陸奥真野草原考(その真実はどこに)(第3編)

小林勇一作


辛(韓)人の跡

可也山(かや)山や
(草枕旅を苦しみ恋ひをれば可也の山べにさ男鹿鳴くも)
韓国岳や
(韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり)
辛荷(韓荷)の島や
(玉藻刈る辛荷の島を廻(めぐ)る鵜に我あらざれば家へのみ偲はゆ
唐津や唐崎や韓泊や
百済野や
(百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも)
百済王の末裔や
呉原や呉織(くれはとり)
紅(くれない)や
韓橋や呉橋や
辛川に偲ぶや昔の
多胡の入野や
(我が恋はまさかもかなし草枕 多胡の入野の奥もかなしも)
辛(韓)人や
辛(韓)家や
辛(韓)犬や
高麗(こま)犬や
高麗尺や
高麗剣
(不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に)
蛇韓鋤剣(おろちのからさびのつるぎ)
白髭(新羅)や
勝部、村主(スグリ)や勝(すぐ)れたる
オモ(母)ニやイモや
(旅行きに行くと知らずて母父(オモチチ)に言申さずて今ぞ悔し)
辛人のいつきし大和
古りにけるかな



和名妙の草原の郷名

薩摩国-久佐(くさ)

筑前-草壁-久左加部(日下部)

大隅国--蛤羅郡-鹿屋(かや)

出雲国--草原(かやはら?) 大草

但馬国--大草(於保加也)賀陽(かや)


因幡国-八上郡-日部(くさべ)-日下部
知頭郡-日部

播磨国-草上(久佐乃加三)

石見国-久佐(くさ)

伯耆国-蚊屋(かや)

近江国-愛智郡-蚊野-蚊屋野(かやの)

備中国-賀夜郡(かや)


備中国-草壁(久佐加部)

越前-足羽郡-草原郷(久佐波良)

美濃国-皆太(草田)(かやた)

能登国--草見(かやみ?)

上総国-山辺郡-草野(かやの?)

武蔵国-児玉郡-草田(かやた?)

武蔵国-萱原-草-加夜波良 笠原


伊勢国-芳草

尾張国-日部 日部(草部御厨)

和泉国-日部(久佐倍)草香津、早部、日下部、大草香部、草香江

山城国-深草(不加乎佐)

下総国-日部(くさべ)




豊後国-笠祖
笠和

讃岐-笠居

丹波国-加佐郡

紀伊国--在田郡-温笠-吉備

加賀国-笠間

上野国-笠科-加佐之奈


武蔵国-笠原


伊賀国-笠間(加佐万)-間






●多(オオ)氏古事記の謎

「消された多氏古事記」朴殖によると天武系朝廷の手によって追放されたてしまった北陸、東北の加耶族は大和朝廷に抵抗したとある。この本はわかりにくいが朝鮮半島の分立した加耶とか新羅とかの争いが日本に持ち込まれたという説である。蝦夷のなかには明らかに加耶族が交じっていたのだ。カヤと名のつく女酋長がいたりするからだ。オウとはオウナから来ているとすると媼嫗は女性だから女酋長がいても不思議ではない、母父(オモチチ)が順序であり母系家族であったのだ。天皇ももともと母系家族でありその風習が残されているという。邪馬台国の卑弥呼は当時珍しいものではなかった。いたるところに女酋長がいたのだ。当時のそうした風習の中で卑弥呼が存在していたのだ。蝦夷には物部氏の一部、古物部とかまた日下部とかもいたのである。蝦夷は大和朝廷に反抗する人達の意で野蛮な人達の意ではない。乗馬にもたけていたしアイヌのような狩猟だけの民族でもない、だからこそ大和朝廷に抵抗できたのである。例えば隼人(はやと)-ハヤヒトとか熊襲(くまそ)-クマヒトとかは明確に一つの人種を示していて早く大和朝廷に服属した。蝦夷はあれほど長く抵抗したのは種々雑多な人が入り交じり大和朝廷に抵抗したからである。その中に渡来人の一団も交じっていたのだ。

まず吉備というのが鬼退治で有名なようにヤマトの最大の敵になった。箸塚古墳が吉備の特殊器台で祀られていたように吉備は真金吹く吉備で製鉄の技術や渡来人が入り朝鮮式山城などを構築してヤマトと対立していた。四道将軍としてヤマトから派遣された吉備津彦は阿宗(阿曽)の酋長、温羅(アラ)と戦っている。このアラは王様の意味である。アラのカヤの国の王様の意味だった。渡来人はヤマトと戦っていたのだ。他にも蝦夷の中にも渡来人がいたのだ。出雲もヤマトと対立したがその背後には韓(から、かや)の勢力がバックにあったからである。百済や新羅が勃興する前には朝鮮半島には金官加耶とか密陽加耶(末羅国)とかあった。これらは朝鮮半島の興亡のなかで消長を繰り返しその一派が九州に逃れてきた。「ここは韓国に向かい、笠沙の御前を真来通りて、朝日のただす国、夕日の日照る国なり」とある韓国は加耶であり加羅なのだ。和名妙の吉備国の賀屋郡阿宗郷は加耶の国のことであり吉備一族最も大事にした美作神社の祭神は鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)である。これは神武天皇の先祖である。ウガヤは上加耶であり他に矢柄(ヤガラ)という地域がありこれはヤカラ、ウカラであり加耶の一族が住んだ所なのであると朴氏は言っている。ここは密接に吉備氏と加耶が一体化したところだった。茅草葺不合尊(フキアエズノミコト)とは宮を草(カヤ)で作る前に頓挫したのか、またこの草は加耶にもなるから加耶の宮を建てようとした頓挫したともなるのだ。なんらかの動乱があり宮を建てることに失敗したことを語っているともとれる。

多臣(おうのみみ)とは何者かというと神武天皇-神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫でこれは奈良に神武天皇と一緒に祭られているのだ。またこの氏は吉備津彦神社の神官を勤めている多氏とも同族である。このオウ氏は古代出雲、越の国、吉備と大勢力を持った一族である。出雲は下加耶(あらかや)であり「オウナムチ」とはオウの国とアラカヤの国を治める人の意という。このオウ族が装飾古墳をもたらした。福岡の珍敷塚の船の絵がエジプトの絵のコピ-のようになっているのはいかにも不思議である。船の操作にたけた一族だった。それが常陸から磐城から浜通りそいに密集してあることなのだ。このオオ氏の勢力が装飾古墳をもたらしたとするとこれも加耶と関係してくるし実際、真野の入江にこの装飾古墳の痕跡があり横穴古墳があるとするとここに加耶族の渡来人が入ってきてまず加耶の国の原、草原(かやはら)と名付けた。草原という地名は真野の前にあった。真野の地名は大伴氏など大和朝廷の勢力が入ってきてつけられたのだ。草原の加耶の原が地名としてありそこに真野の名を付け加えた。真野の領域として大和朝廷が支配したのだ。実際オオ氏は大和朝廷に追われ衰退した。草原(かやはら)がなびいているから草原ではなく加耶の国の人が入って来たから草(加耶)原なのである。

●「呉人の渡来」

日本書紀に「応神記」に阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)が「呉」に縫(きぬ)工(い)女(め)を求めるために遣わされることが記してある。

はじめ高句麗にいたり久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の二人を道案内として「呉」に至り、「呉王」から縫(きぬ)工(い)女(め)の兄媛(えひめ)、弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を与えられ伴って帰るが兄媛は筑紫の胸形大神に奉仕することになり、他は呉衣縫(くれきぬのい)蚊屋衣縫(かやのきぬのい)の祖先になるという。

そのとき「呉」の使いのために道路が作られて、呉坂(くれさか)と名づけられる。また「呉人」達は大和の檜隈野(ひのくまの)に定住することになりそこを呉原とよばれる。

また百済人の味摩之(みまし)が渡来し「呉」で技楽舞(くれがく)を学んだといったので桜井におき、少年を集めて技楽舞(くれがく)を習わせた。そのうち真野首弟子(まののおびとでし)と新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の二人はこれを後世に伝えた。


ここでは呉と百済が密接な関係にあり呉から入る文化を百済が仲介したのだ。味摩之(あじまの)でありこれは味真野でもありこれは百済からの渡来人系統の姓であった。韓国の扶余にこの味摩之(あじまの)の記念碑があるのだ。呉は日本でもかなり意識された国だった。

くれないの花にしあらば 衣手に染めつけ持ちて 行くべく思ほゆ

雄神川くれないにほふ娘子らし葦附採ると瀬に立たすらし

紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の経ぬべき

1218: 黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも

1343: 言痛くはかもかもせむを紅の現し心や妹に逢はずあらむ

1672: 黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻

2550: 立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を

2623: 紅の八しほの衣朝な朝な馴れはすれどもいやめづらしも

2624: 紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる

2655: 紅の裾引く道を中に置きて我れは通はむ君か来まさむ

2763: 紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も我を忘らすな

2827: 紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ

3877: 紅に染めてし衣雨降りてにほひはすともうつろはめやも

4109: 紅はうつろふものぞ橡のなれにし来ぬになほしかめやも


くれないは呉(くれ)の藍がなまったものだという。日本には藍の色はあったがこうした赤系統の染色の業がなかったから一際その色が人目をひいた。
呉衣縫(くれきぬのい)蚊屋衣縫(かやのきぬのい)の祖先になるというのは蚊屋はカヤの国の人の意でありカヤの国からも機織りが渡来して技術を伝えたのである。陸奥真野の草原を考える前に渡来人が渡ってきて定住した地が百済野とか呉原と名付けられることを頭においておきたいのだ。

その御骨(みかばね)を獲て、その蚊屋野の東の山に、御陵(みはか)を作りて葬りたまひて、韓袋(からぶくろ)の子供をもってその陵を守らしたまひき(古事記)

この蚊屋野も加耶の野であり河内であれは一層その名は加耶に因んだものがあっても不思議ではないのだ。呉原の原はハラであり腹であり同胞の一族のハラカラのことである。これは今でも沖縄に古語としして残っている。

始原的な部落を想像してみると、部落が増大するにつれ、氏族の分化が行なわれ、一区域の平地に「ブラレ」(村別れ)をそれぞれ形成し、この一族を「はら」と呼んだのかも知れない。すなわち、根元・地元となる地所的意味から、その一群の住家、血族団体を意味するようになったものとみられる。原は、すなわち、村と同意であったのではあるまいか。 アンハラ・クンハラ・(あのはら・このはら)という表現があるならば、そうした観念が出てくるであろう
(金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」)

ハラチという言葉もありこれも同じ腹から生まれたからそうなる。ハラはもともと腹の意でありそれから原になった。草原とあるときカヤハラだったら加耶一族の村とか国となり萱しげっている原となるとは限らない、古代にはむしろこの血のつながりで強固に結ばれていたから原は腹であったのだ。また渡来人も異国に来てその結びつきは強かった。今でも日系人などが強固な同族意識を持つように異国で連帯して暮らしてしていたのだ。

●草原に二つの系統あり

播磨国風土記の草上(久佐)について

「草上」(くさかみ)という所以は韓人山村などがこの地を乞ひて田を墾(は)りしとき一群の草ありて、その根の臭かりき、故草上となづく

これも草(くさ)とあっても韓人が関係して拓らかれたりしている。

草原には二つの系統がある。日下部(くさかべ)の部民系統として名づけられた郷名ともう一つは賀陽、蚊屋、草(かや)の系統である。二つあるからややこしい。二つの命名は違った系統だからだ。大草は日下部系統の大草香の大草かもしれない、草とあっても古代の郷名は部民とか一族関係の場合が多い。大伴だと伴野とあれば大伴の一族が拓いた野となる。草をカヤとすれば萱をさしているのではない、カヤの人々の拓いた国かもしれない、これが混同しやすいのだ。日下部は日本の名になったごとく古い氏族でありそれでその名を留めている。だから草とあれば日下部(くさかべ)系統でありわかりやすい。草原とあっても(久佐波良)とあれば日下部系統の設置した郷かもしれない、なぜなら一字で草だけとあったのがあとから原がついた。もともと草だけだった。武蔵国の埼玉郡の草原(加夜波良)はあきらかに加夜波良(かやはら)だがもともとは一字の草だけ記されてあった。つまり加夜だけなのである。原はあとからつけられたのだ。ということはカヤは草をあてているが賀陽、蚊屋、・・・とかがあてられても不思議ではない、草という漢字にまどわされるから固定観念でこれを萱だとか草にしているが日下部が(くさかべ)のようにこれも当て字なのである。当て字はあてにならないのだ。もともと古代の郷名は物部とか大伴氏とか氏族の名字がつけられたのが多い。だからその土地の景色とかに必ずしもあわせているわけではないのだ。それが古代の場合、混同するのだ。小野とついていれば小さな野ではなく小野氏の一族が入った所でありそれがまぎらわしいのだ。やはりこの分類で一番注目したのは武蔵国の埼玉郡の草原(加夜波良)郷でありここはもともと草(加夜)だけだった。そして並んで笠原郷があった。もう一つ太田郷があった。これはかなり謂われあるものである。武蔵国から蝦夷征服に派遣された人がおりその中には渡来人の大きな勢力があった。古代の郷名必ず移動しているからだ。ただすぐにこの草をカヤの国と結びつけるのは危険である。でもここは明らかに草(久佐)ではなく草(加夜)だからカヤの国と結びつく。

一方で日下部の草かもしれない、日下部の方が氏族名として明確である。下総国に日部がある。でも陸奥にはあまりなじみがない氏族である。カヤというのも大伴とか阿部とか物部からするとなじみがない、だから簡単には結びつけることはできない。カヤとついているきは吉備の隣り合わせの日本海側の但馬国とかほうきとか丹波国の加佐郡などがある。これらは吉備からの移住かもしれない、吉備はそもそも大和の最古の古墳といわれる箸塚古墳に特殊器台を奉献して大和と対等の力を持っていた。だからその系統に大和の系統、天皇につながらない、独自の在地の強力な勢力だった。会津の大塚山古墳は吉備の丸山古墳と同はん鏡であった。同じ鋳型で作られたものだった。この三角神獣鏡が発見されたり吉備は毛野国をこえて会津とつながっていた。吉備はカヤなどの渡来人を入れた「真金吹く吉備・・・」で製鉄などで大和に対等に対抗する力を持っていたのだ。その勢力の波及の一族として笠(加佐)氏があり丹波国に一郡を持っていた。

地名で言うと、「加悦」と書いて「かや」と読む場所がある。丹後半島の近くである。 何故に筑紫から丹後、敦賀に飛ぶのだろうか?
丹後は4世紀後半から6世紀中葉にかけて、「丹後王国」があったと、言われる。なかでも、京都府 加悦町は丹後を代表する古墳の宝庫であり、中でも、4世紀後半から5世紀初頭にかけて巨大古墳が築かれた。 4世紀後半とは洛東江上流に「加羅」が進出し、日本書紀の言う加羅七国平定の時期である。

加羅加耶(物部)は当初は倭先住加耶と共存。 寝返って新羅に服従し、倭先住加耶を裏切り、彼らを殲滅する。 時代は5世紀前半で、新羅系が始めてヤマトの北西部に入る。(印尭天皇の時代) ヤマト西北部の古墳は新羅系で、(つまり 伝垂仁陵古墳は印尭天皇陵) 物部系 終焉


加耶のかかわり日本に深い、物部-加耶があり吉備-加耶-笠(加佐)がありこれらは渡来系に結びついている。

出雲国--草原(かやはら?) 大草

但馬国--大草(於保加也)
賀陽(かや)

伯耆国-蚊屋(かや)


出雲国はカヤではなく日下部系統かもしれない、但馬と伯耆国はカヤである。丹波には笠(加佐郡)がある。大草(五伽耶の一つに大伽耶(今高霊)という国が実際にあった。このカヤの系統には

景行天皇の熊襲征伐の記に

厚鹿史(あつかや)とせ鹿文(せかや)の兄弟がいた。王である熊襲武には市乾鹿文屋(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の二人の娘がいた。このカヤも加耶の国の人の意でありヤマトに対立した人々に加耶の国の人々がいたことは確かである。つまりイラクでもベトナムでもいざ戦争となるといろんな国の人が敵味方に分かれるように日本でも渡来人が敵味方に分かれたのだ。朝鮮半島はそもそもまだ統一国家でないから日本に来ても争っていたのである。そして卑弥呼は市鹿文であり邪馬台国は鹿屋(加耶の国)を中心とする熊襲であったとか女酋長が九州でも常陸でも蝦夷でも活躍していた。神石萱というのもそうである。なぜ女性が酋長になっていたのか、おそらく呪術的巫女として神聖化されていたからだ。沖縄ではノロが政治に参加して力をふるっていた。万葉集に女性の歌が力強いのはそのためである。

@ 新井・荒木などの[アラ]グループ
A 足立・安達などの[アダ] 〃
B 有田・有馬などの[アリ] 〃
 
その結果、鹿島町や玉湯町などでは上記3グループの姓が全世帯の70−90%もあり、この傾向は東部出雲で顕著であった。この3つの姓は、朝鮮半島の安羅伽耶から来た証拠という。すなわち@とBは安羅そのもので、Aは「安羅+ダル(地・国の意味)」で「アラダル」が縮小したものと説明する


これからすると安達太良山のアダタラは「安羅+ダル(地・国の意味)」でアラダル→アダタラになった。安羅の国の山になってしまうのだ。ここも渡来人の名前がついているとすると次に述べる東和町の白猪森というのも移動地名だったし佐須(サス)という山の奥の地名も武蔵(ムサシ)でありこのサシは焼き畑地名だからサスもそうであり移動地名になるかもしれない、こうした古代には渡来系の地名とか移動地名が多いのである。

この出雲一帯から武蔵に移動してきた人々がいたという説があり吉備→出雲→但馬→伯耆国→丹波加佐郡・・・・・武蔵埼玉郡というつながりがあるかもしれない、つまり渡来人の跡が和名妙に必ずあり郷名もそれに因んだものがかなりあるからだ。安羅伽耶(あらかや)は一体の国だった。草(カヤ)にはこの安羅伽耶(あらかや)の人々の移動がありそれが地名化した。陸奥真野の草原の草原(かやはら)は一続きの地名であり場所をさしていたのだ。郷名は明確に移動の跡がたどれるからだ。古代では景色がそのまま地名化していないからだ。

出雲臣祖の天穂日命の孫、出雲建子命はまたの名を伊勢都彦というと国造系図にある。
伊勢都彦の名は『伊勢風土記』に出雲神の子としてあり、神武東征の際、追われて信濃国へ避国したという。ここから高群逸枝は、信濃国に笠原の地名多く、また諏訪神氏系図に笠原氏があり、諏訪神氏は出雲の大国主命の後であるから、伊勢都彦は諏訪神氏を頼って信濃国へ行き、そこで笠原氏を発したのではないかという。そしてこの信濃国の笠原氏の系が武蔵国造族の笠原にもたらされた。笠原は和名抄に埼玉郡笠原とあり、大宮の北方北方十数キロの鴻巣市笠原であるが、下にあげるように『日本書紀』の武蔵国造の記事に出てくる。


坂東は「出雲国」だった?
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/band/ban-102.htm

これも笠原という一族が移動してきて武蔵国に来たことを示している。この笠原は笠(カサ)一族であり渡来人でありこれは吉備から波及した一族が分布し移動したのだ。常陸の久慈郡の長幡部は天孫降臨の日向の高千穂から移っている。高千穂から三野(美濃)まで急に飛んでいる。倭文服(しずはた)という部民がいて久慈まで移動しているがこれは武蔵国の加美郡にも長幡部神社が祀られている。つまり倭文(しず)神社は全国にあり一族が移動したのだ。宮城県の志津川などもそうかもしれない、この長幡部の祖も阿智使主(あちのおみ)と言われるから渡来人なのである。武蔵国は常陸と隣り合わせであり歴史的に因縁が深いから共通したものがあるのだ。

●東和町白猪森と吉備の白猪部

554 7 敏達3 聖徳太子誕生
蘇我馬子を吉備国に派遣
白猪屯倉と4郡を増益して名籍(令制の戸籍・計帳に近いもの)を白猪および膾津に授く

もう一つ不思議なのは東和町に白猪森というのがあった。この白猪部というのが吉備にありこれは有力な氏族なのだ。

美作国人従八位下白猪大足賜姓大庭臣

白猪部色不知(平城宮木簡)


白猪部が白猪史、白猪臣として白猪屯倉を管理した在地の主張であったとあり東和町の白猪森というのは別に白猪とは関係なくこうした人達の移動の跡かもしれないのだ。狩猟と関係して祀りと関係していたとか書いたがそれは古い起源のもので実際は吉備かどうかは別にしてこうした人達の移動したから白猪氏が移動してそこに住んだのでそこに一族の名前がつけたことがありうるしそれの方が自然である。地名はそこに住む人が独自につけたものが新しくて古いものは誰かが移動してきてつけたものが多い。あの辺にやたら住吉神社がある。全国的に住吉神社は山の中であろうがどこにでもあるのだ。白髭という地域も明確に残っていて神社もある。陸奥国白河郡百姓外従八位狛造智成戸→白河連・・安積郡百姓狛造子押麻呂戸→陸奥安達連と改姓している。戸沢明神の白髪神社狛造子押麻呂の一族を祀ったものでありと福島の歴史と考古(鈴木啓)にありここには駒などとつく地名が二〇個あると指摘している。これも高句麗王族の高麗若光の一族が武蔵国からここに移動してきたのだ。新地の駒ヶ峰というのも高麗と関係しているかもしれない、駒とあるときこれは高麗でもある場合がありまぎらわしいのだ。

また河内に船舶のことを扱った王辰爾を祖とする百済王氏の一族として船史(ふねのふひと)で代表される船、津、白猪氏(しらい)の氏族が河内の丹比郡に活躍して建てたのが野中寺である。古市丹比郡は息長、和邇氏の居地でありとなるとここから小野とか真野一族が出ていているからこれらも船の操作にたけた渡来人の集団が住んだ所になる。これも白猪という一族がいてそれが移動してきたことを示している。白猪というのも百済から来た渡来人であった。白猪という一族が移動して白猪森とついたという推測が自然なのである。


●武蔵国埼玉郡の草原郷

武蔵の埼玉郡の笠原というのもその笠氏の波及かもしれない、というのは稲荷山鉄剣銘にカサヒヨがありこれは明確にカサの国のことだろう。カサの国の一族がここに早い時期に入っていたのである。だから陸奥真野の草原もその郷名の移動でありここが一面の草原が美しいから名づけられたのではない、そんなふうに大和の人に伝えるだろうか?(草原(萱))が一面になびいて美しい所ですよ、真野はそんなロマンチックなことを普通言わない、みんな詩人ではないしそんな見方をしない、武人であればただその地をありのままに言うだけで萱原がなびいて真野は特別美しい所ですよとなど伝えない、笠女郎が「詫馬野の紫草・・・」を歌った時はロマンチックな恋の歌としたが陸奥真野の草原は全然知らない地だから想像しようがない、でも萱原は当時珍しいものでないしそれをあえて伝えたとは思えないのだ。確かに笠女郎の歌には地名の歌が多い。磐本の・・・磐本郷が陸奥にもあった。地名で連想するものがあったことは確かである。でも陸奥真野が萱原で連想するものとなっていたかというと奈良の官僚にはなっていない、知られていない、詫馬野の紫草は知られていた、奈良まで朝貢されていた。木簡にも記されている。それほど有名な物であり詫馬野の紫草はみんな知っていたのである。陸奥真野は知られていないのだ。だからカヤが近江の方言でもし入江を意味するとしたらそれは真野の入江は美しいですと伝えられたすればそれはありうる。草原はこの字にまどわされて勝手に想像した面が強いのである。

埼玉の 津に居る船の 風を疾み 綱は絶ゆとも 言な絶えそね

これも入江として埼玉は知られていた、そこに草原(加夜波良)があったとしたらここも入江だったのうもしれない、地形の相似から名付けられたのであり草原(カヤハラ)がなびいていたからではない、今から想像すると草原(萱原)はあっているがその当時からするとそうではない、港が津の方が当時の人々にとって大事だったのだ。

長野県の須々岐水神(すすきのかわかみ)を祀る。
すすき川上流の明神平に奥社があり、ススキの葉の舟に乗って川を下った。

八龍の地に上陸し、古宮に社を設けたと伝承される。ススキの葉は川岸で擦れ片葉のススキとなって、今も神社境内に残ると言う。

貞観9年(867年)従五位下の神階を受け、祭神は建御名方命と素盞鳴命になっている。

渡来人ケルが須々岐氏の賜姓は799年であるから、須々岐神社が古宮から移って立派になった


草野駅(すすきのえき)について

「延喜式」には攝津の駅として、草野駅・須磨駅を挙げ「和名抄」には山背国の岡田駅・山本駅、河内国の楠葉駅、摂津国の大原駅、殖村駅(711年)があり、これ以前に豊嶋郡駅家郷に草部〜和名須須木(すすき)〜〔草野〕駅を置くとある


草野とか須須木(すすき)も河内からの移動であり製鉄と関係していた。製鉄一族の移動があったのだ。草部をカヤ部と呼ぶのかクサ部と呼ぶのかこれもまぎらわしいがこれは当て字であり草が草であり萱がカヤとはかぎらないのだ。ススキとあっても芒が繁っているから芒ではなくススキは河内からの移動地名なのである。その土地にちなんで名付けられたのではなく移動地名が古代には多いのだ。

萱原が一面になびく景色はどこにでもありそれをして特別のもの名所とはなりえない、現実に草(カヤ)は刈るものとしてしか歌われていない、一面になびく景色としては当時とらえられていない、その後も山の萱場という地名が多い。萱をとる場として萱は常に認識されていたのだ。だから日本では草(草)原にしても草(かや)原にしても万葉時代では表現していない、草野(かやの)はあっても草原はカヤでもクサでもまれな表現である。だからカヤの国とか日下部系統の名付け方にとる方が自然なのである。また太田というのは大田部連、大伴大田連、大伴大田宿祢(録・右京)、伴大田宿とか必ずしも大きい田ではない、古代では一族の支配下、部民の田なのである。ムサシ国埼玉郡に太田、笠原、草原(カヤハラ)とあるがこの太田は大伴氏ととも陸奥の行方郡に移動したのかもしれない、原町の太田は一番古い所だし他に大伴氏が賜姓したのに大伴部三田が行方郡にいるがこれは武蔵国の御田郷が有名でありここからの移動かもしれない、名前も移動するのだ。笠蓑麻呂は美濃で生まれたからそう名づけられたのだ。移動する人はその土地の名を名前にすることが多いのだ。

福島県岩瀬郡天栄村大字白子字志古山の畑から古印が発見された。白子は武蔵国新羅郡新羅郷の異写が志羅木→志木→白子となっているからシラとついたのは渡来人と関係している場合が多いとするとこれも武蔵国からの移動であり武蔵国からの移動がかなりあったことは注意すべきである。白河(白川)とか白石(しらいし)などもそうである。

笠朝臣と同祖稚武彦命の後なり、孫吉備建彦命、景行天皇の御世、東方に遣わさる、毛人、及び凶鬼神(まがつかみ)を討ちて、阿部盧原国(いおはら)に至る。続日本記に「盧原郡多胡浦浜に黄金をもって献ず」とありここは駿河でありここで蝦夷、毛人と戦った。毛人とは毛野から始まっている。毛野は毛人であった。この吉備武彦が倭健伝説の基だというほど吉備は大きな勢力をもっていたのだ。ここに笠朝臣麻呂が来て歌を残している。

鳥総立て足柄山に船木茂り樹に茂り行きつあたら船木を  沙彌満誓 

笠女郎の父親とされる笠朝臣麻呂は駿河国まで来ていたのだ。それも蝦夷と戦っている地に来ていたのである。もしそうだとするとここまでは父親からじかに聞くから詳しいとなる。ただそこから陸奥はさらに遠いから謎なのである。ここからさらに奥の武蔵国まで埼玉郡まで行ったはわからないがもし行ったとしたら埼玉郡の草原郷(かやはら)を知り陸奥の真野にも草原(かやはら)という地がありますと笠朝臣麻呂が知り笠女郎に伝えたかもしれない、陸奥真野はその頃すでに歌枕になっていた。だから奈良の人々も知っていてその地名を出したともとれる。笠朝臣麻呂が父とすると筑紫であれ武蔵国の近くまで実際に来ていたことはかなりの情報源になっていた。

●面影にしての謎(笠女郎)

夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして (笠女郎)

0752: かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかもせむ人目繁くて

0754: 夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ

1296: 今作る斑の衣面影に我れに思ほゆいまだ着ねども

1630: 高円の野辺のかほ花面影に見えつつ妹は忘れかねつも

1794: たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影にして

2607: 敷栲の衣手離れて我を待つとあるらむ子らは面影に見ゆ

2634: 里遠み恋わびにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ

2642: 燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ

2900: 我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも

3137: 遠くあれば姿は見えず常のごと妹が笑まひは面影にして

3138: 年も経ず帰り来なむと朝影に待つらむ妹し面影に見ゆ


面影の歌を集めてみても荒寥とした開けていない一面になびく萱原が面影として見るような美意識が万葉人にはなかった。どちらかというとかお花と言えば昼顔だから身近な花を面影にして見る。燈火の影にかがよふ・・・とかこれも何か現代に通じるものであり里遠み・・遠くあれば・・・でもかなり身近にいる人を面影にみている。面影にしてというとき必ず身近に人を思い浮かべている。人の面影が浮かぶのでありある景色が面影に浮かぶことは少ない、浮かぶとしたら自分の経験では一度その地を踏んだことがありそこが浮かんできて今でも詩にしたりしている。(夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして )は人の姿が浮かぶのであり景色ではない、だから萱原とあっても萱原ではなく真野にいる草原(入江)としてそこにいる人を思い浮かぶ、面影に見ているのだ。それは家持となることはいえる。そうすれば家持は陸奥にきて最後に秋田に来て笠女郎への思いを歌に託した木簡を残したというのがあてはまってくる。草原(かやはら)という景色より真野の草原という入江の場所で人を面影にして見るのであり草原を面影に見ているのはあてはまらないのだ。面影にしてというときそこに浮かんでいるのは妹の姿だったり人の姿なのである。ある景色を面影にしてまで見ることはない、なにかしら真野の草原いる人を思い浮かべているのだ。草原となっているからどうしても萱原となる。陸奥の草原(入江または加耶の原)は遠いけどそこにいる人は面影に浮かんで見えるという意味である。一面の萱原が浮かんで歌にしたのではない、どうしても一連の面影の歌でも景色を面影に見るということがないからだ。萱原という景色が面影に浮かんだのではなくやはり入江か加耶の国の拓いた土地が目に浮かびますよとなる。

だからはるか見たこともない陸奥真野の草原(萱原)を想像することは異例でありありえないことでもあった。ロマンチックに思うような所ではないのだ。陸奥の小田で黄金がとれたというのはこれはあくまで恋ではない実利的なものとして喜んだのであり全然歌の意味が違うのだ。だからそんなに遠くの世界を面影に見るということ自体不思議であり異例であり謎が深いのである。ではなぜそれほどまでに陸奥真野の草原というのが笠女郎の脳裏に刻まれて面影まで見るようになったのかよほどの思い入れがないかぎり面影にまで見るということはない、恋人を慕うにしてもそうである。行ったこともないはるかな辺境の地を面影に見ることはない、写真見せられたわけでもないしどうしてこの地の様子を知りえるのだろうか?越前くらいまでだったらはっきりと浮かぶが陸奥の真野となるとかなり遠いのだ。越前まで慕って笠女郎が旅したという説もうなづける。

しかし陸奥となると遠すぎるのだ。そうした謎が常にこの歌にはある。もしかしたら仮想の歌だったかもしれない、現実の真野萱原ではない、ただ遠い所として真野を借りてきたのかもしれない、現実に聞いたのではなく陸奥という遠い地を想定して空想的に作りだしたかもしれないのだ。もちろん真野という地は真野郷として跡づけられるから現実に存在した。しかし笠女郎がそれほどここを深く知り得たか、知らされたかは非常に疑問なのである。確かに古代史的に陸奥真野郷はそれなりの跡を残している。だから奈良で知られていたというのは本当としても笠女郎が歌ったのはあくまでも遠い地であればいいのであってここのことをそんなに詳しく知っていたとは思えないのだ。詫馬野の紫草は知っていた、現実に木簡にもあり父親かもしれない笠朝臣麻呂も筑紫に行っているからだ。筑紫は第二の都であり陸奥の人が防人でも知っていたからである。草(萱)原だけがなびく陸奥真野が面影に見るまでに思うということはあの時代無理だった。だから一応知られていた陸奥の真野を借りて恋の思いを空想的に作ったのかもしれない、そういうことができる女性であり洗練されていたからである。ここが譬喩として用いられただけであり萱原がなびいて面影に見るというのがどうしても一連の笠女郎の歌にしても当時の歌にしてもそういう発想がでてこないのである。


●草原郷(久佐波良)-埼玉の津

笠蓑麻呂を笠朝臣麻呂の嫡男と想定して笠朝臣麻呂が太宰府時代大伴旅人と親しくしていた。大伴旅人-笠麻呂 家持-蓑麻呂という大伴氏と笠氏の親子二代の交流を想定している。こうした関係で蓑麻呂は大伴の越中時代墾田地を入手している。(尾山篤二郎)


ここは越前-足羽郡-草原郷(久佐波良)だから陸奥真野の草原とはどうなるのかわからないが草原は二つの系統があると述べたように陸奥真野の草原はあくまで当て字でありクサハラなのかカヤハラなのかわからないのだ。カヤとなれば加耶の国が関係してクサとなれば日下部氏が関係していた率が高くなる。しかしこれもなかなか二つを見分けることはむずかしい。蓑麻呂は美濃で生まれたから美濃(蓑)麻呂にした。これは美濃で道を作り位を授けられているから確かである。この蓑自体当て字だからわかりにくいのである。ここにも一応草原とあり真野はないがこれが陸奥真野にして遠さを現したとも想像できる。ここは確実に想像する射程内にあったからだ。ではなぜわざわざ陸奥としたのか、とにかく遠くなければならなかった。手の届かない遠くの人になってしまったということを譬喩で言いたかったのである。ただ真野という地域を限定しているしそれもまた問題である。真野とあれば真野という地域が明確に浮かぶからである。ともかく陸奥真野草原の草原は埼玉郡などからの移動地名であり必ずしも草が萱とはかぎらない、埼玉郡から移動した人々が名付けたのかもしれない、真野郷があり草原という地名がここにあったのである。カヤが入江だとするとぴったりなことは確かである。石巻にも陸奥真野がありここは陸奥真野字萱原として地名化していた。萱原がすでにあったのだ。北上川の河口にあり萱が美しいから萱原となったとあるがこれもわからない、萱が美しいとなるのか?確かに例えば阿蘇の山頂の萱原はなびいて美しかった。それはあれだけの山の丘陵になびいていたからであり河口となるとむしろ葦原になる。だから萱原の萱も必ずしも萱とは限らない、加耶の国ということもありうる。ここは和名妙にも真野郷というのがないし当時ヤマトに知られたのは万葉集からすると真野と安達太良、会津であり緯度が一致しているのだ。ただどうしてここが江戸時代から真野の萱原として知られていたのかわからない、考古学が発達していない時代だから別な角度から推測したのだろう。

例えば郡山の采女の歌

安積山影さえ見ゆる山の井の浅き心を思はなくに

この安積山は河内の和泉の安積山で采女が大和の京にいたとき、その地で流行した民謡を覚えて帰り歌った。この歌には東歌のような素朴さがないと指摘している。この采女は大和の京で采女として仕えた洗練された女性であるから遊女のようなたしなみができていたのである。これにはだから何か高官に阻喪(そそう)した采女の深刻さがない、戯れ的な歌に思える。これはだからその場であったことではなく定型化されていた物語であり本当の話ではないのだ。その場に現実にあったことではない、詩は想像だから作られるのだ。郡山にそうした歴史的必然性があるのか疑問なのである。

とにかくこの歌からだけでわからないのは言葉足らずになっているからだ。草原(カヤハラ)がどういう状態であったか歌っているば確実に萱原と断定できるがこれからだけではわからないのだ。ただ面影にしての歌では遠けれどと行っても近辺なのである。一挙に陸奥まで遠さを飛躍させるのは異例でありだからこそ何か不自然なものを感じてしまうのである。この解釈は人により違ってくるからわからない、あまりにもうがちすぎた見方であり歪曲しているともなる。ただなんか前からそういう疑問があったので書いたまでである。そもそも埼玉の津におる船・・・の津は利根川を通じての津でありそこに行田古墳群がありそこまで川を通じて船が来ていた。それでもかなり海から奥に入った所とすると不思議である。


わたつみの 海に出でたる 飾磨川 絶えむ日にこそ 吾が恋止まめ


播磨のこの川は交通路として奈良時代に使われていた。川が交通路となるのは自然である。この歌は埼玉の歌とは意味は逆である。川の流れ絶えないように思いも絶えないとなる。ここは江戸時代まで船の交通として利用されていた。船繋ぎ石などが残っている。

神の「ヨリシロ」としての草木が茂り、その一角に「アシャゲミヤ」が祭りに応じて立てられたであろう。その近くには、村里の長の屋敷があり、これを「トネヤ」(刀禰屋)といったのであろう。村里の長は、里のとね(里の刀禰)と呼んだのであろう。
 さとの刀禰は、村の政治を行ない、その「をなり」に「アシャゲミヤ」においての祭りを、行なわせたであろう。

金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より

阿岐国造同祖天湯津彦命10世孫 比止禰命 . 岩代(旧陸奥)安積
筑紫刀禰 建許呂の子か 常陸茨城
道奥菊多 建許呂命児 屋主刀禰 . 陸奥菊多
道口岐閉 建許呂命児 佐比刀禰 常陸多珂道口
明石 大倭直同祖八代足尼児 都彌自足尼 播磨明石


国造本紀に刀禰とあるのは屋主刀禰(とね)とありその土地の村主である。「アシャゲミヤ)というのは足を揚げる粗末な宮である。

豊国の宇沙(うさ)に着いた時、その土地の人、名はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って大御饗(おほみあへ)を差し上げた

刀禰はその主だったのだ。利根川は平安時代前は刀禰河だった。

刀禰河泊の川瀬も知らずただ渡り波に逢ふのす逢へる君かも(万葉集3413)
 
−−−利根川の渡りやすい浅瀬も知らず、まっすぐ向う
 岸に渡ろうとして思わず激流におし流させそうになる。
 こんな危ない思いをして、ただ恋しいあなたと逢えて
 ほんとうにうれしい。

刀禰は明らかに刀禰に由来している。ではなぜ常陸や陸奥に刀禰とつく国造が多いのだろうか、建許呂命児は九州の系統だから九州の人々の移動があったのか、装飾古墳などと同じで九州の人々の移動が考えられる。利根川は刀禰川でありこれは埼玉の津・・・行田古墳郡のある稲荷山鉄剣銘の出た地域と通じる川でありこれはオオ氏と関係していた。このオオは出雲にある意宇(おう)郡でありオウ一族の波及が常陸から磐城まで及んでいた。また舎人(トネリ)とあるがこれは刀禰が基となった言葉である。地方の刀禰が采女のように天皇に仕えるものとなり舎人となった。舎人という地名も残っている。一方で朝廷天皇に仕えた舎人が故郷に帰りそこで舎人と名のったかもしれてい、稲荷山鉄剣銘は近畿の倭の一族につながるものとしてその系譜が書かれているからそれを誇示するためだとするとそうなる。大彦(おおひこ)が先祖として誇っているのだ。

@東京都足立区舎人町
A福岡県宗像郡福間町
B埼玉県桶川市大字舎人新田
C佐賀県小城郡芦刈町大字芦清字舎人

他に鳥取県東郷町にある倭文神社は、以前は、東伯郡舎人村大字宮内字宮坂にあったとありここには舎人川もあった。意宇(おう)郡に舎人郷と大草郷があった。この大草も草ではない、草に大草とつけるのは不自然だからだ。草の一字が元になっている。万葉時代は草は草でない可能性がある。 またここには鳥取県東伯郡東郷町藤津という地名がありこれは肥前風土記に日本武尊が船を大藤につないだという地名伝説からでてきている。ただ藤津という地名は多いから何か別ないわれもあるかもしれない、ただ船というのは杭であれ木であれつなぐことが大事だった。「埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね」船をつなぐ綱が大事だった。だからそうした伝説が生まれた。藤というと藤の蔓が綱になっていたかもしれない、藤の木より蔓が藤になるからだ。藤の蔓で橋をかけたりもしているし蔓が使われていて藤津となった。

真野の入江はまだ完全に想像のつく世界であるが埼玉の津が明らかに津で港で結ばれていたと同じように陸奥真野の草原(入江)も結ばれていた。それは歴史的背景があり結ばれていた。ただまだまだこの歌の背景や真意は謎が多いのだ。謎が深まる。埼玉の津は場所はわからないのだが何か力強くそこが人々が出入りして結ばれていたことが歌から実感できるが陸奥真野の草原は何か想像上の世界のように見えてしまうのである。そこが歌の内容自体かなり違ったものなのだ。まさに面影に見る地域であり明確な姿として奈良の人に浮かんでいた地域とは違う。そういう陸奥の辺境であったということも確かなのだ。



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陸奥真野の草原は本当に萱原だったのか?(2)へ

郡衙が国衙から陸奥真野草原の謎を解く(真野草原考4)
(泉廃寺跡(郡衙)から渡来人の人名の木簡!)