貨幣とは何なのか(冨と経済の問題)
(小林勇一)

時事問題の深層から貨幣についてまとみてみました。

時事問題の深層の全目次

・・・・このペ-ジの目次・・・・・・

FORTUNE( 富と運命)
石の貨幣
富の移動と限界(1)
富の移動と限界(2)
あなたの財産はかくも簡単に消滅する」浅井隆を読んで
貨幣に支配される世界
山原(沖縄)の共同売店
地域貨幣の意味するもの
お金の発想法」木村剛を読んで
ライブドアとフジテレビの株の争奪戦の深層2005-2月27日
文明は人間を数字化する(煉瓦建築の意味)2007−9−15
見えない金(誰もわからない金の実体)2008-18日



FORTUNE( 富と運命)

fortuneには二つの意味がある。富と運命である。金とはためようとしてたまるものではない、たまるのが金だという。確かに節約して金をため事業して成功して大金持ちになる人はいる。しかしその事業を成功させるにはいくら個人が才能があっても何十億となると決してできるものではない。多くの人の協力が必要だからである。売れたとしたら買ってくれる人がいるから売れるのである。そしてどうしてかいくら働いても働いても金がたまらない人がいる。働いたから節約したからたまるとは限らない。金がたまるのは運が関係していることは確かなのだ。いくら毎日こまめに働いても金はたまらないが運がよいと金はたまる、入ってくる。この回りを見てもわかる。とても家など建てられない人たちが新しい家を建てられたのだ。それもちょっと道路になるだけで移転させられて新しい家が建てられた。これも運であり毎日真面目に働いてもこの辺では家建てることは容易でない。

商売にも運がつきまとっている。場所がよくて繁盛するとか時代の波にのるとかその人の才覚より回りの状況とか時代が関係している。10年前20年前貯金していた人は利子が6パ−セントかだったのだ。これも時代により金が入ったのでありその人の才覚ではない、運が良かったとしかいいようがないのだ。金は天下の回りものだという時、金も一個人ではどうしようもない、めぐりめぐってゆくものだということを言っている。つまりこの運もいつまでもつづかない、一個人に留まらないものなのだ。バブルの時、土地成金が出たがあれも運が良くで金が入ったのだ。しかし結局バブルははじけてある意味で日本の富の運も尽きたように思える。

富や運も一国に留まっていないのだ。歴史を見ればベネチアが栄えスペインが栄え、オランダが栄え、次にはスペインがポルトガルがイギリスが・・・・と富は移動している。ヨ−ロッパの富は主に南米やアジアから収奪した面があるから彼らにもはや富は外部から入ってこないだろう。この富、運を左右しているのは一個人の力でもなく一国の民族の力でもない、神がそうしている。神がその運をもっていて順次配分しているようにしか思えないのだ。金というのはとても一個人や家族や一国だけでもっている訳にいかないものがある。だからおごれるもの久しからずと言っているのだ。金をもっているからといっておごっているとたちまちに金はどこかに流れて衰退するのである。日本のバブルははじけて日本の富の運は尽きたとしか思えない、おそらく次に運が尽きるのはアメリカでありアメリカより一歩先に日本の運は尽きたのである。資本主義社会はバブルになるとたいがい衰退の時代になる。オランダはチュ−リップバブルだった。しかしこのチュ−リップバブルは無駄ではなかったのだ。チュ−リップはオランダの産業になったし観光の目玉となっていまもオランダを支えうるおしている。が日本の土地バブルは何も未来に残すものがなかったのだ。

富とはまた妬みをひきおこす、なんであれだけがもうけているのとかなんであの国だけが栄えるのとか妬みをもたれる。隣に蔵が建てば腹がたつ、だから富めるものは気前良くないと妬まれて危険になる。日本はアジアでそういう立場にあった。その妬みは実際怖いのだ。何故ならその富の羨望からカルタゴはロ−マに滅ぼされたという、その説は明確でないにしろそれも一理ある。ユダヤ人が憎まれてきたのは富と関係していたことは否めないし、マルクスの理論も泥棒の理論でもあった。つまり金持ちからは奪う権利があるのだという泥棒にも三分の理であったとも言える。インドのカ−スト制ではこの富を運命として固定させた。富めるものは生まれつきの運命であり貧乏人は生まれつき貧乏なのだ。それは神が決めたことだと固定化した。しかしインドにしたって富める階級がいつまでも同じではいない、必ずこれからは富める人も貧しくなるし貧しい人も富める人になる。日本でもそういうめまぐるしい富の変化を受けているし世界中でそうなのだ。中国では日本の富を奪う権利があるというかもしれない、クエ−トがイラクにそう思われ実際に侵略されたようにありえぬことではないのだ。つまり人間は富だけでは安全は図れないし富は永久のものではないということなのだ。


自分の富を頼るものは衰える 箴言11

富はたちまち自ら翼を生じてわしのように天に飛びさるからだ

富は,いつまでもつづくものではない


まさに日本の富の運は尽きたのだ。いくらまた富を戻しふやそうとしても富は別なところへ流れてゆく、その運を留めることはできない、富を運を握っているのも神なのだ、だからいかんともしがたい、一見人や国と思っているが実は神がその富を運を配分していたのである。



石の貨幣


貨幣の持っている意味は一つは貯蓄であり、消費であり、投資である。貨幣とは貝が基になっていたということは南国の珍しいものを集めておくことが富めるもの誇示となったためである。貨幣は宝物の財宝の役割をしていた。貨幣の発生は外部との外国との貿易にあった。貿という字は正に貝を留めるという意味だった。貨幣には貯蓄の意味もあった。南の島では巨大な石の貨幣が作られた。それは流通するためではない。ステータスシンボルとして持っていた。富の誇示としてあった。それを持っていることで何かしら貨幣の役割を果たす意味合いがあった。保証とか担保とか贖いとか契約の代行品、結婚の結い納品の代わりとか様々な意味がこめられていて大事に貯蔵された。それは閉鎖的地域の価値に留まり大きな石の貨幣は海に沈んでしまった。貨幣の次の役割は消費であり日常的に生活のために使うことである。消費は遊びにも使われるがこの遊びはすべて無駄なものではない。旅行するにしても見聞を広めることであり遊びはまた生産の現場でも活力をもたらすものである。次に貨幣の役割として投資がある。投資は未来のもののためにする。見込みのある発展するもののために金は投資される。そして消費と投資は相性がいい。消費することと投資することは表裏一体の関係にある。消費は負のイメージがつきまとうが本を買い読み旅行することなどは一面見聞を広めるためである。パソコンを買うにしてもそれは知的生産と結びついている。消費と投資は結びつく積極的イメージがあるが貯蓄自体にはない、それが投資に結びつくとしても日本人の場合は安全第一からである。貯蓄するのは将来の不安のためであり投資のためではない。

農耕民は貯蓄型である。安全指向である。だから消費は何か不健全なものとされ倹約が美徳となる。また狩猟民族は獲物をしとめる道具が大事であり絶えず道具の改良が必要である。ヨーロッパでは絶えず戦争があり武器が発達した。ヨーロッパの世界征服はこの武器におっていた面があった。武器だけではなく道具の改良が機械の発明へと通じていった。もちろん農業においても道具は大事で改良がすすめられた。何故ヨーロッパが世界を導くものとなったのかその背後に文化や歴史、思想、宗教が関係して一概には言えない。ただ農業国はどうしても土地を第一にし保守的になりやすい。中国がその典型なんだ。中国が発展停止の国になってしまったのは農業による専制国家から抜け出ることができなかったためである。一方ヨーロッパは地中海から世界の海にのりだし発展をとげた。資本主義とは投資というのが基本にありリスクをかけて投資すること船で海にのりだしたのも投資だった。ヨーロッパの歴史は絶えざる投資の歴史だった。それに比べ東洋は農業に基盤を置き投資という観念が希薄であり貯蓄型でリスクを好まない受動的文化であった。共産主義国家がロシアや中国など農業国家にマッチしたのは専制的農業国家と相性が良かったのである。それは投資型より貯蓄型で発展しなかった。

どうしても貯蓄型文化は停滞する。貯蓄は循環をこばむ。図で示したように黒のイメージなのだ。消費と投資は積極的なイメージである。日本で現在金を持っているのは老人である。老人は金を使わない。それで日本に金がとどこうり金が循環しない。経済を活発にするにはやはり生産的消費と未来の投資が欠かせないのだ。「明日のことは思いわずらうな、明日は明日が思いわずらう」という楽天的思考が必要なのだ。結局石の貨幣は何の意味もなく海に沈みあとから発見されてもそれは役にたたないものだった。貨幣の意味は生産的消費と未来の投資のためにあり安全のためにではない。貨幣により安全は保証されない。貨幣の価値は一定でないからだ。知識も貨幣も流通しないと意味がない、インターネットは知識の流通を迅速にする。本の世界は閉鎖的で流通をこばむ。あたかも聖書に鍵をかけて庶民に読ませなかったように知識の流通を阻害する面があった。貨幣も流通を促進するためであり知識も迅速な流通が必要なのである。現在の不況の克服にはやはり貯蓄型ではだめであり生産的消費と投資が必要である。インターネットは知識の消費でもあるが生産でもあるのだ。消費ー投資は一体のものなのだ。

何が価値を持つか何が富なのか、貨幣自体は紙切れでありまた黄金でも黄金自体が必ずしも価値あるものでなかった。スペインはあくことなくエルドラード(黄金郷)を目指した泥棒国家的側面があった。黄金をためこみ黄金で必要なものを世界から買いやがてすっかり衰退してしまった。黄金は富を生まない。富は土地自体からも生まれない、土地に労働を加えて初めて価値が生まれる。故に労働する小作に与えられることになった。この点はマルクスが正しかった。しかし人的労働だけでは豊かになれなかった。労働の効率化が必要でそれには機械化が成されて飛躍的に生産は増大した。インドと中国は人的労働力に頼りすぎて発展しなかった。いずれにしろ富を生むものは貨幣自体にあるのではない。それはたちまち紙切れ同然になる可能性がある。事実戦前に持っていた金は終戦を境にして紙くずになったのだ。日本人が占領した国で発行した紙幣も戦後紙くずになった。貨幣に頼ることは常に危険がつきまとうのだ。今日本は巨大な石の貨幣のように経済が循環しないデフレに陥っている。そのまま石の貨幣と共に海に沈んでしまうかもしれないのだ。




 
 
盗んだ会話

shee>この「未来の価値の如何に関わらず一定の価値をつける」ってのは経済において画期的な事件だった、とおもう。
Reffi>ふーん。
shee>この瞬間、やっと西洋/東洋の近代文明は地球の隅のパプアニューギニアの人達の50メートル後方に追いついたのさ。
Reffi>ほげ?
shee>パプアニューギニアだったかサモアの人達は、よく漫画に出てくるような一メートルくらいはある石の貨幣を使っていると言われてたね?
Reffi>うん。よく原始的な貨幣経済として紹介されるよね。
shee>今から言う事を良く聞いてね。あの人達は、石の貨幣が誰の物であるかお互い知っていたの。で、あれの所有名義を変える事で物を取引していたの。
Reffi>…?
shee>たとえば、漁場の採取権とか椰子の木何本分の椰子の実の採取権とか。
Reffi>うん。
shee>気をつけて考えてね。この間石の貨幣は一ミリも動いていないし漁場も動いていない。
Reffi>…!!
shee>これは完全な信用取引きなんだ。現代文明がやっとこの方式に追いつくまで何百年かかったと思う?
Reffi>ぶっちゃけてますねー。
shee>物の価値ってのは人間が決める物なんだ。それは当たり前の事だね。価値ってのは基準だから。
Reffi>それでさっきの話は?

この石貨幣は極めて狭い範囲でしか流通しなかった。この石の貨幣がだんだん巨大化したのは象徴的である。というのは広範囲に流通するには利便性を重んじるなら軽く小さくなるからだ。流通する貨幣というより蓄えておく財産になったのだ。しかしその石の貨幣もやっかいものとなり海に放棄されたのだ。




富の移動と限界(1)

また黄金みつる東洋の産む
品々を探しにゆかれるとしたら
肉桂、丁子、舌やく香辛料
さては霊験いやちこの薬石を
また光る宝石、みごとなルビ−
      
ウズ・ルジアダス(ルイス・デ・カモインス)

なぜヨ−ロッパが世界の富を我が物とし世界を導くものとなったのか、ヨ−ロッパはもともと貧しい国だった。イスラムの方が文化的にも優れていた。科学もイスラムから発したのである。ギリシャの文献がアラビア語に訳されてイタリアでルネサンスが起こった。十字軍も中東の富を略奪するものであり非常に野蛮な侵入者だった。イスラム商人はアジアの中継としてその富をヨ−ロッパに運んだのだ。陸のシルクロ−ドと海のシルクロ−ドで運んだ。富はアジアにあった。




大きな歴史的エポックとして十字軍の遠征があり次に大航海時代がある。航海の技術の進歩が大航海時代を生んだ。この大航海時代が資本主義も生んだ。船は明らかに投資であり危険でもあるから株主が保険金をかける。この大航海時代はアジアから胡椒やらアフリカからは奴隷に南アメリカからは金をもたらした。大航海時代はヨ−ロッパにアジアには無限の富があるごとく思われたのだ。日本の平泉の金色堂なのかどうかわからないがジパングも黄金の国としてマルコポ−ロによって伝えられた。インカではスペインにより黄金が略奪された。スペインは泥棒国家であった。スペインは黄金とか略奪による富で手工業的な労働に従事することなく他国から輸入するばかりだったという。何も生み出さない海賊国家だった。博打でもうけたような金だった。だからその衰えるのも早かったのだ。博打やクジでもうけたような金は浪費されてしまう。石油のような資源もいつか尽きるから富にはならない、富は生むのは別なところにあった。

これに反してイギリスの富は産業革命によってもたらされたのだ。つまり今までにないものが蒸気機関車や機械が発明された。アジアには綿花であれ貴金属であれ様々な資源と富があってもそれを加工する技術がなかった。資源や材料があってもそれを加工する技術がなければ大きな船も作れないし資源を活かすことはできない、中東には石油という膨大な富があってもそれを精製する技術もないし利用できないのだ。工業が生まれないから一部を途方もない金持ちにするだけで富の不公平が生まれた。国民全部を豊かにはしていない、かえって政治的不安定を生んでいる。資源だけあってもそれを利用する技術がなければ富にはならないのだ。

コ−ヒ−や砂糖などの製品ももともと東洋からヨ−ロッパに入ってきたものだが、逆に流れるようになった。砂糖の場合は精製加工してから東洋に売っていた

他にもヨ−ロッパには富を生み出す基盤があった。宗教と科学の分離とか政教分離もそうである。これも大きな富を生み出す原動力となったのだ。宗教が科学や政治に過度に干渉すると経済は停滯する。いろいろ拘束されては発展できなかったのだ。宗教がすべての権威になり教皇にお伺いしなければならなかった。内容は違うがイスラムでもそうである。日本の天皇もそうであり政教分離していなかった。創価もその点危険な団体である。創価の問題は幹部だけではない、普通の会員が生活レベルで政教分離になっていない、経済活動と宗教が結び付いている。何かことあるごとに宗教になる。経済的に成功すれば信心の勝利となり失敗すれば信心がないとなる。政治的にもすべて信心の戦いなのだ。これはイスラムとにているし戦前の天皇崇拝とにているのだ。仏法で勝つ、天皇で神風で勝つという狂信的なものとなる。政治と宗教が一体化するからファナテックになりやすい、イスラム原理主義の狂信とか一党独裁による支配は政治や経済やすべての活動を硬直化させる。
イスラムの停滯はヨ−ロッパの改革が成されていない、旧来のままに硬直化しているのだ。根強く部族とか軍閥とかがあること自体、封建時代なのである。

ルタ−の改革がヨ−ロッパにとっていかに大きな改革であったかを示している。ヨ−ロッパの改革が現代の基準になったのだ。科学的思考が大きな力となった。これは呪いともなったが科学の力なくしてヨ−ロッパに富はもたらされなかった。その背後には多くの天才を生んだヨ−ロッパの歴史があった。科学の発明発見はヨ−ロッパからほとんど起こったのだ。スペインの富は産業革命に基づいたものではない、ただ他国からの富の略奪だったから一過性で終わった。中東も石油という資源があっても富をもたらさない、日本の富も製造業から生まれた。日本の富は堅実なところがありイギリスとにているのだ。だから製造業が技術が衰退する、競争に敗れれば日本の富もない、日本の富は国民の頭脳にあるといえる。資源がないのだから頭脳によって生み出す他ないのだ。

ではその頭脳に期待できるのか、ビルゲイツのような頭脳が生まれるのか、コンピュタ−革命は一人二人の天才から始まった。それが莫大な富をアメリカにもたらしたのだ。全くの頭脳だけからであった。日本からそんな天才が生まれるのかといったらそういう土壌がないから日本では苦しいのだ。日本はこれまでヨ−ロッパの真似で発展してきた。ではこれから独自のものを発明し技術革新できるのか、それが問題である。ただコンピュタ−のソフトの世界でもインドとか中国とか日本でも新しいものを開発するようになるかもしれない、科学技術の主導権がアジアに移ってゆくかもしれない、東から西へ西から東へと文明の繁栄は移る。長い目で見るとそうなる。中東はヨ−ロッパとその延長のアメリカの中間地帯にありそこが問題の焦点となるのも文明の衝突する地域にあるからだ。

中東が豊かになれないのはヨ−ロッパやアメリカに石油が握られ安くとられているだけではない、それを加工する技術がないためでもある。石油を利用した産業も作れないのだ。そこに主な原因がありテロをしても何の解決にもならない、イスラムの狂信的原理主義でも解決しない、彼等は自らの足元を見ていないのだ。貧乏の原因をヨ−ロッパとかアメリカとか西側にするのはおかしい。自らの努力が足りないのだ。一方アメリカにしてもテロにはテロも間違っている。それも解決の方法ではない、つまり両者とも冷静に考えればわかるのだが感情的になりテロの応酬になっている。感情的なものファナテックなものはさらなる混乱をまきおこす、アメリカが今冷静になりつつあるのはいいことである。一時的感情的爆発は危険なのである。いづれにしろ富は一カ所に留まらない、常に移動するものであり富はアジアからヨ−ロッパに移動したものであり今や地球的規模で富は限界にきている。すべての経済が富の追求だとするときそれは日本にしてももはや達成されない、不況は解決されない、景気はよくならない、世界的に景気を拡大すること自体無理になったのだ。大航海時代の無尽蔵の富があるとヨ−ロッパに思われ資本主義的投資が行われる時代は終わった。それは環境破壊につながり南北の極端な経済格差につながりグロ−バル化は決してすべてがいいものではなかった。今や地球的限界経済学のようなものが必要になっているのだ。そのモデルが日本の江戸時代、島国の経済学になる。次の問題はこれになる。

参考にした本

強国論−D.Sランデス




富の移動と限界(2)

シルクロ−ドを伝いマルコポ−ロがヨ−ロッパに黄金の国、ジパングのことを伝えた。

ジパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
 この島の支配者の豪華な宮殿について述べよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓でさえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲をこえているのだ。
(『東方見聞録』マルコ・ポーロ著 

これは平泉を言ったものだと言われる。そんな噂が中国まで伝わっていたのかわからない、平泉は宮殿ではない、仏教の御堂である。みちのくには確かに黄金が万葉時代にとれていた。

天皇の御代栄えむと 東なるみちのく山に 金花咲く 大伴家持


は有名でありその頃から黄金伝説が生まれる素地があった。
ただ黄金郷への異常な憧れ、富の象徴である黄金郷は実際になくても作り出される。一攫千金の夢は常に人間から離れることがない、スペインはこのエルドラ−ド(黄金郷)を求めてコロンブスを初めとして大西洋をわたりアメリカを発見した。確かにインカ帝国には黄金があったのだ。どこにも黄金郷の夢が語られる。沖縄にも黄金郷伝説があった。

しかしこの黄金が富を産むのかといったら産んでいないのだ。富を産んだのはむしろ鉄だった。鉄によって国家が作られたというごとく鉄の農具が入ることによって生産が飛躍的に増大して沖縄にも各地に城(グスク)ができたように鉄の方が富を生み出したのだ。鉄を産み出したのはヒッタイトという、何故なら小国のヒッタイトがエジプトと互角に戦えたのは鉄の武器があったからだという、それはまだ証明されていない、日本人がその発掘していることがnhkでやっていた。鉄は人類にとって火を使ったことに匹敵するくらい大きなことであったのだ。

プロメテウスが人間に火を与えた。その結果、ゼウスの怒りをかい、コーカサスの山の岩に鎖でつながれ、永遠に、はげ鷹に腹を引き裂かれ、肝臓をついばまれ続ける、という刑に処された

を盗んだことによる罰と同じく鉄の発見と使用も人間に多大な便利をもたらした。文明は鉄によって作られたといっても過言ではない、黄金はそもそもダイヤモンドのようなものであり実用に役たたないし富にはならないものだった。だからその影響力も弱い、それほど黄金に憧れ富の象徴とするのは不可解である。黄金は稀少性が高いから貴族階級が富の象徴として望むもので実用としては東洋の胡椒のような香料の方が商品価値が高かった。当時は黄金というものが価値があり富の象徴とされてきた故そうなった。飢えているとき一片のパンの方が黄金より価値があるし価値は変わるのだ。ただ黄金は常に富の象徴とされてきたのはやはりその希少性とその輝きによる。スペインがいくら黄金を持ち帰り積んでも富にはならなかったのだ。黄金郷が理想化されたのはむしろその影響力の弱さであった。一方鉄の影響力は余りに大きすぎた。だから鉄が普及することの不安がその当初からあったのだ。

さてゼウスは第三の青銅の種族の人間を造った。
トネリコの木から生まれ、恐ろしく強力であり
アレス(軍神)の悲痛な仕事を乱暴を事とし
・・・・・・・・・・・・・・
その力は大きく抗すべからず腕が、重い体躯の中から生えていた
その武具は青銅製、家も青銅造り
そして彼等は、お互い同士の手にかかって滅ぶ
冷たいハデス(冥府)陰湿な館へ下った

クロノスの子ゼウスは大地の果てに
人間界から離れて生きる場所を授けた
彼等は深く渦巻くオケアノスのほとりの福者の島に
憂いのない心をもって住んでいる
一年に三度も蜜のように甘い実りをもたらす

さの青銅の時代は鉄の時代の先駆けであり鉄と同じだった。青銅であれ鉄はこれほど不吉なものとしてみられたのはそれほど影響力の強いものであり直感的に危険を察していたのだ。技術というのが人間にどれだけの災いをもたらすかの警告と不安がその当初からあった。

鉄を無害なものしようとする多くの試みがなされた。農業の目的にのみ鉄を使用すべしとボルセナがロ−マ国民に対して認めた協定に含まれた、はっきりした一つの規定だった。(プリニウスの博物誌)

鉄はこのように影響力が余りに大きすぎたので規制することにしたのだ。鉄であれ技術は常に便利さと同時に害をもたらすものと直感していた。それが現実化したのがこの二十世紀であった。技術が一番発達した時代でありその象徴が日本に下った原子爆弾だったのだ。富をもたらしたのは青銅とか鉄であり黄金ではなかったのだ。とにかく自動車にしたってもはやこれ以上は限界であり交通事故は減らないしかえって不便にもなっている。それでトヨタが自動車通勤を規制したのも皮肉である。もう渋滞でどうにもならなくなったのだ。技術を規制しないことは実際に恐ろしいことになるのだ。技術の発展を手放しで喜ぶことはできないのだ。現代の世界の矛盾や問題はすでにギリシャの神話の時代に予言されていた。その予言通りに歴史は進行したのだ。人間はその予言を無視して危険に突入してきたのだ。確かに富がもたらされてもそれは幸福へとはすべてつながらなかったのだ。鉄の使用されたとき、四大文明にソクラテス、キリスト、シャカ、老子、孔子という人類を代表する思想家が生まれたのは偶然ではなくそこで人類に対して共通に欲をつつしむことを教えたのだ。人間にとって欲の制限なき追求の危険性を諭したのだ。

一方で本当の至福の島は熱帯の楽園にあることを感じていた。それはアジアでありヨ−ロッパではなかったのだ。一年に三度も米がとれるのはアジアでありそこに憧れが生まれるのも当然であった。科学とか技術が手放しですべて良いものとなるとは限らない、これはすでにギリシャの神話であれ聖書であれ警告していた。つまり20世紀は度を越した科学技術の世界が現実のものとなった。それが未曽有の富をもたらしたと同時に災いももたらしたのだ。自然に対する畏怖とか技術に対する恐れとかそうしたタブ−が全然なくなった時代といえる。科学が最高のものであるとすれば人間が科学技術を造るのだから人間が神のごとく最高のものとなる。神は必要ないという傲慢におちいる。現実そうなったのだ。科学技術には何らか制御するものが必要だしそれを神の業のごとく全面的に崇めるのは危険なのだ。


「彼等は自然界を神聖なものと見たゆえ、それに即応して生き、その技術的な才能は主として神々に祈り讃えるための設備や装飾の建造に傾注された」(ギリシャ世界の神話観)(藤縄謙三)

技術の不足ではなくあえてその世界観から自然を乱さないように技術を使ったのがギリシャ人だった。だからギリシャが科学の基だったり民主主義の基だったりギリシャに学ぶことは今でもあることに驚くのだ。今日のような環境破壊はギリシャからは起こりえなかったのである。聖書でも同じである。

シオンは公平をもってあがなわれ、そのうちの悔い改める者は、正義をもってあがなわれる。(イザヤ1−27)


技術で国も人類も治められない、だからギリシャでは国家の正義を中心に置き過度の技術の利用に絶えず警告をだしつづけていたし現にそうはしなかった。そこには深い知恵があったのだ。ギリシャ人はまだ自然の息吹を感じる原生の感性をもっていたのだ。現代人に欠如してしまったのはこの原生の感性である。ビルの谷間で暮らしている人々に自然の神聖さがどうのこうのと全く関係ないのだ。かえってそこでは人間は人間ならざるもの、何が尊いのか何が何が中心にあるべきものなのか全くわからない迷宮に棲むことになる。メディアもこれは大衆にこびる大衆によって消費される消閑のメディアであり真実とか正義を追求するものではない、コマ−シャル中心のメディアである。人間がロボットを作ってどうなるというのだ。ロボットにはどんなにしたって何が神聖で価値あるものかなど身につかない、人間が今や人間ならざる奇怪なもの、モンスタ−と化しているのが現代なのだ。人間そのものが奇怪なロボットとと化しているのだ。ロボットは自分で考えることも価値判断もできないから北朝鮮のように全員右ならへで戦争の道具にすることも容易である。宗教団体も一人の神格化された偶像にハイルヒットラ−で突き進み何の疑問ももたないのだ。人間自身がロボット化しているのだ。ロボットがまたロボットを作るのも実に奇妙である。だからオウムのような奇怪な偶像を崇めることになるしファシズムが現代の大衆社會の行き着く結果だというのも驚くこともないのかもしれない、この現代大衆社会はファシズムを内蔵している、一体化しているのだ。誰も導くものはいない、大衆という怪物によって席巻されたのがナチスだった。その社会構造が変わらないとしたらまた同じ結果を生む。現実にそういう団体が政権の中に一体化していること自体如実にそのことを示しているのだ。大衆民主主義はファシズムと一体なのである。本当の民主主義はイギリスで起こり貴族中心にして始まったものであり高貴な使命感の人達が先導して成されたものである。今のような大衆民主主義が民主主義ではなかったのだ。

いづれにしろ何をもってあがなわれるのか、アメリカは確かに3千人殺された、しかしその何倍の人間が復讐のために殺された。アメリカは圧倒的な技術力でねじふせようとしてもそこに反発するものがある。技術力とか力だけでは解決しないのだ。つまり正義だといっても誰もそれを納得てしないからだ。正義が実行されない、そこで死んだ人達はどうなるのか、シオンは正義によってあがなわれるというのは宗教の相違ではない、それが全人類の切なる願いなのだ。一体あがなわれないとしたら死んだ人達も死にきれない、日本にしたって戦死者をあがないとして靖国に祀っている。富にしろ技術にしろそれだけでは人類の問題は解決しないのだ。人間の問題もそうである。



あなたの財産はかくも簡単に消滅する」浅井隆を読んで

社会主義国 →国家の意向に反した報道はできません
資本主義国 →スポンサーの意向に反した報道はできません


「電磁波と生体影響」についてのあるシンポジウムが開催されたとき、
漏れは講演者の先生方と偶然同じエレベーターに乗りますタ。
スポンサーらしい男性は満員でエレベーターに乗れませんでした。
その中での先生方のひそひそ話です。
A氏: 「研究でお金貰っている以上、スポンサー側の気に入る結果しか発表しにくい 
B氏: 「発表したら次から研究費貰えないものね」
C氏: 「んんん....」
(2ちゃんねるより)


この本はかなり読んでいるだろう。みんな金の心配している。
紙幣は信頼できない、日本は日本人同士で長い間生活していたから手形とか紙幣を信用する。しかしそれは紙屑になる可能性がある。財産は貴金属の金銀宝石でもてと言われる。ヨ−ロッパは紙幣が流通したのが遅い、コインの時代が長かったと書いてあるがこれも意外である。早くから紙幣が発達して商業が発達していたと思っていたから。
確かに江戸時代でも金の小判だったら価値あるとわかるからそれ自体財産であった。ヨ−ロッパは陸続きだから栄枯盛衰が激しいし国は頼りにならないという。日本はお上を信用するから官僚天国になり税金を吸い上げられるシステムになっている。官僚社会主義が日本だという。この本を読むと自民党は明らかに次の時代に適応できない老朽化した党に見える。民主党が官僚を打破するとか何か新しいことをやるように見える。やはり時代の変わり目でありその変わり目には古いものでは対応できない、自民党が勝ったとしても時代の流れは変わり民主党主導で政界再編が起こる。

この紙幣が信用できないことは時代が急速に変わるときは実際経験している人がいる。私の母は東京で結婚した夫が工場の事故で死んだ、そのとき一生金に困らないほどの保証金をもらった。それがすぐに戦争になりそれは文字通り紙屑になってしまった。ただその金で買った田二反だけが辛うじて残ったのだ。つまり時代が大きく変動するときは紙幣は文字通り紙屑になる。この怖さはそうなってみないとわからないだろう。
だから外国に金を持ちだしておけ、スイスに積んでおけとか、・・・・となるがこれは大金持ちのすることだろう。庶民は結局箪笥預金するくらいしか安全を計ることはできない、つまりこの作者の問題点はこのように確かに危機的状態にあるのだがそれを種に商売していることなのだ。悪いことが起こりますよ、世界が破滅するから逃れるために私たちの宗教に入りなさいよとかすすめる団体とにている。お前のもっている日本の紙幣は紙屑になるから外国に積んでおけ、その手続きや斡旋は私たちの会社でやってやる。そういう会社を経営していることに問題があるのだ。

理論的にも切迫感があり悪いとはいわない、でもそれを商売の種にするとなるとあんたら自分がもうけたくてそんなに危機をあおっているんじゃないかと思われる。学者が冷静に資料で判断するならいい、別に学者は本は売れたほうがいいにしてもその金を利用する会社を経営しているわけでないからだ。ともかくこうして報道であれ政治であれ背後に金が利害がからんでくるとなにかうさんくさくなる。いづれにしろどんなものでも本でもそれをうのみにせず批判的な目でみる習慣をつけることである。若者は批判的にみれないからおかしな宗教カルトにのめりこむのだ。現代は何かとマスメデアにより付和雷同しやすい、情報がすぐに電子メデアに流れまどわれやすい、煽動されやすいのだ。西安の日本人のエロ寸劇で日本人排斥運動が起きたのもインターネットでデマを流したためそれが広まり暴動になった一因であった。インターネットが影響してそうなったとのかと思い驚いた。自分も2ちゃんねるでそういう経験があった。誰かが有名人が死んだと書いてあったのを本当だと思ったのだ。こういうことがインターネットでは多い、今までのメデアとは違う、嘘やデマ簡単に流されそれを信じてデマにより暴動まで起きる。朝鮮人が井戸に毒入れたとか関東大地震のときもそうしたデマがながれ朝鮮人が迫害されたとにている。そういう混乱状態のときデマが起こりやすいのだ。

ともかく新聞でもテレビでもスポンサ−様には勝てない、金を資金を与えてくれる団体であれ人のいいなりになる。利害とか、権力がからんでくるとその裏がありそのまま素直にみれないのである。たいがいそうなっているからそこに公正がないのである。商品の宣伝でもその商品を正確にいい点ばかり言って悪い点は言わない、使い勝手は使った人しかわからないのだ。だから今まではマスコミに絶大な権力があったのだ。日経のブロ−ドバンドサイトでビ−ルの宣伝していたがこれも視聴率というか相当数の人がみないと宣伝にならないなと思った。宣伝には多くの人が見る必要があるのだ。商品の場合は特にそうである。だからテレビは視聴率第一主義になり大衆に受ける番組作りに苦慮するのだ。ここに今までのマスコミの問題があるのだ。インターネットは金がかからないからデマもあるが真実の報道ができるメデアでもあるのだ。ただテレビのように何百万という人にみられることはありえないのだ。そこが根本的に違うメデアだから今までのメデアの人はとまどうのである。なぜならここでは数千人でも相当な視聴者である。百人でもそうなのだ。その規模の違い大きすぎるから今までのメデアとは当然違ったメッセ−ジの出しかたになる。商品の宣伝などは一切しないが消費者からそれを見る人からその番組代を払ってもらうのが健全な報道の道ではないか、その金が集まるのかというと問題だがそういう方向になって行くのがインターネット時代の報道ではないか、メデアもその変わり目にきている。



貨幣に支配される世界

●貨幣と国の価値

アメリカのイラク攻撃により、サダムフセインの隠れ家から多額の米ドル札が発見され、その一部を米兵が隠して本国に持ち込もうとして捕まりました。サダムフセイン自身も本人が印刷されたイラク紙幣より、米ドル札を信用していた。

北朝鮮の金正日もさぞかし米ドル札を溜め込んでいることだろう。金正日はドル札以外にも金の延べ棒も溜め込んでいる。国家の独裁者すら自国の紙幣を信用しなくなったら、その国家は終わっているということだ。

北朝鮮の万景峰号には日本の札束が段ボール箱に詰められて送られていたという。つまり金の延べ棒より、日本の紙幣のほうが価値があり使い勝手が良いからだ。つまり紙幣とはその国の経済力や信用度のバロメーターなのだ


●貨幣の起源は兵士への給料の支払いのため

ギリシアの歴史家、ヘロドトスは、BC670年頃、アナトリアにあったリュディアの王ギュゲスが、最初のコインをつくったと書き残している。材質はエレクトロン、自然にできた金と銀の合金である。なぜギュゲスは、歴史で初めて貴金属をコインとして鋳造したのか。ギュゲスは傭兵をエジプト王へ供給して、当時迫り来るアッシリアの脅威に対抗していた。この歴史から、マネ−がコインの形を取った経緯は、戦争が終わった後、血の気が多く、危険極まりない傭兵に対して、できるだ効率よく支払いを済ませるためとする説が有力となる。
「マネ−文明の経済学」 関岡正弘

貨幣というのは実際何なのかこれも謎なのだ。貨幣が作られたのは最初に兵隊にそれも外国の傭兵に支給するためだったというのは戦争も金なくしてはできない、戦争と貨幣は密接に結びついていた。NHKのロ-マ帝国滅亡の原因を見たがスコットランドの境界の軍団跡には中心にロ-マ皇帝の像があったのはわかるがその後ろ貨幣を収める部屋があったのだ。ロ-マ帝国では貨幣が大きな力をもっていた。貨幣が金が守護神にもなっていたのだ。ロ-マでは財政が逼迫して兵士に十分な金が支払われなくなりそれも衰亡の原因となった。中央の力が弱ってくると自ら皇帝になろうとした有力者がでてきた。それは自らの像を刻ませた貨幣を作っていたのだ。ロ-マの皇帝の力が弱まることはその貨幣の信用もなくなっていくことになる。貨幣と国の力は密接に関係がある。これほどドルが世界で通用するのはアメリカの力が絶大であり信用されているからだ。それはやはり軍事力が大きいのである。ドルでもっていれば安心だということがある。でもドル安になり不安になると今度はユ-ロ-で持つべきだとなる。国の信用が貨幣の価値を決める。貨幣そのものもに価値があるわけではない、黄金には確かに金そのものもに価値があった。だから貨幣になっても黄金としての価値そのものは保つことができた。でも貨幣は全部金にすることはできない、だから最終的には信用だけの紙幣とか為替とか紙だけになったのである。この紙は紙幣や為替は信用を保証するものでありもし保証するものがなくなれば何の価値もなくなる。紙幣そのものよりその国のもっている価値がその国の貨幣の価値を決めるのだ。ロ-マは軍事力で巨大な帝国を作り上げた。それだけの帝国を作り上げたから支配できたからロ-マの貨幣には価値があったのである。アメリカもロ-マとにているのだ。

藩札について(江戸時代の信用)

これは信義の問題だ。藩札を発行する時に、これをもっ て来ればかならず正貨に換えると約束したのだ。その約束を破り続けたから結局、藩札の信用がなくなってしまった のだ。正貨はなんとしてでも私が集めるから、お前たちは とにかく旧藩札を全部引き上げろ。  

山田様はこのお国にとって大切な方だ。いま山田様にも しもの事があったら、困るのはわれわれだ。どうだろう。 交換していただいた正貨を山田様に差し出して、お城のお 役に立てていただこうではないか。

これは何を意味しているのか、藩札は貨幣はその紙に信用があるのではなく人に対する信用と信頼だった。特定の個人の山田様を信用して信頼した結果、藩札、貨幣が信頼されるようになった。江戸時代というのは狭い社会だから人を信頼することで社会改革ができたのである。今日のような巨大社会になると何を信用していいかわからない、小泉首相を信用しろとなるが小泉首相を信用するだろうか、民主主義では力あるのは議員ではない、議員は民衆に多数に選ばれた人であるが別にこのようにその人を深く信頼して選んだわけでもないのだ。様々な組織、団体がかかわり権力構造の中で選ばれたのである。今日では人を信頼するということは成り立たない、人が見えない社会なのだ。制度とか団体とか組織とかマスコミとかに動かされる社会なのである。山田様とか特定の人を信頼して貨幣の信頼が取り戻せるような社会ではないのだ。外国とも関係しているから個人の力を超えた目に見えない巨大なものによって動かされているからユダヤ人陰謀説とかいろいろ背後のものがとりざたされるのである。

●貨幣に支配される世界

いづれにしろ貨幣にまつわる話が多いのはそれが人間の欲と密接にからんでいるからだ。現代ほど金によってすべてが得られると思われるほど金の力が増したことはない、それは世界的なものへと欲望が拡大化したからである。トルコのエフェス遺跡に行ったときそこから発掘されたロ-マのコインだから買いと言われて買った。なぜかというとあれだけの遺跡があるのだからコインがでてきても不思議ではないと思ったのだ。でもそれは偽のコインだった。これはよくある手だったのである。博物館のコインが盗まれるというので閉鎖していた。何か貨幣の魔力とはこれとにている。壮大なロ-マの遺跡が現存している、あれだけのものが残っていればコインもその辺を掘れば簡単にでてくると錯覚しても不思議ではないのだ。本物に思わせる本物のの舞台装置が現実に残っているからそうなるのだ。「これはロ-マのコインですよ」と当時異民族に見せたらその異民族すらロ-マの貨幣をほしがるし現実ワイロとして壺一杯のロ-マの貨幣が異民族に贈られていたのだ。カエサルのものはカエサルにというほどロ-マの貨幣は絶大な力を持って流通していたのである。

日本でも「お宝発見」で農家の蔵の下から壺に入った小判や古い江戸時代の貨幣がでてきた。それは80万の値がついたからそれなりのものだった。しかし当時それを使った方が価値があった。貨幣は骨董品となってもそれ自体はもはや経済的価値はない、骨董品としての価値と現実の経済で活用される価値とは違う、その当時この貨幣を有効に使っていたらもっと使用価値があったのだ。今すべての人が金のために働いている。金に追われ日々金、金、金である。では金そのものもに価値はなく、金で得られるものを求めて働いているのだ。働く目的は金ではなく金で得られるものである。年とるとなぜあんなに金のために働いていたのか今ふりかえってみたら自分の得たものはなんなんだ、みんな煙と消えた、なんにも得られなかった、つまらないものを得ようとしてあくせくして馬鹿見たともなる。人間と金が切り離せないのは人間の欲の象徴が金になっているからである。老人になれば一番価値あったのは青春というときでありそれはもはやいくら金を積んでも帰ってこない、永遠に帰ってこない、青春の時はそれは例え貧乏でも一番価値あるものだったのである。

ともかく世界のドル支配からユ-ロ-が対抗してでてきたようにこれは経済のアメリカ支配から脱することでありいいことである。ドイツとフランスがイラクの戦争に反対したのもEUというバックができたためである。現代のグロ-バル化は本質は経済戦争であり経済支配である。経済的に対抗できないとアメリカだけが力を持つことになる。これも貨幣が戦争する兵士へのそれも外国人の傭兵に払うために発明されたというのも戦争は経済の裏打ちがなくてはできないのでありこれは遠い古代と共通しているのだ。経済力がなくなればアメリカも戦争ができなくなる、最近のドル安は戦争を継続できなくなる徴候でもあるのだ。それにしても面白かったのはロ-マの力が弱まったとき、各地で皇帝になろうとした人がいた。そして実際に貨幣に自分の像を刻ませ皇帝として君臨しようとしたことである。つまり経済の支配と政治の支配は一致していた。貨幣はまさに支配するための大きな道具であったのだ。ドルには歴代の大統領の像がすられている。それはロ-マの歴代の皇帝の像とにている。今はブッシュの像がドルにすられている。また遊牧民が都市民に貨幣で支配されたように貨幣は人を支配する道具なのだ。一面貨幣にはサタンの像が刻まれているのだ。この世のものは貨幣が金があれば得られますよと錯覚を生みだしている。

「株式日記」
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/
山原の共同売店

沖縄で山原まで自転車で回ったが都市部はコンビニがあったが名護市からは共同売店であった。これは農協の店かと思ったが違っていた。地域の人が共同で作った売店だった。山原の東側の海岸の山と森をぬけた所が高江だった。そこの共同売店の前で許可をもらいテントを張った。その店で買い物して食事した。食堂というのはなかった。その共同売店で世話になった。携帯の空気入れが壊れたのと空気を入れるチュ−ブがとんだのだ。これで困っていたがそこの共同売店の人が自動車整備所があるからそこの人を呼ぶから待ってくれとそこに電話してくれたのだ。そしてそれを直してもらい帰りにその自動車整備所により空気入れも直してもらった。これは助かった。沖縄では自転車屋は極端に少ない、都市部を離れたらない、沖縄でなぜ自転車が盗まれるのか、自転車は安いから買いばいいのにと思うが自転車はあまり利用していない、自動車社会である。その自動車も中古が多いというから経済的に内地よりは贅沢できないのかもしれない、与那国では子供が自転車に乗っていたら自転車欲しいと言っていたから自転車をもっている人は少ない、でも子供に自転車くらいもたせられると思ったのだが島でもあまり自転車は使っていないみたいだ。ともかくこの共同売店には必ずよりジュ−スを飲み水の補給だった。氷も安く売っていてそれで頭を冷やしたりしていた。

この共同売店が作られたいきさつがインタ−ネットにでていたが意外なもので興味深いものだった。

中南部からの、日用雑貨購入を含む物流の多くを山原船(中央権力)に頼っていた山原の各村落の経済は、事実上その商人(中央権力者)たちに依存していました。そんな中、各村落では、外来の商人に対して生活を防衛するため、村落単位で生産物を協同販売し、日用雑貨を共同購入(調達)することにしました。
http://www.l-j-o.com/concept.htm

ここでわかることは大きな船を作ることは容易でないし船を持ったものが力を権力を持つことになる。沖縄のような所では海の方が行き来しやすかった。ここでいかに船が重要なものかわかる。船を造るのにはかなり技術が必要でありそれを操作したり運行するにもむずかしいものがあるのだ。だから小さな村単位ではできないものだった。ヤマト政権は船によって各地を支配したという説もやはり船が大きな力も持ったことは確かである。特に沖縄では海は比較的穏やかだし航行しやすい。船とともに生きる文化が長く残ったのだ。恩納村仲泊は那覇と名護に行く途中ここで一泊する、仲泊まりだったらしい、という地名は船の中継ぎの港からついたらしい。名護市の世富慶(よふけ)は船がヨフケにつくからとか船の寄港地から名づけられたとも、夜も航行してそこに着かねばならぬ。船はいづれにしろ途中による港が必要だし船と関連していることありえるのだ。

今回旅行してみて沖縄では船と海がまだ生きている。島と島を結ぶのも船である。飛行機の方もふえたがやはり船はまだ欠かせない足である。月も星も沖縄では澄んでいて海とマッチしていた。潮の満干も月と関係して海の匂いに満ちていた。海洋文化というのを肌で感じた。海人(ウミンチュ)の世界なのだ。カヌ−というのは遊びでもやはり沖縄で海人となる気分を味わえるから盛んになっている。ダイビングでもそうだが海を知るには沖縄が最適である。

沖縄では山原でも常に海を通じて外国のとの交流がありこんな奥にも中国とかかわった人の碑が歴史として残されている。沖縄は中国と一時日本より身近な存在だったのだ。
http://www.yanbaru.ne.jp/~NRBC/hijiwoyuku1.htm

ともかく船を持ったものが支配的立場になるのは世界的にみてもそうだったし地域的にみてもそうだったことがこれでわかる。コロンブスの成功は船の技術を持ったからであった。インドネシアでは農民が90バ−セントいるが実際は港をもっている都市地域が支配している。港は外国と通じて船の出入りがあり力を持つことになる。これは日本で最初に中国から贈られた「漢委奴国王」の金印も福岡県の海岸であったがことでもわかる。外国の窓口となる港を持つ国が力を持ったのだ。

山原というと未だに広大な原始の森を有していることに驚いた。これは自転車で40キロくらいあってここをぬけるのに時間がかかったからだ。自動車で行くとこの森の広大さは実感しにくいだろう。す−と簡単にぬけてしまうからだ。ここには盛んに海の風がビュ−ビュ−吹きつけていた。途中寄った共同売店でない普通の小さな店屋に寄った。粗末な店でネパ−ルの奥地にある店と変わりなかった。もうつづけられるような店には思えなかった。そこのバス停の写真をとった。イノ−とは湖礁と言われる珊瑚礁の浅いところらしい、ガマは洞であるがそこに魚がきて魚をとっていたからこの名がついたのだろう。この辺は水は都市部よりいいといっていた。近くの家を見たら屋上にタンクがありそれは水を溜めるものだった。断水があるから水を溜めておくのだ。昔は天水を溜めていたのだろう。



魚泊(イノガマ)に旅人一人寄りにけり炎昼に守る一軒の店かな

山原船と共同売店という意外な関係とこのバス停は何か山原の奥深い辺鄙さをまだ語っていた。

沖縄の詩や散文


地域貨幣の意味するもの

最近地域通貨の試みが各地で成されている。まだ実験的段階だがこれも世界のグロ-バル化のカウンタ-貨幣として抵抗として生まれた。そもそも貨幣というのは何なのかわからないのだ。どう考えても貨幣というのは今のように盛んに流通したものではない、貝が貨幣になったというが貝が貨幣の漢字の基としても貝にそんなに価値があるのかとなればない、それはただ珍しいから珍しいものを集めて財にしたにすぎない、今日の貨幣とはまるで違っていたし貨幣の役割は果たしていない、貨幣は古代でも確かに古くから使われていたが本当に貨幣の役割を果たしたのはかなり遅い、中世の後半からとかともかく今日の貨幣の感覚で考えるとかなり違ったものであることに驚くだろう。貨幣の要素にはいろいろあるから記念貨幣としてロ-マであれば新しい皇帝が即位すれば記念にコイン作るとか記念的なものが多くこれは広範囲に今日のように流通したとは思えない、貨幣ではなく交換するのは貝があったように様々なものがあったのだ。だから貨幣というのは実に種類が多い、ある貨幣で今日のようにあらゆるものが買えるということはなかった。貨幣は物々交換の物のようになっていた。

つまり今日グロ−バリゼ-ションで通用する貨幣とはかなり違っていた。ドルが世界の果てまで通じるという世界はなかったのだ。それが現実的に通じる、ドルがこれほどの力を持つこと自体ありえない世界だった。アメリカがドルによって現実的に世界を支配していることはまぎれもない事実だしこういうことはかつて世界史になかったのである。貨幣がこれほど通用することはありえなかった。ポランニ-の言おうとしていることは貨幣はその土地土地の国の共同体内でしか本質的に通用しないものだったのだ。その共同体を離れて貨幣が通用するのは例えば戦争とかして敵を征服し属国にしたときその貨幣は通じる。それは暴力であり略奪的な行為による。大陸では絶えずそうした戦争の結果、奴隷が生まれた。奴隷は貨幣で売り買いされた。貨幣の力は人間を支配する力であり力あるものが貨幣を作り支配の道具とする。だから貨幣で奴隷を買うことができるのは戦争で属国とされたからそうなる。

「貿」という字の「貝」は通貨を表し、「卯」は交換するという意を表している。
これから、宝を「無理」に交換するという意味をもつ。「易」はやさしいという
意味であるから思いやりを持った交換ということになる


貿易はそもそも特に外国との貿易は戦争の侵略に始まり略奪だった。貿易の貿は暴力の暴でもあり武力による略奪が貿易の起源だった。だから今日でも貿易はそういう性格を備えている。
海外で5ドルで少女を買春に行く日本や欧米や金持ちの中高年はまさにこれそれを実行しているのだ。人間を暴力的に奴隷化できるし外国になると罪悪の観念が低下する。自分の国とか共同体内でできないことが外国ではできる。国と国の戦争で常に悲惨なことが起きるのはそのためである。異民族の戦争では信じられない暴力が行われる。同じ国内なら共同体なら道徳が通用するが外国になると道徳が通用しなくなる。確かに文明は一見平和的にグロ-バル化したように見える。でも実際は暴力的に世界が支配されている。現代ではアメリカの軍事力が世界を支配しているからドルが世界の貨幣になっている。世界にこれほど現実的に通用する貨幣はなかったのである。貨幣はミクロ的にしか通用しなかった。だから今でも中近東とかアジアとか物の値段は一致していない、標準がないからその場で値切りあいで決まる。値段はあってないようなものである。定価は存在しないのだ。その時々や場によってきまる。だから外国を旅行するとわかりにくいのだ。

でも実際はそうしたミクロ的値段の決めかたは今や過去のものなのだ。マクロ的に貨幣の価値は為替の変動で決まってくる。それは如実に国の力を示している。貨幣の力を見ればその国の力がわかる。現代で通用する世界的金はドルとかユ-ロ-とか円である。円はしかしこれから通用するかどうかわからない。貨幣の重みがこんなに増した時代はない、ドルがあれば世界のどこでも物を買うことができるし通じるのだ。貨幣によって世界を支配できるのが現代なのだ。だからマルクスが貨幣論から資本論を書き始めたのはそのためだろう。貨幣による物神化とかである。ポランニ-の言う、人間的経済学とはまるで違った世界が現代なのである。世界的に貨幣による非常さが貫かれている世界でありそこに貿易の易であるやさしさなどはいりこむ余地がないのだ。貨幣に情などない、それが一番良く示しているのが5ドルで少女を買うということに示されている。貨幣で奴隷を買ったことと同じでありそこには非情さしかないのである。それが公然として商行為として行われることが許されるのが非情の経済支配、貿易の実体なのであり当然そこにはテロを生む温床を作ることになる。グロ−バリゼ-ションは性急になると共同体を根こそぎ破壊する。特に大規模な機械化による例として沿海の魚が大量に大きな船でとられて沿海の漁民が食えなくなるというようなことが起こる。機械化もそれを使うものにとってはいいが使えないものにとっては大きな暴力の道具となるのだ。

もう一つ貨幣は都市から生まれたものであるということ、都市の前進が市場とするとそこにどうしても貨幣を必要とした。交換の便宜的なものとして貨幣を必要とした。だからそれは貝でもよかったのである。都市には様々なものが集まりそこに貨幣が作られる。そして砂漠の住民や田舎では農産物とか家畜を売る、都市はその貨幣でもって支配する。その例がなぜ九州の先端のような所から大阪の市場までトラック運転手が必死で野菜を市場に運ばねばならないのか?それは都市の住民が要求するからであり貨幣の力がそうするのである。これによっても貨幣が都市のものであることがわかる。都市が貨幣の力によって田舎を奴隷化する。これは毛沢東が「農村が都市を包囲する」という思想を打ち出したのはそういう矛盾を感じていたからだ。でも結局これは失敗に終わった。そして逆に都市が農村を包囲するとなっているのも皮肉であり農村はやはり貨幣の力によって都市の奴隷、召使になっているのだ。それくらいの所得の差があるからだ。貨幣というのはやはり力あるものが力ないものを支配する道具だということがわかる。つまりマルクス主義者ではないがマルクスは一面人間社会を見抜いていた所があった。ただそれが結局失敗に終わったのはマルクス主義者自体実際は都会の知識人が多かったし知識人はみんな都会人だったからである。権力を求めるものはみんな都会人になるからだ。

中国の古い貨幣も都市から生まれていた、都市の名前が貨幣にあった。
http://www.bekkoame.ne.jp/i/ge6128/hjj.html

地域通貨とはこたうした貨幣の支配する力に抵抗する試みとして成された。ポランニ-の人間の経済学の実行である。都市の支配、グロ−バリゼ-ションの世界への抵抗としての通貨である。ただこれは実験的なものであり何を意味しているのか良くわからない段階である。でも田舎に暮らしていると農民ではないのだが農民的になってくる。都会にいれば野菜や果物でもそれは本当にどこでどうして作られたものなのかさえわからない、なんか工場の製品のように作られているのではないか、自然というものがそこにはかかわってできているという実感がない、畑を見て日が照りつけて赤くトマトが実っている、それはいかにもうまそうである。天然のトマトである。しかし日頃食っているトマトは本当に天然のトマトなのかハウスで工場で作られたトマトなのではないか、実際野菜は工場化して作ることもできるらしい、しかしそれは天然のトマトではない、だから今年のトマトはうまく感じられなかった。鮎でも岩魚でも鰻でも温泉でも天然のものがまれなように人間は自然から離れた存在になっている。大地があり太陽の光があって作物も育つという感覚すら奪われているのだ。

一体九州の果てから大阪までその日のセリに間に合わせるために野菜を必死に運んでくること自体異常なことである。それはまさに都市民によって田舎民が奴隷化されているのだ。都会人と田舎人の対立がこれから先鋭化してくるかもしれない、田舎とは自然と切り離されず一体化してある世界である。それは別に作物を直接作らなくても自然との調和が自ずと計られる。都会には本来人間的生活はありえない、特に現代ではありえない、田舎こそ本来人間が生きる場所であり田舎が根にならなければ調和はないのだ。それが逆になることはおかしいのである。都会と田舎の関係の歪みはやはり文明化が原因である。江戸時代とかの百万都市の江戸ですら自然と調和した都市であり回りは田舎であり自然がふんだんにあり自然と結びついていた。練馬大根が有名になっているがそれは江戸のすぐ近くから供給されたのであり九州の果てからその日の内に運ばれるのとは違う、京都ですら大きな田舎のなかに町があったのであり田舎は身近にあったのだから今の肥大化した都会とは全然違うから今の都会は異常なのだ。都会優先にするとますますこの文明社会は歪がみを増すこと間違いないのだ。




お金の発想法」木村剛を読んで

この人はテレビにもでてくるから有名な経済学者だった。私も経済学部の出であるが大学ではほとんど勉強していないから経済学自体わからない、先生が「株にだけは絶対手を出すな」とか言っていたのも不思議である。株は専門家でもわからないのだ。でも資本主義の経済の基本は株にある、投資にある。それが資本主義を育てんだから株や投資をやるべきだと言っている。資本主義社会の仕組みが株式会社だとするとその思想とか目指すものを理解すべきだというのはわかる。資本主義社会が何なのか理解していない人が多いから貯蓄ばかりで株式投資をしないのだとなる。資本主義社会の起こりが何なのか一つは船で海洋に貿易に乗り出したときはじまった。船はそもそも危険でありそこでみんなで危険を分担して投資した、そうすれば損してもかまわないからだ。そしてこの投資というのは投資された方はその借金を返す必要がない仕組みなのだ。実際船が沈んだからといって投資した人は結局あきらめる他ないのだ。その代わり船が無事帰ってくれば莫大なもうけがをえることができるのだ。株は何十倍にもなることがあるがゼロになってしまうこともある。それが株式投資の資本主義社会でありそもそもいくら貯金してもそうした利益を生み出す企業家なりがいないと利子もつかないのだ。だから損してでもそうしたもうけを生む企業家を産み出す仕組みが資本主義なのだという解説はわかりやすい、沖縄のことでも説明したが船は沈んだり作るのにも金がかかる。一方で船をもつと貿易で利益をあげることができる。それで船をもてない人達が地元で農協のような・・・・のである。

この本で金は奇跡だ、奇跡だとしきりに言っているのも不思議である。貨幣は本当に不思議なものである。それはわかる、でも貨幣は必然的に生まれたものでもあった。物々交換だといちいち魚欲しいから大根もっていって交換しようとかしても相手は大根は今いらないよとなれば魚もえられない、自分の欲しいものを得るために一日市場をさまよってるほかなくなる。これが貨幣があれば楽である。貨幣はコミニュティが先にあって成り立ったというのは本当である。小さなコミニュティ、村を考えても互いに便利に必要なものを交換するために貨幣は必然的に作り出された。地域貨幣が最初の貨幣だろう。貨幣はだから万能でもない、最初は貨幣は飾り的なものとしてただ使用もしないのに集められたりした。貝が貨幣になったのもそれを貨幣とするより集めることにあった。何か特別それで得られるというものではなかった。最初国と国との貿易などなかった。だから今のような大規模な貿易はないから国と国の貿易は贈答貿易であり貨幣がこれほど価値あるものでもなかったポランニ-のいうように互いに友好を計ることが第一であり贈答貿易だったのだ。だからそこから莫大な利益を生むということはなかった。

そして閉鎖された村社会では貨幣のやりとりする商売はタブ-だったのだ。だから神社とか無縁の場所を作り商売させた。よそ者をそこに入れた。神社というと縁結びの神とかであるが無縁の場所として神社が選ばれたというのも不思議である。最初の商売が神社と関係していたためでもある。濃厚な血縁と地縁で結ばれている閉鎖社会に無縁な場所を作らねばならなかったのだ。だからそもそも貨幣が広く流通し信頼されたものになるのは簡単にはならなかった。こんなに世界的になることはありえないことだった。それは狭い範囲でしか流通しないものだったのだ。

次に貨幣は単なる紙でありデ-タ-でありそれはなんでもいい、相手が信用して受けとってくれるものなら貨幣になる。貨幣は信用でありそれを形にしたものにすぎない、信用となるものは別にありそれは人間自身であったり技術力や軍事力だったりともかく信頼おけるものが貨幣を信頼あるものとする。アメリカのドルが世界の貨幣となっているのは世界の人がアメリカ嫌いな国、イスラム国家でもドルが欲しいのはアメリカが超大国でありアメリカが世界を牛耳ることができるということを知っているし反発してもそれを認めざるをえないからドルが世界の貨幣として信頼され流通するのである。逆に貨幣はそうしたバックにある信頼すべきものが信頼されなくなるときもろくも崩れ紙屑になってしまう。日本が軍事中発行した軍票とかもただの紙切れになったしそういうことはよくあることなのだ。だから日本の円もいつなんどき紙切れになってしまうかもしれない、戦前に夫が工場で事故で死んで一生その金で暮らせるとされたのに戦争になり残ったのはその金で買ったわずかの土地だけだった。金は紙切れになってしまったのだ。時代の激変で貨幣はそうなりやすいのだ。ただ貨幣が何なのかこれをわかることはものすごくむずかしいから結局、奇跡だとか不思議だとかなってしまう。それほど貨幣の力が世界に及んでしまったからである。庶民は「金が力だ」ということを身をもって知っているからいろいろ理屈を言っても金を第一に考える習慣がついてしまったのである。

この本で一番面白かったのは石の貨幣というのも貨幣であり、それは流通しなくても威信財として島民の間では信用するものだった。石の貨幣でももっていれば裕福だと思っていたのだ。それは貨幣でも同じである。銀行に金をあづけていれば金があるから安心だ、財産が有ると信用している。結局それも石の貨幣と変わりない、あるときヤップ島のその石の貨幣(フェヘ)にドイツ政府が×のしるしをつけて政府所有にした。ドイツの金のマルクを島民が信用して使わなかったからである。これが効果をあらわして島民達はマルクを得るために働いた。この×じるしをつけて石の貨幣が無効にされたように今使っている日本の円もあるとき政府が無効だと言えば紙切れになってしまうのだ。今借金が700兆円があるとかなるといつそうなるかもしれない、日本の円も信用がなくなれば暴落して紙切れになってしまう。それは現実にロシアとか前にはドイツとかアルゼンチンで起こった。インフレで百倍とかになり金の価値は暴落したのだ。いづれにしろ金は謎であることは変わりない、それほど社会は計りかねない複雑なものとなり金の力が増したともいえる。偽札がでているが本物の金もいつ偽札になるかもしれないというのも本当である。信用がなければ貨幣はみな偽札になってしまう、もし黄金でできていればその黄金自体に価値はあったが今の紙幣にはないのである。紙幣は紙切れにすぎないのでありそれはデ-タ-でもいいという、インタ-ネットでデ-タ-として金を機能させようとして失敗しているのは金として大勢の人が認めないためだという、それもそうである。金には大きな石であり黄金であれ、銀であれ威信をもたせさせたいというのも人間の心理だからだ。いづれにしろ価値は常に変動しているから貨幣の価値も変動するのである。



ライブドアとフジテレビの株争奪戦の深層

今回のライブトアとフジテレビの株の争奪戦の問題は素人にはわかりにくい、そもそも株自体がわからないものである。金融とか株とかがなぜ問題になるのか、利ざやで稼ぐことがうさんくさいとか不労所得のように見られるからだ。だからそもそも金融はユダヤ人がやったようにベニスの商人のように不浄なものがやるということがあった。今回の問題の裏にも外資のハゲタカファンドがかかわっていてそれの後押しで株が買われ企業がのっとられるという構図があった。ライブドア自体どういう会社なのかよくわかちない、インタ-ネットをやっていても楽天は知っているし楽天は結構もうかるものだとわかっていた。ライブドアを知っている人が少なかったのだ。ライブドア自体インタ-ネットの世界で認知度が低いものだったのだ。だからなぜライブドアがそんなにもうかるものか不思議だった。投資会社でありインタ-ネットのプロというけどインタ-ネットでもうけている姿か見えなかった。ただオペラというプラウザを買ったらこれはライブドアで販売しているものだった。ライブドア自体インタ-ネットの最先端を行くものとして認知されていないので一体既存のメデアと合同して一体何をするというのか一般の人には具体的に見えないから単なる企業買収で外資にしかけられてその利ざやでもうけるのかというふうにもみられた。それは結局インタ-ネットの世界でもライブドアが何をしているのか良くわからなかったからである。

ライブドアの社長についても金でなんでも買えるという主張は反感を覚える。しかし株式のル-ルにのっとてやったのだから合法だともなる。これは司法にゆだねる結果となったがこの問題の深層はどこにあるのか?なぜフジテレビと合体せねばならぬのか、既存とのメデアとインタ-ネットを合体させて何をやりたいのかという具体的な目標がもう一つ見えないからただ株を買い占めて転売してもうけるとかに見えてしまう。ただ金を右から左に動かして巨額の金をもうけることが価値を産み出しているのか問われる。マネ-ゲ-ムが批判されるのもそのためである。そもそも人間の労働はなんらかの価値を産み出すことなのだ。その価値を産み出すために投資される。その価値は多様であるが金そのものには価値はないのである。

土地に価値があるのか、土地を利用するものに価値がある、土地を持っている地主は価値を産み出すのではない、土地を活かす労働が価値を産み出す、戦後地主ではなく小作にも土地を使っていた農民に土地が与えられたのはそうした理由からである。土地でもそこに農地となり人間の労働が加えられ農産物が生産され価値がでてくる。土地の上に家なりビルが建てられて価値がでてくる。だから土地成金とか土地が異常な投機の対象になってパブルになりバブルが崩壊したのも当然だった。土地そのものには価値はなかったのだ。資本主義はそのものの価値より投機の対象になることがある。オランダではチュ-リップが投機の対象になりその後オランダはチュ-リップの品種改良で輸出国になった。ある時は絵画に莫大な値段がついた。これも投機のためであり別に絵画に価値があってもそんな値段は必要ではなかった。資本主義では金余りになると投機の対象を探すためにそうなる。資本の論理でそうなってゆく。

今回の問題も単なる投機の対象としての買収なのかそれとも新たな情報通信の世界を作り出すための買収なのかはっきりしないことが問題になった。「事業は人なり」というとき人には社長とか社員が入るがそもそも現代がこの人が一番見えにくいのだ。番組作りにしても実際はどういう人が作っているのかよくわからない、ただ大きな企業であり団体の一員が作るのだからその団体は会社名はでてきてもそれを構成している人は見えない社会なのである。これはあらそくところでそうである。宗教団体でもそうである。人間はただ大きな団体の一員としてしか認められていないから事業は人なりと言ってもその肝心の人が見えないから判断しにくいのだ。例えは江戸時代から明治時代までは事業は人なりであり江戸時代は職人も企業で働く人ではない、個々の人が作っていたのだ。だからよくカンザシなどが事件の現場に落ちていてそのカンザシは誰が作ったものかでその作った人を江戸中から探し回る。有名なカンザシを作る人はその作った人が特定できるのだ。そしてそのカンザシなどにはその作った人の名前までついていたのである。一方青色発光ダイオ-ドをノ-ベル賞クラスの発明をしても会社に従属しているとわからないしその人の功績もわからなくなる。

現代は事業は人なりといっても例えば藩札の発行について一人物を信頼して改革が成されたようなことは現代ではありえない、これはまさにその人を信頼したからこそであり事業は人なりであり江戸時代には藩主が優れていればその藩内は豊かになるとかあった。人に左右されることが多いのが江戸時代や明治でありその後は大きな会社化、企業化して人は見えない時代になった。事業が人なりならば簡単に人は金だけでは買収できない、その人が成そうとするものがありその人の価値を追及するものがあるから簡単には買収できないはずなのだ。ライブドアの下では働きたくないという社員、人がでてきたのもそれなりに社員が人が追及する価値観と反するものがあるからとなる。ただ今マスコミ自体が問題でありその人(社員)自身も本当にどういう価値を追及しようとしているのか問題になっているのだ。これもただスポンサ-のいいなりになる大衆にこびた低俗番組ばかり作っているとなるとその社員の人の志というものも疑問なのである。いづれにしろ画家いて画家は画家自身の絵画の価値を追及しているのだか画商はこれを利用して金儲けしようとするのとにている。その絵の価値より投機の対象としていかに高く売るかだけが問題になってしまう。この問題の深層にも単に投機の対象としての買収なのかそれだけではない新しい情報通信の価値創造なのか明確でないから問題になったのだ。



文明は人間を数字化する(煉瓦建築の意味

●銀行の役割

江戸中期からこの地の大地主であった今井家は、小作人に凶作時の蓄えを義務付けるため明治33年に今井銀行を設立しました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~stakers/arch/bimai.html

銀行は何かを貯えるためのものだからこういうことも銀行のはじまりにはあった。貯えるというときそれは昔からしていたことである。貝が貨幣として用いられ貝が貯えられたことが銀行のはじまりかもしれない、貯蔵の貯にも貝の字がついている。飢饉のために米を貯えるのも銀行の用途とにている。そういう蔵が各地にたち郷蔵とか地名化していることでもわかる。話はまた認知症のことだが銀行に金があづけてあることがわからなくなることの不思議である。いくら金があるといっても手元にないとないのである。このことを考えると普通の人でも金が銀行にいくらあってもそれが実感を帯びてこないから認知症の人はそれが極端でも金には実感がない、金とか銀で貯えられていればそれなりの実感をもつが紙幣はもともと紙に過ぎないし金とは実際は数字なのだというのもわかる。石の貨幣ができたことも理解できる。大きな石であればそれを貯えていれば価値を見せつける保存できるということは理解しやすいのだ。

現代は貨幣は数字として貯えられているにすぎない、だからある時金は数字だからゼロになっても不思議ではない、物だったら空っぽになるのだが数字はゼロとなって終わりである。恐慌とか株の極端な下落はまさに貯えたものをゼロにしてしまうのだ。貯えられたものは物でも古くなると価値が低下してくる。特に食料はなかなか貯えることができない、しかしこの食料が人間にとって一番大事なものである。金がいくら銀行にあるといってもそれは数字であり金として交換してみて実感できる、交換価値として貨幣の価値がわかるのだ。明治にできた銀行もそうだが今でも銀行は複雑化して認知症のように極端でないにしろわかりにくいものなのだ。人間はいくら貯えてもそれですべてが保証されないのである。江戸時代なら米が貨幣となって価値の基準になっていたように現物を基に価値が決められていた。今は価値が数字化して極端に抽象化しているから認知症でなくても理解しにくいのである。


●煉瓦の建築の意味

盛岡の立派な煉瓦の銀行を見ると往時の雰囲気がでてくる。何か質実、堅実、律儀なものを感じる。建築や景観、環境の人間に及ぼす影響は甚大である。環境は影響されないと思っても知らず影響されているのだ。自然の環境だけではない、人工的な環境もそうである。特に建築の影響は大きいのだ。何故なら毎日目にするし日々そこにあるから影響する。それが美的であれば美的感覚が養われる。精神に確実に影響するのだ。ヨ−ロッパのロ−マの煉瓦のア−チの門や建築が古代の質実さを残し石の大聖堂の荘厳さはヨ−ロッパの精神のごとくである。ヨ−ロッパの歴史が一面明らかに建築によって作られていることでもわかるのだ。日本が明治になったとき様々な点で変わったのだけど景観としては木の家から煉瓦作りの建物が街を作った。新しい都市では横浜でも函館でも倉庫が煉瓦で作られるくらいだから主な建物は煉瓦だった。鉄道の橋脚やトンネルまで煉瓦になっていた。水道橋もロ−マのように煉瓦作りのものが京都に残っている。万里の長城が煉瓦作りのように煉瓦は建築の基だった。

現代の建築には機能的には優れているのだが煉瓦のように人間的ぬくもり、あたたかさが欠けている。それはそもそも煉瓦のもっている質感がそうさせている。材料の問題なのである。ドイツ語でMaterial−matter(母)であるようにそもそも母なるものとあるごとく材質が人間の心の奥深くに影響する。その材質は原生質は神が作ったものであり人間には作りえない、その材料をもとに構築することはできる。その基となる材料は神が造ったものであり人間には造りえないからだ。煉瓦はやはり土から作り土的なものを残しているから温かみが感じられるのかもしれない、コンクリ−トのビルには温かみが感じられないからだ。木にもあたたかみがあるのもそのためである。明治は煉瓦建築の時代でありそこにまた明治の良さがあったのだ。煉瓦建築が衰退したのは地震で壊れやすく被害を受けたためというのもやはり煉瓦がいいとしても日本は地震国だから地震に適したもの造ることに課題があった。建築には美的なものの前に第一に安全が考慮される必要があったのだ。日本の煉瓦は元々耐火煉瓦から始まったというとき煉瓦も木の家だと火事が多く火事に悩まされてきたので安全性のために煉瓦が使用された。しかし美的なものが欠けると索漠としたものとなる。いづれにしろ煉瓦の歴史は人間の歴史とともはじまり古いのである。バベルの塔も煉瓦で造られていたのである。




文明は極端な抽象化

現代とは極めて人間が抽象化された時代である。抽象化の極端なものが数字なのである。人間が数字化されているという統計化されて数字として計られること自体、人間が非人間化していることなのだ。煉瓦にはやはり質感があり物への肌触りがありそれでぬくもりを感じるのだ。コンクリ−トだと機能性があっても感じないのである。文明はグロ−バル化は標準語を蔓延させる。世界的には英語であるが日本でも標準語ができたのは明治時代である。それまでは方言であり方言にはぬくもりを感じるが標準語は機能的であっても野暮ったいぬくもりがない、土の感触のようなものがない、標準語は数字とにているのだ。英語は数字と相性がよくコンピュタ−の言語になっていることでもわかる。英語は機能的な面が極端化されたものなのだ。英語の元になったドイツ語は言葉の原始性をまだ保存している。英語は何か人造語のようになっている。商業語であり数字とにているのだ。ただ言葉はあまりにも複雑であり数字化はできない、だから英語でもシェ−クスピアの英語を読めば全く別なものとなる。

株のわかりにくさは世界が数字として動いている、単なる数字の増減が経済となっていることの不信感なのである。具体的な物の取引が数字化しているから実感がわかないしそれが極端なバブルとなり恐慌となり貯えられた金=数字がゼロになる恐怖なのである。だから土地に投資した方がましだと土地バブルになったのが日本である。グロ−バル化とはあまりにも文明が世界的に拡大化して統制できない、数字として経済が計られることから必然的に危機が起きてくる。本来貨幣に数字には価値はない、グロ−バル化が文化を破壊することを書いてきたが世界もグロ−バル経済化することによって数字化して本来の価値を見落とすことになる。数字の上下に一喜一憂している、それは架空の経済に世界中が踊らされていることでもある。人間のよって立つ基盤は数字ではない、建築だったら煉瓦の建物の重厚性とか堅実性とか質感として感じられる世界が本来の人間が作り出してアイデンティティを得るものなのだ。人間が数字とアイディンティティを得る世界は人間破壊なのである。石にも形がいろいろあり千差万別であるが一個として数えられるときみな同じになってしまう。個性は全く無視されるのだ。組織化団体化したところではすべて数で計られる。統計上の数字となり数は力となり一票としての票がすべてになる。それが力を誇示することであり力のすべてになり数は力というとき権力も数によって握られることになる。数で動く世界は極端な抽象化だから人間的なものを離れて動くから問題なのだ。江戸時代は人間を信用して貨幣の信用もあったという時代とはあまりにもかけ離れている、信用が人間にあることは正常な世界であり数字だけで動いている経済は異常であり突然の破綻の危険をはらんでいる。数字によって操作されて金融で大損害を受けたり異常な結果を生んでいるからだ。


貨幣に支配される世界
http://musubu.jp/jijicoin.htm#coincon



見えない金(誰もわからない金の実体)

●紙幣は預り証(紙幣に見合う金に交換できない)

最近金のことばかり考えている。どうしても金って何だろうと考えざるをえなくなったからだ。資金運用どうしていいのかわからないからである。現実投資信託で80万も損したことがショックだった。これも投資信託がよくわからずあづけたためである。株とも違う安全なものと思っていたのだ。投資信託は結局、手数料とかとられ実際は仲介した銀行とかあとは退職した投資信託をあづかるプロの人がもうかるだけだというのも今になるとそうかなと気づいた。というよりはいろいろ人の言うことを聞いてそうかなと思うようになった。金融に詳しくない人は金融のことを知ることはできない、だからのせられ損するのである。投資信託でも銀行でも今やあづけても利益を生むことはないのだ。銀行とか投資信託を運用する人が利益を得るのであり金をあづける人は利益を生まない、貯金が利子がつかないから少しでも増やそうとした人はのせられたのである。そもそも銀行の始まりがそうした詐欺的なものから始まっていた。金細工師が銀行を始めたのは金がまず貨幣の基準としてあった。

金細工師たちはゴールドを預かると、預り証を発行しました。
そのうち人々は、預り証の更なる便利さに気付きました。買い物のたびにいちいち重たいゴールドを持ち出さなくても、支払先の相手もどうせ金細工師にまた預けるではないか? 金細工師は双方よく知っていたから、この預り証を決済手段として使えばチョー便利ではないか! こうして預り証が「通貨」として使われるようになったのです

金細工師たちは、在庫のゴールドの所有者ではない。だから真の所有者である顧客に無断でそれを貸し出す行為は横領にあたる。しかも、誰からも預っていない、つまり存在しないゴールドへの預り証を勝手に創るなんて行為は詐欺ではないか。 これらの行為がもたらす結果は、預り証の総額に相当するゴールドの現物が存在していない、ということだ。

http://www.geocities.jp/untilled/ep3.htm

●金は使ってみないと価値がわからない

金本位制が貨幣だったのだが紙幣になるとその紙幣に見合う金はすでに在庫にはない、でも紙幣は預り証だからいくらでも発行できる。ここにすでに現代の金融の問題が起こる原因があったのだ。紙幣にあくまでも預り証でありそれに見合うもの金はなくなっていたのである。だから紙幣の価値はいつ暴落するかもしれない、紙きれになってしまうかもしれないのだ。紙幣を預り証を銀行にもっていっても金とは交換できないからである。つまり預り証は金とは違う紙切れになる可能性が常に銀行が生まれた時点からあった。現代の金融の混乱、紙幣の暴落も紙幣に見合う交換するものがすでにないからである。アメリカでは特にそうだった、アメリカは借金経済であり膨大な預り証のドルを国内に世界中に出してその結果としてアメリカの金融危機が必然的に生まれたのである。金のようにそれに見合う価値を所有していないのに預り証を出し続けていたのである。だから金や銀や銅に投資しろというのもわかる。そこには紙幣にはない金属としての価値があるからだ。

要するに現代では見えない手にとれる世界のなかで動いていない、経済もバ-チャル化している。金は数字が動いているだけであり実体はわからない、実体経済とかけ離れたところで金の数だけでやりとりされている。でも実体経済に反映されるのはその金を使うときなのである。金はあったとしても使ってみなければその効果はわからない、一千万あったとしてもこれでどれだけの効果が発するかは自ら使ってみないかぎり目に見えるものとはならないのだ。金を貯金していてもそれがどれだけの価値があるかは見えない、金は貯金していても増えない、利子もつかないのだから減るだけだともなる。金は使ってみないかぎり見える価値として現れない、

実際家一軒たてるのに3千万かかるとなる日本ではそれだけの価値しかないのかとなるし日々の食料を買うと結構金の価値があるとか具体的に金がどれだけの価値があるかはその金で何が買うことができるかになる。これは買うこともそうだが売る方もその時々で売ってみて価値がわかる。だから市場は常に価値が変動している。買ってみて売ってみてしか価値が実体として現れないからである。金が塩と対価で交換されていたり砂漠では水が貴重だから黄金より価値があったり水一杯が十万円とかでもそれで渇きが癒されれば買うだろう。そのときは命にかかわるからだ。介護とか病気の問題でもそれは緊急であり命にかかわるから金をケチることができない、その時助けてくれる人も金以上に価値ある人となる。特に介護とかなると近くの人の助けが必要であるから近くは遠くより価値あるものとなる。価値は場所によって変わってくるのだ。価値を生み出すものはその場所や時でも変わってくるのだ。

●金(預り証)によって保証されない

いづれにしろ紙幣は金銀のように価値を保証されていない、預り証だからいつ紙切れになるかわからない恐怖がある。現実戦争前の金は戦争が終わり紙切れになった。二反の田を買ったのが財産として残ったことを知っている。紙幣より不動産や金銀の方が価値がある。石油でもその価値は変わらない、一時的に変動があっても紙幣よりは価値は変わらないのである。預り証では長期の保証にはならないのだ。だから年金も保険もすべて保証されるわけではない、あくまでも紙幣は預り証でありその価値は常に変動している。年金も保険も預り証の金を運用をしているからだ。その預かった金の保証はないのである。年金にしても下の世代の人が払っていかないかぎり払われなくなる、そしたら下の世代が払わないと本当になれば年金は払われない、崩壊するのだ。年金を保証しているのは何なのか?下の世代が払い続けることである。でも若い人が払うことしない、そうなれば年金は崩壊する。年金を保証するのは若い人が将来もらいものとして払いつづけることなのだ。でも若い世代はどうせ年金はもらいないとなれば払わない、そう思っている人がふえているから年金が崩壊するというのも現実味帯びているのだ。すべてが紙幣によって保証されないのである。現代の金融の混乱は預り証である紙幣がその富の根拠となるものがないのに操作されて実体経済から遊離してしまったのだ。金銀、石油、木材、食料など実体経済として価値あるものと見合わない紙幣-特にドルはそうだったから下落した。アイスランドは紙幣に見合うものがないのに紙幣を集めても価値が生まれるわけではないから国が破産する危機になっている。紙幣に見合う価値が国になければ金融だけでは国は豊かになれないのだ。世界経済が不況になる縮小せざるをえないのはバ-チャル的に預り証としての紙幣に信用をおきすぎたのである。要するに現代はグロ-バル化していることは世界を肌で目に見えるものとして感じられない世界から起きてくる問題が多いのだ。ナチスでも日本の大東亜共栄圏の天皇崇拝や創価などのカルト的な拡大思想、世界を支配するとかいう妄想が起きてくるのもグロ-バル化の結果なのである。目に見えないもの実体として把握できないものは妄想が拡大化しやすいのである。これが江戸時代の藩が一つの国だったような時代は狭い範囲だから一つの具体的な目に見えるものとして把握できる。ほとんど歩いても行ける範囲が国になっていたからである。その経済も具体的であるから侍の給料が米が貨幣となる石高で計られていたりと庶民にとってもわかりやすいものだった。庶民でも経済がわかったのである。世界的にグロ-バル化したらとても経済はどうして動いているかわからない、突然世界同時不況となるのも変である。地震でないのだから人間の行うことだから平和時に行っているものだから予測できるはずだし現実予測されていたが素人の投資家には知らされず大損したのである。銀行も投資信託を請け負うものも詐欺的な面があったのだ。だぶついた金を預ってもうけたのは銀行であり投資信託を請け負い投資しているものであり金をあづけたものはもうからないし大損したが銀行や投資信託会社は損していないのである。しょせん他人の金であり他人の金を集めて商売しているのが銀行や投資信託会社だとなる。あなたをもうけさせてあげますよといい金を集め借金して資本にしてもうけるのが銀行や投資信託会社となる。銀行に本物の金属の金が用意されていない、預り証を出すだけになっていた。一方金銀を持つもの、石油でも木材でも持つものは現実としての価値を保有している。それは必ず金になるときがくる。土地でもそうだからなかなか土地は田舎でも安くは売らないのである。紙幣はいつ紙切れになるかわからない、預り証でありそれに見合う価値を有していないからである。