家族が認知症にかかり半年休んでいましたがまた本サイトのてこ入れをはじめました。
プログ(今日の一句一首プログと認知症)では継続していましたが
最新の記事はそれを手直ししてシリ−ズの一部としてここに加えました。

(小林勇一作)

時事問題の深層の全目次

・・・・このペ-ジの目次・・・・・・

ホ-ムペ-ジ作りの意味するもの

インタ-ネット読書の不思議

インタ-ネットの意味するもの

インタ-ネット読書の不思議(一億総ライタ-の時代)

インタ-ネットを読む不思議(ある日記を読む)

インタ-ネットを読む不思議(多岐にわたる世界)

インターネットは表現のメデアだ(一億総ライター時代6)

情報戦国時代

NHKBS−幻冬舎の一方的発言

インタ-ネットの匿名問題

インタ-ネット情報学(インタ-ネットは本ではない)

国境意識(キ-ワ-ドから探るインタ-ネット)

バ-チャルなインタ-ネットの旅の発見

現代の妖怪(メデアが育む妖怪)

インタ-ネットの不思議
(通信販売や魔術的錬金術的情報世界)


情報環境の変化への対処
(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)


ネットワ-キングと使用価値
(NHK景気回復は本物かを見て)


メデアによって変わる社会(ラジオからテレビへ)

インタ-ネットにはタコの頭が必要だ

OPERA(オペラ)とまっぷっぷを買う

NHK不祥事から受信料不払いはなぜ

インタ-ネット的な情報空間のなかの24将棋(時事問題25-1月13日

林子平の墓が仙台に(出版のことなど)1月31日

ンタ-ネットで変わる著作権の問題2月2日

著作権と使用権の混同2月6日

新開ゆり子さんの死亡(裁判になった著作権侵害)(時事問題より移動)

出版社や書店とインタ-ネットの相違2月14日

インタ-ネットの読まれ方読み方3月1日

十代の文学賞、文学が熱い、見直されたの疑問(インタ-ネット一億総ライタ-の時代)3月7日

世界が一つの村になる(マクルハ-ン)の意味5月16日

NHKの問題点は何なのか?5月20日

インタ-ネットは新しい未来を創造する(情報の伝達の歴史)5月24日

BOOKOFFでまた本を買った(時事問題から移動)

2チャンネルの研究(隠語の世界)2005-7-9

2ちゃんねるは中高年には向かない(牛レスが必要だ!)2005-7-23

ニフティと2ちゃんねるで起きてる問題の共通性2005-7-30

報道されない闇に葬られる事件
(マスコミとは違うインタ-ネット情報径路の相違)2005-8-1

自己責任社会とインタ-ネット(インタ-ネットが広がる意味)2005-8-5

2チャンネルの洗脳が自民圧勝の原因2005-9-12

インタ-ネットで出版社書店の存在意義が消失する2005-10-29

はずされた看板(存在感のない電子空間)(時事問題より移す)

宣伝にたぶらかされた時代(NHKは宣伝するな)11月22日

崩れる本の権威(図書館の本のきりぬき、書き込みはなぜ−クロ−ズアップ現代)2006−9−13

情報環境の変化の回顧(メデアは空間と時間をきりとった部分を与えるもの)2007-12-18

産経の電子新聞もつまらない(プログへ)2007−12−23

私の田舎でもデジタル放送はじまる(情報は万民に解放されるべき)(プログへ)
2007−12−28

さくらのプログで故障−閲覧もできなくなる(キャッシュに記録は残っていた−キャッシュは必要)2008−5月3日




ホ−ムペ−ジ作りの意味するもの

ホ−ムペ−ジを作りをしていて気づいたことはこのホ−ムペ−ジ作りは極めて自己中心的作業でありメディアであることに気づいた。何故ならホ−ムペ−ジとは自分だけの世界をどこまでも追求できる、自己を制限なく表現できるもので今までにはない世界であることに気づいた。ホ−ムペ−ジは個人の世界の構築であり他者との共同作業がない世界なのである。それ故に個人が主体となり個人が明確される世界でもある。
2ちゃんねるは中高年には向かない(牛レスが必要だ!)
こういうものがなかったというのは自分が発言したり他人に問う時そこには常に相手がをり共同でやることが多かった、同人誌とか雑誌にしてもそこに書くということ発表することは個人だけの場は与えられていない、ホ−ムペ−ジはいくらでも自分を表現する場があるということである。パソコン通信などは相手との対話の中で数行くらいしか発言できないものだった。しかしホ−ムペ−ジは写真であれなんであれ常に自分というものを出してゆく媒体である。そこに仲介するものマスコミであればテレビ、新聞、出版社とかいったものは一切なくストレ−トに自分が出てしまうものなのだ。

こういうことは今までなかったから戸惑う人も出ているようにも思う。そもそも自分だけの世界を与えられている世界を個人だけの世界を持ち発表することは経験していない、個人は常に組織の一員として従属するものだった。マスコミはまさにマスを大勢を対象として大勢に対して最大公約数的なものを提供していた。そこには大勢の反感をかうものはのせないということである。巨大な宗教団体や様々な団体の圧力がありそれらに反感をかうことはしないことである。何よりも営利団体だからそれが怖いのである。

というのは新聞社やテレビ局でもその装置や販売部数やまさに大勢を相手にするマスコミなのである。テレビ局の装置といったら何百億もの装置を持ち番組を流しているのだ。その装置の巨大さに一個人など圧倒される。メディアは権力だということが思い知らされる。個人などその前に何の力もないのだ。これは新聞社などでも同じである。やはり大変な機械を使い販売網を確保し大勢を相手にする商売なのだ。一個人など全く眼中にない、あるのは常に大勢なのだ。出版社にしてもある程度の大勢のものを相手にしないと成り立たない、常に売れなければならないという圧力がありそれが前提条件となってしまう。

だから大勢を相手にすることになり売れるものを目指さないといけない、つまり営利を目的とするかぎり大勢を相手にする必要が出てくる。一冊でも多く売ればもうけになるからだ。本屋にしても営利を目的としているから一冊でも売れるものを置きたいのだ。売れないものは慈善団体でないから置きたくないのである。しかしホ−ムペ−ジは営利というのがほとんど関係ない、そのコストの安さから無償の世界だということである。こういうこともこの実社会ではなかったとである。本作りは校正だ製本だなんにかにと本自体作ることが大変でありそのあと売ることも大変である。余りにも手間暇コストがかかりすぎたのだ。

本はこれから装飾品のようになり非常に高いものとなる。つまり実用的なものはネットで流通し本は記念的な豪華な装飾品として持つことになる。それ故にまだネット社会に電子本がかなりの数流通しないと本の世界から脱却できない、ネットの問題などは電子本で流通すべきなのだが未だに本を買ってくれとなると抵抗を感じるのである。そうすると不便だし二重のコストがかかってしまう。ただ本の世界で生活していた人たちの問題もあり金の問題をどうするかはこれからの大きな問題である。本はあるものは実際はとてつもなく高いものなのである。本一冊百万とか言っていた人がいたがそれも笑い事でないほど本は金がかかりすぎる故、実用的に流通するために安くなりすぎている面もあるのだ。

一般的に宗教とか教育とか芸術とか文化的なものは営利にすることがなじまない、そこに金がかかわってくると不純なものになり汚されるのである。だから宗教では布施ということにするのである。今では募金となる。そういうことは営利目的であるためにマスコミ関係がいつも不純なものとなっていた。

ベストセラ−なども実はマスコミで売るために作られマスコミによって画策されあらかじめベストセラ−にさせられていたのだ。そういう戦略を出版社では練って出していたのである。消費者の要求によって売れたのではなく出版社の宣伝によって売れたのである。これは本だけではなく宣伝によって買わされ売れるものがあると同じである。出版の場合はいろいろあって一概に言えないがマスコミには常に大勢に受けるもの大勢を対象とする故個性的意見より大衆に受けるものだけを提供するようになった。ファシズムとこの大衆マスコミ主義は一体不二の関係にありナチスはこれを利用したのだ
確かにこの通信の変化でマスコミとか情報関係では変革を迫られることが多い、個人でも新聞が作れるという驚きである。新聞には記者が書いてもその個人としての記者の比重は極めて低い、名前すら提示されないことが多い、

しかしインタ−ネットの世界では新聞社でしか出版社であれどこにも所属していなくても個人として記事の解説など発信できるのだ。これは現実メルマガなどで送られてくるものがそうである。その個人の発言の方が注目され個人中心になっているのである。個人自身でそうした記事の解説など発信することも今までにないことであった。そうした手段を持たず大きなマスコミの会社に頼って会社員として記事を書いていたのである。そこでは収入も確保できた。がこのインタ−ネットの世界が無償であるとするとプロの人は困るようになる。そうしたシステムがてきていないからだ。ここに営利的なものが入ってくるとまた不純なものになることもありうる。現実アクセスの多いところはやはりマスコミ的な大衆娯楽的なものが多いからだ。

ホ−ムペ−ジはアクセスが最大の問題であることも気づいた。アクセスされないことにはどうにもならない世界である。一見ホ−ムペ−ジを出しただけで公表され読まれると錯覚した面がったがそれからが大変だということである。硬いものになると余計そうであり誰も読まない文を書きつづけるハメにもなる。ホ−ムペ−ジは今までに経験しない表現手段であることは確かでありこれも今後どうなるか民主主義が個人を中心にするものとする時民主主義を本当に血肉とするものにはいいものなのかもしれない、このホ−ムペ−ジ作りも自分でやらないとわからない世界であった。この通信の世界は技術的な段階とハ−ドの面とソフトの面が一体となった世界だからこれを理解することがむずかしいのだ。




インタ−ネット読書の不思議

インタ−ネットを利用することはここ五六年である。インタ−ネットを利用すること自体全く新しい次元の世界に入ったことなのだ。今までのメデアである本であれ新聞であれテレビであれ雑誌であれそれらと似ている面もあるがかなり違うしその利用方法も定まっていないし活用されてもいない。インタ−ネットを読むということはそれをどうよむのか各人によって違うのだがともかく不思議なことのだ。本一冊はそれなりのテ−マにまとめられて一貫したものだし一人の個人のものをまとまって読む。インタ−ネットはそうした一人の人間の本を読むのとも違う。何故なら必ずリンクをたどり関連したものを同時に読んでゆく。関連したペ−ジだけを読む場合もあり一人の個人の本を読むのとは違う。インタ−ネットが一冊の巨大な本だというのはそのことなのだろう。しかし考えてみると薔薇について知りたければ様々な角度から調べる必要がある。薔薇の原産地はどこだとか薔薇にまつわる歴史や文学があり詩もあり日本では俳句もある。つまり薔薇というテ−マで多角的視野で薔薇を知る必要があるのだ。それはインタ−ネットではある程度調べられる。インタ−ネットのリンクの機能は関連したものを結びつける。本には個々の本として独立しているがインタ−ネットはペ−ジにリンクがはられたり文章の中にも他人のペ−ジのリンクがはることもできる。一冊の本だとするとそういう読み方もインタ−ネットでは不自然ではないのだ。

例えば
「晩菊」というテ−マで検索を試みるとまず晩菊の俳句がいくつか探すことができた。それなりに面白いものだった。能登の老人が作っているホ−ムペ−ジであった。ホ−ムペ−ジの特徴は地域性がでることなのだ。薔薇でもそうだが晩菊というキ−ワ−ドから広がる世界が探求される。個々のテ−マ別に探すとそれなりにまとまったものが集まる。乳神というのが広い範囲にあったことは驚きだった。いかに乳を出すことが女性の心配であったことがわかる。「郷倉」いうのも全国的にあり実際にその倉が残っている村もあり村の共同倉庫のように使われたり学校として使われたり村の共同体の要のような役目があったから地名化した。つまり「郷倉」というのは一地域のみにあるものではなく江戸時代に全国的に飢饉の備えのために作られたことがわかった。

またインタ−ネットの不思議は偶然に思わぬものがでてくることなのだ
。飯盛女の年季奉公の証文は偶然に発見して利用した。とにかく何かまとまったものを書くとなるとそれなりの資料が必要となる故に本は読まなくても資料として買いためる必要があったのだ。だから作家は図書館のよう書斎を必要としたし本をどれだけもつかで書くものにも差がついたのである。それから有名な作家でも詩人でもその人の全集を全部隈なく読む人は非常に少ない。インタ−ネット的読書とはそうした有名人でも作家でも例えば意外にも短歌とか俳句を残している。そういうものは余り読まれていないし知らないのである。それを詳しく調べのせている人がいた。著作権がきれている人なのでそうできたのだ。有名な作家でもそうだとすると膨大な利用されない作品が埋もれてしまっているのだ。全集を買うとなると容易でないしまた読むことも容易でないからだ。とにかくインタ−ネットの読書と従来の読書とはかなり違うのである。これまた新しい時代の感覚が要求されることになるのだ。 インタ−ネットの情報は本のように個々独立したばらばらのものではない、関連をリンクで追求するものであり一冊の本だとするとリンクできない、関連づけられないものは不便なものになる。本を買って読めとなるとインタ−ネットからは分離したものとして読むことになるからインタ−ネット的読書としては生かされないことになる。

さて「晩菊」をテ−マにして探したらでてきたのがこの詩だった。

庭の千草も 虫の音も

枯れてさびしく なりにけり

ああ白菊 ああ白菊

ひとりおくれて 咲きにけり



この白菊は晩菊として連想した。アイルランドは豊かな土地ではない、アイルランドはケネディを出した所だがジャガイモ飢饉でアメリカに移住したように痩せた不毛の土地でありその民謡も哀調を帯びたもので親しまれている。そもそもイギリス自体土地は肥えていないし寒いし自然に恵まれた所ではない。料理も貧弱である。ではなぜそんな国が世界を支配するまでになったのか。寒い痩せた土地はかえって人間を勤勉にし効率化を計るために工業化した。南のような一年に三度も米がとれたり果物が豊富な所では人はのんびりしてなまけものになるのである。文明は自然条件の厳しい北から生まれたのだ。日本も山が多く土地が狭いから効率化するため勤勉になり工業化に向いていたともいえる。それでも日本はイギリスやヨ−ロッパより米もとれるし魚もとれるから恵まれていたのだ。だから自給自足の鎖国ができたのである。ヨ−ロッパは恵まれていないから恵まれた南なのアジアに胡椒だとか豊かな産物を求めてはるばる危険を冒してやってきたともいえる。

ともかくインタ−ネットの読書は引用したりリンクすることが便利でありそれらを結びつけることで自ずと豊かになる世界だから今までの出版社とかが力をもって仕切る世界や本だけの世界からの脱却が必要なのである。本の世界とは次元が違う世界に入っているからだ。著作権などいろいろ問題あるにしてもインタ−ネットを今までのメデアの感覚でやっていると生かされないことは確かである。つまり自分は直接対話もしていないし孤立的に書いているのだがそういう自分でも何らかの共同作業の中で書いているという感覚がインタ−ネットには生じる。インタ−ネット自体がそうした結びつけるという機能が備わっているためだと思う。それが今までのメデアと違うからこの結びつけるということを前提にして関わらないとうまくインタ−ネットは利用されない。それが既成のメデアに従事するものが戸惑うことであり積極的に参加できない要因になっている。



インターネットの意味するもの(無線で常時接続できた)

ようやくddiの無線で常時接続できた。この一週間インターネットを時間に制限されずやれた。ニフテイのパソコン通信の時代は非常に狭い範囲の世界のやりとりであり極端に限られた世界だったのだ。今はホームページみるだけで膨大な数がある。そしてインターネットはどこに何があるかわからない世界でありキーワードで探しても別なホームページに行きそこが面白いとなりみてしまう。狙ったものが当たるということはほとんどない。マスコミとか本の世界だとそれなりのものにあたるがイン
ターネットではそういうことがない。だから探す労力が大変なのだ。インターネットとは何かというとやはり世界的であれ日本であれ一つの時代の曲がり角に必然的にでてきたもの人々の要請があってでてきたものであり時代的要請として生まれたのである。技術的問題もあるが時代的要請がなければ普及しない。キーワードとしては次のようになる。

individualism(個人主義)
regionalism (地域分権)
globlization (地球化)
networking (自主的協同社会)


今までの時代はこの逆であった。明治維新以来西欧に追いつくために強力な中央集権国家が必要だったのだ。富国強兵が必要だったのだ。不思議なことは明治になって庶民は誰でも名字を持つことができるようになったが庶民は名字を持ちたくなかったという。何故かというと名字を持っていた侍は戦争に行かされるからというのだ。庶民と侍の意識はこのように離れていたのだ。侍は主君に仕えるから天皇の臣民になるということにそれほど抵抗なかったかもしれない。庶民の方が相当な意識改革を強いられたのだ。政治とか軍事は庶民のくちだすことではなかったのだ.その代わり戦争する必要もなかったのだ。庶民は気楽であったが侍はその代わり責任が重く切腹させられたのである。侍とはそもそも戦争が商売だったからそれなりの覚悟はできていたのである。ところが庶民はそうした意識がないのに国民皆兵になって責任を持たされたた。実際庶民は多大な犠牲を払わされた。庶民の持っていた感覚は当たっていたのだ。これは日本だけでなく世界でも王政とかを庶民が倒したのだが国民皆兵となり全国民が兵隊となり国民同士が熾烈な戦い世界的大殺戮の時代と化してしまったのだ。

この中央集権的国家は戦後50年も続いたのである。日本列島改造とか
高度成長時代、テレビやマスコミの中央集権的体制はつづいたのである。巨大宗教団体の興隆もこの時代の流れにあった。強力な中央集権的一元支配の時代だったのだ。しかし時代は変わつた。インターネットもその時代の要請としてでてきた。一極集中の支配体制とは違う。インターネットは蜘蛛の巣のようにまるで神経細胞が結びつく世界であり今までのコミニケーションとは違うのだ。多極化の時代であり様々な個性化の時代となったのだ。今まで読まれることもない地方からの発信された発言がそれも新聞ではない小さな町の情報が必ずでてきて読むことになる。それはその土地に住んでいるものからの発言だからより地域に密着したものとなる。明らかに今までの一極中央集権的体制とは違うものを指向するようになっているのだ。デジタル放送でチャンネルが百になるのもそうであり2ちゃねるが注目を集めるのもその現れである。
Independent multi-statined bases となる。このIndependentが大事である。メデアを介するときIndependentは失なわれる。マスコミはメデアを独占していたが故にメデアにより巨大化される。現代の偶像を作り出したのだ。

とにかく無線で常時接続になりインターネットはかなり身近になった。実用的にも仕えることもわかっった。というのはインターネットに接続してさらに電話で聞くとわかりやすかったのである。メデアは重複したものマルチメデア化するとわかりやすくなるのだ。活字や声や映像が一体となるとき理解が早いのである。つまりこれからの時代は軍備とか政治の時代ではない、公共事業とかのハードの時代ではない、ソフトの時代でありcultureの時代、地域を耕す時代、また奈良時代や安土桃山の外国指向の文化から平安時代や江戸時代の国風文化の時代になる。ただ鎖国ではなく外国との交流を維持して国風文化、地域文化を育てるのである。



堺屋(1992)が,取り上げている1極集中の問題がある.彼は,1980年代後半に設置された社会経済国民会議の新都建設問題特別委員会委員長としての討議および,1990年代初めに設置された国土庁長官の諮問機関である首都機能移転問題に関する懇談会のメンバーとしての討議を土台に,首都機能の移転に関する論議を行っている.この中で,情報発信の一元化,1極集中化について次の諸点を上げている.


1.各種業界団体を組織させ,その本部を東京に置かせた.そのことにより,政府および海外の情報が東京に集中した

2.NHKの内規を変え,全国放送は原則として東京中央放送局のみが行うこととし,各地方局はそれぞれの担当エリア内にしか電波を送れないことにした

3.民間放送にも上記の方式が適用され,全国番組の編成権は,東京キー局だけに与えられた.その結果,地方局の情報発信は,列島ニュース,伝統行事,犯罪事件などに限られることになった

4.書籍については,取り次ぎの統合(卸売りの4社体制)を行い,県境を越えて書籍を販売しようとすると,一度,東京の取り次ぎ会社に持込まなければならないようにした.このため,各地の出版は,土地の名物名産紹介に止められることになった

5.学術,芸術についても業界団体を組織し,その本部を東京に置かせた.このことによって,権威の階層構造を東京を頂上として構成させた.したがって,これらの情報も,東京によって価値付けられる仕組みとなった

6.専用施設を東京にのみ作らせ,地方には,汎用,多目的施設のみを作らせるようにした.このため,地方独自の分化活動が制限され,その情報発信はおよそ不可能に近いものとなった

7.各地についての開発計画は,現実に物を作りだす工場の集中立地による全国分散に限られた.そのため,商品開発その他のいかなる物をどのようにして作り,それをどのように広めるかについての情報は,東京のみが発信することとなり,それについて考える機能は,逆に衰退させられることとなった.加えて,各地独自の暮らしを支えた個性まで,破壊されることとなった



したがって,情報の独占,管理といっても単純な力任せといったものではないのである.広域情報を完全に管理するのではなく,複数(ただし,一般人ではない所謂マスコミ関係)の発信者に,比較的自由な情報発信を許しているように見えるのである.
このような状況は,発信される物理的な情報量を飛躍的に増大させ,個人にその消費を勧めるための付加価値化,卑俗化が進行することになる.そして,そのことと並行して,受信者の側の価値判断の低俗化,情報消費の不完全化といった事態が生じる(ロジャーズ,1986).結果として各個人は,さまざまな情報操作に無防備となる(秋田教育大学)




インターネットの読書の不思議(3)
(一億総ライターの時代)


前にも書いたがインターネットの世界は今までにない世界だから不思議というか理解できないものがあるのだ。50年間は本が知識を仕入れるものだった。だからどうしても本として読もうとするのである。しかしインターネットの読書は本を読むこととは違うものになる。一冊の本は一人の人格によって個性によって書かれた首尾一貫したものである。その人の個性で書かれたものである。インターネットはまず検索から始まるのだ。一つのキーワードを案内としてそれに関連したものがでてくる。全然違ったものが出る場合もある。蟻というキーワードで探したら奇妙なことに人民帽という中国人を詩にしたものがでてきた。これも面白いものだった。中国人は蟻に似ているとも言える。蟻の詩で面白いのは・・・・である。これは復刻版としてホームページで読める。それから面白いのは蟻の詩がいくつかあった。それなりに面白いものだったし若い人が現代の生活の不満を詩としているのもナイーブな感覚でなるほどなと思った。詩でも俳句でも短歌でも無数のホームページがありいちいち読むことはもはやできないのだ。

インターネットの世界はカテゴリーに分類されたものを読むと意外といいものがあたらない、なぜかというと選ぶ人はコンピュターに詳しくても文芸にはくわしくない、単なる見栄えだけで選んでいるかもしれない。そこに文芸の専門家がいるわけではないのだ。それにしてもインターネットは多様な世界であることに驚く。本ででていたものはほんの一部であった。インターネットには実は多様な才能の開花があるのだ。もちろん取るに足らないものも無数にある。しかしそれだけではないのだ。本の世界は組織を持つものや特権者のものだった。一冊の本を作るのに大変でありこれを読んでもらうことは大出版社を通じてしかできなかったのだ。自分も自費出版して大変な目にあった。自費出版の本など本屋も置いてくれないしやっかいものである。出版社でも本屋でもどうしても利益中心に考えざるを得ない世界なのだ。ところが利益と関係なく人間はみんな語り伝いたいものがあるのだ。有名な作家だけではない庶民にも語ることはあるのだ。インターネットはそういう人たちに表現の機会を与えた。

それにしてもインターネットの世界を読みこなすことはむずかしい。この世には無数の人が生きているし立場も違う、その思いも違う。そうした人たちの思いを垣間見ることができる。それがどういうふうに結びつけるのかむずかしい。ホームページは一面一方通行なのである。
本一冊を読むのではなく本のページをたどり読むということもなかったことである。どういうふうに関連してゆくのかもわからないのだ。たまたま蟻というキーワードで仙台に住んでいる老夫婦の日記を読んだ。仙台はここから近い。しかし別に仙台に知り合いがいるわけでもない、買い物には行っていた。その人が知らないにしてもその人の日記を読んでいることは不思議なことである。庶民の日記など今まで読むことがなかった。今やインターネットには無数の日記があるのだ。年配の人の日記は面白いものがある。いろいろ経験していることともう一つ地域性があることも面白いのだ。

ある所に長く住んでいるとその土地と人間が血肉のように一体化するのだ。血は地でもあったのだ。別にこうした人は作家でもなんでもない、一般の庶民なのである。そういう人たちが語り始めたのがインターネットでもあった。蟻であった人たちも語り始めたとも言える。マスメデアはこうした庶民の声を反映させなかった。マスメデアは一方的に選別し編集するもので庶民の生の本当の声が反映させていたかどうかはわからない。報道するのはメデアにあって報道される方にはなかったのだ。だから毎日大変な量のものが報道されているようだが本当はほんの一部しか報道されていない。それも報道する方にとって都合のいいように脚色されている場合も多い。集団の声は反映されるが個人個人の声は反映されない。インターネットはその個人個人にに光をあて語らせているともいえる。仙台には百万都市であるからそれだけの人間が住んでいてもどういう人が住んでいるかわからないのだ。老夫婦の日記を読んでこんな人が住んでいたのかとなる。余生をつつましく暮らしている人である。秋海棠は秋に咲くから名づけられたとか書いてあった。

老夫婦しみじみ語り秋海棠

それでこんな句ができた。私がその日記を読んだことこの人は知らない、一般的にホームページは誰が読んで何を思ってかもわからないのが多い。それでも読んでいる人はいる。こうして読んだのも常にインターネットは偶然なのだ。これをはずれたら永遠に読んでいないかもしれない。なぜなら膨大な数だからだ。インホーシークだけでも50万のホームページがある。日本だけでもホームページの数200万以上ある。こうした世界では偶然に当たる世界でありいいものでも読まれることは大変なことである。ヤホーのカテゴリーに登録されるものとてほんの一部である。それは恣意的に選別されたものでいいものがあるとは限らない。公平を期すなら検索以外ないのだがこれも大変なことは確かである。これも上位にあるものが必ずしもいいものとは限らないのだ。ずーと後にもいいものがあるのだ。とにかくインターネットの読書は常に未知の体験に満ちていることは確かである。とりとめもないつまらない経験でも他人には有益な面があるかもしれないから書いておくことは無駄ではない、誰でもその人しか書けないことはある。女性の子育ての苦労などわからないがそういう掲示板もありこんなことで苦労しているんだなとわかる場合がある。インターネットにはそうした。交わることのない人たちの発言が無数にあるのだ。ただこれを読みこなすことは大変である



インターネットを読む不思議 (4)
    (一億総ライターの時代)



@田舎暮らしを中途で放棄した人

妻が病気で途中で放棄、丸太小屋を売りに出している

A葛尾村で別荘暮らし

この家は空屋をただで借りた、田舎暮らしを報告

B都会で文学夫婦の植木職人の苦労

C羅宇屋とは…………………………………

炭火を使った小形ボイラーで湯を沸かし、
その蒸気を使って、キセルの中に詰まったヤニを掃除する

D仙台の商人宿、京都の商人宿

E北前船の取材旅

F地方の埋もれた古い詩集の紹介

G二本松に将棋好きの将棋盤を模した墓

H能登の老人の俳句のホームページ

I日経新聞をやめた人の告発



インターネットを読むことは不思議なことなのだ。これはほんの一部を並べたにすぎない。もっとこの世界は複雑怪奇である。一冊の本は一つのテーマで書かれているがインターネットは種々雑多なものが情報として脈絡もなく投げ込まれているのだ。一つのテーマで検索してもこんなふうに種々雑多なもののなかを読んでゆくことになる。田舎暮らしは現代人が志向するものでそういう人たちがいるしそういう願望を持つ人も多い。葛尾にそういう人がいた。私の親戚は葛尾に家があったが浪江に
下りた。阿武隈の過疎の村である。ここに一年に数回来て山暮らしをしている人がいた。その人がホームページで報告していた。虫で悩まされたとか田舎暮らしを書いている。

それから文学青年だった人が文学少女と結婚したのだろうか、都会で植木職人として働く苦労を書いている。底辺に生きるものに共感している。ホームレスとか商人宿などの詩がある。その妻は四国の棚田のある所に祖父が住んでいたが今は廃屋になっているというのも現代を象徴しているし写真もでている。私の今日の一句一歌で「
京都にて商人宿の暑さかな」と出した。それで商人宿というキーワードで検索したらでてきたのだ。商人宿というキーワードはそれなりにでてくる。商人宿は各地にあった。仙台の商人宿だった旅館の説明は一番わかりやすい。

ヘビ屋(マムシの生き血を飲ませる商売で、私も飲んだことがあります)、テキヤ、富山の薬売り(すごく大きな風呂敷を背負っていました)、反物屋(琉球から来てお金持ちを相手の商売をしていました)。テキヤさんは、私の子供たちに、こずかいを与え、当たりくじを渡してサクラをさせていたのを今でも覚えております。

こうした底辺の人達が利用した。今のビジネスホテルだが昔は一人一人が人間臭かったのだ。というのは職種が豊富でありそれが個性を作っていたと言える。羅宇屋とは炭火を使った小形ボイラーで湯を沸かし、
その蒸気を使って、キセルの中に詰まったヤニを掃除するとでていたが
こういう人は知らない。でもキセルは親が吸っていた。ヤニがいやな匂いがするのだ。それから煙草は阿武隈の山地ではかなりの収入源になっていて栽培されていた。行商といい小売業といい自転車のアイスキャンデー屋やら金魚屋やら紙芝居屋や漆屋やらら実に種々雑多な職業の人がいたのだ。今はみんな会社員になりそうした人間臭さが消失した。一人一人が手に職を持った人が多かったのだ。

インターネットでは埋もれた詩集というか復刻版とかが紹介されている。これも名古屋の人だった。そういうものを紹介するのにインターネットは向いている。詩などマスコミで紹介されるのはほんのわずかである。マスコミの大出版社で売るために作られるアイドルである。中身など全然なくてもかまわないのだ。人気俳優のように売り出してもうければいいのである。まず本と言うのは資本がかかるから売れなければどうにもならないのだ。だから売れない本は出せないし書店には並ばないものが大変な量があり今それが関を切ったようにインターネットに流れているのだ。くだらないものが無数あるにしても全部がそうではないのだ。出版されるのはほんのもうけのために売り出される人だけである。本屋では売れない本はおかないだ。延々と恨みを書いているようだが実際そうなのであり何かを書いたり表現することは特別の人だったのである。それを一手に握っていたのは主に大出版社だったのだ。インターネットにでてくるのが書店では接しえないものが多いことがそれを物語っているのだ。奇妙と言えば奇妙だが底辺からの声、無視されたものたちの地底からの声とも言えるかもしれない。なぜならマスコミに取り上げられないものは公の声とはならないではないか、それはおかしいのである。インターネットはそういう無視された人たちの怨念ともなるが声に耳を傾けることでもあるのだ。

そしてインターネットの日記というのも不思議である。

当時祖母は創価学会に入会していて、かなりの金額をお布施にしてしまったと、後に伯母たちは言っていた。その頃大学生で、多くの若者たちと同じように学生運動にはまっていた父は、創価学会が学生運動に反対しているという理由で仕送りを止められ、学費と生活費のため、朝一でゴミ収集のバイト、それから学校へ行き、夜は工事現場の仕事をしたと言う。」

これも不思議である。池田大作は全学連をまねてヘルメットかぶって学生部を動員した。自分も馬鹿だから参加した。池田大作のヘルメットかぶった写真があるのだ。あれは藤原弘達を批判する集会だった。創価学会は権力とるためにその時々の時流にのる。全学連が世間の注目を集めればそうするし新進党の時もそうだしサッカーが盛んになればそれも利用する。権力に反抗することは絶対ない。そのポーズをとってもあくまでも権力をとることが目的なのである。毎日権力奪取と絶叫していたのだし今も変わらない。とにかく個々の読むことの不思議がインターネットにはある。そもそも個々の日記を読むことなど今までありえなかったのだ。これが何を意味しているのかわからない。何気なく書いていることが何かの影響を及ぼすことになる場合もある。少数でも他人の日記を読んでいる人はいるし公開している人は読んでもらいたくて公開しているのだからある程度利用されても他者に批評されてもしょうがないのだ。公開することに何か意味があると思い公開しているとされても仕方がないのだ。インターネットがすでに実社会のなかに普及して現実社会となりつつあるという自覚が必要になっているのかもしれない。匿名が多いにしてもかなりの他者がかかわる世界になっているのだ。


参考にしたホームページ

植木職人の苦労
http://www.ne.jp/asahi/hiding/base/matukichi/index.htm

仙台の商人宿
http://aisakiryokan.com/rekisi.htm



情報戦国時代
(一億総ライター時代5)

  (インターネットは新たな権威を作るのか)

インターネットそのものが未だ話題であり未知である。インターネットそのものについての興味が尽きないのはこうしたものがこの世になかったものだからである。世界的にも2000年くらい情報は本であった。本すらない時代も長かった。自分の世代はラジオから始まったのだ。明治生まれの親父はラジオで浪花節を聞くのが楽しみだった。それからテレビが出てきたとき情報環境が急速に変わった。しかし以前として知識は本だった。本なしの知識は考えられないのだ。本に思い入れが強い人が多いのだ。中国でも知識人とは本を集める人、本を大量に持っている人であった。本とはまた聖書であったごとく聖書には鍵がかけられ中世は
一般の人は読めなかったのだ。写本としても本は大事にされた。高価な財産であったのだ。本自体が装丁されその表紙も厚く何か威厳あるものなのだ。それゆえ出版社も権威があり実際に権威を作っていたのである。出版社と本屋は一体であり世の中の権威を作る場所だったのだ。とにかく昔になればなるほど本の価値は高かった。仏典なども三蔵法師が命がけでインドから持ってきた非常に貴重なものだった。本はそうした思い入れがある

まず本は誰でも出せるものではない、今でもそうであり常に本屋に並ぶものは常時売れる作家は限られておりその人たちが世論を先導し権威を作ってきたのだ。雑誌もそうである。新聞でもテレビでもマスコミは権威を作る場であり何がしかの教育の場であった。なぜなら大勢の人がそれを指標にするからである。芸能人ですらテレビにでれば影響力がありタケシのように指導しているのだ。実際に芸能人は国会議員にもかなりなっているから権威を作っているのだ。本屋はやはり知識の宝庫として人々を導くものとして権威を持っていたのだ。出版社もそれゆえ大きな権威を作るものだった。本というのは出版社を通じてしか本屋には並ばないからだ。しかしインターネットがでてきてこの権威がゆらいでしまった。江戸時代のような特権階級の侍の権威が失われつつある。インターネットからみると本は硬直したもので融通無碍なものがない。それでもなお権威を保つ場として存在しようとしている。過去の神殿のように
本自体が崇めたてまつられようとしている。しかし本であれ雑誌であれ新聞であれ人々がそれを利用しなくなると自然に権威も失われる。インターネットとと対照的にみるとそうなるのだ。

ではインターネットの世界が新しい権威を作るのか2ちゃんねるが人々を感化して導くものとなるのか、インターネットはアナキーの世界である。匿名なことがそれに拍車をかけている。フランス革命で大衆が王の権威を倒したのは良かったのだがそのあとアナキー状態、旧来の権威とか権力に変わり民衆が大衆が権威となり権力となりそれがアナキー、無政府状態となり混乱からナポレオンが出てきたのである。インターネットは誰かか導いているわけではない、無数のホームページはアナーキーとして自己主張しているだけである。ホームページはいいものがあったとしても多くの人に影響を及ぼすことは少ない。インターネットのなかで権威を持つことは大変である。インターネットは容易に相手を否定できる。つまらない意見でも述べることができるし俺とお前は同じだと言えるメデアでありキケルゴールの水平化のメデアなのだ。本の世界はすでに本を出し本屋に並ぶだけで権威を獲得しているのだ。大衆にとって権威なんか必要がないというのが大衆である。その結果何にに向かったかというとナチスのファシズムだったしナポレオンのような強い圧制であった。

本の世界は古色蒼然たる権威のなかに過去のものとなる。それに変わる権威は秩序は生まれるのか、人間の世界は何がしの権威とか秩序なしでは維持できないからである。本とか雑誌、新聞、テレビで獲得したマスコミの権威が崩壊したとしてインターネットはそのあとの権威を秩序を作ることができるのか、そういう情報の混乱、戦国時代になっていることは確かである。面白いといえば面白いのだがその戦国時代を制するのは何なのか誰なのかそれが全く見えてこないのだ。ポータルサイトにしてもいくつも見れない。1箇所から基本的なものが閲覧できることが便利なのだ。あまりにも分散しすぎてアナキーになりすぎているからだ。ともかくインターネットはグローバルなものだが一方で極めて地域的なものであり個人的なものであり分散的なものでありかえって太古の部族の状態に回帰している。無数の部族が跋扈し意思疎通がない、インターネットはアナーキーなメデアなのだ。インターネットに頼るとマスコミを否定するとして2ちゃんねるを頼りにするのか、現実若者ではそうなっている人が多くなっている。2ちゃんねるの意見に頼っているのだ。2ちゃんねるが若者の世論を形成する。2ちゃんねる自体またアナキーでありそれを指標にすることには無理がある。おそらく日本が戦争するかしないかなど重大な決定になれば2ちゃんねるはますます混乱してとても議論すらできなくなる。何らかの行動に導くものをそこで作ることはできないからだ。マスコミの力は権威は情報発信能力自体にあった。それがインターネットに変わったとき何が権威を作るのか混乱状態にある。

「意味」とは全体的なものであり、「情報」は部分的なものだということだ。

アメリカの教授が言った言葉である。インターネットは無数の部分の情報なのだ。決して全体は見えない、ただ部分と部分がクモの巣のように結びつき意味を形成することがある。いずれにしろ意味を与えるのは機械ではありえないし人間こそ意味を与えるものであり最終的には神のみが最大の価値を意味を与える力を持っている。なぜなら神の子とできるのは神しかいないからだ。




  インターネットは表現のメデアだ(一億総ライター時代6)

インターネットの特徴は何かというと参加型であり表現のメデアなのだ。メデアというとテレビや新聞、雑誌、本などいろいろあるがどちらかというとマスコミ主導型でありそうしたメデアが持つものが表現にたずさわってきた。表現に苦心したのは作家もしているがそれと同時に出版社や編集者も表現のために一緒に苦心したのだ。自分の場合そうした表現の場から除外されていたからわからなかったがインターネットとはたゆまぬ表現を要求される場なのだ。そのことは更新のないホームページは過去にアクセスがどれだけあっても死んだホームページになるのだ。
絶えず新規の表現が要求されるメデアがインターネットなのだ。それは技術的にもそうである。どうしたら効果的に訴えるかということで開発がなされているからだ。表現というと一般人には縁のないものだった。しかしインターネット時代は表現が大事である。PRESENTAISHONが大事である。presentには現在という意味があるから現在に直結した表現が常に強いられているのだ。私の今日の一句一歌のようなものや日々の日記をインターネットでみんな書いていることでわかる。日々の変化、現在を書きつづけているのだ。
 
表現というと個人的にこんなに写真を使ってヴイジュアルに表現することはなかった。まず個人的楽しみとして他者に公開する機会はなかった。あるとすればマスコミの目にとまる必要があったのだ。カメラを持ちビデオカメラを持ってもそれで公開することを前提にしていなかった。写真でも公開できたのは印刷して本にできたのはプロだけである。第一本を写真にするとものすごい高価なものになる。自費出版ではカラー写真が一枚のせて10万だとかいっていた。地方の雑誌でも白黒の写真しかのせていないことでもわかる。インターネットでは一万枚のせてもただなくらいでありほとんど制限がないのだ。デジカメは現在をとらえるので現在と直結する、リアルタイムの表現に欠かせない道具となっている。一億総ライター時代は個々の表現の時代でありやはり大衆的ルネサンスが起こっているのだ。誰も表現に参加できるからだ。テレビとか新聞とか雑誌や出版などマスコミは参加するメデアではなかった。
一方的にそのメデアを所有する権力の上に一方的に情報を与えるものだった。あるものはその世界からは完全にシャットアウトされていたのだ。インターネットの多様性を見ればそのことがわかる。インターネットは個々人が表現に直結している場である。つまりいつもテレビのように放送する私局にいるのだ。その聴衆は数人であっても放送していることには変わりないのだ。過去ではなく現在を放送しているという経験はマスコミにしかなかったのだ。ブロードバンドになったら本当にすべての人がテレビ局になりうるのだ。公開の表現に直結しているということが画期的なのだ。

その一例が「松吉」という植木職人の苦労話だった。石をおろす時の恐怖の経験を語っていたがそれが実況中継のような感じがしたのだ。自らの仕事を実況中継していたのだ。地方や職場やその場その場からの実況中継なのである。私の御田母神(おたもがみ)について書いたがあそこには新しい社が作られた。でもダイユー8ができてどうなるのか稲を作る神から商売繁盛の神になってしまうのか、それでも外は稲が実りはじめたからまだ都会のように土地の神としてそぐわないもではない。このような個人の生活の場からの発信や一地方から発信することはありえなかったのだ。つまり大きな面の情報でなく点の情報なのだ。個人は点であり点と点を結ぶのがインターネットなのだ。地方の新聞にしてもほとんど中央の新聞と内容が変わりない。地方には地方のニュースが無数にあるのだ。しかしこの無数の点がどのように結びつくのかただ混乱状態で終わるのかわからない。つまり無数の点の分散で終わることもありえる。インターネットがマスコミの機能とは白と黒くらい違う面があるのだ。個々人が発信できるメデアだということが根本的な相違である。個人的には一般的にはカメラでもビデオカメラでも記録しておくということでありこれを表現して公開するためには使っていなかったのである。公開するとなると表現力が大事になるのだ。だからインターネットは大衆的ルネサンスである。マスコミのように上から一方的に与えらるだけでなく意見も言えるとなると発言することの責任も感じるようになるしどう効果的に表現するかということが絶えず念頭から離れないのである。

新聞は世界の古地図である
情報洪水ネットワーク社会のなかで
欠落しているものが多い
インターネット社会は思わず
未踏の地が浮かび上がり
詳細な点の情報をを示す
そして点と点を結び合う
新聞の情報は継ぎ接ぎだらけ
インターネット社会の羅針盤にはなれない
老人の暇つぶしでその役目を終える



確かにインターネットは現代社会は情報過多でインターネットは実は空っぽの洞窟だとか否定的に解釈する人もある。技術には二つの側面がある。原子の解明は一方で原子爆弾になり一方で原子力発電になった。汽車が発明された時わざわざ街の中に駅を建てることをせず郊外に建てさせたり蚕の盛んな所では蒸気機関車の煙が害になるということで通らせない田舎の町もあったのだ。自動車社会もいい面と悪い面をもたらした。どんな技術にもそういういい面と悪い面をもたらすのだ。そもそもソクラテスの時代には文章を書くことまで否定されたのだ。直接話すことが文化の時代であり書くことは否定された。

プラトン自身が『パイドロス』の中で,ソクラテスをして,「現実には精神のなかにしかありえないものを,精神のそとにうちたてようとする点で,書くことは非人間的である」,「書くことは記憶を破壊し[……],外的な手段にたよるために,精神を弱める」,「書かれたテキストは何も応答しない」,「書かれたものは,人間どうしのやりとりのコンテクストから離れ,非現実的,非自然的な世界のなかで受け身にとどまっている」等々と言わしめているということであり,

古代の情報伝達は口頭でありそれで語り歌う吟遊詩人などが生まれたのだ。日本においても芸能がそうであり全国に伝承が語り歌われ伝えられた。人間そのものがメデアとなり文化を伝えたのである。それは宗教者でも同じであった。歩いて伝道したのである。それで全国的共通の文化も形成されたのだ。義経伝説もその一つである。インターネット時代の情報環境は劇的であり誰もまだこれが何であるかわからないからインターネットそのものについての議論がたえないのである。つまりこれがどういう社会を作るのか誰もわからないのだ。だからインターネットについての本が多数でるし自分も50冊もインターネットそのものについての本を買って何回も読んでいるのだ。インターネットそのものが悪いものではなくやはり人間の利用の仕方によるのである。確かにスピード時代である。自動車であれ汽車であれ飛行機であれさらに電波であれかつてないスピードでものすごい量の情報が行き交っている。それを制限しようにも制限はできないのだ。

 山里は万歳遅し梅の花(芭蕉)

こういう時代もあった。万歳が来るのが楽しみだった。私の子供の頃まで万歳は来ていたのだ。芸能はまた直接人に触れて見るものだったのだ。そういう人はまた情報の伝達者として重宝されたのだ。情報が極端に少ない時代だったからだ。この時代とは余りにも違う環境でありどう対処していいか混乱するのは当然である。





NHKBS−幻冬舎の一方的発言

幻冬舎の社長がでてきていいたい事をNHKで言った。本は売れる本がいい本なのだかと大衆の価値観に基づくものがいいのだとか・・・・
いかに出版そのものがいい本というのは売れる本でしかないのだ。それはどういう本でも風俗本でもいいということになる。
はっきり言ってあんな出版社から出す時流的な本は買うべきではない、
最近のベストセラ−がでているがあんなのを買うべきではない、
出版−取り次ぎ−書店これらは今や文化を作り出す使命感も何もなくなっているのだ。すべての価値観は大衆に受けるもの、売れるものになるからである。戦前のように本を読むエリ−ト層がなくなり硬いものは売れなくなったことは確かであろう。読者の質が落ちたことが本の質も落としたこととは相関関係にあるのだろう。本自体が大衆消費的なものになってしまった。座右の書として置くものではない、その場限りで読んでは捨てるという感覚である。bookoffはそうした本を安くまわし読むシステムを作ったのだ。

NHKのおかしな点は幻冬舎を話題として出すのはいい、一方で幻冬舎と
検索を入れたらそれを批判している自費出版社があった。
玄文社だった。この出版社の社長も呼んでその批判者の意見も出すべきなのだ。マスコミがnhkすら一方的かたよった報道をしているのだ。
江藤淳は、脳梗塞の病苦によって自殺したのであり、断じて愛する奥様に殉じたのではない
つまり美談化されて本にされ売り出されたと言っているのだ。本というものを信用するが売るためにはマスコミ報道と同じように作られるのである。出版の世界や本の世界は知や情報の独占であったがこれからはインターネットで変わってくる。

「マスコミによる選択の痕跡が露骨に表れていて不快である。その正反対の声もあるはずなのに、マスコミは成功を証拠だてるインタビューだけを作為的に選択することができる 」

これはある地方の祭りついてこの社の社長が言ったことである。これは別にそれだけでなくマスコミで話題を取り上げるときこうなりやすい。ある人を呼んでしゃべらせるのはいい、しかしそれに反対する人も呼ぶのが公平なことである。インターネットでどう変わるかというと幻冬舎の社長の話をさせる一方でこうした出版のあり方に反する地方の出版社の意見もあります。玄人社です。このホームページのアドレスを出したりすることもインターネット時代のマナ−となる。adslになれば映像としてリアルタイムでインターネットとつなぐことができるのだ。実際テレビを見ながら幻冬舎の反するものを検索していた。

「おい、NHKよ、一方的に幻冬舎の言い分を放送するな、それに反する出版社もあるんだぞ、それに反発する人もいるんだぞ」
こういうふうにそのテレビの画面に向かって叫びたくなった。現実そうした声はインターネットに無数にある。マスコミの放送の独占はインターネットで変わるのだ。いづれにしろ本とマスコミはこれから急速に変わらざるをえない、こんな田舎でもadslが普及したことは言論や表現、コミニュケ−ションの世界が変わるからだ。adslは個人がテレビ局にもなれるからだ。無数のテレビ局ができるのだ。放送すること自体特権でもなんでもなくなるのである。情報戦国時代になるのだ。下克上である。マスコミの権威はそうした下からの蜂起、エネルギ−によって崩されてゆくのである。そういう兆候が日経新聞をやめた人のホームページにあった。日経新聞は財界と結びついた偏向新聞だとしてやめて自らを主張している。個人で大会社を告発しているのだ。2ちゃんねるでは赤井邦夫という偽名の人がそっくり韓国よりの2ちゃんねるにでていた文を投稿したりそのまま出されて朝日新聞のことを話題にしていた。つまりそういうことができるメデアなのだ。これからもマスコミとインターネットの争いはつづく。マスコミはこれまでの大衆を支配する権威を保ちたい、一方インターネットはそれに対抗するものなのだ。マスコミはインターネットを無視するがだんだん無視もできなくなる。本の世界は出版社−取り次ぎ−書店と情報独占の構造になっていた。ここでかつての良書を期待するのは無理である。コンビニで買うパソコン雑誌や手軽な暇つぶしの本だけが出される。書店自体はなくなる。本は残るがこうした商業主義一辺倒の情報独占の構造体からはもういい本などでないのだ。書店もその系列化に組み入れられているから消えるのである。書店とはいい本が邪魔になる場所なのだ。「邪魔になるから置けない」と自分が排除されたことでもわかる。これからは営利的な所にはいい本は置かれなくなる。本はそういうものと違う価値をもっているからである。私的怨念があるにしてもこれは自分だけの問題ではない、出版は余りにも不公平な世界だったのである。



幻冬舎の話を聞きました、これに関しては玄文社から反論がありました 次のホームページにアクセス 他にも異論反論あり、実際は異論反論を出していないのだ

このように番組はもはやマスコミだけが作るものではない、視聴者も
一緒に作るものになる。




玄文社

http://www1.odn.ne.jp/~cal67130/jihi




インタ−ネットの匿名問題

ネットではニフティのときからこのことはさんざん論議されてきた。インタ−ネットの最大の問題でもあるのだ。相手が特定できないという特殊な環境にあるのがネットなのだ。例えば実名を書いていたとしてもそれは本当の実名でないかもしれないのだ。だから掲示板で「神がありますか」とかむずかしい問題に簡単に聞く人が多数いるがそれに真剣に答える人はいない、まずその聞いている人がどれだけ真剣なのか真剣に悩んでいるのかわからない、からかい半分の人もいるのだ。創価をやめるにはどうしたらいいのでしょうかとかもずいぶん掲示板にでている、これだって相手が誰なのかわからなければ答えようがない、今回の「創価をやめたい」という人に答えたのは一応実名であったから答えたのである。最初あれだけの文面ではわからない所があったから躊躇した。すぐにこうした問題は答えられない、相手がどういう人なのかわからないからだ。匿名でもそれなりに機能することはある。内部事情の暴露とか有効なことはある。だが宗教問題とか他に真剣な悩みに答えるとなると無理である。また相手が誰かわからないものに答えてもらうのも躊躇するかもしれない、つまり匿名ということはいろいろ必ず問題が生まれるのだ。

インタ−ネットは匿名の天国なのだ。「大石英二」という作家が2ちゃんねるで実名で議論しているのは驚いた。匿名の人から批判し放題になり相手にできないといっていた。自分も2ちゃんねるに晒すことは怖くてできない、名前のない有象無象のものが勝手に批判されるのは怖いし公平でない、ただその相手がホームページを持ち自分の経歴や何かそれなりの見解を持っていて発言するならやりやすい、その人もまた批判の対象になるし責めることができるのだから。ところが2ちゃんねるではまったく誰か見当さえつかない、反論しようにも「逝ってよし」と言ったら本当に逝ってしまってその人のことはわからない、まったく不明になってしまうのだ。ニフティではこういうことはなかった。不明にならないその次の日も必ずその人の発言はあるのだ。会員制であり少ないからだ。2ちゃんねるはまったく誰か発言しているのか完全な匿名なのだ。匿名でも内容ある議論はある内部情報の暴露など有効なものがあるが宗教について語る所ではない、名前というのが意外と大事なのだ。

人間の名前というのはかなり重要な生命をもっている。名は体を表すとか名前はその人を示す重要な何かである。なぜかというと呪うにも相手の名前を書いて呪えばかなり有効になる。逆に相手の名前を書いて病気治癒などを祈ればそれも有効になる。名前がわからないとしたら相手について祈ることも何もできないのである。モンゴルでは

例えばこんなもの。「ネルグイ(名無し)」「ヘンチビシ(誰でもない)」「エネビシ(これじゃない)」「テレビシ(あれじゃない)」など。ネルグイに関してはその子供が生まれた時に親が不在だとしばしばつけられるのだが、この他にも日本語に直すと「人間ではない」「おまえは何者?」「あいつは何者?」「誰でもかまわない」なんていう、ちょっと考えると「適当なのか?」と思われる名前がいくつかある。しかも、これがたくさんいるのである。
これはモンゴル民の昔からの思想で、幼児が死亡するのは魔物が取り付いたためとされていた。魔物に名前を知られないように、もしやってきても「誰でもないよ」ならば、退散してもらうことができるから。実はこれがモンゴル流の「子供の健康祈願」なのである。その他にも魔物がすぐ退散するような「うんこまみれ」とか「悪魔」「黒い犬」なんてのもある


http://www.union-net.or.jp/cu-cap/mongoru.htm

これは秀吉の子供の名が秀吉も捨てる真似の代わりに「捨(すて)」という奇抜な名前をつけたのです。この子は間もなく鶴松と呼ばれるようになります。「鶴」も「松」も長寿を祈った文字ですが、そんな親心も届かず鶴松はすぐに病死してしまいます。悲しみにくれた秀吉は、その後恵まれた次男に今度は「お拾(ひろい)」と名付けるのでした。この子がのちの秀頼です。

こうした名付けかたは風習は騎馬民族から伝わったものかもしれない、古代人は名前を容易に明かさなかった。名前を明かすことに慎重だった。名前に対して特別な意識をもっていたのだ。

籠もよ み籠持ち ・・・ 大和の國は おしなべて
われこそ 居れ しきなべて われこそ座せ 
われにこそは 告らめ 家も名も


万葉集の最初にあるこの歌も名前を名のることは重要な意味をもっていた。家が先にあるから家というものがすでに個人の前にあったことは現代までつづいている習慣である。自分が名のったのだから相手も名のれとなるが名を名のることはすでに自分を明かすことであり信頼あるものにしかしないことなのだ。だから簡単には古代の人は名前を名のらなかったのだ。今でも本当は名前は簡単に名前を名のるべきではない、名前がいろいろ利用されるからだ。

そもそもなぜ神には本当は名がないのかエホバとは「ありてあるもの」というものであって神の名ではない、神には名はないのだ。なぜか名があれば必ずその名がけがされるのだ。エホバの馬鹿とか現実にそうなるのである。どんな人もケガされる。つまり人間は神であれなんであれケガすものなのだ。だから名前がないのである。まだみだりに神の名を唱えていけないという戒めも神の聖なる名の乱用を戒めたのだ。聖なる名が常に世俗の欲望のために唱えられている。南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏これが世俗の欲望のためにケガされすぎてしまったのだ。そこにあらゆる世俗の欲望のために祈られてきたのだ。これは簡単にいくらでも一つ10円くらいで印刷される紙にすぎなくなっている。これはこのように安価に信者に配られ幹部の金儲け権力を得るために印刷されるだけである。これはそもそも元がかからないから坊主丸もうけのように丸けなのだ。いづれにしろ宗教はどこもケガされてしまった。世俗化されそこに神聖さはなくなった。だから自然の方が太古の時代と同じように清浄さを維持しているから自然によって今でも清められるのだ。宗教は今や誤謬だらけでありそれはナチスのごとくカルトとなり文明の混乱のなかで異様なものとして増殖している病理的現象なのだ。文明的病気の一つが宗教なのだ。創価はその顕著な例でありこれが社会を席巻していることに疑問をいだかないのも文明そのものの異常からきているのだ。ナチスも文明の病理的現象であったのでありそうとしか考えられない、なぜそうなったのかという答えがでないからだ。

インタ−ネットではそういうことが多い、相手について知り得ようがないことが多いのだ。それが利点でもあるが大きな欠点にもなっている。イエス・キリストというときもその聖名を唱えることそれにより大きな力を得るのだ。イエス・キリストとは架空の人ではなく実在の人である。その名を唱える、呼ぶことは大きな力になるのだ。
一方ネットは架空化しやすいのだ。だからそこに実際の力は働かない、ネットでもそれなりに相手の存在が実名で実体化すれば何かテレパシ−として伝わるものがある。現実ネットで裁判になったように憎悪や恨みや感情的なものが伝わり問題になった。ネットでもそれが実名であり存在が実体化すればテレバシ−として何か心が伝わり作用することがある。それがこのインタ−ネットの不思議というか精神の不思議なのだ。

とにかく匿名掲示板のものを本にして裁判ざたになったように匿名でも著作権があったのである。やはり勝手に本にだしてまでもうけることはできないのだ。いづれにしろ匿名問題はやっかいである。しかし明らかに相手が全くの匿名だと真剣には語りえない、ただ匿名でも語れることはありそれを否定することはできないのだ。だから実名でメ−ルをくれれば自分としても真面目に答えるがあとは相手のことがわからないから答えるのがむずかしい。だから結局自分の場合メ−ルはこないのだ。掲示板にしてもなぜこんなにアラシが多いのかというと匿名だからである。誰かわからないものにより荒らされるのだ。

インタ−ネットの大きな問題は匿名であり相手の実体がわからないことである。批判する相手が何者かわからないことは不安であり怖いことでありそれが野放しになっているのは公平ではない、批判する人間も責められるべきだからだ。ニフティでは一応責められても責め返すということができた。しかしインタ−ネットではそれができにくいのだ。インタ−ネットが匿名なのは相手の正体がわからないことが多いからだ。だから実名でメ−ルでよこすとしたらその人を相当信頼することになるがそういうことを見分けるのはむずかしいのだ。ただインタ−ネットだけでなくこの世の実社会でも簡単にだまされる人がいるのだから同じではあるがインタ−ネット特有の問題はつきまとうのである。だから発言する人は本当はホームページで自分の経歴なり名前なり見解なりを明確にしてそれから発言すると匿名でなくなる。そういうことがリンクして簡単にできるようになったからだ。インタ−ネットをどう利用するかはまだわかっていない、それぞれ模索中なのである。




インタ−ネット情報学(インタ−ネットは本ではない)

インタ−ネットというのが本の要素があっても本と違うものだといことがわかっていなのでは、どうしても規制の概念で対処するほかないのが人間である。

「哲学」 にしろ 「科学」 にしろ 「芸術」 にしろ、いずれも西洋文化を翻訳するために明治時代に造語された言葉である。 「社会」 はおろか、「恋愛」 とか 「彼女」 までもその当時の造語であると聞いたら、意外に思われるであろうか。

翻訳論研究家の柳父章によると、society は開国当初さまざまに訳されたという(侶伴・仲間・交リ・一致・組・連中・社中など)が、このことばの翻訳にはいろんな人がずいぶん苦労したらしい。福沢諭吉も「交際・人間交際・世人・交(まじわり)・国」などと訳し分けていた。


そもそも社会とか会社は社(やしろ)に会すという意味である。会社のビルの屋上に社を祀ってあるのも日本的風景である。会社が一つの村になっているのだ。本当に社会とは社(やしろ)に会す場所だったのだ。社は村の人が現実に集い話し合う場所だった。社という建物自体、そのように設計されていたのだ。あの建物は実際は人が中に入り利用する場所だった。公会堂だったのである。社は氏子が集まる集会場だった。しかし societyは別な概念である。

明治時代に英語の「ライト」「デューティー」を「権利」「義務」と訳したのは、福沢諭吉らしい
明治時代の訳語として英語のrightsには「権理」という言葉が当てられ、福沢諭吉も『学問のすすめ』の中で多く用いています。

この「権理」の精神として、

「理」(ことわり)を権った(はかった)上で、自分に許されていると判断される行為がある。その行為の可能性として「権理」があると考えられていた、というものだと思われます。
それに対し「権利」は正当な「理」などはそっちのけで、共同体からどれだけの利益を自分が得ることができるかを、私心のうえ(私心のみ)で権ったものといえます。

権利はrightでありrightには正義とあるから正しい者には権利はあるということなのだが権利と訳してはその原義が不明になる。

religion にあたる言葉は「宗門」でした

これも宗教というのも明治に作られた訳語なのだ。意外なものまで明治に作られたのである。一割くらい明治時代に作られた訳語を使っているのだ。

インタ−ネットもこれも理解するのがむずかしい、本に親しんできた者にはインタ−ネットを読むとは実際は別な知識の取り入れかたなのだ。本に代わるものではなく本とは別な情報世界なのだ。もちろん今までのマスコミの新聞とかテレビとも違うのだ。このこと自体理解することがむずかしいのだ。本というのは一冊の完成されたものである。だから長編がある。長い物語として完結しているのだ。インタ−ネットはそうした古典的なものとは違う。インタ−ネットは即時の反応が大事なのだ。
文章を読むにしてもじっくり本を読むのではない、即時の反応が通信を生きたものにする。だからパソコン通信時代からレスがないものは意味のないものとされたのだ。今でもとんないい発言をしてもレスをつかないものは2ちゃんねるなどでも意味なくされることが多いのだ。多くのレスがつく反応があるものは生きたものとなる。ホームページはこれはまた違ったものであるが基本的に即時のレスが通信の生命だった。それもリアルタイムで同時につながるから早いレスが望まれる。2ちゃんねるのスレッドが生きているのは次々にリアルタイムで実況中継のようにレスがつくときである。一分ごとではない、秒感覚でレスが連続してつくときスレッドが生きる。

これはニフティのパソコン通信とは違う、ニフティでは二日後とか三日後とかでも有効であった。会員数が少ないから同じ人が発言していたのだ。2ちゃんねるは膨大な数の人が次々に発言するから誰が発言しているかすらわからない世界である。これも一年くらい経験していてみないとわからないニフティ時代の通信とは違った世界であった。私の経験としてはかなり不満なものであった。つまりもっと詳しい内容のある議論とかレスはできないのだ。実はもっと専門の人がより深く議論を深める第二第三のスレッドをたてる。ヘッドライニュ−スとして読よ、次にそのニュ−スの真実をより深める、つまり私の時事問題の深層のようなものにすることが必要なのである。ただそこまでは関心がないし、上っ面の議論で終わりまた次々に話題が変わることが不満なのである。私のようなホームページのコンセプトとは違う世界である。

2ちゃんねるというのは確かにマスコミにはない新しい視点を生み出した。しかしそこにも限界がありまた新たなものの創造が望まれている。
なんらかの不満がみんな残る。やはり大衆的なものには限度がある。マスコミ批判はわかるがやはり一段高い所かの意見、視点が必要なのだ。それには関心がないとするとそこは低俗化になり腐敗して優れた人は離れてゆく。それはそれでいいというのもインタ−ネットである。

とにかくインタ−ネットはじっくり本のように何度も読むというより電気信号に反応するようにフラッシュのように脳細胞が反応せねばならない、だからこの世界は疲れるし中高年には向いていない、ただホームページは自分の思いのままに作れるからまた違ったものである。しかし基本的にインタ−ネットはメ−ルの世界でも早い反応が望まれる。即興的反応が望まれる。だから機敏さ要求されるからなかなかこの世界になじめない人がでてくる。将棋にしても15分以内とか相当な速さでじっくり考えていられないのだ。早指しが基本なのである。そしてホームページで報告するにしてもライブが基本なのだ。実況中継としての報告なのだ。だから俳句なんか向いている。これは即興的に作れるからだ。旅行してその現場からリアル感覚で報告する、それを見たり読んだりするのが基本である。それと自分はしていなかったが本当は個々の即興的に反応する世界だからたえずレスがないと生きてこない世界でもある。自分のホームページは一方的だったからそういう点でインタ−ネットを活かしたものではなかった。

なんであれインタ−ネットは瞬間的反応するものであり脳細胞のニュ−ロンのように反応し結びつき増殖する世界なのだ。このコンセプトを理解していないものはインタ−ネットを活かせないのだ。いづれにしろ新しい技術が生まれた時、人間はそれに追いつけなくなる。技術がどんどん先に進みそれに順応できなくなる。そのいい例が以前としてインタ−ネットを本のように新聞のようにテレビのように考えていることにある。前からあったもので考えざるをえないからだ。でもそもそも本を電子本にしたり電子の新聞にしたりとすることをしているがインタ−ネットの情報環境はそれとも違うのだ。そういう今までの概念で対処しているとうまくいかない、だから電子本というのも余り売れていないというのもそのためかもしれない、インタ−ネットは本ではないからだ。

ギリシャ神話の「アリアドネの糸玉」に擬えれば,歴史の大転換期に「生」を受けた者は,糸玉を解きながら,歴史の大転換期という「迷宮」を進み,糸玉を手繰り寄せながら,無事に未来への出口ヘと脱出しなければならない。それが歴史の大転換期に「生」を受けた者の使命なのである。

http://www.yuhikaku.co.jp/

トピックス→財政学江戸時代、

まさにインタ−ネットはこれなのだ。糸玉を手操り寄せながら組み立てているのだ。知識はものすごい広大な者でありこれを一人で操ることなどできないのだ。だからインタ−ネットは一人でやっていてもこのようにたえず検索し引用しリンクしあるいはコピ−することが頻繁になる。そこが一冊のまるで石碑のようにできあがった完成した変わらない本とは根本的に違うのであるがその意識を変えることがむずかしいのだ。


国境意識
(キ−ワ−ドから探るインターネット)

大陸の国境

万里の長城は延々とつづく
これは何なのだ
砂漠の果てまでつづいている
中国三千の歴史は国境作る
それは大地を区切り囲い込み
国家を作り守ろうとする執念
日本は海が国境でそれがない
大陸の国境は作られ死守されねばならぬ
国境を守るための戦いは繰り返される
国境には多大の犠牲が払われた
日本の歴史にその労苦はない
海が自然の防壁となり国境となる
それ故日本の防衛意識は薄い
国境を死守せねば国は攻められ蹂躙される
その恐怖があの万里の長城を作った


この西の果て「嘉峪関」(かよくかん)までつづいている。砂漠の中にその防塁が残っている。なぜかあそこに魏の国の遺跡があった。中国の歴史はあまりに大きすぎてわからない、あそこからは中国ではなくなるし遊牧民が攻め入った所だった。中国の歴史はモンゴルなどととの攻防の歴史だった。最初の国家自体、始皇帝自体が遊牧民の子孫とか言われるのもそのためである。つまり国家とは他国との攻防のなかに作られたのである。それが国境なのだ。

だから大陸では国境の意味は大きい、つまりその国境をめぐり多大の犠牲が払われたからだ。国境は自然が山や川があって国境になったとしても絶えず他国の侵入があるから人為的に守り作られてきたのである。日本にはこうした国境意識が希薄である。だから北方領土とか尖閣諸島など国境意識がないしそれを守ろうとする意識も薄い、大陸では国境を守ろうとする意識が歴史の中で培われてきた。島が一つの海に守られた国となると島には国境意識は醸成されない、ここがオレのシマだというときそれは動物の縄張りであり大きな国の国境を守る意識とは違う、非常に狭い範囲の縄張り意識なのだ。だから日本が大陸に侵攻するのはあまりにも無謀なことだった。中国のような大きな領土を守り国境を死守してきた歴史さえない国が大陸を支配しようとするのは無理だったのだ。

http://www.panda-style.com/dest/2002b/jiayuguan.html

日本は島国であり一般人には国内にいて漁師を除き国境を意識する人は殆ど無いと思う日本人は国外に出るには船・飛行機でしか手段が無いので「外国に来た」と感じても「国境を越えた」とは感じない。これは他の陸続きの国民と比べたら国意識がかなり違ってくると思う。

冷戦の緊張時には国境中立地帯を挟んで軍隊が睨めっこしている場所もあったのだ。現在でもそういう場所はある。朝鮮半島の板門店38度線、インド・パキスタンが良い例 国境間には地雷原があったりする。

そおいった場所には必ず政府機関の軍隊・警察が見回り警戒している国内で分かりやすい場所は大使館・米軍基地、あそこは敷地の内と外でハッキリと日本・外国と分かれている。侵犯した時点で日本の法律が効かない≪治外法権≫だ。

もし日本が陸続きであれば危機意識はかなり高かったろう、
外国に歩いていけるのだからその逆の外国から国内に侵入してくる事も可能なのだから・・・
まさに戦国時代のようにピリピリした状態が出来るのだからかなり違った
外国で普段感じない「日本人だ」という国民意識が出来たと思う。


国境意識というキ−ワ−ドが浮かんだのは自分自身が万里の長城から国境を考えたから国境意識というキ−ワ−ドが浮かんだ。インターネットは自分自身の思考を基にしているから何かそうした問題意識をもたない人は調べようがない、確かに国境と入れる人はあるかもしれないが国境意識というキ−ワ−ドはその人が関心がないと思い浮かばない、不思議なことにここに漁師意外は国境を意識しないというのは私も思った。現実漁師はだ捕されて北朝鮮やロシアにつかまった。とにかくこのように同じことを思った人がいる。つまりインターネット意識の共有というのがあるのだ。共通の認識の確認があるのだ。いづれにしろ尖閣諸島などどこにあるかわからない島に関心を持つ人は一般的にいないのだ。勿来は来るなかれで蝦夷が大和から来るものを攻めて来るものを来る勿れと意識した国境だった。万里の長城も来る勿れと意識した国境だった。封建時代は関所がいたるところにあり国境があったから国境のなんたるかを今より肌身で知っていた。日本人はそうした国境意識や防衛意識が薄いから簡単に他国に攻め込まれても不思議でなかったのだが島国で海に守られて安全だったのである。

スイスの国境意識について書いていた人がいた。この人は住んでいるから特にくわしい。言語がドイツ語とかフランス語とか三つくらい使うが言語が違ったから国境を意識するわけではないという。昔から住んだ土地が最初に意識される。スイスでは言葉が違ったから別な国という意識はないのだ。言葉の違いが国を分けるのではないというのも日本人からすると理解できないだろう。島国思考の日本と大陸思考のヨ−ロッパ人とは違うのだ。そして何より詳しかったのは産経新聞の国境は守られているかのデ−タ−ベ−スだった。稚内とか根室ではカニ漁でロシア人が大儲けして繁盛しているという。稚内にはロシア語の看板があったからそういうことだったかと思った。ロシアとサハリンに定期航路ができるらしい。与那国島では緊急の時、ヘリを飛ばすのだがいちいち台湾に連絡せねばならぬという。領空圏があるからそうなっているのだが与那国島がこれでも国境の島だということがわかる。台湾の密貿易が一時盛んでその時は一万以上の人が住んでいた。今は2千だから淋しい。島というのは貿易でしか栄える道がないのだ。新聞のこうしたデ−タ−ベ−スは役に立つ、有料の記事検索も役に立つかもしれない、他に尖閣諸島や竹島問題や対馬など国境は海で意識されるのが日本なのだ。陸では意識されないから関心が薄いのである。ただボ−ダレスの社会、IT社会がどういう影響を及ぼすのかわからない、言葉が障害になって外国の情報はまだまだ身近ではない、なんらかやはり何が重要なのか知らせる人が必要なのだ。



国境意識というキ−ワ−ドでABCというそれぞれの人間の見解がある。スイスの国境意識について書いていた人もいる。スイスでは言語でもなく昔から住んだ地域に第一の国境意識がある。「国境意識」というキ−ワ−ドで一つの見解をまとめることがインターネットでできるのだ。ただ著作権の問題があるがこういう調べかたにインターネットは向いている。これはインターネット的利用の仕方である。つまりインターネットは漠然とキ−ワ−ドを入れてもでてこないしうまく利用できないのだ。本の読み方とインターネットの読み方は違うからだ。
こういうふうに読むのも一つの利用の仕方である。確かにカテゴリ−ごとに俳句なら俳句を読むのもいいがこれもいいものがあるわけでないし選別されていない、このキ−ワ−ドから調べて自分なりに選別すればインターネットの利用が有効になる。

中国嘉峪関
http://www.panda-style.com/dest/2002b/jiayuguan.html

産経新聞(国境は守られているか)
http://www.aliceinwonderland.com/library/japanese_files/boundaries.html
   スイス報告
   http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/miya/bienne.html




バ-チャルなインタ-ネットの旅の発見

ビデオでとったものを調べていたら思い出して歴史をたどってみたらどういうわけか枚方市がでてきた。そこは江戸時代に淀川の舟運で栄えていた。それがなぜわからなくなったかというと新幹線で行ったら東京と大阪間でありその間がぬけているからだ。そこは京都から大阪まで普通の電車で行く必要があった。京都-大阪間は欠落しているのだ。今はこういうことがよくある。川が重要な交通路であったことが全くわからなくなっている。だから旅がつまらないものになっている。東京から大阪まで新幹線で通過しても何も面白いことはないのだ。何も知ることも見ることすらできないのだ。

今はインタ-ネットでバ-チャルな旅をした方が歴史がわかる。地図も必ずでているしそれぞれの市とかいろいろな歴史をリンクでたどるのだ。そうすると地理的にも歴史的にも一つのつながりがでてくる。これは新しいインタ-ネットの利用の仕方だ。日本だとだいたい歴史でも地理でもそれなりにわかるので想像がつく、これがもっと情報が郷土誌が詳しくでていればもっとバ-チャルな詳しい旅をすることができる。つまりその角を曲がったら何々の地蔵がありそれはなんの謂われでできたとか説明があれば興味が尽きない、そういう細かいことは旅してもわからないからだ。

油地蔵というのがあった。油にまつわることが多いのに驚いた。大阪近辺に多い。こうした地理と歴史とか文学でもリンクしてたどってゆくこと一つのバ-チャルな旅ができるのだ。新しい郷土誌発見である。これが本になるとこういうことはできない、そんなに買うこともできないし調べることができないのだ。図書館だって調べるのはむずかしい、こうしてパソコンのネットで調べるのが一番便利である。とにかくこのバ-チャルな旅の経験はかなり知的に刺激がありこれは子供の勉強にもいいしインタ-ネットで活かされるべきである。インタ-ネットのいい点は様々な知識、情報を組み合わせリンクをたどり知識を広げていけることなのだ。これもビデオとか地図とか写真とかマルチメデアで広げるとこれは明らかに歴史が非常に面白いものになる。日本であれば全国が一つにつなげる。歴史はつながっている。日本は一つの脳のように脳細胞のように結びついてくる。日本の地理と歴史が一つの脳のなかで結びつき活きてくるのだ。これは新しい知的体験だ。インタ-ネットによる新しい学問分野だ。

遠くに行くとき新幹線で行くのと急行で行くのと普通列車で行くのとさらに自動車で、バイクで自転車で歩きで行くのでは違ってくる。見える風景が違ってくる。インタ-ネットでは詳細な点と点を結びつけるのに向いている。点と点を結びつけて線にするのである。旅することは実は時間軸としての歴史がかかせない、過去をたどることがかかせない、これが現代ではわからないのだ。この時間軸と同時に空間軸、地理を知って地理と合わせて全体を一つの世界として知ることができる。日本だとバ-チャルな旅でもかえって詳しくリンクしてたどっていけばわかりやすくなる。たいがい私の場合はその地を踏んでいるから想像できる。インタ-ネットで便利なのは地図がでていることである。それも詳細なその土地の歴史地図がでていることである。どんな神社があってその謂われがのっていたりとこの地図が意外と大事である。ある地点の詳しい地図は市販の地図にはのせられないのだ。またわかりにくいのだ。これはかなり重宝するのである。バ-チャルになるには地図とか写真とかその他イラストとか絵とかさらにビデオとかこたうした目で確認できるものが不可欠でありこれがインタ-ネットでやりやすいことが強みである。いづれにしろこれからの学習方法自体がかなり変わってくる。本というのも一冊を読むというより調べる場合は何十冊何百冊の本の中の関連するものをたどりそれらを関連づけると一つの世界ができあがる。それで論文もできる。だから本をテキスト化してその文章を検索するやり方を取り入れたアメリカの方式はインタ-ネットに向いているわけである。



インタ-ネットはこの詳細な点と点を結びつける。マスメデアは大きな面でありこうした個々の点と点の情報は欠落しているのだ。新幹線的情報であり間がぬけている。、細かいプロセスがぬけている。情報の質が違うのだ。インタ-ネットはミクロメデアとなるかしれない、小さい点を分子を結びつけて一つの情報世界を作ってゆくのである。





インタ-ネットの不思議
(通信販売や魔術的錬金術的情報世界)

今インタ-ネットで起きていることは不思議なことである。通信販売というのも不思議なのものである。注文してボタンを押せば品物が届いている。相手は誰かわからない、近くの電器店では説明してくれたのがおばさんで娘もデジカメ使っていますよ・・・とか話すとこの人娘を持っている女性で働いている。田舎であれば近くの漁師の家の女性が石鰈など売りにくるが同級生だから買うとか地縁、血縁とかのつながりがあり商売もそうした地縁とか血縁とかなんらかの人間的関係で成り立つ傾向がある。ある人が言うには田舎じゃ一カ所の店にだけ行けないんだよみんな見ているから公平によその店にも行かなきゃならないから自由がないとか言っていた。地縁血縁から離れないと商売はできないことがある。無縁の場所、神社などが商売のやりとりに使われたとか、一旦無縁の場所がないと商売がなりたたないとかというのは本当だろう。というのは昔の村だったらもっと濃厚な人間関係にあったから今のような商売だけに割り切ることなどできないのだ。村とか小さな町では商売してもうけたりするとうとまれる。村で炭焼きして町に炭を売りしてもうけたりしてもその人は村人からねたまれたりうとまれる。田舎に呉服を売りに来た人はその村の娘と仲よくなり結婚するかというとならない、村はよそ者の入りにくい所だった。都会は商売のしやすい所だった。しかしここでさえ人間が生身の人間が売りにきていたのだから人間的になる。

でもインタ-ネットの通信販売はその人さえ見えない、買ったからといって喜んでいる顔も見えないし買ってありがとうとかもない、ただ品物が来るだけである。それはある意味で今までにない魔術的世界の中にある。技術そのものが錬金術のように魔術的要素が常にあったのだ。科学の発見もそうである。科学者が現代の呪術師とか魔術師になっている。科学者が現代の司祭になっていることでもわかる。科学が全能の神のように思っている、現代起きていることの不思議はインタ-ネットのチャットで子供が殺人を犯したということなどこれも不可解な事件である。インタ-ネットが関係していたのか因果関係はわからないが現代の環境がそうしたのか不明だが理解できないことが常に起きてくる。この場合は相手が知っている仲良しなのだから匿名でやりとりして問題を起こすインタ-ネットとは違う。でも悪口を言いやすいということは関係していたのかもしれない、未熟な人にとってインタ-ネットは危険性があることは確かである。この道具の使い方がわからないのだ。2ちゃんねるでソフトを使わないで二年間もやっていてうまくいかなかったように使い方がわからないといつまでも不便のままだったり問題を起こすのである。ニフティでは一つの親密なコミニュティ感覚があり必ず親切に教える人がいたのである。インタ-ネットではいないのだ。案内する人もいないのだ。だからかえって自由な発言の場になっている。ニフティではちょっとしたことでいさかいとなりその場にいづらくなるから論争するには向いていなかったのだ。一カ所だけ思想の場だけ自由な発言が許されているから裁判ざたにまでなった。思想の場そうなりやすいから怖いのだ。

マスコミの報道は一方的に報道され一方的に聞いて見ているだけでありそれに反論したり疑問をさしはさんだりすることもできなかった。インタ-ネットは逆に絶えざる反論や議論の応酬なのだ。ただ深く議論の応酬する場は少ないし人も少ない、でも絶えず批判と議論と罵倒の応酬なのだ。そして相手は誰か姿も見えないのである。それでもやはり何か重要なことが語られそれなりに知的に情報的に刺激を受けて世の中の動きがここにも反映されているのだ。ただこれを理解することは非常にむずかしい世界である。2ちゃんねるがその象徴であった。そこに語られていることはまさにカオスである。様々な問題が絶え間なく語られ消えてゆく、それでもその中に生の人間の生きた声があるのだ。これを読み取ることもむずかしいが貴重な体験談がでてくるときがある。


今は飯食わなくなったんやのう。
昔の山林作業では、五合入る弁当が当たり前だったが。
後川船を上流まで曳く人は、一日一升食ってたがなあ



この発言の驚きは実際に船を引いて経験のある人がいたことである。
土方弁当とか今の厚さが倍もある大きな弁当だった。「船引」という地名が多いが船を引いて生活していた人がかなりいた。川の交通として船が使われていたからだ。農家の人が手間賃稼ぎにやっていたのだ。これは短い発言なのだがここに体験の重みがある。こんな人本当にいかのかという驚きだった。ただこれはレスもないし誰かその後はわからない、もしもっとこの人のことが聞ければ実感として船引の地名の意味がわかるのだ。インタ-ネットはこういう体験談がでている、これが貴重なのである。ただこれもなかなかわからないから困るのだ。2ちゃんねるは読みやすいからさ-と読んでいる。でもこうした年配の人の体験談はほとんどでてこない、これが問題なのだ。

他にも様々な話がある、モンゴルの話では犬が糞を食うというから驚きだ。草原には糞が多いというのも確かだろう。糞が燃料になったりもししている。糞転がしなどもいたりインドでも牛の糞は家の材料になったり燃料になったりと利用されている。向こうにはまだ野犬などいるから怖い。犬といえば古代の研究していたら古代の日本の最も古い郡とか郷をのせた記録に「辛犬郷」というのがあった。これは武蔵国だから関東である。ここにはかなりの渡来人が入ってきて開拓した。その頃は確かに犬まで俺は韓(から)の犬だよ、日本人じゃない、韓(から)の犬だよ、ワンワン、オレは韓の犬だから韓国語で吠えるんだ、日本語じゃない・・・・・」今も在日がうるさいがその当時は韓の国の影響は大きかった。だから犬まで韓(から)の犬だったのだ。そもそも辛犬(からいぬ)郷というのがあること自体不思議である。そんな名前をなぜつけるのか?犬まで韓人(からひと)であることを主張するためなのかわからないがあったのだ。犬の話にしてもこうして様々な情報が飛び交うのである。なぜこれを書いたかというと在日対する批判が毎日のように2ちゃんねるでは流れている。東北では在日は少ないしほとんど知らない、でも大坂辺りでは多いからそれが常に話題となっていることに気付いたのだ。ニフティで裁判ざたになったのも在日の人だったのだ。在日は現実生活でも常に話題になるのである。

いづれにしろインタ-ネットは様々な多様な情報が入り交じり展開しているからこれを理解することは大変である。マスコミとか今までの情報環境と違うから前にもインタ-ネットの読書の不思議で何度も書いたように不思議な世界なのである。絶版された本がでていたり今までに流せない情報がカオスとなって流れだしているからこれをくみとることはむずかしい作業なのだ。今回の小学生の事件もチャットのなかで未熟であるから過剰に反応したのかもしれない、そういうことを経験している人が多いが大人だったらそこまでやる人はいない、ただ少数でも仲間うちでも公表されることは名誉棄損になるから何かインタ-ネットのチャットが契機となったのかもしれない、子供は感情の世界に生きている。表情でのコミニケ-ションの方が大きい。文字だけのコミニケ-ションとなると問題が起きることはありえる。大人になると文字だけでもかなり読み込んで発言しているが子供にはそれができなかったかもしれない、文字だけのコミニケ-ションはかなり高等なことである。若い人がそれを簡単にやっているのはやはり感性が鋭い違うからである。ともかくこの世界は今までにない不思議な世界を魔術的世界を生み出しているからだ。しかし技術は歴史的にも錬金術的なものがありまさにこのインタ-ネットは錬金術的魔法を生み出す情報環境でもあるのだ。今までにふれ得ない情報にふれえるからだ。この情報のカオスから錬金術的に黄金をとりだすこともできるがそれはかなり熟達しないとむずかいしということである。



ネットワ-キングと使用価値
(NHK景気回復は本物かを見て)


NHKの特集の「景気回復は本物かは」面白かった。現代の経済事情がわかりやすく説明されていた。中国特需は鉄鉱石の不足となり値段が上がり呉市の造船業では注文があっても船を作ることができない、中国の影響は世界の資源まで食いつくすほど大きなもんだいになる。一方地元では一向に景気が良くなっていると思っていない、というのは正社員の採用が増えていない、コストをおさえるために期間工を採用していたのだ。期間工であれパ-トタイマ-であれフリ-タ-も含めると2千万くらいが正社員ではない、コストがかかるからフリ-タ-も今や選んでいるのではなく社会的にそうさせられているのだ。フリ-タ-が400万とかいうようなのは異常である。昔は自由業目指すのは自分の才能を伸ばしたい人が多かったのだ。それなりになんらか才能があった人なのだ。第一そういう人は極端に少ないしアウトサイイダ-的存在であった。要するに変人とか奇人の類でありこれは数にすれば極端に少ないものだった。今問題なのは数が多すぎることなのだ。昔だったらこうした社会からはずれた人は極端に少ないから社会的な問題にならなかった。社会からはずれたような芸術家志向のような人はそもそも極端に少ないものだしそれが社会的には正常なのである。

中小企業は大企業の下請けとしてのネットとして存在していた。しかし今別なネットを構築せねばならない、もう一つは新しい使用価値の創造なのである。研磨塗装業者がcdの傷を磨きとりさる仕事とか技術を別な所に使用価値を見いだすことが必要になっている。情報とかもネットワ-クキングが大事なのだ。学問もネットワ-キングされると生きてくる。地名とか地方史で書いたように知のネットワ-キングが必要である。中小企業でも物作りの新たなネットワ-キングが必要になっている。もう一つは物を作っても使用価値を見いださないとあらゆるものが活かされない、使用価値は眠っているし見いだされないのだ。私もこの同じ故郷の土地に住んでいてそこはそんなにいいところではない、平凡なありふれたところだと思っていた。でも今年の夏はそこから蔵王が見えたのだ。蔵王は普通この辺から見えない、なぜ八沢浦から見えたのか不思議である。前に雪の蔵王がわずかに見えた。今回はかなり大きく見えたことである。これに気付いている人は少ないし感動したのは自分一人だけかもしれない、芸術家はその土地の景観のまだ知られていない魅力を見いだす、画家が描いたのを見たらあれここがこんなふうに見えるのかと不思議に思うことがある。画家の目で見た時別なふうに見える。普通の人には見えないものが見えるのだ。これはあらゆる分野に言えることである。最近の私の万葉の陸奥の真野の草原(カヤハラ)が本当に萱原なのかという疑問もそうだった。これまで誰も疑問をさしはさまない、規定のことだった。だからやたら萱原を宣伝していたのも奇妙である。ともかく世の中こういうことが多いのだ。

ネットワ-キングと使用価値は社会にとって一番重要なことなのだ。ネットワ-キングと使用価値がなければなんであれ活かされないのだ。道具を作っても使用価値がなければ活かされない、インタ-ネットもそうである。これこそまさに各自の使用価値にかかっている。使用価値が見いだされなければなんの効力も発揮できない、インタ-ネットこそネットワ-キングと使用価値の世界でありそれなくして何の価値もない、インタ-ネットのなかに知識が情報が結ばれ使用されるとき価値を帯びてくる。また編集するとき価値を帯びてくる。この作業がなければインタ-ネットは活きてこない、トヨタの向上で事故で死んだ人がいたが私のホ-ムペ-ジに来た人を逆探知したら期間工の人が会話している掲示板があった。かなり奴隷的仕事で嫌気がさしている。あそこで働いている人は社会の底辺層で話は競馬の話だけだとか言っていたけど本当である。異常なほど競馬狂の人間が多い。あれしか生きがいがないかというくらい競馬狂なのだ。仕事はロボットとと変わらない、仕事というときあういうロボット的な仕事が多いのだ。パ-トタイマ-、フリ-タ-、期間工、・・・これらは負け組でありそれと一部の高収入の技術者とか成功者が勝ち組にわかれたのが現代である。景気がいいとししても社会構造が昔と違い勝ち組と負け組に別れる仕組みになってしまった。牛丼がなくなると大騒ぎするものがいたり一カ月一万で生活するにはとかのテレビの番組がそれを象徴している。一方それなりに高級品を消費できるクラスがいる。社会がすでに階層分化してしまっているのだ。フリ-タ-だから負け組の下の階層化してしまった人達だった。昔の自由業を目指す芸術家といったものとは全然違う、負け組にされた人達である。そもそもそんなに人間、才能を持った人や芸術志向の人がいるのは異常である。そういう人は極端に少数であるのが普通だからだ。

いづれにしろ現代の不況の再生が地域の特質を活かすということ、それはちょうど私が江戸時代をふりかえるで書いた地域のブランドの復活になるがこれを作ることは非常にむずかしい。そのブランド品は何なのかそれは必ずしも物に限定されないし今になるとわかりにくい、ただ私が見いだしたようにその土地のことを知らない人は多いのだ。ええ、そんなものが何の価値があるとなるようなものとなる。現代とは全国のネットに出品してつまらないものが価値を帯びて高くなったり何か今までとは違う価値観の世界が生まれている。価値観は常に変わることなのだ。物はあふれているからどうしても知識とか情報とかセンスとかそうした物だけではない精神的なものの使用価値も増大してくるのだ。インタ-ネットだとそうした情報とか芸術的なものとかは発信しやすい、一方それを地域の活性化にどう結びつけるかはそれぞれの智恵である。

夏の日に蔵王を仰ぐ八沢浦その山迫り雄々しきかも


今日の一句一首へ



メデアによって変わる社会(ラジオからテレビへ)

現代社会はメデアと不可分に密接に結びついた社会である。江戸時代までは明治、戦前でもメデアは活字メデアでありその影響は伝統的メデアのなかに存在した。そのメデアの大きな変化の最初はラジオから始まったのだ。そのラジオすら戦前は普及していなかった。玉音放送というのが全国民に戦争の終わりを告げるものだった。ラジオの前で天皇の御言葉を礼して聞き入ったのである。ラジオが日本人に入って来たのは大正以後であり思った以上遅いしラジオすらかなり高価なものであったのだ。戦争に突入するころになるとラジオは政府の報道機関としての役目のために使われた。

この催しは、これより早く突破した加入(聴取)者数は百万人を目指したものだった。同年六月一日から七月二十日までの間に、ラジオを購入した人を対象にしたものだった。
 購入した人たちを招待した「謝恩愛国の夕べ」当日には、歌手淡谷のり子が出演している。
 またこの年、電気普及会受信機普及関東委員会という組織が、皇紀二千六百年
(昭和十五年=一九四〇年、同年十一月に全国で式典が開かれた)までに「聴取者五百万達成を目標に取り組む」運動を展開している。

ある人は、「昭和十八年には村には一、二軒がラジオを持っていた。そのうちの一軒で、玉音放送を聴いた」と、話している


原町市には関東大震災を一早く伝えたというコンクリ-トの丈夫な無線塔があって有名で原町市の象徴のようになっていた。なぜあれがあそこに作られたのか、塔はエッフェル塔でもラジオ放送の電波を流すためのものだった。鉄塔ではなくコンクリ-トだったというのは技術的に鉄塔はむずかしかったのか頑丈に作ったのは簡単に壊されないためのものでもあった。事実は戦争中無線塔は攻撃されてその弾痕の跡が残っていた。通信網をたつのが戦争でもある。

ラジオが本格的になったのは戦後である。私の子供時代はラジオ時代だった。ラジオ体操やらラジオの音楽放送やらラジオの英会話の勉強とかラジオ全盛時代だった。ラジオはその頃簡単に作れる時代だったので鉱石ラジオとかラジオ作りは今のパソコン自作のようなマニアがしていた。夕食時はラジオから浪花節が流れキセルをふかし味噌を魚にして日本酒を父は飲んでいた。その酒は近くの酒屋の樽から私が子供の頃買わせられてきたものだった。日本は戦後十年はせいぜいラジオを聞くくらいしか娯楽もなかったのである。非常に貧しい時代だった。飯台一つが家族団欒の時だった。電球は裸電球で電化製品は何もなかったのである。

ラジオの特徴は何かというとテレビとかなり違う、「
耳は中立的な目に比べると感覚過敏である。耳は狭量で、閉鎖的で、排他的である」(マクルハ-ン)これも独特の意見である。なぜそうなのかというと耳は虫の音を聞くときでも耳をこらしてその音だけに注意を向けねばならぬ。他の雑音を遮断する必要があるからだ。だから昔の人ぬ江戸時代の人などは耳の人だったし聖人とは耳と口に王とあり耳と口の人であり口とはしゃべることではない、沈黙を守る、言葉で心を汚さない人のことである。江戸時代までは沈黙社会だからそうなったのだ。芭蕉の句の「やがて死ね景色は見えず蝉の声」もそうである。景色は眼からの視界は消えて蝉の声だけを聞いているのだ。それは雑多な視界が消えて蝉の声だを聞くという排他的なものでもある。keep out and keep in の世界である。

思い出としてはスチブ-ソンの「宝島」の放送のときびっこの海賊の杖をつく音に耳をこらしていた。それはかなりスリリングなことだった。姿がみえないからかえって恐怖を増すということがある。想像力がかきたてられるのだ。ラジオの方が想像力が養われる。テレビはすべてを出しすぎるのだ。想像する余地がなくなってしまうのである。ただテレビに関して一方「
眼は開放的で、中立的で、連帯的である。」とマクルハ-ンが言っている。

これもわかりにくいことだが例えはオリンピックがこんなに世界的イベントとなったのも興奮を共有するようになったのもテレビの結果であり近代オリンピックは東京オリンピックから始まったというのはその時どこでもカラ-テレビを買う普及した時代と一致しているのだ。オリンピックが世界的になったのはテレビが世界に普及したからである。今では世界中どこでもテレビを見ているからこれほどオリンピックに熱中するのでありテレビというメデアがオリンピックを普及させたのだ。今回のギリシャでは観客はどこもがらがらだった。しかし現地で見る人がいなくてもテレビで世界中かが見ているからオリンピックは商業的に成り立つのである。アメリカでは放映権を800億円も払っているからだ。メデアの影響はこのように非常に大きいものなのだ。20世紀がメデアの時代だったというのはそのためである。メデアによって戦争も大規模化したりナチスが生まれたりした原因になったとか東ドイツが西の放送を聞いて共産主義が崩壊したとかメデアは社会を支配する。その例がテレビによるマスコミによる支配があったということでもわかる。テレビの影響がいかに多いか、何百万人の人がお茶の間でテレビを注視しているということの影響は計り知れないのだ。オリンピックはそれも世界中の人がそうして注目しているからオリンピックが成り立つのである。金メダルもだから特別価値あるものとなったのだ。

ではインタ-ネットというメデアはどうなのか?これは今進行中だからわからない、私自身のホ-ムペ-ジもインタ-ネットを通じて出しているものであり一つの今までにない新しいメデアによる表現なのだ。他のホ-ムペ-ジやプログや掲示板もそうである。これが何なのかここに直接かかわらない人はわかりにくいのだ。マクルハ-ンの言っているク-ルとかホットは理解できない、今までのメデア(活字)は「
深層的でなく断片的であり制作志向者ではなく消費者指向型」だと言っているがこれは逆である。テレビの方が断片的であり消費者指向型である。深層的なものはない、マクルハ-ンの本はむずかしい、まだ今日のようなメデアの過剰世界以前の人のものが書いたものでわかりにくいのだ。一種の予言的なものだから今それが現実となった世界では解釈が違ってくる。インタ-ネットもものすごい断片の集まりである。しかしインタ-ネットのホ-ムペ-ジは自分の時事問題の深層のように深層的であり制作志向者型である。常に自ら編集して制作するというのが自分のホ-ムペ-ジだった。本もそうだったしテレビにはそうしたものはない、テレビの番組などマスコミしか制作できないのだから大衆消費的番組である。いづれにしろ現代はメデアというのがこれほど大きな社会の問題となった時代はない、メデアによって変わる社会なのである。



 現代の妖怪(メデアが育む妖怪)

ぼくには見える地球上の名もない石造りの建物が・・・・世に知られぬ事件、英雄、記録の神々しい伝言が・・・・ホイットマン(草の葉)

現代は妖怪とか幽霊とか魔物化け物とか妖精とかこういった非科学的なものを否定する心で一杯である。現代人は科学的で合理的で理性を重んじる人間を模範としている。しかし皮肉なことにこれとは逆な現象が起きているのが現代である。つまり妖怪が幽霊がいたるところに跋扈するようになったのも現代である。ナチスも現代が作り出した妖怪の代表だった。江戸時代くらいまでは人間の生活する範囲は限られていた。城を中心として村単位で生活していた。その生活はあらゆる面で有機的に関連していた。物も人間も自然もあらゆるものが一つの小宇宙として心に刻まれていた。モノはモノがつくとか物は心も意味していた。モノと心と切り離されたものではなかった。万葉以前は我という意識すら持ちえなかった。われとは割れるからきた言葉で我は部族のなかで存在しえない言葉であった。キミは部族の長だから我が存在しなくても存在した。個というものを認識できなかったのだ。身も心も部族は一体のものだった。ギリシャのポリスも強固な人間が一体化した共同体であり現代の東京都民などという化け物的巨大都市ではない。

こういう共同体の中で作り出される神とか妖怪とか魔物はまた違ったものである。人間は知られていない地には妖怪、魔物が棲むとして怖れた。妖怪とは人間の心の怖れなどから生み出されるもので外部になくても作り出されるわけである。悪いことした人は今でもこうしたものに悩まされる。地震雷火事親父と恐れたが雷は被害が少ないのに怖れられたのは得体がしれないからであったろう。水害の方が被害が大きいからだ。雷はまさに神が鳴るになっているからだ。江戸時代まで人間の認識範囲は非常に狭い範囲に限られていた。江戸のことにしても京のことも憧れの一生に一度行ければいい遠い夢の世界だったのだ。人間関係も村八分など極めて閉鎖的な世界だったのだ。私の町に残っている民話でどこからか来た得体の知れない麦つきを手伝った若者は巨大な大蛇として退治された。よそ者は異常なほど警戒されたし村はよそ者を恐れたのである。これは世界共通である。テレビでやっていたがある村ではよそ者が入ったらその足跡まで消して他者の侵入を恐れたのだ。

NHKの番組のラオスのモン族の話しは面白かった。半分しか見なかったが牛を追い少年が昔話、民話を糧に生きている。それを語ることが生きがいであり希望となっている。民話は一つは達成できない願望の代償でもあった。一寸法師は小さい体でも知恵を発揮して都に上り幸福になる。一寸法師とは日本人のことでもあった。山国育ちの世界を知らぬ思い上がり身のほど知らぬ日本人は世界にたたかれたのだ。こうしたことはラオスの山の中でも語られる。金銀を掘り当てる話しとか王様に認められて贅沢な暮しをする話とかがあくことなくかたられる。それは貧しい生活の中でのかなえることができない願望の代償なのだ。しかしその語りは学校で学ぶ語られるものとは違う、小さな村の共同体のなかですべてが現実の世界と結びついた実に生き生きとした世界の語りなのだ。今これは田舎でもできない、共同体は分解しているし共通の世界の物語を持つこと語ること自体ないのである。家というもの自体が核家族化して崩壊している。そもそも家が口承文化を伝える場所だった。ばあちゃんやじいちゃんが囲炉裏を囲んで語って伝えられたものである。聖書にしても家族の伝承だった。家族が基本にあったのだ。家族にはどんな家族でも物語があるものである。家族が歴史の基本なのだ。

口承文化の崩壊はまた人間存在そのもの危機でもあった。柳田国男が書かれた歴史より口碑を重んじた民俗学を目指した。口碑のなかに民衆の歴史、息ずかいを感じようとしたのある。書かれない言い伝いとか歴史はいくらでもある。地方にもどこにでもある。現代も書かれない歴史、忘れらる歴史はいくらでもある。確かにそれは誰か一個人でも語れば死者もその語られることにより生きることになる。日本の戦争の悲劇がなぜあのように無惨なものとなっているのかというと実際は語られないものとなっているからだ。もし悲劇であれ古代のように語られるものなら救われる面があるし後世への教訓となり戒めとなり言い伝えられる。それが植民地解放戦争とかなんとか現実味のない戦争の美化は納得できないのである。確かに神話はフィクションであっても何事か真実の反映であり事実の歴史である。タイタニックでみんなが感動したのは事実があっての物語だからだ。そこにフィクションであっても死を前にしての人間の美しい物語に昇華された。それに涙するのも単なるフィクションでないからである。神話であったらそういう若者は星になった。永遠に輝く星にしたいのが人間の情なのだ。歴史はヒストリー・・・ストリー(物語)なのだ。日本の戦争の悲劇はこの物語が与えられないことなのだ。最も悲惨なのはナチスの戦争であった。人はその前で言葉すら失う絶句するしかない現代文明の壊滅的姿を目の当たりにしたのだ。ここにはもはや物語りすらない語ることさえできない無惨な文明の破壊を見たのだ。原子爆弾も言葉を絶した終末的壊滅でその前に唖然としてしまい言葉を失う世界であった。ナチスという現代の妖怪がどうして生まれたのかそれは文明そのものから生まれた妖怪だったのだ。

子どもの後ろにはおじいちゃんやおばあちゃんたちも座っていて、「へぇー、あんなのがいるのかねぇ」とつぶやきつつ、みんな口をぽかんとあけて画面に見入っていました。ウルトラマンの画面の前では、お年寄りたちは語る言葉を急に失ってしまった・・パヌンのかぼちゃ畑

ウルトラマンをどう心の中で昇華していいかわからないしモン族の世界では語りえないものだったのだ。テレビがいかに人間の心を惑わすものかわかる。モン族や昔の人が見ていた感じたのは風の精とか森の精とか花の精とか自然の中に息ずく精霊のことでありテレビとかに出てくる妖怪、偶像ではない、それはテレビに映るものよりリアリティあるものなのだ。現代はテレビとかゲームとか映画にでてくる妖怪である。人間は今かつてないバーチャル空間に生きていて現実味を失い妖怪化幽霊化しているのだ。湾岸戦争もゲームのように行われたし人間の生々しい悲惨さはテレビでは伝わらないのだ。

現代はまさにこのブラウカンの妖怪に席巻された時代でもある。ナチスは現代の恐るべき妖怪だった。現代人はゴジラのような大都会のビルを踏みつぶすようなものを好むのか、それはゴジラが現代人の英雄であり現代人の持っている不満を解消する代償的英雄でもあるからだ。大都会の醜悪さにゴジラはマッチしているのだ。ナチスが出てきたのも上野氏がいうように文明とは切り離されない混乱と狂気的文明が生み出した妖怪なのだ。この妖怪はオウムの麻原となり池田大作となり訳のわからないミイラ教の髭モジャの妖怪を生み出す、テレビとかマスコミはこの妖怪を育て飼う場でもあるのだ。小泉首相もテレビを通じて一つのアイドル化して妖怪化してゆく面があった。

人間が「全国的に広告される」「商標になるのは普通のことである。」これは新しい種類の空虚さなのである。・・幻影の時代(D.J・ブーアスティン)

小泉首相もまさにたちまち空虚な存在になるのも早い。何故なら何かを成し遂げた英雄でもなんでもないからだ。現代文明は妖怪に席巻される十分な要件を備えている故、ブラウカンの妖怪にナチスのように席巻されることはまたありうる。文明から必然的にゴジラのような妖怪が生み出されるのだ。民衆の生み出した妖怪は一つの共同の文化の所産であり無益なものとはいえないが大衆の生み出した妖怪はナチスのような神の手からも制御できないような恐ろしいものだったのだ。口承文化が失われ若者は言葉を失った世界でギャング化し暴力的破壊的になるというのも本当だろう。ゴジラのように暴れだしてくる。こうした醜悪な文明に適合している人間が美しいものを生みだすことはない。イログロナンセンス週間誌的テレビの俗悪番組くらいになる。ということは現代文明はモン族より劣るともなりかねないのだ。しかしモン族を引き裂いたのはアメリカというゴジラとソ連というヒドラか大国のエゴであった。その狭間でモン族は引き裂かれた。モン族は漢族の支配から山に逃れ独自の文化を伝えようとしたが今や世界の紛争は国際化するからあんな山奥でも容赦なく紛争に巻き込まれたのである。



パヌンのかぼちゃ畑


現地でモン族の民話の保存をしている、モン族のお話が一杯、

語り部(べ)じいさんの住む山で 〜ラオス・ゲオバトゥ村
  • 再放送は...NHK総合テレビ金曜日午前10:30〜10:54
参考にした本

幻影の時代(マスコミが製造する事実)d.jブーアスティン


本が死ぬところ暴力が生まれる バリーサンダース
(電子メデア時代における人間性の崩壊)




インタ-ネットにはタコの頭が必要だ

読書論もきりがないが今もう一つの問題はインタ-ネットの読書である。これは何なのか人類が未だ経験していない情報環境だからどまどうのだ。前にも書いたが明らかに本を読むのとは違うのがインタ-ネットである。本というのは固定している、なんか碑文のようにさえ思えるしどっちかというと過去の人、死んだ人の本を読むことが多い。しかしインタ-ネットは現時点で生きている人のやりとりだからかなり違ったものなのだ。そしてみんな毎日その場から現在を発信してることも経験したことがない、インタ-ネットについてマクルハ-ンはある程度予見していたことに驚く、彼はメデアの予言者だった。文章は警句的に述べているのであり首尾一貫性はない、でもその警句が極めて予言的なのだ。

新しいメデアが登場してどれか一つの感覚を強めれば、社会全体に催眠術をかけることができる。

これなども本当にそうだった。最初ラジオで催眠術にかけられナチスの煽動に使われたのだ。テレビの影響も大きかった。老人は今もテレビを催眠術にかけられたように見つづけている。パソ通でも深夜まで大変な課金を払って夢中なっていた若者もそうであった。私の場合はニフティでやっていても実のところわからなかったからおかしなものになったのだ。それは全く新しいコミニケ-ションの方法であり今や若者全体が2ちゃんねるで催眠術にかかったように夢中になっている。

電気メデアはあらゆる人間が参加する相互関連の全体的な場を即座に作り出す

地球が電気メデアで一つの村落になるというのもそうである。ただ地球が一つの村落にはなりえない、確かに即時に今回のチェチェンのテロでは反応したしテレビを見て同時間に反応していることは確かである。でもその錯覚も大きいのだ。テレビからだけでは真実はわかりえようがないからだ。インタ-ネットの読書でも書いたがインタ-ネットは未だにその利用方法がわからないし各自違うものだろう。それほど多様だからだ。インタ-ネットをweb(蜘蛛の巣)としたが自分がかかわってみてインタ-ネットの情報収集はタコになることであった。多くの手足を吸盤を伸ばして様々なサイトにアクセスし情報を集め編集するタコの頭が必要だった。本を読むのとは違う体験だからとまどうのだ。タコのような柔軟性が必要なのだ。





情報環境の変化への対処
(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)


情報環境の変化に対処するのは実際大変な労力がいる。テレビから一方通行になれていたものにはとまどう。インタ-ネット時代になると情報のとり方が違ってくる。まず情報は自分から積極的にとりにいかないととれない、アクセスしないと検索しないとさらに自分なりに分析しな情報は活かせない、でも情報は元来一方的に流れてくるものではない、積極的に情報を得る努力をしなければならなかった。インタ-ネットの情報の特徴は個人を基点にしたベ−スにした情報なのだ。今まで個人を基点にした情報の発信はなかった。マスコミにより一方通行の情報発信であった。その他マスコミを通さないもの出版社を通さない情報は世間に出てこなかったのだ。その理由は商品価値がないからである。情報発信するのにコストがかかるからそれに見合うものがなければ発信できなかった。だから普通の個人が書く日記などなんの商品価値もないから出なかったのである。それがインタ-ネットでは個人を基点した情報発信なのだ。人間は無数の個の点としして存在している。その個が全体の中に組み入れられている。これまではこの個が集まったマスが全面にでてきて情報もそこから発信されたのだ。だからマスコミニケ−ションだった。では具体的にどう変わったかというと情報を(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)という作業をすることになる。そのまま受けとるのではなくいろんな所から集めて(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)ということが多くなるのだ。

例えば

3月11日大阪へ行った。町中を車で走って感ずるのは東京との違いである。東京では新しい高層ビルがあたかも雨後の筍のように増えている。私が住んでいる港区白金台はこの数年間に風景が一変した。目黒通りは高層ビルラッシュ。品川も同じである。(森田氏のホ-ムペ-ジ)

これは今東京は好景気になっている。東京だけが良くなっている。一方NHKのテレビでは大坂は中小企業の工場が多く失業率も高く都会の中心部でも落ち込んでいる。中国に工場が移動したりと大坂は悪く治安も悪化している。泥棒やひったくりなどがふえている。そしてこれもNHKの取材で五所川原市から名古屋のトヨタの工場の寮に入り季節労働者になる若者がいた。それも大学を出て職につけない若者だった。青森は一番経済的にも衰退している。個人の自己破産が3700件もあった。ごしょかわらからは津軽鉄道がでていた。それが一両根雪のなかにとまっていたことが印象深かった。五能線は一日一回で途中下車できないものとなっている。だから青森は遠い日本の果てだと思った。そして津軽から黒石⇒小国の温川(ぬるかわ)温泉に行ったが雪にうもれていたて本当に隠れ里になっていて旅としては良かった。しかし現実経済問題としては東京と地方の格差は大きくなっている。また一方で日本の中流層が崩壊して金持ちと貧乏人とに分化しつつある。フリ−タ−というのが10年前くらいまでは自由でありたいからフリ−タ−になっていた。今でもそうなのかと思ったが実際は今やフリ−タ−にさせられているのが現実なのだ。正社員になれないのである。会社でもフリ−タ−の方が簡単にやめさせられるからと都合がいいからつかっている。そして牛丼で節約する層と金持ちの層に分化している階級化している。アメリカではこの金持ちと貧困層との差が極端でありある街では金持ちと貧困層の黒人が一緒に街にすめないという所まで悪化した街をNHKで放送していた。それで面白かったのはアメリカのラスベカズのカジノの話である。

ネコマシン(5セント)の前には年輩のご婦人方が大勢居ました。
聞くところによると、ツアーバスがあるとのこと、日頃 5セントを溜めて置き、お弁当を持参で仲間と誘い合わせて来るとのこと。“それを楽しみに 5セントを集めているのよ”と聞いてラスベガスを見直した想いがしました。
日本では10円玉を集めてもパチンコは出来ませんよね

テクノクリエート コラム(ごきぶり日記)

http://www.techno-create.com/topics2/topic262.htm

これにアメリカが象徴されていないか、4パ−センとの金持ちがアメリカの冨のほとんどをしめているとかラスベガスでも大金持ちは億の金をかけて遊んでいるかもしれない、一方でこうした小銭で賭を楽しんでいる層もいた。アメリカは戦争をする、それは何パ−セントかの金持ちのためかもしれない、彼らは戦争も賭なのかもしれない、死ぬのは上に上がりたい移民の若者が多いというからだ。そういう人たちを犠牲にしても成り立つ社会がアメリカなのである。そういう国の成り立ちなのだ。一攫千金を夢見て移民してきた人たちでもあったのだ。日本など他の国にしても国の成り立ちが違うからそういうことが許される社会なのである。日本もアメリカをまねているとそうなるし小泉首相の改革とはさらなるアメリカであり地方とか弱者切り捨てにあるという。だから東京一極集中になり東京だけが栄えるということになる。これも確かにここからまた経済効果が波及することはありうるし公共事業は限界である。ただ社会がこのように二分化することはよくない、社会がアメリカのように治安が悪くなり不安定化して連帯感がなくなるのである。金持ちは金持ちの社会を作り階級化して貧困層はフリ−タ−などは牛丼でがまんしろとか貧乏人は麦を食えとかなる。そういう非情な社会に日本もなりつつあるのだ。それは日本社会の伝統からして合わない、日本の社会の基本は村であり小さな村社会の相互扶助社会だった。一方アメリカや中国は違う、日本のような村などなかったのである。

だから人間でもスケ−ルの大きなものがでてくる。巨万の冨を築く人もでてくる。日本はそういう社会にいい悪いは別にしてなじめない、伝統的にそうだからだ。才能は伸ばす必要があるし国際競争も大事である。異質なものも入れねばならぬ。ただ日本社会は伝統的に相互扶助社会であることは悪いことではないしそういう伝統を失うと社会が乱れ混乱してアメリカのようになってしまう。良い歴史的伝統を壊すのはいいがそれに代わることは簡単にできないし国によって環境が違うから生態系を壊すようなことはしない方がいいということである。

今これだけ書くのに新聞からテレビからインタ-ネットから自分の経験から
(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)という作業をした。これからの情報の取り入れ方は絶えずこういうことが多くなる。だから時間がかかるし頭も使うのだ。でも本来情報は一方的に与えられるだけでは偏るのである。正確な情報もえられない、情報自体そういう性格をもっていたのだ。情報は自分なり取捨選択して(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)をしないと活きてこないのだ。だから普通の人の体験談なども役に立つ時がある。情報の裾野が無限大に拡大してしまったのだ。つまりだから誰からの視点による情報分析が必要になってくる。編集が必要になってくる。それをマスコミがしていたのだが今は個々人がしなければならないことがしんどいのだ。実際インタ-ネット一日中見てまわらないとなかなか自分にとって有効な情報を見つけることができない、ここが一番の問題なのだ。だから自分もこうして時事問題なんか書くようになりかえって日本経済新聞とか他のメデアも注意して見るようになったし調べるようになった。そうしたマスメデアの記事も参考にしないと書けないのである。情報をとる範囲が前よりはるかに拡大してしまった。だから情報をとり(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)だけで時間がとられてしまうのである。その労力も無駄かというとそうではなく社会を見るのにはマスコミよりは広く深く見るようにはなっているのだ。


xは不明なブランクの情報であるがこれを補うのが情報である。必ず文章を書くとわからないものがある。
そのブランクがうめられると情報はつながり活きてくる。



OPERA(オペラ)とまっぷっぷを買う

ソフト二つ買った。まっぷっぷとオペラである。地図を描くのがうまくいかないのとインタ-ネットの操作に苦労しているためである。このOPERAが今話題のLIVEDOORで発売されているものだった。ライブドアってインタ-ネットをかなりしていたがわからなかった。インタ-ネットの世界は有名でもわからないことがいくらでもある。そもそもインタ-ネットで困ったのはお気に入りの数がやたら増えてくることなのだ。Internet Explorerはお気に入りの分類がめんどうで困っていたがこれは分類しやすくなっているしそれからInternet Explorerで困っていたのが字が大きくするのがいちいちめんどうだったがオペラでは倍率指定ができて便利である。字が小さいことは疲れるし中高年にはよくない、オペラの方が中高年には使いやすいかもしれない、インタ-ネットは使いやすくないといやになる。それがちょっとしたことでもボタン一つでも操作が省かれるだけでも使いやすくなる、2ちゃんねるのlive2は使いやすい、使いやすいから書き込みもしやすいからそこにアクセスするということがある。ヤホ-の掲示板はわかりにくいのだ。一覧するには2ちゃんねるが向いている。ソフトの影響であそこに人が集まったということもある。

パソコンはソフトに左右される。インタ-ネット情報学が必要である。いかに自分なりにでも使いやすくしておくがが大事なのだ。お気に入りの分類がなぜ大事かというと絶えずお気に入りがふえてくる。一時的にでも保存してあとで見る必要もある。インタ-ネットの問題はあまりにも細分化していることなのだ。無数の情報の中からキ-ワ-ドで関連したものを拾いだしてゆく、それはまた無数のサイトにアクセスすることになるからお気に入りとう一時的に保存するものもふえてくる。一方本は一貫して一つのテ-マを追及している。今回買った「エイズと奴隷(グロ-バル経済と現代奴隷制」ケビン、ベイルズを読む)10月4日などは奴隷とは何かを追及している。現代は先進国とアフリカやイスラムなど二つの世界に分離していて経済的には遅れた国は奴隷化されているのだ。インタ-ネットにはこうしたものもあるのだが一貫して書いているものは少ない、なんか一ペ-ジとか二ペ-ジとか触りだけが書かれている。だから探すとなると数ばかりふえてくるが中味がないともなる。

ほんの世界は主要なオピニオンリ-ダ-の本を読むのであり情報をキ-ワ-ドで探すというのとは違う、そこには選ばれたものしか置けない世界である。そこから省かれた人間は置けないのだから不公平だし商業主義に合わないものも書店には置きにくいのだ。ハリ-ポッタ-みたいなベストセラ-などを置くには向いている。書店は昔は地方でも古典などをおき文化的場所だったのかもしれない、本のむずかしさは文化というものを担っていることにあった。しかし商業主義からは逃れられない、慈善事業ではないし公共の図書館でもないのだから。ただ本は売れればいい、売れないものしか置けないとなると文化的な場ではなくなってくる。本は高いのだが今回の本などはNGOとかで売りその収入を役立たせるという方式などにするといい本である。高くてもなんらか援助になっているのかと思うからである。つまり今本とかが行き詰まっているのはそういう流通の方式とかにも問題がある。本が高いというとき例えは新聞は新聞紙を買っているのではない、その記事を中味を買っているのだ。
それが新聞紙を定期的に無料で回収してくる商売が生まれた。新聞紙が中国などに売れて貴重なのである。電子新聞にすればまさにコンテンツ、中味だけになる。ロ-マ時代は紙が高くて作家には著作権もなにもなかった。紙に書かせてもらうだけで何の権利もなかった。それが今や紙の方が新聞紙の紙の方が価値ある世界になるかもしれない、これも電子世界になって現れた矛盾である。

いづれにしろハリ-ポッタ-なども今回は売れていないらしい、あきたこともある。本とかがいまなぜ問題がクロ-ズアップされるのかやはり電子情報に変わる端境期にあるからだ。本というメデアと電子のメデアが対称的に見られるからである。書店は商業主義からまねがれないにしてしも例えは幸福の科学の本が山積みされていた。そしていつもベストセラ-になっていた。あれも前は信者でない一般の人も読んでいたのだ。ところが宗教団体になると会員をふやすために売りこむことになる。宣伝の為でもある。会員をふやし勢力を増大させる為に売るのである。実際信者が会員が買わせられているのだ。創価でも他の宗教団体でも半場強制的に本は買わせられるのである。そして書店では何を言っても売れない本はだめなんだよとなる。いづれにしろ出版や書店の世界は不公平な世界である。インタ-ネットの普及で非常に狭い情報の世界になっている。特に大型店でないとほとんど役に立たなくなっていることは確かである。だからアマゾンが繁栄することになる。オペラもアマゾンから買ったのである。今回のソフトは損でなかったかもしれない、オペラが5千円でまっぷっぷは7千円だからソフトは結構高いし使いないものが多い、まあ、まだわからないが今までのように丸損にはならないだろう。


まっぷっぷで制作



NHK不祥事から受信料不払いはなぜ

●NHKの巨大化が特権化を生んだ


この問題は一個人のモラルの問題とかではなくNHKだけの問題でもない、現代のメデア、マスコミ全体に関係して起きたのだ。NHKは受信料を税金のように全所帯から強制的にとっているから責められた。民放からすれば全くうらやましいかぎりなのだ。そしてNHKはメデアとして巨大化しすぎてしまったのだ。巨大化は特権化であり権力化である。芸能人を自由に動かし番組を作る。芸能人はNHKに出れば名前が売れるとかNHK様様になる。スポンサ-でないにしてもNHKにでること自体、芸能人だけでなくあらゆる人が名前が知られて有名にしてしまうのである。これはテレビが何百万人が見ているのかで報道できるからである。だから宣伝が絶大な力を発揮することになり宣伝で買わせられるものがあったのだ。一つの例としてちゃちな耳掻きがそうだった。オモチャの耳掻きにすぎないのを三千円もして買った。耳にあかだたまややすいので買ったが垢などとるほどのものではない、単なる耳掻きしているというオモチャであり今は二三百円で売っていた。これも宣伝にのせられて買ったのである。他にも宣伝にのせられて本でもいろいろ買って失敗するものがあるのだ。ベストセラ-なども作られるのである。大手の出版社によってしかけられるのだ。そして売り出される。そこで名前だけが極端に大きくされ有名人になるのである。報道する権利というのは今まではテレビとか新聞とか大手の出版社にしかない、そこで報道するものを決めていたのだ。だから報道されないものがいくらでもあったし報道からもれてしまい世間にでてこないものなどいくらでもあったのだ。そのなかでNHKは一番影響力があり権力をもっていたから今回のような問題が起きたのだ。会社ではどこでも派閥争いがあり海老沢会長はそうしした派閥争いで勝ち上がり権力を持つようになった。それは解雇された人でもその側近は出身者の茨城県の人でしめられていたとか言われるからこれはどこでも同じである。

●衝撃的映像に慣れる怖さ

NHKに今必要なものは何なのか、それはもっともNHKらしいことNHKにしかできないことに専念することである。テレビ時代は長い、最初は娯楽番組、芸能番組が必要だった。テレビの出始めはともかく写れば見るという時代であった。テレビの最大の影響力は茶の間に入ってきたことである。テレビ見ながら食事するということはテレビ中心にした生活でありこの影響はあまりにおおきすぎた。そして今までのメデア一方的なメデアであった。だからいつのまにその一方的メデアに洗脳されていたのである。両親のいないタイの少女が日本に滞在するピザがとれないと報道しただけですでにこんなかわいそうな少女がいるのに法務省はビザを出さないのかと一方的に要求しているのである。その真意がどこにあるんだろうというとき、それを知ることはなかなか容易手はない、とくにすぐに知るということは容易ではない、情報が不足するからである。だから信用できないにしろとっとりばやい方法として2ちゃんねるを参考にするのが習慣になったりしたのである。それによるとその少女にはアパ-トを経営する祖父がいて十分にタイで幸せに暮らせるとか在日の人が関係して裏でプロの人が運動して利用しているとか書いてあった、これは本当かどうか憶測にしろこれもそれなりに情報であり判断の材料になるのである。テレビというメデアは強く感情に訴えるからすぐに画面を見てかわいそうじゃないですかとかなるである。現実アフガニスタンでの足が両方なくなった女性を見たりしたときはショックだった。それだけで訴えるのである。だから援助したりする。最近そうした戦争の犯罪などでショック的な映像がでてくる、それがいつのまにかそうしたショック的な映像に不感症になってしまった。あまりにも次々にそうした映像がでてくると人間は無関心になってしまうのだ。事実新潟地震では無惨に家が壊されたりしたが無惨に死んだ人がでてこないのでショック受けないのでかわいそうだなと思わなかったのである。神戸地震と比べてそう思い同情心がわかないということがあった。テレビはとにかくショッキングな映像を放映して訴えることが必要なのだ。そして今やそうした映像になれてショックを受けなくなっている。それで今やインタ-ネットで首切りの映像まで映されるからインタ-ネットにそうした映像を求めているのだ。首切る側もそうしたショック的映像を出さないと世界に訴えないからそうしているのである。いかにメデアに訴えるかが問題になるからだ

●インタ-ネット時代の情報の意味

インタ-ネット時代の情報とは何かまだわかっていない、私もこうして侍史問題なんかに何年か書いてみてわかったことがあるが本当はこれが何なのかわからないのである。なぜなら報道するということにたずさわったことがないからだ。一方的に報道されるのを受ける方であり自ら報道することなど一般の人は経験していないのだ。それがインタ-ネットでみんな誰でもできるようになったことは大きな革命なのである。こうして日々書いているのはこうして自ら報道することに興奮するし何か大きなことをしているような感覚になるからだ。インタ-ネットは読む人は少ない影響力は微弱である。それにしても個人が報道主体となることは今までなかった。メデアを通さないかぎり報道はできなかったのである。

判決によると、土木建築会社は昨年10月、掲示板「2ちゃんねる」に、
 「顧客とのトラブル処理の際に会話を録音されないよう、従業員が妨害
 電波発生装置を携帯している」などと事実に反する匿名の書き込みを
 された。

 会社側は2ちゃんねるの管理者から発信機器を特定するIPアドレスの
 開示を受け、このプロバイダーのユーザーが発信したことを突き止めた。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041222-00000109-kyodo-soci


こうした内部情報がもれてくるのもインタ-ネット時代である。それがどういうことかというと今や日常的にそうした情報もれる可能性がでてきた。例えば会社の秘密情報は会社員が知っている。その会社員が会社の情報を匿名で書くということがありうる。それは今までできなかったことである。マスコミでは厳しくチェックしたものしかださない、マスコミから通してしか情報はでなかったのである。その結果マスコミと役所とか警察とかの癒着があった。記者は特別待遇されて監視するのではなく官報のように一方的な報告だけをしていたとか厳しい追及をしなかったのである。これは公共的な責任問題としてあるがそれだけでなくささいな日常の生活のなかで情報がもれてくるということがあるのだ。例えば近くの医者の評判が書かれたり単なる噂話とかがいたるところにでている。しかしこれも情報として影響するのである。私が与那国しまで警察に理不尽なことで怪しいと地元の人に通報されて職務質問された。この職務質問は非常に一方的であり自転車で旅行していると必ずされて根掘り葉掘り聞かれるからいやになるのだ。あらいざらい聞かれてもプライバシ-の侵害でもとをにもならない、これは普通に誰でもやられていることなのだ。その例が公安委員だった白川議員もしつこく職務質問されたことでもわかる。警察は賢慮曇っているからさからえないのだ。なぜあのとき頭にきたかというと地元の人が警察につまらないことで通報したからである。別に島の人に恨みはないしづけづけ言い合うのはいいことである。自分にも非があることはあるしそれも指摘されてもしかたない、でも私はそうしたいい面と悪い面を両方書いている。公平に書くことはむずかしい。恨みで情報を流したりすると公平がなくなる。その人の個人的恨みとかが入ってくると公平な報道はできなくなくなる。報道するものは今やモラルが必要なのである。ともかく十和田湖の喫茶店で話していたことがたまたま聞いてホテルの人があんなところに電飾して人を呼び込むようなことを言っていたとか私が書いたのも情報がそこで聞いて終わりでなくインタ-ネット通じて流れるということがある時代である。 「壁に耳あり障子に目あり」の時代がインタ-ネットであることなのだ。どこからもれるかわからないのだ。この建設会社の事件もまるで007のような情報戦争になっていることなのだ。情報戦がいたるところで行われる時代なのである。

●NHKも民放も変革の時代

結局、NHKも民放も変革の時代でありインタ-ネット時代は変わらざるをえない、NHKには芸能番組や娯楽番組はもはや必要ではない、その時代は終わったのである。ニュ-スと災害番組とかしぼるべきである。NHKに要求するものは昔とは違ってきている。なんでも提供する時代とは違うし写ればいいという時代は終わった。番組はしぼりこみやがてはコンテツだけを買うことになる。光ファイバ-時代になればそうなる。放送するコストが極端に安くなるからだ。しかし一方で番組を作る労力は以前として人出も金もかかるし技術も創作力も必要だからここに金を使うことは変わらないしそれに受信料は払われるべきである。コンテンツ、番組を買い見るという時代になっている。一部はすでににそうなっているのだ。誰もが一方的に見させられるという時代は終わりである。情報は各自取捨選択し分析してそれぞれ解釈し批評する時代になる。こうして時事問題で書いてみてわかったのは情報は必ず自分なりに解読して分析する作業が必要だった。これは大変なことであるから今まで一方的報道を鵜呑みするだけだったのだ。




インタ-ネット的な情報空間のなかの24将棋

新年の駒打つひびき有段者

戻しつつソフトと将棋夜長かな



インタ-ネットと将棋が何か関係あるのかというと意外と深い関係があった。そもそもコンピュタ-の最初はゲ-ムだった。ゲ-ムはれっきとしたコンピュタ-だったのだ。ゲ-ムから始まったからゲ-ムと深い関係があるのだ。通信の24将棋とういのは将棋は江戸時代からあったにしろ将棋そのものは変わらないにしてもこれもかなり違ったものである。

●早指しが基本(スピ-ド性)
●匿名性
●記録性(recording system)
●24時間参加可能
●24時間閲覧、リアルタイム観戦機能


これらの機能はインタ-ネット的一つの情報環境とマッチしている。通信では一回ミスするのでずっとやっていなかった。それでも最高段位の対戦を毎日のように見ていたという不思議である。将棋は見るだけでもむずかしいからわからない、それでも何か白熱する戦いがそれなりにわかる。一つのそれが娯楽となった。そもそもスポ-ツであれ芸術さえも実は見る側と見せる側、プロとアマとに分かれる。例えば剣術にしても強豪同士の一騎討ちは見ているだけでその迫力がわかる。道場でも剣道でも柔道でも有段者の戦いは見るだけで興奮する。将棋もやはり理解するのはむずかしくても同じである。だからプロ棋士がかなりの数いるのだ。これはインタ-ネットの掲示板でプロ的な人や鋭い議論のレスの応酬をしているのを読んでいるのとにている。今や2ちゃんねるでもどこでも発言するより読むだけの人が多いのだ。発言することはかえってむずかしいから読むのは気楽でありそれが無駄かというとそうでもない、何かヒントを得るものがあり私のように自分のホ-ムペ-ジに引用して編集して書いたりしている。つまり今や10人発言していたらその百倍の人が2ちゃんねるなどでは読むだけの人となっているからかえってプロ的な発言を望んでいる。つまらないゴミの発言はいらないとなる。インタ-ネットの掲示板でも発言する人と読む人、見る人に分かれてしまったのだ。

この通信の将棋は子供のころのように人の家とか縁側で対面的にのんびりさしているのとはあまりに違うし今やそんな時間的余裕はなくなった。その頃は将棋を通じてコミニケ-ションを計るという役目があったが通信将棋は確かにチャットできるからわずかにコミニケ-ションもできるのだが将棋そのものもを追及し楽しむためのものである。だからソフトとやるのとたいして変わらないという面もでてくる。相手が人間でない、コンピュタ-でもかまわないとなる。ではこれがつまらないかとなるとそうでもないのだ。何回も前に戻して勝つまでやれるのだ。そうしても勝つには大変な労力がかかることがわかった。それだけソフトは段クラスであり絶対弱いのは勝てない、一回勝負では絶対勝てないが巻き戻しのように前に戻してやり直し何回もやっているとやっと勝つのである。だからかえって面白いのだ。醍醐味がないかといったらそうでもない、一手で勝敗が分かれる大熱戦になるのだ。今どき対面的に将棋をさすことはよほど暇でないとできないし相手が段クラスの人など普通いないのだ。特に田舎にはいない、それがいつも文句も言わず相手にしてくれるのだ。

時代とともに娯楽も変わる。新年の行事もほとんどすたれてしまったことはわびしい。羽根つきもないし凧上げもない、日本の伝統的正月風景が消えたのはわびしい。今年の年賀の絵にした「
山路来て向かう城下や凧の数 大祇 」「七重の丘の奥なる村や羽子の音 中村草田男」といった風景が日本から消えたことはさみしい。正月という雰囲気がもはや喪失した。これはかつて農耕、稲作と深く結びついていた行事だったから自然と深くかかわる世界だったからそれがこれほど工業化した結果でもあった。そしてテレビもメデアにも変化があった。テレビで新年の番組を見るのが楽しみだったが今年は時代劇もないしいい番組がほとんどなかった。おそらく娯楽もゲ-ムとかビデオを借りて楽しんでいる時代なのだろう。通信将棋を見て楽しんでいるように娯楽も変わってしまったのだ。

通信の将棋はこれも極めてインタ-ネット的なものだったのだ。対戦した相手が気になりその棋譜が記録されているので見たりする。インタ-ネットでも相手のことが気になりどんなキ-ワ-ドでくるのかとか調べたりしている。私のホ-ムペ-ジの場合、キ-ワ-ドを調べると面白かった。実は掲示板をまだ置いていないのでこのキ-ワ-ドが私のホ-ムペ-ジの反応だったのだ。それをみるといかにみんなキ-ワ-ドで懸命に探そうとしているかわかった。どういうわけか100とか200の検索結果のとき、私のホ-ムペ-ジにひっかかりやすくそれでアクセスがふえたのかもしれない、私の場合時事問題で過去の方がいつも読まれているのである。普通日記形式だったら今の時点にアクセスがあるはずだが過去に書いたものに常時アクセスがある。結局私のホ-ムペ-ジはテ-マが多いからキ-ワ-ドでひっかかりやすいということがあったのだ。ともかく24将棋は明らかにインタ-ネット的な情報空間の一つの世界だった。将棋は同じ将棋でもその内容がメデアが違うとこれだけ違ってしまうという見本だったのだ。

インタ-ネットの将棋



林子平の墓が仙台に(出版のことなど)

林子平の墓が仙台にある。これは50年後に許されて親戚が建てたものだという。

親も無し妻なし子なし板木なし 金もなければ死にたくもなし

蟄居を命じられ不遇のうちに死んだ。板木なしとあるのは板木は活字のもと、本の元になるものだから大事なのだ。これを作るには大変な労力があり専門職の人に頼まねばならない、当時の出版今日より大変な労力を必要とした。そもそも活字一つ一つ拾って本にする時代も大変な労力を必要として専門の職人がいたのだ。そもそも出版とはもともと大変なものだった。本の起源はその記すものからはじまる。エジプトのパピルスがpaperの基である。

ギリシア語で「本」を表す“biblion”は、パピルスを意味する“biblos”から来ています。現在欧米諸語で使われている「聖書“bible”」 、「図書館“bibliotheka”」などは皆これに由来しています)

ラテン語の“liber”(本)は、もともとは「樹木の内皮」を表す言葉だったといいます。樹木の皮の内側も、粘土板や石、木板などと並んで文字を書きやすい素材だったのでしょう。


書く前に記すものの方が貴重であったのだ。だから作家より紙を提供する人の方が力があり作者にはなんら報酬はなかった。紙を提供してくれる人にかかせてもらったのが作家である。これは今の出版界とか書店に通じている。出版社とかそれを流通させるものが力があり作者はそれらに頼まない限り出版できないしくみになっている。だから出版社や新聞社とかマスコミは情報を独占して著作権を握り利益を得ていたのである。この構造自体当たり前として受け入れていたが実際これは出版社とかそれにかかわるものの独占的利益を維持する仕組みだったのだ。だから今インタ-ネットが盛んになり音楽著作権を一手に管理する団体の方がヤクザのショバ代をとるのと同じだという批判も起こっているのだ。作家に著作権があり作家に直接印税なりを払うとなればこれが一番理想的なのだ。いづれにしろ電子本でもコンテンツが不足しているから売れていない、本の世界は膨大な積み重ねがありその中にもうなかなか読めないような奇書の類も数限りなくある。それは古書となってどこにあるのかもわからない、こっちの方がインタ-ネットのゴミの山より貴重なのだがweb化されていないのだ。

意外と役立つのが「青空文庫」とか過去の作家のデジタル化したものなのだ。ええ、こんなことこの作家が書いていたのかという意外なものがかなりある。それがどうしてわかったのかというと全集の一部を個人か出していたりして検索にひっかかるからである。知識は本で手に入れようとするかぎりかなり限られたものになるのだ。それはどんなに本を買ってもそうだし図書館に行ってもそうである。手間がかかり調べきれないからだ。本というものを一冊一冊買いそそろいるたことなどできないのだ。今私がどうしてこうして書いているかというと一冊の本ならさ-と目を通してその一部をひき出して自分の文章にあてはめて編集して構成している。一冊を読むというのではなく何冊もの本のペ-ジをひき出してつなぎあわせて編集している。これはインタ-ネット的検索の利用の仕方である。こんなこと本ではしにくかったのだ。本は一冊として完成しているからだ。でもペ-ジだけを読むということもありえたのだ。ペ-ジきペ-ジをリンクしてつなぐのである。するとまたそこに別な知識の連結が生まれそれは新たな意味を帯びてくるのだ。知識はこのよう増殖して書き手によりまた新たな意味を帯びて提供されるのだ。


知識の世界の価値観は物を売り買いするとか技術の世界とかとはかなり違った世界だった。情報とか知識の世界は今まで本というものを媒介にして流通していたことが多い、それがテレビとかパソコンとかインタ-ネットになり変わったのである。インタ-ネットの最大の特徴としてリンクがあるがこれはつなぐことでもあるが単につなぐだけでなく価値づけるという作業でもある。ある人にとって価値あることがリンクされるのだ。だからgoogleでリンクの多いものが価値あるものとして上位に出るのはインタ-ネット的なことであった。知識、情報は多様であるがそれをうまく利用した側にも実は大きな功績があったのだ。たいがい作った方とか出す方に価値があり利益をうむというのが普通である。しかし知識情報の世界はそれを効果的に利用した人も価値を産み出しているのだ。本の世界でも編集して読めるようになっていたように選別して分析して編集することにより知識情報はまた新たな様相を帯て読者に提供されるのである。インタ-ネットでは出すのは無料である、本の世界では出すだけで大変な金と労力が必要とした。インタ-ネットでは出すのは無理であり簡単だとなるとかえってそれが読まれたり利用されたりした人が価値がでてくるのだ。実際知識であれ情報であれその人独自に編集して加工して出すことはその人がよほど創造的な人でないとできない、引用にしたって引用が従であり引用する方が主となる書き方はかなりむずかしいことである。引用するものと相当のそれより上の創造的な個性の持ち主にして引用ができることになるからだ。引用と転載は違う、転載はただコピ-してのせるだけである。これは著作権違反になる。しかし従となる短い引用は相手の許可なくて許されている。しかしこの引用を効果的にできる人は非常に少ない、それがわかるのは過去の偉人の言葉を自分が主として従として引用することがどれだけむずかしいかでもわかる。偉人の言葉を引用するときどうしてもかえって普通の人は従になってしまうからである。

いづれにしろ本として流通した知識や情報の世界は変わらざるをえない、インタ-ネットではキ-ワ-ドから探すということが多い。これも今までになかった読書というか知識の探求なのである。私のホ-ムペ-ジは直接の反応がないので毎日とんなキ-ワ-ドできているか調べているがこれをみると私のホ-ムペ-ジにふさわしいものがかなりきているからそれなりの最適なヒットをしているのかもしれない、インタ-ネットではキ-ワ-ドがかなり大事である。そのキ-ワ-ドにヒットするもので内容のあるものが連続して出たらそれらを並べるだけでリンクするだけでまたは編集するだけで一つの世界がそこに生まれるのだ。例えばアム-ル川というキ-ワ-ドでアクセスしてきたものがいた。ではこのアム-ル川からどれだけの知識の広がりを得られるかが問題になるのだ。私もこれを調べてリンクしてだしたがそれは本当は一部にすぎない、他にもアム-ル川について語るものがある。それはインタ-ネットにはでていない、誰かが本として出していたりする。専門的になると未だ本の世界になる。ともかくインタ-ネットではアム-ル川というキ-ワ-ドならそこから知識の広がりを求めているのだ。アム-ル川の情報知識の構築を共同でしていることになる。だからインタ-ネットが学者の共同研究として出発したということがわかる。インタ-ネットに出すと自ずと共同研究になっているのだ。知識情報の共同構築がインタ-ネットなのである。これまでこの知識情報の世界に出版社とか書店とか本の流通会社が本が物として流通するから構築されていたがインタ-ネット化すると情報知識は物でないからそうした媒介者は必要でなくなってしまったのだ。それらは作者の著作権とかを管理して利益をえていたがインタ-ネットでは作者と読者や視聴者が直接結びつく世界になってしまったのだ。だからそうした媒介者は必要なくなったのである。



インタ-ネットで変わる著作権の問題

●詩集の編集著作権が争われた事件 (水谷直樹)


著作物をもととして完成される編集著作物について、第三者が進言した場合でも同様である。編集物で著作物として保護されるのは、「その素材の選択又は配列によって創作性を有する」ことが必要であるから(著作権法一二条一項)、澤田が「智惠子抄」の編集著作権者であるというためには、その素材となった智惠子に関する光太郎の作品を自ら選択し配列したと認められることが必要である。すなわち、澤田の編集著作というためには、「荒涼たる歸宅」のように後日制作された作品を除き、可能な限り、智惠子に関する作品全てを認識し把握したうえで、これら作品について必要な取捨選択を経て配列を完成するという作業が澤田自身によりなされることが何よりも先ず必要であって、それによってはじめて控訴人らが主張する光太郎と智惠子の愛を浮き彫りにした創作性ある編集著作がなされたと認め得る余地があるのであり、かかる作業がなされないまま、光太郎の作品の一部を集めても、それは光太郎と智惠子の愛を浮き彫りにするという編集著作という観点からは、企画案ないし構想の域にとどまるにすぎないものというべきである。」
 と判断されたため、澤田氏は『智惠子抄』の編集著作行為を行ったとは認められず、編集著作権も帰属していないと認定されました。


http://www.hanketsu.jiii.or.jp/hanketsu/jsp/hatumeisi/news/199312news.html


たまたまでてきたペ-ジであったが興味をもった。というのは編集というのがホ-ムペ-ジを出す人とかかわってくるからだ。ホ-ムペ-ジは閲覧とか引用、コピ-が容易である。私もしてきたように出版社と同じく編集というものに知らずかかわっているのだ。編集も明らかに創造的作業だし批評も創造的作業である。批評もかなりむずかしいものなのだ。作品や人物を良く理解しないと批評などできない、自分の文章が主であり引用するものが従である文章を書くことは容易ではない、その例が古典とか天才とかの引用をするとき感じるのだ。どうしたって普通の人は従になってしまう、自分が主となるほど創造的個性をもちえる人はまれだからだ。作というためには、「荒涼たる歸宅」のように後日制作された作品を除き、「
可能な限り、智惠子に関する作品全てを認識し把握したうえでこれら作品について必要な取捨選択を経て配列を完成するという作業が澤田自身によりなされることが何よりも先ず必要であって」その全作品をかなり深く理解しないかぎり編集もできないのである。

ただ出版社はなんらか常に編集にかかわる存在であり作家の創作とかかわる存在でもある。つまり作家の編集にかかわる人はそれなりに創作的なことをできる人でもある。これまでは出版社の力は書店に出版できるということで力があったのだ。9割くらいは活字にして本にして書店に配送するということで力をもっていたのである。事実は無名の一個人など出版社でも書店でも相手にしないしどちからかというととうしても出版界は利益が優先されるから売れないものは置きたくないのだ。それでも専門的な本でも少部数の本でも出版されてきて教養の世界を作ってきた。だから未だにインタ-ネットの世界より著作権のきれていな古本とか雑誌とかに膨大な貴重なものがある。ただこれは探すのにも買うのにも一個人ではもはや無理である。本の問題は出版社が流通や価値を選択する権力をもっていたことである。出版社を通してしか本屋には本は並ばない、それも出版社でも大手の出版社が有利になる、大手の出版社によって支配される構図があった。

これはマスコミでも同じである。マスコミの権力はまさに何百万人に常に茶の間に入り報道できるということにあったのだ。だから大手出版社とかマスコミに出るとその人間も作品もたいしたものでなくても百倍くらいに拡大鏡で見るように宣伝されるようになる。文学賞もその内容よりも宣伝効果が大きいから売れるのであり売るために必要だから出版業界のイベントとして企画されているのである。その例が芥川賞とかあういうもので何十年前のものはほとんど読まれないし残っていないのである。「あかづきんちゃん気をつけて」とか名前だけがどれほど広まったか、私も小説は苦手だから読んでいないが名前だけは今でも記憶している。この作品も作家も今や誰も語らないのである。そこに出版社とマスコミによるコマ-シャリズムの煽動が常にあることを見なければならない、今でもこれは同じだからだ。

最近はやりのライトノ-ベルとか「電車男」とか今度はインタ-ネットから大衆に受けて商売になるものを探してゆくのがコマ-シャリズムの世界なのだ。そうしたコマ-シャリズムからでてくるものは大衆受けするものを常に探しねらっているのだ。それはそれとしてそこに文学とか芸術とか思想とかの本物の価値あると見るのは危険である。こういうものにふりまわされる時間のロスになる。読書をかえりみるといかに人間とは読書すらほんのわずかしかできていない、こんなに本も読めないのかと老年になり必ずみんな驚くことは間違いない、自分自身さえ一部屋一杯になるくらいの本を買い込んでいたがそれでもわずかなものなのだ。そして肝心の本を読んでいないから知識不足になっているのだ。「管江真澄遊覧記」とかは旅をしてこれは全部詳しく読んでおくべきだった。東北について貴重なものだった。それも読んでいないから肝心なものが欠けたことになる。これを今から読んで理解するとなるとむずかしくなるのだ。こういうことは他にもいくらでもある。結局人間無駄に時間を使うからそうなる。読書もそうである。結局つまらないものにふりまわされて時間をロスするからあとで後悔するのである。若いうちは理解できなくても硬いものを努力して読むべきである。それが後年役にたつときがある。ライトノ-ベルとかそうした消閑の本は何も残らない、出版社のもうけとなるだけである。


●著作権の適正な利用


八切氏は晩年、御自分の死後、全作品の著作権を放棄される旨、作品に明記さ
 れていました。これは「多くの方々に読んでもらいたいと」いう作家としての
 願いと、ご自身が探求されてきたお仕事を、誰かに引き継いでもらいたいとい
 う歴史研究家としての切なる希望の表われと思われます。
 ところが、現状は氏が危惧されていたとおりの結果となってしまいました。
 ほとんどの著書が入手困難で、「幻の書」化しつつあるということです。

 人生座や文芸座を経営している遺族が、再版はおろか、他の何社よりの復
刻についても、どの本についても謝絶。そのため定価千四百円の本が今では三万円を越え、近く五万円の呼び声さえ古本業界には出ているときく。
 これは死後五十年たっても二等親か、その遺産相続したと称する者が、著作権法を楯にとって出版不能の額の要求をなし絶版にする怖れがある。著作権放棄の[一連の八切史観の]補遺のつもりで書くので三角寛の研究について、とやかく言う気は、まったくのところが、さらさらない点を前もってことわっておく。


http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html


こういう本はかなりある。 著作権とかはいろいろ問題が多すぎるのだ。これでわかるように肝心の著者が読んでもらいたいというものさえ読めなくなっているのだ。こうした古本にしかない貴重なものはいくらでもあるのだ。それがインタ-ネットで出せるはずなのだが出せないのである。その一つの理由として著作権がある。この著作権はこうしたその著作権を相続した親族すら作者の意向にそっていない、ただ金が欲しいだけの人間がいるということなのだ。出版社もまた作者の著作権を出版する権力がある故に牛耳っていたのである。それが露骨にしたのが音楽著作権団体だったのだ。弁護士の一部にもこの著作権にかかわり利益をえているものがある。作者は多くの人に読んでもらい理解してもらいたいということが意志であってもそれが許されない仕組みが出版、報道にはあったのである。取捨選択する権利は報道する側にありその本人にはないからであった。それがインタ-ネット時代は変わる、逆にインタ-ネットから報道されたものを報道するという逆現象も起きてきたからである。

インタ-ネット情報学(まとめ)



著作権と使用権の混同

引用は新たな創造への転化である
(Quotation is a refreshed creation.)

●引用と転載の相違

著作権とはすでに発表した時点である。それは勝手に侵害できない著作者のものである。だから引用でも主と従をはっきりせねばならない、だから引用があまり長くなるとまずいともなる。転載と引用は全然違う、転載はただ著作者のものを移動するだけでありコピ-である。引用はその著者の作品と一体化しないとできない、引用できる人は相当著者の作品を読み込んで一体化しているのだ。だからそういうときその引用したものはその引用された人によって新たな意味を見いだし伝えられることがあるのだ。著作権があったとしてもこの引用は著者に断りなくできる。でもそれは自分が主となり引用するものが従となることなのだ。これは実際してみればわかるが自分の方が創造的であって引用されるものがそれに従属するものとなるからかなりむずかしいことなのだ。例えば上野霄里氏の引用などは最高にむずかしいものとなる。どうしてもそうした偉人とか天才とかを引用するときは従になってうまうからである。ただ転載しているものはそこに創作的なものが全然働いていないから違反なのである。

●著作権と使用権は違う

この著作権と使用権があり著作権はすでに作者自体が作品を書いた時点で誰でも持っているのだ。著作権は侵害できない固有の権利である。一方間違いやすいのは使用権なのだ。使用権は著作者が相手に許可して与えるものである。そこにはだから出版社がかかわって売り出すというのも使用権を許可したのだ。その代わり著作者に売れたらいくらとか金が払われる。著作権と使用権はまぎらわしいのだ。正当な引用は使用権とは違う、それは別に著者の許可無しでもできる。でも何回も言うように引用が従になっているときなのである。意外とこれが守られていない、だらだらと引用ばかりしているような文章がかなりあるからだ。これは著作権侵害になっているのだ。引用ではなく転載になっているのだ。転載は著者の許可なしではできない、転載するには使用権の許可を著者から受けねばならない、webの素材は誰でも使われるようになっているがあれにも著作権はすでに発表した時点であるのだ。だから勝手にそれを自分のホ-ムペ-ジに出して転載したりはできない、ただ使用権を一時的に認めているのだ。だからある人に使ってもらいたくなければ作者は本当は拒否できる、しかしどこかで勝手に使われているのがインタ-ネットの世界なのである。

使用権は一時的に作者から許可されて使うことができるものであり著作権はその人の固有のものとして保持していて侵害できない、だから勝手に合成画像などを作るとまずいとなる。それを禁止している所もある。しかし合成画像はこれは作者の創造的部分がかなりあるのだ。私自身これをしているがこれもインタ-ネット的創作であった。コピ-がしやすいからそうなるのだ。その素材も豊富だから写真合成とか他の合成的なことがしやすいのだ。私自身は全くの絵の才能はない、でも写真とか合成でビジュアルな表現をしている。そしてどれを合成したのかなどわからなくなっている。おそらくもはや合成された作者もどこが合成されたのか証明できない、もし証明できれば著作権の侵害で争われることになる。客観的に見ても証明できなければそれは合成した方の人が創作的だったともなる。合成はやはり創作的なものである。ただその見分け方はむずかしい。

●死後の著作権と使用権(誰に権利は帰属するのか)

著作権は死後50年まであるとなっている。しかし著作権と使用権は違ってくる。死期問題になるのは使用権である。著者の許可無しで生きているときは使用権は行使できない、しかし死んだ時点で勝手に使用されるようになる。そしたら使用権の権利を譲渡されたものが法律的にその使用を禁止できるのだ。ただ死後50年間使用権を持つ人が著者の著作権を管理するのである。それでも前に述べた引用が合法なのだ。死後50年たったとき転載が使用権が自由になるのだ。だから青空文庫などで無料でインタ-ネットで提供できるようになる。作者が死んだら著作権は以前としてあってもその本人が俺の文を勝手に使うなとかいろいろ文句言うことはできなくなる。では使用権を譲渡されたものが作者の著作権を正当に守るかというのも前の作家の例のようにむずかしい。ともかく作者の死後の著作権とかの問題もむずかしい、誤解しているのは作者の死後は使用権の問題なのである。出版社は使用権を得て出版するのでありその使用権は一時的に譲渡するのであり作者が決めるものである。だから本に出したからあとはインタ-ネットには出すなとかいう権利はないのだ。出版社になると本など普通の人は出せないのだから出してくれるそのリスクを負ってくれるとか出版社の力が大きいから作者の方でも権利を主張しにくいのだ。「出版させてやる」というのが普通だからだ。そもそも出版してくれと言ったって出版できないのが普通だからだ。

ともかく著作権と使用権は混同しやすい、作者生きているかぎり勝手に使用できない、著作権は引用が従であるときは引用はできる。作者の死後は使用権が法律にのっとって委譲できるがそれが誰にするかは事前に作者によって決めることもできるし八切氏のように事前に著作権を放棄することもできる。もしそれが法律的に確認できれば転載も自由になるのだ。生きているときは使用権、転載は許可がなければできないが作者が死後、使用権を自由にすれば転載は自由になり誰でもインタ-ネット上で使用できるのである。引用だけではない、その作品全部を転載できるのだ。親族が文句を言ってもそれは本人の遺言であるから有効なのである。本人の意向にそうことが求められるからだ。財産の問題ではないからこれは問題ないのである。財産は親族に自動的に譲渡されるが著作使用権はそうした決まりがないのである。その権利をを保有するのは明確ではないのだ。

インタ-ネットはまだル-ルが確立していない、でも著作権とかが必ずホ-ムペ-ジを出す人には問題になってくる。そういうことを知らないですまされないのだ。ただ非常にわかりにくい、でも著作権とか使用権とかはい一般の人でも守る自覚を必要とされている。インタ-ネットだからといって今や知らないとか無法地帯でなくなっているのだ。今まである法律も適用されるしインタ-ネット特有の問題も議論されて法律が適用されるようになる。その過渡期だから混乱しているのだ。





新開ゆり子さんの死亡(裁判になった著作権問題)

●著作権訴訟


福島県原町市などが上演した町おこしミュージカルに自分の作品が無断で使われたなどとして、福島市在住の児童文学作家新開ゆり子さん(75)が同市などに340万円の慰謝料と謝罪広告掲載を求めた訴訟が28日、仙台高裁(武藤冬士己裁判長)で「今後は劇の脚本や印刷物に新開さんの作品名を表示する」ことなどを条件に和解しました


 
本件脚本には、「江戸時代末期に、五箇山から数多くの人々がここ相馬を目指した」との記述があるほか、「五箇山」「五箇」の地名が十数ヵ所に使用され、本件パンフレットにも、「相馬に旅立った五箇山の人々」などと数ヵ所にその地名が使用されているところ、史実によると五箇山から相馬への移民は十数戸にすぎなかった上、著作物甲2が同地内出身の少年を主人公とした物語であることに鑑みると、著作物甲2を脚色したものである。

登場人物として「伏見儀助」が存在し、同人が相馬藩の隠密として飴屋、行商人、修業<「業」は「行」の誤?>僧に姿を変えて活躍したこと、最後には捕えられて処刑されたこと、その際に故郷の歌を歌っていたことなど同人に関する内容は著作物甲1の記述と同一であるところ、同人は、原告の創作上の人物である。
日本ユニ著作権センター
http://www31.ocn.ne.jp/~jucccopyright/
 

新聞に新開ゆり子死亡とあったのでああ、著作権問題の人であり故郷の人でもあり関心を持った。この問題は市側が歴史的事実を劇にしたというが実際は新開さんの創作した小説を劇にしたから問題になった。新開さんの歴史的事実から創作したものをそのまま劇にしたから問題になった。歴史的事実だけなら問題にならなかった。しかし歴史的事実だけでは面白くないから劇にならないから新開さんの創作したものを借りて劇にしたため問題になった。歴史的事実を取り上げただけなら著作権侵害にならない、ニュ-スにしてもそこに事件の事実だけを取り上げるのは著作権侵害にならない、そこに作者の想像で創作したら著作権が生じる。

例えば今回の選挙でそれぞれの党がいくら議席を獲得したとか票をいくらとったとか報道してそれを引用しても著作権侵害にはならない、ところが福島民報でその票を図で解析したものには著作権がある。自民党と民主党の票を市町村で色分けしていた。町村部では自民党の色になりいわき市とか福島市で会津若松市は民主党になっていたが相馬市、自民党になっていた。つまり福島県では都市部は民主であり町村部は自民である。二大政党化でこれからはこのようにどちらかに色分けされる。やはり自民は町村部を基盤にしている。公共事業で町村部に基盤があったからだ。その公共事業が減ったたため町村部での支持基盤もゆらいだし農協とか農民の票もかつてのように強固ではなくなった。でも以前として町村部では人的ネットワ-クやコネ社会だから自民党が強い傾向がある。でも一人区で民主に負けたのが多いのは地方でもその地盤がゆらいでいる。その点公明は支持基盤が変わらないからかえって安定多数を得るのには都合がいいのだ。地方でも一割くらいは創価がいるからだ。それらが安定した票を提供するとなると失った票の補強になる。
今取り上げているのは著作権の問題であるがこれは明らかに市側の落ち度だったろう。市でも役所でも著作権のことがわからないためにこんなふうになっている。素人ならさらにわからないのが著作権なのだ。




出版社や書店とインタ-ネットの相違


インホ-シ-クは前のパスワ-ドを使わないのでログインできなかった。それで今日メ-ルが来てわかったので契約して銀行振込で払った。この銀行振込もかなりめんどうだった。結局手数料が500円とか7千円かかった。ここはミラ-サイトとして保管するだけに置いた。というのは消えるという恐怖につきまとわれているからサクラだけでは危険だと思ったからだ。でも7千円は今や高い、ここからアクセスがあるのでやめるわけにいかないが来年あたりはやめてもいいかもしれん、保管するだけだと高い、それで考えたのが本屋のことである。本屋の役割は何なのかというと展示すること保管することにもありただ本を売ったらいくらということではない、書店に置くだけで金をとればいいのだ。保管料と展示料である。本一冊売れたらいくらという商売だけでは書店はやっていけない、書店に本が置かれるだけでかなりの宣伝になっている。コンビニに週刊誌が置かれるだけでかなりの宣伝になる、目立つから売れるのである。それでコンビニではコンビニを批判する本や週刊誌は置かないというのもなるほどなと思った。JRのキオスクにもJRを批判するものは置かないという。自費出版の本は書店で展示料と保管料を一カ月いくらとかでとるといい、売れたらその利益もとるが自費出版の本は売れないからそうなるのだ。それでも置きたい人はいるのだ。

自費出版を商売にしているのは出版社とか新聞社である。これらはおそらく百万とか二百万とかとっている。一生の記念として本を作ってやるということでありそれらが書店に並ぶことはない、もうけは出版社とかにゆくのだ。それは他者に何かを伝えるというより俺は本を出したという自己満足であった。それほど本というのは庶民には高嶺の花だったのだ。書店というのは自ら何も作り出さない、商品についてさえ何もわからない人が多い、商品に関して知らなくても商売ができたのが書店なのだ。全部手配は出版社とかで用意してくれた。売れないものは返品できるからリスクも全然ないのだ。ただ出版社から来る売れ筋のものを置けばいい商売だったのである。では書店に何も力がないのかというそうでもない、店は見せるであり書店に置くことは結構目立つことであり人の目に入る宣伝効果がかなりある。インタ-ネットよりある、インタ-ネットにおいても最初誰もあるのさえわからないし認めてもらえない、書店に置かれれば結構目立つことになる。でも全国の書店に置かれるのはほんのわずかの売れ筋のものしか置かれないから地方の書店はほとんど今や魅力のない場所になってしまったのだ。もう一つはインタ-ネットで情報環境が変わってしまったことなのだ。本とインタ-ネットを比べると情報の摂取する方法が違っていることに気づく、一冊一冊本を読むという今までの手法でない別なキ−ワ−ドから読む探すという本にない技術が生まれたことである。私のホ-ムペ-ジのキ−ワ−ドを見ても別に短歌や俳句に興味ない人でもその一部分の情報にアクセスする人が多いのだ。そのテ-マと関係ないような人がキ−ワ−ドからきている。でも私の文章とマッチすることがある。これは自分自身もキ−ワ−ドから探すと必ずしもそれと一致したものがでてくるわけではない、一見別なものだがそれでも情報として関連したものとなっている不思議なのだ。

あることについて調べるとき本しかなかったがこれは意外と不便なものだった。本がいいのはあるテ-マについて一貫して著作者の蘊蓄(うんちく)を研究を書いているときである。それでも全部は書き切れないから必ずそこから波及した知識が必要となりそれがインタ-ネットではリンクとなっているのだ。本はリンクするとまた一冊一冊と買わなければならないから金も大変なことになるしそれはほとんど不可能になる。図書館でもそうなのである。非常にめんどうになり調べることができなくなる。本自体今こんなに問われるのは本というものがインタ-ネットとかで比較されるからである。本と比較するものなど今まではなかった。知識は本で保管され貯蔵され伝達されていたのだ。だからこれは作るのにも配送するにもコストがかかりすぎたから一般の人はかかわれない雲の上の存在でせいぜい百万とかだして金持ちの老人がその成功談とか出して記念として書店に置かれることもなく手元に残るだけだったのである。今でも本の世界はそうした一般の人には閉ざされた世界であり排除された世界である。一方インタ-ネットの世界は発信するのも保管するのも有料ですら無料とほとんど変わらないのだ。ただ目立つところに展示させてもらうとなるとポ-タルサイトでは今では金をとっている。書店的な役割をになうようになっているのだ。

いづれにしろ書店の役割も出版の役割もかなり変わらざるをえない、一冊一冊高価な本を売るということ自体が時代にあわなくなってしまったのだ。だからではインタ-ネットの中でどうして利益をあげるのかとなるとこれもシステム化していないから模索中だとなる。情報にもいろいろあるがこれは様々な分野と連関してリンクした時活きてくるということをインタ-ネットで経験した。一冊一冊を著作権でしばりそこを管理して利益をあげるということ自体何か消費者にとっては不便なものとなってしまった。知識はもっとオ-プンにして解放して利用されやすいようにするのがいいのだがその障害がかなりある。無料で長年の研究の成果を出していいのかというのも当然だしその過渡期だから混乱しているのだ。



インタ-ネットの読まれ方読み方

インタ-ネットの読み方も読まれかたも今までとは違う。キ−ワ−ドから探すからもともと読まないようなもを読むことになる。その一つの例が花あざみである。このキ−ワ−ドからなぜ明治時代の大和田健樹という短歌の評論を書いたところに入ってくるのか?ここに花あざみの短歌やスコットランドの花が花あざみだと書いたからである。これは国立図書館のデジタルアイカ-ブで見つけ書いた。ここにすでにインタ-ネット的情報の拡大化があるのだ。なぜ花あざみでアクセスされるかというと花に興味をもつ人がはなあざみのキ−ワ−ドで入りその径路に私のホ-ムペ-ジの中に入ってくる、誰かがリンクするとそのリンクで花あざみを書いた一部分に入ってくるのだ。花あざみがハイライトされてそこで花あざみの情報を豊かにしているのだ。そもそも国立国会図書館でこの歌に出会わなかったら花あざみの情報を提供できなかった。ともかく花あざみのキ−ワ−ドでこのペ-ジにくるのはインタ-ネットが百科事典のようになっていてここに入るようになっているからである。だからインタ-ネットでは全体に関心がなくても一部分を百科事典のように利用している人が多い、自分もそういうことが多くなる。この人はおそらく花あざみについては読むが他には読まないということがある。


明治短歌紀行(おちこち紀行-大和田健樹)の中の一文

身の丈に余りて咲ける
花あざみいづれ昔の二の丸のあと

天守は今はなけれどその台に上りて見れば地下穴蔵のように深く堀りたれは埋もれもせで残りけり。

なぜここに
花あざみとでてきたのか、あざみはあまり美しくはない、それが廃墟とか化した城跡にふさわしかったのかもしれない、ただスコットランドの花があざみなのである。

その昔、スコットランドは北海の海賊・ノルウエ−と長年に渡り戦い続けていました。時は1263年、スコットランド西部のラグ−スにノルウエ−軍が上陸、夜襲をかけて来ました。その時、素足のノルウエ−軍があざみのトゲを踏み、大声を出してしまい、それによって夜襲を察知したスコットランド軍はノルウエ−軍を撃退、勝利しました。
この時から”あざみ”はスコットランド救世のシンボルとなりました。

あざみはスコットランドのような北の荒野にも咲く花だから国の花になったのか、普通あざみに注意する人は少ない、花というより草に思えるからだ。

杉むらの 秋の日うとき 下草に 心つよくも 咲く薊かな(正岡子規)




花あざみというキ−ワ−ドで探す人は確かに私のあるペ-ジにアクセスがある。そのペ-ジ全体に興味あるのではなく花あざみというの興味がありアクセスがある。でも考えてみたら花あざみというキ−ワ−ドで一つにまとめた方が読む方にとっては調べる方にとっては便利なのだ。いちいちこうしてキ−ワ−ドで調べるのは手間がかかる。ただアクセスされる方にとってはうれしいとなるかもしれない、というのはホ-ムペ-ジの反応の主なものはアクセスなのである。ともかく一応アクセスがなければそのペ-ジは活きてこないのだ。花あざみというキ−ワ−ドの径路に私のあるペ-ジが置かれているからその径路をたどっていつも一人くらいアクセスがあるようになる。これはリンクでも多数くるところにはそのリンクをたどって必ずアクセスがあることになる。

たとえばある画像にリンクをはっている人がいるみたいだ。これは違反らしいし迷惑である。それでもそんな画像に常時アクセスがある。それがアクセスとしてカウントされている。これも考えてみると不便なことである。あるペ-ジから一発で必要な情報にアクセスすることが効率的なのだ。オランダを調べるのに1000くらい見た。インタ-ネットでも結構ばらばらであるが有効な情報があった。でも1000くらいみてそれでまとめたのがオランダを知るインタ-ネット案内だったのだ。こういうことがインタ-ネットには多い、結局編集されていないからである。バラバラな情報であると情報は活きてこないのだ。これを一ペ-ジに編集するとなると著作権とかの問題になりめんどうになる。インタ-ネットではともかく花あざみというキ−ワ−ドから発見される情報が知らないものが発見される。それは有名な人が短歌などで歌われている、それを集めたペ-ジがあった。それで花あざみについてこんな短歌があったのかと感心したのである。キ−ワ−ドで集めるからそういう新しい発見がまたあるということなのだ。



十代の文学賞、文学が熱い、見直されたの疑問(インタ-ネット一億総ライタ-の時代)


しかし昔にはかえらない 宮本百合子
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3019_10155.html

戦後の出版界の空さわぎは、出版社というものが、つまりはブローカー的存在であって、自分が何一つ生産手段をもってなくても、当る原稿をとることさえ成功すれば、相当の利ざやを掠めとることが出来たからである。戦時中、大軍需会社の下うけをやっていて、小金をためたような小企業家が、さて、敗戦と同時に、何か別途に金をふやす方法をさがした。軍部関係で闇に流れた莫大な紙があった。戦後、続出した新興出版事業者は、ほとんど例外なしに、この敗戦おきみやげたる紙の操作によって出発した。これらの事実については火野葦平のみならず、軍と「民間」との消息に通じた多くの人がもとより無智であろうはずはなかった。
 まったく、「バクロウが牛の掘り出しものでもさがすように」新人が売り出された



NHKで若い人が文学賞をとって文学を見直され本が売れているという、百万部も売れたという、その作家が十代なのである。こんなことをまじめくさってNHKで放送するのもおかしい。簡単なもの、低俗なもの、大衆的なものが売れるしこれは常に変わらない文学とか思想界なのである。いかに売れるものを見いだすか出版社では必死で探しているという。最近のブ-ムはインタ-ネットから起きている。「電車男」とかがそうである。ライトノ-ベルとかもそうである。こういうものは何も文学的思想的深みとか意味などなくてもいいのだ。まさに電車の中で軽く読める暇つぶしの作品であり硬いものではない、週刊誌的な暴露本とかゴシップ記事なのである。私自身は小説は苦手だしわからないからあれこれいえないがまともなことを言っている人はやはり常に今の時代の人ではない、宮本百合子の小説も一冊も読んでいないしわからないがこのインタ-ネットというのはたまたまこうした一部分をキ−ワ−ドで読むことがよくある。誰かの有名な人の引用などもよくでてきてよむしまたある短歌とか俳句の感想も日記に書かれているからよく読む。そして確かに今や一億総ライタ-になったということは何度も書いてきた。本を読まないとか活字離れというが今ほどインタ-ネットで読んだりそれも書くということが増えた時代はないのだ。NHKで今小説が見直されているという放送があるとそれについての感想をこうしてすぐかけるのである。

ひと夜さに嵐来たりて築きたるこの砂山は何の墓ぞも  石川啄木

これをプログでとりあげていた人がいた。この解釈はいろいろある。戦争というのもそうだった。カンボジアのキリングフィ-ルドに積み重ねられた骸骨の山にはショックだった。まさにひと夜さに積み重ねられた骸骨の山、砂山の墓だった。これをどう解釈していいか戸惑うし太平洋戦争のことも今やそうである。ひと夜さに膨大な死者が目の前に積まれたのだ。後世の人はそれを実際いろいろ議論してもどう解釈していいかわからないのだ。これは一つの例だがこのように常に一行の俳句でも短歌でも気楽に書けるのがインタ-ネットでありそしてその部分読みが多くなるのだ。長い長編ではない、キ−ワ−ドで作家の作品を閲覧して一部分を読むというのが習慣になる。こうした読書の方法は今までなかった。例えば読書とはドストフェスキ-でもトルストイでもわからなくてもともかく大作家のものを読みその作家の人自体を理解することだった。私の場合、こうしたものを読みきれていないし理解できなかった。日本人は俳句を作った民族のように長編小説とか何か長大なものを作るのに向いていない、だから俳句とか短歌的なものに向いている。 

いづれにしろ今百万部売れてもその本も内容も50年後に検討されるようなものではない、やはり文学は内容なのだ。後世に残るものは内容がなければ残らない、内容があれば何度も読まれ再検討されいろいろな解釈がされてゆく、それが古典なのだ。商業主義的なものでもその時代を映した江戸時代の作品であればその当時の生活を知るのでそれなりに記録として貴重なものがある。今は記録が膨大にビジュアルなものでも無数にあるから記録してもそれが意味あるものとなるとは思えない。

インタ-ネットは一面、浅薄なもの軽薄なもの、大衆的低俗なものの洪水になった。これは出版界よりひどいかもしれない、そこから産み出された作家もそれも若者の受ける簡単なもの軽薄なものでいいのである。そこに商業出版が目をつけたのである。いづれにしろ戦後の状態というのもいろいろき興味深いものであった。どさくさにまみれた焼け跡の生活は今の安定した生活とは違いどろどろした人間臭いものがあった。

その一つが紙を利用した出版だったのだ。実際ロ-マ時代は作家には紙が貴重で作家には著作権も何もない、書かせてもらうだけの存在だった。紙という資源を資本をもったものが作家を牛耳ることができたのだからこれも同じである。

まったく、「
バクロウが牛の掘り出しものでもさがすように」新人が売り出された。これは今の十代の若者の文学賞作家にあたる。ひと夜さの嵐に積まれる本である。それは屑本であり本の墓の山となりブックオフで百円で売られるようになる。なぜこんなに売り出され買われたのかもわからなくなる。これを教養のNHKで放送するのもNHKも常に大衆にこびるものだということがわかる。視聴率をかせぐことが優先されるからそうなる。こんなのが文学なのかという辛い批評があってしかるべきだからだ。NHKは受信料をもらっているのだから教育番組のような硬いものを放送することにも価値がある。インタ-ネットのよい点は視聴率も売れなくても簡単に発信できることなのだ。



世界が一つの村になる(マクルハ-ン)の意味
(コーラン冒とく記事「誤り」 ニューズウィークが謝罪)



 【ワシントン15日共同】米誌ニューズウィークの編集者は15日、イスラム教の聖典コーランを米軍の尋問官がトイレに捨て冒とくしたとの同誌5月9日号の記事に「誤りがあった」と認めた。また、記事をきっかけにイスラム圏各地に広がった反米デモで死亡した人々の遺族らに謝罪の意を表明した。
 反米デモは、アフガニスタンからパレスチナ、パキスタン、インドネシアなどに拡大。ロイター通信によると、死者は計16人、負傷者は100人を超えており、ニューズウィークが内外から責任を問われるのは必至だ。
 ニューズウィークによると、記事の情報源となった米政府関係者が、同誌がコーラン冒とくの現場としたグアンタナモ米海軍基地(キューバ)の調査に当たった軍の記録を見たかどうかは「はっきりしない」と後に語ったという


http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2005051601000333

この記事はニュ-スがそれがデマでも世界的に瞬時に影響して死者までだした、情報の怖さである。デマというのは常に存在したしそのデマにふりまわされた人々も多かった。関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒入れたとなり朝鮮人が殺されたり大騒動になった。そういう混乱のときデマが起きやすい、真実がわからないからだ。ニューズウィークは新聞社として信頼されているからイスラム国が過剰に反応した。この問題点はアメリカには言論の自由があり自由に報道できる。自由に報道できるから民主主義がある。しかしイスラムとか共産主義国家には言論の自由がない、中国の反日デモでも言論の自由がないから言論が統制されているからインタ-ネットで連絡し合ってデモに集まった。また中国に都合の悪い情報は外に出さないから国内の中国人は真実を知ることもできないで冷静な判断ができないから過激なデモになる。フィリンピン人の観光客が日本人と間違いて殺されたというのもあまり大きく報道されていないし創価関係の報道も余りされていないのは団体にとって都合の悪いことは権力で隠すから真実が報道されない、しかしアメリカは自由の国だから自由に報道できるからアメリカにとって都合の悪いことも報道するのだ。それをまたイスラム国家が死者まで出すデモで騒ぐのも問題なのである。

今回の報道で感じたことはマクルハ-ンが言った、「世界が一つの村になる」ということだった。今回の問題を例にすると隣の村にコ-ランを便所に捨てたとんでもないやつがいると大騒ぎになりおしかけたのとにている。世界は広いのだが情報としては隣の村の感覚になっているのだ。情報が瞬時に世界をかけめぐる、デマもかけめぐるという怖さである。情報がその真意もわからずに一人歩きするという怖さなのだ。情報にはそうした怖さがあるということなのだ。だから言論の自由は尊ぶべきだがまた何でも世界に流していいとはならない、そこに情報の危険性がある。また今は世界中で情報に過敏に反応することがありうることをこれは示している。隣の村で起こったように情報は身近になっているのだ。また情報は今や規制の新聞とかテレビだけではない、インタ-ネットになったらこれも新聞やテレビよりも早く情報が流れる。2ちゃんねるで仙台の人が殺人予告したとかなるとこれも仙台に行こうとしたが今危険なのかとなってしまうのだ。

この問題は誤報ということで穏便に収めようとしているがこれも余りにも見え据えたものでイスラム国家では納得しないかもしれない、世界が一つの村となったとき情報は瞬時に世界を駆けめぐり隣の村から伝えられると同じになってしまうのだ。

テレビは我々を参加させる。我々は「テレビにのる」ことを余儀なくされる。(マクル-ハン)

これは田中真紀子や小泉首相が首相になるときも凄いテレビの熱狂フィバ-が起こったことでもわかる。テレビは感情的に人を結びつけるのだ。テレビは理性的ではなく感情的なものに訴えるのだ。今回でもイスラム圏でテレビのデモを見た人が刺激されて広がることもある。テレビが世界を動かしてしまうという恐怖がある。その自覚が報道するものになかったというよりは報道のプロでもそうした問題を起こすのが現代の情報化世界であることがわかる。情報がそれが嘘でもデマでも世界を駆けめぐり一人歩きすることがありうるのだ。ささいな情報でも世界的に影響して恐怖におとしいれる。そして日々ニュ-スは世界から流れている。世界的なニュ-スを追っているだけで一日が費やされる時代なのだ。テレビが一番影響力あったのはその伝播力である。たちまち何百万人に瞬時に伝えられる。だからマスコミが権力を持ったのである。一方インタ-ネットは分散型の情報伝達であり逆にマスコミには出ないマイナ-な情報発信に向いているのだ。そこにも重要な情報があり検討されるべきものがあるのだ。一極集中のマスコミ型から分散型のインタ-ネットに移行してゆくことは確かである。マスコミ型が中心にあっても周辺の分散型のインタ-ネット情報も社会に浸透してゆく。テレビもこれから何百万人が6局くらいに釘づけになることはない、多様なメデアからの情報に接することになる。数人が読んでないとしても情報を発信していること、それが何らか影響することはありうるのだ。その注目されない情報も重要なものとされることがある。ある人にとっては貴重な情報ということがありうるのだ。



NHKの問題点は何なのか?

●NHKは特定のものの宣伝をするな


NHKという放送機関は何なのか、これが国の放送機関なのか?それとも民間なのか、受信料だけをそもそもなぜはんば強制的にとっているのか、そんな権限があるのか、これまでの放送は電波が6局しか許可されていないことこれがNHKにも言えた。NHKで放送されることは他の局よりもさらに宣伝効果が絶大なのである。NHKで出ただけで顔も売れるし特別化される。それが普通のありふれた人でも特別なものになってしまう。十代の文学が今盛んだとか、東北の作家が今人気があるとかそれだけ放送していると一般の人はそうかなと思ってしまうが実際の所は文学はどこでも死滅状態だというのが実情であり批判的な人もいる。NHKの問題はその影響力が大きいから何でも宣伝になるようなことは放送するなとなる。なぜそこだけをある特定の人だけを取り上げて注目させること自体問題になる。宣伝効果が大きすぎるからだ。他の様々なものは紹介されない、紹介されるべきものが実はマイナ-なものでもいくらでもあるのだ。それらは紹介されないのである。NHKのような宣伝効果のあるところは何を放送するかさえ問題なのだ。例えばある本を取り上げて論じるだけで実際はかなりの宣伝効果になる。では他の本はなぜ紹介しないのだとなる。なぜこの問題をとりあげてくれないのだとか公共的放送と思っているからそうなる。

●今までは6局の放送独占だった

なぜこういうことに気づいたかというとインタ-ネットで自分でも弱小の個人でも発言できる放送できるようになったからである。しかし放送してもその見ている人はテレビにすると極端に少ないから影響力はあまりにも違いすぎる。NHKに出ただけでその人や作品が評価されたことになる。しかしNHKがそれだけの力あるものではない、NHKでも民間のマスコミでもその時代の評価を簡単にできるものではないのだ。それは時事問題でもあるゆることにその時代の評価はむずかしいのだ。評価というのは今まではマスコミにとりあげられればそれだけで評価されたとなる。なぜなら6局しか放送局がないしそこでは百万以上はいつでも見ているからだ。その影響力の規模はあまりにも違いすぎた。その影響力の故に様々な差別語ができたのである。そういうこと放送するな、影響力が大きいからとなる。あるものが特別に巨大化されるのだ。テレビは特に6局だからその影響力が絶大だった。だからまた取り上げられない様々な問題があった。その中にも国民が知らねばならない重大なものがあったのだ。ところがあまりにその影響が大きいから圧力団体から放送するなとなる。今や個々人にしてもそんなこと放送するなと言う人も多くなっている。あまりにも影響力が大きいと「放送するな」となる。つまりあるものを特別化して宣伝することにもなる。他の人だって本の作者だって宣伝したい人がいても宣言できないことがある。だからある特定の人に有利なものはNHKは公共的なものだから放送するな、宣伝するなとなる。ただこれがインタ-ネットなどが普及して見る人が分散化されるとあまり言わなくなる。放送することが今までの6局だけの特権でなくなってくるからだ。単なる大勢の一局になってしまいば平等だから余り言わない、それが実際はやはり一万人も働いていて莫大な資金を受信料からとっている。これだけでも一放送局として特権えていることは大問題なのだ。

●NHKは10分の1に縮小してニュ-スを主に流せ


これだけ金をとること時代今やあわなくなったことは確かである。今までは放送するインフラだけで膨大な金がかかったからしかたないが今やそうではない、個人でも放送局になれる時代である。だからNHKはこんなに受信料を強制的に国民からとっていることは理にあわないしNHK自体大幅に変わらざるをえないし、受信料を払わない人がでてくのも時代である。今までは報道はマスコミの独占だった。特にNHKの影響力は大きかった。これからはそうではない、国民が判断して放送する時代である。これが真の民主主義だ。マスコミはあくまで報道する機関であって判断するのは国民なのである。だから大河ドラマなと莫大な金のかかるのはそれは本来映画会社とか別な私企業でやるべきものでありNHKがもはややるべきことではない、芸能番組そうである。NHKは24時間のニュ-スを流すことが一番向いている。そしてニュ-スの解説は最小限にとどめる。NHKの主観が入ると公共的な放送ではまずいからだ。それから何か特定のものを取り上げて宣伝するようなことはやめるべきだ。一民間企業ならいいが公共的なものになるとそうはいかない、必ず「そんなこと放送するな」と抗議がくるからだ。結局NHK自体今の10分の1くらいに縮小してニュ-スだけを24時間流すのが一番向いている。教育番組はつづけるべきだろう。公共的なものとしてこれはつづける意味はある。教育に関しては実際は金持ちと貧乏人の差があってはまずいからだ。歴史ものの番組も必要だろう。その見方もあくまでもNHKの見方でありそれに批判的な見方も必ずあるから視聴者はその批判もインタ-ネットで読むべきである。つまりこれからの放送は今までのような6局の独占時代は終わったのである。多局化時代であり判断は国民がする時代である。国民が自主的に選び判断する、だからNHKは主にニュ-スだけを客観的に放送するのがいいのだ。そして10分の1に縮小するとなると受信料は今の半分以下でも十分なのである。



インタ-ネットは新しい未来を創造する(情報の伝達の歴史)


A⇒Bへの伝達は時々刻々のニュ-スである。
縦軸はそのニュ-スが物語(story)になる
歴史でありこれには時間がかかる

●情報の基本は言葉である。

情報を考えるときこれは一言では言えない、様々なものを含んでいる。人間とは道具を使う故に人だとか人間を定義するものはいろいろある。その大きなものが情報と関係している。言葉を使うということと深く関係している。言葉は情報を伝達するものだからだ。言葉が人間にもっている意味はとてつもなく大きい。言葉が人間たらしめたと言えるのだ。初めにロゴスありきというときこのロゴスは宇宙森羅万物を解きあかす鍵が言葉にあるというほど言葉は人間たらしめるものであ。言葉より身振り手振りとか感情を現す方法は確かにある。その方が大事だともなるが言葉のコミニケ-ションが文明を作ったのだ。文明の文がまさに文なのだから中国文明も同じ起源なのである。中国ではあれだけ広いのだからそもそも発音が違っていて通じないから漢字で意志疎通を計った。今でも日本人が中国に行くと漢字を書いてなんとか意志疎通しよとする。文字、漢字の方が共通の意思疎通を計る手段になっているのだ。テレビでも字幕には漢字を流している。情報とは基本的にどういうことなのかというと空間軸と時間軸がある空間軸は図のように空間をこえて伝達することである。例えば狩猟している場合、鹿を見つけたとかあそこにライオンがいたとか離れている仲間に知らせることである。それは言葉ではなく単なる合図で叫び声とかになるかもしれない、それは動物でもしている。テリトリ-(縄張り)に入ると鳴き声で仲間に知らせるのである。これはA⇒Bへの空間軸の伝達である。この空間軸の伝達は移動する手段が歩きとか馬とかラクダにのったりして伝えるとなるとかなり遅くなる。基本的に情報の伝達は人から人の伝達だった。遠くなればなるほど情報の伝達は比例して遅くなる。近くなれば近くなるほど早くなるのが情報の伝達である。

●空間軸(距離)と時間軸(歴史)の衝突

もう一つの情報の伝達は時間軸の伝達である。先祖の残したものを語り伝えることである。これは最初は語ることで伝えていた。語り部が頭に暗唱して伝えていた。文字ができて文字に記され伝えられるようになった。人間の情報の摂取は必ずこの空間軸と時間軸によって作用される。現代の盲点は空間軸の情報は電波の時代になり即座にリアルタイムで流れてくる。空間軸、距離感がないように情報が流れてくる。コ-ランが便所に捨てられたと即座に伝わりイスラム社会で死者まで出す騒ぎとなった。情報を伝える距離感がなくなりマクルハ-ンの言うように
「世界が一つの村落になる」となる。しかし情報がこのように空間軸で一つの村になってしまった。しかし時間軸ではそこに大きな差異があるのだ。時間軸とは歴史でありそこに積み重ねられた人々の生活の時間である。空間軸が距離感のない世界が一つの村になっても時間軸はあまりにも多様なのである。時間軸は文化なのだ。インドのヒンズ-文化でありイスラム文化であり中国の文化がある。さらに地域的な多様な文化がある。日本にしても江戸時代がありその前の時代の積み重ねがある。そこに空間が距離をこえて異文化の侵入がある時、文明の衝突が生じるのだ。大航海時代が船による空間、距離が克服されたとき、地球的文明文化の衝突がありインカなどはあえなく滅んでしまった。ただ古代などロ-マなどではあれだけの大帝国を作るのには距離感を克服するのにはやはり300年とかかかっている。やはり距離の克服は困難だったからそうなる。ニュ-スは時々刻々伝えられるがそれがhi-story化するのには時間がかかる。伝説となり民話となり歴史となるには時間がかかるのだ。現代はこの空間軸が距離感が喪失した故に一挙に時間軸の歴史と交わりまたそれが交わっても歴史化するには時間がかかるのだ。その軋轢で戦争になったりする。空間軸のニュ-スはものすごい勢いで流れるがそれを歴史化するという時間が欠けているのだ。ニュ-スも歴史化したとき意味をもってくる。今度の尼崎の電車事故でも反省して事故を起こさないというノウハウが確立すれば歴史化してその犠牲が意味あるものとなる。

文明が発達すると距離感がなくなりグロ-バル化する。しかしこの時間軸の歴史は空間を克服するようにはいかない、時間軸はそこに定着している岩のようなものであり強固なのである。イスラム文明にしてもこれも長い歴史がありそれが空間が距離感がなくなり一気にアメリカ文明と接触するとそこに激しい摩擦が起こりそれが戦争となる。キ-ワ-ドでイスラム社会との対立とかに来る人が多い、イスラム社会という時間軸、歴史を知ることがいかにむずかしいかを物語っている。時間軸の歴史を知ることこれがむずかしいから衝突が起きる。日本自体でも時間軸の歴史を知ることはむずかしい。60年前の戦争のことすら歴史的に解明できない、ましてや各国の百年前とか二百年前を知ることは余計むずかしくなる。大航海時代は船により空間軸が一挙に縮められた。その時西欧文明の歴史が歴史観となったのである。

●インタ-ネットは新しい未来を創造する(本は過去の遺物となる)

今や電波やインタ-ネット、電子社会になると情報は即座にリアルタイムにつながる。そこで本というのは何か飛脚のような過去のもののように感じるときがある。本というのは物だからそれを物として運ぶから大変なのである。本の場合はそこに書かれているのは文字であり絵でありこれらは別に電子化できるものだった。テレビではビジュナルなものが中心で活字は新聞、雑誌、週刊誌本とかなっていた。しかしこれらは今や完全に電子化できるからリアルタイムで送信できる放送できるのだ。本という物を流通させるには大変なコストがかかる。だからベストセラ-など売れるもの中心の品揃えになってしまう。本はもはや電子化時代に過去の遺物のようになっているのだ。取り次ぎだ返品だ、棚卸しだ、陳列だ、包装だ、裁断だとか・・・・これらは物であるが故にそうした物を取り扱う作業に追われているのだ。本というのはインタ-ネットから見たら非能率的代物になりつつあるのだ。本を紙に定着して読むということはなくならない、読みやすいからだ。しかしこれを流通させるとなると電子化の世界とは極端な差があるのだ。物であるから物として空間軸を運ぶからとをしても伝達は遅れる。

奈良時代、長安(西安)から仏教の文物を運ぶことが大きな仕事だった。その教典が船が難破して沈んだ井上靖の小説があったり三蔵法師も仏典を運ぶことが大仕事だった。本を運ぶことが文明を伝えることだったのだ。本をかかえて海に沈んだ僧がいたのである。本とともに命を終えたのである。本は知識の生命だった時代が2千年くらいつづいているから本というものから離れることはなかなか容易ではないのだ。ともかく知識、情報の伝達には空間軸が距離が障害となっていたのだ。その距離は克服されたが以前として時間軸の歴史は文化は強固に国々にあるから仏教をもたらされたとき物部氏の神道派と蘇我氏の仏教推進派が争ったように衝突が起きるのだ。空間、距離の克服は文明が発達すると容易になる。しかしこの時間軸、歴史は文化は差異が大きいから簡単には一様化されないしそれぞれの伝統は一様化されてはならないのである。ただこの空間軸と時間軸が交わりそこにまた新たな未来が生まれているのだ。インタ-ネットから新たな未来が生まれているのもそのためである。ここに新たな知識の総合のようなものが生まれる可能性がでてきたのだ。自分自身インタ-ネットの中で発言したり書いたりしたからそれを実感したのである。



BOOKOFFでまた本を買った

相馬のbookoffでまた本とビデオなど買った。「ベジタリアンの文化誌」とかこれは変わった本である。内容もさっとみて面白い感じだ。本というのは今までも地方ではふれられないものが相当数ある。こんな本があったのかという驚きである。本にはそういうのが多いのだ。というのは地方では本は本の一部しかまわってこない、並べてもいない。売れないから置かなかったのである。それがbookoffに流れてきているのだ。だからこんな変わった本があったのかと驚くのだ。本は本当にほんの一部しかふれられないものだった。それがほとんど百円とかになっているのも驚く、これは稀少な本だから定価2千円になっている。本というのはこのように非常に非効率的なものである。そもそも人は何かを訴えたいものをもっている。それを伝える一つが本にすぎなかったのだ。だから柳田国男は口碑を重んじて旅をして民俗学を起こした。人は必ず伝えたいものがあるが現代だって本で伝えられたものはほんの一部にすぎなかった。本は何かを伝えるのには不便なものだから庶民の伝達手段にはならなかった。ある大きな組織とか選ばれたものの宣伝機関になっていた。ただ本には様々なものがあるし多様な面はテレビとかよりはあった。だからこんな本があったのかと驚くのがかなりあるのだ。それらはたいして売れなかったとしても貴重なものがある。つまりメデアとはあくまでも仲介するという意味であり人々の伝達したいものを中継ぎするという役目だった。ところがメデアはそのメデアを持つことで自分たちのいいように編集して大衆に宣伝する機関となってしまった。大手の出版社などもそうである。そこにはコマ-シャリズムが先行する。みんな売ってもうけようとする。ベストセラ-を出して過度に宣伝して売ろうとする。それは民俗学という分野で考えるとおかしいことである。人間はその暮らしの智恵を子供やその他村の人に残そうとする。それは別に商業主義でもうけようとかする心からではない、村に暮らすものとしての勤めであり極自然な行為だったのだ。

そもそもジャ-ナリズムは何かを伝いたいということがあり発生したのでありそこには最初それでもうけようとか一発あてようとかそうした商業主義はなかった。歴史を伝えるのはそれが自発的であり伝えねばならぬ使命感みたいなものがあり代々伝えられたものである。もともと人間には誰にも他人に伝えたいものがある。それは極身近なものにしか伝えられなかった。本に出すとかマスコミに出る人は限られているからだ。それはつまらない面白くないことでもあるかもしれない、一方マスコミでは大勢にみてもらうために「そんなありきたりのおもしろくないものじゃ、注目されないから誰も見ないから放送しないよ、面白くするために刺激的にするにはここを誇張するのも手だな・・」とかなりやらせになった。マスコミにはそういうことが事実あったのだ。そうなりやすいメデアだったのだ。メデアは単に仲介するものではない、何を放送するか出すかはメデアによって決められる、これは金になりそうだとなれば出すかもしれないがこんなの出しても売れないとか視聴率がとれないとかなれば出さないのである。出すときもそのままではなくメデアによって編集されメデアの意図が加わり出されるのだ。その極端なのがやらせだった。つまりこういうふうになりやすいメデアであったのだ。

インタ-ネットというメデアはマスコミとは全然違う、メデアを出版社であれ新聞社であれテレビなどのメデアを通さない直接の個人から語ることがそのまま出てしまうメデアである。そういう商業主義の操作とか視聴率も多少読まれないと困るが気にしないで出せるから今までにない情報が出てきて驚くことがあるのだ。個々人の語りの世界がインタ-ネットでできるのである。それは別に面白くないから今までのメデアでは出せないものであっても出せるのだ。その辺がかなり本来非商業主義の自発的なものである、ボランティアから発したインタ-ネットの情報は今までのマスコミとはかなり違っている。もちろんマスコミにはマスコミの使命がマスコミにしかできないことがかなりある。個人では外国まで行って取材などできない、大がかりなことができないのだ。やはり外国の取材となると大変だからできない、でも個々人が旅行した体験談の中にも情報はでてくる。だから外国のホテルの情報をインタ-ネットで調べ本にした人が著作権違反になった。情報というのは専門家のジャ-ナリストだけではない、一般の人も情報をもちうるし伝えるものをもっているのだ。

いづれにしろ本の歴史は長いからいろいろそれにまつわるものは伝説にさえなっている。本というのは知識の中心をしめていたからだ。その中に非常に変わった本もあった。ただ本というのはどんなに個人が集めたとしてもほんの一部しか集められないものなのだ。その知識にしてもそうである。本として蓄積されてきたから実際は古本にいいものがあるのだ。第一インタ-ネットはここ5年くらいが歴史なのだ。それもみんながホ-ムペ-ジを出すようになったのは2000年からではないか、私そうだった。とすると実際は三年くらいしか歴史がないからその蓄積もないのである。それでも相当な知識があることに驚くのだ。例えばなぜ自分の町にも「大学」という地名があり阿武隈の山の中の鄙びた村の橋が「大学橋」とついているのか、大学という地名はかなりある。江戸時代の漢学は「孝経」と「大学」が好んで用いられたと今日買ってきた「江戸時代の教育」R.Pド-ア著に書いてあった。外人が書いたことも変わっている。こんな本があること自体不思議であるしなかなか手にとる、それも買うというまではいかない本だろう。これが百円くらいなのは驚く、持ち主の名前まで書いてあった。こうした本を素読して学んでいた子供がいたのか寺子屋みたいなのがあったのかわからないが大学という地名が結構あるみたいなのだ。そんな山奥まで大学を学んでいたのか不思議である。本というのは学術書にしても雑誌にしても膨大なものがある。インタ-ネットにはそのほんの一部しかでていないのだ。だから学術関係になると非常に知識の層が薄いのである。

ともかく今や知識は情報はインタ-ネットで大変な変革をせまられている。本来の無償の語りとか本来の伝達したいことを伝達するということに変わってゆく、マスコミとか出版とか書店はその役目をはたしえない、その時代の変化の一つとして必然的に現れたのがbookoffなのだ。つまり今まで流通しなかった目にふれることもできなかった本が見れるだけでなく買えるという不思議である。だからそうした学術書を安いのを集めると書庫ができてしまうしそうしたことができるのだ。個人の書庫が図書館ができるのである。別に今や学術書が文学書が百円で売られていた作家にとってはこれは安売りでたえられないと言っているが百円でもそれを買う人がいるということに感謝すべき時代なのだ。読まれることはありがたいことなのだ。そうしたむずかしいものは読む人が少ないしそうしたものを読む人は志の高い知的レベルの高い人であり尊重すべき人なのだ。無料でも聖書とかその他の古典は読まれることはいいことなのだ。元来そうしたものはもうけるためには存在していない、読まれて教養豊かな人になることが目的なのである。だから百円で売られて読まれることはいいことなのだ。もし高くて買いないくて読めなかったとするなら貧乏で上の学校に行けなかったことを今でも嘆いている人たちがいっぱいいる老人がいることを知るべきである。尋常小学校くらいでみんな終わっているからだ。インタ-ネットではアクセスしてくれる、読んで価値を認めてくれる人の方が価値があるから歓迎されるから「私のホ-ムペ-ジを読んでくれてありがとう」と礼を言っているのだ。そういう奇妙な時代になったというよりこれが本来の知識とか情報とかのあり方であったともいえる。知識はそもそも秘匿すべきものではなく広く流通して人々を賢くするべきものだったからだ。

その最たるものが聖書が直接読めなかった時代があった、そうした中世の長い時代があった。聖書に鍵がかけられていたのだ。肝心の聖書すら読めなかったのだ。それがグ-テンベルグの印刷機でルタ-が翻訳して万人に読めるよにうなったのである。それが宗教改革につながったのだ。そうした改革がインタ-ネットにはあるのだ。情報は知識は広くそれも本当は無料で無償で伝達されるべき性質のものだったのである。別に百円だからといっても芸能人が出している本ではない、学術書も百円なのである。そしたら百円なら買って読んで勉強してみるかという人がでてくれば知識の向上につながるのだ。それはいいことなのである。ただこれも今しばらくの繁栄かもしれない、次々に古本でも供給されないとなりたたないからだ。そうした本がなくなるとインタ-ネットに出されるとなくなってしまう可能性があるから一時的なビジネスとして終わるかもしれない、それでもこれは時代の要請によって自動車社会はコンビニを生んだように必然的に生まれたものだからこれが悪いとはいえないのである。
それにしても今日買った本は「ベジタリアンの文化誌」「江戸時代の教育」「ネティズンの時代」それにビデオのアニメの「アトランティス」スタ-ウオ-ズの特撮の裏側とか非売品のビデオでこれは百円だった。前のは2千円だから一番高かった。あとは百円というのはこれは本の値段とはいえない、本をまわし読むという感覚である。

インタ-ネット時代には一冊の本を作り出すということはない、普通一冊の本も出さずに終わるのが出版の世界である。何か話題性がないかぎり本は出せないものである。インタ-ネットは本を出しているのではない、放送しているというのがあっている、本に金を払うのではなく本人が放送しているそれを見ている人が金を払うのだからやはり放送権料を払うというのがいいのかもしれない、現実一カ月二回元新聞記者の人がメルマガしてカンパしている人がいた。余りに少ないが一年間契約で払うとかになる。一冊の本を売っているのではないから一年間の放送権料をとるということになる。でもそれだけのものを出しつづけられるのかというと個人では苦しい面がある。本ではないから放送権をもっているからそれに対して金を払うという形式がインタ-ネット時代の金のとり方になるのだろう。


しかし前にBOOKOFFに2800円と600円の本(新しいよ)持ってって 二つで20円といわれた時は、目が点になりました。
誰が売るかー、このやろう!回収業者に回したほうがまし、と思ったよ



自分も本整理したいものがかなりあるけどbookoffに売るのには抵抗ある。もう一つは本はインタ-ネットで書くようになってから引用するために置いてある。全部読むのじゃなくて今じゃ一部分をキ−ワ−ドで関連するものを読む、というのは年とともに読書力がなくなるんだよ。人生は皮肉だよ、若いときは金がないから本を買いないとなり金の余裕ができたら実際は本など買いるのだか読むエネルギ-がなくなってくるのだ。若いときは金がなくても何もなくても若さとか体力とかこれが最高の資産なんだよ、外国旅行だって自分がパックパッカ-したけど自分には辛かった。若さはそれだけで大きな資産なんだがこれもすぐに使い果たされる。若いときは無駄が多すぎるのだ。自分が買った本は手放したくないということもある。書物愛、所蔵愛みたいなものが生じてくる。これも本というのが物として残るからである。本当はその中味が情報が大事なんだけど本は物としてあるからそうなるんだな、でもいくら本を集めたって人間読める本は限られているからつまらない本は読まない方がいい、これも人生の相当な無駄である。

本屋もなつしかい過去の風景になったみたい



2ちゃんねるの研究(隠語の世界)

●閉鎖された隠語の世界

2ちゃんねるというのはインタ-ネットが作り出した特殊な世界である。その一つに隠語が多いことである。隠語とは何かというとある閉じた世界の仲間だけで通用する言葉でありそのわかりやすい例がヤクザ世界の言葉である。

香具師のもの中心ですが、ヤクザ用語、興業用語、警察用語とも混ざっています

タカマチ 縁日
ショバ (縁日で店を出す)場所
ショバワリ 縁日で店を出す場所を決めること
ショバ代 場所代
ドバ ショバに同じ
ドバヒン ショバ代に同じ
ホンドバ 客が一番来る場所
スソ 客が来ない所
ナガレ 外れだが意外と客が来る場所
オント 穏当
ロハ タダ。只を口とハに分解して
サクラ 客のふりをした仲間。ぱっと咲いてぱっと散るところから


2ちゃんねるではこの香具師(ヤシ)を良く使うからこうした隠語の世界と密接に関係がある。


仲間だけに通じて他の人びとには理解されないような言葉(隠語)の多用は、 新しい仲間の参入を出来るだけ排除し、自分たちだけの特殊な世界を維持しようとする 「村社会」の特徴でもある。ということは、2ちゃんねるも田舎社会の一種だと言うことか。
「2ちゃんねる用語集」というのを見たが、あまりにも隠語が多くてなんだか恐くなってきた。何か、いけない世界に一歩踏み込んだような・・・・・。田舎より恐そうだ。



もともとパソコン通信時代が口頭で話すところを文を使って話すのだから今までにない世界を経験することだったのだ。だからそこからそれなりの言葉の文化が生まれた。面と向かって話すとか文章を書いて手紙を送るとういうことは人類が始まって以来とか長い間やってきたことなのだがパソコン通信というのはパソコンができてインタ-ネットが普及してはじめてできた新しい文化なのだ。ここから多様な庶民レベルの情報が発信されるようになった。だからここに隠語が生まれたことはしかたない、特殊な団体はみんな隠語を使う、サンカなどもそうである。宗教団体もこれも全く外部とは通じない言葉を使う、言葉自体大きくは文化なのだからこれほど多様にありそれぞれ外からは理解でなきい言葉を持つことになる。縄文時代の採集狩猟時代の文化と稲作が始まったときの文化は根本的に違っていた。言葉も違っていたが縄文時代の言葉は地層にあったかもしれないが消えてしまった。言葉自体それぞれの閉鎖されたサ-クルの中での文化であり隠語的なものをもっていた。地域的にも文化が多様であるから方言があり津軽弁などを外からわからないが津軽弁をしゃべれるものは仲間だとなる。京言葉とか関西弁とか古くは侍言葉などがありもありその中で培われた文化の言葉が一般化したのである。一般化したとき共有化された。ヤクザの言葉さえ共有化された。しかし共有化されないものもある。それは特殊のままに閉じて一般化しない、2ちゃんねるの言葉、隠語は一般化しないかもしれてい、ワロス(W)とかをとりあげてはいるが外部のものには全く見当もつかないものである。

●メタンガスとして噴き出す情報のカオス

2ちゃんねるとは何なのかというとこれを一つのものとして見ることはできない、インタ-ネット自体情報のカオスのように2ちゃんねるもカオスである。発言する人の層も多様である。犯罪人もいれば子供もいれば天才もいれば老人もわずかながらいる。発言のゴミの山でもあるがその中からそれぞれの人にとって有効な情報はある。私自身それをとりだして編集したりしているから今までにない情報の摂取方法なのである。なぜなら大衆とか庶民は今まで発言される場所が与えられなかった。一部の学者とか選ばれた人は特権を得て雑誌とか本とかマスコミで発言できたかその他大勢は無視されたのが今までの情報世界だったのだ。それが個々がホ-ムペ-ジであた掲示板であれ情報を発信できる放送局をもったことは今までにない情報世界を創出したのだ。そこに語られるのが情報の質が違っているのは2ちゃんねるのような全国的江戸端会議のようなものが行われることになったことである。そこには内部の情報がある団体にしか属していない、例えば創価とか他の政治団体とか会社の生々しい内部情報が出てくる。それは今まではほんの一部だけが週刊誌などで露出したのである。ほとんどは外には出なかったのだ。だから様々な不満がメタンガスのように噴きだしている地獄の釜のような様相も呈している。そこにタブ-とされた性の異様な発言がある。海外での女漁りを臆面もなく語っているのもいる。そして様々な不満が毎日メタンガスのように噴きだしているのだ。これが情報として無駄かというとそれが社会の毒ある現実でありきれいごとだけではない社会の現実を知るということでも有益ではあるが青少年には有害だろう。マスコミではどうしてもきれいごとだけが語られるが社会は毒々しい世界でありそれをきれいごとにするわけにはいかない、しかしなんでも露出していいのかとなると問題である。

●進化してゆくインタ-ネットの情報世界

インタ-ネットがはじまったのはここ十年にもみたない、その前はパソコン通信の時代だった。これはかなり限られた場の世界であり高度なテクニ-クが要求されたから理系の世界で優秀な人が実際は多かったのだ。自分などより優秀な人がかなりいた。私はたまたまワ-プロに通信機能がついていたのでやっただけであるが実際文章でコミニケ-ションすることがわからなっかった。今ようやく2ちゃんねるなどでわかった。ニフティ時代は参加者は少数でありだから今の2チャンネルとは相当違った世界であり今は中学生とかも参加しているから裾野が膨大に広がったしすでに40代の人は過去の人とか通信の世界にすら世代間ギャップができていてこの2ちゃんねるは年齢も関係なく敬語もないとかなじめないものになっているのだ。中高年にとっては2ちゃんねるは異様な世界なのだ。ただ私の場合はlive2chなどが非常に使いやすい、ニュ-スの一覧として分類したりするのに役立つのだ。本当はここでニュ-スをインタ-ネットの掲示板から多様に集めて編集するとやりやすいのである。そして今何が関心事なのか、人々の反応はなになのかということでマスコミにはないことを知ったりする。「人権擁護法案」というのがそうだった。これはマスコミでは全然とりあげなかったから知ることもできなかったのだ。知ることさえできないものが他に創価関係などであったのだ。

これはマスコミの六局で電波を独占していたからそうなったのだ。マスコミでは視聴率優先だからどうしても貴花田とかの相続問題など延々と放送している。それは視聴率をかせぐためにそうしている。しかしその他細かいニュ-スはいくらでもあるしそこにも重要な検討すべきものがあるのだ。その一つが人権擁護法案だったのだ。これで私の選挙区の議員が賛成派だったことを知り抗議のメ-ルを出したのである。2ちゃんねるは情報のメタンガス状態なのだがこれもまたすべて否定すべき拒否すべきものとはならない、法律的にもすべて禁止はできない、そこにもやはり情報として今までにないものにふれることがあるからだ。ただブロ-ドバンド普及が2千万となるとこれはかなりの数でありインタ-ネットの情報環境も進化してより社会化してくる。だから2チャンネル的な特殊な世界も開かれた世界となったり消えてなくなったりもはや終わっているとかプログが盛んになったりといろいろ進化したものがでてくるのだ。つまりインタ-ネットは情報の過渡的状態のカオスが継続しているが進化もしている。社会の多様な人がより広く参加するようになるとやはり特殊な世界、隠語の世界は嫌われ別なところに人々は集まる。ただ2ちゃんねるは使いやすさで人を集めたのでありこれからはどうなるかはわからない、もう終わっているというのもすでに別な進化した情報のやりとりがまたインタ-ネットから生まれからだ。



2ちゃんねるは中高年には向かない(牛レスが必要だ!)




マジレスってなんだい


真面目に答えることだよ、2チャンネルでは真面目に答えることは特別なことだから


カメレス(亀レス)ってなんだい


亀のようにずっとあとからレス(レスポンス)することだよ


じゃどうだい、牛レスというのは


なんじゃい、それは牛のよう反芻してじっくり答えることだよ


それが一番2ちゃんねるではたりないんだよ
ゆっくり考えていられないんだよな
だから中高年はほとんど発言しないよ
それに団塊を目の仇にしているからな
発言しにくいしコテハンで発言してはいけない所だよ
ただ単に罵倒と攻撃の対象にされるだけの危険な場所だよ
有像無像のわけわからんやつが多いからな
だからマジレスはめったにない世界だよ


牛レスの世界は別に作るほかないよな


若者向きだからツバメレスだよ


そうだな、瞬間的に反応せねばならんからな


次々にスレが一秒あるときなどそうだな


でも2ちゃんねるに欠けているのは牛レスなんだよ
じっくり考えてレスできない、これが一番の問題だよ


そうだな、それで浅薄なアオリとか罵倒とかアラシで終わっているんだよ


そういう一つの若者の文化を作ったがこれもゆきづまっているな


もうニュ-スの一覧するのに便利でそこから何か内容あるものを見いだすのは少ない、ソフトととしては使いやすいものを作ったが内容が余りにも大衆化、低レベルの子供化、ガキの掲示板になってしまったんだよ
つまり中学生までカキコしてアラシになってしまったんだよ
マジレスなどありえない、子供の落書き板になってしまった
これも一つの通信世界の文化を作ったがそれも大衆化してだめになった
大勢アクセスするからといってすべていいとはならない
大衆化、卑俗化でありマジレスを望むものは去って行くよ


私は牛レスの世界を別にホ-ムペ-ジで作っているよ
これはじっくり考えて書いたものだから何回も読む価値あるものになる
長続きするものは牛レスが必要なんだよ


●パソコン通信から始まった文化


この通信の世界は私の場合、偶然ニフティのときからかかわってしまった。パソコン通信からこの文化は始まったのだ。こうしてレス(レスポンス)を次々にしてゆく情報のやりとりや議論の形態など今までになかった。今までの情報環境とは余りにも違った世界である。文章でリアルタイムに話し合うこと自体、経験したことのないことだった。過去の人がこの世界を知ったらさぞや驚くだろう、文章でどうして同じ時間に話し合うことができるんだと、手紙のやりとりでも何日もかかるし電話の一種とか考えるかもしれんが音声ではない文章で話ししているのだから理解すること自体むずかしいとなる。今までにありえない情報世界、コミニケ-ションの方法だった。この世界に惹きつけられたのは今までにありえないことをここで体験しえたからである。しかしこれを活かしたのは若者であり中高年は埒外だった。即興的にうまくツバメレスできないのだ。中高年は牛レスに向いているからだ。私の場合ある程度この世界を理解したのはやはりニフティの通信世界でその時わからなくても体験していたからである。中高年でも俳句の連句などに向いている。全国の人がリアルタイムで俳句を作り批評もできるからだ。このソフトはかなりの利用価値があるが中高年では応用されていないのである。

ニフティはコテハンでありだから攻撃が常にあった。2チャンネルではコテハンはさらに百倍も危険な世界だった。失敗したのはコテハンになるはずないのになっていた恐怖である。ハンドルネ-ムを書いて下さいとあり書かないとアクセスできなかったのだ。でもすぐに逝ってよしで終わりである。2ちゃんねるはコテハンですら危険な世界なのだ。どんなやつがいるかもしれない、本当に犯罪者も交じっているし現実に逮捕された人もすでにそれなりにいる。こんなところに深入りしたのもニフティの継続でそうなった。それでもこの世界は情報環境を変えてしまった。週刊誌とか雑誌とかあるけど一番近いの週刊誌である。その週刊誌より生々しい情報のやりとりがあるのだ。だから最近雑誌とか週刊誌すらほとんど読んでいない、ただ関心のあるものをパピレスとかで300円で読んだり噂の真相の一記事を300円で読んだがこれも高いと思った。百円くらいならもっと読めるしそうならないと普及しない、インタ-ネットで情報環境は新旧交代のように変わってしまったのだ。今までとは全然違った情報環境でありそこでの情報のやりとりも違っている。ペ-ジを読んでリンクをたどる読み方とか全然違った読み方をしているのだ。だから常にインタ-ネット自体に興味を持つインタ-ネット情報学という探求の分野ができたのである。





ニフティと2ちゃんねるで起きてる問題の共通性

●匿名問題

2ちゃんねるで起きていることとニフティで議論したことはにている。ニフティで起きた問題はインタ-ネットでも起きている。2ちゃんねるで「名なし」にしたのは差別とかその他自由な発言に問題が置きやすいからである。差別でも差別語すら知らない人がいる。私も無知がありそれで失敗した。言論が訓練されていないし雑誌のように上の人にチェックされないからとんでもない発言が飛び出してそのままのってしまうから問題であった。匿名だから発言に責任も持たなくてもいいからそうなる。この匿名問題もさんざん議論されたがインタ-ネットでもそれは同じだった。ただ違うのはニフティという一つのフォ-ラムの世界は極めて狭い世界であり発言する人は数十人とか読んでいる人も百人くらいとか2ちゃんねるで起きているのとは比べものにならない小規模の内輪の世界だったのだ。ハンドルネ-ムでも誰がどんな発言をしているかとかすぐわかりその人が何年も発言しているのだからどういう人かもわかってしまう世界だから匿名とも言えない世界だったのだ。完全匿名化したのインタ-ネットの2ちゃんねるだろう。このシステムを作ることによって発言しやすくなった。しかし一方無責任さは増大して低劣化してまさに今や便所の落書きとなりほとんどシュプレヒコ-ルのような罵倒とかつるし上げとか中味のないものになってしまった。中学生までが発言してさらに大衆化した結果、スレばかり次に次にたつのだが中味がない世界になった。ただニュ-スの一覧に便利なだけのものとなってしまった。まともな発言する人はここから去った。しかしこのこともニフティで議論されていたのである。馬鹿な発言するものは発言するなとかニフティでは特にそうだった。金払ったいたのだからくだらない発言を読むために金を払うのかとなり読んでいる人に迷惑かけることになるからだ。

●シスオペの存在

もう一つ違うのはニフティの場合シスオペという司会役のような人がいたことである。この人は必ず各フォ-ラムにいて結構な金もらっていたらしい。アクセスをふやすと余計金をもらっていた。そもそもニフティは時間により課金するシステムだからフォ-ラムに夢中になればなるほどニフティがもうかるシステムになっていたのだ。一カ月5万とか払っていた人も結構いたのである。だからさらに読むだけの人でも金払っているからつまらない発言はするなとかなる。これはインタ-ネットになってからは全くそういうことはない、一部会員だけで掲示板やっているところもあるが一般的にシスオペのような人がいて削除とか会員を抹消するとかはない、そもそも掲示板でも運営する人がいてかってにその運営する人の都合で消してもいい世界である。別なところへ行ってくださいで今では終わりである。ニフティではそこでしか発言できないのだから削除されたり会員を退会させることが非常にむずかしい世界だったしある程度誠実に検討されてめったに発言削除とか会員が発言できなくなることはなかった。インタ-ネットになるとどうなったかというとこうした管理する人はいなくなった。個々人の運営ではいても2チャンネルでは何を書いてもいい世界である。殺人予告を書いて逮捕された人もいる。名誉棄損で問題になったが2チャンネルでも頻繁におきている。そのコストが大変なものになっている。いづれにしろ2ちゃんねるの世界は広いから誰か管理などできない、インタ-ネットでもそうである。だから自己責任の世界であるがなんらか制御するには法律が必要であり今度は逮捕されることになる。シスオペという存在もやはりインタ-ネットを考える場合、シスオペに代わるようなものが必要なことがわかる。ともかく掲示板の運営はニフティでシスオペをおいたように個々人でもどこでもむずかしいのである。


●大衆化低劣化の問題

つまりどうしても良質な選ばれた人の発言を求めることにもなる。みんな発言できるからといって発言したらそれは大衆化して低劣化してただ中学生の発言の場になってしまう。そんなものもうただの連絡板でまともな大人は読まないとなる。数は増えることはどうしてもインタ-ネットでも目安になる。なぜならインタ-ネットは私のホ-ムペ-ジでも2,3割は一回しか読んでいないし全然私のホ-ムペ-ジに関係ない人がきている。インタ-ネットはまた全然違った分野の人や地方の人が参考することになる。それで意外な読み方をすることになる。だからどうしてもアクセスが常時多い方がそのホ-ムペ-ジが生きていることになるのだ。そして発言する数は多くてもその内容がない、発言する数の人の増大が大衆化低劣化をまねいたのだ。そもそも2ちゃんねるがヒットしたのはソフトなのだ。このソフトと使いやすいし掲示板として使いやすいということで人を集めた。でもいくらソフトがいいくてもそこに集まる人が低劣化すると中味もないただの中学生の落書板になってしまった。宗教でもどこの世界でも人が大勢集まると俗化する、低劣化する、低劣化したものが大衆週刊誌のように好まれる。そこで卑猥なことでもゴシップでもそうしたもので埋めつくされる。2ちゃんねるは大衆週刊誌的掲示板であったからそれも当然だが政治とかその他真面目な社会問題を論ずるのには向いていないものになった。ただソフトに関してはこれは他でも利用価値が大きい。他の掲示板をなんかみんな使いにくいからいやになるのだ。ここに社会の一線の人が集まり発言したら非常に内容のある面白いものとなる。それだけで読む人もふえる。これもニフティでも起こったことである。有料であればニフティに雇われた人が発言する。情報を提供する。それは常に問題となっていた。ニフティで問題になったこととインタ-ネットで問題になったことはパソコン通信の世界の延長がインタ-ネットだから当然であった。

●分散化の問題(ポ-タルサイトの重要性)

インタ-ネットの最大の問題は情報の分散化である。なぜ2ちゃんねるにこだわるのかというと誰でも新聞を読みテレビを見て世の中のことを知りたいと思う。それも時間に追われる時代だから手っとり早く一覧的に知りたいのである。2ちゃんねるにはマスコミにはない、世の中の動きがリアルに反映される時がある。マスコミのように一方的に知らされるのではなく下からの問題指摘や発言がある。そこが今までにない言論の世界だった。そこに雑多でも様々な立場の人や意外な情報にふれることがあったのだ。インタ-ネットではあまりに分散していて掲示板でもあまりに分散していると読みきれない、それぞれの掲示板にはいろんな人がいていい発言をしていてもそれがわからないのだ。だから検索そのものがそうしたいい発言を見いだして結ぶ、つなげる、編集することになるのだ。もしこうしたいい発言が2チャンネルの中で展開されるとものすごく便利である。スレを整理するのにもいいし最初まずポ-タルサイトととしてここをチェックして次にそこから他のペ-ジへ回る、なぜインタ-ネットでポ-タルサイトが大事になるかというと情報があまりに分散したらもう知りえようがなくなっているからだ。千人の発言を点検することはすでにできない、インタ-ネットは分散型だからしょうがないとなるが使う方になると読む方になると不便になる。この分散化の問題はニフティではそんなに起こらなかった。小規模な世界だからある程度見渡せる世界だったのである。いづれにしろ2チャンネル的情報の世界は一時期ヒットさせたがもはや大衆化低劣化で中味のない文字通りの落書き板となってしまったのだ。だからニュ-スの落書板としての価値しかないのである。





報道されない闇に葬られる事件
(マスコミとは違うインタ-ネット情報径路の相違)

●警察と田舎


白の軽トラがふらふら走って来た、そのまま川に落ちた、運転していた爺さんはベロベロに酔っていた、あとから友人らし人たちが白の軽トラで数人来た全員ベロベロ酔っていた。
警察も来たが全員逮捕もされず、娘や息子に連れもどされた。

爺さんたちは警官に「やつの車が川に落ちたので助けに来たがなんともならんので、腹が立ってここで酒盛りをした」と言っていた。

駐在も下手なことをすると仕返しが怖いので見逃した?数人は村会議員だった。
不逮捕特権?

全部の軽トラに営農サンバのシールがあった。
(軽トラというと、農協でしか買えない営農サンバー&JAサンバーというのもありますね。)


(http://blog.goo.ne.jp/inaka007/m/200503)


この情報の詳しいことはわからない、たまたま2ちゃんねるで都会と田舎ということで批評して書き込みしていたらこのホ-ムペ-ジの紹介があり読んだのだ。ここになぜ注目したかというと与那国島で木陰に長く休んでいたから怪しいと警察に通報され職務質問されたからだ。そのときの言い分がこういう小さな島では村人と仲良くやらないとやっていけないと自ら警察が言っていたのだ。ただこれはたいした問題でないし騒ぐことでもてい、ただ離島がどういうところか話しの種に書いたまでである。警察にそんなに問題があったことでもないのだ。ただ村人に通報されたことがこれだけ怪しい旅行しても一度もなかったので書いたまでである。

しかしこの事件は真相はわからないにしても警察が村人を村会議員をおそれて事件を闇に葬ったとすると重大な問題になる。もしこんなことがあるとすると警察というのは恐怖だとなる。警察権力の不正は民主主義社会では法を公正に執行する立場の人だからここにこうした不正や村人優先というか村の実力者の方が法に優先するとなると村には民主主義社会はないとなる。こういうことは実際かなりあるのかもしれない、警察によって闇に葬られる事件である。自殺であったものが自殺でないとされるのはかなりの数ある。これは意外と簡単だからだ。医者によって書類を簡単に自殺でないとできるのである。なぜこのことを取り上げたかというとインタ-ネットの情報は今までの流通経路と違っている。ニュ-スとか事件とかは主にマスコミが取り上げなければ知ることさえできないのである。ところがインタ-ネットにでて来る情報はそうしたいわば公のマスコミの情報と違っている。こうした個々のホ-ムペ-ジやプログに書かれた情報は今までのマスコミの情報とは全然違うのだ。個人が発信している情報だからマスコミから発信される情報とは全然違った径路からでて来る。それは多くの人にとってほとんど検討もされない情報である。ただ今私はこの情報に関心をもったということであり一人は関心もった情報を今度自分のホ-ムペ-ジにのせる。するとわずかでもこの情報に関心持つ人がでてくる。その影響力はあまりにも微弱だが全く今までとは違った情報の世界が生まれたのだ。個々人が作り出す関心事なのである。個々人がつなぐ関心事なのだ。こういうこと今までの情報世界になかった。


●顕正会事件の情報の裏


強引な勧誘から社会問題にも発展しているので、公安警察からもマークされているのです。しかしご存じの通り、創価学会には妙信講時代からの顕正会のデータが蓄積されております。事実として顕正会の事情に一番通じているのは日蓮正宗宗門でも公安警察でもなく、創価学会なのです。

公安警察とマスコミに顕正会の情報を提供することで顕正会を制圧したいという点で利害が一致し、なおかつ学会青年部には「顕正会員救済」の大義名分で学会流折伏を展開して多忙にする事で、学会内部の矛盾について考える時間と労力を奪い、組織を引き締めようと言う魂胆ではないかと思うのです。

状況証拠として今回唯一地方局で「テレビユー福島」が今回の顕正会員逮捕の報道を全国ネット放送局とは別に独自に行いました。


テレビユー福島は毎日新聞系列のテレビ局であり、皆様ご存じの通り、毎日新聞は創価学会の機関誌・聖教新聞の印刷を大量に請け負っていて学会批判や公明批判の記事を書かない新聞社として有名です。

http://hokkech.ddo.jp/modules/tinyd0/index.php?id=4


顕正会は初期の創価とそっくりなのだ。役職も隊長とか部長とかあり軍隊組織であり参謀などもあった。折伏大行進で強引な勧誘を行ったのも同じなのである。最初創価もこのように過激だったのだがだんだん社会化してゆくにつれ無血革命とか総体革命とかより巧妙な手法での権力奪取作戦に出たのだ。この情報で重要なことは「テレビユー福島」が関係していたことである。福島民報は聖教新聞をすっているから創価の宣伝社でもある。その系統にテレビユ-というのもあったのか、これらはつながりがある。マスコミはこうして創価とかの巨大団体操作される走狗でありマスコミの影響は甚大だから顕正会のことを今までは報道しないのに創価の権力と影響力で大々的に報道されたのだ。これによってイメ-ジを悪くさせることができた。一方創価の不祥事はマスコミでは大々的に報道されないしたたかれることはないのだ。NHKまで創価に取り込まれているからだ。

ではこの情報の出所は創価と対立する本山派(日顕派)から出たのだろう。だからこの情報の出所も信用はできないが敵対するものの情報は真実をついている。創価をやめたとかカルトをやめた人や内部情報の真実はそういう人達からでてくるからだ。敵対する団体であれ個人であれその情報は真実をついているのだ。そうした情報はマスコミからはでてこない、マスコミは創価に操作されていることが明確である。情報というのは巨大な権力を持っている団体に簡単に操作されるのである。それは非常に怖いことである。真実は闇に葬られとしたら民主主義の正義はなくなる。石巻の議員の焼身自殺というのもなんであったのか不明である。その他この世には何か不明のままに闇に葬られた事件がかなりある。そこに警察がかかわるからこれを取り上げたのである。インタ-ネットの情報はマスコミが取り上げる事件だけではなく全然取り上げない事件の情報の探求と関心を持つ径路を作ったのである。それはかなり情報の世界に変革をもたらす、マスコミだけが今や神のごとく君臨して一方的に知らせる時代は終わった。そこでは重大なことが取り上げられない放送されない。そういうものはいくらでもある。だからインタ-ネットはめんどうでもテレビだけにかじりついているとこの世のことは見えなくなる、ただマスコミに操作されるものだけになることは確かである。



マスコミ独占縦型支配であり一方的になる傾向があった。この情報流通に個々人は参加できないのである。大きな団体とか新聞社とか6局のテレビ局が報道する権利を握っていたからだ。出版の世界でも大手出版社とかによって決められていた。本は多様でも実際書店に並ぶのは売れ筋の大手出版社のものなのである。数の本は書店に置かれることもなかったのだ。マスコミは創価とか大きな団体によっては操作するのに都合いいのである
大きな情報の流れの上をとめれば情報は流れないからだ。
特にテレビと新聞をおさえれば情報は独占できるのだ。



自己責任社会とインタ-ネット(インタ-ネットが広がる意味)

●自己責任社会には情報開示が必須

報道とは何なのかというと何かを知らせること、何か大事なことを知らせることが報道である。狼少年というのがいた。羊を襲う狼を告げるの少年の役目だったが嘘ばかりついていたら信用されなくなった。これは小さな地域で危険を告げる役割だった。報道というと今では国全体とかに告げる役割である。台風が来たとかアスベストが危険だとかいろんな危険情報を告げるのも報道の役割である。報道には様々なものがある。一般に報道という時国民全部に知らせるというのが報道だったしそれをになっていたのはマスコミである。だから報道は凄い大勢を対象にしないと意味がないのだ。国民全部が知るべきことがあり知ることができなければ判断も何もしようがないのだ。これは北朝鮮などで起きている。悪いことが何も報道されないのだ。だから国民は何も自主的に判断することもできないのだ。報道は単に知らせるということでありそれは必ずしもむずかしいことではない、インタ-ネットのホ-ムペ-ジとかプログでも実際できるのだ。ホ-ムペ-ジを出してみんなわかったことは報道というものにたずさわっているということを実感する。そんなこと今まで個々人やれることなどなかったから不思議な感じになるのだ。

報道することは知ってもらいたいというこは個々人ベ-スでもいくらでもあるし地方のニュ-スでもいろいろある。この世に報道すべきことはいくらでもある。それを全部マスコミが取り上げてはいない、マスコミが報道されないことの中に重大なことがふくまれていた。創価の不祥事は小さくしか報道されないしNHKでは中国の悪いことは取り上げないし世界的にも中国のチベットの弾圧はほとんど報道されない、報道されないことの中に重大な悪が隠されることになる。報道されないということは自主的に判断することが不可能になる。知らせられないものは知り得ようがないのだから判断できない、民主主義は各人の自主的判断によるという時、知らせられないものはわからないのだから判断しようがないのだ。自主的自己責任社会には報道の自由が確保せねばならない。しかし報道するとなるとその対象がテレビのように何百万とするとホ-ムペ-ジは10人とか100人になるから報道の機能はになえない、インタ-ネットは報道に向いていないのだ。一部インタ-ネットでも日本経済新聞のように経済情報を流しているからかなりの数が見ているものがある。しかし個々のホ-ムペ-ジは報道できるのだがその報道する相手が数十人では意味がないのである。

●自己責任社会にはインタ-ネットが不可欠

今回の糖尿病だった少女が真光元とかいう薬にかかわりのめりこんで治療がおろそかになり死んだということについて医者が発言したがなるほどと思った。それについて今度は宗教的な側面とか身近に体験したひととか見聞きした人が発言する。するとそこで自主的に判断する材料がでてくる。自主的に自己判断する自己責任社会になるとするとそうした情報に絶えずアクセスする知る必要がでてくる。その材料がないと判断できないのだ。だから自己責任社会には情報開示が必要なのである。ロシアに旅するにしたってまず情報の収集からはじまる。これが旅行会社とか旅行の情報を発する出版社だけに頼っていると一方的になりわからななくなる。ロシアの旅はむずかしいから旅行会社に全部頼ったら自由旅行すらできなくなる。ロシア旅行の経験者とかの情報が必要になってくる。医者にかかるにしてもその病院とか医者にかかった人の情報が必要なのだがこれも得ることができない、インタ-ネットではそうした噂話しとかで個々の病院とかにかかった人の体験がのったりするからそれも参考にはなる。つまり自己責任社会には情報開示が必要なのだがそれがマスコミでは十分に成されていなかった。

そこにインタ-ネットがでてきて情報が自由に出回るようになって新たに知られたものもでてきたのである。だから自己責任社会ではインタ-ネットは不可欠の道具である。マスコミとか出版とかに頼ると社会は見えて来ない、そこは権力をもっているものしか情報を発信できないからだ。インタ-ネットは今までの上下縦型権力権威支配型ではない、横のつながり、国民や消費者の横連携型の情報発信である。縦型だと結局、今まで6局しか公認されなかったテレビなどにしか頼ることができないし権力を持っているものは6局の放送局をおさえれば情報を統制できたのである。だから創価の悪いことはマスコミから出てこないのだ。簡単にマスコミは巨大な力を持っていてもさらにその上の巨大な力あるものにより操作されるものだった。報道するにも費用がかかるからである。それはコマ-シャルなどの宣伝費に頼る他ないのだから消費者金融の悪口は言えないとかいろいろ問題があった。自己責任、自己責任の合唱になったがその自己責任社会には情報開示が必須である。インタ-ネットが隅々まで広がることも必要である。インタ-ネットも民主主義の自己責任社会を押し進めるものとして不可欠でありこれはだから離島であれ山村であれブロ-ドバンドのインフラは国で整備すべきものである。道路と同じだし今や道路は無駄なもの、自然破壊までして作っていることを考えるとブロ-ドバンドの普及の方が大事なのである。



2ちゃんねるの洗脳が自民圧勝の原因?

●2ちゃんねるは作為的洗脳機関だったのか?

2ちゃんねるで絶えずバッシングしているのは公務員の優遇への果てしない怨嗟と怨念であり公務員叩きである。次に地方への公共事業などの無駄を減らせとなり次に外交では中国韓国叩きである。そして団塊の世代叩きである。しかし不思議なことは2ちゃんねるとはみんな特殊な世界であり現実世界とは違った、現実には通用しない空想バ-チャルな世界で現実の世界に影響しないマイナ-な世間に受け入れられないものの不満のはけ口のような便所の落書きのようなものとされていた。でも今回の選挙でわかったことは2ちゃんねるが常にあおっていることと選挙結果は全く一致していたことである。2ちゃんねるは現実世界から離れた少数者の世界ではない、多数者の日本的常識的世界の人達の発言だったのだ。2ちゃんねるは今思うに余り考えない若者を洗脳する作為的なものを感じる。常に自民右派であり中国韓国叩きを延々とやっている。中国韓国よりの発言は必ずたたかれる。ということはアメリカ寄りであることなのだ。だから郵政民営化推進派であり郵便貯金もアメリカの投資資金として利用されてもかまわないとかなる。中国韓国よりというのも問題がある。でも地政学的に考えて日本の隣人は韓国であり中国でありロシアなのである。アメリカは簡単に日本を見放せる位置にあるから危険になれば日本を簡単に見放すのである。中韓を叩いても結局アメリカ寄りにならざるをえないのが日本でありアメリカなくして安全もありえない、そのアメリカは地政学的にはいつでも日本を見放して何の不利益もないのである。

●2ちゃんねるへののめりこみの危険

人間は常に他者からメデアから何らかの影響を受けている。マスコミがそうだった。その一方的情報操作を指摘したのが2チャンネルでありインタ-ネットの個々の発言だった。メデアがメッセ-ジであるというときメデアそのものに人間は影響されるのだ。2ちゃんねるというのもインタ-ネットというメデアが生まれて若者が夢中になったメデアである。ところがそこで自主的に考える人がふえたかと言うとそうでもていかえって2ちゃんねるが自民右派の洗脳の場所になっていたのである。2チャンネル的掲示板ではゆっくり考えて独自の見解を出すより他者を一方的に叩いたりリンチ的につるし上げるのに向いているしそれが面白くて参加している若者が多いのだ。そこから思索して独自の見解を出す人は少ない、確かにヒントは得られることはあるが発言が短いからアオリとか叩きとかつるし上げに向いているのだ。今や2ちゃんねるは自民右派の作為的洗脳の場所と心得て読んでいないといつのまにかにか洗脳されているのだ。今回の選挙結果に2ちゃんねるがどれほど影響したかわからないが若者もニ-トも参加したとなるとそれなりに影響した。こんなに2ちゃんねるの日頃言っていることと一致したことはなかったからだ。浮動票は2ちゃんねるの影響を受けたか国民の傾向として2ちゃんねるの言動と一致したものがあったのかともかく2ちゃんねるは個々に自由に物を考えてそれを出す所ではない、それができないのだ。必ず叩くやつがいて一定方向にもってゆく人達が工作員としている。それは自民右派の人達である。今回の選挙がそれと全く一致していたのだ。

●2ちゃんねるより個々のホ-ムペ-ジ、プログが公平

2ちゃんねるは余り考えない若者などを自民右派に洗脳する場所ということを知る必要がある。独自の見解、思想を持つ人は個々のホ-ムペ-ジやプログで述べている。もちろん今回の選挙は民主の余りの主張なさ、野党としての存在感の無さが原因であることはわかるから一概に自民右派の主張を責めることはできない、しかしいつも2ちゃんねるは自民右派にかたよりすぎているからここに入り浸ると自ずと自民右派になり今回のような自民を極端に勝たせるあおりが成功させることになる。だから2ちゃんねるの発言、自民右派の洗脳場所であり他を受け入れることを拒絶する場所ということで批判的に読む必要がある。つまり一方的な発言が多く洗脳の場所なのである。ただ自分としては自民と公明は切れというのは賛成している。しかしそれはまた今回の自民右派の圧倒的独裁政権さえ実現することを望んでいることがわかったしそれが現実となったのだ。だからこれから憲法改正さえありうるしもはや野党は無きに等しく自民右派の言う通りになりあらゆるものが実現される危険性が生まれたのだ。2ちゃんねるは深い思想的展開ができない所である。二三行の発言だからそうなる。そこに独自の思想とか見解とかから発言している人は少ない、アオリであり吊るし上げでありバッシングでありさらし者にすることであり人間の劣性が匿名のままにあからさまに出るところなのだ。

しかし一時はマスコミのアンチテ-ゼ批判として新たな視点を与えていたのである。しかし今はマスコミと同じように一方的自民右派の洗脳場所として離れてク-ルに批判的に見ていた方がいいのだ。2ちゃんねるが国民の多数となりそれが今回のような自民右派の独裁政権さえ生む結果となる危険性を感じたからだ。マスコミの左寄りも問題だが2ちゃんねるの右寄りも問題なのである。インタ-ネットは影響ないとなるがでもなぜこれほど自民右派を勝たせたのか?マスコミもそうだが今やインタ-ネットの2ちゃんねるもそうした一方的洗脳の場所になったことを自覚するべきである。本当の公平な見解は実は個々のホ-ムペ-ジでありプログにあるのがインタ-ネットの世界である。ただここは探すことがめんどうなことやむずかしいことを言うとなるといやがられる。大衆は単純なことがわかりやすくていいのだ。だから小泉の戦略にのったのである。2ちゃんねるもまた単純だから自らあまり考えなくてもいいから大衆的となり一方的洗脳の場所として若者に影響したのである。つまり2ちゃんねるは見る人が多いから新たな洗脳するマスコミとなったのである。単純明解なものはまたファシズムに通じているのだ。大衆的なものは現代ではファシズムの温床であり2ちゃんねるも自民右派のファシズムの温床になりえることに注意すべきである。



インタ-ネットで出版社書店の存在意義が消失する

●情報はマルチメデア化して多様化する

インタ-ネットをしてから最近本を読まなくなったという人が多くなった。では活字離れかというと活字はインタ-ネットでは前より読んでいるのだ。本というかつての媒体を通して読まないだけで活字は読んでいるのだ。本と活字は別に考えているが紙に活字を組みいれたものが本なのである。紙に活字が書いてあるのと電子で活字が流れているのとの違いなのである。読書というとき何か別なイメ-ジなのだ。「読書百篇意自ずから通ずというとき」論語の素読とか硬い真面目な本を読むことが読書なのである。一方単に情報として受けとるものは読書ではない、それはニュ-スのように情報であり読書ではないのだ。読書は論語の素読のように最低限身につけねばならぬ古典などを読むことを読書とししているのだ。本を読まなくなったというときこの論語のように硬い基本的教養を作る基礎の読書をしないということなのである。だから漫画ばかり読んでいるとかテレビばかりみているとか読書に比べてこうしたものは教養を作らないというイメ-ジがあるのだ。でも別にテレビでもパソコンでも映画でもビジュアルなものでもそれなりに教養となるものはある。ただビジュアルなものと活字と一体となりマルチメデア化するとき相乗効果で生きてくる。漢詩なら漢詩を作られた場面を写すとより効果的になる。つまり活字、言葉というのは人間が生きている限り死ぬことはない、言葉はまさに奇跡的なものでありその効力は映像をも越えているのだ。人間は言葉なしではコミニケ-ションできないが映像なくてもコミニケ-ションはできるのだ。それほど言葉というのは人間の根幹を形作るものなのである。哲学的思想的詩的なものでも映像だけですべて現すことはできない、必ず言葉が必要だからだ。最近見たNHKのシルクロ-ドの要衝で栄えて滅びた西夏王国の黒水城を見たが砂漠の中に黒いシルエットとなり残っている城は幻想的であった。それを漢詩ではないが日本的漢詩で漢字を連ねてみた。

黒水城残影

河涸不生草
牧民不養家畜
離散悲劇
絲綢之路
流沙之路
黒水城襲砂嵐
残影留夢如
百体之仏埋沙
西夏亡国之史
舞砂塵茫々

映像を言葉化してさらに何か新たなもの発見するし逆に言葉から映像化することでさらに表現を豊かにする、マルチメデア化ということは表現の幅を広げるのだ。

●専門化した情報の場のみ生き残る

インタ-ネットで書店の何が、出版社の何が問われるようになったかというと書店というのは余りにも情報がない、例えばハリ-ポッタ-と雑誌くらいしか置いてないようになってしまった書店も多い、それしか売れないから置けないとかなっている。何か知りたいという情報のアクセスの場としては余りにも貧弱化してしまったのだ。最近インタ-ネットを毎日のようにしてわかったことはキ-ワ-ドで検索するからキ-ワ-ドを通じて知の世界を広げてゆく。それは本ではでないのである。何故なら本のペあるペ-ジとだけ結び知の世界を構築する作業をする、編集するからである。例えば鉄道に興味あるなら中国の鉄道、かつての満州鉄道、シベリア鉄道と次々に広がってゆく鉄道の世界がある。鉄道模型の分野もあるし鉄道の歴史は長いから奥深い。その鉄道の分野の知識にしても膨大だからそれだけで軽く一軒の書店を埋めてしまう本が必要なのである。つまりこれからの書店は専門化した書店というより鉄道の情報蓄積の場として存在するようになる。それは本だけではない、インタ-ネットを通じてweb上でも鉄道の知識は蓄積され鉄道に興味を持った人はその情報の蓄積された場所にアクセスするのであり本を買うとうでなくなってくる。そこには鉄道のビデオやDVDとかグッズとか記念の品物とか鉄道のあらゆるものを置く鉄道の博物館的役割も担うことになる。最近注文したイギリス鉄道物語というのも様々な作家や詩人がイギリスの鉄道を語りその抜粋をのせているものなのだ。イギリスの鉄道は古いからそこには語り尽くせない物語があるからだ。ともかくそこの場所だったら鉄道の世界にひたれる場所の提供なのである。ハリ-ポッタ-とかベストセラ-だけを置いてある書店はもはや書店ではないのだ。こういう書店だ田舎でも成り立ったかもしれない、でも今やこうした情報の専門化すると田舎では書店自体成り立たなくなる。

●ネットでは一個人が知の膨大な集積を作りうる

ある一人の俳句についてなどプログで書いている人いたがこれは驚くほど博識であり俳句の百科事典のようになっている人がいた。それを読むと俳句の過去から現在、季語の成り立ちなどあらゆることが網羅されているのだ。インタ-ネットは個人でも驚くべき量のものが作れる。それは自分自身書いてみてわかったのである。さほど才能なくても全集を作れるのだ。それも個人の手で作りうる。写真も無制限に入れることができる驚くべき表現力がインタ-ネットにはあるのだ。だから出版社とか書店は根本的に変わらざるをえないし存亡の危機に立たされているのだ。書店に行かなくても本を買わなくても膨大な知識にアクセスするツ-ルができたからである。ただ内容はまだいいものがないにしてもこれがインタ-ネットでは無限にこれから蓄積されてくるから田舎の書店などに知識や情報を求めてゆく人はいなくなるだろう。だから都会では専門化した情報の場として残る書店があっても田舎では書店は消えてゆく、本はインタ-ネットでいくらでも手に入るからだ。信じられない変わった本もアマゾンの古書にはでている。簡単に誰でも出品できるからだ。一円で売っているものもいた。情報や知識は出版社や書店だけで取り仕切るもではなくなったのだ。それは万人に個々に開かれたものとなってゆく、それはあらゆる所で政治の分野でも官邸から記者クラブではなく直接インタ-ネットで流すようになるのもその一つである。情報の流通はスピ-ドをまし膨大な知識、情報の蓄積にアクセスできるようになるし発信することも可能になったのだ。

こうして毎日書いて発信している自分がまさにそれを実感したのだ。出版社の不便な点は本にするまで大変な行程が必要であり普通の人はできないしそこに発信するものとして参加できなかったことである。しかし本来は出版社の編集であれ取り次ぎの流通であれ書店であれそれは本来情報を伝達するものでしかない、道路のインフラであり水を運ぶ水道管でしかない、本来の情報の役割は知識の役割は発信するものが主人になるべきでった。創作するのは作家であり作家がそのまま自由に編集して表現したものをそのまま発信できれば一番理にかなったことであり本来の目的を達することなのだ。出版社とか書店とか新聞社とかテレビ局とか媒体とするものはメデアに過ぎないとなるのが理想なのである。インタ-ネットができて今やテレビ局さえメデア(媒体)がその存在基盤を揺るがせられているのもそのためである。情報の創作の発信が個人でもできるとなるともはや6局だけの電波の独占は崩れキケルゴ-ルの言う水平化して平等化してゆく、そこで困るのは多様な取捨選択が起こり何かマスコミが国民が知り議論せねばならぬものが見過ごされてしまうような危険性がでてくるかもしれない、そんなに膨大な無数の意見と知識にアクセスできないし検討できないからだ。膨大な知識、情報にアクセス不可能となるし発信しても全然省みられないとかなってしま。この膨大な情報と知識のカオスの中で生き残ることはまた少数者となってしまうかもしれない、今のテレビ局さえ弱小の一メデアに転落することさえありうるのがインタ-ネットの世界であり情報の下克上の世界なのである。



 はずされた看板
(存在感のない電子空間)


現代の問題それは存在感の喪失なのだ。今日の一句一歌の秋の蝉で書いたように人間という万物の霊長たる人間の存在感の喪失なのだ。シュペングラ−の「西洋の没落」でも人間はもはや数としてしか存在しないとか言葉は都会の商業化により本来もっていた日本で言えば言霊とか言葉のもっていた神秘性は失われ記号化する。言葉は詩の化石だとエマ−ソンが言ったような言葉の図り難い神秘性は失われてしまった。ピカ−トの言うように騒音語となってしまった。言葉であれ何であれ文明人の共通の言葉は貨幣に変換するとか人間の存在は都会文明の中で巨大な組織の一つの歯車でしかない。宗教団体であれ文明の中では組織化したものしか存在しないのだ。なんらか存在感をもたせようとしたらこの世からはずされたアウトサイダ−になるのである。では人間の本来もっていた存在感とは何なのか、それは古代文明ではもっていたのである。偶像として否定されるがおびただしい人間の像が刻まれている。それは英雄の像かもしれない、神の像かもしれないがやはり人間の存在感を示すものだった。今の時代人間の像など誰も刻まない、マスコミであれ社会であれ組織の砂粒のような一員と化したものだけで本来の人間の存在感はない。その代償として政治家とか芸能人が偶像化しているのかもしれない。

しかしそれらは古代の重厚な人間像とは違う、何か精神の中味のない広告塔なのである。コマ−シャル的存在なのだ。今でも後進国には長老とかその土地と一体となった風格のある存在感のある人間が存在する。でも文明人はそういう人たちと遭遇してもその人が土地と一体となっている精神的人間の重みは理解できない、常に金ですべてを図ってしまうのだ。そこが文明人の傲慢さでありグローバリゼーションの世界の歪みでもあった。文明人は金とか組織とか技術でしか権力でしか存在感を示しいないのだ。その最たるものがアメリカでありその反発の一因としてテロが生まれた。それは人間としての本当の意味ある価値ある存在感なのかどうか疑問である。インドの行者のように無一物でも存在感のある人はいる。権力的存在感はそれが消えた時虚しいもとなりうる。東京のような物凄い存在も何か意味ある存在として感じない、砂漠のような広がりに見える。人間もその中ですて砂粒のような存在になっている。それらが消えたとき何かが意味あるものとして浮かんでくるのか疑問である。

      はずされし看板一つ秋の風

いつも通る六号線に広告の看板があった。毎日通っていたが広告などうっとおしくて見なかったし何が書いてあるかもわからなかったのだ。今日みたらその看板ははずされていた。そしてあれここに何の広告の看板あったのかと初めて思ったのである。これも奇妙なことである。無くなってみて初めて気づいたのだ。こういうことって人生にはある。いつもいる人間はうっとおしく嫌なものだがある日死んでいる。死んで初めてその存在にあわれとかいとおしみを感じる。死んで初めて無くなって初めてその存在に気づく、ここに店があったなあれ今日来てみたらない、無くなって初めてその存在に気づく。この広告の看板は何かを主張していた。何を宣伝していたのかさえわからなかった。無くなってみて一体何があったのだろうと考えさせられたのだ。


  巨大な虚ろなもの

巨大なビル、自動車の喧騒,がなりたてる宣伝
ネオンの激しい点滅、新聞、テレビの宣伝
執拗に自己主張し存在を訴える
それらはうとましく目をそむけ耳を閉ざした
あまりにも図々しくうるさいのだ
しかしある時それらはみんな消えていた
それらが消えたのもわからなかった
そんなにも主張しこの世を占拠していたものが
ある日突然消えた時不思議なことに
それらがあったということさえ気づかなかった
一本の電信柱がコンクリ−トのブロックの破片が
鉄骨の一部が風にさらされ一本折れ曲がり残る
秋風が吹きそこに何も残っていない
そして存在の哀愁を語っている
それらが消えて無くなった時初めて
その存在に気づかさせられた皮肉
現代文明の実は儚いことをそれは示していた


これはとにかく物として存在したからその物の存在が無くなった時、気づいた。石に刻まれた文字でも木に刻まれた文字でもそれは石とか木という存在感があって主張している。本もそうなのだ。本という紙の存在感の上に文字が記され存在を示している。ところがインターネットの電子空間ではこうした物としての存在感がないのだ。無数のホームページの一つや二つ消えても物として存在していたわけでもないから消える無くなるという哀愁感すらないのだ。電気信号として消えるだけなのである。

水に記録したのか
空気に記録したのか
それは一瞬にして消え
記録は呼び出せない
そしてその人の存在の証拠もない
なにか幽霊のように
水に記録の文字の断片が浮かび上がり
またはかなく消えて水は透明である



例えば本なら物として存在しているから不用になってもそれを裁断して燃やしたりすることは一抹の哀愁感がある。せっかく苦労して作ったのにということもある。しかし電子空間ではそういうこともない、消えるのは一瞬で何の苦労もなく消えるのである。跡形もなく消えるのである。石に記す、紙に記すとは記憶を残したいという人間のこだわりがある。しかし本として本屋に置くことや石に刻み残すことは金もかかるし普通はできないことである。出版社であれ書店であれくだらない本を売れる本を置く一方で本というもの自体流通させることは極めて制限されたものなのだ。その場から除外された人はインターネットにでているように無数に存在するのだ。とにかく物として残したいそのこだわりが電子空間では通用しない。その代わり本と違って紙に記すのとは違って誰でもが容易に発言できるのだ。なぜインターネットやコンピュタ−についての議論が盛んなのかというと人間が経験していないことが起こっているから議論がつきないのである。



宣伝にたぶらかされた時代(NHKは宣伝するな)

「おれをこんな地獄の底へおとしこんだのは、へつらいのせいだ
おれの舌はそれでも飽きもしなかったよ」ダンテ、地獄編

●組織の時代の罪

ダンテのこの言葉が宣伝と何の関係があるのかというと今の時代は個々としての罪より組織的に犯す罪が多いしそれがよく見えない世界なのである。ダンテの中世は個人の罪として糾弾しているからある意味で人間的地獄の世界でわかりやすいのだ。現代は組織化したものとして罪が隠されるのである。大規模の第二次世界大戦にしてもそれは国と国の組織化した戦争だからその戦争の罪は個々には問われない、それを問うと右翼団体とかから組織から暴力さえふるわれて実際そうなったひともいる。組織化した行動は殺人でも悪でも見えないし問われないことになる怖さがあるのだ。だから会社のためにと悪いことと知っていてもまたしても会社からは罪は問われないことがある。巨大な権力を持っている組織にへつらっていれば罪も問われないのが現代なのだ。なぜ報道機関がこれほど問題になるのか、特にテレビが問題になるのか?それは報道する力が余りにも影響力があったせいである。例えばNHKで何か放送するたびにそれに対して必ず反発する人がいる。それは報道する影響力が大きすぎるからだ。もしインタ-ネットのような微々たる影響力しかないものでせいぜい10人とか100人くらいに対して発信しているならそんなクレ-ムはつかない、NHKに出ることは何か特別なもの、公共的なものとして権威を持つものに認められたような力を獲得することになる。だからNHKに出るものは特権を持ったものとなる。

●NHKは特定の宗教の宣伝をするな

例えば福島県で芥川賞とった僧侶がNHKにでて戒名の値段がどうだこうだと話ししているがこれは明らかに宗教の宣伝である。この僧侶はテレビで絶えず宣伝している。戒名で法外な金をとるのに反発する人もかなりいるのだ。ところが戒名の値段はいくらだとかこれくらいが社会的常識だとかNHKで話せば戒名というものに対する常識はこういうものですよと実は説教しているのである。これは宗教の宣伝とさえ言えるのだ。するとNHKはなぜ特定の宗教を人を宣伝するのかとなる。NHKに関しては常にあらゆる人から受信料をとっているのだから絶えずそうしたクレ-ムはつく、ただ報道する側にすればそんな要求にいちいち答えられないということもある。戒名なんか仏法となんの関係もないしそれで成仏するとかとも関係ない、そんなこと釈迦は一言も言っていないのだ。それはあとから作られた葬式宗教にすぎない、そもそも人が死んだとき戒名の値段がどうだこうだということ自体、地獄に落ちるようなことを僧侶自体がしているのだ。葬式屋だったらしかたないにしても僧侶はすべきではない、人が死んでくれればもうかるのになとそう思うこと自体恐ろしいことではないか?結局今や宗教にかかわる人間はろくなものがいないということである。職業化していれば特にそうである。現代は宣伝によってたぶらかせられる時代なのだ。個々にへつらうことがなくても巨大組織に誰もへつらっている。NHKでも創価の悪口とか共産の悪口とかある力ある団体の悪口、批判は言えないのである。内部の重要なポストがその一員でありその人が番組を作っているからだ。テレビとか報道機関は品物を宣伝するのであれ教育、洗脳機関の役を知らずと果たしているのだ。

●宣伝するものと宣伝されるものは一体

宣伝というとき今やインタ-ネットでもプログでも宣伝をしている。それは一回クリックして一円とかだから微々たるものである、しかしそれでも宣伝するものと宣伝されるものは一体なのである。宣伝することはただ金をもらったから金がもらわなければ放送できないのだからしかたないとなる。それもわかるがインタ-ネット時代は宣伝も変わる。インタ-ネットで会社の製品をそのまま宣伝できるようにもなるし会社自体が見られるようにコンテンツを作ることもできるのだ。ただ以前として宣伝は売るために大事なことはかわりない、マルチパワ-ステ-ションも最初はアメリカンエキスプレスのカタログで見て買ってしまったからだ。他にあったこと比べないで買ってしまったのである。現代は宣伝されるだけで売れるものがある。これまでの本でもそうである。ベストセラ-などは宣伝で売れたのである。現代は政治でも宣伝の力が大きい、宣伝はテレビで作られる、テレビは何千万も見ている時があるからその影響は甚大なのである。ナチスでも天皇の現人神(あらひとかみ)戦争も宣伝の力だった。そして宣伝は絶えず操作される、テレビの最大の武器は視聴率だがマラソンにしても高橋がQちゃんがリベンジだと何千万人が見た。しかし一方でそれは仕組まれた宣伝だったと2ちゃんねるで言う人もいた。スポ-ツは選手の背後に今やスポンサ-がついて巨大な金をかける投資なのである。Qちゃんが勝てば会社の株があがるから宣伝力、コマ-シャルとしして使われる。事実莫大な金をコマ-シャルにでてQちゃんは稼いでいるから商売だとなる。まあ、商売のために戦うのがプロだとなると資本主義はすべてコマ-シャルだとなる。でも宣伝するものと宣伝されるものは一体であり共同に利益を追及しているからそこに報道の公平性が失われるのだ。特にNHKの場合はそうである。すべての人から受信料をとっているし韓流の番組は宣伝になるから報道するなという人達がかなりの数がいる。でも報道はかたよるのだから結局NHKを見たくない人は見なくてもいいし金を払う必要はないのである。一律に金をとること自体不公平になったのである。スクランブルかけるというのも理にあったことである。NHKはもはや民営化するほかなくなっているのだ。これから放送は多様化するし放送するコストが安くなるのだから会社の製品は会社のホ-ムペ-ジで宣伝するのも一番理にあったことである。テレビの問題は6局だけの独占でありその影響力が余りに大きすぎたことなのである。放送というのは宣伝がなくてできるのが理想である。それはインタ-ネットで簡単にできるのだ。影響力が微々たるものでも宣伝がなくてできるから公平な放送ができるのである。

●崩壊すべき巨大組織

NHKは恐竜のように巨大化した。そのことが崩壊の危機となった。最初はテレビは放送するための費用が装置のために金がかかった。電波は6局によっ独占された。その巨大組織はただ今や形骸化して残ることになる。これからの民主主義は巨大組織化の時代ではなくミニサ-クルとか個々のサイトとか小さなもの核となる。コンテンツ作りにしても放送設備がなくてもコンテンツは作れるから無数のコンテンツが生まれてくる。一部英語の教える方式を発明した人がビデオ販売していたしネットで放送したのを無料で聞いてなるほどわかりやすいと思った。ビデオで教えられることがやはり一番わかりやすいのである。コンテンツ作る核は多数できてももはや巨大な放送局は必要ないのだ。だから6局だけのテレビの電波に頼る時代は終わったのである。これからは宗教団体でも巨大組織は崩壊すべきなのだ。組織が巨大化すると弊害が大きすぎるのだ。それは恐竜化してもはや人間的なものから離れ怪物化してくる。もはや制御できない怪物だから誰も制御できず暴走する。ファシズム化してとめることができない、個々に分立した分権していればこうはならない、巨大な恐竜に怪物にすべてがのみこまれてしまう。巨大化組織化は民主主義の破壊である。団体があったとしても個々の小グル-プに留まるべきなのだ。電波の6局の独占は終わり分立分権の時代になるべきなのだ。NHKも時代の流れで分立、分権化して民営化するのが時代の流である。公共的な使命があるというがそういう使命を果たしているわけでもない、必ず報道はかたよるしかたよる報道しかできないのだ。だから民営化するべきなのである。公共的なものなら金のかかる娯楽放送なとするべきではない、そういうもののためにすべての所帯から強制的に受信料をとること自体公共的でないとなる。いづれにしろすべての所帯から公共的だからといって受信料をとる理由がなくなったから民営化してコンテンツを販売する他なくなっているのだ。巨大組織は利権を数の力によって独占するからよくないのだ。巨大化の時代は終わったのである。



商品先物取引大手「グローバリー」による商品取引所法違反事件で、同社の外務員らは損失の続く客から取引終了を告げられると、幹部社員に引き継ぎ、強引な“説得”で時間稼ぎをして取引を継続させ、手数料収入を増やしていたことが23日、愛知県警生活経済課などの調べでわかった。同課では、逮捕した元札幌支店長の田中隆容疑者(36)らだけでなく、各支社・支店で同様の手口が横行していたとみている。

 一方、外務員らの中には、同社所属のマラソン金メダリスト野口みずき選手を持ち出し、「有名選手のいる会社だから」などと、勧誘の際に客を安心させていたという。

 被害者救済にあたる弁護士は「五輪選手を出して勧誘したり、上司の肩書で客を信用させたり、手数料稼ぎの典型的な悪質商法だ」と指摘している。
(2005年11月24日 読売新聞)


http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/051124_3.htm



崩れる本の権威(図書館の本のきりぬき、書き込みはなぜ−クロ−ズアップ現代)

●本の神聖な権威の崩壊

NHKのクロ−ズアップ現代で日本人のモラルの崩壊を具体的な例を出して説明していた。図書館の本の一部を切り抜いたりその本の中味に感想や反論や文句まで書いていたのも驚きである。これは確かにひどいのだがこれは明らかにインタ−ネットの普及と関係していた。なぜならインタ−ネットでは自分もしているが常に他人の文章をコピ−して利用しているし必ず反論であり批評であり単なる難癖、罵倒でもしやすいのである。そういうことをインタ−ネットで日常的にしているから本の世界まで波及したのである。本というのは何か神聖不可侵のような特別なものとしての存在感があったのだ。本というのは一般の人は出せない、選ばれた人しか出せない、本を出すにはコストがかかるから経済的にも権力的に大きなバックがないと出せない仕組みになっている。

本というのは本というだけで権威をもって書店であれ図書館にあるものだった。だから今でも成功した人などが自費出版であれ本を出すことができたと自慢する。本にはそれほど重みがあったのだ。そこには本は容易に出せるものではないからこそ本を出せたということが何か特別なこととして今でも年配の人などには新聞社や出版社が金とりのために自費出版をすすめるのである。確かに図書館の本に対する一部の切り取りとかはひどいことだと思うがこれは一面明らかに本がもっていた権威に対する抵抗として出てきた面があるのだ。本を余りに権威あるものとすることへの反発なのである。

●本は閉ざされた情報の世界

そもそも個々人が本を出すとなるととんでもない負荷を課せられし不可能なことが身をもってわかった。印刷屋から書店から無名の人が本を出そうとしたら大変なことであり誰も相手にしない、私の本を置いてくださいと書店にもっていったら邪魔になるというだけであり全然相手にされない、大手の出版社ならくだらないものでも書店では置くのである。つまり本を出す自由、本で発言する言論の自由はないのである。それは大きな出版社とか組織のバックがあればできることなのだ。そして書店とかはどうしても売れるものハリ−ポッタ−のようなものだけを目立つところに置こうとする。売れないものは置きたくない、書店などはしょせん本にしろ他の物となんら変わらない、売れなきゃ価値がないのである。商売だからしょうがいなといえばそれまでだが本というものはこれまで教養を作るものとして別格だからこそ再販制度などができていた。それが今や流通とかインタ−ネットで変わったのである。誰もが写真であれ文であれ無料で出せる、自費出版だったら百万以上かかるのだからこの違いは余りに大きいのだ。本がもっていた神聖な権威は崩れさったのである。

これまでの情報はメデア通さなければ公表されなかったからメデアが大きな力を持っていたのだ。メデアは媒介という意味だからそれは単に媒介するものにすぎないものだったがメデアを通さなければ発言も発表も許されないとなるとメデアの力が大きくなる。発言する公表する主体よりメデアの力が優先する、だからメデアによって取捨選択されメデアによって出すものと出さないものが決められメデアによって認められた者は世間に通用することになる。例えばNHKに出演しただけで有名人となり権威あるものとみなされるのだ。あなたが何であれメデアを通さないと私たちの許可なしではあなたという存在さえありえないという権力を持つにいたった。これは政治の世界でもテレビに出ると目立つから選挙に効果があり小泉首相はテレビでスタ−になり大衆を操作することができたのである。テレビではまた田中真紀子のような何か専門的に詳しい人より漫才のように話す面白い人が受けるのだ。それで大衆をひきつけた小泉首相が馬鹿勝ちしたのである。これも大衆が馬鹿だから馬鹿は馬鹿に導かれるということになる。その責任は国民と大衆にあるとなるから小泉首相だけを批判することはできないのだ。

●インタ−ネットは水平化をおしすすめる

これも結局キケルゴ−ルの言う、水平化である。大衆はあらゆる権威を否定する。それもやはり進歩だというから本の権威も否定されるのだ。だからこそ本にまで書き込みして文句言ったり侮辱する文を書いているのだ。インタ−ネットでは当たり前のことが本にまで実行したのだから明らかにインタ−ネットの影響である。私も本が誰が殺すのかというとき、これは出版社であれ規制の本でもって権威を権力を持ち得た人々が言うことであり本などだしようもない人々には書店がなくなろうが本がなくなろうがかまわないのだ。その代わりになるもの情報であれ文であれ作品であれ読めればいいのだから。

本には本のメリットがあることは確かである。電子文字が読みにくいとか記憶しにくいとかある。だからインタ−ネットの文でも印刷すると記憶に定着しやすいことがある。そういう点で本というのはなくならないかもしれないが出版社とか書店とかはなくなるかもしれないのだ。なぜならインタ−ネットなら誰でも出版社にも放送局にもなれるからだ。インタ−ネット時代はあらゆるメデア、NHKすら常に大衆の批判の的になる。マスメデアは権威だったがそのマスメデアも絶えず批判的にみられる。2ちゃんねるは低劣だというがこれも規制のメデアへの反発から生まれたのである。なぜなら普通の人は発言すらできない仕組みになっていたからだ。本の権威もインタ−ネット時代で崩れたのである。水平化というとき悪い面もあるが独占的権威を崩すということもありインタ−ネットは言論の水平化をすすめたのである。ただ例えばプログで靖国のことを時系列で検索したら無数にでてくるのでどれを読んだらいいかわからない、ここに水平化の極端さがでてくる、無数に横一列に並んでしまうのだ。それらを全部読むことはできない、ここに水平化言論の限界もあることがわかる。それでも良く読めばプログでもインタ−ネットでもそれなりに読むべきものはある。ただ思想的な面になると浅薄なものが多い、しかし認知症などに関しては様々な体験や認知症にかかわる人のプログが本当に役立っているしインタ−ネット内だけでもかなり詳しくなれるし研究もできることがわかり研究をつづけている。





情報環境の変化の回顧(メデアは空間と時間をきりとった部分を与えるもの)

●ニフティから光ファイバ−、デジタル放送へ

インタ−ネットはパソコン通信からはじまった。パソコンで文で会話することは今までになかったことである。つまり今までにない情報の世界を経験することになった。最初は無線だったのである。だから常にレス、返答が必要だった。無線でも返答がなければ通じたかどうかわからないからだ。これが外国だったらとにかく遠いのだから通じたかどうかが一番の問題になる。そこで簡単な会話のやりとりでも通じたということで満足できる世界である。そういう初期の段階から今やインタ−ネットは余りにも変わりすぎたしその変化も急速だった。最近私の地域も光ファイバ−が通ったがこれは最初から光ファイバ−にすることが全国を光ファイバ−で結び付けることがインタ−ネットの目的として騒がれていてようやく光ファイバ−になったのだがこれは別にADSLとさほど変わらないから期待はずれであり一千万から伸びていないというのもわかる。ADSLでも早いから光でそんなに早いとも感じないのである。全国一律電話料金の光電話の方が変わったとなってしまう。他にもデジタル放送もはじまった。チャンネル数が五〇局とかふえて見たことのないドラマを見て面白かった。「上意討ち」という昔の映画で見応えがあった。これもインタ−ネットでそうだったように過去のものが見直されることがある。これはDVDなどで見ていたがそれにないものもあり無料で見られるとなると見る。過去のコンテンツが見直されるというのがデ−タ−放送なのである。テレビはその時々でもう一度見ることがむずかしいから見逃しているものが膨大にあるだ。本でもそうである、膨大な本が出ていてもほんの一部しか読むことができない、だから過去のいい本でも読んでいないのである。最近アマゾンでキ-ワ-ドで探し安いのだと一円とかのも多いのでついでに買って読んでいる。本だと情報の質が高いからである。インタ−ネットになり情報的には多様になり恵まれた時代になったのである。

●インタ−ネットの匿名の問題

インタ−ネットを実名にしようとすることが総務省で検討されている。その前に実名の前に完全匿名−半匿名−実名と分かれているのだ。

完全匿名−2ちゃんねる
半匿名−ニフティ、ミクシ−、ホ−ムペ−ジ、プログ−ハンドル名制
実名- ホ−ムペ−ジ、プログ

ニフティは匿名ではない、半匿名でありハンドル名でもその場限りで終わる世界ではない、必ずフォ−ラムに属してシスオペがいるのだから管理されていたのだ。だから馬鹿と言っただけで大騒動になっていたし追放された。2ちゃんねるからすると信じられない窮屈な世界だったのである。それよりも2チャンネルは人間の基本的なもの人格すらないコミニケ−ションでありこれは人間の最低の常識を逸脱している。その場限りの誰かもわからない人の発言であり確かにそこに名言や内部情報がでてきて有益にしても人間が本当にいるのかという問題になる。今まで言葉だけが出て発言する存在はありえないのだ。その場限りだから瞬間的に人間は消失してしまう。人間の存在はそんなに軽いものではない、人間の存在は別に偉い人でなくても瞬間的に言葉が短文となって消えるものではない、人間は継続的に生きるものである。人間は継続的に生きるとは歴史的存在でもある。歴史とは長い時間のなかで人間の存在は問われてくる、生きるということでもある。家族の一人が死んでも墓参りし死んだ人を偲ぶのはそこに継続している生の連続がある。そして生の継続というとき芸術作品でもいいものは古典となり常に継続して新たな解釈がでてくる。作品の評価も一代では終わらないのだ。2チャンネルはその場限りであり人間は時間的継続的存在としてない、ある人が継続して発言することがない、その場限りで「逝ってよし」で終わりである。「逝ってよし」で消えるのである。でもその人間は消えていない、現実に存在し続けているのだ。2ちゃんねるには「人格」がないバ−チャルのなかの電子記号となって消える。そこに人間の継続性がないのである。

これが実名となると半匿名でもある人が発言し続けるとなると一定期間でも半年でも一年でも発言しつづければ継続がでてきていた。ただニフティの時代はホ−ムペ−ジもプログもないのだから発言は他者へのレスでしかないのだから自らの主張をすることは不可能だったのである。人間は時間のなかでしか理解できないことがかなりあるのだ。ある個性的な人物を理解することは長い時間がかかる。三〇年とか四〇年とかかかることがまれではないのだ。上野霄里氏などは若いとき本を読んでも理解することができない、でも今ならこういう人でありこういうことを言いたかったのかとわかってくる。それでもこうした天才的人物を理解することはむずかしいのである。巨大な岩のような存在でありその岩が何を語るのかは「老子岩」という詩で書いたようにわかりにくいのだ。線香花火や泡のような発言で終わるのとは違う言葉の重み、人間の重みがある。インタ−ネットには電子信号化して一瞬の火花のように終わってしまう面がある。その極端な例が2チャンネルだった。これはそれなりにインタ−ネットの情報としての意義があっても人間的なもの逸脱しているから異常なものとなる。

●メデアの変化の戸惑い

メデアの変化はそもそも古代からあったのだ。ソクラテスが・・・と言ったときキリストでも文章に書くということは自らを殺すことであると思っていた。

プラトン自身が『パイドロス』の中で,ソクラテスをして,「現実には精神のなかにしかありえないものを,精神のそとにうちたてようとする点で,書くことは非人間的である」,「書くことは記憶を破壊し[……],外的な手段にたよるために,精神を弱める」,「書かれたテキストは何も応答しない」,「書かれたものは,人間どうしのやりとりのコンテクストから離れ,非現実的,非自然的な世界のなかで受け身にとどまっている」等々と・・・・・

書くことが直接反応ないからかなり違和感あるものとして受け取られていた。これは今の電子空間のバ-チャルな世界にあてはめてもそうなっている。対話して直接人に向かって語ることが人間のコミニケ−ションの基本だった。字にして羊皮紙であれ木簡であれ残したと何かしらその時伝えようとしたものは死んでしまうと考えていた。二〇世紀は様々な技術革命が起こった。交通の面でもそうであり通信でもそうであり情報環境でも信じられない変化の時代だったのだ。映像というメデア、映画がでてきたときも驚きだった。写真ですらそうであった。写真に魂が奪われるというのは馬鹿げたことではない、確かにメデアによって媒介するものによって奪われるものが多々あったのだ。写真は本物ではない、でも本物と錯覚するのだから本物以上のものとなったりする。マスコミのテレビがこれほど大衆に力をふるったのはそのためである。ナチスの原因がファシズムの原因がピカ−トがラジオにあったというときメデアの影響がそれほど大きなものとして社会を支配してしまったのである。特に映像の情報はあまりに刺激的だからこれに麻薬のように大衆は浸るようになった。では映像の情報はすべて現実を反映したものではない、現実のほんの一部をきりとったものである。テレビに放送されるものでも実際はその十倍の映像をとって編集されているから編集されないものは見ることはできない、だから映像だけからすべてを判断することはできないし放送されたものだけを見ていると判断を誤るのである。映像は放送されるものによって作られるからだ。

メデアの問題はいろいろあるがやはり一場面をきりとったものがすべてでありそこから判断するから錯覚しやすいし誤った判断をくだしやすいし洗脳されやすいのが現代のメデアだった。映像メデアでもこれは空間と時間をきりとったほんの一部分の作られた情報を提供しているのである。テレビの狭い画面ではとても外国の広い空間を伝えることはできないし時間で生成した歴史も理解できない、時間はその場にいて何度も尋ねてわかってる。時間のなかで徐々にわかってくるものである。一時間の放送ではわかりえようがないのだ。それは時間を空間を何万分の一に凝縮したものを見せているのである。新幹線で車窓を見ているようなものである。新幹線だと特別高い山しか印象に残らなくなるのと同じである。あとは省かれてしまうのである。シルクロ−ドにしてもとてつもない距離なのだからこれは一時間見たくらいで理解しえようがないのだ。人間は結局、いくら交通が便利になっても空間と時間を越えることはできない、飛行機で地球の裏側に行っても地球の広さを知ったわけではないのだ。それは例えば東京まで数知れなく急行で新幹線で行っても昔の街道を歩いて江戸まで行った人より途中を省いたからわかったいなかったのである。この街道の道のりは相当長いしほとんどわからずじまいだったことを今になってわかったという皮肉があるのだ。交通の発達、メデアの発達でかえって見逃されたものが無数にあったのである。



さくらのプログで故障−閲覧もできなくなる(キャッシュに記録は残っていた−キャッシュは必要)

キャッシュは著作権侵害にあたらず--グーグルが裁判で勝訴

●キャッシュはインタ−ネットに不可欠

今回のさくらのプログの故障はショックだった。記録していなかったのでログが消えたかと思った。再現できないかと思った。パソコンが故障で前にも記録を消して再現できないことがあった。パソコンの恐怖は一瞬にして書いたものが消えて水の泡になる!これが最大の恐怖である。本ならこういうことはない、活字にしておけばこういうことはない、電子の世界はこういうことが常にありうる、グ-グルのキャッシュにはプログの記事は残っていた。これは助かった。全部ではないが確実に残っているから再現できるものがある。キャッシュは著作権違反だというけどこうなったらキャッシュもインタ−ネットには必要なのだと思った。ホ−ムペ−ジはハソコンに自動的に保存されるからこういうことにはならない。パソコンに記録されたものを再現すればいいがプログはそうなっていない、レンタルサ-バ-に記録されていてそれを随時ファイルとしてパソコンに記録していないと消えてしまうのである。インタ−ネットとかパソコンは未知のものであり何があるかわからない、一番怖いのはせっかく書いたものが一瞬にして消えることなのである。そしたらせっかく努力して書いたものが一瞬にして消えてしまうのだから努力も水の泡となってしまう。名作も一瞬にして消えるし再現されなくなる。だから国会図書館では本を保存するようにインタ−ネットのプログでもすべてキャッシュとして保存しようとすることは無意味ではない、貴重な記録がインタ−ネットにはありそれらが消えてしまうとしたら知的財産の消失となるからだ。それから誰のものかわからないという実名でもその人の作品が著作権が保証されないという問題もある。本の世界では本を出すということで出版社であれ少部数でも残る安心感がある。ただ本に出せないものがこの世は相当数ある。私のものは書店でも一部の図書館でも冷たく拒絶されたからインタ−ネット上でしか見れないしこれからも出版などされないし書店では見れないものである。ともかく紙にでも印刷しておけばインタ−ネットよりパソコンより安心だとなる。どんなに保存していてもパソコン関係のものは電子で保存している限り紙より消えやすいのである。保存の保証がないのだ。記録するとなるとエジプトのヒエログリフのように石にでも記録しておく他ない。石に記録されたものは今でも道の辺の碑のように残っているのだ。それは歴史の証となり郷土史の研究には欠かせないものとなっている。

●メデア(媒体)が力を持った時代は終わる

インタ−ネットとか電子のネットワ−ク空間は世界的に普及したとしても10年くらいである。これはまだ実験段階なのである。本の世界はすでに二千年とかの歴史がある。グ−テンベルグの印刷技術ができてからも200年はあるのだ。その歴史と比べるとあまりにも短いし歴史的に成熟していない世界であり混乱してくるのだ。しかしこれほど表現力があるものはかつてなかった。これまでは表現する人は限られた特権階級である。表現する媒体はマスコミであり出版社を通さねば表現できない、自費出版など書店でも相手にしない、邪魔になるとしか言われずおくこともできない、ということは表現の場がないというのが現実だったのだ。マスメデアや出版社や新聞社の方が作家より力をもっていた。メデアが単なる媒介するものではないメデアこそが取捨選択する力をもっていてそのメデアを通さない限り何も表現することはできなかったのである。最初にメデア(媒体)ありきであり次に表現者が存在させられたのである。ところがインタ−ネットでは先に表現者、作家がありインタ−ネットは単なる媒体にすぎないのである。すでに今やインタ−ネットは本を出すような人もプログで書いているし内容がかなり濃いものになっているのだ。出版社−書店という世界は表現をかなり制限する世界だった。書店でも地方の書店などインタ−ネットがあれば全く不必要なものとなった。そこには地元の作家も無視されているし地元の本すら置かない、書店が営利事業の時どうしても本は薄利であり大量に売れないと困るのである。だから前はベストセラ−などが価値がなくても売れたから商売になった。その時はまだインタ−ネットなど多様な表現が許されないから出版社とかの宣伝力で一様化できたのである。今はなかなかできない、常に本に関しても痛烈な批判があり有名な人でも普通の人に批判されているしその批判も的を得ていることがある。つまり言論、表現の世界にもキケルゴ−ルの水平化の世界が適応されるようになったのだ。

●消える地方の書店

出版業界がそうであるように、本の7割が関東圏関西圏で売れる。地方の隅々まで商品を届けるコストが全く割りに合わないことからも、地方はすでに市場として存立しえなくなりつつある

いづれにしろ地方の書店は無用のものとなり消えるし現実に消えている。そもそも情報の世界は本にしばられるものではなかった。活字文化はそもそも文字すら抽象化したものだからどこにでも運べるものだった。例えば物だったら簡単には運べない、石ころ一つ簡単に運べない、でも石という抽象化した文字は実際は英語であろうがどんな言葉であろうが電子化した時点で運べる。電話でも言葉はすでに世界に伝わっていた。映像も実際の物ではない、だから一瞬にして映像は世界で放送される。本というのは以前として物であり物として生産して物を運ぶからコストがかかりすぎるのである。抽象化したものはすでに物ではない、だからどこにでも一瞬にして伝わることが可能であった。ただその技術ができていなかっただけである。ただ無線とかラジオでもすでにできていたのである。だからインタ−ネットの技術はできることは無線ができるときすでに予測される技術だったのである。ともかくインタ−ネットでは何万冊とか本をすることはない、新聞でも膨大な紙の無駄である。原版を一つ置けばインタ−ネットでは事がすむ。あとはコピ−権などを設定して料金をとるとか工夫が必要なだけなのである。

●本や新聞は全体をまず見る−インタ−ネットは部分の集合

ただ本には本のメリットがある。全体を見て部分を見るのが本とか新聞のメデアである。本は一冊として完成したものとして作る。本はペ−ジをめくりだいたいどんなことが書いてあるか全体を把握できるのだ。一冊として完成したものとして構成してあるからだ。だから読書力ある人はペ−ジをさ−とペ−ジをめくり要点を把握することができる。一冊の本には通史など年表なども書かねばならないから無駄も多いのである。インタ−ネット時代は部分を読み重要な部分をつなぎ編集する作業が要求されている。インタ−ネットの弱点は部分の膨大な集積となってしまっている。ここから全体が見えないのである。インタ−ネットは部分からみて全体にたどりつく、これは東洋的なものと西洋的な思考方法の相違ににている。医学でも東洋は体全体からみるのだが西洋では部分からみる、分子がら原子からみる。できるところまで部分化して体を世界をみるのである。部分から全体を構築していくのが西洋的思考方法である。インタ−ネットはそうした部分化したものから全体をみる、個人すらそこでは部分化されて人格も消失されている面があるのだ。知識として部分化されてしまっている。今までのメデアを通したものはある個人が巨大化される。ありえざるほどに巨大化される特質があった。テレビは常に百万以上が見ているのだからそこに写るだけで不必要に巨大化されるのである。メデアの相違は人間にかなり影響する。インタ−ネットで何かを知るということは結構むずかしい、なぜなら部分だけで構成されているから膨大な部分に埋もれてしまうからである。その部分をつなぎあわせる、編集する作業がどうしても必要でありそれが簡単にはできない、編集しながら読むのがインタ−ネットである。だからただ一方的に読まされる人はインタ−ネットを読むことができないということにもなる。何故なら意味は全体にあり部分にはないからである。全体から意味が生まれるのであり全体を通して機能してくるものがるからだ。部分を知るのはコンピュ−タ−が優れている。しかし全体を把握するのは人間が優れているのである。旅行でもある地点に立ったとき人間は全体を最初にみる。大観するのが人間であり部分をみるのがコンピュ−タ−なのである。全体を構築するのも人間の構想力である。これはコンピュ−タ−にはなかなかできないのである。