釜山から慶州までバスで直行した。慶州までは近かった。一時間くらいである。韓国のバスはほとんど待つ必要がないのだ。ハングルがわからなくてもタ−ミナルからタ−ミナルまではガイドブックのハングルを見せると切符も簡単に買えるし乗り場にもすぐ行ける。その点バスは楽であった。ただ途中下車になると非常にむずかしくなる。慶州についたのお昼頃だった。そこで日本語で話しかけてきた人がいたのでタクシ−で前に見なかった所を回ることにした。9000円は日本と同じくらいだった。韓国は物価が高いと思い日本語につられてまた失敗した。外国旅行は最初が失敗しやすい。突然不慣れな所に行くから戸惑い失敗する。

 タクシ−の最初に行った所は須恵器を作る民俗村だった。前にも行ったみたいだが記憶になかった。そこで日本語のできる女性がでてきて須恵器について説明してくれた。一人だったが丁寧に説明してくれたことはよかった。日本というと縄文土器で有名だがこれは古墳とかからはでてこないし歴史時代になってからは途切れたもので別なものとなっている。縄文時代とか縄文人としきりに言うがその実体はわかりにくいものなのだ。一万年つづいたとか言っても縄文土器とかわずかなものでありその実体は解明されていない。しかし縄文時代が我々日本人とは関係ないのかというとやはり血となり肉となり受け継がれてきたものがある。縄文土器のあの濃厚な装飾はバロック時代のようでもありそれなりの精神の充実から生れたもので今では作り出せないものなのだ。

過去の文化遺産の重さは現代では作り出せない精神の充実したものがあることなのだ。万葉集の歌も一見それとにたようなものが作れるように思えるが作れないものがあるのだ。大伴家持の晩年の歌は近代の秀歌にしてもかわらないから万葉集の前半とはかなり違ったものになっている。確かに斉藤茂吉に何かしら万葉的なものが歌われたかもしれない、ただ万葉時代に持っていた真情というのは現代ではもちえないものだろう。つまり恋の歌といっても現代の恋とは違う古代の環境と真情の中での恋だからそれは自ずと違ったものである。例えば電子メ−ルでやりとりするような恋ではなく言葉も何か真剣なのである。まだ汚されていな時代の純情の歌である。これが平安時代になると恋が宮廷の遊びになるのと相反した野にある時の万葉人の真情が出た歌なのだ。そういうものがインドやネバ−ルや雲南の奥地になお残されているようである。

須恵器が入る前に土師器があった。土師器は野焼きだから縄文土器と同じだが装飾性は希薄である。これらの土器は日用品としても使われたが祭儀のために多く使われた。今でも未開の奥地では祭儀が盛んに行われるように古代人と祭儀は欠かせないものだった。こうして祭儀に使われた土器が捨てられたのが多いのは日用品として使うものでなく祭儀用として別扱いにされたからかもしれない。祭儀のためだけに使われあとは使わなかったためかもしれない。須恵器で注目すべきは伽揶から洛東江の河口地帯と良く似たのが発見されるということで最初伽揶からもたらされたのだ。須恵器は日本全国いたる所から発見されている。スエとつく地名は何らか須恵器の発見された所と関係している。須恵器が作られた所である。スエは陶であり末野というのも須恵器が大量に作られた所とあり須恵器に関係した地名は多いのだ。これは縄文土器とか土師器とか野焼きとは違い本格的に窯で高温で焼かれたもので登り窯が使われた。手にとってみると薄くて固いし軽いのである。これは土師器とは違うまさに先進的な技術から作られたものなのだ。

写真の須恵器は宮廷の貴族が使ったものでこれはふると音がして宮廷に仕える女性に酒を注がせた、新羅王朝の杯だった。こういう話が聞けると面白い。カチャカチャと鳴らしては酒を注がせていた。優雅な贅沢な新羅の貴族が偲ばれる。実際豪華な屋敷に住んで贅沢していた。ただ民衆の生活は苦しくまた貴族にしても曲水の宴を催している時百済に突然襲われたとか新羅も百済とか高句麗とか日本とかの外交で常に圧迫されていたのである。とにかく外国旅行ではこうした話がその場で聞けないので事情がわからなく印象に残らず終わることが多いのだ。遺跡にしても何かしらそれにまつわる話が残っていると面白いのだ。それもその場で聞くと印象深いものとなる。
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回りのが飾りだと思っていたら振って鳴らす杯だった

    春の日に須恵器を作る窯元を尋ねて聞きぬ昔の話

次に行ったのが石窟庵であった。山の上にあり正面から見たが結構大きいものであり想像したよりふっくらした感じがした。この貴重なものが最近まで忘れられて捨てられてあったというのも不思議である。飛鳥の飛鳥寺の仏も最近百済の仏として発見されたのだから韓国のことだけといえないが日本では奈良の大仏が大事にされてきたのとは違う。原因の一つとして仏教より儒教社会になったことがそうしたといえる。善し悪し別にして日本では神仏集合とかいろんな神様を大事にしてきた。一つの神にキリスト教やイスラム教にならなかったことである。日本人は理屈抜きにして何でも保存するという習性があるのかもしれない。余り破壊をしたくない性質がある。神すらみんな調和させたい、和をもって共存させたいということがある。所が異民族と接する大陸では徹底した破壊が行われる。剣かコ−ランかになりやすいのである。

宗教を個人的に考えればそれぞれの良い部分を取り入れることは悪いことではない。日蓮の他宗批判は間違いであり中世から脱し得なかった個人の宗教としてありえなかった日蓮の狂気性はファシズム的国粋主義として利用されるものになった。親鸞や禅宗は個人的改悛というかこの現代にも何の違和感なく通じるのである。国家とか政治にタッチせず個人の内面にその救いを求めたからである。内村鑑三であれキケルゴ−ルであれそれらの言っていることとたいして変わらないということは驚くべき時代を超越したものをもっていたのである。宗教を政治とか国家から分離して個人的なものとして追求したからである。イスラムが近代化されないというとき国家と政治が宗教と一体化しているからである。西洋化でその変革が迫られるので思想的に抵抗してあのテロになったと説明するのも一理ある。親鸞とか禅宗が極めて個人的な宗教であることは驚きであり宗教に関しては東洋の方が先進国であった。何故ならカトリックとは政治的組織的宗教であったからだ。そもそもそうした個人的宗教が受け入れ素地があったということ自体、現代にも通じるものが違和感もなく民衆レベルでも取り入れられたことは優れた精神をもっていたと言える。そういう点現代の異常なほどの組織集団依存の社会は中世より後退さえしているのではないかと思うのだ。
  
 石窟庵詣でる人の絶えじかも東海望み春の山影

  春の山影重なりて石窟庵  

  慶州や桜連翹盛りかな


ともかく大陸では異文化が民族がまともにぶつかりあう世界だからだ。race(民族)が競争を意味しているのもそのためである。競争に勝たねば民族自体滅びてしまうということである。イスラエルの狂気と思える行動もアラブに囲まれて国家が消滅する危機と常に直面しているためである。事実イスラエルはロ−マに滅ぼされ国家は消滅し民族は離散したのである。日本ではそうした危機にさらされることがなかったのである。異民族に支配されたこともないから和をもって尊ぶべしとか呑気なのである。日本の平和憲法もそうした歴史的風土から生れたもので押しつけられただけではない。何故ならアメリカすら今やそんな憲法は通用しないと思っているし日本を自らの世界政略に使おうとしているからだ。

須恵器の杯(童話の部)
  
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