熊本城守りの堅き石垣の反りの厳しく木の葉散るかも

清正の誇りをここに熊本城石垣堅く冬に入るかな

晩秋の熊本城の城内に焼けたる木の痕生々し

西郷の軍も落とせぬ熊本城明治の世はここに作らる

またしても西郷のぶつ征韓論ここに砕けて秋の日暮れぬ

田原坂会津の兵も戦いぬその刀も残り秋深まりぬ

撃ちこまる弾丸一つ手にとりて戦い偲び散る木の葉かな

城内の井戸の深きも晩秋の熊本城や古りにけるかな

武士のここにこもりて退かざりきその井戸深く秋深まりぬ

島原の乱に生き伸ぶ一人かなその跡記し秋深まりぬ

蔚山の興亡激しその記憶町に残して秋深まりぬ

病弱の姫をいたわり与えたるからし蓮根や秋深まりぬ

したたかに粘り強くも生きるかなその城堅く秋深まりぬ

晩秋や御器に箪笥に小櫃に紋をあしらい家の誇りかな

一段と低き部屋かな女中に中間の棲むと秋深まりぬ



晩秋や根ずく古木に熊本城

晩秋の熊本城の古木かな

晩秋や細川邸の石灯籠

我も乗り市電に秋の日ざしかな

晩秋や石垣に沿い市電かな



熊本城にはいろいろなことがあった。ここでも無料で説明してくれた女性がいた。若いのだが説明がうまかった。バスのガイドかもしれない。熊本城は何か確かに他の城と違い堅固な守りの城と感じた。石垣が縦横に反りも厳しく重なっているからかもしれない。西南戦争でも落とせなかったほどなのだからそれだけの重みのある城なのだ。井戸も何十もあった。抜け穴もあった。この城にまつわる話しは山ほどある。島原の乱にかかわる人がでてきたり秀吉の朝鮮征伐で一番活躍したのが清正だったのだ。蔚山では正に地獄の苦しみだった。それで蔚山町が記念として残った。カラシレンコンというのは病弱な姫のために食欲をださせるために食わせたものだという。確かに食ってみたら辛いから食欲がわく。実際に食ってみると昔が偲べる。西南戦争では会津藩士も官軍に加わって戦った。抜刀隊に官軍は悩まされた。それと戦ったのが武士であった会津藩士などであったという。西南戦争は武士から国民軍形成する戦争だった。官軍に参加したのは武士ではなかった。専門家の武士と戦うことは大変だった。しかし戦闘を重ねるなかで国民軍に成長したのだ。どうしても武士というもの藩をつぶさない限り新しい国家は作られなかったのだ。

ただ九州は常に薩摩でもそうだが古代から韓国や中国と通じ合う地勢にありそれで中央に反抗したのだ。古代でも磐井の反乱がそうであったし西郷の征韓論もそのぶりかえしなのだ。それは秀吉の朝鮮征伐とも連続したもので九州はそうした韓国がより身近な存在なのである。九州はまたそれだけの力を持ち得たのである。九州に邪馬台国があったというように九州王朝があったというようにそれだけの力を持った国だった。西郷隆盛は明治維新に功績があった。あとで反逆しても功績はあったのに靖国には祀られていない。会津藩士もそうである。靖国にお参りするとき明治維新で賊軍とされたものは祈らない、供養しないのである。今でも西南戦争で敗れたものの墓はあるが手厚く葬られておらず敗者の無念を示している。
それにしても細川邸は実に立派なものである。細川氏が殿がどうのこうのと政権をにない騒いだが細川氏はこの熊本からでたのだからやはり熊本の歴史はつづいている。武蔵も忠臣蔵の大石も細川氏にあずけられたのだ。九州は歴史が重層的に織りなされていて興味深いものだった。まだ二回しか来ていないので九州についてはわからない。中国地方や瀬戸内海などもわからない。みちのくに比べると歴史の厚みが違うように思う。東北は武家屋敷とか江戸時代のものがそんなに明確に残っていないのだ。やはり昔を偲ぶにはそれなりに昔のものが残っていないとだめだと思った。

今日の宿は阿蘇の駅前の国民宿舎だった。こんな駅前にあるのはめずらしい。かなり老朽化している。二食付きで6300円は安い。なんかホテル代などは一二割り安くなっている。ことは確かだ。阿蘇は雪で真っ白だった。かなり寒い。通信は普通にできた。汽車の通っているところはたいがいできるようだ。

(写真は次のページへ)

阿蘇へ

九州への旅の報告

11月5日 

熊本