阿武隈の歴史の道(相馬から川俣へ)
(小林勇一)


江戸時代の道は今とは全然違っていた。汽車の線路が通じたとき江戸時代の道が廃れた。福島市に行くのに岩沼回りで遠回りして行くことはありえないのだ。江戸時代は常に最短距離を選んで道を作っている。それは今通ってみるとかなり険しい不便なもののように見えるがそれなりに最短距離を選んだ道なのだ。各地にある塩の道がそうである。ここでも飯館まで行くのに栃窪からかなり山の中の険しい道を行くのだがあそこが飯館までの最短距離なのだ。そして今は崩れてしまっているが一番急になった所に殿様道と下々のものが通る道が分かれていたことなのだ。なぜあんな急な山の中の道に殿様道を特別作らねばならなかったのか、そんなところで出会う下々の人がそんなにいたのかという疑問である。一つの理由として山の中で道が細いしそこしか道がないとしたらそこで殿様の行列と会いやすいということがある。そこで出会いやすいから二つの道を作った。つまりそこでは一列くらいがやっと通れる道なのである。だから必ずそこで出会ったらまずいことになる。よける場もなからだ。ただそんなに頻繁に人が通り出会った道なのか、当時どのくらいあの塩の道を利用していたのかわからない、ただ出会いやすいから二つの道を作った。上は殿様道であり下は下々の人々が行くようにした。その頃の武士と平民とかは言葉まで違っていたし侍の子は町人の子と遊ばないとか別々の暮らしをしていた。また侍内でも身分制は厳しかった。

 
身分制度が、厳しく定められている。
 道の途中でもしも上司に会うような事あらば、必ずこちらは先に道を譲 らなくてはならぬ。
 上司の方はといえば。 こちらは道を、左へと譲る必要はない。
 そのまま、真直ぐに通り抜けるだけで良い。

風太郎道で出会う(小説)

それから

勢至堂峠の下の岩間より出る清水で、大雨が降ろうと日照 りが続こうと、少しも水の量が変らず、冷たい水が湧き出て いる。

 ある時、参勤交代で通行中の会津の殿様が、その清水を飲 みたいと家来にいった。ここは峠の曲り坂になっているので、 清水の出る上の方が道路になっていた。家来どもは、百姓が 歩いた道の下から出る清水なので、殿様に飲ませることはで きないといって、つい殿様には飲ませなかった。

 殿様が飲まなかった清水を、いつしか殿様清水と呼ぶようになった

この意味は良くわからないが百姓が道の下を歩いているから殿様には飲ませられないというほどこだわるものだろうか?ちょっと下々のものと道を分けたのとにているがこれはちょっと今では理解できない、普通殿様が飲んだから殿様清水とか殿様が入ったから殿様温泉とかなっているからだ。考えられない身分制度があったことになるのかもしれんがこれはちょっと解せない話である。

とにかく江戸時代でもそれなりに往来があった。相馬から川俣→二本松や三春へ往来はかなりあったのだ。二本松と三春への分岐点が山木屋だからあそこが道の要になっていた。道の十字路になっていた。そこで相馬の妹思いの若殿が栃窪の山を越えて飯館から山木屋の十字路に出たとき、三春へ行く道で駕籠をとめ三春藩に嫁いだ妹を案じたという話がその道をたどって行くと何かしんみりとしてリアリティがでてくる。まさにそこが歴史の道であるからだ。

山木屋に三春へ別る道遠しかすか虫なき我が帰るかな

短日や三春に別る道遠し

今回は川俣までバスで行き折り畳み自転車で帰ってきた。山木屋ではすっかり暗くなっていた。相馬藩と三春藩と二本松藩は当時の道の距離感では確かに遠いのだが隣の藩であり密接な関係があった。江戸時代というとなかなかわかりにくいのだが阿武隈の山の中でも実は栄えた所があった。山は今とは違い鉱物資源とか炭焼きとか木材の産出とかそして川俣は養蚕地帯として特に栄えていた。江戸からも絹商人がやってきた。川俣の軽目羽二重というのは江戸でも知られたブランド品だった。だから江戸から来た絹商人がシャモの闘鶏を伝えたというのも頻繁な江戸との交流かあったのだ。川俣に水晶山というのもあり水晶がとれていたり今の山の状態とはかなり違っている、江戸時代は江戸は大消費地であり生産地ではない、米でも絹でも江戸に運ばれたが地方から江戸へ物は運ばれたのであり今とは逆になっているのだ。だから阿武隈の古い家でも大きな立派な風格の家が残っている。これは他の山でも同じである。かえって大きな頑丈な作りの家がありそこで大家族でまたは小作人とかを雇い養蚕で絹を作る生産の場だった。家が工場のようになっていた。だから家の二階は養蚕のために大きいのである。白川郷のような世界遺産になるような立派な大きな家が作られていた。

今の感覚だと山は貧しいとなるが昔は山は豊かだったのだ。だから葛尾大尽屋敷跡の伝説とか炭焼き長者とか長者伝説が各地に残っているのだ。今回川俣で見た家もかなり大きい、昔ながらの大家族の家でありたいがい養蚕が行われていた。その前田には稲架(はざ)が立てられどっしりとした生活の重みが感じられた。この前田というのが農家にっては大事なものであった。前田とか前畑というのは常に家つづき生活の場となっていたからだ。門田というのもそうである。門の前の田である。それが地名化しているのはやはり農家の日々の生活の感覚のなかで自然と名付けられた地名である。なぜなら今はたいがい仕事の場が工場など遠くに通うが昔の農家はその家がその前の田が畑が生活の場だったのである。だから家にしても何かどっしりと大地に根付いたような家になっていた。つまり今の農家とは違う生活全体をになっていたから今の農家とは違う、今の農家は第一専業農家自体非常に少ない、農家そのものが生活になっている人は非常に少ないのだ。

確かに現代は山の生活でもみんな自動車を持ち買い物でも豊かであるが生活感として何か大地に根付いていない、生活の重みが感じられないのは生産する場でなくなったからだ。川俣辺りがいかに盛んな養蚕地帯だったか、それは川俣の方から今の阿武隈急行の線の方に最初汽車の線路をひこうとしていたが蒸気機関車の煙で蚕がだめになるということで白石の方に東北線がひかれたのだ。つまりそれほどここが江戸時代から養蚕地帯として栄えていたことなのだ。他でも鉄道が通るところが養蚕地帯になりこの公害問題が生まれた。だから鉄道の駅はかなり街の中心から離れた所に作られたのが多いのだ。とにかく歴史の道は各地にありこれが自動車道路となり昔を偲べなくなっている。結局それはどういうことかというと精神的にも貧しくなる。昔があって今がある。昔の道を歩み故人を偲ぶことができる。そこに時間の連続があり今だけを性急に生きるのではない、歴史を偲び生きる道になる。阿武隈には道が幾重にも別れ家が山間に点々と隠されるようにある。そこが魅力なのだ。他にもいろいろな歴史の道があるがあとでまた書いてみよう。

1872年 明治5年 ・川俣ゆうびん取扱所(瓦町)ができる。
1876年 明治9年 ・町飯坂村、町小綱木村が合併して川俣村となる。
1877年 明治10年 ・仁井町に製糸工場ができる。
1885年 明治18年 ・軽目羽二重が外国に売り出される。
1889年 明治22年 ・川俣村が川俣町となる。
1905年 明治38年 ・大橋式力織機が発明される。
1906年 明治39年 ・川俣町・松川間にトテ馬車が走る。
1908年 明治41年 ・電灯が初めてつく。
1911年 明治44年 ・軽便鉄道が通る。
大 正
1915年 大正4年 ・川俣銀行ができる。
1925年 大正14年 ・川俣線が開通する。


川俣町はこのように阿武隈山中では早くから開けた文明開化の街だったのだ。コスキンの街とかアンデスの音楽をとり入れたのもその一つである。それが江戸時代からの養蚕が産業として継続したからである。日本が明治になり輸出できたのは絹でありこれで国の力をつけた。でもそれが戦争とかで費やされたという虚しさもある。富国強兵は背後に経済力がないなと成り立たない、それが養蚕であり輸出品の絹だったのである。















川俣から東和へ秋の俳句へ


阿武隈の魅力は道にある

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