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小林勇一

西行編

神話伝説化した旅の巨人 

●予定されない旅

私自身は有名な歌でも歌人でもあまりその人を考えたことがない、人間は年をとればわかる、いかに勉強不足になっているか愕然とする。常識的なことすら基本的なことすら勉強不足なのである。だから今西行の人となり歌をしることは容易ではない、西行にあらためて魅力を感じたのは自らの旅と重ね合わせることでいかに西行が大いなる旅人であったかを知ったからである。芭蕉と比べてみてもその旅のスケ−ルは桁違いである。なぜ芭蕉のように宿場もない時代にこれだけのスケ−ルの大きな旅ができたのか?その謎があまりにも大きいし神話的にすらなっている人物であることに気づいた。芭蕉の旅は西行の旅からするとスケ−ルが小さいのである。芭蕉は一人でも旅していない、曽良がついていてやっと旅している。それも奥の細道を旅する前から計算されているような旅をしている。文学的に何か事前に計算されていてその行く先もわかっている。芭蕉は伝説神話人間ではない、その跡は今でも明確にたどることができる。人物的に見たら細心の注意をはらって手堅く予定のコ−スを終えただけである。ただその俳句の中味は深いものがある。

ただ旅というとき実際の旅の醍醐味はそういところにはない、旅の醍醐味は私自身も多少自転車旅行で経験したがそういうものではない、もっとスケ−ルの大きな天地を自由に旅することなのだ。それがなぜ宿場もない時代にできたのか?だから西行は神話的伝説的人物になっているのだ。現代では旅というとき世界一周でありそれは珍しくもないし冒険でもないのだ。世界一周したからといって誰でもしているのだから自慢にもならない、世界はすでに旅してもほとんど危険な地帯はないのだ。たまたま危険にあい命落とす人がいても不運だったとなるだけである。交通事故にあうようなもので冒険して命を落としたとはならないのだ。世界一周でもその行く先はわかっているしどこにでも宿はある、日本人もいる、食事もできる、その先は予定し計画できるし危険はほとんどないのだ。鎌倉時代に全国を旅することの方が千倍も危険だったのである。

風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな

行方も知らぬ・・・・この歌の大きさは富士を焦点にして旅行く我が一体どこに行ってしまうのかという雄大な歌なのである。富士という山の大きさを仰ぎ西行はひたすら歩き旅をしているのだがその行方はわからないのである。そんな旅がどうして鎌倉時代にできたのか謎である。現代に旅がないのは一時間先まで時刻表を見て行く先が決まっているからだ。歩きでも自転車でも別れ道に魅力を感じる。分去(わかれさり)という地名が残ったのもわかる。どっちの道を行くか、また道連れの旅でも分かれてゆく、見送るためにその分去(わかれさり)に名残を惜しみたたずんでいる。徐々に背を見せて人の影は道の遠くへ山のかなたへ消えてゆく・・・そういう旅の別れがいたるところにあったのだ。今やわざわざ−人を見送る秋の暮−と人を入れねばならない、なぜならすべて車が轟音たてて消えてゆくだけだからだ。そこに見送る人はいないのである。人が分かれていくということ相当に想像しないと人が浮かんでこないという異常さが今の車社会なのである。現代ですら西行のうよな旅はできない、どこでも自由だというが本当に自由なのか?自転車で別れ道がある、自転車だとその本道から分かれる道は未知の世界であり例えばここから7キロに温泉があるというときその7キロが非常に遠く感じられた。7キロは実際は14キロになる。引き返すから倍になるしこれは遠くへ行こうとしたら自転車でも寄り道することはかなり疲れることなのだ。だからなかなか寄り道ができなかったのである。自転車でも歩くより何倍も早いのに自由な旅ができない、それがどうして歩きで全国を巡る旅ができたのか謎になるし神話伝説になってしまうのだ。上野霄里氏によると神話伝説的神秘的人間こそ真の人間だと言っていたから西行はまぎれもなくその一人である。芭蕉は人物は神話伝説的な人物ではない、ただ時代をさかのぼるにつれ伝説が多くなるから西行も時代的にわからないことが多いから伝説になっている

●そらを意識した西行の歌

そらになる心は春のかすみにて世にあらじとも思いたつかな

あはれ知るそらも心のありければ涙にあめをそふるなりけり

山の端に月すむまじと知られにき心のそらになると見しより

秋はくれ君は都へかへりなばあはれなるべきたびのそらかな

雪ふれば野路も山路もうづもれて遠近しらぬたびのそらかな

常よりも心ぼそくぞおもほゆるたびのそらにて年の暮れぬる

都にもたびなる月のかげをこそおなじ雲井のそらに見るらめ

秋はくれ君は都へかへりなばあはれなるべきたびのそらかな

うき世とも思ひとほさじおしかへし月のすみける久方のそら

影さえてまことに月のあかき夜は心もそらにうかびてぞすむ


ここでそらというのをキ-ワ-ドで検索したらこれだけでてきた。なぜそらに注目したのか、日本人はあまりそらを意識しない、万葉集でも星を歌ったのが一つくらいしかない、千恵子が東京には空がないと言ったけど日本には空は意識しにくい、常に山にさえぎられるから空も感じることができない、外国に行けばどこまでも平地が広がるしその上の無限の空を感じるし星もはっきりと脳裏に刻まれる。だから砂漠などの中近東では三日月と星が旗印となるし北斗七星が信仰にもなる、相馬藩の妙見信仰も北斗七星であり中国から伝播した神である。ではなぜ西行はそらを意識したのか?そらは空であり空になったとき心に自然が写る、そらには月が常に輝き月がともなってゆく、西行は若くして出家するときから

そらになる心は春のかすみにて世にあらじとも思いたつかな

この歌から最初にそらになるとでてくる。そらになるは空になる、無になるということなのか、心ははるのかすみというから自らがそらのかすみのようになる意識があったのだ。はるのかすみと桜を愛でた西行の一端がすでにここにあった。はるのかすみというとき出家しても春がある。それにしても出家するとき23才ころ作った歌だとするとこれも不思議である。西行の歌はその当時でもまねのできないものだった。やはり啄木のような天才だったのだ。出家するとしたらそこに暗いものを感じるのが普通である。それが春のかすみとなるのだからその心境からして普通出家するのとは違うしこの歌がすでに・・・春死なむに通じていたのも一貫性がある。やはり西行は特別な歌の才能がありそれが最後まで旅のなかで成長していった。啄木が体が丈夫だったらこのうように成長したのかもしれない、やはり特別な天才的資質をもった人だった、その上に体に恵まれたので天寿を全うして歌の世界を極めることができたのだ。歌だけではない人生も残り惜しみなく極めることができたのである。


うき世とも思ひとほさじおしかへし月のすみける久方のそら


ここを浮世とは思い通すことはない、そらを見ればまた皓々と月が輝いている。それはこの世を離れ離脱して輝く月なのである。そういう感覚がときに誰にでも自然の美にひたるとき起こる、濁世から離れ自然の中に我を忘れるのである。おしかえし・・・というのはやはり濁世でもそらを見たら清浄の月が輝いていた、その時この世から離れそのそこにはやはり月が澄んでいる、月がこの世の主人のように住んでいる、澄んでいるとなる。いづれにしろ旅路の月は場所が違いばその月は常に見ている月とは違うものとなる。

奇(くす)しきや一夜い寝ける伊那に月

中山道をぬけて伊那で一夜野宿した。その月は一度限り見る月だったのだ。伊那で見る一度だけの月、ある場所で一度だけ見る月というのが他の人にとってもそうだった。人生の終わりにそれを必ず感じる。もうあの場所で月を見ることがない、あの場所に行くこともできない、一度切りの出合いでもう会うこともないとかそういうことが当たり前になる。この句はあまりよくないにしても伊那に月を見ることは一度きりなのである。西行がそらを意識したのはそらが空になる心の住処(すみか)になるものとしての空だった。そこには常に清浄の月が澄んで輝いていたのである

●大いなる空間と時間の旅

常よりも心ぼそくぞおもほゆるたびのそらにて年の暮れぬる

たびのそらというと普通に使う言葉にしても陸奥を旅をしているうちに年が暮れてしまったという長い旅のことである。一年も旅したらその感覚は普通は経験しえない、私にしても一カ月が最高の旅の時間だったからだ。それが一年とか二年とかなるとどうなるのか、その心境は特に鎌倉時代となると特別なものである。芭蕉の奥の細道でも一年に満たないのにあの当時京都から平泉まで二年も旅の期間があるとしたらその旅の思いはあまりにも深いとなる。それは地上から離脱してしまうような感覚になるのだ。私もそういう時が自転車旅行であった。あまりにも私の旅もスケ−ルが小さくて申し訳ないがそれでもそういう感覚をもったのだからこれが二年間も旅の空にあったということは驚くべきことなのだ。それも陸奥という辺境でそうだったのだから今とは全然違った感覚になる。都に帰るのにも半年とかかかってしまう時代だからだ。

都にもたびなる月のかげをこそおなじ雲井のそらに見るらめ

これも空に光る月をみて空を通じて都に思いをたくしている。はるかな陸を旅して空を通じて都への思いへを深くしているのだ。陸は山や川などで遮断されるが空は遮断されない、同じ月が地球の裏側でも見ることができる。だからグロ−バル化でも空には共通の共有の意識をもつのである。山は無数にあっても太陽は月は一つでありどこでも同じ思いに見ることができるのだ。

影さえてまことに月のあかき夜は心もそらにうかびてぞすむ

そらに澄むということは地上を離脱してそらに心がすむ、濁世を離れてそらに心がすむ、そらは空であり空は仏教の悟りの用語だから心が空になったとき−影さえてまことに月のあかき夜は・・・心が清浄の世界に映し出される。当時の月は今よりさらに澄んでいたからスモッグなどで汚れた月とはあまりに違っていた。月は今はビルの谷間などに書き割りのように浮かぶことが多い、月は幽霊のように死んでいるのだ。西行がそらというときそらは俗念を離れた空なる悟りの清浄のそらであり観念としてのそらがある。そして西行はそらを旅していたのだ。まさしく旅のそらでありそらを旅してそらに消えたような旅をしたのである。

風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな

富士の煙の空にきえて行方も知らぬ・・・まさに行方も知らぬそらに西行は消えて昇天した、神話的伝説的人物なのである。現代ではすべてが計算されつくされた旅である。だから旅がない、西行のようなスケ−ルの旅は無理にしても小旅行でも歩き自転車ならこの別れ道はどこに行くのだろう・・・行方も知らぬ・・・道(未知)の旅を体験できるのである。

春の日にこの道いづこ分かれ道いざなわれしは女神山かな

いづこへとゆくと知らじも春日さす道の分かれていざなわれしかも


あたたかい春の日どこへゆくともしれず道をたどってゆくと女神山の方に行っていたのである。これは予定していないことだった。これは電車の旅ではできない、レ-ルの上を行くしかないからだ。歩くか自転車ならこういう旅にならないまでも散歩でもそうなってしまう。

あくがれし心を道のしるべにて雲にともなふ身とぞ成りぬる

空の雲のように心は旅して本当に雲のように流れて旅して空に消えた旅人が西行だったのである。こういう旅ができたのはやはり体が丈夫だったためである。芭蕉は病弱な面があったし50才くらいで死んだとなるとやはり体が弱かったのだ。西行は70才まで生きたとなると今にすれば90才くらい生きたとなる。山頭火も体が丈夫だったから野宿してまで旅ができた。西行も宿場のない世界で旅ができたのも体が丈夫だったためである。その顔つきも文弱ではない怖いほどの面魂だったというからそうだった。その当時これだけの旅をするにはまず体が丈夫でないとできない、その旅した距離であれ空間であれ時間であれ神話的なのである。今になると神話の巨人が旅していたような感覚になってしまうのだ。その後の旅人はなぜかかえってスケ−ルが小さい、芭蕉でも宿場が整備された時代だし金持ちの家に泊まったりと待遇がいいのである。俳句作者として文学を未然に構想してその通りの旅をしたという感じがする。西行は束稲山の桜を見たときは短歌では言い尽くせない思わざるものはるかに来て見たのである。おおげさに言えば地の果てまで旅してそこに荘厳な平泉の栄いを見て感嘆したのである。平泉を新幹線で来て見るのとは全然違った感懐がそこにあったのだ。旅人でもその後は物見遊山的な旅人である。若山牧水でもそうだしこれは文人としての予定された旅であり歓待された旅である。山頭火を最後にして旅人は存在しなくなったのだ。車社会では旅人でさえありえない状況になった。道は人間の行く道ではない、車の行く道になったからだ。


その脚は力強く大地をふみしめ

心はたくましい翼を広げはばたく

雲と風と流れ行くへもしらに

いづこに泊まるやしれず

何を食せしかしれず

ときに地上に落とす雲の影の

歌となり残り空にしるされる

富士の煙はそらにたなびき

大いなる旅人はかなた陸奥に向かっている

そはペガサスのように奇跡のように

空を駆けはるかにやってきたのだ

そこに未だ見ぬ栄いの荘厳の都

そこにまだ見ぬ桜の山をおおい咲く

陸奥の辺境の川の凍れるごとく

その名をば後の世に伝えられぬ