大原を回想して 小林勇一作

大原というとバスで一時間というとかなりの遠さだった。これも数十年前だからよく覚えていない、ここを草履履きで虚子が歩いて行ったというからその遠さは一段と感じたろう。大原は歩いたら相当な距離である。バスで一時間としたら一日がかりである。一日歩いて行くのとバスで一時間の距離の感覚は全然違う。この距離の感覚の喪失が昔をわからなくさせているのだ。ここに来た文人の俳句とか短歌を調べるといろいろあるが大原という世界がイメ-ジされる。インタ-ネットで調べてもあった。最初に長塚節の短歌を見つけた。

粽(ちまき)巻く笹のひろ葉を大原のふりにし郷は秋の日に干す

(ささの葉などにくるんで蒸したもち菓子。端午の節句に食べる)  

鴨跖草の花のみだれに押しつけてあまたも干せる山の眞柴か

あさ/\の佛のために伐りにけむ柴苑は淋し花なしにして

鴨跖草(つゆくさ)に衣色どり摺らめども移ろふ色といふが苦しさ(万葉集)



長塚節は農民だから農民的な歌が多い。農民として実際に働いていたから生活感覚から生まれた写生が生きている。だからこれは文人的でなく生活に注目したのだ。自分は文人的になるからあういう歌を作るのはむずかしいのだ。詩にはその人が生活しない限り書けないものがかなりある。想像だけでは書けないのだ。今では小説より実体験から書いている日記の方が面白い場合がある。何故なら小説は誰かの体験を基に書いているからだ。小説だって写生が写実が基本なのだ。ありもしないことから何も書けないのだ。つゆくさには奇妙な字をあてたものだ。これも何か意味あるのかもしれない、柴に注目しているのは柴が燃料として欠かせないからだ。ガスや電気も使っていない時代だった。大原女はその昔、手甲・脚絆をはめ白足袋をはき紺衣を着て、頭上に薪や柴をのせて黒木を売り歩いていた。柴を売っていたからここで柴が目立つことは生活の継続があった。柴というのは今あまりあじみがなくなっているが生活に欠かせないものだった。

いにしへも 夢になりにしことなれば 柴のあみ戸も久しからじな 建礼門院御歌

ここにも柴がでてくる。柴がいかに身近だったかわかる。

炭がまのたなびく煙ひと筋に心細きは大原の里   寂然


今でもかなり心細い感じがするから隠棲の場所にはふさわしい、それにしてもあそこから京に来るには一日がかりである。大原女というがあそこから売りに来るとなると大変だ。生活感覚的にはかなりしんどいことであり情緒的に見ただけではわからない。京まで売りに来る生活感覚がわからないのだ。京では燃料が不足している、燃料になるものがなかったことは確かである。でもかなり遠すぎるから地理的なものがわからないから理解しがたいのだ。相馬で言えば飯館は相当な山の上だから遠い感じだがバスで一時間となるとそれより遠い、こうした距離の感覚は地元の人でないとわからないのだ。
ただ「奈川村は畑耕作や牛飼のほかに、曲物を作ったり素木を作ったりすることが盛んでそれを牛で群馬県から江戸まで運んだという」(宮本常一)思った以上、交通範囲が不便なわりに広かったということもあった。昔の人は平気で歩いた。かなりの距離を歩いたのだ。歩く他ないから歩くことが習慣になっているから苦にならないということもあった。

大原や野菊花咲く道の辺に京へ行く子か母と憩へる  木下利玄

この歌はバスで京に行く人ではない、歩いて行く人だろう。道の辺で休むことは歩いていればよくあることだから。京と大原へ通う道、それはその途中も視野に入れねばならぬ。バスで行くとこれも途中停まるバス停の名前が記憶に残るだけで忘れる。どういうわけか花尻というのを覚えている。しかしこれは花とはなんの関係もない、花は鼻であり突き出たところでその尻となる。花折という地名もあるがこれも花とは関係ないだろう。花は鼻であり出っ張った所でありそこを折れ曲がるという地形的なものである。

寂光院へ移られて幾日か過ぎた神無月(旧10月)5日の暮れ方、庭に散り敷く楢の葉を踏み鳴らす足音が聞こえてきました。「世を厭うて住まう所に、尋ね来るは誰ぞ。見ておくれ、次第によっては、急ぎ隠れましょう」とて、表を見ますと、人にはあらず、庭を駆け抜けて行く子鹿の足音でした。門院、「これはどうした事でしょう」と、驚きの声をあげられ、大納言典侍の局は涙を抑えて、詩を詠みました。
  
  岩根ふみ誰かは問はんならの葉のそよぐは鹿の 渡るなりけり

鹿がいたとういことはここがいかに京から遠い山奥であったかわかる。ここでまたわかることは後白河法皇は大原御幸の後、建礼門院様のご生活をお気の毒にお思いになり、平重盛卿の摂津国の領地を女院におつけになりました。また山城国葛野郡下山田村と山城国愛宕郡八瀬を領地としおりましたが、摂津国の領地はいつ消えたか分らなく、下山田村と八瀬領は、明治初年の廃藩置県の折、政府へ返納いたしました。
 寂光院で女院にお仕えになっていた女官は、阿波内侍、大納言佐局、侍部卿局、右京大夫、小待従局の五人で、女官方の古墳はいずれも翠黛山の麓にあります。
一人隠棲したのかと思うとこれだけの女官が一緒だったのだ。というのは身分ある人には相当な人が仕えていたからだろう。これだとそれほど寂しいというものにはならない、これだけの女官を養えたということも意外である。敗者には厳しいはずだからだ。そういえば山の中に局とかの地名が残っている所があった。そういう人たちが一族が住んだから地名化したのかもしれない、ここに五人も女官が仕えていたことは「局」(つぼね)という地名が残っておかしくない、かなりの生活の跡をここに残しただろう。というのはこれだけ淋しい場所に雅びな女性が六人も長く住んだことになるからだ。会津の
松平家の墓に三つ並んで側室の墓があった。戒名でわかった。それが何か今でも華やかな感じがした。五人も女官がいたことはにぎやかでもあった。女性は二人いただけでかしましいというかにぎやかになるからだ。三重県に局岳という山があるのもやはり京に近い関係かもしれない、局は郵便局とか局が使われたことは政治的役割があった。春日局のように政治的な影響力があったのだ。女性は政治とか歴史では裏方になるがこれも歴史だから調べると興味がわく、歴史は裏道の方から真実が見えてくることがあるのだ。

やがて、「夕陽(せきよう)、西に傾けば」、しめやかに「寂光院の鐘のこい、今日も暮れぬ」と聞こえてきました。

すぐ近くに山が迫っている。山陰になっている所は日が暮れるのが早い、陰になりやすいのだ。日影山というのが多いのはそのためである。そういう所は隠棲の場所にふさわしい。ここでは清らかな流れがほとばしり陶芸をやっている所があった。それに絵つけした。次のは自作である。

ほとばしる山の流れに落椿

大原に夕暮れに散る花あわれ老木一つ隠棲の跡

春の日の夕日のさして寂光院老木一つの影そ身にしむ

花びらの苔むす岩に散りつきぬ寂光院を我今日おとないぬ

寂光院に老木がありその影が本堂に写っていた。日が暮れやすいからそうなる。写真を撮ったのがなくなっていた。写真もなくなりやすい、写真はまた色あせてくる。パソコンに保存が必要だ。ただパソコンに保存しても消える場合があるからやっかいだ。とにかく意外と記録も残らないのだ。インタ-ネットで便利なのは今では必ず名所の場所の写真はある。あそこには池があった。それも覚えていない、ただ老木の影が一段と淋しいものに感じたのだ。あそこはやはり故事があり淋しい場所であり魅力ある場所である。だいたい地方ではそうした都から流されてきた貴種流離の伝説が各地にあるがあれは本当かどうかわからない、平家落人伝説もそうである。あれも作られたものが多い、明確な史実に残っているのものは少ないのだ。ここには明らかにその人が実在したという魅力は大きいのだ。今日おとないぬとしたのは何回も行ける所ではない、後白河法皇と会ったのも一回だけである。一回しか行けない所はかなりある。自分くらい旅してもそうである。昔だったら遠く離れていれば一回だけなのだ。だから今日おとないぬとしたのは今日初めて訪れたがあとはここには来ることがないという意味である。今日そこを訪れたことは感慨深いものであったのだ。もしそこで建礼門院に会ったなら「みちのくからよくおいでになりましね、京から離れたこんな山深い所に・・・」とかなる。確かに日本は狭いから行く気なら行ける。一回きりしか行かずついには行けずに人生も終わることもある。昔は遠いからそこに行っただけで感激は大きいのである。人生をふりかえり一番不思議なことは人間は家族すらついには分かれ永遠に会わない、分かれるという不思議である。老年になるとただ人は分かれるだけなのかということが身に沁みてわかる。ついには人だけではない、自分自身もこの世から消えてなくなる、永遠にこの世と分かれてしまうのだ。これも実に不思議なことである。老年から人生みるのと青春から人生を見るのとは全然違う、すべてこの世のことは過ぎ去ってゆく、一時の出会いに人は別れあとは永遠に出会いない、これが人生である。つまり若いときにはわからない人生の無常はみんな現実のものとなる、さけられない現実となるのだ。若いときはこれを現実のものとして認識できないのだ。時間などいくらでもあると思っているからだ。この世の時間がいかに限られて短いものか認識できないのだ。

うつし世の淋しさここにきはまりぬ 寂光院の苔むせる庭 吉井 勇

これなどはかなりの名作だろう。それにしてもなぜここが放火されたのだろうか、そのショックで住職が病気になり最近死んだとあった。さぞかし秘仏であったような仏像も火の粉をあびびっくりしたろう。余りにも有名になるとこうなるのだ。人が押し寄せてきてその中にはそういう人もでてくる。音無しの滝に行く所にも女性は気をつけろと看板があった。若い女性入り込んでくるからそれに目をつけ襲う奴もでてくるのだ。これも興ざめだ。ある意味で秘仏は公開すべきではない、必ず汚されてしまう。だから神は隠れたし目に見えぬものとなった。余りにも観光地化するとこうなることはさけられない、あらゆる場所が観光地化したしあらゆるものがコマ-シャリズム化しているのはおかしい。京都の寺から観光なくしたら今や何もないだろう。ただ魅力ある場所には誰でも行きたいからどうしようもない、来るなと言えない、金も落としてもらいたい、ただ宗教施設は本来観光の場所じゃないんだから矛盾している。そこは聖域なのである。汚れたものを拒むことが聖域なのだ。島でも実際あまりに人が入りすぎると生活自体乱される。キャンプというのが問題なのはそのためである。よそ者を嫌うことがわかる。一方で観光で金を落としてもらいたいというのも矛盾である。いづれにしろ日本ではキャンプは夏だけだし静かになるからいい、沖縄ではいつでもキャンプできるから何年もホ-ムレスのようになっている人がいるのだ。

とにかく京都も行った奈良も行った、京都については俳画のような写真とかでシリ-ズとしてスライドショ-化するのがいいが絵とかこうした連続ものを作るのは手間暇かかる、正月特集としてやってみるのもいい、旅のこと思い出してまとめる作業がつづいている。