八沢浦の社

八沢浦から海沿いに相馬に行った。途中小さな社を見つけた。この社には気づかなかった。近くでも気づかないものがあるのだ。これが何の神社かわからないが九曜の紋は北斗七星で妙見神社であり相馬藩の紋である。これは日本に広くあり祀られている。これるル−ツは中国でありさらに中近東までさかのぼる。星は砂漠や平原の遊牧民の文化から生まれたものだからである。相馬藩の紋をあしらっているから相馬藩と関係しているのか良くわからないが社に紋があるのはそんなにない、ここは注目すべきである。この妙見信仰は相馬氏が関東から移住してもたらされたのだ。例えば小牛田神という碑は小牛田の山神神社が元でありこれは伊達氏の進出とともに相馬にももたらされたのだ。信仰は一族の移住とかでもたらされることが多いのだ。もちろんむかしからその土地にあった信仰もある、土着の神はある。それはその土地に根付いた木のようなものであり大事である。ただ信仰は外から神は外からもたらされた方が多いのだ。相馬藩は給人とか郷士とかが大半であり農民でありそれに武士の資格を与えられていたのだが実際は農民をしていたから相馬氏に仕える郷士がこの社を祀ったのかもしれない、明確に相馬藩の紋をあしらっているからだ。ただ八沢浦は明治になって入江だった所を干拓してできた村だから明治になって移り住んだ人が祀ったのである。それは郷士の子孫だったことは考えられる。
はじめは天守も築かれていたが、寛文10年(1670)に落雷のため焼失する。この時の藩主は相馬貞胤で、領民に負担を懸けるに忍びないと言って天守は再建されなかった
その性格は江戸時代以降の相馬氏の居城中村城がお殿様のお屋敷という雰囲気なのに比べ小高城は実戦的な砦という 感じがします。
天守閣もあり結構それなりの城だったのか、そう感じさせるものは何も残っていない、というのも城のすぐ側なのに田町となっているのか?そこは田があったから田町なのだ。つまりそんなに広い城下町ではない、六万石だから侍屋敷というのはわずかでありあとは在郷給人が土地を与えられ農民の統制にあたらせた。ただ江戸時代を考えると今は人口が十倍にふくれあがっている。当時の様子とはにてもにつかない、田町から新町となって相馬市が広がったように町自体が極めて小さいものなのだ。田町とか町田という地名が多いのは城の回りは常に田であり町も田の中にある町であり町田なのである。(図参照)

つまり城下に住んだ侍は専門の侍は城詰めの侍は極めて少なかったのだ。相馬藩の場合特にそうである。普通の藩は藩主−家中−本百姓であるが相馬藩では藩主−家中−給人−郷士−本百姓なのだ。給人−郷士が800人もいたとういから農民と侍の一体化したのが相馬藩でった。鎌倉時代の支配体制であった。「一生懸命」とは侍と農民は一体であり自分の土地を守るために一生懸命に戦う人達だった。「いざ鎌倉」とは日頃は農民をしていたものが武器を持ち馬で城に駆けつけたのである。だから野馬追いに出る人は農家から多いのだ。そこには武士としての身分があったから野馬追いに出る資格かあったのである。この支配体制は強固であり百姓一揆をできないものにしたという。農民の中に侍がいるからそうなる。これは北朝鮮とにている。北朝鮮では農民が主だが必ず一人くらいは軍人になっている。その軍人は国から物資をくすめて家族に与えているとか家族と軍人が一体になっているためなかなか反体制活動がしにくいという人がいる。


文久三年(1863)郡代組支配帳(北郷)より

まず鹿島町がなぜ北郷なのかというと相馬に城があり相馬が中心であったら
方角は南であり南郷になる。それが北になっているのは昔の中心は小高であり太田神社のある南にあったからそこから北郷となったのである。
元亨3年(1323)下総守谷の居城を後に、主従83人を連れ、先代からの所領奥州の地に移ります。
重胤は妙見、塩釜、鷲宮の三社を同じ神輿に乗せ、人目を避け・・・それは逃亡の旅でもありました。
久慈川を遡り、三春、葛尾を経て行方郡に入り、太田川沿いに現在の原町市片倉に辿り着きます。

手代 南右田村給人古発 鎌田六兵衛 高廿石 随勤

この随勤とは相馬の城に勤務した侍だろう。他はほとんど農民の指導役となってをり城勤めはしていない、ただ野馬追いとかの行事には参加した。なぜなら廿石は給人としては一番多いからである。つまりこの給人は農民としてより城に専門に出仕する城の専門の役人だったかもしれない、他は勧農係、米方掛、地方掛、塩目付、堰掛り、駒奉行、植木掛り、薪掛り・・・・とかある。たただ御仕法掛で三五石をもらっていた人があるからこれは特別だった。これも藩に直接仕える人だった。仕事はその名前からわかる。

給人は別に身分ではなく城詰めの侍と同等であった。森鎮雄氏によると相馬藩が参勤交代とかで財政が困窮し給人から役金(えききん)を要求した。これが元で一揆さえ起きるほどになった。給人の身分の返上さえあった。つまり役金がとられるのが死活問題になったのだ。これは暴力団の上納金みたいなものであった。下の組員は上に一定の上納金を払わねばならない、それができなくてさらに悪どいことをしなければならないとかニュ−スで暴利団員が言っていた。組織はすべて権力維持機構だからそうなったのだ。侍と言うと何か暴力団などとは違うと見るが暴力装置だから似ているのだ。暴力で持って天下をとり武力で国を治めるのだから似ているのだ。組織はどんな組織でも権力維持機構である。組織に入って働けば利益が得られるからそこに属して勢力の拡大を計るのである。封建時代の領主は権益拡大のために戦争していたのである。宗教団体だろうが官僚組織だろうが会社だろうがあらゆる組織は自らの権益拡大のためにしのぎを削る。その極端な形が暴力となり戦争となる。相馬藩に上納金を出すことができなくなり侍をやめたくなったというのも実利的に考えれば当然なのかもしれない。よく時代劇で江戸詰めの地方の侍が藩の財政に困り借金したり困窮しているあわれな役をやっているがあれと同じである。「武士は食わねど高楊枝」というのはいかに武士が金に困る存在の裏返しのことわざなのだ。金がなくても武士には武士としての誇りがあるということになる。しかし遂に困窮がひどくなると侍の身分などいらないといことになった。封建制というもの武士の階級制も明治維新になる前には形だけであり経済的にも苦しくなり武士としての生活の維持もままならなくなっていた。外部からだけでなく内部からもほころび崩壊する運命にあったのだ。ロ−マ帝国でもインカ帝国でもすでに内部から崩壊しつつあったからそこで外部からの一撃で簡単に呆気なく崩壊したのである。

いづれにしろ地名というのはやはり当時の地形や町の状態を示す貴重な歴史的財産である。田町は通りを新しくしたがもう一つ活気がみられない、どうしてもス−パ−で買い物するから町中には活気がないのだ。ただ相馬市はなんか沈んだ感じになる。ただス−パ−は買い物だけだが街には常に歴史がある。どこでもそうである。それが淋しくなった味気ないものになった。どこでも街としての個性の喪失である。相馬市と原町市は対照的である。原町市には城もなかったし原町というごとく雲雀が原というごとく原っぱが多かったのかもしれない、相馬市は古いが原町市は新しい街なのだ。東洋一の無線塔など最初にできたのもそのためである。常磐線の駅としても枢要な駅であった。相馬神社前はいつも静まりかえっている。それがあそこにはふさわしいともいえる。それぞれの町や村や市でも個性はあるが今の時代一様化して同じように見えるのだ。こうしていつものごとく陸前浜街道の松並木を通って日立木に出てきたら今度道の駅というものができたがこれも余り買うものはない、おみやげはたいがい高くなる。そして意外とどこでもいいものはないのだ。道の駅としては曲がり屋風にいやあれは曲がり屋とは関係ないが落ち着いていい感じだがそれほど売るものは置いてない、なかなか売るものを作ることはむずかしいのだ。相馬郡を考えると結構変化に富んでいる。海あり飯館のような山も広い、郷土を知るということはやはり歴史が欠かせない、では歴史をどうしたらわかるのかというとむずかしいのだ。塩の道については相馬から二本松まであの山の道を歩くことができないにしろ自転車でも苦労してたどってみることである。はるばる二本松まで運ばれたことに感慨無量になる。つまり歴史を実感することができるのだ。東海道にしても新幹線で数時間であっというまに着いては歴史の認識は全く欠落するから過去とのつながりが欠落するからその経験はうすっぺらなものになるのだ。歴史とは過去の人々の苦労であれそれを多少なりとも追体験することなのだ。それがないとしたら歴史は何も見えてこないのだ。発見はないのである。

八沢浦から相馬まで(相馬藩の特色)

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