松江と常夜灯
(小林勇一)

一つ家に 遊女も寝たり 萩と月


芭蕉の不思議はその歴史的風土にぴったりの句を作ったことかも知れぬ。日本海でなぜ遊女がでてきたのか、そもそも港には遊女が必ずいたし遊女が欠かせないものだった。それで日本海には古くから船の出入りがあり遊女がいたのだ。なんかわからないけど江戸時代には遊女がかなりいた。遊女が女性の仕事になっていた。女性の働く場所がないから遊女が商売になったのかも知れぬ。または遊女はやはり日常の生活と別なところにあり当時の格好の遊び場だった。今のように様々な遊び場はなかったからかわからない、とにかく江戸時代にはかなり遊女が常に話題になっていた。今の芸能人が話題になっているのと同じである。だから芭蕉が日本海で遊女に会ったのは偶然ではない、それなりに遊女が多いから宿でも会ったのだ。松江の茶屋町もそうである。茶屋とつくのは遊女がいたところである。男が酒を飲み女性と遊ぶ場所である。当時遊女が一つの社会の風景として溶け込んでいたのだ。その遊女が詩になるのもそれは当時の文化であったからだ。今の遊女はそうした日本の文化でもない、何かあまり遊女のような哀れさとかそういうものを感じない、かえって贅沢している。江戸時代の遊女は生活のために売られたとか何か切実なものがありそれで哀れさがあり語り継がれたりした。ほとんどは借金のカタに売られた。一種の生活のための人見御供だったのだ。いつの時代にも人見御供にされる人間がいるのだ。それが江戸時代では遊女だったのかも知れぬ。ただ遊女にもいろいろな見方がありわからないのだ。単純にかわいそうだという存在ではなかったとかその真実はわからない、遊女といってもその範囲が広いしその境遇も一様ではなかった。だから歴史とは統計的数字として語ることは客観的に語ることはむずかしい。一人一人の遊女を語ればそれらはみな違ってくるのだ。それが全部一緒にこの人たちはかわいそうな人たちだったとはならないのである。遊女を研究している人もいるしこれは女性史としては大きな部分をしめている。

絶望書店ー遊女!!
http://home.interlink.or.jp/~5c33q4rw/nikki/yujyo.htm

江戸時代の遊女は普通の女性を「地女」と呼んで馬鹿にしていた。
男の方も遊女を地女の上に見ていたのである。
遊女は売春を生業にしていたのだが、今の売春とは大分様子が違い、
「金さえ払えばいい」というものではなかった。
江戸という街は独身の男であふれており、一生独身で通す人の方がはるかに多かった。
下級の職人や商家の奉公人は結婚などできないのが当り前といったところである。
その上、頑張ってお金を貯めても、とてもじゃないが吉原は高嶺の花。
それほど憧れの場所であり、そこにいるのは観音様というでもいうべき女性だったのである

一〇〇万人のうち五〇万人が単身赴任の武士とかそういうので、残りの五〇万人のうち二五万人ぐらいは上方からの大店《おおだな》の商人関係の男社会。残り二五万のうち半分が女で半分が男という割合ですよ(松浦日向子)

OUT of TILOLU > 江戸吉原
http://www.tilolu.com/yoshiwara/yoshiwara-5.htm

これほど憧れの場所だったということである。江戸には独身が多いから余計に遊女がもてはやされ多かった。それだけ需要が大きい都市だったのだ。吉原は銀座のバ-のような格式高い女性の働き場だったともいえるしその他その下や回りで働くいろいろな人がいたのだ。

秋柳 海風吹かれ 常夜灯 (自作)

宍道湖の岸に大きな常夜灯があったがあれも往時ここが港として栄えたからだろう。京橋とか江戸町とかあるのも都とのつながりを示している。ここは船運で隠岐とも交流があった。ともかく江戸時代には多くの港があり栄えていた。船の運送が多かったからだ。北前船がその代表だった。これで全国各地が結ばれていたのだ。この船の運送は明治時代までつづいていた。汽車が普及して急速に港は寂れたのだ。

この状況を風連の郷土誌は「交通の方法は士別〜風連間を天塩川を船で下るか、徒歩で行くより方法がなかった。道路といっても名ばかりで、原始林と熊笹の中を縫うように、草を踏み倒したような基線道路は、昼も鬱蒼としたアカダモと笹で覆われ、湿地が多い悪路は馬を使えず、歩くことしかできなかった」

北海道開拓に入ったものは船が便利だったのだ。アイヌの丸木舟も利用している。船がいかに利用されていたか、川を渡るのも舟だったし河川の船の利用があったのだ。
その港々に残っている常夜灯はその象徴だった。港々には常夜灯が常に灯っていた。この名前のとおり常に灯って港は栄えていたのである。

重厚な入り母屋造りの若胡子屋跡に入る。最盛期には約百人の遊女を抱えた茶屋だった。現
港に出ると、石で築いた千砂子波止や雁木(がんぎ)、常夜灯、大小の灯籠が並ぶ住吉神社がある。「玉垣には寄進した遊女たちの名前が刻まれているでしょう」と木村さんがのぞき込んだ。(瀬戸内海、御手洗)

ここは遊女の町だった。遊女はここでは主な稼ぎ手だったのだ。

路地裏に栄華の名残/町並み保存
http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/seto/6/970612.html

浪荒れぬ誰か別れとたたずむや常夜灯古り秋の日入りぬ(自作)

秋の松江

芒なびく日本海浪荒れて
松江に我は着きにき
街を歩みて茶町とあわれ
昔の賑わい思うかな
宍に強風や波立ちて
大きなる常夜灯一つ古りて
柳しだれてそよぎけり
京橋に江戸町と偲ぶ都や
船のここに寄りて栄えし昔
今日は秋祭りや太鼓ひびきぬ

リンク-九州の旅(松江)