凧揚げの歴史(俳句などから)小林勇一
























凧揚げは風の吹く春とか夏にも行われていた。正月に行われるようになったのはあとのことである。春の季語になっているのはそのためである。凧揚げは子供の遊びとして常に行われていたのだ。凧揚げの歴史を調べていて面白かったのは

昭和三十年代、東京の凧揚げ大会に参加した折、故斉藤忠夫さんにお会し、お話を聞いて、イカは京都を中心とした上方の古語であり、タコは江戸っ子が上方のイカに対抗して勝手につけ、和製の漢字「凧」まで作ったことを知る。
 戦後、三条の殆どの人がタコと呼び、イカと言うと、田舎者や大年寄り扱いされるようになって、イカがタコに変わってしまった。しかし私自身、今までずっとイカと呼び通し、今では、そう言うことを誇りに思うようになってきた。
 また三条の文化は、上方より北陸路を経て入って来ており、京言葉が多い事をも知った。


http://www2.ginzado.ne.jp/minagawa/goroku.htm

関西方面ではイカ上りであり江戸では凧と言っていたことである。1675年に、京都の俳人伊藤信徳が、江戸で「物の名も蛸(たこ)や故郷のいかのぼり」と詠んでいるし、同じ物でも土地が変わると名前も変わる。

実は、長崎の「幡(はた)」、山口の「鬼ようず」など、伝統凧の呼び名は各地で様々だ。 その中で「イカ」勢力は香川など四国の一部と、鳥取や新潟など日本海側。北前船(大阪−北海道)の航路で、関西弁の影響を受けた地域だ。一方、「タコ」勢は全国に点在する。参勤交代で、江戸土産として各地に凧が持ち帰られたためらしい。
http://www.asahi.com/kansai/special/OSK200501280017.html

江戸時代の面白さはこの地域性が豊かなことにあるのだ。織物でもその土地土地のものがあり小千谷市では縮みで栄えて蔵に書画骨董類が多数あり今度の地震で壊れ文化財が売られるということで話題になったように織物はその土地土地の特産物だった。地域の産物が豊富だったのである。日本海沿いの新潟は北前船が来たから関西の文化圏に入っていたのである。それは津川まで阿賀野川を通じて会津まで通じていた。

そもそも関西と関東は今も言葉の違いがあるがいろんな点で別の国のように違っていた。貨幣すら江戸では小判で金だったが大坂では銀だったのだ。ちょうど江戸は消費地でアメリカのドルであり大坂は銀で円となるように江戸と大坂は江戸は政治都市であり大坂は商業都市であり京都は職人の街でありとかみんな役割が違って地域の独自性があったから地域地域が別な国のようになっていて魅力があったのだ。関所一つを峠を越えると外国に行くような気分になっていたのである。

住吉に凧揚げゐたる乙女はも 山口誓子

この句の面白いのは住吉という地域がうまく使われていることである。関西の人や女性は東北辺りと違い男勝りとか積極的な女性が多い、住吉というのが地域としての特性を出したので成功したのだ。この地域性が欠如したから現代の文化はみな画一化し均一化してつまらなくなったのだ。明治時代以降中央集権国家になり言葉から方言がなくなったりあらゆる地域の文化が消失したのである。江戸時代の多様性は今になると驚くべきものがある。江戸時代を回想するとそこには経済でも俳句でも遊女とかを研究してもそこに人間的な地域的なバラエティがあり魅力あるという不思議がある。

この浮世絵にしてもみんな職業によって着るものは違っているしいかに多様な人間がそれぞれ生活していたか驚くのだ。人間的活気に満ちている。自動車洪水とか都会の物にあふれた雑踏とかではない、明らかに多様な人間が交じり合い生きていた社会がそこにあった。これは今になるとアフリカの民族衣装を着た人とか中国の山岳民族の・・・族とかの人が着る衣装の人々が混じり合っているのとにているのだ。日本国内でそうした多様な人々が交じり合い暮らしていたのである。

三味をひく一座も凧の陣屋かな 田士英

凧の陣帯屋桝屋ぞ人も知る 同

敵ほしき勝凧に風よかりけり

津軽凧南部大凧一つかな 天郎

凧を揚げる会場(その昔、大正以前は特定の場所で揚げるものではなかったらしいが)を俗に「凧場(たこば)」と言う。
  各町の凧場での基地、それが「陣屋(じんや)」である。
 陣屋では、組員がその日の風具合を見、各町の揚げている様子をうかがいながら、それに見合った凧を選ぶ。 また、各町の知人との交流・食事・子供の遊び場でもある。
 戦の合間のひとときの休息所とも言えようか。

 
 http://www.plaza.across.or.jp/~shijo-t/toujitu.html

現代の地域の文化は消失した。地域で行われる祭りは観光としてのイベントとなっている。祭りは祀るだからその土地にとって大事なものを受け継ぐべきものをマツルのであり外からくる者に見せるものではない、だから本当の祭りはその土地土地で秘密で行われ部落以外のよそ者には参加させない見せないものも普通だった。観光としてイベント化したのは最近のことなのだ。だから相馬でも相馬という市の名前もなかった。それが野馬追いを観光化することにより相馬という地名にこだわり南相馬市となったのである。白神市でも知床市でもそうである。観光を意識して知られた名前がつけられる。その土地の独自性から自ずと自然に名付けられたものではなく外部を意識したものとなって不自然ともなる。祭りもあまりにもイベント化して本来の祭りの意義はそこになくなった。見せ物ショ-と化してしまったのである。江戸時代までは言ってみれば人間の社会はその土地土地にあって自然に形成されたのであり現代のような極端な人工的空間ではなかった。奇妙であるが現代はマスコミとかテレビとかが発達して誰でも同じ番組をみている。娯楽さえ画一化したのである。そして商業主義化した結果民衆の文化も消失した。多様な民謡は労働の中から生まれた民衆の文化であった。それが商業主義化した文化となってしまった。これは民衆の創造力の消失であり文化の消失だったことに気づくべきである。これは宗教でもそうである。巨大宗教団体もこれも現代が生んだ奇形であり文明の歪んだ化け物である。六地蔵などの信仰の方が健全な庶民の信仰として見直されるべきものがある。現代文明はあらゆる面で物質的豊かさは達成しても精神的文化面ではかえって衰退したのである。



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