陸奥の袖の渡りは石巻の説(小林勇一)



●袖の渡りは阿武隈川説がある

「袖」の付いた地名は、袖の湊、袖の浦、袖崎など類似のものも多く、地名の分野では「袖」は「ソト」より転化したもので、「外側」の意味であるといわれている。
川の外側にある最も海寄りの河口付近を指すとの解釈である。
袖の渡りは、石巻市住吉公園近くの北上川の渡りと比定されているが、桃生郡北上町橋浦の追波川の渡りや阿武隈川下流の渡りとの説もある。

阿武隈に霧たてといひし唐衣袖の渡りに夜も明けにけり 源重之

この歌は、陸奥守として赴任していた藤原実方に随行して、多賀城に在勤していた源重之が、阿武隈川の情景を詠んだ歌と考えられているが、歌の内容から「袖の渡り」が阿武隈川にもあったことが推測される。
ちなみに、東海道と東山道の交わる岩沼の玉前と亘理町逢隈を結ぶ阿武隈川の渡り場が「稲葉の渡り」と呼ばれ、その下流に当たる現在の国道6号線付近にあった
「藤場の渡り」
が、古くは「袖の渡り」と呼ばれていたともいわれている。歌枕の地と比定されている石巻の住吉公園前には、「袖の渡り」の地として石碑が建立されている。しかし、その根拠は明確な確証がないと石巻市史は記している。


阿武隈にも唐衣袖の渡りとあるから石巻の住吉公園がそうとは限らない、袖とついた地名は多いからだ。そもそも阿武隈の地名の謎は深い。

現在の「あぶくま」の地名は、平安時代の文献に「あふくま」と呼ばれていました。『三代実録』貞観5年(865年)の項で「阿福麻水神(あふくまかわのかみ)」が出てきます。この神は『延喜式』(912年)の陸奥国亘理(わたり)郡に出てくる、あぶくま川河口の「安福河伯(あふくかはく)」神社と考えられています。『延喜式』の「安福(あふく)」は、本来は「安福麻(あふくま)」であったろうと『大日本地名辞典』を編集した吉田東伍は言います。また「河伯」は『和名抄』に「かわのかみ」と記されいます。したがって「安福麻河伯」神社は9世紀には「あふくまかわのかみ」と呼ばれたと考えられます。仙台藩の『封内風土記』によれば地方民がこの神を「阿武隈河大明神」と呼び、昔は「阿武隈川神社」と呼んだと記しています。

あぶくま河口の「あふくまかわのかみ」のあたりは「逢隈(おおくま)」(宮城県わたり町)


亘理に逢隈という地名がありその名前が阿武隈に通じている。阿武隈山脈があるけどそもそも川の名前が変じて阿武隈山脈になった。最初に川が意識されてのちに山脈が意識された。第一最初に広大な阿武隈山脈を意識できなかった。最初に意識できたのは安達太良山であり万葉集にのっている。これもいくつかの連山であり一つの山ではない、だから阿武隈山脈という広大な地域を意識化できないのだ。でも江戸時代前から阿武隈の広大な地域は都の人に
意識されるようになっていた。

阿武隈や五十四郡のおとし水 蕪村

ともかく人間が最初意識化するのは狭い地域である。地名も自分たちが暮らす範囲で必要にかられて名づけられた。第一福島県とかみちのくとか日本とか大きなものになると意識化できない、ヤマトが最初の国名となったがこれも奈良の一地域の名前だったことでもわかる。ではなぜここが阿武隈全体の地名の基になったのか?それはやはり大きな川でありここを渡ることが人々に意識されることが多かったからである。川を越えることはさらにまた異境へ踏み出すことになる。峠を越えると別な世界が開けたように川を越えると別な世界が開けたのである。つまり今の時代なら川を渡ることはあまりに容易だから意識化されないのだ。今意識化されるのは駅名である。停まる度に必ず意識化される、皮肉なことに逢隈(あふくま-おおくま)が意識化されたのはここに新しく駅ができたからなのである。交通路として現代と古代がここで結びついたから意識化されたのである。ただ阿武隈川が都の人に意識化されたのは万葉集時代ではない、平安時代になってからである。万葉集時代は安達太良と真野の草原までであり緯度も一致している。そして南相馬市原町区の桜井古墳が巨大でありそこから北へ阿武隈川までは大きな古墳もないのである。大和政権の勢力が文化が原町区と真野地域までは集中してもそれから北へは伸びていないのだ。だから阿武隈山脈という広域地名が意識化されたのか謎である。
ではここが袖の渡りなのか?これも今になるとわかりにくい、平安時代に袖の渡りが都の人に意識化されたとなるとすでに阿武隈より奥地であり平安時代は松島はすでに名勝として知られていた。だから私の感としてはここではない、石巻なのである。

●川は交通路としてあった

みちのくの川もそそぎぬ夏の海-自句 」この句と「暑き日を海にいれたり最上川-芭蕉」はにている。つまり最上川は船運の交通路としての最上川であり単に自然の水がそそぐだけではない、人が川を通じて海にでてゆく道である。実際に日本海は北前船の交通路だったし関西まで交流があり関西の文化が日本海に色濃く残したことでもわかる。だから酒田は川と海が交わる場所として栄えたのである。

新米の酒田はやしや最上川 蕪村

北上川も石巻にきて海に通じそこから大海に出て江戸や関西との交流があった道である。暑き日とは自然が暑く燃えているのだけではない、人間が川を通じ海に入り暑いのである。川は交通路として役目がなくなり現代では死んでいる。当時は川は人間と共に生きていたのだ。みちのくの川も活きていた。大海にそそぎ江戸や関西と結びついたのである。文明が四大河川から生まれたように川の役割は日本でも大きかったのだ。

鳴瀬川朝にそそぐや夏の海

途中電車から見た川は鳴瀬川であり真近に夏の海にそそいでいた。鴎が一羽まぶしくその夏の海から飛んできた。

●袖の渡りは石巻の説をとる所以

伝説として、源義経が奥州に下向したとき、舟賃の代に片袖を与えたのが「袖」のはじまりと伝えられているが、和歌の成立年を考えると時代の相違が感じられる。 しかし、この公園前の道路は平泉へ通じる「一関街道」と呼ばれている古道であり、かっては人の往来とともに、北上川を遡って平泉へ物資を輸送する水上交通の要衝の地でもあったようだ。

伝説の逸話はともかくとして、源義経も通った道路であったかもしれない。 また、公園前に御島という小さな島があり、その北側の川面に見え隠れしている巨岩がある。 昔このあたりが入り江であった頃、潮の干満のつど、この石に激しく潮流が当たり、渦を描き分けたと言い、「巻石」と呼んでいる。 この「巻石」が石巻の地名の発祥と言われている。 芭蕉は、この巻石を見ながら平泉へ曾良と共に旅したことであろう。


◎とこもふち淵も瀬ならぬ涙川袖の渡りはあらじとぞ思ふ(清少納言)

◎知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」)

◎涙川浅き瀬ぞなき陸奥の袖の渡りに淵はあれども(藤原行家「夫木」)


初の句会は9月13日、住吉町の袖の渡に桃生郡深谷鹿又村の知人の有隣こと角張弥右衛門や、暉道、義質(よしまさ)などが集い、十三夜の観月に興じて和歌を詠みます。 14日には歌枕の地として有名な「真野萱原」の見物にさそわれ真野村(稲井町)に出かけています。 真野萱原へは住吉町の袖の渡から北上川を船で遡り、真野川に入り、真野小島の「舟場」で下船してそれから先は歩きです。 真野萱原は、真野村の曹洞宗舎那山長谷寺が疑定地のひとつとされて同寺に片葉の葦(アシ)として有名な池があります。 ここでも月見をしながら、「かへるさの月をやどせつゆふかき真野のかやはらわけしたもとに」の和歌を詠み、戌の刻あまり(午後8時過ぎ)に帰宅します。
( 真澄遊覧記)


◎たよりある風もやふくと松島によせて久しき海人のつりぶね(清少納言)   

都合の良い風が吹くかと松島に寄せてずっと待っている海人の小船のように私もあなたからの良い便りをずっと待っています

平安時代はすでに松島が名勝として都の人に広く知れ渡っていたのだ。たよりある風が吹く松島なのである。松島が知られるならその奥地の石巻こそ平安時代なら袖の渡りにふさわしいとなる。だからそもそも石巻が真野の草原ではありえない、万葉集時代そんな奥地まで都の人々は入って行かない、歌枕の地になるほどはみこの人は入って行かない地である。ただ黄金花咲くとした涌谷までは黄金を求めて入って行ったのである。石巻は芭蕉が旅した時代ですら相当未開の奥地であり芭蕉は石巻を良く知らなかった。

知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」

道の奥まで深き思いをとなると阿武隈川の渡りではなく石巻となるのか、阿武隈川から石巻となると距離が相当あるから平安時代以降の道の奥は石巻がふさわしいとなるかもしれない、江戸時代でも石巻はそんなに知られていなかった。芭蕉の文ではそうである。突然繁華な港町に出たので驚いたのである。江戸時代は地方については実地に見聞した人は少ないからそうなった。江戸なら話を聞く人もいたはずだがそういうこともなかった。すべて人づてて情報を仕入れていたらやはり地方のことを詳しくしることはむずかしかった。

 十二日、平泉と心ざし、あねはの松・緒(を)だえの橋など聞き伝へて、人跡(じんせき)稀に、雉兎(ちと)・蒭蕘(すうぜう)の行きかふ道、そこともわかず、終(つひ)に道ふみたがへて、石の巻といふ湊(みなと)に出づ。「こがね花咲く」とよみて奉りたる金花山(きんくわざん)海上に見わたし、数百の廻船(くわいせん)入江につどひ、人家地をあらそひて、竈(かまど)の煙立ちつづけたり。思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。やうやうまどしき小家(こいへ)に一夜をあかして、あくればまたしらぬ道まよひ行く。袖のわたり・尾ぶちの牧・真野(まの)の萱(かや)原などをよそめにみて、遥かなる堤を行く。心細き長沼にそうて戸井麻(といま)といふ所に一宿して、平泉に至る。その間廿余里ほどとおぼゆ
(奥の細道)

石ノ巻中不残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハ「渡波」ト云)・遠島(牡鹿半島のこと)・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。(「随行日記」)


雉兎(ちと)・蒭蕘(すうぜう)の行きかふ道・・・という道である。今でも松島から奥になると石巻へはそういうことがイメ-ジされる。ここはまだ家が少ないから当時をイメ-ジされる。宮城野はすでに家が密集して全くイメ-ジすることは不可能である。昔を知ることはその場所を知ることである。だから極力その場を踏むことが昔を知ることなのだ。だから歴史を昔を知るには地理が大事になるのだ。その場所は何千年も変わっていない、ただ昔海だったところが平地になっているという大きな変化はある、でもその地点が何千年たっても消えることはないのだ。海の底になっても過去にあった地点は消えないのである。だから何千年たってもその場所からイメ-ジされるものは共通なものをもつのである。

●袖の渡りを石巻にした所以(詩的イメ-ジから)

古の袖の渡りや松に藤

夕藤や袖の渡りの松古りぬ

石巻海より朝の風そよぎ船の泊まりて藤の花垂る

藤垂れて袖の渡りの松古りぬ袖の渡りに夕風涼し

夏の日に袖の渡りに我がよりぬ芭蕉もよりし社の古りぬ


詩的イメ-ジから歴史を考察することは危険なことがある。現実と詩は違っている場合がある。詩や小説は創作である。でも人間の創作はすべて事実を基にしているのだ。事実から伝説や昔話ができた。袖の渡りに自分が立ったときそこがやはりなんともいえず袖の渡りに思える場所だった。当時の面影が色濃く残っている雰囲気があった。これは霊感である。つまりその場所は変わっていないから昔を知るのにはその場所にとにかく自ら行って立つことが必須なのである。住吉神社に詣でたということはさらにその感を強くする。ちょうど今の時期、そこに藤の花が咲いていて古い曲がった松や古い神社がありいかにもそういう感じが直感的にしたのである。住吉地域が江戸時代には東北の藩の倉が建ち並んで船が出ていたところだから歴史的継続として重要な地域だった。所以とはまさに所-場所が基となっているのだ。ただここで不思議だったのは

東海道と東山道の交わる岩沼の玉前と亘理町逢隈を結ぶ阿武隈川の渡り場が「稲葉の渡り」と呼ばれ、その下流に当たる現在の国道6号線付近にあった
藤場の渡りが、古くは「袖の渡り」と呼ばれていたともいわれている

藤場の渡りとはここにも藤が咲いていたせいなのか、なぜ藤場となっていたのか?渡り場には藤の花がなぜかあっていたのである。

我が宿の藤の色こきたそがれにたづねやは来ぬ春の名残を(源氏物語-藤裏葉の巻)

藤の花は日本人にとってはなじみ深い花である。藤の花は福島県の浜通りではすでに散っていたが松島から石巻まではまだ咲いていた。福島県と宮城県でも地域差があるのだ。この短歌と今回の袖の渡りに藤の花が咲いていたのはあっていた。

藤の色こきたそがれに我がたづぬ袖の渡りに昔思いぬ

ここで失敗したのは鮎川からバスできたとき渡波の手前でおりて自転車で石巻に入った結果、ここに夕方にもう一度訪ねることができなくなったことである。でも夕方の俳句短歌を作ったのは想像で作ったのである。ここは夕べも詩的イメ-ジとして何か感傷的になる場だったのである。そして暗くなり石巻の駅を探すのに二時間くらいかかってしまった。それで思ったことは過去を知るとき昔を知るとき今との一番の相違は何か?それは昔の人はある場所に旅しても一期一会であり一回しか来れない、その意味はとてつもなく大きいし今との大きな相違である。西行でも平泉に二回しか来ていない、でも二回来た人はまれだった。場所は江戸時代でも一回しかきていない、歌枕、名勝の地でも一回しか来れない、この一期一会の意味は今では想像もできないほど大きな意味をもっていた。「壺碑を見てここに至りて、うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)、・・行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、覊旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。」というとき大げさではない、実感である。人生を旅としたとき一回しかそこに来れないとしたらどうなるのか、あなたの人生の中で一回しかそこに立てないのだ。もう二度とそこにもどることはできないのだ。芭蕉は奥の細道を旅してここに至りて、うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)、千載の記念の場所に常にいたのである。
人間このことは年取ればわかる、人間は六〇年一緒にいても遂には会えなくなる、永遠に会えなくなる、これは今も同じである。そして昔は何度もその場に立つことはない、一回限りである。一回立って死別ではないが永遠にその場に立つことができない、そこに立ち別れ行く、それは今生の別れなのである。江戸時代は人もその場所も一期一会となるとその思いは全然今とは違う。今生の別れの場所となるからだ。

芭蕉去る今生の別れ涙かなみちのくの旅記念(かたみ)なるべし