鹿島町小林勇一




江戸時代後期、金毘羅信仰の広まりとともに、いわゆる金毘羅五街道のひとつ金毘羅参詣道阿波道の西ルート(箸蔵越え)として、多くの参拝者が利用した。
萬延元年(1860)、
奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって寄進された「箸蔵寺百丁」の道標。ここから険しい箸蔵越えの道のりが始まる


栃窪に金比羅の石碑が三つくらいある。金比羅に行った記念に建てたものと言われる。それにしても本当に行ったのかと実感がもてなかった。それが鹿島町 栃窪とキ−ワ−ド検索したら前のようなホ−ムペ−ジに出会った。これは間違いなく鹿島町の人が寄進したものだろう。ただ奥州とあるから他にも栃窪村というのはある。でもなぜ道標などわざわざ金比羅まで行って寄進したのだろうか。何らかご利益を授かるために寄進したのかもしれない。それなりに金はかかったろうから金持ちだったのかこれは大きな発見であった。つまりこの鹿島町の栃窪から確かに金比羅まで行った証拠だからだ。ああ 本当に金比羅まで行ったのだという証拠だからだ。歴史的に証拠がでてくるということはやはり凄い発見なのだ。インタ−ネットはこうして情報がネット化するつながるとき面白いのだ。そのためにインタ−ネット上に情報がもっと地域的にも出る必要があるのだ。とにかくこれは意外な発見であった。



駒ヶ根市の天竜川沿いに吉瀬と云う集落があります。かっては山より材木を集め天竜川の流れを利用し各地に材木を搬出した場所だそうです。 ここに吉瀬神社があり、この神社の鳥居の横には金比羅大権現と秋葉大権現を祭った石碑があります

金比羅大権現は水難を、秋葉大権現は火災を治めていただく意味合いがあったそうです




金比羅はクンピラでありインドの神様でクンピラは川にいるワニににた架空の動物でインドの石窟寺院では亀の上にとこのクンピラの上に女神がのっかっているのが残っていた。金比羅は海の神様であり水の神様なのである。亀も水の海の神様なのである。秋葉神社は自分のすぐ近くにあり子供の頃遊んだ神社だった。これは火災を防ぐ神様だったのだ。ではなぜはるばる金比羅参りをしたのか何らかのこうした災いからまねがれるためであった。薬師堂などが各地にあるのも病気にならない様に病気を直すために祈るためにあった。科学ない世界では祈るしか手だてがなかったのだ。これを馬鹿にしてはならない。今でも人間は弱いものであり神仏に祈ること自体は悪いものではない、ただそれが宗教団体にいろいろと利用されるのが悪いのである。とにかく郷土研究が自分のテ−マでもあるがこれをどうしていいのか手法がわからないのだ。多少インタ−ネットはそうした民俗学の研究に全国ネットしているから役に立つことは確かである。各地に必ず同じようなものがあるからだ。漸次書き加えられるのも便利である。




この栃窪の金比羅の碑には名前まで書いてあるが明治時代のものである。明治になっても金比羅参りがつづいていたのだ。もう一つは文政一二年(1815)とあり17人と書いてある。金比羅講がありこの代表で行ったものが寄進したのだろうか。石碑が栃窪には二つしかないのだからこちらの関係になるのか名前は記されていないので確かめようがない。奥州栃窪村とあるから江戸時代なのは確かだろう。明治以後は奥州とは使わないからである。




http://www.clio.ne.jp/home/hara73/k14.htm
http://www.akari.ne.jp/yon1/06/to/main.html



いくつかの碑の並び古り桐の花

誰が知るや昼の月あり桐の花



桐の花の章(二)

かそかに風にそよとゆれ
しとしとしとと雨にぬれ
水に映りてしんとして
もの言わぬ花こそあわれ
見上げれば誰が知るや
昼の月
うす青の空にとけいり
あるとしもなく
あるとしもなく
人知らじ音もなく
そは古き碑のたもとに
散り落ちしかも
その静寂よ!
そを乱すなかれ
そにそっとふるるは
神のみなりき
神のみなりき
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・




道の辺に碑の古り並び色濃くもあやめの咲きて一部落かな






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