幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む(小林勇一)
http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-43kr-kikou-02.htm


●相馬市の川について

松川浦に遊びて風光の美を賞せんとならば、宇田川橋のほとりより小舟を雇ひて下るをよしとす・・・


昔は川には舟がかなり利用されていた。馬車であれ歩きであれ汽車で来ても自動車がないとどこでも遠いからだ。バスもこの時はなかった。川というと相馬市は前は中村市だったが今の宇多川はあとで作られたものだという。その前に古宇多川があった。それは梅川となった。梅は埋めるで埋めた川と岩本由輝氏は書いている。今田とか成田とか新田はその川を埋めて作られた田だったという、記録として一五三八年となるとかなり古い時代に埋められた川があった。田にもいろいろありそれがいつ作られたか問題になる。郷土史研究では古い場所が重要である。どこが早く開かれたかが問題になる。それから中村城の堀が川とつながっていたことも意外である。昔は川は境界であり防衛のためにもあった。仙台も広瀬川を利用して巧みに仙台の街は作られたのだ。広瀬川を防衛に利用した城作りであり街作りであった。現代の観光は何か余りに便利すぎてつまらないのである。川を下って松川浦に出て浦と海を見る。すると何か今とは別なものに見えてくる。旅が過程にあるからそうなるのだ。

●海の村の素朴な風習

松川より原釜に至るには中村の方へと少し戻りて、高すか地藏といふ地藏堂のほとりより右に折れて入るなり。「ほつき」といふ貝の殻を幾個と無く尊前に捧げたるは、先刻に見し観音菩薩に瓠(ゆうがお)供へたるにも増してをかしく、貝の裏の白きが月の薄明りにも著く明らかなれば訝しみて土地のものに問ふに、耳遠くなりたるものども自己が年齢の数ほど貝殼を此の御佛に奉りて、復びもとの如く耳敏くならしめたまへと祈り申せぼ霊験(しるし)ある由を云ひ伝へて、然は爲るなりといふ。観音には瓠、地藏には貝殼、をかしきものをのみ供ずるところかなと打笑ひて過ぐ。


これも当時の生活が偲ばれる。海の暮らしがありそこでほっきが利用される。ここには当時の庶民のせつない願いがあった。老人になり耳が遠いということはやはり苦しいことだった。今なら補聴器を買いばいいとなるが昔は病気でも地蔵とかに祈る他なかったのだ。だから一村に耳を直す地蔵とか腹の病気を直す地蔵とか今の病院の専門のように様々なご利益をもたらす地蔵尊があったのだ。つまり病院も医者にもかかることもできないから地蔵に祈る他なかったのである。だから民間信仰は低次元なものとはいえない、切実なものが昔はあって生まれたのだ。

●相馬駒焼きの専売特許騒動

夜ふけて中村に帰り、田代氏を訪ふ。相馬焼は優しく美しきものにはあらざれど、その堅くして破れ易からゞると、狩野氏の画風の躍馬(はねうま)の模様のをかしきと、粗朴のうちにおのづから愛すべき雅致無きにあらぎるとを以て名ある焼物なり

相馬焼きは歴史が古い。「粗朴のうちにおのづから愛すべき雅致無きにあらぎるとを以て名ある焼物なり」素朴で高雅なものがある。

毎年正月初子の日には、将軍家献上品として、藩主や城代家老が自ら駒の絵を描き入れて相馬駒焼は、相馬藩の「御止め焼き」
(藩窯で、藩の什器や贈答品のみを焼き、一般の使用を禁止した焼きの)された。代々相馬藩の御用窯で、抹茶茶碗、酒器、花器などの雅陶を焼いたが、作品は明治まで一般には出回らなかった。


江戸時代には藩専用に作られた物がかなりあった。焼きものにはそういうものが多い、そしてその作り方も秘密にして他藩にもれないようにしていた。専売特許であった。

明治42年になって商標登録の際に、相馬駒焼の方から大堀相馬焼に駒絵の使用を禁じるように訴えが出された。争いは大正の末まで続いて大審院にまで持ち込む訴訟合戦となった。最後は、郡長や県知事が入って示談が成立し、両方で駒絵を描くことで決着した。

http://marshall.gozaru.jp/keshiki0somayaki.htm

のちに相馬焼きは浪江の大堀相馬焼きとして民衆に広まった。なぜこんなことになったのか?封建時代の侍の支配体制は経済の利益も独占するシステムになっていたのだ。自由な市場経済が発展しにくい面があった。それが明治維新で自由な時代になるとこんな問題が起きていたのだ。侍の特権から得ていた専売特許だが自由な時代にはそれができなくなったのだ。常に利益を独占する問題は昔からあったのだ。

会津藩が降伏した明治元年(1868)に大沼郡の五畳敷村で一揆が発生した。大勢の農民が村役人の肝入り(名主)の家々を打ち壊しをかけた。これを「肝入りつぶし」とも呼んだ。

これは会津藩との仲介で利益を得ていた肝入りに対する反発だった。封建体制で独占的に利益を得ていたものに対する反発が具体的な行動になって現れたのだ。ええじゃいか、ええじゃないかなどの騒動も明治維新を期に起こった庶民の抑圧されたエネルギ−の爆発だったのだ。喜多方が庶民の街として商人の街として発展したのは会津には藩の旧体制が残っていて自由な経済活動ができなかったから会津の北の喜多方が発展したのである。旧弊なものが残る所では自由な経済の発展は望めないのである。相馬でも同じようなことがあったのだ。相馬では一揆は起きなかったが新しい法律のもとで権利が平等となり平和裡に解決したのである。




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