時事問題の深層39-2009


(小林勇一)


これまで家族の認知症のことでプログで書いてきました。これまでの記録は記事はプログで読んでください
「今日の一句一首プログ」
WHAT'NEW





死者を愛しつづけることができるのか?
[わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]2009-1月16日

フロ-型社会からストック型社会の回帰
(グロ-バル経済のチェンジが次代のテ-マ
)
1月20日

民主(小沢) 自民、検察も今回は公正も正義もなかった2009-3月10日

マスメデアの時代は終わった2009-3月21日

フロ-型移動型文明からストック型定着文明へ 4月3日


人間は集団でも個々人でも奢(おご)る時危険-神の罰が下る (認知症の衝撃)-5月29日




死者を愛しつづけることができるのか?
[わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]

●死んでみればどんな人もあっけない

人間は死んでみると実にあっけないことに驚く、生きているときは大騒ぎしても死ぬと全く信じられないほどあっけないことがわかる。灰となり煙となり終わりである。姿も形もなくなる。そしてあとは何もない、沈黙して終わりである。こんなに人間はあっけないのかとあきれるてしまうほどである。認知症になるとまわりに大変な迷惑をかけるが死んでみると全くそれも嘘のようにあっけない、死んでみればどんな人もあっけない、それは地位ある人もみんな同じである。人間の一生なんて大騒ぎしてもこんなにあっけないのかと唖然としてしまう。人生はこんなものなのかとむなしくなってしまうだろう。どんなに生きても人間は死ねばあっけない、この世で功績を残した人でもあっけないのである。そういう点で死は平等なのかもしれない、死はありふれているしどんな人も死ぬ、人間はどんなにがんばってもはかないものだとつくづく思った。そんなはかない人間がこの世でじたばたしてもはかない、むなしいと思う、何にしろしょせん、塵となり煙となるにすぎないではないか、つまり人間はどんなに生きてもどんな人の生も最後はあっけない死で終わりむなしいとなる。この世に受けた生ははかないものでしかすぎなかったのである。また一人死に自分も近い内死んでゆく、それは逃れられない人間の定めである。

だからこそ永遠の命を求める信仰が必要になる。この世限りの生はどんなに生きたってどんな人だってはかなくむなしいのである。死を見ればわかる、あまりにもあっけない、あまりにも無惨だった。人間はどんなにもがいても死ねばはかないもの、あっけないもの、死んだら何にもない、それだけのものにすぎない、あなたが求めていること焦燥していることは実際つまらないことである。最後はみんな塵となり煙になるだけではないか、何を成そうとしてあせるのか?この世にあせって成そうとするようなことはなにもない、結局人間の行き着く先は死なのだから、死の克服がない限りこの世をどう生きようがむなしいとなってしまうのだ。社会をどうのうこうのと言っても結局社会自体は死の問題を解決することはできないのだ。カルト宗教団体は社会改革を目指す、創価なんか特にそうである。宗教とは関係ない、カルトは社会改革を目指し傾向があるのだ。集団化するとそうである。宗教は政治で解決しない問題を追求してきたのである。

●生前と死後の継続

ただまだまだ死んで間もないとあっけない死でもその人を想いつづける日はつづく、新年もまた死者とともに明ける、いくら死があっけなくても死者との思い出はなおつづくのである。死んではじめてその人が自分にとってどうい人だったかわかる、生きているときは意外とわからないのである。60年一緒にいてもわからない、その人が死んだとき本当に痛切にわかることがあるのだ。だから人間の関係は死があっけないにしてもずっとつづいているのだ。死によってその人が自分にとってかけがえのない人だったことを気づくこともある。結局死の残酷さどんなに今や思ってもその人自体には会えないということにあったのだ。夫婦で喧嘩したり親子で喧嘩してもあとで反省して仲直りもできる、でも死んだ人とはできない、その人と永遠に会えないのだから和解もできなくなる。後悔しても相手は死んでいるのだからわかってもらえない、死んだ人と語っても返事がないのだ。だからわかってもらっているのかどうかわからないのだ。

あなたは私に対して介護で冷たかったね、だから呼びかけても返事しないんだよと死んだ人が思っていたら衝撃になる。そういうこともありうるのだ。生前冷たくした人がでは死後はどうなのか?やはりいくら死者に語りかけてもいい返事はかかってこないかもしれない、死者は何も言わないにしろそう語りかける人自体がそう感じてしまうだろう。やはり死者は語らない、返事がないにしろ真心で語りかける必要がある。死んでいる人に自分の心を偽ることはできない、死者は厳粛に見ている、死者に手を合わせることはやはり生きているときとは違う神仏に手を合わせるような気持ちになるからだ。あんたは生きているとき冷たかったね、あなたの心を私は知っているよ、しらじらしいとなる、そう思われたら見抜いているとしたら神仏に手を合わせることはできないだろう。死者は今や介護される必要もない、手をわずらわすこともない、では何を求めているのか?生前から継続する真心を求めているのだろう。あなたは生前良くしてくれたな、私はわかっているよ、ありがとうと感謝の気持ちが死んだ人から伝わるようだったらいい、でも自分にしてもそこまではしていなかった。家に帰りたいと言っても家庭事情でできなかったし病院での介護もそんなにしていないともいえた、ただそういう落ち度があってもわかってくれよなと願っている、認知症になったのだから直ったら事情をわかって感謝もしてくれよなともなる。
いづれにしろ老人の介護は死と結びつくものとしてある。それは介護している人が死んだ時わかるのだ。これは施設でも別に親族でなくても世話した人が死ぬことはやはり厳粛なものであり同じなのである。 山姥伝説は親を蓮台野に捨てたことが基になっているという、捨てた親が山姥となり恐れられた結果だという、これもわからないが人間の心性はそもそも変わらない、伝説も何らか人間の変わらない心性があるからこそ突飛なものでも理解できるのだ。あくまでも人間が作ったものだからである。死者への恐れは共通してあるからだ。

●キケルゴ-ルの死者の対処方法

死者のために声をひそめけ泣け、彼は安らぎに入ったのだから」

ひとは死者を想いつつ声をひそめて泣くべきであり、しかも長い間なくべきである

死者を憶(おも)うことは愛の仕事である。

死者はいかなる仕方でも報いるということをしない

死者はいかなる禍もこうむることがない、しかもこれほど容易にその人の遠ざかることのできる相手をもたない

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

私たちは愛において死者を想うことはもっとも信実な愛の行為である

死者を恐れよ、彼の狡猾さを恐れよ、彼の確固たる態度を恐れよ、彼の強さを恐れよ、彼の誇りを恐れよ

たとえ死が私たちの現に見ている人々をわたしたちから引き離すとしても彼らを愛するという義務はなくなりえない、なぜなら義務とは永遠であるからである。


人間が死んでしまうこと、これが何を意味しているのか、一体死者はどうなったのかなど理解することは簡単にできない、死者については霊媒者とかいろいろ語るけどわからない、キケルゴ-ルの言う死者についての話はわかりやすい、インタ-ネットで死別のことでいろいろ語っている人がいる。慰めている人もいる。そういうなかで10年とか20年とか想いつづけている人もいる。そんなに想いつづけられるのか、死者もそれなら幸せだと思ってしまう。たいがい死者とは死んだ時点でも忘れられてしまうことがある。肉親でも死んだら財産の方の話になり金にしか関心がない人も多いのだ。一方で逆にいつまでも死者を想いつづけている人もいる。それでは病気になってしまうという人もいる。確かに延々として死者を想い泣いていたら現在の生活に支障をきたす、もっと現実を生きろとなる。一般に死者を想い続けているのは若いとき死別した人なのである。老人の場合は少ない、天寿を全うしたんだからこの世に未練などないから想いつづけないことがある。これは個別にみんな違っているから外からは計りにくい問題である。死者でも障害者、知的障害者でもいつかは死ぬ、そして認知症になって死ぬ人もこれから多数になる。そういう人もやはり死者はかえって威厳あるものとして生者と向き合うようになるのだろうか?死者は区別がないのだろうか ?生前にノ-ベル賞をもらった人は優秀な人も多々いるし市井に極平凡に掃除婦などとして終った人も多数いる。そういう人も区別なく死者は威厳あり恐れるものとなるのか?死者はそうかもしれない、この死者は特別偉いというのではなくキケルゴ-ルの言っているのは一般的な死者のことである。

いづれにしろ死者はどうしたって忘れられる存在である。そのなかで死者を想いつづける人は相当に死者を愛している人だったとなる。でもそれは生前と関係してそうなっている場合が多い、生前に愛し合わないものが死んでからその人を愛すことがありうるのか、それはなかなかできない、生きているとき、生前愛さない人は死後も愛さないのである。認知症になったとき長年親しんだ人もよりつかなくなった。やはり死後もその人たちは死者を想わない、やはり生前と死後は連続している。認知症になったような人は死後はどうなるのか?回復して正気にもどりまた賢い威厳あるものに戻っているのか?やはり死者には変わりがない、死んでから馬鹿のようには扱えないものになる。死者はみんな厳粛なものになるからだ。死者を嘲笑したりできない、知的障害者でも認知症の人でもそうなる。この人は馬鹿だった、死んでからも馬鹿だとは言えない、死者とはみな平等なのである。

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

二カ月間意識失ったとき眼を開くのだがそれが魚の死んだような眼だった。それをみたときまともに見ていられない、気持ち悪いものだった。でも自分は眼を開けと開かせたのである。手も握っていた。手はまだ血が通いあたたかかった。そのあたたかい手をにぎり最後は手は冷たくなり死んでいった。そこまで生きていたし生きる交流はあったのだ。このとき死んでいなくてもその眼をのぞいたときこの言葉を確かに感じた。半場死んでいたのでありその眼を見て嘲笑はできない、半場死人になっていたからだ。死者を誰も笑うことはできないだろう。認知症だと生きていれば馬鹿を言うが死んでしまいば馬鹿なことも何も一切語らないことは他の死者と同じなのである。そこに死者の共通性がある。死者は一切語らない、しかし死者は何も見ていないのか?死者は見ている、まるで外観ではない、神は心を見ているというごとく生者を見ている。それゆえに死者は恐るべきものである。あなたの誠実と不誠実を見ているし知っているとなると偽ることができないとなるとそれは神がみていると同じになる。それゆえに死者を恐れよとなる。 そして生と死が連続したものであるときまた生者も軽んじることはできない、生者も死者になるからである。生者だけを重んじ死者を重んじないまた死者だけを重んじて生者を重んじないということもできないのである。いくら死んだからといって生と死は断絶したものとしてはないからだ。



フロ-型社会からストック型社会の回帰(グロ-バル経済のチェンジが次代のテ-マ)

●商業工業はフロ-型、農業はストック型

郷土史は土の上になると書いた、農業が基本だと書いた。それで派遣の人が職を失い農業に移りたいというときそれは簡単にいかないことが議論された。農業でも人手はたりない、介護でも人手はたりない、今の時代人手がたりない所はいくらでもしる。農村でも人手はたりないが農業をやらないのは現代はフロ-経済であり外へ外へと向かう経済でありそれが地球の裏側まで外へと向かうグロ-バル化の経済となっているからだ。農村とはそもそも自給自足が建前の社会であった。ストックが中心の社会である。だから何よりも土に根ざした大地とともにあるストックの社会である。フロ-型は絶えず外に流れる、どこまでも流れ移動する社会である。それがグロ-バル化で地球の裏側まで流れる、フロ-する経済となった。交通の発達がそれを加速した。飛行機であれ新幹線であれ何よりも車が足になったときフロ-経済となったのである。地域社会でも商店街はシャ-タ-街になったのもそうだし小都市はさらに大きな都市にのみこまれてゆくのもそのためである。新幹線なら途中の点の街は通過して大きな街を目指す、仙台なら盛岡が50分で行くから隣になるである。東京だったらアジアは飛行機で行くなら遠いとは感じない世界となってゆく。経済も外へ外へと動いて行く、その中で農村は特にに山村は取り残されてしまった。フロ-というグロ-バル化の経済の輪は大きい、その中に山村があったとしてもフロ-のなかに入ることは極わずかの部分である。山村ではもともとストック型であるからフロ-型になるとそこに参入することは簡単ではない、商業工業は大きなフロ-型に入りやすい、農山村はもともと土地に根ざしたストック型だから大きなフロ-のグロ-バル化の輪に組み入れられることはない、でも現実社会はグロ-バル化するとき農山村も車なしでは日常の生活もできない、一旦フロ-の世界に入るとコストかかかる、病院であれ、教育であれ、買い物であれ、外の世界、フロ-の世界との接触をさけることはできない、その時金がかかるから昔のような自給自足の生活はできない、農業だけでは生活できない、金が必要になり外で働くようになる。農業だけでは金になるものを生み出せない、フロ-に適さないのがストック型の農村社会だからである。派遣の人が農業に農山村で働きたいといってもなかなか受け入れられないのは農村の閉鎖社会の問題とかあるがそこに農山村特有の培われた文化があるからだ。それが効率的ではないにし固陋であるにしろそれをいちがいにフロ-世界から批判できない文化の問題があるからむずかしいのである。 ストック型社会は生産と消費が一体化した社会である。そこには過剰な生産も過剰な消費もしにくい、江戸時代のリサイクル社会になる構造があった。資源はむだにできないし無駄な消費もできない、それが江戸時代だった。何一つ無駄ができない、もったいないの社会であるからこれは戦前から戦後十年くらいまではそうだった。これほど過剰な消費社会になったのは人類史上なかったのである。無駄な消費ができるほど豊かな国はなかったのである。グロ-バル化で富の偏りの結果、無駄が生れたのである。そして過剰な消費は後進国の森林破壊などを起こした。貪欲な資本主義をもたらして世界を荒廃させたのである。

●ストック型社会の回帰のむずかしさ

フロ-型はより早くより効率的より合理的にということができる。商業工業はそういう画一化に向いている。農村は土に根ざして自然を相手だからそれができないのである。そして土に根ざしたもの、自然に根ざしたものは木でも五十年とか大きくなるのにはかかるとすると一代だけでは林業に従事することはできない、自然のサイクルはそれだけ時間が要求されるからだ。だからとってつけたように人を配置することはできない、農家も三代で一人前として認められるとかになる。ストック型経済は社会はフロ-型とは違う、現代の経済は七-八割はフロ-型であり遠くへ遠くへ外へ外へ拡大化する社会であった。自分自身も旅ばかりしていたからそうなった。世界旅行が庶民化したのもそのためだった。フロ-化する、流動化する、遊牧民化したのが現代だったのだ。江戸時代まではストック型であった。明治からフロ-型社会になり流動化が激しくなった。それは人心の不安ともなり世界戦争の時代ともなった。世界がフロ-化して流動化したからそこで摩擦を起きて戦争になった。江戸時代のような鎖国だったら戦争にはならなっかった。そして今世界同時不況となりフロ-社会、グロ-バル化の弊害が顕著になった。派遣がグロ-バル化した会社に切り捨てられ農業をしたいというときそれはやはり時代の一つの潮流ともなる。ストック型社会にもどる、それは奈良時代の唐風文化から国風文化への移行であり歴史的回帰ともなる。ストック型社会は時間軸にあるものを見直すことである。木や石にしてもそれらは土に根ざして何百年とか千年とか動かない、その時間の経過のなかで意味をもってくる、存在感をもってくる。そういう時間の中で培われたものは外から来たものにはわかりにくい、人間は空間を征服することは容易である、今でも世界一周することは容易になった。しかし時間軸にある歴史を理解することは容易ではない、だから外国に行っても時間軸にあるものは簡単に理解できないのである。日本でも村を訪れてもそこに石が一つあったとしてそれが伝説とか持つ石であったりするがその意味するところのものを理解することはむずかしい。石は単なる石であり時間の中でそれに付加された石の重みある価値を知ることはむずかしいのだ。それは単なる鉱物の石ではない、村の中の人間化された村人と一体化した人格さえもつ石となっているものがあるからだ。それは車できてそこを通り過ぎてゆくだけでは余計わからないのである。ストック型のものを理解することはむずかしいのである。

残される記憶、記憶される物(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/25679315.html

●フロ-型グロ-バル化で性奴隷にされた東南アジア

このフロ-型グロ-バル化で悲惨なのが東南アジアで性奴隷にされた少女たちである。自分のような世界を全く知らないものが世界を歩いてショックだったのはどこも少女を求めて買春の中高年が多いことであった。今になると反吐がでるような世界である。私自身は純粋に観光目的だったからである。そこに屯するのはそうした目的であるから異様な世界だった。そういうところに混じっているのも今から考えると嫌なことであった。そこには世界中の人が特に欧米や日本人が主役である。そこに少女を買春する悪魔的笑いがあった。東南アジアはまた中国人が進出している、経済的にも進出している世界である。カンボジアでは観光案内をしているバイクを貸しているのは中国人の資本家であり日本人でもそうしたバイクを買って貸せば自分のようなビジネスと何の関係もないものでも日本の金がこれほど価値があるのだと実感した。日本の金は外国に行くとすごい価値がでてくる。これがグロ-バル化経済をまのあたりにすることなのだ。金が十倍の価値がでてくる。そこで何が起きてくるのか、金の価値が日本でいるときより信じられないほど大きくなるのだ。だから東南アジアにゆくと何か偉くなったような錯覚を抱く人もでてくる。極端な金の差が格差がそうさせるのだ。それでラオス辺りの少数民族の少女が母親からテレビ一台買うために売られるという悲劇を報じていた。そんなことまで起きてくるのがグロ-バル化なのである。なぜならバイクというのは車なら価値があっても日本ではあまり価値がない、でもベトナムとか東南アジア手は足としては相当価値あるものになる。日本で言えば車をもっていると同じなのである。後進国に行けば文明の利器は日本で考える以上に価値あるものになるのだ。日本だって戦後まもなくや戦前でも車をもっていた人がいた。その車は相当価値あるものだった。大金持ちしかもてないものだった。自転車すらそうだった。一生に一台を大事に使っていた。フロ-型グロ-バル化経済は金の価値が飛躍的に増大する。

それは貧しい国に行けば一目瞭然である。そして結果的に世界の共通貨幣となったドルが一番価値あるものとなりアメリカが世界を支配することになる。ドルが一番価値あるものとなるのは何よりもアメリカが価値あることになるのだ。だからグロ-バル化とはアメリカ化でありグロ-バル化といっても実体は世界に公平なグロ-バル化などない、強いアメリカが世界を支配することであったのだ。しかしアメリカが衰退するときその支配も終わり別な世界のグロ-バル化が起きてくる。そうなるのは今はわからないにしてもそういう時代に入ってきたのである。黒人のオバマが大統領になるのもそうである。アメリカ自体に地殻変動が起きているのかもしれない、アメリカ支配、白人支配は変化しつつある。チェンジとは皮肉にもアメリカの白人優越主義の終わりになるのかもしれない、それに代わって台頭するものが何なのか?そういう時代の変化がチェンジなんだろう。アメリカをチェンジしろというより世界でアメリカがチェンジを強いられ衰退してゆくのが今回の世界同時不況なのかもしれない、アメリカの自動車産業も衰退してゆくのもその象徴である。軍事力だけ突出してもそれだけでは世界を支配できないだろう。足元の経済、産業が弱体化すれば国自体の弱体化となり衰退してゆく、その時アメリカと一体化してアメリカの従属国家の日本もチェンジを迫られるのである。それがどういう方向に行くのか、そういう選択がすで民主党への政権交代となり日本自身もチェンジの時代となる。

白人優位主義-性奴隷にされる東南アジアの少女
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/crime.html



大きな市は大きなフロ-型グロ-バル化経済に入りやすいが小さな町や村は入りにくい
取り残される。フロ-型グロ-バル化経済は金が大きな力となるから小さな市町村はそうした商品を作りえないから取り残されるのである。



民主(小沢) 自民、検察も今回は公正も正義もなかった



●民主、自民、検察は痛み分け

報道でも何でも公正さとか追求すると真理を追究するのとにてくる。今回の小沢氏の検察の秘書の逮捕もそうである。小沢氏側は権力をもっている自民党の陰謀だ、この大事な時期に小沢氏だけを狙い撃ちしたのは自民が検察との利害が一致した。検察も今の政権の方が既得権をもつ者にとってはいいとなる。小沢が権力をとると検察も人事などで復讐されるとか恐怖している。でも自民の二階堂氏が逮捕されるとなると一応公正になる。つまり今回の一連の動きは三者とも痛み分けとなる。民主も相当ダメ-ジを受けたが自民も二階堂氏に検察の手が入れば同じようにダメ-ジを受ける。検察は検察でダメ-ジを受けている。どうしても先に小沢氏の秘書を逮捕してしまったからだ。なぜ先にこれだけの強権を執行したのか大きな疑問が国民の間でも起こったのである。つまり検察も絶対的に公正ではありえない、事実朝まで生テレビで検察に濡れ衣を着せられて苦しめられた人が訴えていた。全く根拠も何もないのに逮捕、拘留されたがその当事者の検察は謝罪もしない、検察の磯部とかなんとか実名をあげて糾弾していた。検察も公正とか正義を行うわけではない絶対的指標となるわけではない、今回でもなぜ小沢氏が狙い撃ちにされたのかその根拠がまだ明快に説明されない、検察にも疑惑がもたらされて半分黒となったのだ。民主も自民も検察も半分は黒になり真っ白はなくなったのだ。

●マスメデアも公正を正義を求めていない

今まで報道のモラルがどうのこうのとか考えなかったというより考えていても何かマスコミに言うこともできないのだから一方的な報道に甘んじるほかなかったのだ。でもプログであれこのうよに個人でも自ら発言してわずかでも誰かが読むとなると規模は極端に小さいとしても個人でも報道機関になっているのだ。今やだから百万人以上がそれぞれ報道機関になっているのだ。その中で読まれることが極端に少ないことが今までのマスメデアとは違っていても個々人が報道機関になることはありえなかった。新聞とかテレビとかマスメデアはこれらも本当に公正を正義を追求しているかというとそうではない、一つの私的営利機関なのである。ただ大勢に報道するということで力をもっていたのである。そこで公正とか正義を追求する目的をもって創業されたものではない、日本経済新聞は東京株式新聞として創業され「株屋」であり株の情報を流すことからはじまった。神奈川新聞は「貿易新聞」でありそれから平和とかモラルをどうこうの論じるようになったとき名前を変えたという、そしてこれらはもともと会社の悪いことを書いてやるとか恫喝する新聞屋だった。会社ではそれが嫌で金を払い丁重に扱ったという。総会屋とにている。そもそもそうしたいかがわしいことから成り立っている。今でもそういうことが常に問題になるのだ。雑誌でも「財界福島」の竹内が原子力関係で恫喝して巨利を得たとか報道自体が会社の悪口を書きイメ-ジダウンさせるからそのために宣伝費とか払わされる。デ-タ-マックスとかも検察の小沢氏捜査に疑問を呈したがこれも民主から金をもらっているかとなると公正を追求しているとはならない。雑誌にしても実際は書店に並ぶのはほんの一部であり数百の雑誌がありそれらは書店に並ばないのである。だから雑誌だけで経営が成り立たない、だから会社を恫喝したりして収入源としている。また雑誌を発行するにはそれだけの金がかかるのだからそういうふうになる。つまり報道は新聞であれ雑誌であれ本であれ金がかかるからそうした組織のバックアップなくして成り立たないのである。購読者だけの収入では成り立たないのだ。だから最近雑誌が次々に廃刊になってゆく。

●日本のマスメデアは公正も正義も追求する機関ではない

報道も利害関係がなければ公正が追求できるのだ。しかし報道機関と権力とは癒着している。「記者クラブ」とかもただ権力を追求するのではない、権力側から情報を流してもらうだけであり権力を追求するということがないのだ。権力側の言うことをきかないと情報を流さない、リ-クしないよというのも公正ではない、だから報道機関に信頼できない、地方の新聞社などもほとんど権力側を追求するものがない、癒着しているからそういうただ権力側のいい情報しかな流さないのだ。だから突然福島県知事の佐藤
栄佐久が汚職で逮捕されたとき驚いた。それまで聖人君子のようにしか新聞では書かれていない、でも突然逮捕されたて反転した。こういうときは検察の公正と正義をまざまざと見ることになる。報道機関では全くチェックする機能がなかったのである。地方の新聞でも一私的営利機関として見るべきであり報道の公正など追求していないのだ。これはテレビでもマスメデアでもそうしたいかがわしいものとして見るべきである。つまりマスメデアは公正とか正義は期待できない機関なのである。何かを宣伝すること自体すでに公正さは追求できない、マスメデアはいかにも公正さを追求して会社を糾弾しつづけるがそんなことする権利があるのかという疑問がインタ-ネットで盛んに言われるようになりマスメデアの権威がゆらいだのである。マスメデアとは何百万人に見られて報道する力を独占したことに力をもっていたのであり公正を正義を追求することで力をもっていたのではない、むしろやはりそれなら検察の方が公正と正義を追求する機関であったということはすべてではないにしろ言えた。ギリシャのデルフィの神託さえ政治的実権に左右された。政治的に権力が強いものが神託であれ検察でも自分の有利なようにできるのだ。だから今回も公正を追求すればそういう疑問をもったのは当然である。私自身は別に民主から金をもらっていないし公正を追求するとどうしても片手落ちだったと直感的に思ってしまったのだ。



マスメデアの時代は終わった

●マスメデアは明治からはじまった

江戸時代からふりかえるとマスメデアの世界は明治とともにはじまった。明治になり全国民向けのマスメデアが起こってきた。新聞であり雑誌であれそれらはマスメデアだった。その前に全国民に配布される新聞などなかった。そもそも国民という言葉、国民意識すらなかった。日本国民は存在しなかった。だから明治維新の時、西南戦争が起こり武士階級を残す西軍と政府軍の国民軍が戦い国民軍が勝ったことで武士階級は滅びたのである。その時武士でもない、国民が武士と戦い勝ったということで自信をもち新しい時代になったのだ。明治維新自体は武士同士の争いがはじまりであり民衆とか国民は参加していない、明治維新が遂行される過程で国民意識が目覚めてきたのだ。政府軍が税金を半分にするからと東北の農民に言って実際に実行したら薩長側についた。農民の意識は損得しかなかった。会津藩のように城と討ち死にするような意識は全くなかった。会津につくわけでもないし薩長につくわけでもない、事実会津軍は農民が薩長についたとかで無惨に遊女や農民を殺しているのだ。農民はどっちが勝ってもよかった。ただ税金を安くしてもっと暮らしが楽になることだけを望んでいたのであり薩長の政府がそうしてくれればそっちについただけである。ともかく江戸時代には国民意識はない、藩民意識とそれから村意識だろう。個々の村意識として共同体のなかにあった。その時のメデアは何かというと口コミであり民話の語り伝えとかが情報伝達の手段であり全国民に放送するマスメデアの正反対である。ミニコミメデアしかなかった。だから全国的なことを知ることはできない、関心は極狭い村とか藩くらいしかない、だから隣村から麦つきを手伝いにきた青年が大蛇だったとか隣村さえ相当な異境であり知られざる世界だった。でも現代のマスメデアの世界からそうした村の狭い世界の中で伝えられた民話などは文化である。村人は狭い地域で文化を創造してきたのである。

●マスメデアは文化を破壊してきた

県立一中学友会が校内での「方言」使用禁止決定、学校教育での罰札制度(方言札)始まる

沖縄で方言まで禁止され罰則まであり標準語の普及が行われた。これも文化の破壊だったのだ。江戸時代は隣の村とも言葉が違う、方言が違う、民情が違うということで明治になり村が合併できないということをしきり言われた。それほど多様な文化があった。その時そうしたものは文化ではない、標準語にして言葉も画一化して全国民意識をもたせることを優先した。明治時代は中央主権であり富国強兵であり重厚長大な全国民の統合が優先された。それで戦前にも世界大戦が二回ありそれも国民意識を高めたし次に太平洋戦争で国民意識は頂点に達したのだ。明治から太平洋戦争までは国民統合の富国強兵の欧米に追いつけ追い越せの時代であり情報も国民を統合するマスメデアが必要となった。それをになったのが新聞であり雑誌であり太平洋戦争前はラジオが大きな力をもった。そこで放送されたのも大本営発表の一方的放送だけだった。メデアは政府の強力な政治を実行するために使われていたのである。しきりにマスメデアのことを今はテレビ中心に言うてど実際は明治からはマスメデアの伝達一辺倒になっていたのだ。それは鉄道の発達とかでも強力に推進されたのである。この時江戸時代からあった多様な村々の文化は破壊されたのである。村の文化は戦後も高度成長からグロ-バル化と破壊され続けてきた。炭焼きとかあったときはまだ生産力が地元にあったから江戸時代からの文化の継続はまがりなりにあった。それでも文化は破壊されグロ-バル化で致命的に破壊されてしまった。江戸時代が今なぜ見直されるかというと江戸時代には多様な文化があったからである。織物にしても実に多様だし美しいものを地域で作り出していた。それらはすべて滅びてしまった。大量生産になりそうした文化は失われた。大量企画画一化生産はマスプロダクションも地域の文化を破壊したのである。マスプロダクションは画一化であり個性、文化の喪失だった。マスプロ教育も江戸時代の藩の教育であれ寺子屋教育と比べても大学生の画一的大量生産にすぎなかったのである。

●マスメデアから地域の個々のメデアへ(文化の時代へ)

若者はテレビを見ないテレビかなくなるとか議論されていたけどテレビほどマスメデアとして国民に影響したものはなかった。テレビは何より茶の間に入り全国民がテレビと一体化してしまった。テレビなしでは茶の間も成立しなくなっていた。でもそこで失われたものがあった。地域の文化は破壊されたのだ。なぜなら民話を創造した江戸時代の民衆の方が文化を創造していたからである。マスメデアの時代は大衆の時代でもあり情報でも消費するだけであり創造することはできなくなっていた。大衆は何であれ創造ということをしない、消費するだけの受け身の存在である。その受け身の大衆を洗脳するのに一番力を発揮したのがテレビだったのである。民衆はフォ-クロアとして文化として残ったように地域で文化を創造してきた。マスメデアは大衆を洗脳する一方的メデアとして情報の消費者になった。民衆側からの創造はなかったのである。今インタ-ネット時代になると逆に地域とか個々人から発信できるから創造が起きてくる。今まではテレビであれ新聞であれ出版関係でもマスメデアだった。だからどうしても大きな組織をバックとして一方的に放送される。宗教団体であり大企業であれ政党であれ背後には大きな組織があってそのためにマスメデアは使われマスメデアには宣伝費が入ってきた。戦後もマスメデアの時代はつづいてきた。それが宗教団体とか大企業になったのである。それらはすでに政府以上に力をもつ存在となっていたからである。民主党さえある新聞を金で買収して宣伝機関にしようとしていたり創価など地方新聞社に聖教新聞を刷らせて金をばらまき宣伝機関にしているし出版や書店もそうした大組織に金の力でおさえられる。書店も本が売れないとなると宗教団体の宣伝の本をおいて信者に買ってもらうということで書店を存続させる。それほど苦しい状態にもなっている。テレビでも今やパチンコの宣伝やら宗教団体の宣伝を堂々としている。マスメデアの放送には金がかかるからそうならざるをえないのである。

●マスメデアからミニコミメデアへ文化創造の時代へ

今時代的に何が起こっているのか、何が志向されているのか、明らかにマスメデア、大量規格生産、高度成長時代の価値観は否定される。これはメデアにも起こっているのだ。大河ドラマでも信長、秀吉、家康を放送している時代は終わった。歴史的に興味をもつのは地域的なものになっている。常磐線の末続駅におりて歩き興味をもったので相馬郷土史研究で書いた。こんな一小地域にも歴史があったと発見したのである。相馬藩と岩城平藩の興亡があったのだ。ここをテ-マにして一遍の小説、物語を作れると思った。小説家だったら書いていただろう。それだけの物語があった。江戸時代にはそうした狭い地域に根ざして濃密に人々はかかわり生きていた。そこには新妻一族の村だったことでもわかる。墓地も新妻の姓が九割だったからである。他から出入りがあまりないから新妻という姓がここに継続されてきた。今やそういう江戸時代の狭い地域とかに興味を持つのでありグロ-バル化と正反対の志向が逆に出てきている。グロ-バル化とはこれも文化の破壊であり画一化、大量規格生産の時代であり文化の破壊だった。どこでもハンパバ-グやコカコ-ラの時代であり地域の食の文化の破壊だったのだ。グロ-バル化は世界的多様性の文化の破壊だったのである。文化というのがどうして育くまれるのか、例えは仏教というのはインドから中国、韓国を経由して伝えられた。インドから直接日本に伝えられたのではない、そのことで独自の仏教文化が創造された。中国の仏教と韓国の仏教と日本の仏教は違う、その土地を経由する中で時間の中で独自の仏教文化が華開いたのである。それは一様な文化ではない、日本独自の仏教文化が華開いたのである。その土地を国を経過するなかで仏教もそれぞれの風土に適したように変化したのである。それが文化なのだ。コ-ヒ-でも様々なコ-ヒ-に変化したのもそのためである。所変われば品変わるのが文化だったのである。インタ-ネットで郷土史や地域の発信なされるようになったのもマスメデアからミニコミメデアへの文化の創造への変化である。中世に戻るとかいわれるのもそのためである。グロ-バル化はあるところに物質的豊かさをもたらしたりなお世界中で飢餓の人々が無数にいるとか文化は破壊され精神的な豊かさをもたらしたとは限らなかった。文化を創造したわけでもない、世界的規格化画一化も同時進行していたのである。



フロ-型移動型文明からストック型定着文明へ

●車はフロ-型移動型文明のシンボル的なもの

フロ-型文明とストック型文明とについて書いたけど移動型文明と定着型文明もある。現代はすさまじいほどグロ-バルなフロ-型文明であり移動型文明だった。交通の発達が拍車をかけた。今回の高速道路一律千円とかで景気を拡大させるというのもそうである。つくづく今の社会は車中心に回っている。車を作る方も売る方もまた利用する消費するのも車真中心だからこそトヨタが大きな存在であり国家をも動かす、もっと車を利用しやすいようにしろと高速道路をさらに作らせる。そのマイナス面は考慮しない、今回の高速道路の千円の利用にしてもマイナス面は語られていない、その税金を負担するのは全国民であり車を利用しない人も負担するということや交通事故がふえるという指摘もあるが車社会では車利用のマイナス面は語られないのだ。むひろ語らせないのである。シャッタ-通りができようが交通事故が起きようが車社会になっている現状を否定することはできない、景気対策が車中心に回っていたのもそのためだった。
それは文明自体がフロ-型であり移動型になったからである。その対極にストック型文明と定着型文明があった。ストック型、定着型文明は農山林漁業などであった。派遣切りなどの問題で農業が注目されたのはこうしたフロ-型ストック型文明から再び定着型農業文明にシフトする変化だったと思った。でも一面現実はフロ-型移動型文明が主要なものとして車中心に回っている社会ではどうしても車中心の志向が起こり現実に国の政策もそうなってしまっていたのだ。

●現在の百年に一度の不況の意味するもの

現在何が起きているのか、百年に一度の不況とか言われる。それは一時期ではない、そもそもこれまでの文明の変換に直面している。そういう大きな変わり目だということを認識する必要がある。明治百年以降は富国強兵であり海外への拡張路線であり外へ外へ領土も拡大化路線をとった。そういう拡張型路線は秀吉の時代にもあった。論功行賞で与える土地がないから朝鮮に進出して土地を与え論功行賞とする目論見だったのだ。そうした海外の拡張路線は失敗した。その後何が起きてきたのか、家康の徳川時代の鎖国だった。それは国内で自給自足する経済である。国内の資源であり人材でありすべて有効にして無駄のしない活用であった。文化的にも安土桃山時代の豪壮なものから地味な質素倹約の徳川時代に移行した。ストック型定着型文明になった。その質素倹約の時代が三百年もつづいたのだ。日本がそういう特殊な時代をもったという意味はある。その後明治維新になるとまた海外進出や重厚長大の富国強兵の文明となって行った。そこで満州への進出があり世界大戦へ巻き込まれた。拡張路線の海外進出の結果として日本は敗戦を迎えた。しかしでは戦後それでフロ-型、移動拡張増大型文明が転換したかというとそうではなかった。以前として今度はグロ-バル経済として経済の分野でフロ-型移動型文明は拍車をかけたのである。日本に世界の食料が集るようにフロ-型移動型文明は企業でも起こり海外へ工場を建てることなど拡張路線はつづいたのである。高度成長時代は大量生産しして大量消費して景気は拡大化してゆく、その一番の要が車だったのである。車が生産消費の最大の担い手でありそれによって鉄道の交通網は新幹線は別にして衰退したりシャッタ-通りができたりと車中心の世界はさらに拡大化してできあがったのである。

●ストック型定着文明は長くつづく

フロ-型移動型文明はしかし今転換を迫られているのだ。フロ-型移動型文明はどうしても環境破壊や世界的にもマイナス面が増大したのである。資本主義自体がやはりフロ-型移動型文明を基にしている。ストック型定着文明とは根本的に違う、資源でも世界に求め開発して世界にフロ-させることが目的なのである。社会主義はストック型定着文明に適した思想だった。だから中国とソビエト連邦がマルクス主義を利用したのである。そこは農業中心の社会だったことでもわかる。フロ-型移動型文明をやはり商業工業中心の社会になる。資本主義的フロ-型移動型文明は環境を破壊して自然を消耗する度合いが大きいのである。ストック型定着文明は例えば大地を基にして土を利用して一定の土地の再生産が基本であり自然を消耗させない、資源は土であり水であり太陽でありエコロジ-を基本としている。石油とか原子力とかをエネルギ-としていない、それらはいづれ枯渇する。石油文明はいづれ転換を迫られる運命にあった。現代の文明は石油文明によっていた。自動車中心の社会になったのも石油があったことにもよる。フロ-型移動型文明は石油に依存してもいたし石油によって推進されたのだ。石油が高騰してサ-チャ-ジとかで飛行機の運賃が高くなると海外旅行も激減したことでわかる。フロ-型移動型文明は石油の値段に影響されるのだ。石油が枯渇するとフロ-型移動型文明も転換を迫られる。ストック型定着文明に変わらざるをえない、そうした文明は過去にあった。むしろ歴史的にはストック型定着文明が主流だった。エジプト文明はまさに三千年つづいたストック型定着文明の見本なのである。ストック型定着文明だからこそ三千年つづいた。そのエネルギ-はナイルの水と大地、土の養分と太陽でありエコロジ-だから長くつづいたのである。文化的にもピラミッドは定着文明の安定性の故に作られたのである。十年周期で景気が株があがったりさがったりとかが経済の指標ではない、千年単位の気候が星の位置が指標となっていたのだ。
明治維新の百年は凄まじい変化だった。千年の時代の変化が一度に起きた感じでさえあった。そういうことは今までなかった。ロ-マ帝国がありこれも拡大成長フロ-型移動型文明だったがその後は中世になりこれはストック型定着文明になりその時間も長いのである。中国でも基本的にはストック型定着文明なのである。

●安定したストック型定着文明の文化創造の時代へ

今時代はどういう方向に向かっているのか?それは文明の根本的変革の時代に入った、また回帰の時代に入ったことを認識するべきなのだ。成長拡大フロ-型移動型文明からストック型定着文明に移行するか変わり目なのである。もちろん成長拡大フロ-型移動型文明だったからその延長の時代は当分つづくからこそ車中心の景気浮揚対策がとられる。でもそれによって景気浮揚にはつながらないしそもそも景気はこれから良くなることはない、拡張増大経済から収縮する経済、ストック型定着文明に移るからである。文化的にもそうなる。めまぐるしいフロ-型移動型文明もからストック型定着文明の落ちついたものとなる。それは高齢化社会ともマッチした文明である。高齢者はどうしても定着でありストック型文明に適している。あまり変わらない社会に適している。ストック型というより老人はストックした知識とか経験とかを語るのでありもう移動することはしたくないのが普通なのである。だから老人型成熟文明ともなる。それは衰退文明ともなりうるがやはり文明の転換だからいちがいにそれらをすべて悪いものとすることはできない、車中心志向の社会も変革が迫られているのだ。車が作っても売れない、車をもっと使いとか車を作る方も利用する方もその促進を迫る時代は終わりつつあるのだ。車をそんなに作り利用させること自体が時代に逆行するものとなっている。そうしたモノに価値を置く時代からフロ-型移動型文明からむしろストック型定着文明に移動して精神を内面を充実させる文化文明に移行しているのだ。ストック型定着文明も一つの生き方でありそこに生の充実は見いだされるのだ。ピラミッドは単なる大きな建造物でもない、精神的シンボルとしての定着文明の象徴であり精神の星しんと符号した安定的瞑想的シンボルだったことでもわかる。現代はすべて物質化されているが文明はヨ-ロッパの石の大聖堂のように精神的シンボルを作り出ししてこそ文明なのである。現代文明は総合的にそうした精神的シンボルを作り出すことがなっかた。ただグロ-バル経済として株価に世界中が一喜一哀していることでもわかる。金がすべての指標になってしまったことでもわかる。それゆえ過去の文明よりエジプト文明やロ-マ文明やキリスト教文明やイスラム文明より劣っているともなる。

●欲を減らす、制御なきフロ-型移動拡張文明の危険

今必要なことは生産消費をただひたすら増やし拡大することではない、かえって欲を減らし制御する思想が政策すら必要なのだ。そんなことしたらみんな飢え死にしてしまうと言う人もいるがそれは適正規模になるための生みの苦しみかもしれない、社会が適正規模以上に増殖して拡大したらそれ自体が恐竜のように巨大化した故に滅びることではないか、恐竜は巨大化する故に滅びる、すべて巨大化するものは突然その巨大化したものを維持できなくなるので滅びるのである。そういう文明のシステム自体維持できなくなりバベルの塔のように崩壊するのだ。認知症になったように高度な知性の人がかえって症状が進むというのもそのためだろう。認知症もまさに脳の知性の崩壊だから文明の崩壊とにていた。あまりにも無惨な人間の尊厳の崩壊だった。最後まで自分は優秀だったと言い続けていたのも悲惨だった。まさに文明も最後はそうなのかもしれない、あれほど知性を誇りにした文明は何故か滅びてしまう、維持できない、それはやはり神の知恵によらず自らの知恵を頼りにした文明の人間の傲慢の結果かもしれない、人間の科学もまた人間の傲慢さを助長させたものでありそれも神の知恵から比べるばとるにたらないものでもすべては科学により解決する、老化もふせぐことができるとか幻想を抱かせる、神の御意に逆らう人間の文明はあるときもろくもバベルの塔のように神の怒りをかい滅びる。それは認知症にもあった。あれだけ優秀なものが最低のものとして人間ならざるものとして呻吟して遂には死にいたり終わった。認知症と同じように人間の手で作り上げてきた文明も崩壊する。

その誇りも尊厳もなみされてただその崩壊の前に茫然として佇むだけになってしまう。グロ-バル化することはすでに誰も全体を見渡せない世界になる。そこで適切な判断もできない、誰もできない、ただ何者かによって動かされていて制御できない、株価などの暴走も止めることができない、そして突然株価の暴落など破綻が起きて経済が破綻してしまうのである。つまり制御できないことは突然破綻する危険性が大きいことなのである。フロ-型移動拡張型文明は増やすことは推奨されるが減らすこと制御することは価値観に反するからしない、でもそこが危険なのだ。無限の増大、消費などありえない、それが今回のアメリカの不況で現実のものとなったからである。ギリシャの建築は神殿は回りの自然とマッチするように制御されて作られた。だから巨大なものがない、天をつくような塔もない、そういう技術がなかったというだけではない、自らの思想に文明文化に自然とマッチさせる制御の思想があった。それゆえに巨大な建物、塔を作らなかったともいえるのだ。現代の文明には減らす制御の思想がないことが突然今回のような経済の破綻とかの危険がでてくる。株価でもただ本当に数字を操作しているだけであり実体経済と遊離したものとなっていた。砂上の楼閣を築いていた文明だったとなる。



人間は集団でも個々人でも奢(おご)る時危険-神の罰が下る

●人間の仕事は仕えること

いつも通る道の池の脇にある一本の松は目立つから見ている。でも良く見たら細い松が向かい側にあった。この松は細いから目立たないから注意していなかった。ここを毎日のように通ってもこの松を認めていなかった。人間はこういうこと良くある。目立つものは関心を払うが目立たないものは関心を払わない、主役は関心を払うが脇役は関心を払わないし、さらに端役となると全く関心をはらわない、ところが人間社会でもみんな主役になるわけではない、主役になるには主役をひきたたせる脇役や端役が必要なのである。自分は主役になれない、脇役とか端役になる。人に命令することが一番苦手なのだ。命令されている仕えるのに向いている。忠実な下僕になるのが向いているのだ。女性の役割が夫とかに仕えることだとすると女性的だとなる。でも仕事は事に仕えるとあるごとく仕えること奉仕することでもある。医療関係、看護、介護は特に直接的に人に仕える仕事である。具体的に相手はモノではない人だからわかりやすいのである。宗教は信仰は何か?それは仕える事であり謙虚になることである。どこまでも謙虚になる、上にたたない、下につくことなのである。またそういう立場にあることなのだ。これは一つの修行として訓練としてやるべきものなのかもしれない、だから老人の介護なんか無駄だとか能無しがやる土方だとか言っているが間違いなく謙遜を人に仕えることを学ぶ、修行することでは徳を身につけることになるかもしれないのだ。逆に一般的に能力ある人は仕えるとか下について働くという意識がない、能力あるが故に医者なら神様のようにまつり上げられ患者や看護婦を仕えさせる。だから医者には一番傲慢になっている人が多いのだ。医者には変な人が多いとのは本当なのである。他にも能力ある人は威張って人を仕えさせるというのが多い。自分の能力に奢ることが多いのだ。そこに危険性があったのだ。奢るというとき別に特別地位あるとか能力あるとかではない、庶民のなかにも奢る人はいる。身内でもいたから家族のなかでも奢る人はいる。そういう人は家族のなかでも社会でもいろいろ貢献した人である。でも最後は無惨だったのだ。

●人間は極めてもろいもの

金がもっているひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろっとやられる
あたまのいいものはあたまがよわい
あてにするものはみんなあてにならない


宮沢賢治となると能力に恵まれ金にも恵まれ様々なものに恵まれた人だった。しかしこういうことを書いているのだからやはり普通の人とは違っていた。からだの丈夫なひとはごろっとやられる。本当に突然に倒れる、ごろっとやられるから病気は怖いのだ。

あたまのいいものはあたまがよわい
あてにするものはみんなあてにならない


これを姉の死でまざまざと見たからだ。姉は学校も一番であり自分でも頭がいい優秀だと言っていた。それが死ぬ直前まで自分では頭がいいと言い続け頭が実際は馬鹿になったのだが頭がいいと思って死んでいった。馬鹿になって死んでいったのだか認知症になると自らが馬鹿だと意識できなくなるからそうなった。これもあまりにも悲しいことだった。オレは人一倍頭が良かった、認知症になっても頭がいいと病気だから思いつづけて死んでいったのである。そこまで自分が頭がいい優秀だと思いつづけることは異常なことだった。何故なら自分などは学校では全く劣等生だしスポ-ツもだめだし生来駄目なことばかり自覚させられた。社会に出てもまともに職につけないから駄目人間である。だから優秀だなどと思ったことはないし、才能も、体力もたりないたりない・・・絶えずそう思って老人になっている。だからそんなにまで自分が優秀だったとこだわりつづけること自体理解できないのだ。リア王の最後にもにていたのだ。もちろん病気のせいでそうなったにしてもそこまで頭がいいということにこだわること自体異常である。体も太っていて丈夫な人だった。太っていても体がきく、運動能力がある、機敏なのである。スポ-ツ選手にもなれた健康優良児のような人だった。だから自分でも何でも優れていると思っていたのである。それが認知症から今度は脳卒中になりごろっと体がやられて全くだめになった。そしてうめくように毎日病院のベットで泣いていた。涙を流す泣き方ではない、異様なうめくような泣き方であった。だからこうして全く白から黒へ一転してしまった姿をみて今でも信じられない、唖然としているうちに死んでしまったとなる。人間がこんなふうに変化してしまうのかという驚愕が未だに信じられないのである。 これは別に特別な例外的なことでもない、人間が老人になるとこうなりやすいのだ。認知症は老化の極端化した例だから誰にでもなりうるのだ。人間とはいかにもろいものか、ごろっと体がやられ・・・あたまがいいのもあたまが弱い・・・・まさにこれだった。頭があれだけいい賢治がそう思っていたことはやはり並の人ではないことがこれでもわかる。どうしても普通だったらおごるからである。いづれにしろ人間の最後は無惨である。最後はみんな敗者になるのだ。生老病死があって老病死には勝てないのである。医療がいくら発達しても多少寿命を延ばしたり治療もきるが本質的には人間の老化から来る病気は直せないし死も防ぐことはできないからだ。あてにするものはあてにならない・・・・最終的にはそうなってしまうのだ。

●奢れるものは久しからず-歴史も同じ

認知症にはレ-ガン大統領もサッチャ-首相などもなっいるからその姿を見たら驚愕するに違いない、ええ、これが大統領やあのサッチャ-首相なのかと・・・・それも信じられない姿になっている。認知症、アルツハイマ-は記憶できないというだけではない、確実に知能低下するから知的障害者になるから悲劇なのだ。ネブガデネザル王(ダニエル書)も奢り同じような知能障害者になったから昔から権力者でも頭のいい能力のある優秀な人も一転して知的障害者になった例はあった。ただ認知症は高齢化でふえたから特別な人ではない、一般人でもなることが目立つようになった。高齢化社会というのはこうして社会的に地位があり頭がいいとされた人が認知症となりアルツハイマ-となり無惨な姿になることを多く目にする、身近に接する時代なのである。
人間社会というのは昔から奢れるもの久しからずとか歴史的に語り伝えられてきた。奢ることに確実に神の罰があった。日本人の戦争の原因も軍部もそうだが国民にも奢りがあった。アメリカ人の強大さをあなどっていたのである。井の中の蛙だったのだ。その奢りが悲惨な結果を生んだのである。こういうことは世界の歴史上いくらでもある。アメリカもすでに奢りのゆえに凋落しつつある。金融で金を操作して世界から金を集め濡れ手で泡の暴利を貪っていた。何百億の金が労せずして入るのだ。一方では毎月3万の家賃を稼ぐためにあちこち掃除やら手伝いしたり農作業したりして稼いでいる女性がいる。自分の家でも掃除してもらっている。こうした人は正当に働き報酬を得ている。でも財産あれば手伝いのような仕事は誰もしないだろう。こういう人の方が現実には人のため世のためになっている。何百億という金を労せずして稼ぐ人がいること自体、その金は世界から貧乏人からも収奪した金である。そんなことが許されるのか?毎日やっと食べている人が膨大な数いる。その人の前に何百億の金が一日入ってくる人がいることの格差は異常である。その何百億を貧しい人に与えればどれだけの効果があるのか?それはやはりアメリカという巨大な国があって暴利を貪ることができた。だからやはりアメリカという国は神の罰を受ける。そんなことを神が許すはずがないからだ。

この世の中を支配するのは人間ではない、そこに神の介入があり奢れるものを罰する、だから戦争でも力あるものだけが勝つとは限らない、ベトナムでアメリカが負けたのもそのためである。奢れるアメリカも凋落しつつあるのだ。つまり人間社会は全体でも奢ると神の罰がくる、個々人でもそうであった。人間は人間の力ではどうにもならないものがある。歴史にも神の介入がある。アメリカはあれだけ圧倒的な軍事力でもベトナムに勝てなかった。これもアメリカの奢りだった。平家も今川家も奢りによって滅びた。国でも組織でも集団でも必ず奢りがでてくる。トヨタでもあれだけ会社が大きくなるともはや国より力があり奢りがでてくる。トヨタの言い分が何でも通るとまでなる。そこに派遣切りなどの経営者の傲慢があった。指導者の傲慢が怖いのはその下で働くもの国民に甚大な影響を及ぼす、実際戦争で国民の膨大な命が失われた。国民にも奢りがあり指導者にも奢りがあり悲惨な結果を生んだのである。人間は奢りが命取りになるのだ。だから神は予言者を選ぶとき天才のような優秀な人を選ばず無能な普通の人より劣った人を使ったのである。なぜならそういう人は自らに誇ることがないからだ。そもそもそういう資質がない人だから誇りえようがないからだ。宗教でも何でも果たして集団は権力だから集団の力で何でもできるのか、その時集団に奢りがあり集団は危険なものとなる。そうした集団は暴走するからだ。日本の陸軍がそうだったのだ。要するに人間を過ちに導くものが奢りなのである。だから常に神は奢りを戒めてきたのである。「庶民の王」だなどと言っている人もその最後は無惨になる。もしかしたら認知症気味になっているのかもしれない、極端に上にあげられたものは今度は極端に下になる、その落差が大きいから悲劇なのである。普通、平凡だったらそんなに落差がないから衝撃も少ないのである。

●人間を無能化するのも神の業

主は殺し、また生かし、陰府(よみ)にくだし、またあげられる
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くさせられる(サムエル、上、二−六)


こういうことはいつの世でも起きている。一代のうちにかつて栄えた所が見る影もなくなっいる。特に今の時代は変化が激しいから一代でその変化を見る。普通なら二代、三代で必ず栄えたものも衰退している。認知症にさせられたのもこれほど人間が低くされるものかという驚きでありそのまま、陰府(よみ)にくだし・・・・で死んでしまった。これは別に悪い人とか罪が特別ある人がなるわけでもない、キリスト信者で単なる形式的ではない有名な指導者もなっている。信仰とは関係なくなっている。人間はいくら知能を誇ってもその知能も虚しいものだということが認知症に接してまざまざと見た。最後はただ馬鹿になって死んでしまったという衝撃である。どんな優秀な人も知能を誇っても最後は馬鹿にされて陰府(よみ)にくだし・・・となると人間は悲惨すぎるとなる。

わたしはわらべをたてて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる-イザヤ3-4

これは指導者はどうしても奢るから奢らないものを上に立てようということでこんな考えられない言葉が聖書に出てきたのである。権力をもったら奢らない人はいない、そもそも権力を求める人だからこそ奢るのである。わらべは権力を求めていないから奢ることはないのだ。権力者は革命を起こして政権をとってもそのあとスタリ-ンであれ毛沢東であれ粛清して容赦なく敵対者を抹殺した。非情冷酷な人間しか権力を手にすることができないのだ。革命も革命の目的より権力をとることが目的となっているから常に堕落する腐敗するのだ。


弱者は常に食い物にされる(認知症(アルツハイマ-)の家族の悲劇)