古代史−鹿島町(真野郷)の解読

(小林勇一)

真野の入江




 郷土研究で役に立つのは地籍図である。地名は本当に化石のように古いのだ。何故なら船着、市庭、戸屋前(問屋前)という地名はそこが海に接していて船が来ていた証しなのだ。塩崎というのもそうである。あそこが海だったとは今では思いもよらない面があるからだ。八沢浦は明治に干拓されて海だったことがわかる。しかし塩崎が海だったことはわからない。でも地名が海であったことを示しているのだ。日本にはこうした浦や潟がいたるところにあったのだ。それが海の水が退いて陸地になった所が多いのだ。万葉集でも港として歌われた所がかなり海から陸に入った所であることが多いことがそれを示している。そして曽我船という地名の不思議である。
ソガとか遡るという意味があり船がここを遡ったからつけられたとか船が何らか関係していたことは確かである。ここから真野の入江に入ってくる船を見ていたのだろうか。歌にも残っているように真野の入江は確かにあったのだ。

その証拠が八沢浦である。あそこは埋め立てられて田になってしまった。干拓されて田になった所も多い。おそらく右田辺りもかなり海が入り込んでいたのだ。日本の海岸はどこも今よりかなり海が入り込んでいた。海が退いてそこが田になった所が多い。

 埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね 3380

綱は絶ゆとも言な絶えそね」とあるが海は退いて港も消えたが万葉集に言葉としてその跡は残したのである。言は絶えなかったのである。
鹿島神社は海に近く鹿島は楫間だとか楫(かじ)をとる海人族の神を祀ったものだとか海と関係していた。鹿島神社と香取神社は一対の神であり浜通りにはその神社が多い。これは茨城の鹿島神宮がその本拠地でありそこは蝦夷征伐の基地だった。蝦夷はそもそも九州にもいたし日本全国が蝦夷だった。縄文人の末裔とも言われる日本の原住民だったのである。それが稲作とか鉄とか様々な技術をもった渡来人がきて蝦夷は追いやられたのだ。鉄の神様が多いことは鉄の威力の大きさを示している。鉄なくして国家の統一はなかったのである。

とにかく大和朝廷は水軍によって作られたという人がいるように船が大きくかかわっていた。ただ船の文化は海に沈んだりして残りにくいから明確な跡をたどれないから今ではピンとこないのである。例えば南北朝の時代、北畠家は報告している。伊勢を発った船は宇多か牡鹿に着くと・・・宇多は相馬であり松川浦がある。これはなぜそうなるのかわからないが潮流の関係で流されてゆくためではないか。黒潮にのってそうなるのかもしれない。海にも潮の流れという道があるのだ。福島県の真野と牡鹿の真野は海の道を通じてつながっている。海の道を通じてつながっていることが日本では多いのだ。ただ海から来たとしてもその記録は失われやすいので跡がたどれないのである。福島県の真野から牡鹿までは浦伝いに行くこともできた。牡鹿は大和朝廷にとってやはり何か重要な意味を持つ場所だった。

市庭(いちば)で相庭(そうば)になる、古代からの言葉

(庭について)
http://krd.roshy.human.nagoya-u.ac.jp/report/watanabe.html

産鉄族の跡をたどる

そもそも真野という地名がどこから起こったのかというと近江の真野町に御真津日子訶恵志泥皇尊(みまつひこかえしぬのみこと)が祀られてをりこの御真津が真野になったと吉田金彦の「古代地名を歩く」に書いてある。多くの真野の地形としては必ず海や湖の岸辺に接していることは確かである。そこは交通の要所だったことである。
 それから真野郷というのが近江の真野郷→常陸の真野郷→行方郡(真野郷)→久慈郡(真野郷)というふうに真野郷が移動した。小野郷よりは明確ではないが郷というのは歴史書に記されたものだから信頼できる。真野という地名は他にもあるがそれらがどういう由来があるのか不確かである。小野というのも小野氏が移動して名づけられたもだが小野や真野という地名はありふれた地形から名づけられる場合もあるから氏族名とは限らない。物部とか大伴の伴郷とかなれば明らかに氏族名である。小野氏族は真野氏より大きな氏族であり全国に足跡を残し小野郷も多い。地名はその土地で生れるものがあるが移動もするのである。アメリカの地名などはヨ−ロッパからの移動が多いのだ。それも当然である、ヨ−ロッパから移住した人達が作った国だからである。インディアンの地名はアイヌの地名と同じように残っている。

陸奥の真野の入江の片葉芳(よし)合わせて見れば伊勢の浜荻

風神の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に
難波の浦の夏景色、風に揉(も)まれし芦(あし)の葉の、さはさはさはと音に聞く。(合)ここには伊勢の浜荻(おぎ)を、よしや芦とは誰(た)が付けし。

「伊勢の浜荻」は、伊勢の浜辺に生えている荻のことであるが、伊勢地方では、アシのことを浜荻というとして、アシの異称としても用いられる。
「よし」は、「善し」と「芦」とを掛け、さらに、「たとえ」「かりに」などの意の副詞「よしや」をも掛ける。「芦」は、「悪し」に通ずるので、これを忌んで「よし」ともいう

浜荻の荻は萩ではない、芦のことである。難波ではアシと言うが伊勢では浜荻という、所変われば品変わるである。

この片葉葦とは日本の鍛冶屋の神である一つ目、片足の神、天目一箇神の伝承に一致する。また、柳田國男の説くところの日本の生贄の風習である片目片足をつぶし、生贄のしるしとした伝承。それを証明するかのように片目の魚と神、片葉の葦と神の伝説は日本中至る所にある。そしてそれらが産鉄民と繋がる事は歴史家の間では今や常識、片目の神は北欧、エジプト、日本と、世界的に神の条件のひとつでもある。片葉の葦は「かたわの足」である、産鉄族は火を扱い片目になったり片足になったり体を酷使するためにそうなりやすいのである。またはたたら吹きの強い風のために葦の葉が一方に偏ってしまった。この説は現実感がある。製鉄を行った場所がどこも片葉葦になっていた。真野に来たのも産鉄族である。烏浜の火力発電所の所は大船となっており日本でも屈指の製鉄所跡が発見された。海に面していたことはそこから船で鉄を運んだとしか考えられない。大船という地名などつけないだろう。 大船が着岸する所だから大船とついたのである。鉄は海の砂鉄であった。金沢というのもあそこで鉄の生産が行われ鉄の錆のようなものが流れてくるので名づけられたのかせしれない、そういう地名が多いのである。

真野が奈良にまで知られたのはこの鉄がとれることと関係している。時代的には平安時代とあるが鉄を求めて真野に来てここに蝦夷征服の基地を作った。 この片葉葦の伝説は福島県の小野小町伝説の所にもある。いたるところにあるのだ。鉄を求めて産鉄族が日本全国を巡った跡なのである。そしてどうして烏浜と名づけられたのだろうか。烏は神武天皇の東征伝説の烏であり伊勢にも烏という地名があり伊勢には真野国というのもあり伊勢は軍港でありここから蝦夷征服に出航したのだ。神風の伊勢とはまさに船が神風にのって船出するところだったのだ。

そして原町の金沢も浦であり干拓された。その近くに桜井古墳があるということは海に接して大古墳が作られたことになる。あそこにも船の出入りがあったことが考えられる。金沢は日本尊(ヤマトタケル)が上陸した竹水門(タケミナト)とという伝説があり桜井古墳が前方後方墳でこれは大和系の前方後円墳とは違うから在地の勢力という指摘があり磐城から浜通りはここまで大きな古墳がない。突然原町にきて大きな古墳があり大和朝廷の勢力がここで前進を阻まれたのかもしれない。在地の勢力といってもここから発見された遺物が東海系だとなるとここも移住した人が住んでいた。勿来の関で一旦阻まれ次にここが蝦夷の境界となり阻まれた。
ただこの蝦夷がいかなるものかはわからない、原住民ともいえない、在地の大和朝廷に反抗する集団といえるだけなのである。それはアラハバキ族という産鉄族だという説もある。アラハバキ神社は隠されるように各地にあり確かにこれが蝦夷と言われる人達の存在した証拠になる。古事記のスサノオノミコトや出雲神話など鉄と関係することが非常に多いのだ。出雲は新羅と結びついた鉄の一大産地でありそれで力をもったのだ。鉄をキ−ワ−ドにして読み解くと納得がいくことが多いのである。ただ原町の金沢や真野の入江や八沢浦や松川浦とここが船が入るのに便利な浦になっていたことが重要である。そして常に伊勢から来たということが伝説や歌に残っているから伊勢が意識される場所だったのである。伊勢は大和朝廷の蝦夷征服の軍港だったのである。竹水門(タケミナト)というのは桜井古墳がありここから大和朝廷の軍が上陸して古墳を作った勢力を制圧して真野の方地入っていったのかもしれぬ。

ここで注意すべきは桜井古墳は前方後方円墳だということである。西日本は前方後円墳であり東日本は前方後方円墳が築造された。桜井古墳は東海系(伊勢、尾張)とするとこれも物部氏との関係が深い。つまり物部氏の移動を物語っているのだ。では物部氏が桜井古墳を作ったのか、そうかもしれない、余りにも物部氏が原町、鹿島、とその跡が濃厚にあるのだ。大甕、高倉、石上(石神)、・・・・・これらもすべて物部氏に由来した神社だったり地名なのである。そこに横穴の装飾古墳をもたらしたものは異質な人達だった。これらと衝突して戦いになった。

下の原町市の地図の赤い字は物部の支配下であり桜井古墳に隣接して羽山横穴があり装飾古墳があるからこれはオオ氏の進出を示している。磐城太田はオオ氏の国造内に入っていたからだ。常陸から岩城(いわき)から浜通りに装飾古墳の横穴が多いのはオオ氏の進出を如実に示しているのだ。桜井古墳は東海から尾張から移動してきた物部系統でありオオ氏が進出して衝突し戦いになった。陸奥の真野がなぜ大和に知られるようになったかというとここで蝦夷との大きな争いがあったためである。ただオオ氏が進出してきた時桜井古墳があったのか?
前方後円墳に対抗して方墳が作られたともされるが何らか大和系とは異なる勢力が以前として存在していた。それは毛野や物部しかいない、オオ氏は羽山古墳のように横穴古墳しか作らないからである。とにかくここには桜井古墳のような方墳を作る勢力が名取の方まで根強く存在したといえる。




この図でわかるように名取に前方後方墳が多い。つまり毛野系統の物部氏の勢力圏内だったことがわかる。大和系の前方後円墳はあとから作られた。


そこで蝦夷とは何かというと縄文人の末裔なのかというとそれもあったとしてもすでにその時代は物部氏などが蝦夷の地を支配していたのだ。むしろ物部氏が進出してきた時蝦夷の原住民と戦ったということになる。桜井古墳のような大きなものを作られた時はここは物部氏の領土のようになっていたのだ。物部氏は一つではなく外物部は蘇我氏との宗教戦争に敗れ逃れてきたものとかいわれ一つに行動をともにするものとも違う大きなものだったことは確かである。そして鹿島御子神社が浮田国造内に建てられ真野郷となったのが象徴的である。その後大伴氏が後見人として支配するにいたった。寺内に前方後円墳が作られ金銅双魚佩が下賜された。それは継体天皇からつながる大伴連馬来田がをり大伴氏の臣下かもしれない。

図4で解説すると真野郷に進出したル−トが三つあることなのだ。

@(毛野)物部系統(銅鐸)(前方後方墳)
A継体天皇(越前→近江→大和)
(丸子−和邇氏−真野氏)
  (金銅双魚佩)(前方後円墳)
B九州(オオ氏、装飾古墳) (銅剣、銅矛)

真野郷にかかわるのはこの三つのル−トがある。これは日本国家成立の歴史とかかわるからむずかしい。邪馬台国がどこにあったかとも関係する。九州なのか近畿なのかという大問題である。これは銅剣、銅矛圏と銅鐸圏の対立もからんでくる。つまり九州は異質な文化をもっていたのだ。出雲から大量の銅剣が発見されたのも九州の勢力の進出を物語っている。スサノオが出雲に追放されたのも神武東征で九州の勢力が大和に進出したことを反映した。磐井の石人、石馬や装飾古墳もそうである。

しかし大和には一方で飛鳥などにすでに大陸系の洗練された壁画が入っている。高松塚古墳の壁画である。九州から伝わった装飾古墳は日本独自のもので荒々しい武人のものである。高松塚古墳のは中国の西安(長安)にあるのと同じ実に洗練された優雅なもので宮廷の女性の顔は中国人の美人のうりざね顔なのである。それが東北に進出したということは何らか大和政権が九州の武人を利用して蝦夷を討たせたのかもしれない。大和にはこうした素朴な荒々しい
装飾古墳はないからである。これらの人は実際に常陸に来た時野蛮な殺戮を行ったのだ。あの横穴の装飾古墳は実は征服者が自慢して描いた記念である。在地の勢力の蝦夷は彼ら戦闘的騎馬軍団に征服されたのだ。そういう野蛮な戦闘集団が征服には利用される。イギリスが七つの海を征服した時海賊を利用したのだ。

一方蝦夷側に早くから存在した物部氏はこうした九州の文化と対立するものを捨てにもっていたのだ。だから継体天皇の時期に近江毛野臣と物部氏が磐井の乱に派遣されたのである。神武東征というのも九州が在地の勢力に入ってくる異質な存在だったことを示している。蝦夷の国の日高見の国に侵入する異族が神武族だったのだ。日本の国家の土台は蝦夷の日高見の国にあり侵入者の神武族がのっとたというのが真実なのだろう。そのことがこの一地方の歴史にも色濃く反映されているのだ。金銅双魚佩の入ってきたル−トは継体天皇の娘の馬来田皇女大伴連馬来田の線もありうる。ここの馬来田国造は河内から来た。上総の須恵国造も河内から移動してきた渡来系の技術集団であった。須恵器だけでなく他に金属製品も作った。継体天皇は大伴氏が擁立したとあるから大伴氏関係とか近江の小野氏とか真野氏も関係してそこにあとで小野真野なる国司が派遣されたのである。王冠の入ってきたル−トは越前から近江から大和であることと金銅双魚佩が入ってきたル−トは共通性があるのだ。ただ5世紀末から六世紀末に
真野古墳群が作られたとするとかなり早い時期に継体天皇系から下賜されたことになる。それが誰になるのかオオ氏系統になるのか毛野物部氏系統になるのかそもそもオオ氏は装飾古墳で横穴に死者を埋葬するから大きな古墳は作らないのである。時期的にはあとになるのであろうか、時代区分を確定するのがむずかしいのだ。ただ毛野臣を証明する漆塗木簡の発見は毛野氏が古墳の主であってもおかしくないことを示している。



物部神社

名古屋市東区筒井

宇麻志麻遲命
摂社 物部白龍社(地主神)

注釈
 明治初年に式内社の物部神社と認められた。
 神武天皇が当地を平定した時に見付けた石を国の鎮めとしたと伝わる。
 俗に
石神神社、山神、石神とも呼ばれる。
 祭神の宇麻志麻遲命は饒速日命の御子で、物部氏の祖神とされ、神武東遷の時、長髄彦を討って神武に従い、後に東海から陸奥方面を制圧して、最後に石見に移って物部神社に鎮まったとも伝えられている。尾張や美濃は古来より物部氏にゆかりが多い土地であり、多くの物部神社が存在していたが、現在は合祀されたりして、その名を留めている神社は尾張では当社、美濃では本巣方面に2座残る。





双葉郡双葉町清戸迫古墳7世紀(下)いわき市中田古墳−6世紀
図1

図2

前方後方墳

最近整備された桜井古墳
本物の脇に人工的に作った古墳

図3

図4




八沢浦の昔

干拓される前の明治の八沢浦

高瀬さす八沢が浦の夕波に色を乱せる雪の遠山

八沢浦に入相の鐘山の影映し静まり舟の帰りぬ

蜑の舟帰りて静か八沢浦月の光りて眠る葦鴨


この雪の遠山は蔵王かもしれない、とういのは八沢浦から雪の蔵王が見えたからだ。この三つの歌は実に八沢浦の特徴をとらえた歌なのだ。葦鴨とは葦が繁っていたからだ。舟もでていて漁をしていた。鐘が鳴るというのも実に情緒ある風景だった。景観は一旦失ったらもどらない。金沢の火力発電所であれあれで景観はだいなしになった。一般に景観に自然そのものに価値を認める人は少ないのだ。尾瀬沼すら田代と名がついていて田になるところだったのだ。実際に田になってもその当時尾瀬を貴重なものと考える人は少なかった。だからあの尾瀬を守った人は大変な功績があったのだ。なぜなら今では宝の山となったからだ。貧乏な時代景観に価値を見いだす人は非常に少ない、それが当たり前だと思っていたからだ。そして今になってその価値に気づいたのである。米余りの時代になるなど思いも寄らないからだ。またそれを責めることもできないだろう。食うことに必死な時代回りの景観など注意をはらわないからだ。しかしこの景観は一度失われるともどらないことなのだ。今になれば八沢浦が残っていれば景観としてかなり価値あるものとなった。日本列島改造は日本列島の景観の破壊だったのである。青松白砂の風景などほとんど消えたからである。

実際景観の方が本当は金よりも貴重なものだった。レバノン杉が残っていた時は海からもその香気が感じられたというから鬱蒼とした森があったのだ。今や殺伐とした風景となってしまった。一面文明とはその跡は自然破壊の殺伐とした跡だったということである。東京すら浮世絵に残されるごと美しい自然が残っていたのである。景観の破壊は必ず人間の心にも影響する。近代人の心は荒れ和みがなくなり心は殺伐としているのだ。森とか山とか湖は人間の心に安らぎを心を静めるのである。とにかく日本には入江がいたるところにあったのだ。ほとんどその入江の美しさも死滅している。

和名抄行方郡の謎へ