詫馬野の紫草の歌と陸奥の真野の萱原の歌の謎 (小林勇一)

(秋田城木簡に秘めた万葉集)吉田金彦の著書の検討

譬喩歌(たとへうた)


紀皇女(きのひめみこ)の御歌一首

輕の池の浦廻(うらみ)廻(もとほ)る鴨すらも玉藻の上に独り寝なくに

筑紫観世音寺造りの別当(かみ)沙弥満誓が歌一首

鳥総(とぶさ)立て足柄山に船木(ふなき)伐り木に伐り去(ゆ)きつあたら船木を

太宰大監(おほみこともちのおほきまつりごとひと)大伴宿禰百代が梅の歌一首

ぬば玉のその夜の梅を手(た)忘れて折らず来にけり思ひしものを

満誓沙弥(まむぜいさみ)が月の歌一首

 見えずとも誰(たれ)恋ひざらめ山の端にいさよふ月を外(よそ)に見てしか

金明軍(こむのみやうぐむ)が歌一首

標(しめ)結ひて我が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後も我が松

笠郎女(かさのいらつめ)が大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)に贈れる歌三首

託馬野(つくまぬ)
に生ふる紫草(むらさき)衣(ころも)染(し)め未だ着ずして色に出でにけり

陸奥(みちのく)の
真野(まぬ)の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆちふものを

奥山の
磐本菅(いはもとすげ)を根深めて結びし心忘れかねつも



この三つの歌の不思議さは真野の萱原の解明につながるものである。最近吉田金彦氏がこの託馬野は近江の米原の琵琶湖の米原内湖の詫馬野だという。これは九州の詫摩野(たくまの)、肥後の詫摩郡(たくま)のこととされていた。タクマではなくツクマであるという。近くに筑摩村とか都久麻川とか都久麻神社がある。これとの関係ではツクマとなる。ただなぜこの字をあてたのか不明である。大文字で書いたのが地名とすると古代は万葉の歌は地名と深く結びつき歌枕となった。

九州という地域は陸奥よりは早く開けた、大和の勢力圏に入ったというより神武天皇の東征のように邪馬台国が九州にあったという説があるから九州から移動した一郡がいた、日本の発祥地とされる説も否定できない、地名の起源も古いのである。例えば任那(ミマナ)とあればナの国がありかんのなのくにの金印が発見されたごとくここは任那と近いからミマナの国の人が移動して作った国かもしれない、可也(かや)山が明らかに伽耶(かや)の国からの移動した人が名付けたようにである。例えばヒナという言葉はヒ(肥)の国のことでありナはナの国のことである。「漢委奴国王」の金印が授けられたから奴国は最初の大きな国だった。とするとヒナはヒとナの国が合体した合成地名である。村と村が合体した地名が実に多いのだ。国と国が合体する地名もあって不思議ではないのだ。出雲(イツモ)であり伊都国からイツモとなりツモになった。その都母が青森の津軽(つがる)と都国(つも)になりここに日本中央の碑が残された。ツモも壺になり壺の碑(いしぶみ)となった。壺の碑は都母の碑(いしぶみ)だったとすると青森県にもともと壺の碑はあたっが移動したのかもしれない、壺の碑はさらなる辺境にありそこでもすでに靺鞨(マツカツ)国は知られていた。というのは津軽も都母も日本海には近くそこから渤海と交流があったからだ。

カワ(川)のカには日という意味がありこれは沖縄に古語として残っているという。このヒは肥(ひ)の国のことであり日の国の川でありそれが固有名詞化したのだ。


ひかわ 肥の国の河⇒斐川、氷川、簸川、簸川、樋川・・・・

ひやま 桧山、火山、桧山、檜山・・・


などもそうであろう。

福岡県朝倉郡夜須町と大和郷とでは驚くほど地名が一致している、すなわち邪馬台国は夜須町にあり、それが東に移って大和朝廷となった。(ワンセットの地名がコピーされている)福岡県の甘木市の周辺の地名が、ワンセットになって奈良県の大和平野の周辺にそのまま移されている、どちらも、南から東回りに、「高田・朝倉・カグ山・タカトリ山・山田・田原・笠置山・御笠山・池田・三井」といった地名が整然と配置されていて、その配列はコピーしたように、みごとなほど一致している。これら以外にも一致する地名の数は90個にも及ぶことを考古学者の奥野正男氏も発表している。これは邪馬台国勢力が大和に移って,もといた九州の地名を畿内にもってきたと考えるのが妥当である。。

このヒとつく地名はもともと九州の肥(ひ)の国が基となり伝播したのである。またヒとクマが合体して日前、・・・となり引摩郡となる。引馬野の歌もある・・・・引馬野(ひくまの)はヒとクマの国が合体した国名だったかもしれない、それが移動して遠江で地名化したのである。常陸(ひたち)とあれば日田(ヒタ)という地名があり九州の地名が北に向かって移動した。ヒナというのは雛人形の雛でありこれはヒナの国で作られたから雛人形となった。瀬戸内海沿岸には雛とつく地名がある。これは国名だという説は面白い。雛元という人がいてホ-ムペ-ジを出している。

「ひな」(日名、日南、日那、日奈)などの地名が、「ひなた(日向)」よりも圧倒的に多いことから見て、もともと、「ひな」という言い方が基本としてあって、後に、「ひなた」が「日のよくあたる田圃」として使われるようになったと考えられます。
それは「日向」と書いて「ひな」と読ませる地名が広島・岡山あたりに沢山あることや、私の先祖が明治までは「日向(ひな)」という屋号であった、ということからも説明できます。

雛元について
http://www.toshikozo.co.jp/kousatu/nihonwahinomotokaninamotoka.htm

福岡(沖の島)石の人形)

この人形は頭を見れば女性である。隠岐島の博物館に大量にでている。何のために作ったのかみんな女性ということは古代は女性の霊力に頼ったのか、卑弥呼も女性だった。ともかく雛人形の基がこの辺にあったのかこれも謎である。

天(あま)離(さか)る、鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ、恋ひ来れば、明石の門(と)より、
大和島見ゆ.


これは九州のヒナの国から遠くやっと大和に帰って来たという意味になる。前に私がヒナは日がナヘル、日が衰える近くの意味にしたがもう一つは日がなへる、日が落ちる地域となる、夕日の見える地域ともなる、それは大和から南の瀬戸内海沿岸から九州地域になるともいえる。ともかく地名は移動地名がかなりある。古代には特に多かったのだ。出雲(イツモ)とあれば津軽のツモ国はイズモものツモであることは推測できる。出雲の一族が移動してツモ国を作ったことが推察されるのである。常陸も日田の国の人々が移動して作ったのかもしれない、ここには九州の装飾古墳があり九州と関係していたのだ。





そもそもここに記された歌の意味はだいたいわかる。詫馬野が近江だとするとそれも生まれ故郷だったとするとこの歌はにあっている。初恋の歌だとするとそんな遠くではなく身近な故郷から始まるからだ。そんなに若いとき九州の詫摩野まで思いをはせることはないからこの歌は確かに近江の米原がふさわしいというのもわかる。では次になぜ陸奥の真野の萱原がでてくるのか?これは最大の謎である。ツクマノとマノはなんらか深い関係ありと推測されるからだ。身近なツクマのを思いそしてはるか辺境の陸奥の真野を思う、これはやはり何か因果関係があり並べられたものである。ではどうしてそうなったのかやはり家持を慕い追うなかでそうなったのかもしれこない、身近にあって慕う人が遂にははるか辺境の蝦夷に行く、その遠い人を思うことになったと、しかしこれはまた陸奥の真野というのは都の人に知られるようになったのでその有名な陸奥の真野を借りて創作して並べたのかもしれない、家持が陸奥に来て死んだというのは証明されていない、不明なのだ。老齢になっていたから無理だったという説もある。だから陸奥の真野と出したのはすでに陸奥が都の知れる地となっていたのでそれを借りて恋心を歌ったにすぎないかもしれない、というのは次の歌も意味的にはつながっているのだ。

奥山の磐本菅(いはもとすげ)を根深めて結びし心忘れかねつも

これはまず近くを故郷を思いとして歌い、次にはるか遠くの蝦夷の地、陸奥の真野を歌い次に奥山の木の根を歌い、思いを深いものとしている。構成的に一連のものとして創作されたのである。だから遠さの象徴として陸奥の真野が必要だったのである。磐本は地名だとすると確かに次の歌では山菅であり地名ではない、磐本というのは地名でありそこで契りを交わしたから忘れられないとなるのか、ただこれも譬喩(たとえ)歌だからそれらしいものをもってきて想像して作ったことを念頭におくべきである。これをそのまま実在の地域とするのは誇張になる。

あしひきの山菅の根のねもころにやまず思はば妹に逢はむかも
相思はずあるものをかも菅の根のねもころごろに我が思へるらむ
山菅の止まずて君を思へかも我が心どのこの頃はなき

ではなぜここで根というものに注目するのか、今植物は花しか注目しない、花がきれいだなとしか見ないのだ。でも古代は生活と密着して植物が花があった。染料としてとか食料として根の方が大事なのだ。
古来、日本にも自生していた「ムラサキ」ムラサキの根は「紫根(シコン)」と呼ばれ、染料や薬用として 大変珍重されていました。江戸時代に華岡清州が「紫雲膏(しうんこう)」という 漢方外用薬を発明しました。

この歌はこれらが基となっているからこれをまねて作った。類似歌でありそうした当時は定型的な歌がかなりある。

それにしてもここにでてくる人々の地域的な多彩さである。
紀皇女(きのひめみこ)というときの国であり和歌山県である。筑紫観世音寺というと筑紫であり余明軍は大伴氏に仕えた新羅の帰化人だった。余足人という人が宮城県遠田郡の小田に黄金をとりにきている。余明軍とはその余の一族である。この余明軍も陸奥に詳しかったかもしれないのだ。この歌がこうして並べてあるのはなぜなのか、筑紫と新羅はまた関係が深い、新羅の貿易をする入り口になったのが筑紫だからだ。

沙弥満誓(さみのまむぜい)が綿を詠める歌一首

 しらぬひ筑紫の綿は身に付けて未だは着ねど暖けく見ゆ

このシラヌヒはシラは新羅でありヌは奴国でありヒは肥の国のことである。国名の合成地名なのだ。地名は時代が変わると今も町村合併で町の名がなくなるとか騒いでいるけど村と村が合併すると名前も両方の一字をとって新しい村や町の名前にしている。苗字もそうである。有力な氏族だと二つの姓が合体した姓となる。シラとつくのは新羅系の人が移住した地名だろう。白髭という地名が実に多いのだ。この筑紫では新羅と貿易がなされていたから綿というものが輸入されたのかなんらか貿易されていたのだ。
沙弥満誓は笠氏だから笠女郎の父親であり笠女郎の故郷は吉備の萱(カヤ郷)の出で笠氏は賀陽(かや)からの帰化人だったという説である。とするとなんらか筑紫と深く関係しているしツクマ説も説得力あるが詫摩の説もまたここから引き出してもそれなりに説得力を持つのである。筑紫が関係して陸奥が対照的にとりだされた。ツクマというときツクシとにた言葉である。ツクから派生した言葉なのだ。そもそもタクマの自体九州からの移動地名でもありうるのだ。タクマののことをここで盛んに言う人がいたからタクマノをとって歌にしたことも考えられる。陸奥の真野は誰から聞いたのか、これは誰から聞いたというのではなく都に広く陸奥の真野は知られていたのである。ツクマという字にはツクマとかツクマをあてているのになぜ詫摩のとあてたのかも不思議である。九州と同じ字だからだ。これだけ筑紫のことがでてきて筑紫が関係しないともいえないからだ。これは一連のものとして創作されたことは間違いない、意図的に創作されたから詫摩のは九州説でも不思議ではない、想像するときは近くより遠くをイメ-ジするからだ。近くはイメ-ジの対象になりにくいのだ。シルクロ-ドなんかとんでもないがかえってこうした遠くは遠いがゆえに絶えず想像の対象であり憧れの対象となるから日本はシルクロ-ドが好きなのである。一連の歌として見る場合、九州もつながってくるのである。

またタクマノ、ヒクマノ、ツクマノである。タクは高いからでありヒクは低いでありツクは筑紫で突き出た岬のようなもの、新羅とかに対抗しして突き出た国が筑紫(つくし)なのかもしれない、海や湖でも突き出た地形をさしていてツクマノとなると突き出た所となる。つまり湖に突き出た所となるが確かにツクマと漢字があてられた所はそうなる。ツクマはやはり筑紫(つくし)のツクであり詫摩は肥前の詫摩の移動なのである。

タク⇒真野
ヒクマ(引摩)野
ツクマ(託馬)野
アジマ(味鋺)野

この味摩之は日本語ではアジマノとなり越前に味真野という地名がある。真野がこの名からきているのか不明である。百済の扶余にこの石碑がある。百済から来たことは確かなようである。アジとはあじすきたかひこね‐の‐かみ【味耜高彦根神・阿遅高日子根神】がいるように何か開拓することと関係している。開拓するのに良い土地のことかもしれない。

尾張の物部系神社にアジマ神社がある。味鋺(あじま)は「物部氏の可美真手命の名にちなんでいる。饒速日命の御子で、物部氏の祖神とされている。」このアジマは何かわからないが味真野(アジマノ)もありアジマ・野となる

ヒクマとかツクマ、アジマは一続きであり詫摩だけがタクと真野が結びついている。詫社郷があたからだ。多久市が今もあるからタクはタクマではなくタクで独立した言葉である。つまりタクの真野・・陸奥の真野を対照的に出したのである。だから九州の詫摩野が基であるとなる。タクには栲領(タクヒレ)の白浜浪の寄り・・・とか栲衾新羅国は栲衾は白い布で新羅の枕詞。白にかかる枕詞である。タクというのは新羅の国からの移住した人の言葉かもしれない、新羅はシロの国でありシロを重んじる国である。詫摩野のタクは白とすると紫草とあるがその花は白いから白にかけて詫摩野としたともとれる。タクは高いではなくここにはっきりとでているから白の意味である。詫馬野(詫摩)の詫をツクとどうしてよむのか、筑摩(つくま)、都久麻と詫馬野は違う、これ筑紫(つくし)のツクと同系統であり海に面して突き出た所となるのか、日本の国が尽きる地なのかツクシは一つの固有名詞化しているのだから分解するとややこしくなる。とにかくツクとタクはかなり違った系統の言葉なのだ。

あとはヒクマ、つくま、アジマは固有名詞でありそれに野がついたのである。この関連性が何か詫摩野と陸奥の真野の関係の深さがある。近江には他に真野町があり真野として独立の地名がある。そこには真野川があるのだ。小野町もあり小野真野という人が国司として上総(千葉県)に来ている。笠女郎の故郷がこの米原だとするとそこに鍋冠祭りという奇祭があることも符号してくる。鹿島町の真ん中には鍋の形そっくりの山があり鍋冠山(なべかんむりやま)がありこれはそこから移動した人々が名づけたかもしれない、地名の移動は人々の移動だからだ。とにかく詫摩のと陸奥の真野の萱原の歌はただ訳もなく並べられたのではない、深い子細があり並べたのであるから詫摩野については良く調べる必要があるのだ。

地図に息長川とあるがこれは元は天野川であり交野の天野川など物部氏系統が移住してつけた名だろう。交野から米原に物部氏系統が移り地名化した。その基は九州だった。

飽田(宗岐多) 宇伎田 浮田の謎

筑前の古代郷名

飽田(宗岐多)(安久多)
詫社

宗岐多(浮田)となるとすると物部一族の浮田氏ともなり物部氏の移住地なのか、肥前に飽田郡があり詫摩郡がある。詫摩郡の詫摩はさらに薩摩に移動して詫摩郷になっている。筑前の郷名が飽田郷⇒飽田郡 詫社⇒詫摩郡となったのうもしれない、筑前から肥前への移動地名でありこれはそこに住んだ人たちが移動したから故郷のもと住んでいた所が地名化した。これは東北でもありまた北海道でも亘理の伊達氏が移動して伊達町とか広島町とか移住した人たちは故郷の名をそのまま町や村の名前にした。神武東征服の神話は物部氏の神のニギハヤヒのことだという、物部氏が蝦夷地に深く入りすでに一体化していた。それが蘇我氏とか仏教を護持するものと争いとなり東北地方に追われた。近江の滋賀県高島町に宇伎多神社がある。高島町から金銅双魚佩が発見されている。あれもどういう経路で真野までもたらされたのか謎である。地名はただ九州からの移動が多いのだ。筑前のウキタ神社の移動なのである。だから詫摩も九州からの移動地名であり山門郷とか九州と奈良の大和の地名が類似しているのも九州からの移動があったからである。大坂の草下は日の下(ヒノモト)でありこの肥の国のことであり必ずしも太陽ではなく九州の肥の国の人たちが住んだという意味である。だから飽田(ウキタ)と詫摩は一体としてあるのかそれは九州からの移動地名だからそこに住んでいた人たちが移動したからそこに同じ地名や氏族名がつけられ残ることになる。日田(ヒタ)と日高(ヒダカ)もそうでありこれは日高見の国のことでありこれは東北の国名にもなった。常陸(ヒタチ)も日高見(ヒダカミ)も肥の国のヒが移動したのである。

石岡市で発見された漆塗文書に久慈郡□伎郷は宇伎であり宇伎田でありこの元は滋賀県高島町に宇伎多神社にある。上野国の甘楽郡に宗(宇)伎郷というのがある。上野国の物部氏からの移動した郷ではなかろうか。浮田国造が志賀であることもそれを示している。つまりこれは滋賀県高島町に宇伎多神社を基として物部氏が上野国に移り常陸の久慈郡に移り陸奥の浮田国造となったという経路が推測されるのだ。その基は九州の詫摩郷と並ぶ飽田(宗岐多)である。

筑紫の古歴史

磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神
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磯上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触


ウキタというのは物部氏の一族の浮田氏でありこれが毛野国に移りまわりまわって相馬の浮田国造となった。磯部というのも磯にあるではなく毛野の磯部氏の移住だった。これは飽田にも移住していた。飽田(秋田)はウキタでもあったからだ。出羽の今の山形県の置賜(オキタマ)郡も浮田であるとされるから物部氏系統の浮田氏一族の移動の跡が地名化したのである。飽田(秋田)も大伴氏や物部氏が進出した。唐松神社や物部文書などが残されることは余程古い因縁がある。韓国(カラクニ)の人たち、百済、新羅も深くかかわって陸奥に移住してきたのだ。鳥海山は奈良の鳥見(トミ)山から名づけられた。雄物川も物部氏のモノをとった名である。だから最近発見された木簡が大伴家持が笠女郎をしたい歌ったものだという吉田氏の論考はそれなりに興味深い。不思議なのは詫摩とウキタが組になってをりそれが陸奥の真野とも関係している。というのは物部氏系統のウキタ氏が真野で国造になっているからだ。これがセットになっていることである。ということはなんらか一郡の同族の人々が移住するからそうなる。地名の移動は人々が移動するから同じ地名が生まれるのだ。地名だけが移動することはない、地名は人と共に移動するのである。アメリカの地名もそうだからだ。移住した故郷の地名がつけられるのである。だからこの詫摩野の紫草と陸奥の真野の萱原は全く関係ないのではなく何か密接に関係あるものとして並べられたのだ。こう考えるとこのタクマノの基は肥の国のことであり近江の詫摩野は移動地名となる。このウキタ氏と真野郷はどうつながるのかわからないが滋賀郡には真野郷と並んで大友郷がありこれは間違いなく大伴氏のことである。真野郷に住んだのは大伴氏になる。粟太郡には物部郷がある。真野と大伴が結びつきその前に物部氏が進出していたのだ。

●紫草の謎

ムラサキ科の多年草。根は太く紫色で、茎は高さ50センチ程度。6月〜7月に白い小さな花をつけます。古くは日本各地の山地に自生していましたが現在では、環境省の絶滅危惧種に指定されています

紫草は、標高400〜500メートルの高地の気候・風土、アルカリ性の火山灰土を好みます。激しい雨によって、土のはねが葉にあたると弱ってしまうなど、デリケートで栽培はかなり難しいのです。竹田地方の土質、阿蘇の火山灰土と、夏の涼しい気候、美しい水が紫草の育つ要因であると言えます

奈良時代、最も高貴な色とされた「むらさき」は、尊い人々の衣装の色として、また古代社会においては、めでたい色、愛情の色として多くの人に親しまれていました。

この色の染色材料となる紫草が、ここ直入(竹田)地方で栽培されていました。7〜8世紀当時の日本は、国、郡(評)、郷の行政区分に分かれており、竹田は直入郡にあたります。直入郡には、駅も置かれ、街道の要所となっていました。そして、竹田は、九州でも有数の紫草の産地であり、紫草が、大和政権への税として、また天皇家への献上品として、太宰府を経て都に運ばれていたことが、『豊後国風土記』『豊後正税帳』などの文献、平城京跡、太宰府跡から出土した木簡(荷札)などから明らかになってきました

これだと紫草は高い所だからタクマノがあっていることになる。地形的につけられたのならタクマノでも不思議ではない、

肥後から太宰府に献上したのは根から染料を大量にとることができる生産用の紫根草のことで笠女郎が呼んだのは染料用の紫のことではなく花の色が紫である草、杜若(カキツバタ)の異称のことである。(吉田金彦)

紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰 3101
    
この紫草というのは市にもだされ重要な商品になっていた。

3052: 杜若咲く沢に生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬこのころ

なぜ吉田氏が紫草を杜若の異称としたのだろうか?杜若ならすでに少ないが名前として知られていた。紫の色をした花だからその花の色に注意した。紫草は紫色の花ではない、白い花なのだ。染料にすると紫になるのである。

住吉(すみのえ)の浅澤小野の杜若衣に摺り著(つ)け著(き)む日知らずも


それでカキツバタ名はカキツケバナ(掻付花)から転じたとされとあるからカキツバタも確かに染料として見られていたが摺り著(つ)ものとしてあり染めるものではない、カキツバタとあれば摺り著(つ)けるとなるはずである。匂う染めるにはならないのだ。


紫草の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
紫草を草と別く別く伏す鹿の野は異にして心は同じ
紫草(むらさき)は根をかも終ふる人の子のうら愛(がな)しけを寝を終へ


鹿さえも他の草と紫草を区別するほど紫草は特別視されたものである。なぜ杜若が紫草になるのかこの辺が説としては物足りないしこの説の弱点になっている。明らかに紫草とありこれが木簡までに残り太宰府に献上されていれば筑紫にいた沙弥満誓とか誰でもそのことをつまり詫摩野が紫草の産地でありそれは都でも広く知られていたのだ。だから紫草となったら詫摩野とすぐに結びつくのである。この辺がどうしても解せないのだ。つまり紫草と杜若は紫の色では同一でも結びつかないのだ。紫草と明快にでているしそれが杜若とは思えないのである。紫草は高地に生えるからタクマノであれば高い野であり紫草を歌った所はそうした鹿のいるような山であり高地である。こうみるとやはりタクマノは九州説の方に傾く。文献的にも木簡にまで紫草がでていることはやはり九州の紫草がそれほど知られた産物だったのだ。衣染めないうちに色にでてしまったというのも杜若から連想するより紫草を染めると紫になるからと知っていて創作したのである。

笠朝臣麻呂には笠蓑麻呂という息子がいて笠麻呂が太宰府時代の大伴旅人と親しくしていて旅人-麻呂 家持-蓑麻呂という大伴、笠両市の親子二代にわたる結びつきを想定している学者もいる。蓑は美濃で笠麻呂が美濃で道路工事で功績があり位を授かっている。つまりこの一連の歌にでてくる人はそれなりに訳があり人間的にも結びつきがあったのだ。だからこそ九州の紫草が出てきたのだしまた陸奥真野も大伴氏と笠氏のむすびつき関係のなかでクロ-ズアップされてきた。情報源が大伴氏と笠氏の結びつきにあった。

だから陸奥の真野の萱原と対照的に筑紫の紫草を出して創作したともいえる。一連の歌を想像して創作的ならやはり九州のタクマノかもしれない、この米原のタクマノは九州からの移動地名かもしれない、ツクマとかもツクシとかとにて移動した地名とすればそうである。譬喩歌(たとへうた)として集まれたのだからその地のことは知らなくてもよむことができる。私も一度も行かない地のことを短歌にしたようにできるのだ。譬喩歌(たとへうた)というのにこだわれば紫草は故郷の身近な花ではない、遠い方がいいのだ。つまりこの米原の詫馬野ではなく九州の詫馬野(詫摩)説も有力だし説得力があるのだ。多久市というのがかなり大きな地域として残っているのもその地名の重要性を語っている。それにしてもこの米原の詫馬野の不思議である。

●鍋冠山の謎

筑摩(つくま) 坂田郡米原町。古く、御厨(みくりや)があり、宮廷に神饌の料を貢進した。筑摩神社は四月八日の
鍋冠(なべかむり)祭で名高い。近在の女は関係を結んだ男の数だけ土鍋を奉納し、偽ると祟りがあるとされた。

いつしかも筑摩の祭はやせなむつれなき人の鍋の数見む(読人不知「拾遺集」)

ではなぜこんな話が伝わっているのか、おそらくここが湊であり舟の出入りする繁華な地として人の出入りが多く男女の交わりも活発だったからかそれともそれを相手とする遊女(ウカレメ)がいたのかそういう土地柄が笠女郎の生まれた地域なのかなのだ。

子等が名に掛けの宜しき朝妻の片山崖(かたやまぎし)に霞たなびく

この朝妻は崖にかかる枕詞のようであり朝は浅いともあるから浅く水をかぶる湿地となればこの地形にあっている。常陸国那珂郡に朝妻郷があるからここからの移動地名になるのか、朝妻村とか他にもある。があり「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起りて、いま国々になりぬ」とあるからここは遊女でにぎわった港のはしりなのだ。

允恭天皇即位の謎

「雄朝妻稚子宿弥」とは、単に「葛城の麓の朝妻の部落の若者」と云う意味であり允恭擁立の中心になったのは、奈良盆地東部の諸族と見られる。そのまた中心になったのは息長氏である。すなわち、允恭の后忍坂大中姫の出身部族である。息長氏は近江国坂田郡に本拠を置き近江一円を勢力下にした部族である。その一部は大和にも進出し、盆地東部の初瀬谷の忍坂に居を置いていた。忍坂大中姫もそこに住んでいた時に允恭(当時はまだ雄朝妻稚子宿祢)と結ばれたのである。従って、彼は盆地西部の葛城の朝妻からここへ通い婚をしていたのである。

謎の衣通姫随想
http://www.infonet.co.jp/nobk/hime/sodousi.htm

朝妻はこき奈良の葛城からの移動地名かもしさない、そこにすでに朝妻という地名があるから朝妻は海とは関係ない、崖にかかる言葉である。朝の妻という朝寝する妻とは違う、あとで面白いから地名を利用してたこんな歌を作ったのだ。

従六位下 朝妻綿売[あさづまのわため] → 従五位下

この女性はここの朝妻から出た人なのか、ここは舟の出入りで朝妻舟という独自の舟を作っていたとなるとかなりの財政基盤があったからここから出たとしか考えられない。綿を商う人だったのか、綿がやはり関係して名づけた。女性がこれほど高位になることは珍しいから朝妻という地域が何か女性が活動できる地域だった。また天野川(息長川)流域に居住した朝妻手人は、鋳造、鍛造の技術者であって「新撰姓氏録に「朝妻造、韓国人都留使主之後也」とあり渡来人の鍋とか鉄工人がここに居住したのである。
この二つが関係してこんな奇妙な祭りが生まれたのだ。

鍋冠山は鹿島町を象徴する山であり一致しているのだ。ここでは女性が鍋を頭にかぶっている。今は少女が鍋をかぶる。これは何なのだろうか?女性と関係していたことは確かである。女性に対するなんらかの罰として始まった祭りである。そうとしか考えられない、遊女の始まりの地、朝妻だとすると符号する。そうした遊女に対する規制とか罰の意味がこの祭りの起源であったとすれば納得がいく。ここはそういう遊女が集まり風紀の乱れる地域だったのである。いづれにしろこれはおかしな祭りである。鍋冠山といっても鍋がないなら鍋をイメ-ジすることができないからそんな名前がつかないのだ。鍋を使っていたものが鍋とつけたのである。そもそも大伴家持と笠女郎の恋は不倫だった。

あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな

のように名を告げるなと言っているから不倫だった。不倫で罰せられて流された官人がいたからかなりびくびくした恋であり禁断の恋だった。でもこの話にしてもこの詫馬という地域が何か笠女郎やその他陸奥の真野とも因縁深いことを発見したのだ。

これと秋田城跡で発見された

春なれば、今しく悲し、勤(ゆめ)よ、妹、早くい渡さね、取り交わし・・・・

このゆめの部分が一致しているから大伴家持が残した歌だとすると大発見になる。そんな遠くまで行って最後に笠女郎への思いを書き残したということの不思議である。



●鍋冠山祭り
http://www2.odn.ne.jp/shojin-oulai/maibara/Nabekamuri.html






陸奥真野の草原は本当に萱原だったのか?(次へ)(2)
(衝撃の疑問を提示)