鹿島町の土地の新旧(歴史背景、地形から、万葉の歌など)

小林勇一作

栃窪は意外と古い村である。鹿島町では浮田国造が置かれた浮田地域が実際は一番古いのだ。栃窪になぜ鍵取りとかの古い伝説が残っているのかそれも古さを物語っている。栃窪の冠嶺神社も古代の故事にまつわるものでありこれも古いのである。古代にさかのぼって古いのである。じさ原や八沢浦は明治以降開拓されたものだから新しいのだ。郷土史ではどこが一番古く開拓されたとか時代的な把握がまず大事である。古墳のあるような所は古い証拠である。山奥だからといって古いとは限らない、開拓に入った所が多いのだ。上萱がそうだった。あれも明治以降であり今は廃村になった。なぜ開拓に入ったかというと炭焼きとか蚕の桑を作っていたのだ。炭は鹿島町の燃料店で一括して買い取っていた。上萱は電気がない時期が長かった。保健婦が幻燈機もってまわって歩いていたというのもそのためだろう。不便なところに新しく開拓に入る人が結構多いのだ。つまり麓のいい土地はすでに開拓され住む人がいればそのあとの人は不便な山奥に入らざるをえないのだ。ネパ-ルでは驚いた。あんな高いところ高い所、不便な所に住まねばならないのか、結局これも土地がないのだから高い所を開拓して住む他ないのだ。大倉から飯館に出る所に二軒ほどあった家もそうだった。共栄橋とあったから新しく開拓に入った所である。一軒は空屋になった。不便な所はあとから開拓に入った人が多いのだ。いい場所はすでに開拓されているからである。

ダムになった大倉は古い祭り、葉山祭りが残っていたように古い部落があった。栃窪から真野川をさかのぼる大倉が古くさらに佐須があるがこの佐須は焼き畑を意味しているから古くから焼き畑をしていたのか、焼き畑でも新しい場合がある。あそこにもあとから開拓に入った人たちがいた。佐須自体にも新旧があるのかもしれない、古来焼き畑が山の農業であり焼き畑は稲作の前に行われていた。畑が火と田を意味しているのは畑から田になったからである。焼き畑地帯が最初に田になっていく、山の棚田のような所が古い村があったところなのだ。そこに県主(あがたぬし)がいて最初の国造(くにのみやっこ)がおかれた地域が多いのだ。鹿島町では栃窪が古くあそこが米作りには最適な場所だったかもしれぬ。というのは山が近く水がいいからだ。右田の方は海に近く水が悪くなるからいい米ができない、ただ右田には条里制の名残りの地名が残っていることや剣神社などがあるから土地自体は古いのだ。つまり神社が時代の新旧を決める場合がある。稲荷神社より古代にまつわるのは古い。鹿島町にば結構多いのだ。最初鹿島町は浮田を基点にして栃窪から始まったのだ。

3403 吾(あ)が恋はまさかも悲し草枕多胡(たこ)の入野の奥も悲しも

日本には山の中へ狭く入ってゆく地形が多いのだ。浮田から栃窪から真野川沿いを大倉から佐須への地形もそうである。佐須は本当に入野の奥の奥でありそこの一軒の家に乳神の碑が家の庭にあった。乳神の碑も全国に多いのだ。乳神の樹も多い、つまり乳が出るように願った、乳が子供を育てるための頼りだった。牛乳などなかったのだ。あんな山の中だったらさらに切実でありだから乳神の碑をたてたのだろう。ここになぜ草枕とあるのかというと草枕は旅にかかるのだから旅してゆくような入野の奥にいる私の恋しい女となる。この多胡(たこ)は胡とあるごとく古代渡来人の集団が開拓に入ったらしい。野は傾斜地が野であったとありその山の傾斜地は焼き畑が行われた所なのだ。この歌はだから渡来人、新羅か高句麗人(高麗人)(こま)かが入りその奥に住む人が恋しい、そして悲しいことよとなる。日本の独特の地形と渡来人が入ったことなどを読み込まないとわからないのだ。この入野の奥こそ日本人がもっとも古くから住んだ地域だったのだ。そういう深い意味があるものなのだ。万葉集の一首はみんな深い意味がありその歴史的背景を読みこまないと全然わからないものなのである。

万葉集の真野の萱原の歌があるのだから真野が古いとなるがその前に鹿島町は毛野氏の支配下にあることを考察した。浮田国造は毛野氏の中の国造としておかれた。毛野王国の傘下にあったのが浮田国造だった。だから浮田と栃窪が一番古くそのあとに大和政権の一郡が真野入江から船で入ってきたのだ。それは烏の鳥打沢で大規模な製鉄跡が発見されたように砂鉄を求めてきた鉄作りの一団が存在したからである。塩崎はかつては入江になっており船着という地名や市庭とあるごとくそこに船が入り市がたっていたのだ。そこでなんらかの品物のやりとりがあったのだ。地名は歴史の化石というごとく古いのである。ただ時代的に9世紀とか10世紀とかになるかもしれない、7世紀とか8世紀となると古すぎるし時代的にむずかしい。確かに万葉の歌にあるごとく真野が知られたのは早いのだが実際に人々がここに出入りしたのは一世紀とかあとになるだろう。ではなぜ真野が最初に大和朝廷に平城宮で知られたかというとここが多賀城への蝦夷征服への基点となったからである。それが桜井古墳のある原町でなかったのかというと桜井古墳が東北で何番目かというように大きい在地の支配者がいたからである。それで比較的空白地帯の真野に入ったのかもしれない、ただここでも在地の勢力と戦闘があったらしいからわからない、その在地の勢力は誰かといったら毛野氏しかないのである。蝦夷というのは毛野氏と一体化した蝦夷なのである。蝦夷が純粋な蝦夷だけではない、蝦夷は毛野氏とか物部氏とかすでに蝦夷であったものと一体化したものであったのだ。だから大和朝廷の強力な敵となったのである。

とにかく鹿島町で一番古いのは浮田であり栃窪なのだ。だからこれは歴史的に把握しておく必要がある。そして栃窪で発見したのが江戸時代に金比羅参りに行き寄進した人がいたという事実である。これはインタ-ネットで発見した。栃窪になぜ金比羅の碑があるのか、栃窪から金比羅参りに行った人がいたということである。鹿島町のような小さい町でも新旧がありこれはどこにでもある。郷土史ではこの新旧をまず把握することである。その歴史から詩も生まれるのだ。

栃窪や今年も淋し夕桜(自作)

この俳句は栃窪の歴史的古さを知れば味わい深いものとなるのだ。詩も歴史的背景を知らないと鑑賞できないのだ。外国の詩が鑑賞できないのは歴史的背景がわからないからである。こんな小さい町にもあるとしたらどこの町にも大きな町だったら必ず歴史的背景があるのだ。郷土史はただ旅行したくらいではわかりにくいから困るのだ。まず地理がわからないのだ。この地理だけは地元に住まないとわからないから詳しくなれないのだ。距離感とか山を越えて向こう側とか谷におりてとかなんか地図ではない歩いた感覚の地理感が大事なのである。それがわからないから詳しくなれないのである。なぜ私が船に注目するかというと船は遠くと結ぶ、特に古代では道がないから遠くと結ぶには最適だった。私が北海道に十回も行くようになったのは船で仙台から行くと便利だったのである。6000円で安いこともあり次の朝8時には苫小牧についているのだ。一気に苫小牧まで行ける。ところがこれが汽車だと苫小牧までは非常に遠くなるからである。だからなぜか青森はほとんど行ってなかったのだ。汽車だと遠くなるからである。人間は交通に左右されるものなのだ。遠く近くは交通の便によってきまる。交通の便がよければ遠くも近くなる。実際は今や飛行機時代になり外国の方が近くなっている人がかなりいるのだ。なぜこんなにみんな外国まで危険な戦争状態のイラクまで18才の青年まで行っているのか、やはり飛行機があればどこまでも行けるからである。人間は交通の便によって左右されることが非常に多いのだ。だから真野も真野の入江に船で来れば近いとなる。ただ太平洋が荒いからどうなるかわからないがでも現実に船着とかそこに市庭とあることは船がきて人の出入りがあった。ただ9世紀とか10世紀、平安時代だったかもしれぬ。それよりもっと遅い時期だったかもしれぬ。郷土史研究の第一段階は土地の新旧を知ることにあることは確かである。




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