に定宿の商家軒並べ
新潟めざし舟は行かむや
新潟に七二橋と往来しげき
かなた堺や大坂や京や
文人墨客もここに集い
海と川を通じて結ばれぬ

蒲原の平野を拓き新発田かな
その境、津川は昔の古戦場
雪踏みいりて残されし
石垣残る山中の城の跡なり
武士のせめぎあいの証かな
ここは福島になり新潟になりぬ
その歴史今につづきの境なり

山深く昔の街道こそあれや
いつしか忘れられ草おおい
茅葺きの大内宿のあわれかな
山中に取り残されて歴史を留む
会津の歴史織りなす山の道
その道たどり偲ぶ昔や
石仏一つの路傍に昔を語りぬ
旅人よ、ここに声をひそめて
昔の人の声を耳を澄まして聞け
人の歩みし道そなつかしかも





再び津川について語る(2)

●津川で川を想う


津川に途中下車で二時間ばかりよった。長いと思ったがすぐにすぎた。川沿いの公園の雪に埋もれた所を歩いた。雪は固く深くのめった。ここは江戸時代に船運で栄えたのだがそれが途絶えてから久しい、遠い世界の話になった。でもここは何か情緒があり景色が変化に富んでいる。夏にここに来た。川岸に合歓の花が咲きそこにアカゲラを発見した。土手には何かの花が咲いていた。川沿いに家が並び建っているが江戸時代もあういう景色だったのだろう。ヨ-ロッパでは河岸の景色は古くからあった。河が生活の場であった。川の役目は水を供給することと、交通とそれから川は国境になることが多かった。水争いで白根町では川をはさんで村が争いそれが凧上げ合戦になった。水がなければ生活できないから最初の文明は大きな川岸に発生した。川の水を利用して灌漑して大規模な農業が行われた。大陸の川は長大であり川が文明を作ったということが実感する。しかし日本の川にはそうしたものを感じにくい、ただこの阿賀野川は運河のように見えるし船の運航には良かった。ただこの津川から新潟に行く方面は水量も豊富で船の行くのに向いていた。会津の方は急流もあり馬で運んだり船で運んだりとめんどうだった。川はどうしても途中急流や浅瀬にぶつかるから船を曳くということが必要になった。これは中国の黄河辺りでもそういう場所があり船を曳いていたのだ。川沿いの村で船を曳くことが仕事になっていた所もある。船引(ふなひき)の地名があるがこれが何かわからないが船を曳く仕事は大きな仕事だったのだ。エザベラバ-ドも舟でここを上って津川から新潟の方に行った。そこで肥料、人糞の船のことを書いているがやはり過去の現実とはそこには必ず嫌なものもありそれがこの人糞の匂いだったのである。それほど人糞が肥料として船で運ばれていた証拠でもあったのだ。

●津川のトンネル

津川で印象に残ったのはあとでわかったのだがトンネルだった。鹿瀬に通じる歩道もない狭いトンネルだった。このトンネルはかなり古い、ここで二人が死んだ、両側から掘り進めて行くとき連絡できず事故が起きた。そのとき無線がなく連絡できなかった。無線のない時代だから古いのだ。原町のコンクリ-トの無線塔も当時は最新式のもので関東大震災を一早く伝えたとあり無線はその当時驚くべき技術だったのだ。最近土星のサタンの惑星の一つから無線で画像を送ってきたのには驚いた。気の遠くなるような所から無線で送られてきたのだ。無線の力は今でも驚異の技術である。携帯も無線だから無線の時代が現代である。なぜこのトンネルが大事かというとやはり日本は山にさえぎられることが多いのだ。だから交通が不便になる。日本ではだからトンネルが多い、道でも汽車でも常にトンネルを掘らねばならなくなる。だからトンネルの技術が発達したのも日本の地形にあった。境(さかい)とは坂でさえぎられるから生まれた言葉である。峠は手向であり峠の神に手向して古代の人は越えて行った。峠を越えると別な世界になっていたのだ。峠という字自体も国字なのも日本が山が多いからそうなったのだ。

ちはやふる神の御坂に幣まつり斎(いほ)ふ命は父母のため
  
     
 信濃坂にて 万葉集巻二○防人の歌

手向(たむけ)⇒とうげになった。その証拠としてその坂から祭祀跡が発見された。勾玉とか石製の飾り物などが発見された。峠で人は祈り峠を越えて行ったのだ。この峠から自動車社会になりトンネル時代となった。トンネルはそれまで手掘りで何十年もかけて掘ったとか容易に作れるものでなかった。交通を良くするには日本ではトンネルが欠かせなかったのだ。船運⇒汽車⇒自動車という交通の移り変わりのなかで津川から鹿瀬に通じるトンネルは重要な役目をになったのである。

山古志村の手堀りのトンネル

●津川の城の伝説

麒麟山の上に津川城があり、城の石垣がけわしく、狐も通れないというので 狐戻し城といわれていました。昔、津川城の殿様が病気になり、医者がいろいろ手当をしましたが、なかなか よくなりません。そこで、山の麓の温泉の湯を汲んで湯治をすることになり、 温泉の湯を運ぶ役を、美しい小姓の蔦丸(つたまる)に命じました。
蔦丸は毎日、山も麓から、山の上のお城まで、せっせとお湯をはこびました。 殿様は湯治のおかげで、病気がだんだんよくなりました。
ある日のことです。蔦丸はお湯を汲みに来るお鶴という娘に会いました。
お鶴 も母の病気を治すために毎日、お湯を汲んでいたのです。
二人は仲良くなり恋仲になりました。そのため蔦丸の帰りがおくれがちとなり 人々のうわさになりました。これを知った重臣たちは怒って蔦丸を頂上近くの 石牢に閉じこめてしまいました。


伝説にもいろいろあるがこの伝説はリアリティがある。民話とか伝説にはたわいもないものがかなりある。事実に根ざしてリアリティがあるものがやはりそれも民衆が伝えようとしたものであり歴史なのだ。この城がかなり急峻な麒麟山の上にあること、それがいかにも山国の伝説にあっている。山深く暮らすものが毎日温泉の湯をその急峻な城へ湯を運んでいた。今もそこには温泉がある。山深い中で城の侍に使役されたその土地の民衆の怨念の物語を語り伝えたのかもしれない、歴史としてはこの民衆が伝えた物語の方が大事である。それは語り継がれ残されるべきものである。なぜそれを感じたかというとあの固い根雪を踏んでその足跡が深く雪にのめりこみ残された。こんな山奥で温泉の湯を急峻な山の城に毎日運んでいた若者がいた。それにリアリティを感じたのだ。つまりその山の城まで湯を苦労して湯を運ぶ若者の姿がそこにはっきりと浮かんだのである。落葉を踏み雪を踏み湯を運ぶ若者の姿をリアルに感じたのだ。その土地にきてはじめてリアリティを感じることがある。民話は本来その土地と密接に結びついて生まれたのだ。狐の嫁入りというのはちょっと作り過ぎていやな面があった。それなりの伝説があるにしてもあまりに作りすぎるとかえって現実実がなくなりまるで映画村に来たようになる。その一つが妻籠と馬籠でありそこは昔を残すにしても映画のセットのようにしてしまいかえって現実味がなくなってしまったいう皮肉がある。昔を偲ぶということはそういう大がかりな見せ物ににあわない、昔は道端の地蔵とか朽ち果てるような石碑とか古い証文とか発掘された陶器の破片とか何かかえって目立たないものにありそこから本当の過去が浮かんでくる。津川は日本三大河港として魅力ある所であった。地形がかなり複雑だからそれも魅力の一つであった。

津川なる根雪の固き町古りぬ

津川について(一)



羽越本線三瀬駅の記録

インタ-ネットはホ-ムペ-ジは基本的には文章である。今までは文章は確かに多少は書いていたが人によませるようなものを書いていた人はほんの一部である。また一部しか許されない世界であった。だから文を書くということがわからないのが大方である。私にしたってまず確かに詩とかは書いていたけどまとまったものは書いていない、古代史を書いたがこれも編集がうまくいかず失敗だった。つまり素人で文章を書くということは大変なことである。ましてや本を一冊書くことは容易ではないしほとんど不可能であった。出版社と編集してはじめて本になりうるものだった。だから一般の人にとって今までは常にニュ-スでも知識でも一方的に与えられるものであり自ら何かを書くということはなかったのだ。そうした場を与えられていたのは一部のプロでありそれも商業的に成り立つ人々の世界であった。文章にして残すということは特権階級、権力者のものだったのだ。だから結局一般の人は何か書いて残すということはまれだった。だから常民の歴史が口碑の中にあり書いたものにないと柳田国男がって常民の言い伝えを聞いてまわり民俗学を創始したのはそのためである。書いたものとしてではなく言い伝えられたものが民衆の歴史の記録だったのだ。

歴史は要するに一番簡単なことは記録したということである。大事件であれ何であれ記録したことを言い伝えたのだ。だから文章を書くというとき記録が大事なのだ。記録することが文章を書く一歩なのだ。記録するということはむずかしいことではない、でも結構マメな人でないと記録することもしない、またあることに興味がなければ記録もしない、旅に出ても食い物に興味あるものは食い物のことだけを話し他のことは記録しないのだ。記録すること自体すでに取捨選択があるのだ。誰もなんでも記録するということはないのだ。その人により同じ場所に行っても記録することは違う、ええ、この人こんなところを見ていたのかと写真を見たりして感心する。同じ場所でも必ず違ったものを見ていることがよくあるのだ。

多くの人が旅のことを書いても何か欠落している。それは最初から何かに興味を持っていないからである。人間は興味がなかったら記録もしない、また今の時代意外と記録することは結構手間暇かかることだからしていない、ただデジカメがでてきて記録はしやすくなった。旅に出るといろいろなものが一度に入ってくるからある印象に残るものしか記録していないし記憶にも残らない、電車の旅だとやたら駅名が気になる、記憶に残る。これが車だとそうした駅名とか地名はあまり関心がなくなる。旅に出た場合、何かつまらないちょっとしたことでも新鮮であり記録しておく価値がある。何故ならあとで忘れてしまって思い出せなくなっているからだ。これが外国の場合は字が読めない場合が多いのだから何の記憶もなくなっている人が多いのではないか、自分は一体どこの場所に行ったのさえわからなくなることがある。外国旅行でアメリカで汽車に乗っても途中の駅名はほとんど覚えていない、プリンス(prince)とかフラッグスタッフ(flagstaff)とかは覚えていた。外国になると忘れやすいからそうなる。旅は結構忙しいから何かを丹念に記録すること自体されていないのだ。その一つの原因があまりにも滞在する時間が短すぎるから記録も記憶にも残らなくなる。長い時間いればそれだけ記録もできるし記憶に残る率が高くなるのだ。

例として今回旅しておりた鶴岡市の三瀬という無人駅である。ここは何もないところだったがまず「
三瀬」という地名を記憶した。これは一番先に記憶に残
る。

 
三瀬地区は、藤倉から流れる水無川・中山から流れる隆矢川・西川の三つの川(瀬)が一つとなる地域ということで名付けられたと言われています

次に「
気比神社」というのがあった。これは前に敦賀に行って知っていたからここにも移動したことを直感した。神社も人の移動とともに移動する。

次に記録したのが「
琴岩古跡」という札であった。インタ-ネットで調べると

当館の名称「琴平荘」は現在の香川県、琴平山(象頭山)の中腹に鎮まる
讃岐・金刀比羅宮(さぬき・ことひらぐう) に由来します。

http://www8.plala.or.jp/konpira/kesiki.htm

これもはるばる瀬戸内海から移動した神である。それからここがかつて栄えた宿場町だった。

ただ宿場町として栄えた一方、大名などが通るたびに人足や馬などの調達に苦労しました。 また年貢の取り立てにも非常に苦労し、大庄屋と呼ばれる村の指導者は藩と村民との板ばさみで自殺する者もいました。

 元文3年(1738)から大庄屋となった相馬又兵衛は藩の文書には公金を使い込み斬罪されたと書かれてありますが、村人の間では村の困窮をみかねて税を取り立てなかったために罪を問われ、切腹して果てたと言われています。


http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/koho/2004/0801/hito/

こういうことは時代劇でよくあるから事実として各地にあった。それから駅の案内板に笠取峠の由来が書いてあった。ここを義経や芭蕉が通った。日本海からの風で笠がとられる、飛ばされるから名がついた。自転車でもしょっちゅう帽子が飛ばされる、笠もとばされやすいのだ。このたまたまおりた三瀬にしてもすでにこれだけのものが「記録」からほりだされる。インタ-ネットでキ−ワ−ドでつないでゆくとでてきた。ここから想像力ある人はいろいろなことを書けるのだ。例えば旅人が笠取峠をこえてきてこの宿場町にくる。

「いや-、あの山の上は風が強くてさ、笠をとばされてしまったよ」
「ああ、風が強いであそこではみんな笠がとばされやす」
「あの山の上でよ、笠とばされたよ、ここは風が強い」
「ああ、ここは風が強いからみんな笠がとばされやす」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あそこは笠取峠ということだな」
「笠取峠だよ」


こんなふうにして名づけられたのかもしれない、三瀬に関して記録からこんなうふうに書けることができる。書くということはまず記録からはじまるのだ。そしてともかくなんでもいいから書いてみると書けるようになるのだ。書くというときあまりかまえて長い文章をうまい文章を書こうとしない方が良い、その点インタ-ネットは別に失敗したっていいからいくらでも書けるからいいのだ。その日のあったことを記録することから書くのもいいのだ。それを積み重ねると書く力がついてくるのだ。書くということも一つの訓練なことがわかる。作家だけが書くものではなくなった時代なのだ。作家の文章は洗練されているが一般の人はそんなに洗練される必要がない、つまり気楽に記録したものから書いてみることである。そこにその人独自の文章が物語が語られるようになる。その一歩が記録することでありとにかく一日の日記でも旅立ったらそのよった場所ごとに何があるか記録してみることが大事である。旅立ったらある場所ごとに書いてみると記録すると書きやすいこれがすでに一日の行程を全部書くとかなるとむずかしくなる。二三日分を書くとなるとさらにむずかしくなる。今回短歌俳句で場所ごとに区切って書いてような書き方が書きやすいことだったのだ。ともかく書くことが一般化したから書くコツを知る必要がでてきたのだ。書くということが庶民のものになったことを自覚する時代になったのだ。






地名をたどる旅(四国の貞光まで)

−−インターネットで盛んな郷土誌研究−−


茶屋町⇒瀬戸大橋⇒坂出→塩江温泉→相栗峠→貞光→脇町暮畑→

【 走行距離 】180キロ

瀬戸大橋線の茶屋町駅から輪行して坂出へ30分。
坂出を出発してしばらく行くと酷道193号で、塩江(しおのえ)温泉まで走る
塩江温泉から県道に分岐し、570mの相栗(あいくり)峠越えだ

自転車で旅行する道程としてこれは参考になる。最初の茶屋町駅というのは倉敷市にあった。

山陽道と四国路を結ぶ通り道となって金比羅まいりの客をあてこんだ茶屋が並んだことから、茶屋のある町、つまり茶屋町という地名ができました。

これは倉敷市にありここから瀬戸大橋をわたった。ここは輪行である、他にしまなみ大橋は自転車で渡れるし自転車も貸すし2000円くらいで泊まる処があったとホームページで見つけた。倉敷の川の船着場から海に出て金比羅参りしたのだ。金比羅の碑はどこにでもある。わが町にもあり全国でここにお参りしたのだ。こうした歴史をたどらないと知らないとまず旅はつまらないものになる。倉敷に行ったが茶屋町がありこんな由来があったことなどわからなかった。現代の旅がいかに途中がけてしまうからなのだ。「茶屋町駅」というのを車窓から一瞬みて通りすぎるからわからないのである。

ともかくこの地名から連想されるものも一つの旅であり興味がある。塩は塩と関係あるのか塩分のでる塩なのか、温泉には塩がつくのが多いから塩自体とはかんけいないかもしれない、ただ塩入とか塩田など地名が山中にあるから山には塩の道がかならずあるのだ。曲木は木を曲げて作る木の器を作っていた場所である。相栗(あいくり)とはやはり栗のことか地名は当て字が多いからわからないが栗とあれば栗を連想してしまう。貞光は平家の一門からでて落人部落で有名な処だからその名がついたのか、伊達とか相馬も一族の姓である。これは人の歴史を語っているのだ。次に脇町とは本町があり脇町がある。本町は別にあるのだ。ただ本町が廃れ脇町が栄えることもある。例えば今では昔の商店街より六号線の方に新しい道のほうに電器店、ス−パ−やbookoffなどが移動して買い物の場所になっている。昔からの商店街は廃れてしまった。ただ昔からの商店街には歴史があるからその歴史を活かす街並み作りが必要である。旅をするとス−パ−は遠いから商店街の方に足が向くのだがそこはどこでも廃れている。旅人にとっては歴史ある商店街の方が面白いのだ。そこは古町となっている。古町はどこにでもある。ここに町の変遷がある。貞光町は葉たばこで栄えた、軒並み葉たばこの出荷地でうだつで有名である。阿武隈山地も葉たばこで有名だった。高原の涼しい処が葉たばこに向いている。ただなぜ阿武隈ではそれほど葉たばこで町をなすほどでなかったかというとそもそも四国は大阪に近いからその消費地に近いからそれだけ繁盛したのである。そこが東北と違う、大阪や京都が近いということは消費地が近いのだからもうけもおおきくなる。これは東北地方にはそうした歴史がかけている。東北はもともと辺鄙な場所だったからだ。商業には縁のない場所だったのだ。淡路島の洲本の狸の伝説がそれを語っている。大阪はあそこから船で近いのだ。


芝居好きで、木の葉のお 金で大阪道頓掘まで見物に出かけた話は特に有名。 場所 洲本八幡神社元大阪中座に祭られ、芝居(芸能)、商売繁盛の神として片岡仁左衛門、藤山寛美等に崇敬を受けた柴右衛門狸が中座の閉館により、生まれ故郷の洲本に里帰りして、社がたてられたのが、蜂須賀家の祈願所であった洲本八幡神社

この話は如実に大阪が近いことから生まれた伝説である。旅することは歴史を知らないではまずその土地のことも何もわからない、地名はその有力な手がかりである。なぜなら地名からだけで行ったことない土地なのにこれだけのことが浮かんでくるからだ。現代の旅はあまりに早すぎるためかえってその土地のこともわからずじまいになるのが多いのだ。自転車で行くと苦しい峠を越えて行き山の奥深い村や町にでるから感慨深いものとなり昔を偲べる。脇町暮畑という地名も情緒がある。つまりこれだけのものを地名からインターネットからその土地のことを読み込める。今ホームページで郷土史とか地域の紹介が無数にある。これもインターネットの新しい文化、地域ルネサンスともいえる文化が起こっているのだ。これは今までのマスメデアではできない、NHKですらできない、その土地の人がじかに発信して説明するのとメデアが仲介して説明するのとは違うからである。インターネットではビジュアルにも説明できるしどんどん地域の紹介は増えているのだ。

宮城県の柴田町でも自分の家族の歴史とか歴史を語っている人がいた。普通は郷土史でも家族の歴史まではあまりでていない、旧家はでるかもしれないがしかし家族の歴史とか個人までつまりミクロからさらにミクロまで小さな地点まで詳しく紹介できるのがインターネットなのである。将来的にはそうした小さな地点にある碑が何なのかなどデ−タ−ベ−ス化が全国で行われる。だから郷土誌はインターネットに向いている。マスメデアはそうした詳細な説明や紹介は苦手でありおおざっぱな大勢にみられるものを作るから地域を紹介するのにも同じようなものつまらないものになるのだ。そこに住んでいる地域の人の思い入れが強い地元の人が紹介するのは外から見るのでは違ってくるからだ。これは明らかにインターネットに向いている使い方である。


晩菊や郷土を語る一人かな

我がポタリング人生
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~kanehori/report/index.html

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5599/report/sanuki3/index-g.html





貞光町からはば山(端山)へ(地名は最初音から始まった)

四国の光貞町というとこになぜ行ったのかというとインタ-ネットでたまたま調べていてでてきたので私のホ-ムペ-ジの郷土史に書いた。一度も行ったことがないけれど書いたのだ。そこで実際行った感想はやはり意外だった。想像上で書いたものとはかなり違っていた。ここが葉たばこで栄えてウダツで有名なことは確かだった。しかしそのウダツの町並みも何か余りにももの寂びていた。ウダツの瓦の屋根にはペンペン草が生えていたりなんかわびしすぎた。庄屋の家というのはそれなりに栄えを示していたのだろう。意外だったのはその細い町並みの道を山の方に行くと大変な急峻な山がそびえその細い道はその山の間をぬって剣山の方につづいていた。その高い山肌に点々と家があった。あのような高いところになぜ家があるのか、かなり不便な暮らしと思うが四国では昔からこうした高いところで暮らしていた。ヒマラヤの山岳民族のように思えた。ただ昔は山で木材とか葉たばことか炭焼きとか鉱山とか産業があったのだ。だから山に住みついたのである。

そこで出会ったのが捨子谷だった。そこを下ると昔の商店が一軒ありそれは大きな家で昔は結構品物もあり売れていた。今はがらんとして何もない、そこでコ-ヒ-を買おうとしたら70の老人がでてきた。そこに座り話した。その老人が言うにはこの前の道路を自動車が最初に走ったのは木炭車だったというのが面白かった。

共和国では、外貨不足で原油の輸入が激減しており、自動車の運行に必要なガソリンの供給も難しくなっているため、その打開策の一環として木炭車の利用を奨励しており、1998年1月の『労働新聞』は「咸鏡南道耀徳郡では木炭車での輸送を成功裏に保障している」と宣伝したことがある。

『石油で走る自動車よりも、薪焚いて走る木炭車』というのがあったが、すぐに混ぜ返すやつがいた。
『薪焚いて走る木炭車よりも、芋食って走る人力車』
自転車は、まさに、芋食って走る人力車である。排気ガスが出たとしても、環境汚染というほどにはならないだろう。



木炭車が現実に存在したし今も燃料がないと利用される。最近中国では日本に炭を輸出するのを禁止した。森林の破壊で環境破壊になるからだという、中国の森林破壊はすさまじい。黄土にすら大きな森林があったのに今は土しかない、これで日本の炭を作る山村が活気づくというのだ。いかに中国の影響が今経済面で大きいかわかる。

その老人が言うのにはここは昔(はば山村)と言っていた。それが貞光村になり今度の市町村合併でつるぎ町になった。剣山が象徴的な山だからそうなった。これも実は白神市とか名付けるのと同じである。観光的な側面を強調してそうなった。外からみるとわかりやすいのだが歴史的なものを考慮するともうひとつしっくりこないのだ。ここでハバ山が端山となっているのか、最初にハバ山とこの地方で言ったいたのに端山と漢字でなっている。端山という姓の人も結構多い、ハシ山ならわかるがはば山と言っているのだ。端をハバと読むのかそれともハバを端としたのかわからない、阻む(はばむ)から阻む山からはば山と言っていたのかその方がここにふさわしい。まさに阻む山だからだ。地名は最初漢字ではなく音でありそれに漢字をあてたのだ。その例が北海道のアイヌ語地名なのである。だから土地の人の方言や音が最初にありそれに漢字をあてたのだ。だから地名は本当はまず音が最初にありそのあとに漢字の地名があるのだがどうしても漢字化すると文書などに残りやすいからそっちが注目する。観音寺はかんのん寺でなくかんおん寺と言っているが外の人はかんのん寺と言ってしまう、他にもこういう音と漢字が一致しないことがかなりあるのだ。ともかくここからは自転車では行くのは坂が急で無理だと思った。

ここも結構古い歴史がありふでに古代にも都に知られていた。

阿波の忌部氏は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖神として祭り、麻や木綿(ゆう)を栽培し、その荒妙(あらたえ)を中央の忌部氏を通じて朝廷に献上していた。以来、この地一帯(定満谷)は木綿麻(ゆうま)の里とも呼ばれ、当地方における産業文化の中心地として発展してきた

木綿麻川があり確かに四国は奈良でも近いからすでに古代にも物流があり朝廷に献上されていたのだ。旅をしたとき土地の人となんでもちょっとしたことでも話すと意外な発見があるものなのだ。柳田国男でも宮本常一でも土地の人から聞き出すことが上手でありそこから民俗学を創始した。ただ旅だけでも土地の人とちょっとでも直接ふれることが旅を味わい深いものにする。ただ私の場合はそれが苦手なのでほとんど話しすることはまれだが旅をしたら土地の人とちょっとでもふれることは有益である。このさらに山の奥に猿飼という地名がありなるほど猿を飼う人がいたのかとそれもこんな山奥では不思議でないと思って興味深いものがあった。

ここの問題も過疎化であった。それも極端な過疎化である。七、八割くらい減ったという村を維持できないほどの過疎化であり老齢化してしまった村である。それが統計にも現れている。1900-2000年、最近ですら7千人の人口が6千人になっていたりこれが20年単位だとその倍以上になるからここの村の人口の減りかたは極端なのである。

同村は六十五歳以上の人口割合を示す高齢者率が50・1%と、県内最高。人口千四百一人(一月末現在)の半数を高齢者が占め、十五歳以下はわずか3%の四十三人。貞光、半田両町と三月一日に発足させる新自治体「つるぎ町」でも人口減を食い止めることは困難を極めそうだ。

http://www.topics.or.jp/Tokushu/shichouson/sinjititai/p2.html


この家の作りは相当古い、二階が低いし出窓もかなり古い作りだからでもここがぺんぺん草はえていてなんとも全体がさびれた感じになってしまっていた。















蕪村の句の会津商人の意味するもの

(高尾)
村紅葉會津商人なつかしき  蕪村

領国経営の手法は信長似ており、商業優先政策(楽市・楽座の実施)をとる。近江商人→松阪商人→会津商人と、経済政策において極めて優秀な統治を行う職人も多く招いた。漆器、ろうそく、木地、焼き物などの基礎をつくり、その産物は、日野や松阪から連れてきた近江商人によって全国に販売され、会津に大きな経済効果を生み出している。

芦名時代からの会津商人司簗田藤衛門道幸の屋敷跡でここに2500坪の屋敷を与えてその発展を期させた つまり会津は近江商人 伊勢商人の集大成の町で白虎隊だけの町ではないのです

養蚕、漆、ろう、紅花などの栽培を奨励して、価値の高い商品作物を生産することに力をいれました。特に朝鮮人参は高価な商品作物であることから藩直営の事業とするために人参奉行所を設け、人参の生産販売を専売制にしました。そして、藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津の朝鮮人参(会津和人参ともいわれる)は天保(1830)幕府の許可によって日本ではじめて輸出人参として清国(中華人民共和国)のむけ長崎の港を出港したのです。

会津商人とは固有名詞化していたとなるとそれなりに活躍していた。つまり一人二人の商人ではなかった。それなりの数がいたから会津商人として知られていたのだ。江戸時代の解釈の間違いは必ずでてくる。どうしても背景がわからないからこうなる。背景を知ると読みが深くなるのだ。村紅葉などとなっているから田舎に来る貧しい行商人のように見てしまうかが会津商人とは大きな商いをした商人なのである。会津は江戸時代でも雄藩であり京都守護職をにない、新撰組を指揮したことでもわかる。福島県では会津藩は一番大きく全国的にも大きな藩だから知られていたし経済的活動も京都辺りまで広がっていたのだ。

会津藩御用達商人 足立仁十郎の墓
長崎に会津和人参を商った人の墓があった。

大塚山古墳出土品
・ 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
岡山県の丸山古墳から出土した物と同じ型で作られています。このことから、当時の大和朝廷の勢力を後ろだてとした豪族が会津にも存在し、死後に巨大な墓が作られたものと考えられます。なぜなら、三角縁神獣鏡は大和朝廷から会津の豪族に与えられたものと考えられるからです。現在でも東北地方唯一、わが国最北の資料として注目されています。

会津の 防人 ( さきもり ) の歌

「 会津嶺 ( あいづね ) の国をさ遠み逢はなはば、 偲 しの ) びにせもと 紐 ( ひも ) 結ばさね




ここで注目すべきは 国をさ遠み・・・である。古代に万葉時代に国という意識があったのはみちのくではない、陸奥の真野の草原はどこか不明にしてもある一地域であり国という意識はない所である。会津が古代から陸奥では一つの国の意識があった。くにの意味が明確でないにしても国を離れるという意識があったのだ。会津は古代から一つの大きな歴史を継続して明治維新でその歴史を終えたのである。相馬藩六万石でも一〇万でも国という意識は生まれない、三〇万石になると国という意識が生まれる。会津は古代から連綿として継続した歴史があったのだ。会津商人もそうした継続の中から生まれた。蒲生氏郷が近江商人や職人を移住させたときから飛躍的に商業が発達したのだがその素地がすでにあったのである。

どういうわけか会津というとき会津藩に思い入れの強い人が多い。仙台藩とかは六〇万でも余り思い入れが強くない。会津は白虎隊のように何か会津という山国の土地に思い入れが強いのである。それは山国という閉ざされた特殊な地理的環境が原因している。そうした山国では人間関係も濃厚に密接になり会津の一体意識がうまれたのかもしれない、ならぬものはならぬとか首相にならなかった人もいたように山国特有の精神的風土も生まれたのである。つまり国が大きいからその国に愛着を持つとは限らない、かえって小さいと愛着を持つことがある。郷土愛というと小さい方がなじみやすい、日本全体への愛国心というと抽象的になるが郷土愛となると具体的になるのだ。でも相馬六万石くらいだと歴史の厚みがないから歴史的蓄積広がりがないから国としての意識が希薄となる。会津三〇万石くらいが国の意識を持つには丁度いい規模だったのである。

会津にこうした大きな山国の雄藩だから文化的商業的武士道などの歴史的蓄積がある。会津農書というのもその一つである。一流の茶人がきて茶道も育まれた。一方会津というと実際に高い山が多い、2000メ−トル級の山がそそりたつ、その山の姿も旅行してもわずかしか見られない奥深い山国である。登山に適した山はいくらでもあるのだ。山の領域が広大でありその山の姿をとらえることはできない、山はまた高い所に上らないと山の姿はわからない、だからほんの一部の山を見ているにすぎないのである。福島県は会津まで入っているから実際は広大なのである。会津の山は極めることはできない、山は平坦な地でないから山は無数にそびえているからわかりにくいのである。一つ一つの名のつけられた山にそれぞれ表情がある、これはまた外から見ただけでもわかりにくいし上ってみないと山はわからないということもある。だから山を知るということはむずかしいのである。会津はこうした山国だから米を食っていた所も限られていた。蕎麦を食って米は食えないとなる。ともかく会津は大きな一つの国だから会津学まで生まれし研究の対象になる。ただ会津というとこうした山国だから現代では取り残され過疎地になってしまった。

西会津芒なびきて夕日かな

西会津さらに山路の分かれゆき我が行けざりき秋の陽没りぬ


バスで西会津を通ったが西会津となると会津の奥深さがあり奥会津というのもまたそうである。会津はそれほど広い国なのである。会津の国がわかりにくいのは山また山の国だからである。日本は山国だから山一つ越えると別な国になる。常に山のあなたの空遠くに国が尽きることなくあるからなのだ。