歴史は地理である。(近江の地理から歴史を解く)(小林勇一)

さざ波の志賀の都

奈良よりも
難波や京よりも
大津の遠きかな
古のさざ波の志賀の都
一時の夢とありしや
消えしはかなし
今またさざ波の音
古の道にこそあれ
琵琶湖を行く舟
大津、塩津、海津、今津、舟木・・
特に塩津のあわれ
枯木一本村古りぬ
越前への道ここに通じ
万葉の歌に残りぬ
朝妻は港に栄い
遊女の浮名を残しぬ
渡来人眠るや高島に
家型の石棺に豪華なる
金銅双魚佩などの副葬品
文化の交わる処
多賀大社は伊勢と並びて古し
伊勢より参拝に賑わいぬ
明治に参宮線の近江鉄道
一早く古りし路線や
伊吹山さえぎりて
東への境にあれ
古代に戦国時代
東西の軍相対して
ここに雌雄を決す
安土桃山城の高きや
信長の天下の野望の城
黄金の甍のかたわれ
埋もれて消えぬ
その天守も幻となりぬ

「塩津山うち越えゆけば我が乗れる
馬ぞつまづく家恋ふらしも」笠金村

塩津駅を行くビデオ(4mb)

歴史と地理は一体化して深い関係にある。歴史は地理がわからないと根本的にわからないから教科書が地歴となったのは良かった。近江というのも地理から考えると近江という歴史が見えてくるのだ。ここは実際は飛鳥とか奈良とかからかなり遠い場所なのである。ともかくここに短い一時期都が置かれたのもそれなりの理由があった。当時の感覚ではかなり奥まった隠れた世界だった。淋しい場所だったのだ。雄琴の伝説の語るように奈良とか京からは離れた淋しい場所であった。古代では辺境の地だったのだ。ただ琵琶湖があったから古来舟運があり要所となったのである。難波すら葦だけが繁る田舎だったから信じられない状態になっている。

そういう淋しい感覚の場所として想像しないと今の都会化した状態から想像すると歴史はわからないのだ。地理が場所が歴史を作るのだ。都から遠く陰になっている世界が近江である。しかしまたこの近江の地理的特徴は日本海を通じて韓の国と早くから交流があったことである。だから継体天皇が越前からでてきて近江の豪族と結び交野に楠葉宮跡が一時期あったのもそのためである。交野という場所が極めてその歴史が地理であることを語っているのだ。交野から難波とか奈良とか飛鳥へ進出できない事情があった。地元の豪族によってはばまれていたのだ。これは壬申の乱でも同じである。

高市皇子の要請によって,桑名にとどまっていた大海人皇子は前線本部のある不破(岐阜県不破郡関ヶ原)へ行きます。
前線本部のある不破の近くに野上という所があって,尾張地方の支配者であった尾張氏の私邸を借りて,そこを行宮(あんぐう−仮の宮)とします。
高市皇子を総大将とする前線本部(「わざみ」という所)
ここに
東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵数万が集結しました

高市皇子の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)りいまして 天の下 治めたまひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと まつろはぬ 国を治めと 皇子(みこ)ながら


背面(そとも)とはここは飛鳥や奈良からは遠い背面の国である。ここに東軍を集めて戦った。関が原は古代も天下分け目の地だった。ここだけは西なのに山で高いから雪がふる場所なのだ。

 
和射見(わざみ)の峰ゆき過ぎて降る雪の重しきて思ふと*申せその子に 2348

ここでも地理と歴史が一体となっていることを如実に示している。ライン川をはさんでロ-マとゲルマンの境をなしたようにこの不破の関、関が原が日本の東西を分ける地理的境界だったのだ。信長安土に天下を治める安土桃山城という豪華な城を築城したのもここがやはり要所の地となっていたからだ。古代では飛鳥や奈良が都とすると遠いのだが戦国時代は京都に近い距離として安土が選ばれたのである。近江の歴史は一面は背面(そとも)の国なのだが琵琶湖を通じて交通の要所にあったから一時期志賀の都が置かれたのだ。東西の要の地にあるからそうなったのであり近江商人もこうした交通の要の地にあったから商売をしやすいからそういう人達が生まれたのである。交通が歴史においていかに大事かわかる。主要な道からはずれたところは背面の国になってしまうのだ。

芭蕉がここで死んだのもみちのくという荒寥とした場所から帰り「ゆく春や近江の人と惜しみけり」というようにここは関が原を越えると風景まで変わる、山は比較的低くなり和やかな感じになる。ここは弥生文化と縄文文化の境目でもあった。ここを境に渡来人の文化も濃厚に入ってきたし西国と東国は人種的にも文化的にも食文化のようなものまで違う境目なのである。

関が原越えてそ琵琶湖山々の和みて見ゆる春の光に



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