2004みちのく冬の旅の記録 小林勇一
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3月11日 宮古ー岩泉ー盛岡

村の辻古き碑並び残る雪

区堺や夜汽車の停まり厚き雪

石一つ何故祀るもの寂びて下北に来て残る雪踏む

浄土が浜松風鳴りて崖に波打ちよす朝や残る雪かな

浄土ヶ浜カモメに鳶に小鳥なく雪の残れる春の朝かな

岩泉風の寒しも残る雪宮古も遠く盛岡も遠し

区堺に積もれる雪の厚しかな最終列車のすぎて淋しも

今日は岩泉の龍泉洞を見て夜汽車で盛岡についた。岩泉にゆくのは不便である。三陸鉄道で行きバスにのりまたバスで三陸鉄道で宮古に帰る。これで半日かかる。三陸鉄道はまだ沿線の足になっている。便数も少なくてもそれなりにある。でも盛岡にゆく線は一日二三回しかない、私ののった最終便は二両で最初の数駅過ぎたら4、5人しかのっていなかった。それでも盛岡までは2時間半以上かかるのだ。ところがバスの便は多い、盛岡まで一時間おきにでていたのだ。ここは事実上バスに変わっていたのだ。五能線は一日一回だしこれも事実上生活路線ではなくなっている。でもバスは連絡している。バスの便はあるのだ。それにしても岩泉線という半端なものがあるのも不思議だ。便数が少ないから旅行者には使えない、旅行者にのれない線があった。のる線がなくなっているので残った線はそんな半端な線だがこれはのれないのだ。いずれにしろ三陸は山に挟まれ平地が極端に少ないし海も岩の間かのぞくような海である。魚がとれていた時はいいが今の時代はこうした辺鄙な場所はとりのこされてしまう。私の常磐線は一時間に一回でているし過疎の線ではない、山の方は過疎地域だが町はこうした辺鄙な過疎地域ではないのだ。

村でも古い碑が並んでいる所は実は村のメインストリートなのだ。村の辻、人の行き来する場所にあったのだ。村を考えるとき古い村を知る必要があるのだ。古い村の生活に本当の生活があり観光化した村はまた別なのだ。いずれにしろ旅は早すぎると旅にならない、本当は東北でも一カ月くらい時間をかけてまわれば東北の大きさがわかるのだ。旅でわかることは位置によって見方が変わることである。例えば宮古とはどこからみて都だったのか、海から来る人が都にしたのか、山に住む人が都としたのか、おそらく辺鄙な山に住む人が都とした。こういうことは旅しないとわからない、まあこいうことは村々を泊まり歩くような旅をしたらわかるのだ。旅するなかで遠さの感覚がわかるのだ。現代の旅がうすっぺらなのはあまりにも早すぎるから自然の障害を飛ばしてしまうから感覚的にわからない、この三陸鉄道も岩をくりぬいて走る、トンネルだらけでありモグラ列車みたいなのだ。村は山にはばまれていたのだがトンネルでつながったのである。まあ本当の昔の旅だったらこうした辺鄙な所に来たら山々にさえぎられ山々がどこまでもつづく感じになり恐怖を感じたかもしれない、遠いから閉じ込められて帰れないというほど山深く来たことになるのだ。


山々のかなたへつづき遠きかな陸中の村春はまだしも


3月9日 温川温泉ー黒石ー青森野辺地ー下北ー大湊

弘前城門三つ古り根雪かな

北の果日本の枯木に倉庫かな

常夜灯一つ残して冬の海

常夜灯雪に埋もれて野辺地かな

沖に船野辺地や遠く冬の海

電車ゆく津軽平野の広しかな朝さやかに岩木山見ゆ

縄文の太き柱の跡残る津軽遠しも冬籠もるかな

汽車は行く狩場沢すぎ野辺地かな雪の平野に北の海かな

釜臥山一際高く雪に映え海を望みぬ大湊かな

みちのくの津軽遠しも日本なれ雪の平野に白鳥飛びぬ

松一本また松一本しるべとあれな北の雪の道

遠くより釜臥山の雪の嶺を望みて海には夕日映えにき

大湊最終列車の汽笛かな宿に聞きけり冬の旅路に

大湊の酒場に入りて熱燗やいか焼きうまし雪踏み帰りぬ

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今日は一日汽車のなかだった。汽車という言葉が電車に変わり死語となるのか汽車には蒸気機関車の名残で汽車といっていた。中国では火車である。でも蒸気機関車から電気に移ってからかなりの時間がたっているから電車でよかったが汽車といっていた。汽車になじんできたから汽車にいいがたい思い入れとなつかしさがありこれが歴史的な言葉として生活に使われなくなるのは悲しい、言葉はれっきとした歴史的遺産である。言葉には想像以上の人々の生活の積み重ねが思い入れが残っている。汽車と今言わなくなり汽車というと古いとなると自分も年になり過去のものとなっていくのかという哀しさを感じる。時代の移り変わりかくも早いものだという実感である。時代の変わり目にこういう悲哀を味わうのが普通である。でも古いものに哀惜を感じる。これは繰り返してきた人間の歴史ではあるが実感として気づくのは年になってからなのだ。

ともかく青森は自分にとって未踏の地域だった。陸奥の広さを改めて実感した。青森は津軽は結構広い平野が広がっていた。だから津軽藩は結構大きく弘前城のような大きな城を作れたのだ。北の果らしく感じたのは木の門に鉄砲狭間がないことである。鉄砲は急速に広がりその備えとして鉄砲狭間を作った。それがない旧式だったことはここが文化の遅れた辺境だったことを示している。でも大きな縄文遺跡が発見されたようにここは縄文時代豊かな地域だったのだ。海の幸には恵まれていた。今日大湊で食ったいか焼きは大きくうまかった。北の魚はうまいのである。また津軽は日本海を通じて船で交流があり山内丸山遺跡からも翡翠が発見され越前などと交流があったのだ。北前船が野辺地までもきていた。その証として一つだけ常夜灯が残っているのもあわれである。津軽藩は野辺地の湊などから船で交易をしていた。津軽は遠いから船が便利だった。ここから歩いて江戸まで本当に遠い。荷物は運ぶこともできない、だから船での交易は重要だった。まあ、ここになぜ日本中央とかの碑が発見されて騒いだりするのは嘘ではなくここが縄文時代から古代にかけて日本の中央と自負する一つの大きな国を形成していた名残りがあるからだ。実際結構広い土地があることを実感したのである。狩場沢とかあるのもその名残か獣なども豊富でとれていたしなにより海の幸には恵まれていたのだ。東北は秋田、青森とまわると広いと実感した。東北という地域を知るだけでもなかなかむずかしいのだ。白神山地などもまったく知らない地域だった、これだけ旅をつづけても日本だけでもまわりきれないのが現実なのだ。



  
 3月8日 温川(ぬるかわ)温泉へ

線路果て鵜の崎遠し冬の海

堀凍り溶けざる日々や弘前城

朝の雪心洗いて五重塔

雪埋もれ津軽の私鉄や境松

清しさや朝雪ふりて津軽にそ我は居にけり城も古りぬも

城内に大いなる松残るかな深く雪踏み北の果かな

道行くに朝雪ふりぬ弘前や物言い静かなお積る雪

板留に老女三人下りにけり雪の深きに旅によるかも

小国へて津軽の奥の山の宿あわれ久しく雪に埋もれぬ

沢上の流れやひそか雪うもれ小国はさらに奥に入るかな

雪埋もる小国に一夜我が思ふ町に通わぬ閉ざさる昔

清らかな流れの奥の尽きじ
雪に深くも埋もれたる
ここな一軒の山の宿
露天風呂あり浸るかな
流れにそいて小鳥飛び
冷たき清流に岩魚のすみ
ここを離れざるかも
雪に閉ざされ小国とあわれ
黒石は遠きにあれや
城の跡ありしと古りぬれ
我が一夜ここに泊まりぬ
静けさやしんしんと雪はふるかも
祖父の墓も雪に埋もれて眠るかな

朝弘前市内をちょっとまた歩いた。朝から雪がふってその雪が何か新鮮でこころ洗われる、雪の世界を自分は知らない、今年も一回も雪が自分の土地にはふらなかった。津軽の雪は秋田の雪はこちらの女性の肌のよに白いのではないか、いや雪のなかで肌まで白くなったのだろうか、黒人が暑いなかで黒い肌になったように白くなる、雪は心を清める作用があった、心が雪がふるというがここでは絶えず雪がふっている、それも特別純白な雪である。雪の質は土地によって違うのだ。津軽の雪は特別純白である。顔と顔を見合わせるなかの間にその一際純白の雪がふる、それで人も美しい、雪景色のなかで美しくされている。汚いものが隠されるのだ。広重は今の時代に生まれたらあんな美しい絵は描けない、東海道にはもうそうした環境がないからだ。津軽にはまだそれがあった。雪は太古のままに変わらなくふっていた。この雪は自分にとって本当に気持ちよかった。それからなぜか津軽のイメージは黒だった。黒い門に塀が多いのだ。黒石というのも黒だった。

次に弘南鉄道で黒石まできてバスで温川温泉まできた。鄙びた温泉に一度泊まりたかったからだ。ここはそれにふさわしい場所だった。川のすぐ側に露天風呂があり一軒の宿である。ここはテレビで見たような気がしたがそうだった。途中板留とか小国とかによった。このバス路線は観光ようではなく途中の部落に結構停まり乗り降りがあう生活路線である。小国はわき道にそれトンネルをねけるとそこに村がある。新しい道でなくこっちが古い道でトンネルもなかったのだろう。というのは田中首相の出た新潟の村も雪国でありトンネルが村には必要だということでトンネルを数多く作った。それで便利になったことは確かである。なぜ日本に小国とつく地名がいたるところにあるのか、それは日本が山が多く山間の奥に閉ざされたように生活していた人たちが多かったからだ。そこは一つの小さな国として外との交流がなくとも自給自足して生きねばならぬかったからである。小国は山間の深い奥まった所にあるからだ。
この温川(ぬるかわ)温泉は途中結構宿があったが最も奥の場所でありこういう温泉は人気が衰えないだろう。みんな一度はこういう辺鄙な場所に泊まりたいからである。ただ今やそうした秘境とか秘湯というのはない、みんな知られてしまっているからだ。日本にはもう秘境はない、ここも比較的交通は便利だ。電車で来てバスも出ていたから秘湯とはいえない、テレビに出た時点で秘湯ではなくなっているのだ。それでもここは一度来てみたい温泉には確実に入る。でも温泉は高い、一万以上とられる。それだけの価値がある場所だからしかたない、やはり宿は場所が大事なのだ。



3月7日 秋田ー五能線ー津軽


降る雪や人と家と墓と森と地と

寡黙にて見合わす顔に雪の降る

烏三羽見つめる冬の北の海

烏三羽黙し動かず雪の枝

岩に雪朝のかもめに波しぶき

枯芦に根雪や北の倉庫かな

朝清し津軽の果ての雪の原

松一本碑の一つかな雪の原

枯芦に津軽鉄道雪に待つ

一両の電車古りにき根雪かな


風待ちの港とあわれ船の絵馬残し深浦の冬の暮かな

雪まぶし北の果なる海岸に離れつよりつ飛ぶかもめかな

白神の雪の嶺高く朝望む波打ちつけて岩場の古りぬ

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白鳥の列や声ひびき弘前城

門黒く古木に雪や津軽藩

石場屋の帳場に人や冬陽没る

黒き門土蔵に枯木の影しみぬ

明治なる形見と残る銀行や誰が勤めたる根雪に暮れぬ

雪踏みて弘前城や門三つ古りて黒きや冬陽没る

北の果残る天主や弘前城雪を踏みつつ望み帰りぬ

城の内大き枝垂の枯れにけり雪踏みたずぬ弘前城に

雪踏みて今日幾人かたずねたる弘前城に残る足跡

夕暮れの雪に真白し岩木山我が望みつつ帰り行くかな

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冬の十三湊

陸奥の北の果
砂に埋もれ
雪に埋もれ
水に消えしや
記されざるや
昔日遠く十三湊
異国の船も来たりしと
宋の陶磁器のかけら
一つ形見とあわれ
誰か握りしむ
波荒れて風の吹きつく
かもめの群れの飛び来る
雪ふぶき消えし港や
幻の幽霊船の来るかな
雪埋もれ枯芦なびき
飄々と唸る風かな
砂に埋もれ
雪に埋もれ
水に消えしや
記されざるや
昔日遠く十三湊
そは夢なれや
吹雪に消され
雪に埋もれて
ただ幻を語るのみかな

 江戸と津軽

江戸より津軽は遠しも
江戸家老いかに過ごすや
いかなれや便りも遠しも
討ち入りの便り届くも
江戸のことははるかなり
江戸は春なれやいかに
津軽をたづぬれば
堀は凍りてとけず
北の果天主閣の残るかな
夜に雪しんしんと
津軽の冬の深まりぬ

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秋田から東能代に来て困った。深浦までは行くにしてもそこで5時間待たないと津軽への電車がでない、五能線は一日一回しかでない、つまり電車の利用は事実上できない路線になっている。駅で聞いたら観光用の急行が一日一回走る。これは全部予約制である。そこで20分後に出るというのでそれにのることにした。普通の切符に500円たしてのれた。五能線は事実上生活路線でなくなっている。ただここは観光的に見どころが多い、白神山地や湖もある。ただここに電車で途中下車するとなるとむずかしい。

五所川原で津軽鉄道に乗り換えあるがこれに乗ることもむずかしい、驚いたのは乗れない電車があったという驚きである。一日一回ではのれないのだ。こんな路線があることに驚き十三湊とかは本当に遠い本州の最果てだと思いかえって魅力を感じた。津軽鉄道には簡単にのれないから乗るだけで価値がある。自動車がないものはこれでゆくほかないのだが乗れないのだ。太宰治の生家がある赤木はこんなに遠い所だった。これは交通の便がないから本当に遠く感じた。日本もここまでくると最果てでありそれなりに広いと感じた。13湖の十三湊は昔栄えたというがこれも魅力的だ。こんな北の果てに栄えた湊が中世にあったということだ。これは歴史の幻想の世界だ。その幻想でも想像でも見えたものには現実なのだ。

津軽も弘前も魅力的な所だった。天主は小さいが城内はかなり広いからそれなりに大きい城だった。現存している城は全国で4っつくらいしかない、彦根、松江、と弘前くらいだから貴重だ。それにしても津軽と江戸の遠さはどれくらいの感覚なのか、仙台から津軽に行くのと江戸にゆくのと同じくらいの距離である。それだけ遠い所という感覚がわからないから昔がわからないのだ。
ここで石場屋という古い店に帳場があり主人が座っていた。なるほど番頭のいる帳場を実感した。人間くさい場所である。人間の立ち振る舞いつねにある。人間の声がそこからは聞こえる。ここには明治の建物の銀行なども残っている。それらの建物にもなにか人間がいる、人間が格式張っていてもそれなりに人間が銀行にいて人間に対応していた。ATMなどないからだ、コンピュターもない、人間の存在があった。城下町はやはりいい、弘前は市街が広々として静かに感じた。岩木山もそびえて落ち着いたいい街である。古いものがそれほど残っていないのが物足りないが住みやすい所である。確かに弘前城の上を隊列を組んで飛んだのは白鳥だろう、その声は寒空にひびき岩木山が清涼にそびえていた。ここはまた桜の季節にくるといい、大きな枝垂れ桜の木があったからみものだろう。本州では最後に花見のできる所である。

烏三羽黙し動かず雪の枝

stillness!
with no speaking
three crows on the snowied branches



3月6日 秋田市ー男鹿


秋田駅貨物列車に根雪かな

枯芦に風吹きつけて根雪かな

一本の校庭の木に根雪かな

男鹿の駅根雪に群るる雀かな

波に風寒風山や冬かもめ

淡雪にぬれて少女と歩む街

城の跡堀と門と櫓根雪かな

守りあれ堀の凍りて久保田城

一本の役屋の松や冬の暮

みちのくの温泉古りぬしんしんと雪の積もりて眠る墓かな


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今日は男鹿まで行き秋田に帰ってきた。風であり雪であり雨もふった。男鹿は風が強かった。なんにも見るものもなく港に行って終わった。男鹿というと能登半島のように辺境の趣がありそれなりに個性のある土地なのか、地形的なものが個性を作った。寒風山という名前が酔狂でつけられた名でないことがわかった。というのはこの風と雪のなかで寒風山という名前が一致して心にしみた。なぜこの名前があっているかというと秋田は冬が長いし男鹿は特に風も強く自然が厳しい、インターネットを駅でやっていたので見つけた男鹿幻想とかの写真の説明のホームページはよかった。そこに紅葉にも男鹿ではならないという、風が吹くためか、自然条件のためらしい、それで一層この寒風山という名がここを象徴するものだと思ったのだ。その他役屋というのは佐竹の殿様の狩猟の役をつとめる場だったらしい、これも写真と説明にあった。私は全国を旅行しているのだがその現場にきても土地のことがすぐにはわからない、本は専門的になりすぎるのと買うと重いから持ち歩くのに大変なのであまり現場では役にたたなかった。今回は一時間でいいところ見つけたので役にたった。インターネットはいまどこでもやれるが時間がないと探せないから旅で使うのはむずかしい、旅には時間の余裕が必要なのだ。歴史がわからないから旅もつまらなくなる。というより今は旅というより観光なのだ。観光とはあるところのいいところの光を見るということであり途中がすべてが旅であった江戸時代と違うのだ。追分という駅があったがこの駅で乗り換えがあり分かれるから意味は同じであったが別にここで分かれたからといって昔の別れとは違うのだ。

秋田の城は佐竹氏の城は石垣も天守閣もない城だった。堀はあった。あとは門と櫓だけだった。これもめずらしいが石垣がないと城という感じがしない、なにか拍子抜けだ。歴史はその土地にきて考えればなるほどと納得がいくことがある。ただ説明がないのでわからないことが多すぎてだめなのだ。今回はインターネットでわかったことがありよかった。秋田は初めてでありこの辺はよくわからない、東北でもやはりこの辺は辺境である。芭蕉の陸奥は平泉まででありかなり狭い、ここはまた陸奥とは別な国だった。海と関係して早くから大和朝廷に知られていた。十三湖というのは外国とも交流があった栄えた港だったが砂に埋もれてしまった。津波なのかなになのかそのあとわわずかしか残っていない、これはあとで調べないと書けない、今回はこれくらいで、写真はアップできないがインターネットには必ずその場にふさわしい写真はあるのが便利である。インターネットの旅での活用はまだむずかしいがこれからの旅にうまく利用する方法が必要だ。まず遅くては使いない、どこでもインターネットになるのは結構むずかしいだろう。街でも地方都市にはそれなりの情緒がどこにでもある、東京は一番情緒がないのだ。秋田のこの雪深い世界はまた別世界なのだ。この深い雪のなかで永遠の眠りにつきたいというのも詩的だが根雪という雪の障害は土地の人にとっては深刻だろう。経済的な影
響も大きい。東北の辺境なのだ。


2004-3月5日 仙台ー鳴子ー新庄ー横手ー秋田

三本の枯木や田舎の駅舎かな

枯野なか陸前谷地の駅一つ

雪埋もる駅舎やここも湯の煙

湯沢過ぎ横手やさらに雪深し

一望に暮るる雪原黒き森

遅れじと烏の帰る雪野かな

深雪や秋田弁なる電車かな

路地裏の凍雪踏みて酒場街

雲に月光るや寒き安き宿

みちのくの奥の雪の嶺望むかな鳴子を過ぎて雪の深しも

打ち曇る空や遮る雪の嶺新庄にい出はなお早きかな

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今日は鳴子までは雪がなかったが鳴子を過ぎたら雪がかなりつもっていた。
ナタギリ峠を越えるのに芭蕉が苦労したのもわかる。結構険しい山がつづくのだ。
湯沢から横手と近いのだがだんだん雪が深くなったような気がした。まだこんなに雪が深いとすると
あと一カ月はとけないのだろうか、まさに鳴子を越えたら雪国の感が深い。
遅れじと烏の帰るとしたのは遅れまいと一羽の烏が仲間についてゆくのがみたからである。
今日は秋田市で2500円の宿を見つけた。これは助かった。寝るだけの宿だがこういうのが自分にはあっている。やはり宿代が一番の出費だからだ。凍てついた雪を踏むのも雪国の情緒なのか、
地方にはこういうところにも自然や地域性があるから情緒があるのだ。
明日は男鹿にここに泊まり行ってみよう。青春18切符は使わない、これは長くのるとき便利なのだ。
旅は早く次から次では印象にも残らないのだ。ここが芭蕉の奥の細道でも電車ではまったくわからない、途中がぬけるからである。